せっしょん?




 ある日のこと。
 セントシュタイン城下町一と名高いリッカの宿の前で、サンドラは座り込み空を見上げていた。脇の扉を見て、その後広場の時計を見る。約束の時刻から、三十分が経とうとしている。
「こんなところにいた!」
 そろそろ様子を見に行こうかと考えた頃、ドアが開いた。ソフィアの顔が現れ、サンドラを見つけて声を上げる。眉をひそめた。手合わせに付き合って欲しいからと、この場所と時刻を設定したのは彼女である。
「貴方が指定したんでしょ。いったい何して──」
「それより聞いて聞いて、すっごいの!」
 ソフィアはサンドラの腕を引いた。無理矢理宿に引きずり込まれる。馬鹿力で腕が痛い。文句を言いかけたサンドラの口を手で塞ぎ、ソフィアは無言で明後日を指す。つられて視線を移した途端、痛みを忘れた。
 リッカの宿、ルイーダの酒場の一角にはピアノが一台ある。興業に来た旅芸人やら音楽家やらが使って日銭を稼いだり、余興のために使ったりするのを、サンドラも見たことがあった。
 今もまた、そのピアノが曲を奏でていた。鍵盤からこぼれる音は、ちょうど午睡にふさわしい穏やかな旋律を紡いでいる。しかし、曲調に反して高音と低音が絶え間なく行き交い、真珠の首飾りのごときこまやかな音がすらすらと連なるさまに、サンドラの胸の内はざわめく。
 見事な腕前だった。和音もオクターブを超えた指の移動も軽やかである。指を叩きつける激しい曲調でもないのに、店の奥に据えられたピアノからサンドラのいる入り口まで、旋律が届いている。弾き手の鍵盤の触れ方がうまいのだ。
 客もわかるのだろう。いつもならば腹一杯に詰め込んだ飯を精一杯消化しようとするかのように喋る人々が、かすかなざわめき程度に留まっている。中には同席の相手も気にせず、弾き手の鍵盤へ向ける真摯な横顔を眺め、うっとりと聴き入っている者さえいた。
 サンドラは酒場を見回して、ピアノの弾き手を見て、隣の友人を見て、それからもう一度弾き手を見た。瞬きをして眼前の光景に偽りがないことを確かめ、再び隣の友人に向き直る。友人はこちらをまっすぐ見据えていた。もう、待たされたことなどどうでも良かった。
「あれ、誰?」
 唇だけで問いかけ、奏者を指す。ソフィアもそちらを見る。
「ね。見たことあるけど、誰だろう」
「別人でしょ」
「絶対そうだって。あ、弾き終わった」
 曲が終わる。奏者が立ち上がって一礼した。静まりかえった酒場が、彼の顔が上がった途端盛大な拍手に包まれる。にこりと笑ったその人物が両腕を掲げて言う。
「ありがとう、ありがとうな! え、まだ拍手してくれんの? 参ったなー、どうしよっかなー!」
 この砕けっぷり。二人は顔を見合わせた。
「レックだ」
「レックじゃん」
 ピアノ奏者は、どこからどう見ても彼女らのパーティーメンバーことレックだった。





▶︎



 アンコールに二度応え、寄ってきた人々と語り合ったレックがフリーになった頃を見計らって、二人は彼をカウンター席に引っ張ってきた。
「あれ、二人ともいつからいたんだ? 気付かなかったわ」
 無邪気に応えるさまは、いつものお気楽ムードメーカーである。数分前まで端正な雰囲気の、繊細なピアノを奏でていた人物とは思えない。
 ソフィアはその手に空のジョッキを押しつけた。
「とりあえず、はい」
「おっ? おごってくれるのか」
「一杯までね」
「ナインー! 特盛りトロピカルゴールデングビグビグビアナアノンちゃんサワー一つ!」
「かしこまりました」
 グラスを掲げたレックのもとへ、離れた位置でカウンター業務をしていたナインが寄ってきて、ジョッキを回収して去って行く。ソフィアはこめかみをひくつかせている。
「遠慮なく一番高い酒頼みやがって」
「ソフィアも飲めば良いだろ」
「はいはーいあたしもあたしも!」
 ソフィアがナインに向けて大声を上げる。サンドラは彼女の身体を避けるようにしてレックを窺う。
「でも本当に素敵な演奏で、この一杯分の価値は絶対にあったわ」
 ありがとな、とレックは照れくさそうに言う。ソフィアが背中を叩いた。
「ホントびっくりしちゃった! 別人かと思ったもん。アンタ、こんななのにあんなに弾けるんだね」
「こんなって何だよ」
「習ったの?」
「昔、少しだけな」
「少しだけなのですか?」
 そこへ別の声が割り込んできた。頭の向きを変えたソフィアが満面の笑みを浮かべる。
「ノイン、可愛い!」
「ありがとうございます」
 レックの隣へ座ったノインは、メイドの衣装だった。そういえば今日の正午からホールの仕事に入ると言っていたか。
「レックさんは、三歳の頃にはピアノに触れていたのではなかったでしょうか?」
「そうなの!?」
「あー。あはは」
 レックは苦笑いする。
「そっか。天使だとそこまで知ることもできるのか」
「はい。冒険の書の閲覧は自由ですので」
「全然ちょっとじゃなーい!」
「やめてくれよ、恥ずかしいだろ」
 ソフィアに揺さぶられるレックは、眉をハの字にしている。本気で照れているようだ。珍しい。
「いいなー。あたしもピアノ習ってみたかった」
「今からでも始めれば?」
「あたしは今すぐレック並みに弾けるようになりたいの!」
「子供みたいなこと言わないでよ」
 唇を尖らせるソフィアを、サンドラがたしなめる。レックはおかしそうに言う。
「ソフィアは音楽が好きなんだな」
「うん、好き。音楽と愛は世界線を越える」
 ソフィアは胸の前へ、指で作ったハートを持ってくる。サンドラは顔をしかめた。
「貴方に最高に似合わない台詞ね」
「えー、そんなことないよ。理屈抜きでハートをぶっ壊しにかかる音楽と愛は、世界を救えるし滅ぼすこともできるんだよ。あたし、音楽大好き!」
「ごめんなさい。よく似合ってる」
 そこへナインがシルバートレイを手にやって来た。黄金のジョッキを二つ、レックとソフィアの前へやり、サンドラとノインにはレモン水を差し出す。ソフィアはジョッキを手にしながら、歌うように言う。
「あたしの村にはピアノなんて洒落たモノなかったから、音楽は木彫りの雑な楽器か歌しかなかったの。でもリズムに乗るだけで楽しかったから、周りの大人が歌ってる歌を真似して歌ってたなあ。木こりの歌とか、糸紡ぎの歌とか、そういうのばっかりだったから、音楽が得意な仲間に会った時はびっくりしたっけ」
「ソフィアさんのお歌、聞いてみたいです」
「え、聞く? 聞いちゃう?」
「上手よ」
「サンドラは聞いたことがあるのか?」
 頷くと、レックもノインも仰天した。ソフィアが頬を膨らませる。
「もう! 何も前情報なしで聞いてもらってから、上手って言ってもらいたかったのに。何で言っちゃうのかな」
「同じことでしょ」
「サンドラさんが上手だと仰るということは、本当に上手だということですね」
 ノインの瞳が俄かに輝きはじめる。首をぐるりと回して、やや離れた位置でグラスを拭いていた相方を見る。
「ナイン」
「ええ」
 天使たちは目と目を合わせてうなずく。ノインが立ち上がり、ナインがカウンター奥に消えるのに合わせてどこかへと去って行った。
 残された三人は顔を見合わせる。
「何か起きる予感がするな」
「あの二人が同時に動く時は、大きなヤマが動く時」
「頼むから貴方達二人で済ませてよね。私は巻き込まないで」
 そんな話をしていると、天使二人が戻ってきた。その後ろにもう一人いる。レックがこれはマジだなとこぼし、ソフィアがワクワクすっぞと返した。サンドラは黙ってレモン水を飲んだ。
「レックさん、ソフィアさん、サンドラさん」
 そう言って首を傾けても、きっちり巻いたバンダナのおかげでおかっぱ髪が乱れない。商売人の清潔さに感心しつつ、サンドラは内心で嘆息する。
 天使二人を携えてやって来た宿王は、完爾と笑う。
「お願いがあります」







▶︎



 セントシュタインに近頃新しい宿ができた。宿屋協会への登録も済ませており、一見する限り普通の宿なのだが、どうもきな臭い。宿に泊まって調査するも、宿屋協会の人間が行った時には何も異常を確認できない。だから一般客のふりをして乗り込み、宿の調査をしてほしい。
 リッカの依頼は不死鳥の止まり木の世界に貼り出され、立ち寄ったメンバーが代わる代わる読んだ。
 このクエストの条件をこなせる者の条件は、二つ。
 一つ、腕が立つこと。
 二つ、楽器の演奏ができること。
「何で?」
「この宿、基本的に音楽ができる人間以外お断りなんだって。旅芸人のうちでも音楽専門でやってる人のための交流の宿って名目で売り出してるらしいよ」
「ああ。限定的なコミュニティじゃあ、調査もしづらいわな」
 談話室に貼られたクエスト掲示板を眺め、ソロとソフィアは会話していた。卓に寄りかかるソフィアが、ソファで寝転ぶ相棒に問う。
「ソロは楽器できるよね? サックスだっけ?」
「できるようになっちまったやつな」
「何でだったかしら?」
「わざと言わせんな」
「アンタ顔はイカしてるから、これ似合うわよー!」
「そう言ったマーニャの目的は借金返済。全ては自分がカジノでスってパーにした金をどうにかするため。そのためなら純真な少年がサックスで路上パフォーマンスすることになろうが、そのサックスを買うためにさらに借金をすることになろうが構わなかった。マーニャは金を稼げる剛毅な女だった。だが金遣いも豪快だった。清らかな少年は汗水流してサックスの特訓をする。まさか自分が、第二の金銭大好き魔神の手にかかるとも知らずに……」
「ウケる。その口上暗記してる?」
「いつ舞台化されてもいいようにな」
「トルネコに言ったら?」
「あいつ、最近パン屋事業に手ェ出し始めて忙しいらしいの」
 天空の勇者達がぐだぐだと話していると、扉を開けてレックとアベルが入ってきた。二人して両腕に天日干しされた毒消し草の詰まったカゴを抱えている。
「おっ、ちょうどいいな! アベルがのってくれるってよ」
「マジですか」
「グランバニアの都合は大丈夫?」
「この指定された期間ならば問題ないよ」
 アベルはにこやかに答える。カゴを一度脇に置き、レックとアベルもソロたちと同じ卓に腰掛ける。
「アベル、何ができるの?」
「フルートとドラムとホルン。簡単なことしかできないよ」
「すっごい! それだけできれば、二チーム組んでも問題ないかも」
 ソフィアは目を輝かせ、レックと頷き合った。
 一組だけだと何かあったときに対処のしようがない。だから今回のクエストのリーダーとなったレックとソフィアは、二つのパーティーでクエストに臨みたいと考えていた。
「ナインとノインの二人が行けるって言ってるから、戦闘能力のバランスはあんまり考えなくて良いよね」
「ああ。俺たち音楽は素人だし、そっちの方向性はちゃんと練っていかないとな」
「他のメンツは?」
 ソロが尋ねる。レックは指を折る。
「まずナインはギターでの弾き語りが得意だそうだ」
「そう言えば、前に旅芸人の修業だとか言ってやってたな」
 弦の音と少年の素直な声はよく似合っていた。あの凝り性のことだから、実力は問題ないだろう。
「ノインはバンドネオン」
「あいつが?」
 思わずソロは聞き返す。習得の難しさから悪魔の楽器と呼ばれるあれを、ドジの天使が弾けるとは思えなかった。
「一番ちょうどいい楽器だって本人は言ってた。ノインって、そういうところあるんだよね」
 ソフィアが笑う。何がちょうどいいのだろう。
「エイトはヴァイオリンならいけるけど、踊りだけはやめてくれって」
「あいつの誘う踊りは酷いからな」
 真顔で身体を横に揺するだけの優等生勇者を思い出し、一同は笑みを零す。最後に、とレックは四本目の指を折る。
「アルス。絶対歌わせた方が良い」
「え、あいつ歌えんの?」
 アルスはパーティーの中でも大人しい方で、あまり大きい声を出さない。彼が大勢の前で声を張るところなど、見たことがなかった。
 レックは片目を瞑る。
「説得するのに苦労した」
「無理矢理かよ」
「いーや! ちゃんと納得してくれてる。楽しみにしとけって」
「二人はどう組むのがいいと思ってるの?」
 考えはまとまってるんだろう、とアベルがパーティーリーダーたちをうかがう。二人はもちろんと破顔した。







▶︎



 セントシュタインに滞在する旅人が蒸発しているのではないかという疑惑が警邏部から上がったらしい。セントシュタインに滞在期間の制限はない。それでも毎日王国の扉を守護し、町を練り歩いて異変に目を光らせている彼らはささやかな異変に気付いた。
 警邏部に旅人が知己の所在を尋ねてくることが増えた。
 尋ね人は音楽のできる者ばかり。
 気付けば、街頭で音色を奏でていた芸人が消えている。
 出国形跡もない。
 どこへ消えたのか。尋ね人を求める人々は、時折同じ台詞を言った。
「あいつは音溜まりに行ってみたいと言ってたんだ」
 「音溜まり」は商店街の裏、店の隙間を縫うようにして建つ安宿である。路地裏に天井を造っただけの建物で、空から見ると店舗の合間に蜘蛛が身体を横たえているかのような奇怪な外観をしている。
 警邏部は音溜まりの宿近辺の商売人たちに聞き込みをし、入っていった人間を見かけなくなったという証言を複数から得た。話は警邏部から世界宿屋協会セントシュタイン支部に伝わり、セントシュタイン兵と協会の人間が共に査定に入った。しかし経営者も従業員も怪しい挙動をせず、行方不明者の痕跡も見つからない。何度か覆面を忍び込ませたものの、何の異常もなく帰ってきた。
 この宿に行方不明者が入っていったのは確かなのに、王国軍と協会の手練れをもってしても何の形跡もつかめない。そこで未知の事件を解決した実績を持ち、協会や王国も信頼できる旅芸人を送り込んでみたらどうかという話になった。
 結果、引き受けることになったのが、黒騎士事件解決に協力し、協会の仕事も多く請け負ってきたリッカの宿の旅する従業員ナインだった。
「俺たちじゃなくても良かったんじゃない? ナインにも同じ世界で戦ってきた仲間がいるんだから」
 エイトは話を持ちかけられた時にナインに聞いてみた。彼は竦めて答えた。
「僕の仲間は音楽は専門ではありませんし、ある程度この街で顔を知られています。なるべくこの街で見かけられていないメンバーでパーティーを組みたいのです」
 そのような次第で、エイトは旅芸人として潜入調査をする任務に組み込まれた。
 任務に臨むのは二つのパーティー。そもそもの引き受け人であるナインをリーダーとするノイン、アルス、エイトのパーティーと、音楽の腕を見込まれたレックをリーダーとするソフィア、ソロ、アベルのパーティーだ。宿では無関係の客として振る舞うために、レック達が先に宿に泊まり、翌日にナイン達が泊まる。一週間程度滞在し、様子を見る予定である。
「偽の肩書きも考えました。レックさん達は結成半年のジャズミュージシャン。僕達は架空の民族音楽を追求する素人新米音楽家集団です」
「俺達の設定大丈夫? 怪しまれない?」
「大丈夫です。前衛芸術は意味が分からないのが定石なので」
「怒られない?」
 かくしてエイト達はくだんの宿に架空音楽系旅芸人集団としてチェックインした。外観内装ともに余計な装飾がなく、黒一色の壁面でできている。窓がほぼなく、光源はぽつぽつと天井から吊り下がる星型のランタンしかないためにどこもかしこも暗い。酒場はもちろん、廊下も階段も客の個室もずっとこの調子である。
「一週間ここにいるんだよね」
 個室に通されたエイトはぐるりと頭を巡らせた。日当たりと通気の悪い部屋は苦手だ。額を抑えるエイトの肩をアルスが叩く。
「演奏を聴きに行って気を紛らわそうよ」
 視線を移して辺りに人がいないことを確認し、そっとエイトの耳元で囁く。レック達が演奏する頃だと思うよ、と。
 夕飯時に前日チェックインした新グループが一曲披露するというしきたりがこの宿にはあるらしい。明るいメンバーの顔を思い浮かべ、エイトは頷いた。 
 部屋を出て、細い廊下を出てすぐ酒場に着く。真っ暗な六角形の空間。天井には大きくも仄かな橙色しか放たない星のランプが一つ。人の輪郭が弱々しい陽炎のようにひしめいている。一角で、小さな手が二つ挙がった。
「お二人とも。こちらです」
 天使達である。二人とも正体を隠すために簡単な変装をしていた。ナインは髪を赤に染め、軽く化粧をして道化師風のスーツを身につけている。ノインは茶に染めており、旅芸人のドレスをまとっている。
 エイトとアルスが席に着くと、ノインが部屋の中央を指す。
「良いタイミングでしたね。ちょうど始まります」
 巨大な星の下に高くなった舞台がある。そこに背中合わせになる形で四人がいた。
 ピアノの前に座るレックはサスペンダーつきのズボンに白のYシャツを合わせ、蝶ネクタイを締めている。目を凝らしてみれば、ネクタイとズボンには漆黒の地に同色のチェック模様が編み込んである。シックな中に彼らしい遊び心が見える。
 彼の背後でドラムに向かうアベルはスタンドシャツにベストを羽織っている。いつもより丁寧に櫛を入れたのだろう、高めに結った髪は橙の光を浴びてしなやかに垂れ、落ち着いた艶な雰囲気を醸し出す。
 ソロはダークカラーで上下を揃えており、蝶ネクタイだけが白い。ソフィアはホルスターネックのスパンコールドレスで、ドレスのスリットから零れる足が眩い。姿形の違う二人だが醸し出す雰囲気はよく似ていて、初めての場でも物怖じせず眼前の客を見据えていた。
 暗がりの中、新顔の四人を囲んだ客達が何やら囁いている。エイトは音楽には明るくない──ミーティアのレッスンに付き合って囓った程度なのだ──ので分からないが、専門的な話をしているのだろうと思った。
 ざわめきの上をエコーのかかった声が通る。
「初めまして。一曲、お願いします」
 ソフィアの宣言の後、アベルが動く。ドラムとシンバルが穏やかに、しかしブレることのない四分の五拍子を作り上げたところでレックのピアノが入り旋律を作る。曲のリズムと旋律が揃い、舞台が整ったところで満を持してソフィアが唇を開く。
「空の青、赤や黒に染まらない星を僕に届けてよ。しらじらしてるあの火を心臓に埋め込むから──」
 アルトのやや掠れた声が時に遊ぶように、時に真摯な熱を帯びて情の華を咲かせる。彼女の歌唱の合間にソロのサックスが舞うように自由なメロディを奏でる。
 不規則で、不揃いではない演奏。ボーカルとサックスが魅力的ながら奔放な主旋律を奏でているのに演奏がまとまっているのは、不動の拍を刻むドラムがいるから。全く奏でる音が異なる三つが共存できているのは、間を取り持つ適度に規則正しく、適度に遊べるピアノがいるから。
 エイトに音楽の詳細は分からない。だが。
「上手だねえ」
 アルスが小声で言う。横の彼の顔を見ると、目を細めて聴き入っているようだった。
「上手、なんだよね?」
 エイトは友人の言葉をおそるおそるなぞる。アルスは頷いた。
「僕の世界にある芸術の街の話をしてもいい?」
「うん」
「その街で聞いた言葉なんだけど。知恵を絞っても、人情を守っても、意思を貫いても、何をどうしてもうまくいかないなあと思った時、人間の中には芸術が生まれるんだって。芸術家っていうのはその人の心を豊かに、長閑にできる素敵な役割を持った誇るべき仕事なんだって」
 話ながら舞台上の仲間達を眺め、微笑む。
「良い演奏だね。僕も音楽の詳しいことは分からないけど、みんなの演奏は好きだな」
「……うん。そうだね」
 今度は素直に言えた。
 周囲も聴き入っているようで、ざわめきはなく静かである。何を感じ、何を思っているのだろう。分からないがそれでいいとエイトは思った。
 怪しい動きがないか目を会場へ配りながら、四人の演奏にしばらく聴き入る。次は音楽だけに集中できる環境で彼らの音を聴きたいと思った。




▶︎





 宿に泊まりはじめて五日目。拍子抜けするほどに何も起こらない。客は話しかければ答えてくれて、音楽の話をする。従業員も愛想はないが仕事をきちんとしている。室内がやけに暗い以外、何も事件性などなかった。
「耳、良くなってる気がしねえ?」
 私室にて、レックは仲間たちと会話していた。この宿ではいつも耳を澄ますと微かな音楽が聞こえてくる。防音設備が確かだということだが、どこから聞こえているのだろう。はじめは気付かなかったが、次第にどこの部屋から聞こえてくるのか分かるようになってきたので、そんな思いを抱いたのだった。
「あたしもそう思ってた」
 即座にソフィアが答える。今聞こえてきているのはフルートのソロ演奏で、三つ右隣の部屋だろうと言った。レックも、他二人も同意した。
「薄暗いからじゃないかな。視界が限られている分、耳を普段より使ってるでしょ」 
「そういうことなんだろうな」
 アベルが推測し、ソロが肯定する。
「おかげでアルスの美声がよく聴ける」
 三人は笑った。ソフィアはソロの肩を小突く。
「本人がいないところで、ここぞとばかりに言うわね」
「いるところで言ったらこっちが困っちまうだろ。照れて歌わなくなっちまいそうだったからな」
 先日、自分たちとは別のグループとして共に潜り込んでいるアルス達のパーティーの演奏を聴いた。曲目はノインの用意した天使界の音楽をもとにしたオリジナルで、構成はナインがギター、ノインがバンドネオン、エイトがヴァイオリン、そしてアルスがヴォーカルだった。
 実はこの構成を考案したのはレックである。レックはナインとノインの演奏を以前から聞いたことがあり、天使界の曲調と彼らの得意な楽器を知っていた。かつ、アルスに確かな歌唱力があることも知っていた。
 随分前のことだ。止まり木の世界の川辺にて、釣りをしながら一人で歌っているアルスを見かけた。レックが声をかけたら飛び上がって驚いた。
 ──誰もいないと思ってたのに。
 ばつが悪そうな様子から、自分はかなり運が良かったのだと知れた。
 小さい頃から漁に出て歌う父に憧れてこっそり歌ってきたのだそうだ。隠れて歌うところがアルスらしい。しかし、もったいない。朗々として豊かな情感を湛えた歌声は荒削りだが魅力があった。
 だから今回音楽グループを兼ねたパーティーを組むことになり、彼の歌唱を主軸にしたいと思ったのだ。情感豊かな歌い方を武器とできるジャンルと言えば、変則的なメロディを持つ土着の音楽だろう。声を加えた音楽に慣れているナインと、ヴォーカルの声量に負けない深みのあるエキゾチックな音を奏でられるノインを伴奏にして、腕前に自信はないらしいが幼馴染みに付き合って宮廷でヴァイオリンの技を習得したというエイトを添えてグループを組ませた。
 レックの読みはあたり、四人の演奏はウケた。似たような傾向のグループにもそれ以外にも話しかけられて、目を白黒させるアルスと愛想笑いだけするエイトに代わり、天使達がいつもの調子で架空の民族音楽について語っていた。ついでにレックも初対面のような顔をして話しかけて遊んだ。それから毎日彼らが演奏する舞台を見に行って、初対面の旅芸人として親睦を深めるふりをしている。
「これから金に困ったら、ストリートミュージシャンとして演奏してちょっと稼ぐのもいいな」
「旅芸人一座デビュー、しちゃう? あたしもマーニャとミネアみたいに一芸で荒稼ぎしてみたかったんだよね」
 レックの提案に、ソフィアが目を輝かせる。ソロは鼻を鳴らす。
「そんなに甘くねえだろ」
「甘くねえところでのしあがっていくのが楽しいんだよ」
「面白そうだねえ」
 アベルも目を細めている。感触は悪くないようだ。
「音楽と踊りの他に何ができるかな」
「魔法を使えば手品とか変身芸もできるよ」
「そっか、ソフィアはモシャスが使えるから色々できそうだな!」
「ロトの連中はどうするんだよ」
「あいつらは漫才で良いだろ」
「扱いが雑」
「まだ朝飯食ってねえから考えられないんだよ」
「そろそろ行く?」
 コンコン、と戸を叩く音がした。四人は顔を見合わせる。誰かが尋ねてくる予定などない。逡巡の後、レックが立ち上がって戸を開ける。ナインが立っていた。
「急にすみません。ラミアスさんでしたよね」
 ナインはレックを偽名で呼んだ。誰に見られるか分からない場所だから、先日の演奏後に出会ったという設定を守っているらしい。
「ああ。どうかしたのか?」
「相談したいことがあって」
 真剣な表情だった。レックは仲間を振り返った。全員が頷いたので、また顔をもとの向きに戻す。
「今行く。他の仲間も一緒に来てもいいか?」
「はい」
「僕が行こう。誰かが尋ねてくるといけないから、セバスとスフィーダは留守番していてくれるかな」
 ソロとソフィアが残り、アベルとレックが出ることになった。
 二人はナインの後についていく。連れて行かれたのは彼らの部屋だった。残る三人のメンバーと顔を見合わせて、レックとアベルはすぐ異常に気付いた。
「どうしたんだ」
「それがよく分からないんです」
 ノインが眉を八の字にする。エイトが腰に手をあてて言う。
「さっき起きたらこうだったんだ」
 彼が指し示した先には、椅子に無表情で腰掛けるアルスがいた。様子がおかしい。レック達が来ても全く反応がなく、膝に両手を置いてただ壁を見つめている。
 ナインが背もたれの後ろに立ち、アルスの両肩を揺すぶる。多少手荒に揺られても、声も上げずに揺すぶられている。
「ずっとこの調子です」
「話せないのか?」
「話せなくもないのですが」
 ナインはアルスの顔を覗き込んだ。
「アルスさん。誰が今来たか分かりますか」
「はい」
 アルスがレックとアベルの方へ顔を向けて、口を開いた。しかしその目は彼らを見ているというより、彼らの姿をただ映しているだけのようだった。
「彼らの名前を呼ぶことはできますか」
「いいえ」
「レックさんはどちらだか分かりますか」
「はい」
「どちらでしょう」
 アルスは座ったまま動かない。十秒ほど待ち、ナインが指示を変えた。
「ではレックさんの前に立ってみてください」
 アルスは立ち上がり、きちんとレックの一歩前に立った。間近で彼の顔を覗き込み、レックは気付く。瞳孔に意思の色がない。近づきすぎれば驚いて照れたような形になることが多かった彼の目が、ぴくりとも動かない。レックが頭を左右に揺らしてみても、瞳孔が動かない。
「ありがとうございました。アルスさん、椅子に座ってください」
 アルスはくるりと身を翻し、椅子にまた座った。椅子に辿り着くまでの歩き方も、なんだか角張っていておかしい。直線的にしか動けないようで、右に一歩踏み出した後、左向き九十度に身体を捻ってまっすぐ椅子に向かって歩いた。まるで兵隊の行進である。
「このように、意思疎通に支障が出ています」
「どういうことだよ」
「検証してみた結果をお伝えして良いですか」
 ノインの大雑把な言い方をナインが噛み砕いてくれるらしい。頼むと、即座に語り出した。
「アルスさんは現在、『はい』と『いいえ』の発声以外で意思疎通をすることができません。生活に必要な行動、つまり食事や排泄は通常通り行いますが、それ以外の行動はしません。アルスさん自身が話しかけることはせず、こちらが『はい』か『いいえ』で答えられる質問をしたときのみ声を出して答えることができます。その他の行動は、こちらが具体的に選択肢を与えれば行うことができます。僕が先程やったような形でしたら問題ないようです」
「何でこんなことになったんだ?」
「分かりません。アルスさんの答えられる言い方で聞いてみたのですが、何もないようなことしか答えなくて」
 レックはアルスにもう一度近寄って両頬を引っ張ってみた。されるがままになっていて、何も抗議しない。いつもならば一声くらい文句を言うのだが。
「僕も話しかけてみていいかい?」
 アベルが手を上げたので、レックは脇に退いた。アベルはアルスの前にしゃがみ込み、目を合わせる。
「中身が入れ替わってる、もしくは偽者の可能性は検証した?」
「はい。天使の目で見る限り、アルスさんの魂に異常はありません」
「身体もアルスさんのもともと持つもので間違いありません」
 ナインが先に、ノインが次いで答える。アベルは頷いて、自分の姿を目に映しているだけの少年に語りかけ始めた。
「アルス。僕の声が聞こえるかい?」
「はい」
「僕の姿が見える?」
「はい」
「身体は動かせるんだよね?」
「はい」
「これまでこの宿で過ごしてきて、君に何か事件が起こったのかい?」
「いいえ」
 レックはナインを見た。彼は言った通りでしょうと言いたげにかぶりを振った。
「誰かに攻撃されることはあった?」
「いいえ」
「誰かに魔法を掛けられた?」
「いいえ」
「自分が『はい』と『いいえ』しか話せないことに、異常は感じているかな?」
「はい」
 彼らの会話を見守っていた全員が驚いた顔になった。アベルは問い続ける。  
「『はい』と『いいえ』以外で話したい?」
「はい」
 アルスの様子は依然として変わらない。しかし決められた手段以外で会話したいということは、意思があるのだ。
「誰か文字の一覧表と筆記具と白紙を用意してくれるかな」
 エイトがペンを、ノインが辞典を、ナインが白い羊皮紙を取り出した。それらをアルスの前に置き、再びアベルが尋ねる。
「文字は自由に書けるかい?」
「いいえ」
「じゃあこの表を使って、自分の喋りたい音を順番に指さしてくれるかな」
 アルスの顔が一覧表の方へ俯く。指がまず一音に触れる。エイトがナインから羊皮紙を受け取って、アルスがゆっくりと指していく文字を記録する。ある程度文字を指したアルスは、また顔を上げて動かなくなった。文字の連なりを見たレックははっとする。
『なにかが ぼくの じゆうを うばってる』
「何かって?」
 アベルが掘り下げる。アルスがまた表を指さす。
『わからない もっていかれてる』
「どこへ?」
『わからない』
「僕らは君を助けるために何をしたらいい?」
『ぼくの じゆうを さがして』
「どういうこと?」
『きえたひとたち が いったところ』
 指が動き続ける。
『そこに ぼくも もっていかれる』
『めを はなさないで』
『そふぃあ にも つたえて』
『めを つけられてる』
『これいじょう どういったらいいか わからない』
「わかった」
 アベルはしゃがんだまま、一同を仰ぎ見た。
「どうもこの宿には何かいるようだね」
 彼の瞳に何か映った気がして、レックは頭上を見た。星のランタンが垂れ下がっているだけで、その向こうには靄のような曖昧な暗がりしかなかった。






▶︎





 宿の店主に話を聞いた。
「店を始めた動機? ただいろんな人と音楽を語りたかっただけだよ。音楽家ってのは好き勝手に動き回る生き物だから、誰がいなくなったかなんてあんまり気にしてないね。三日帰って来なかったら次の客を泊めるだけだよ」
 次いで、従業員たちに話を聞いた。
「うーん。いなくなった人はいますけど、どうなったかまでは知りません」
「音楽の話はよくしたけど、それ以外の話は嫌がられるんだよな」
「この宿への不満なんてないよ。お客からも良い声もらってるぜ」
「声の調子が悪くなったお客は、そんなにいないかなあ。風邪で喉の調子がちょっと悪いって人はいたけど。普通に回復して、宿を出たよ」
「暗さですか。夜しか起きてないので気にならないですね」
 さらに客達からも話を聞いてみたが、失踪事件の手がかりとなるような証言は何もなかった。八方塞がりだ。
「どうするよ」
「何を?」
 ソフィアに聞いてみたらきょとんとした顔をされた。つい同じような表情になる。
「何をって。次はお前が狙われてるんだろ。対策を練った方がいいんじゃねえの。アルスがやられる相手だぜ?」
「ああ。なるほどね」
 そう返事をするが、呑気に安楽椅子を揺らしている。緊迫感はまったくない。
 アルスが話せなくなったとレックとアベルから聞いた。朝食をとった後、ソロたちは宿の中の聞き込みをもう一度した。レックとアベルは外で宿について調査中してるはずのロト組の話を聞きに行った。
 宿の従業員の話を聞き終えたので、今ソロたちは部屋に戻ってきてくつろいでいる。正直暇だが、次何か起こるとしたらソフィアだということなので傍は離れられない。たとえ当の本人がこんな感じだとしても。
「だって何起こるかわかんないもん」
「そうだな」
「対策とか、ないでしょ」
 まあ、そうなんだが。
 これまで失踪した演奏家達の共通点は、全員音楽に関わっていたということ以外何もない。精々よく演奏していたくらいだ。
 先に来ていた自分たちでなく、後から来たアルスが標的にされた理由も謎だ。確かにアルスの歌は良いと思うが、うまさという点で言うならレックだって相当だろう。ソフィアだって悪くはない。
 ソロは部屋を見回す。異様に暗くて外見こそ変なこの宿だが、アメニティは充実している。音楽家達が良い活動をできるようにという経営者の心遣いかららしい。そのうちの一つがソフィアが使っている安楽椅子だ。勢いよく揺らしすぎるせいで頭を振り子にする拷問器具に見える。あれだけの揺れに耐えられるのだからモノがいいのだろう。
「ねーえー」
「なんだよ」
「歌を作ろうよ」
「は?」
 ソフィアが止まった。髪が嵐に遭った木みたいな乱れっぷりでおかしいが、本人はいたって真剣な表情だ。だから笑わないで聞いてみる。
「何で?」
「だって、アルスが先にやられたでしょ」
「ああ」
「悔しくない? あたしの方が先にいたんだから、先にやられたっておかしくないのに。アルスだけやられるなんて、あたしの歌がいまいちだったみたいじゃん」
 よく見ると微妙にむくれている。拗ねているらしい。
「いや、次はお前の番だって話だっただろ」
「来るなら早く来て欲しい。だからあたしの魅力がばっちり発揮できる曲を作って、歌うの。それであたしの歌がそう簡単に盗れるものじゃないっていうの、見せてやりたい」
「なるほどな。お前、髪型だけじゃなくて頭もおかしいわ」
 言いたいことは色々ある。歌を盗りに来るってなんだ。お前は気の狂ったミュージシャンか。いつから音楽家が本業になったんだ。
 だがソロは退屈だった。
「よっしゃのった」
「わぁいソロ大好き」
 そんなわけでオリジナルソングを作ることにした。
 歌詞を作ってから、メロディを適当に考えた。一時間でできた。
「もっと手こずるかと思ってたけど、あっさりできたね」
「マーニャの無茶ぶりの成果じゃね?」
「言えてる。あたしもよくマーニャの踊りにあわせて歌えって言われてた」
 早速歌ってみた。伴奏にサックスを吹いてみあソロは気付く。曲調とソフィアの声にサックスが合わない。というか負けてしまっている。
 ソフィアは出せる音域が広い。声量もあってパンチの効いた声を出せる。魔法で声を大きくしなくても十分複数の楽器と張り合えるくらいだ。
「お前の声って楽器みたいだわ。なんでそんな音出せるんだよ」
「出したいから」
「だよな」
 ちなみにレックはアルスの歌を「語り」、ソフィアの歌を「演奏」と言っていた。非常に共感できる。
 アルスは歌詞に合った歌唱がうまい。一語一語をよく拾っていて、歌っている内容に沿った表現ができる。
 一方でソフィアは音への意識が強い。メロディを良く響かせ、繊細な音から激しい音まで自在に歌ってみせる。自分からどういう音が出るかを心得ていて、かつ耳が良くないとできない芸当だ。この能力を使って一度聴いた曲を一人アカペラで再現してみせたことだってあった。
 この声量に張り合うには、それなりにボリュームのある楽器でないといけない。
 だからノインを連れてきた。彼女の使うバンドネオンならば、ソフィアに負けないだろう。
「協力してもらっていい?」
「もちろんです」
「やったー! じゃあじわじわ頸動脈を締め上げるイメージで弾いてくれる?」
「分かりました」
「分かりませんって言ってもいいんだぞ」
 一度、歌と伴奏を合わせてみる。演奏の途中から、ソロは笑いが止まらなくなった。
「めっちゃいいわ。俺、プロデューサーの才能あるかもしれねえ」
「今回は認める。じゃあお披露目してこよっか!」
「はい!」
 三人は意気揚々と酒場に向かった。酒場では、舞台さえ空いていればいつでも演奏を披露していい。だから普段から作りかけの曲を奏でて反応を見たい者や、酔って適当な曲を弾きだす奴とか、いろんな者が多種多様の音を気まぐれに奏でていた。
 ちょうど舞台が空いていたので、ソフィアとノインは登壇した。ソロは少々離れたテーブルにかけて全体の様子をみることにする。昼間の酒場、丸テーブルは四割程度埋まっている。大方自分たちの話に夢中になっているが、中にはソフィア達の様子を気にしているのもちらほらいた。
 ソフィアはマイクを取り、笑顔で告げた。
「聴いてください。『無恥胎埜門店拓き』」





▶︎






 宿内部からの調査に詰まったので外に出た。宿について外で調査しているロト組と会うために、リッカの宿のサンドラの部屋へ行く。
 ノックして入ると、既にサンドラとアレフが待っていた。
「首尾はどう?」
「やられた」
 レックが今朝起こった事件について話す。アルスの状況について聞いても、二人は動揺を見せなかった。
「声が出ない。何が起こったわけでもない。自由を持って行かれている、か」
 アレフが眉根を寄せる。サンドラが問う。
「意思があるのに、感情の表現が言葉でできないってことよね」
「ああ」
「呪術にしては中途半端ね。やられたのがアルスでなければ、マジャスティスでどうにかできたかもしれないけど」
「一応、ソロの剣を使って凍てつく波動はやってみた。でも何も変わらなかった」
「それならば、魔法の類いをかけられている可能性は限りなく低い」
 少し考えてから、サンドラは再び口を開いた。
「問題なのはフィールドなのかもしれない」
「場所に問題があるってことか?」
「ええ。アレフ、おとといもらった資料はある?」
「はい」
 アレフが即座に机の上に積まれた紙のうち二枚を開いた。サンドラがそれを向かいに座ったアベル達にも見やすいように回転させる。
 それは音溜まりの宿の設計図と、建築計画書だった。
「あの宿の構造を知りたくて、設計した建築家と建てた大工を尋ねたの。でもどちらも行方が知れなくて、仕方ないからセントシュタイン城に提出された書類の写しを見させてもらったわ。これはそれをコピーしたものよ」
 眺めるレックの顔がみるみるうちに強ばっていく。
 蜘蛛を形取る一階の下に、密封された地下室が六つある。それぞれ蜘蛛の関節の付け根にあたる部分の下にあり、床壁天井の一面に緻密な模様を描いたらしい。
「召喚陣かな。さらに建物の材料は、魔性の強い材料ばかりだね」
 アベルが身を乗り出す。サンドラが頷いた。
「そう、召喚陣は魔界に繋がっているみたいよ。誰かを呼ぶわけではなく、力だけを引き出しているみたい」
「構成する物質だが、これは動く無機物を作る職人が用いるものばかりだ。普通の建材ではない」
「動く無機物ってことは」
 レックが唾を飲む。
「ゴーレムとか、キラーマシンみたいな?」
「そうだ。これは建物ではない。魔力を蓄えて起動する無機物の模型だ」
「なるほど。それなら音楽家が消える理由も納得だね」
 顎をさするアベルをレックが見やる。
「どういうことだ?」
「歌は魔法を発動するための祈りみたいなものだ。生命は魔力のタンクと言われる。その二つをあの建物を生物とするために使うことになっていたとしたら、どう?」
 レックの顔が髪の色をうつしたようになる。
「つまり、失踪した奴らはあの建物の糧になったってことか? じゃあ、アルスは?」
「まだ失踪者がどうなったかは分からない。でもアルスは中途半端に持って行かれただけだから、元に戻れる可能性はあるんじゃないかしら」
 ひとまず息をつくレックに微笑みかけてから、アベルは正面の二人に向き直る。
「どうやったら元に戻せるだろうね」
「地下の魔方陣を壊してもいいでしょうけど、そうした場合これまで吸い取られたものがどうなるか分からないわ」
「しかし、ゴーレムのような魔物の動力源を断つなんて破壊以外思いつきません」
「壊すだけじゃあだめなのかー」
 アレフとレックは頭を抱える。サンドラが二人を哀れむような目で見る。
「勇者って、仕事の七割は破壊だものね」
「この仕事をやるようになってから気付いたけど、勇者ばっかり集まると逆にそれ以外のスキルを持ってる奴が輝くよな」
「その通りだ。俺も今猛烈に転職がしたい」
「転職したところでこの問題が解決できるとは限らないわよ」
 もっともである。勇者二人はうなだれた。
「でも、もしかしたらうまくいくかもしれない方法もあるわ」
「あるのか!?」
「ええ。そうでしょう、アベルさん」
 三対の目が一点に集まる。アベルは目をぱちくりさせている。
「え? もしかして、魔物化したところを僕が仲間にして解決を目指すってことかい?」
「はい」
「いやいやいや」
 レックが大仰に手を振る。
「アベルは確かにすげー魔物使いだけど、生まれたばっかりの建物の魔物なんて、こっちの言うことを聞いてくれるのか?」
「そればかりはなんとも言えないわ。でもあの建物に私達の魔力を流し込めば、少しは言葉の通じる相手になるかも」
「すごい量の魔力がいるんじゃねえの? そんな魔力量、誰が出せるんだよ」
「人間一人じゃ無理ね。せめて似たような魔力の人が三十人はいないと」
「おい、大変だ!」
 急に扉が開け放たれ、アレンとサタルが飛び込んできた。二人とも肩で息をしてるのを見て、サンドラが眉根をひそめる。
「どうしたの」
「あの宿が動き出したんだ」
「とにかく早く来てください!」
 室内にいる四人は顔を見合わせた。








▶︎



 リッカの宿を出て音溜まりの方へ向かった一同は唖然とした。
 セントシュタイン商店街の上で巨大な黒いものが旋回している。中心は丸く、そこから細長い何かが複数生えているようだが、高速で回転しているために形ははっきりと見てとれない。しかし一同には分かった。
「宿だ……」
「蜘蛛って飛びます?」
「俺たちが蜘蛛だと思い込んでいただけで、実は別のものだったのかもしれない」
「魔界の蜘蛛なら飛ぶね」
 愕然とするレック、至極当然な疑問を述べるアレン、真面目に考えるアレフ、頷くアベル。サンドラが、手を翳して飛行物体を眺めているサタルに尋ねる。
「宿に戻ってきたメンバーを見なかった?」
「見なかったよ。君こそ、いつもの力で分からないの?」
「私の察知能力は聖戦限定で発揮されるものだから分からないわ。あなたこそどうなの?」
「俺は全然できないから。天使達が専門だけど、これだからねえ」
「メンバーから考えて、そう簡単にやられるとは思えないんだけど」
「ルーラストーンで呼びかけてみたんだけど、応答がないんだ。誰も飛んで出て来ないのもおかしいよなあ」
「おい、あれ!」
 その時、空で旋回する物質の中から輝く何かが飛び出してきた。煌めく青い光を纏っているので、魔力を纏って飛ぶ何者かであろう。
 その影がこちらに向かってまっすぐ降下してくる。
「皆さんお揃いですね。ちょうど良かった」
 降りてきたのはナインとソロだった。レックが地上に降りた二人に駆け寄る。
「何があったんだ? みんなは?」
「無事です。ですが、少し厄介なことになっております」
 ナインは自分の出てきた建物を振り仰ぐ。宿はその場での旋回をやめ、大きく八の字を描いている。
「何があったんだ」
「ソフィアさんとノインの演奏で宿が覚醒しました」
 全員「?」という顔をした。
「ソフィアさんがアルスさんの声が盗られたことに負けられないと言って自分に合う歌を作曲をしたのです。それをノインの伴奏で披露したところ、すばらしい量の魔力の放出が認められ、宿に命が宿りました」
「宿に命が宿ったこと以外、何もわからねえ」
 アレンが言った。レックは大きく首肯する。ナインは二人に視線を合わせる。
「音楽が呪文と同じはたらきをした状況をご覧になったことがおありでしょう。オカリナの旋律がオーブの位置を示し、時として竜さえ呼ぶ。これらは特殊な道具のはたらきの結果という見方もできますが」
 そして、サンドラとサタルの二人へ目を移す。
「歌声が同様にはたらくこともあります。死者の歌が現世へ影響を及ぼす。乙女の歌声が魔法の乗り物を復活させる」
 今回のも同様です、とナインは天に片手を掲げた。
「何によって旋律が魔法のような奇跡を起こすのかという理論の説明は割愛します。ソフィアさんが歌ったことによって、音溜まりの宿は生物として目覚めました」
「中の連中は」
「まだ無事です。ソフィアさんの歌に夢中になってますから」
「だがぐずぐずしてると危ねえ」
 これまで黙っていたソロが言う。
「アルスに起こったことから考えるに、奴は音楽が欲しいんだ。自由にてめえでてめえの気持ちをあらわせる力だけ、アルスは奪われた。音楽家が失踪したのもそういうことなんだろ。ソフィアの奴も、我が強ェからな。あの宿が何を考えてああしてるか知らねえが、他人様のモンを奪うのは得意なアイツが、もう何も奪わねえと言いきれる保証はねえだろ」
「だが、どう対策するんだ。あの宿にはまだ50人近い客と従業員がいる。我々だけで避難させるのに限界があるぞ」
 アレフが尋ねる。ソロは隣のナインに目配せする。
「ナイン博士。さっきのアレ、言ってやれよ」
 ナインは頷き、言った。
「音楽であの宿と心を通わせます」
 一同はそろって天を仰いだ。
 蜘蛛型の魔物、もとい音溜まりの宿は碧空でヘッドバンキングにいそしんでいる。
 半笑いの、目が笑っていない顔でサタルが向き直る。
「本気? 冗談?」
「本気です」
 ナインは無表情で肯定した。
「まず核となるのはアベルさんです」
「やっぱり僕に来るかあ」
 アベルは微笑みを崩さない。穏やかである。
「アベルさんと他数名で、宿の中でソフィアさんたちが歌っているものに合わせた演奏をして奴の気を惹きます。こちらに気を向けてくれれば、ある程度コミュニケーションを取ることができる。確か魔物使いの心得にそういうものがありましたよね」
「うん」
「お願いします。演奏するメンバーはアベルさんの演奏のスタイルに合わせます」
「わかったよ」
 アベルは腰に下げた道具袋からドラムを取り出した。地面に置き、ナインに示す。
「これでいいかな?」
「戦いのドラムですね。結構です」
「ならギターがナインで、あとレックはこれな」
「お?」
「おらよ」
 ソロがアイテムを投げる。レックは反射で受け取って、丸くしていた目を輝かせた。
「これ、あれか!?」
「そうだあれだ」
「ラプソーンとか、その他すっげー強い敵と戦う時にいっぱい使われてきた歴戦の楽器、たしか名前は──ククールなタンバリン!」
「怒られろ。不思議なタンバリンだ」
「それだ!」
 レックは星形のタンバリンを手にして小躍りしている。
「これ、ずっと演奏してみたかったんだよなー!」
 祭り気分の彼を放って、ソロはそれ以外のメンツに言う。
「俺は宿の中の演奏を中継する音響担当だ。ルーラストーンが時空がねじれているせいでうまく作動しねえんだが、俺とアイツのならばかろうじて繋がれる」
 それから手にしていた紙を開き、アベルに渡した。
「これ、アイツが中で演奏してる曲の譜面です。すんません、合わせてやってください」
「わかったよ」
 アベルは受け取って眺めはじめる。
 ソロはロトのメンバーを見回す。
「オメーらは、街に被害が出ないように守る」
 アレンが街を見渡して顔をしかめた。
「こんな広いのを?」
「セントシュタイン軍が動き出しています」
 ナインが一方を指した。路地の向こうに、セントシュタイン兵が数人こちらを向いて待機している。
「セントシュタインは昨今訪れた滅亡の危機を乗り越えようとする中で、自国の防衛設備を開発してきました。対空攻撃用防壁装置があります。魔法の応用も利くはずですので利用してください」
「どうします」
 アレフが先祖に尋ね、アレンもそちらに身体を向ける。
 考え込んでいたサタルがサンドラに目を移す。
「生まれたての物質系モンスター。音に関心がある。考えられる攻撃は?」
「あの長い脚や胴体を利用した単体、もしくは広範囲に渡る物理攻撃。あとは音波でこちらにダメージや状態異常をもたらす攻撃。強力な魔法を使う可能性は低いでしょうね」
「ならば、音を遮断するために真空の防壁をセントシュタイン城で張らせてもらおう。俺とサンドラで交渉に行く。物理攻撃には、アレフやアレンの攻撃で対処する。できる?」
「できます」
「アイツの攻撃を予測して叩けばいいんですよね」
 サタルのふりに、子孫二人は応じる。
 様子をうかがっていたソロの方を向いて、サタルは頷いた。ソロも頷き返した。
「よし。防壁が張れたら、セッション開始だ」








▶︎



 ナインとソロが事態の解決を目指して地上に降りた後、残されたメンバーは宿内の安全の確保に努めていた。
 建物が動き出してから、館内は終始激しい揺れに襲われている。当初はとんでもない歌手の登場と予想外にも動き出した舞台を楽しんで盛り上がっていた宿泊客や店員たちも、今は平衡感覚が狂って突っ伏している者が大半だ。
 そこでエイトは嘔吐している者の看病をしている。アルスはまだ身体の自由が戻らないが、エイトの指示に従って戸口に立ち、気が動転した客が外に飛び出そうとするのを防ぐことができた。ソフィアとノインは演奏だ。彼女らが一度演奏を辞めようとしたところ、宿が活動をやめて落下しかけたからである。
「ナインたち、そろそろかな」
「そうだと思いたいです。ソフィアさんはまだ保ちそうですが、お客さんたちがもう限界です」
 看病が一区切りついたところで、エイトは舞台上のノインに話しかける。ノインはひっきりなしに手を動かしているから、汗だくだった。君は大丈夫かと尋ねると大丈夫ですと帰ってきた。彼女はそれ以外の回答をしないのであてにならない。
「自分の歌で魔物を生み出す日が来るとは思わなかったわ」
 間奏中にソフィアが言う。こめかみや首筋を汗が伝っている。表情は明るい。
「アルスみたいに持って行かれないのはちょっと残念だけど、これはこれで悪くないね。創造主になった気分」
「あとは犠牲者が出なければ文句なしだね」
 もう出てるようなものだけど。
 エイトはロビーで蠢く乗り物酔いの客達を一瞥してちらりと思う。しかしそれは彼女のせいとは言いがたい。そもそもこの宿は、仕組みがおかしいのだそうだから。
『待たせた』
 ソフィアの首に下がったルーラストーンが瞬き、ソロの声がした。
『セントシュタイン上空に防壁が張れた。アベル達の準備もできてる。次のイントロから合わせる』
「おっけ。ついてきてよね!」
 ノインが曲の終わりを奏でる。
 ソフィアはその余韻が失せるのを待ち、再びマイクを取る。








▶︎



『育んできた奇蹟が潰えた、潰えた果実の甘い甘い、絶えた時の饐え朽ちゆく香り……』
 ソフィアのゆったりしたソロパート。
 アベルが八分の六拍子を刻む。そこにナインがギターを重ねる。魔法で音を増幅させたらしく、弦を一度つま弾くだけで鳥の断末魔の如き旋律が大気を裂いた。
 伴奏が加速する。道行く人々が広場で演奏する彼らの姿を遠目に見ては、セントシュタイン兵に促され、小走りに遠ざかる。緊急待避命令を受け、住人も旅人もセントシュタイン城へ待避する流れになっていた。
『少女の歓喜の舞い、あしもとに果実、飛び散る果肉。くるぶしがまだらに染まる、まるい肉にしたたるくれないの、かつて吸った雨水、なれの果て』
 ソフィアにノインがコーラスを重ねる。時にソフィアが低くノインが高く、時にソフィアが高くノインが低く、音程を絡み合わせながら音の厚みを増す。
 音溜まりの怪物はゆらゆら揺れている。
『二度とは行き着けないあたたかな果樹園の昼。すべて雨に奪われ、ひとりただ果実を踏む。戦士の剣も、詩人の歌も、知らない。厚い雲を掻き消す彩りがほしい、正しい夏の日射しになりたい』
 叫ぶようなソフィアの歌が二度流れる。ギターもドラムもバンドネオンも、重い音を奏でているのにさほどミスをしたり乱れたりすることがなかった。
 しかし怪物はゆりかごよろしく揺れるまま、動く気配がない。
 アベルのドラムを叩く手が緩んだ頃を見計らい、ソロは声をかける。
「どうすか」
「恍惚としてるね。感触は悪くない」
 それから少し首を傾けた。
「でも僕のことにはあまり感心を持ってないね。このままだとかなり時間がかかる」
 レック、とアベルがタンバリンを叩いている青年に声を掛けた。
「そのタンバリンを貸してくれる? できればこの位置で浮かせておいてもらえるとありがたいんだけど」
「いいぜ。こうか?」
 レックがタンバリンをぽんと宙に放る。タンバリンがドラムの前に浮いたのを確認して、アベルはありがとうと笑みを浮かべた。
「そろそろ、僕を見てもらわないとね」
 アベルが手を止める。
 突如、タンバリンを大きくスティックで叩いた。そうして拍を取り続けたまま、ドラムを細かに刻む。
 レックとソロは目を剥いた。二本のスティックに、タンバリンとドラムが一つずつ。一本のスティックはずっとタンバリンを叩いているにも関わらず、残ったたった一本のスティックで叩かれるドラムの一音一音絶妙に変わっている。高低浅深、遅さ速さの狂いもなく、猛烈なスピードでリズムを刻んでいく。
 突如変わったドラムに、ナインが思わず手を止めた。アベルが告げる。
「ナイン、『キャラバン』だよ」
 ドラムの光る名曲である。ちょうどコントラバスのパートに入るところで、言われるがままにナインは弦を爪弾く。ドラムに低い弦の振動が加わり、寄せては引く波のような旋律が生まれていく。
「乗った!」
 ソロが背負っていたサックスを前へ持ってくる。ルーラストーンから声がする。
『なになに? アベル?』
「『キャラバン』だよ。お前も知ってるだろ?」
『えー叩けるの!? やったーあたしトランペットパートやる!』
 ソフィアは戸惑いから一転、歓喜の声を上げた。
『ノイン、ピアノ!』
「バンドネオンなのですが」
『いいから!』
 ルーラストーンの向こうから、求めていた鍵盤の音色が届く。すかさずアベルが言う。
「レックはトロンボーンパートで」
「よし来たっ」
 レックは満面に喜色を浮かべ、低音から高音へと次第に声を張り上げていく。
 そこへソロのサックスとソフィアのコーラスが加わる。
 全ての楽器が合わさり、旋律が最高潮に達する。
 ぴたりと音が途切れた。そこへ転がるようなドラムが入り、自然と次の旋律へと移っていく。
 一瞬にして場の様相が変わっていた。先程までボーカルが導いていた集団が、今や完全にドラムに率いられている。
 レックは歌いながら天を仰ぐ。
 音溜まりの宿は落ちていない。ただ宿の入り口、二本のランタンをともした玄関が、こちらをじっと見つめている。ランタンが目のようだ。
 音溜まりは吸い寄せられるように下降してきた。アベルたちの上空、一メートルも離れていない位置に止まる。巨大な影に遮られる形になったが、地上のメンバーは演奏をやめない。レックは夢中で歌い続け、ソロは愉快そうに、ナインは一心にそれぞれの楽器を奏でている。宿の中のメンバーも同様で、途切れる風はない。
「君もやりたいのかい?」
 アベルだけが顔を上げ、ドラムを叩きながらも音溜まりの宿を見つめて言う。
「ならば、君の表現を考えなくちゃ。君の身体は確かにパーカッション向きかもね。でも君と似たような身体の音楽家は、魔界にしかいないかも。君にはもう十分魂があるみたいだから、中の人たちを出させてあげてもいいかな?」
 宿はぱかりと玄関の戸を開いた。アベルが叫ぶ。
「開いたよ。早く出て」
 すかさず飛び出してきたのはアルスである。戸口の方を振り返り、言った。
「大丈夫、ついて来て!」
 声が戻った、とナインが驚愕を露わに呟く。
 戸口から我先にと音楽家達が駆けだしていく。飛び降りてすぐ転がる者。どこか遠くへと逃げていく者。
 異変を見て取って駆け寄ってきたアレフとアレンは、わらわらと群れて逃げていく音楽家や従業員達を見て会話する。
「五十人とは思えないな」
「これまで囚われていた人も、解放されたってことですかね」
 最後にバンドネオンを抱えたノイン、歌うソフィアが降りてきて、エイトが出て来る。中をもう一度振り返ってから、彼はアベルに言った。
「もう中に人はいないよ」
 アベルは頷き、なおも自分を見つめているらしい音溜まりを見上げる。
「ありがとう。これで魔界に行きやすくなったかな。君も魔族ならば、君がいた場所の地下にある魔方陣から魔界にいけるはず。楽器を持っている魔族に教えを求めてみたらどうかな
?」
 音溜まりは頷き、飛び立つ。そしてもとあった位置に戻るとその場に沈み込み、溶けて消えるように姿を消した。
 その時、演奏は最後にもう一度全ての楽器が盛り上がりを迎えていた。タンバリンの連打で全ての音が終わるや否や、すぐさまナインが飛び上がる。上空から音溜まりの宿が沈んでいった位置を見て、そこに時空移動の魔力の光の残滓を認めた彼は、滑空しながら告げた。
「終わりました。クエスト達成です!」
 わっ、と地上が湧いた。
 アレフとアレンが駆け寄ってくる。その向こうで、兵士達が歓声を上げている。
 ノインはへたり込み、ソフィアは大声を上げながら大の字に寝転んだ。レックがソロとアベルにハイタッチをしてまわる。
「やったな!」
「つっかれたー! もう、無理ぃ」
「アベルお前すげー、やっぱすげーよっ」
 騒ぎは町中から国中に広がり、やがて宿屋協会とセントシュタイン城主催で盛大な宴が開かれるのだった。







▶︎



 その日の夜。
 ある者は歌い、ある者は踊る、宴の様をセントシュタイン城バルコニーから眺める人影が二つあった。
「音溜まりか」
「なに?」
 城での交渉に努めていたロトの勇者達である。横並びになった彼らは、そろいのワイングラスを手に会話をしている。
 サンドラが聞き返すと、サタルはああと頷く。
「あの宿の名前。誰がどういう意図で決めたんだろうなって」
「特殊かしら」
「オト、ダマリだよ。音楽の宿なのに黙りなんて、皮肉じゃないか」
 男勇者は赤ワインを一口あおり、眼下を窺う。そこにはすっかり調子を取り戻したアルスが、酔っ払ったレックに頬を引っ張られるのを腕を伸ばして拒否している姿があった。
「ルイーダの酒場でも、パーティーが互いに本名を名乗るとは限らないだろう」
「ええ」
 サンドラは肯定する。
 彼らの世界では、酒場の二階に「求める仲間を注文する」場があった。
 まず希望する仲間の名前を伝え、ステータスの希望を、差し入れとしてツマミ代わりの種でそれとなく伝える。その後一階の酒場に降りると、自分の求めた通りの名前を持つ仲間が登録されている。
 この時、雇い主の名乗る名前と呼びたい仲間の名前にはルールがあった。
「四文字以内のあだ名で呼び合うのが基本ね。本名を名乗るとしても、氏か名の一部。このあだ名を決め合うのが、契約の一部だと聞いたわ。私は酒場をあまり利用しなかったから、伝聞だけど」
「俺もだよ。でも酒場をよく使う仲間はそう言ってたし、旅に出る人間は四文字以内で冒険者としての名前を決めておけって言われたよね」
 二人は頷き合う。
 「サンドラ」も「サタル」も、そうして決まった名の一部だ。
「で、それと音溜まりに何の関係が?」
「うん。四文字で名乗る理由なんだけど、現実的な意味はそれぞれある一方で、本名でステータスが知られてしまう可能性があるから、って噂を聞いたことがあるよ」
「何それ。そうだとしたら、私はフルネームをしょっちゅう名乗ってるから、もうだいぶ知れ渡ってることになるわよ」
「でも、本当のフルネームではないよね? ミドルネームを名乗らない決まり、あるでしょ」
 サタルが問うと、サンドラは沈黙した。
 本当かどうか知らないけど、とサタルは前置いて言う。
「名は体を表す。身体も心も、欠けたものを無意識に求める。それで音溜まりの宿がああなったとすると、あの宿の造り手は何を考えていたんだろう」
「店長も従業員も、雇われた人間だと聞いたわ。でも雇い主は見つからなかった。建築に関わった人間もみんないなくなってる。どういうことかしら」
 サンドラは白ワインで唇を湿らせる。サタルは肩を竦めた。
「まあ、俺たちは雇われただけだから。もしかしたら宿屋協会は何か知ってるのかもしれない。なら、深入りはしない方がいい」
「これだけ無駄に話しておいて、それでしめる気?」
「答えが出そうにないからね。他人様の世界の事情に、土足で踏み込みすぎるのもいけないし」
「それもそうだわ」
 二人はしばらく、肩を並べて祭りの騒ぎを見つめる。
「そういえば君、何か楽器はできるの?」
「さっぱりよ。魔王討伐のためのステータス上げしかしてこなかったもの」
「そうか。実は、レックが旅芸人一座として仕事がしてみたいって言ってたんだけど、もしよければ俺と一緒に漫才を──」
「きゃっか」
「そこは四文字じゃなくて良くない?」








20200812