四ツ辻に立つ男




 アストルティアは六つの大陸からなる。そのうち、レンダーシアを除いた五大陸はアストルティア大陸間鉄道公社の運営する鉄道で結ばれており、住人達は「大地の箱舟」と呼ばれる列車に乗って、各大陸の王族が住む五つの都の駅を除いた七つの駅を自由に行き来していいらしい。利用料は、一律たったの二十五G。安い。
 エクスの住んでいたエテーネの村は、レンダーシア大陸の一部だ。鉄道など利用したことがない。そもそも存在すら知らなかった。
 だからジュレット駅で、はじめて線路上を滑る巨大な黄金の列車を見た時は非常に驚いた。乗ってみて、中に壁画でしか見たことのなかった五種族の者が入り交じって談笑する姿を新鮮に思った。そして走り出した列車の力強さと、みるみる過ぎていく窓の外の景色に感動した。全てが魔法のようだった。
 あっという間にエクスのいたジュレットの町は遠ざかり、途中赤や黒の岩肌が剥き出しになった地域──エクスは持参していた世界地図で、その地域がオーグリード大陸というのを知る。ついでに、自分に身体を与えてくれたウェディの出身地であるレーンの村と先程まで滞在していたジュレットの町がウェナ諸島という地域に属することも覚えた──を通り過ぎ、やがて豊かな緑を湛えた大地へやってきた。
 エルトナ大陸。ジュレットの町長に推されたアズランの町がある地域で、知恵と風の民エルフが多く住んでいる地域だ。
「次は~アズラン~。アズラン駅に到着~」
 箱舟内にアナウンスが流れたため、エクスは迷わず降りることができた。
 アズラン駅にエクスを下ろすと、箱舟はすぐ煙を巻き上げて線路の彼方へ去って行った。遠くなる四角い金色を見送る。なんだか名残惜しかった。
 それから駅構内にあるものを見て回る。看板が四つあって、そこからアズランが良い風の吹く町であり「風の町」と呼ばれていることと、旅人にも温泉が解放されているという情報を入手する。
 駅から一歩踏み出すと、町を一望できた。
 アズランは深い森の中を走る谷川に沿うようにして生きる、こじんまりとした町だった。周囲を囲む森は、ウェナ諸島のような葉の大きくて幹の太い木ではなく、小さな葉を豊富に蓄えるしなやかな木々ばかりで、風が吹くと葉の一枚一枚が擦れ合って繊細な音色を奏でた。
 石畳の上を歩きながら、初めて見る家々の造形を鑑賞する。雄鹿の角のように高く張り出した欝金の屋根、木材に施された緋や浅葱の着色が美しい。近寄ってみて、駅舎と同じ木造であると気づいた。加工した木の骨組みを基盤として、壁には漆喰を塗っているようだ。
(凝ってるなあ)
 エクスは感心した。エテーネの村の家は、同じ木造でもただの丸木を組み合わせただけだった。
「旅人さんだな」
 しげしげと街並みを眺めていたせいか、道端にいたエルフに話しかけられた。腹が出ていて骨格も声も太いから、中年の男なのだろう。
「良い時に来たんだな! この町は今、風送りの儀の準備で大賑わいなんだな」
 言葉に独特のなまりがある。エクスは首を傾げ、頷いた。
「そうなんですか」
 風送りの儀とは何だろう。
「このアズランの町は風が集まる場所なんだな。古い風を新しい風に入れ替える儀式が、風送りの儀なんだな。しかも今回の風送りの儀は、六年ぶりで、新しい風乗り様が務められるんだな!」
 中年エルフは聞かずとも説明してくれた。なんだかウキウキとして嬉しそうだ。特別な行事が行われることを、誰かに話したかったのらしい。
「お兄さんも、見ていくといいんだな! そこの建物が宿で、こっちも新名物としてアズラン温泉を始めたばっかりなんだな」
 男は角に立つ建物を指さした。見れば確かに、宿屋マークが玄関先に並べてある。
「ありがとうございます」
 思いがけず目的地を教えてもらえた。エクスは礼を言って、さっそく宿へ向かった。
 部屋を一つ取って、地下の温泉へ向かう。一階受付横の下り階段を降りた先に、また受付があった。その手前の左右にのれんのかかった入り口がある。受付に立つ女から、桃色ののれんが女湯、紺色ののれんが男湯だと教えてもらい、入湯料を払って紺色の方へ入った。
 入ってすぐの部屋には、籠のたくさん並んだ棚があった。籠の中には、衣服が畳んで入っているものがいくつかある。ここで脱げということらしい。
 エクスは衣服を脱いで籠に入れながら、壁の張り紙を見て温泉に入る作法を知った。かけ湯をしてから湯舟に浸かるのがいいらしい。受付でもらった温泉用だという水着を身に着け、次の部屋へ入った。
「うわっ」
 むわっと熱気が漂ってきて、思わず声を上げてしまった。
 あたりにはもくもくと湯気が立ち込めていて、白くかすんでいる。だがおぼろげに景色は見えるので、おっかなびっくり壁沿いの設備でかけ湯をして体と頭を洗った。
(蛇口からこんなに大量のお湯を出せるのか)
 エクスの村に温泉はなかったから、感心しきりである。
 それから湯舟に浸かった。最初は熱く感じたが、慣れると血の活発にめぐる感覚が分かって心地よい。こめかみから汗が流れても不快にはならなかった。じっくりと湯に浸かることにした。
 曇っていてよくわからなかったが、エクスのほかにも客がいたらしい。湯舟の中、少し離れた位置に自分同様浸かっているウェディの若者を見つけた。
 若い魚はエクスが見ていることに気づくと、にやりと笑った。
「煮えるぜ」
 思わず噴いてしまった。
「まったくだぜ」
 口が勝手に同意する。男は満足そうに頷き、立ち上がって去っていった。
 自分一人になったのだろうか。思うと同時に、エクスの口が小さくハミングを始める。なんだか明るくのんきな歌だ。いい湯だな、と口ずさんだので、温泉の歌なのかもしれない。
 生まれ変わってウェディとなったエクスの口には、謎が多い。奇妙なことに、たまにひとりでに動き出すのだ。ウェディと会話する際に勝手に受け答えを始めることが多いように思うが、この体の養い親だったバルチャと話す時だけは動かなかったので、いまいち理屈が分からない。
 さらによく分からないのが、この歌い癖である。
 エクスの口は時折、意思とは関係なしに歌い出す。最初に「口」が歌ったのは、ジュレー島の上層で封印されたレンダーシア大陸──すなわちエテーネの村の方角──を眺めていた夜だった。自分の気分でないのに勝手に歌いだす上、やたら上手いせいで気持ちが揺さぶられて泣いてしまったため、初回は憤りやら困惑やらで混乱した。亡くなってしまったそもそもの体の持ち主には悪いが、難儀な体に生き返ってしまったものだと溜息を吐いた。
 しかしその後も「口」が歌い続けるうちに、エクスの考えは変わった。
 「口」はジュレットの町に滞在する間、人が誰もいない場所でよく歌い始めた。曲目は様々で、エクスが知っている歌は一つもない(そもそも歌をまともに知らないので、知っているはずがない)。最初の晩のように悲しい歌もあれば、思わず歌いながら笑ってしまうような面白い曲、こぶしの利いた力強い曲など、「口」はさまざまな曲調を歌いこなした。
 そうして付き合ううち、エクスは自分の気分がだいぶすっきりしていることに気づいた。当初は歌が始まるとうんざりしていたのだが、回数が重なるにつれ、歌い始めるのが待ち遠しくなり、歌い終わった後は楽しい気分になっていた。ジュレットの町を出る頃には、自分が罪悪感の奴隷になっていないことに気づき、「口」が自分の気持ちを整理させたのだと理解できた。
 ありがたいが、謎は謎である。
 この「口」の仕組みについて誰かに相談したいが、エクスにそんな相手はいない。エテーネの村の見知った相手は生死もわからないし、冒険者の酒場で出会った仲間に聞くこともできない。どちらにしろ、「自分の口が勝手に動いて歌を歌います」なんて言えば、おかしな奴だと思われるだけである。
 分からないのは自分のことだけではない。
 エテーネの村の襲撃後に「使命を探せ」と呼びかけてきた声の正体。肝心の使命の中身。アストルティアという異邦の地。分からないことだらけだ。
 分からないものは考えても仕方ないので、諦めて受け入れつつある。けれど、アストルティアでの旅の仕方だけでも相談できる仲間ができたらいいのにとは思う。
(気の置けない仲間がいたらいいんだけど)
 以前レーンの村長が付けてくれた傭兵たちとは、ジュレットの町で別れてしまった。今は一人きりなのである。
 エクスは少し寂しくなった。しかし「口」の方はのんきなもので、ハァビバノンノンとご機嫌な調子で歌っている。
(お前な。少しはオレの気持ちもふまえた曲を歌えよ)
 エクスは文句を言いたくなったが、「口」が歌っている間は話せないのである。ウェディはみんなこんなふうなのだろうか。
「お上手ですね」
 湯舟の向こうから、誰かが近づいて声をかけてきた。「口」がぴたりと止まる。小声で口ずさんでいたとはいえ、歌がなくなると急に辺りが静かになって、その分近づく誰かの湯を掻きわける音がよく聞こえた。
 湯気の向こうから姿を現したのは、エルフだった。顔のパーツは総じて小ぶりだが、切れ長の瞳は涼やかな銀、鼻や唇の形も筆で丹寧に描いたようで美しい。柳のような印象を際立たせるスーツ水着をまとった身体から、自然と気品が漂ってくる。知恵に秀で、可憐で整った容姿の者が多いという種族の特性を思い出した。
「ごめんなさい。誰もいないかと思って歌ってました」
 エクスは顔を赤らめた。実際のところ、自分が歌いたくて歌ったわけではないのだが、自分が歌っていたという事実に変わりはない。
 エルフの少年はくすりと笑って、構いませんと言った。
「お隣、いいですか」
「あ、はい」
 エルフは波をあまり立てず、湯へ沈んだ。エクスは真横に現れた小さな頭を見下ろす。彼は人ひとり分程度の距離を取って座っていた。
 広い湯舟なのに、なんでわざわざ近寄ってくるんだろう。
(文句でも言いたいのか? 皮肉を言いに来たとか?)
 エクスは内心首をひねった。
「声が綺麗ですね。先ほどのエルフの民謡も、ウェディの方が歌うと非常に美しく聞こえます」
「はあ。ありがとうございます」
 褒められた。エクスはますます心の中で唸る。
 よく見てみれば、少し不思議なところのあるエルフだった。一つにくくった髪は上質な紫の絹のようだが、その中に何房かやや黒ずんで縮れた部分がある。下半身だけを覆う温泉用水着でなく、全身を覆う水着を着ているのも特徴的だ。
「今日は空いているんです。風送りが行われると噂だから、連日儀式の前に用件を済ませてしまおうと頑張っている旅の方が多いのだと聞きます。その影響かもしれませんね」
「へえ」
 このエルフも旅人なのだろうか。地元アズランの民は家に温泉があると聞いたから、ここに入りに来ている時点で、この地の者ではないのだろう。
 可憐な横顔がこちらを向いた。その前から彼の頭頂部を見つめていたエクスは、図らずも目を合わせる形になる。
「二人、ですね」
 銀の瞳が、つと細くなる。
 二人? エクスは辺りを見回した。
(確かに、オレとこの人の二人きりか)
 何を言い出すのだろう。どぎまぎしてきた。
「ま、まあ、そうっすね」
「あなたの中にいるのは、二人。主なその体の持ち主になっているのは人間の魂のようですが、そのほかにももう一人、そもそもの持ち主だったウェディの魂が共存しているように見えます」
「ええ……ええ!?」
 エクスはぎょっとして立ち上がった。ざぶりと、大きな波が立つ。
「え、アンタ、オレが本当は人間だってわかるのか!?」
 エルフは自分の人差し指を唇に添えた。エクスもつられて、口を片手でふさぎながらもう一度座りなおす。
「私はツスクルの庭のイムといいます。あなたは?」
「オレはエテーネ村のエクスだ」
「なるほど。では、もう一人のあなたは?」
 イムが尋ねる。
「え?」
「もう一人の、あなたです」
 エクスは周囲を見回した。何度見ても誰もいない。
「さきほど歌っていた方のあなたですよ」
 イムはなおもエクスを見つめて言う。何を言っているのかと返そうとした時だった。
「なーんだ。バレちゃったのか」
 エクスの「口」が勝手に動いた。
「僕? 僕はレーンの村のエクスだよー」
 イムはおお、と感嘆の声を漏らした。
 だがそれ以上に驚いたのは、当のエクス本人だった。
「しゃ、喋った! ついに喋ったな、コイツ!」
 エクスは自分の口に両手人差し指を突っ込んで、横に引っ張る。喋れないはずなのに、口は曇りもせずに流麗な声を発した。
「あはは、エクス、僕の体をそんなにいじめるなよ」
「いじめられてたのは俺だよ! やっぱりもう一人いたんだな!? 好き勝手に歌ってくれるせいで、最初の頃はすっげえハラハラしてたんだぞ!」
 エクスは口から手を放して喋った。話しかけるべき相手が目の前にいないので、辺りをきょろきょろと伺う。
「お前、どこにいるんだ。姿は見せられないのか?」
「そうさ。僕の──今は君のだけど──体に、一緒にいるんだからねえ」
 自分自身の口がひとりでに答える。それから両方の口の端を上げて、なおも言う。
「安心して。君が僕の存在を声でしか感じられないように、僕も君の思考は読めない。僕らの体が家で、僕と君の魂は別々のものとして一緒にその中に存在している。シェアハウスみたいな感じだな」
「そうなのか」
 エクスはくりかえし頷いた。元の体の持ち主の方が、今の状況をよくわかっているようだ。
 横で眺めていたイムが、面白そうに言う。
「うまく共存できていますね。普通の人が見れば別々の人格が一つに宿っていることなど気づかないでしょう。完成度の高い落語のようです」
「落語って?」
 エクスは尋ねた。
「一人で何人もの人物を演じ分けながら行う演芸です。コントを一人でやるようなものです」
「……さっきのオレが、はたから見ると自分と対話してるようにしか見えなかったってこと?」
「はい」
 エクスは頭を抱えた。一方で口は勝手に喋る。
「わあ、痛々しい」
「他人事みたいに言うな。お前もだからな。なんならそもそもこの体はお前のなんだから、レーンの村出身のお前が変な奴に見られるってことだぞ」
「僕はいいよ。でも君は気にするんだろ? だからこれまで、人がいないタイミングか、君がにわかウェディだってことがバレそうなタイミングだけ、僕が話してたんだよ」
 知らないうちに気を遣われていた。何なんだこれは。
 自分がはたからどう見えるのか、無性に気になる。鏡を見ようと立ち上がった。
「あ、ダメだよ」
 レーンのエクスが制止したが、一歩踏み出した。
 突然、頭が大きく揺れた。
「う」
 立っていられなくなって、体が崩れ落ちていく。体が落下するまでの間に驚いたようなエルフの声と、あーあという自分の声を聞いた。
「煮魚になっちゃっ──」
 ばしゃんとしぶきの上がる音を聞きながら、エクスは意識を失った。






 目を覚ました時には、もう深夜になっていた。
 エクスは宿の客室にいた。部屋の窓から見える夜空はすでに白み始めている。
 部屋のドアを開けて入ってきたエルフの姿を見て、エクスは跳ね起きた。
「あ、あのっ!」
「ダメですよ。もう少し安静にしていてください」
 やんわりと上体を押し戻されて、エクスは再びベッドに横になる。
 エルフは手にしていた水差しを枕元に置く。
「のぼせたんですよ。覚えてますか?」
「……すみません」
 倒れた自分をイムが部屋まで連れてきて、さらに介抱までしてくれたようだ。
 いたたまれない。恥ずかしい。
「何かお礼がしたいなあ」
 エクスの口が勝手に動いた。
 うわ、と反射的に声を上げる。
「出た! 俺の幻覚じゃなかったのか!」
「半分死んでるようなものだから、間違いじゃないよ」
 返事を聞いて、言葉に詰まった。
 そうだ。そもそもの体の持ち主は事故で死に、その体を借り受けたのが自分なのだ。
 次の句に困るエクスをよそに、レーンの村のエクスはイムに話しかける。
「イム君さあ。温泉ではエクスが倒れちゃったから聞けなかったけど、わざわざ僕達に近づいてきたってことは何か用事があるんだろ?」
「どうしてそう思うんです?」
「なんとなくかな。話しかける理由って、仲良くなりたいとか、頼みごとがあるとか、つまり用事があるからでしょ。君もそう? 内容次第だけど、君にはエクスを助けてもらったから協力するよ」
「話が早くて助かります」
 イムは軽く頭を下げる。
「消えそうな命があったら助けるのは当然です。あなた達を助けたのは恩を売るためではありませんが、そもそも声をかけたのはお願いしたいことがあったからです」
 イムは用件を説明した。
 学びの庭という学舎で学んでいた頃の後輩が、ある試練に挑もうとしている。彼女の手助けをするようにアズラン領主タケトラから頼まれたのだが、イムは戦えない。
 だから、前衛としてパーティーに加わってほしいのだそうだ。
「試練って?」
「風送りの儀を行うため、また風乗りとして認められるための試練です。私の後輩はフウラといって、先日この町で風乗りを務めることを決めました」
 イムはエクスに地図を出すように言った。エクスが地図を差し出すと、エルトナ大陸の一角を指す。
「この町から東、湿原の中にスイの塔というものがあります。ここの最上階に封じられている風送りの神器を取って帰ってくること。それが試練の内容です」
「じゃあ僕達は、その試練の途中に万が一魔物が襲ってくるようなことがあったら助ければいいってところ?」
「はい。お願いできますか?」
「うん、やる」
「待てよ!」
 エクスは声を上げた。
「いくらこの体の持ち主だからって、多少はオレの意見も聞いてくれよ」
「あ、ごめん。頼まれごと、引き受けてもいい?」
 レーンの村のエクスは謝った。予想外に素直だ。
 面食らったエクスは咳払いする。
「えーと、いいんだけど。でもまだちょっと納得いかねえって言うか」
「どこが?」
「ボディーガードを雇うんなら、オレ達のほかにもっと頼りになる奴が酒場にいるんじゃねえの?」
 酒場は、少しだけ覗いたことがある。仲間を探したくて冒険者の名簿を見せてもらったのがだが、強そうな面々ばかりが並んでいて尻込みしてしまい、結局誰も仲間にできなかった。
 名簿にはたくさんの情報が書き込まれていた。自分のステータスや装備の情報だけでなく、異常耐性についてまで言及している者も多くいた。業界用語らしき暗号のような文字がびっしり書き込まれたコメント欄に、眩暈がしたのを覚えている。
 自分も誰かとパーティーを組みたいならば、戦闘と業界の定石を知り、相手にメリットを与えられるようにならなければ。道のりは長そうだ。
 そんな感想を抱いたのがつい先日。ジュレットの町でのことである。
 あれからさして冒険者レベルの上がってない自分に、急に酒場のスタッフにやとわれてのアルバイト以外で声がかかるなんて、信じられなかった。
 そう言うと、イムは顎に手をあてた。
「なるほど。実を言うと、最初はあなたの言うように酒場で強い仲間を雇おうとしていたのです。しかし、あなた達に会って気が変わりました」
「どうに?」
 レーンのエクスが尋ねる。イムは微笑んだ。
「少し、親近感を覚えたんです」
 エクスは自分の体を見下ろした。ウェディ族の体に、人間とウェディの魂がいる奇妙な状態。
 親近感など、どこに感じられるのだろう。
「いい意味で、旅慣れていないように見えるところでしょうか。それから素敵なお歌に癒されたので、もう少し一緒にいられたら嬉しいと思ったんです」
「はは、いやあ、ありがとうございます」
「君、いいセンスしてるなあ」
「偉そうだな」
 照れたそばからウェディの片割れが厚かましいコメントをしてきたので、つい言い返してしまった。エルフがくすくすと笑う。
「では、もう時間も夜明けに近くなりそうなので、今日はこの辺りで。クエストについては明日の午後、詳しくお話ししにきます」
 おやすみなさい、とイムは一礼して去っていった。
 エクスは部屋に一人きりになる。
 いや、厳密には一人きりではあるが、そうではない。もう一人同じ体にいるのだから。
「なあ、えっと」
 エクスは話しかけようとして困った。
 ウェディの片割れは、自分と全く同じ名前なのだ。別人の名前なのだと分かっているが、自分と同じ名前を呼び掛けるのはなんだか面はゆい。
「なぁに?」
 ウェディが答える。
「お前のこと、なんて呼んだらいい?」
「そのままでよくない?」
「それは嫌だ」
「なんで?」
「恥ずかしいだろ」
 ウェディはけらけらと声を上げた。エクスは文句を言いたかったが、片方が話しているともう片方が話せないのでできない。
「君はあまりものを感じる心を分かってないと思ってたけど、意外と繊細なんだな。いいよ。じゃあちょっと呼び方を変えようよ」
「どうに?」
「君も知ってると思うけど、僕の種族ウェディは伸ばす音の言葉が多い。君もレーンの村で名前を呼ばれる時、そう思ったよね?」
 そうだった。レーンの村のウェディたちは、エテーネの村人とは違った発音で彼の名を呼んだ。ややまったりした風の呼び方だったように思う。
「だから僕のことは、ウェディらしくちょっと伸ばした風にして『エークス』。君は『エックス』でどう?」
「なんでオレの名前はそうなるんだ?」
「それはほら、僕の芸術的勘が『それがいい』って言ってるからだよ。なんでこんな状態になったのかよくわからない、人間ともウェディとも言い切れない君にぴったりの呼び名だろ?」
 説明を聞いて、エクスは内心で唸った。
 最初は適当かと思ったが、納得できてしまった。
 正体の分からない「X」。ぴったりではないか。
「なんでオレ、こんなことになっちゃったのかな」
 つい、ずっと考えていたことが零れた。
 首が勝手に傾く。エークスのしぐさらしい。
「どういうこと?」
「ここにいること。それから、君の体に──」
 少し言い及んだが、思い切って言った。
「勝手に入り込んで、生き返ってしまったこと。エークスは死んだ後も、この体にとどまってたのか?」
「ううん、違うよ」
 エークスは利き手の親指で自分の体を指した。
「僕は確かに死んだ。今だって、半分冥府にいるよ」
「冥府? 死んだ後の世界のことか?」
 死後の世界は、どこか人の手の届かない遠いところにあるものだと思っていた。冥府にありながらこの世にもいるという、そんなことが可能なのだろうか。
「そうだよ。本当ならば完全にそっちに行ってるはずだったんだけど、こっちに僕をとどめる魂の楔ができたみたいで」
「なんだそれ」
「奇跡を起こすための願い。魔法で言うところの詠唱みたいなものかな」
「誰かがお前を引き留めたってことか?」
「君だよ」
「え?」
 エックスはきょとんとした。
 ずっと続いていたエクスの独り言が途切れた。エックスの戸惑いを察したのだろう。エークスは語る。
「君が生き返しの術を受ける時に願ったことが、僕が願っていた内容とすごく似ていた。僕も君も、『誰かを助けたい』と願っていた。そして君は、一緒にいられる誰かを求めていた。だから僕は半分冥府の住人でありながら、こうしてこのアストルティアに留まることができた」
 エクスの手が、エックスの意図なしに持ちあがり、握ったり開いたりを繰り返す。エークスが望んだのだろう。エックスにはその心情までは読み取れない。
 できるのは、自分の──自分の今借り受ける体の──口を使ってエークスが話す内容を聞くことだけだ。
「死んじゃったことについては、まあしょうがないかなーって思ってるんだ。これも一つの命の形、新しい変化。水の流れと一緒。ヒューザの手で人生を締めくくるのも、悪くないかなって思ったからね」
 エックスは彼の幼馴染である剣士の仏頂面を思い出した。
「お前、それ……」
「言わない、言わない! 僕が冥界の住人だってことも言わないつもりだからね。生きてるふりをし続けるよ」
 エークスの手が、エックスの頬を撫でた。
「この体はもう君のものだよ。君はこの体で君の好きなようにふるまっていってくれていいんだ。でも、レーンの村のみんなの前で、君が僕のふりをするのは無理だろうと思った。特にヒューザにはバレる可能性が高いし、バレたら面倒くさい。だからあの時は、バルチャじいちゃんと話す時以外はほどほどに僕が出しゃばった。けど、僕がアストルティアにこうして留まれているのは、君のおかげだ。僕はもう君の一部になったと言ってもいい」
 手が唇に触れる。口角が上がっている。
 エークスが笑っているのだと悟った。
「でも、両親の無事を確かめたかったし、君と一緒にいたらもう少しだけ外の世界を見てみたくなっちゃったんだよね。そんなわけで、一緒に旅していい?」
「それは、まあ、もちろんいいけど」
「やった! じゃあもう寝よう」
 エークスが瞼を閉じようとする。エックスは慌てて目を開こうとする。
「待てって。まだ話したいことがあるんだよ」
「それ今すぐじゃなくちゃダメ? 明日は風送りの儀の手伝いがあるんだから、もう寝ようよ。エルフの風送りって、一度見てみたかったんだよなー! 楽しみ!」
「ちょっとまっ──」
「ではここで一曲。聴いてください」
 エークスは子守唄を歌った。
 エックスは寝た。






+++



 風乗りの試練を手伝うため、フウラとスイの塔の前で待ち合わせることになった。
「フウラは山間の関所に行って、儀式に必要なもう一つの神具を取ってくるそうです」
「へえ」
 イムとエクスはアズラン地方を抜けて、スイの塔があるスイゼン湿原を歩いていた。
 先程まで青々としていた景色が、少し霧が漂いはじめたかと気づいた時には一変していた。どこもかしこも白い靄に包まれて、空すら窺えなかった。
「すごい霧だ」
 不意に目の前に背の高い草が現れ、エックスは慌てて脇に逸れた。途端に、靴底からじとりと音がする。ぬかるんでいるのだ。
 振り返ったイムが声をかける。
「気を付けてくださいね。スイゼン湿原には時折、底なし沼が現れるそうですから」
「えっ!?」
「冗談です」
 エックスが彼を見ると、にこりと微笑まれた。
 あまりに綺麗な笑顔なので、責める気すら失せてしまう。この美貌もエルフの魔法の一つなのかもしれない。
「池に近づきすぎなければ大丈夫です」
「なんだ。びっくりした」
 胸をなでおろすエックスを、イムはしげしげと眺めている。
 歩き始めると、イムが並列してなお視線をこちらに向けてくるのを感じた。落ち着かない。
「な、何か用ですか?」
「いいえ。エックスさんは、裏表のない素敵な方だと思っていました」
 イムは依然として微笑んでいる。
 上品な笑顔だなあ。エックスがつい凝視していると、エークスが言った。
「とーっても分かりやすいよねぇ」
「マジで?」
「自覚がなかったのですか?」
 考えたことがなかった。
 しかし、表情の変化が多いか少ないかと問われたら少なくはないだろうと思う。
「エックスは思ったことがすぐ顔に出る」
「表情が豊かなのは良いことです。フウラとも仲良くなれそうですね」
「フウラさんってどんな人?」
 エックスは尋ねる。
「素直でかわいらしい人ですよ。基本的に、誰とでもすぐ打ち解けられる方だと思います」
「オレとエークスが交互に喋り続ける状態でも?」
 エックスは足元の水たまりを見下ろした。
 いまだに自分のものだと信じられないウェディの姿が、真顔で見つめ返してきた。その後、にこりと口角を上げてウェディが喋る。
「あんまり気にならなくない?」
「喋り方が全然違うだろうが。お前は気にしなすぎなんだよ」
「確かに、長く一緒にいると気になるかもしれませんね」
 イムは手を打ち鳴らした。
「そうだ。落語愛好家だと自己紹介したらどうですか?」
「オレ、まったくそれ知らないんだけど」
「僕もちょっとしか見たことがないなあ」
 嘘はつきたくない。
 エクスが渋っているのを受けて、イムは問う。
「そもそも隠す必要など、ないのでは?」
「まあ、そうかもしれないけど」
 エックスは口ごもる。
 正直に話せば、自分がこうなった理由を説明しないではいられなくなるだろう。
(もし、オレがエテーネの生き残りだって話が広まったら)
 躊躇いがあった。あの冥王という魔族は、エテーネ人の殲滅に固執していたようだった。
(もし、オレを探し出して殺しに来たら)
「僕はたまに冥界の方に行かないといけないから、僕が話し続けるのは無理だよ」
 エークスが言った。イムは切れ長の瞳を少し見開いた。
「エークスさんは冥界とこちらを行き来しているのですね。ちなみに、冥界では何を?」
「ごめん、それは話せないや。コンプライアンス違反だって言われちゃう」
「冥界にコンプライアンスってあるのか?」
 思わずツッコミを入れてしまった。エークスが片手で口元を押さえる。
「あっ、やばい。今のなし。忘れて」
「いやいや忘れられないだろ。冥界に組織があるのかよ」
「とにかく、エックスが主に話してよ。僕は対ウェディ専門で話すから。ほら、見えてきたよ」
 エークスの言う通りで、霞の海を割くようにして背の高い影が現れていた。
 近づくにつれ、建物の輪郭が明らかになっていく。エックスは感心して、わあと声を漏らした。
「すっげえ」
 六角錐の立派な塔だった。屋根が六つ重なっており、角のどれもが全く同じ角度で反り返っている。木の壁は霧に晒され続けて黒ずんでいるものの、その風化がかえって縁の朽葉色と相まって、渋い味わいを醸し出している。
「あれがスイの塔です。まだフウラは来ていないようですね」
 イムが目を細め、桟橋の向こうの入り口を確かめる。確かに無人のようだ。
 エックスは塔を見上げていた。このような大きな建物を見るのは初めてだった。
「危ない!」
 不意に口が動き、体が回転した。
 驚いて固まるエックスの意に反し、手が背中に負った棍を掴み掌中で回転させ、振りかぶった。
 見ると、イムの死角から軍隊ガニが忍び寄っていた。
 エルフを押しのけて軍隊ガニを殴った。慣れた所作で棍を滑らせ、ハサミを弾き飛ばしてカウンターを食らわせる。エックスは納得した。
(そうか。この戦い方は、エークスのだったんだ)
 一体を屠ったエークスは素早く周囲を伺う。軍隊ガニが二体、水辺から這い上がって来ていた。
「仲間を呼ばれた。逃げよう!」
 エークスはイムの手を掴んで走り出した。
 軍隊ガニは三体、四体と増えていく。呼ばれた一匹が新しい一匹を呼び、こちらの行く手を阻もうとする。
 エークスはカニの間を縫って桟橋を目指す。追いすがろうと、軍隊ガニの一匹がイムに向けてハサミを伸ばした。イムは盾を掲げて弾く。
 しかしその反対から飛びかかった軍隊ガニが、エークスが掴んでいたイムの腕を割く。
 衝撃で手が離れる。腕を抱えるイムに、無数のハサミが迫る。
 エークスも魔物を追い払おうと手を伸ばした。
「やめて!」
 少女の声がした。
 赤い甲羅が宙を舞う。エークスはとっさに伏せて、吹き飛ばされた甲羅たちを躱す。
 姿勢を低くしてイムの傍に駆け寄りながら、闖入者の正体を確かめた。
 カニの群れに突進しているのは、大型の四つ足動物達だった。エークスは目を丸くする。
「カムシカ?」
(本当だ)
 エックスは驚いた。
 カムシカはアズランの森だけに住む特殊な鹿だ。エルトナ神を乗せて走る聖なる獣として、アズランのエルフたちに大切にされている。
(どうしてこんなところに?)
 エクスが疑問に思う間にも、カムシカ達は手分けをして魔物を追い払っていく。
 エルトナ建築の甍に似た立派な角は攻撃力もなかなかのもののようで、一撃を受けた軍隊ガニたちは、派手な水音を立てて川に落ちた後、上がってこなくなった。逃げたのだろう。
 そうしてエックスたちの目の前で、ついにカムシカたちは魔物の群れを一掃した。
 カムシカ達は頭を回して周囲の静寂を確認すると、しずしずとエクスたちの方へ歩み寄ってきた。
「な、なんだあ?」
 エックスの声がひっくり返った。顔色一つ変えず迫るカムシカ達は、下から見上げると迫力が増して怖い。
 しかし隣のイムは、口元をほころばせた。
「これはこれは」
 カムシカ達の向こうから、軽い足音が聞こえてきた。
「ちょっとどいてよ! イムさまの様子が見えないじゃない!」
 尖がった少女の声が響くと、カムシカ達が示し合わせたように左右に割れた。
 王の御前に控える兵士よろしく、カムシカ達が整列する。
 その中央を、ぬいぐるみを抱えたエルフの女児が転がるように駆けてきた。
「イムさまー!」
 女児は春の新芽色をした髪を靡かせて、イムに飛びついた。
「大丈夫? わっ、大丈夫じゃない! ケガしてる!」
「平気ですよ。フウラのおかげで助かりました」
 イムは怪我を見て慌てる彼女をなだめて、自分に治癒の術をかけ始めた。
 一方エックスは、眼前に現れたのが次の風乗りだと知って唖然としていた。
(こんなに小さい女の子が、風乗り? どう見てもまだ子供じゃないか)
 己の傷を癒したイムは、フウラの頭に手を翳した。結った髪を乱さないよう、優しい手つきで彼女の頭を撫でる。
「よくここまでたどり着いてくれました。力をつけましたね」
「えへへ。だいぶカムシカに助けられちゃったけどね」
 嬉しげに笑う様もいとけない。いよいよ幼子に思える。
 しかし、カムシカを振り返った彼女の笑みが消えるのを見て、エクスは考えを改めた。
 大ぶりな瞳に影が差す。あどけない女児は、苦悩を知る少女に顔を変えていた。
「カムシカの子を助けようとして、お母さまは死んじゃった。事故だったのは分かってるけど、カムシカを見ると苦しくて、いつもみたいにできなくて……この気持ち、簡単には消えないみたい」
 でも、と彼女は微笑んだ。
「カムシカたちはお母さまのことを悼み続けてくれた。ひどい態度を取る私のことも助けてくれた。カムシカたちがいてくれたから、今イムさまを助けられた。だから私、前に進もうと思うの」
 フウラは踵を返し、トテトテとカムシカたちに駆け寄っていった。
 ここからカムシカはついて来られない。自分は一人で行くから、先に帰っていていい。
 そのような話をしているのが聞こえたが、カムシカ達はその場から動こうとしない。
「こんな私にここまでするなんて、カムシカってホント変なの」
 フウラは大きく息を吸い込み、強く目を瞑った。
 そして勢いよく頭を下げる。
「ここまで助けてくれて、ありがと!」
 カムシカの方を見ないまま体の向きを変えて、エクスたちの方へ駆け戻る。イムとエクスを見上げ、もう一度頭を下げた。
「自己紹介が遅くなってごめんなさい。アズランのフウラです。ご協力、よろしくお願いします!」
 









 風送りの儀に使う風の衣は、スイの塔の最上階に収めてある。
 ひたすら上を目指して歩きながら、エクス達は襲ってきた魔物を倒していった。エークスが前線で戦い、フウラが後方から風の呪文で支援し、イムが治療を担当した。エックスは地図を見て道筋を確認し、イムたちと会話をした。
「イムさまと一緒にスイの塔に上る日が来るなんて、思わなかったなあ」
 五階まで来た時、フウラが言った。
「ずっと若葉の試みのことで頭がいっぱいで、イムさまにはいっぱい助けてもらっちゃった。なのに、結局合格できなくてごめんなさい」
「気にすることはありませんよ」
「私は知の試練を受けただけで、今年もすっごく難しいと思ったの。でも今年は三人も卒業者が出た。イムさまとアサナギは当たり前だけど、キュウスケまで合格するなんてびっくりしたよ」
「ふふ。キュウスケはある意味、学びの庭におさまる人物ではなかったんだと思います」
「ええ、そう?」
 フウラが溜息を吐く。
「イムさまはやっぱりすごい。それがわかってたら、私も違ったのかなあ」
「若葉の試みに合格することがすべてではないですよ。ねえ、エクスさん?」
「はい?」
 エックスは二人の前を歩いていた。急に話をふられたので驚いて振り返ると、横に並んだ二人がこちらを見つめていた。
「あなたの出身地には、試練のようなものがありましたか?」
「ああ、うーん。あったかな」
 エテーネの方にはなかったが、身体の主だったエークスの住むレーンの村ではシェルナーを決める試練があった。
「シェルナー決めって、本当にやってるんだ」
 レーンの村で体験したことを説明すると、フウラが驚いたように言った。
(俺はシェルナーすら知らなかったけど)
 エックスとしては、フウラが知っていることの方が驚きである。学びの庭というところで学んだのだろうか。
「シェルナーの試練は、愛し合う者達を確かに結びつけることのできる者を選ぶために行われます。試練は、そのように何かを成すためにあるもの。受からなくても、受からなかった人自身がダメな人であるというわけではありません」
 イムが語ることを聞きながら、エックスはジュレットの町で待つヒューザのことを思い出していた。
 彼はシェルナーになれなかった。しかし、自分より力が劣っていたとは思えない。
 ジュレットでの揉め事を調停できたのは、ヒューザのおかげだ。エックスは天涯孤独の寂しさに苦しむソーミャに、寂しさと向き合わせるような真似はさせられなかった。かと言って、町の人々の子猫を殺すべきという要求を退けることもできなかった。
 ヒューザだったからできたのだ。身寄りのいない苦しみを知り、一つの筋を持って強く生きていこうという意思を持ち、実行しようとする彼だからできたことなのだ。
「私は──」
 イムがフウラを見る目は優しい。
「どんな形であれ、君が生き生きと過ごせる場があるならば嬉しい。ツスクルにいる時の君は、成績こそふるわなかったかもしれませんが、私たちを楽しくさせてくれましたから」
「ええっ。嘘、いつ!?」
 フウラは飛び上がった。本当に心当たりがなさそうなその様子に、イムだけでなくエックスまで笑ってしまう。
こういうところなのだろう。
「さあ、着きましたよ」
 一行はスイの塔の頂へとたどり着いていた。
 道は突き当り、大きなヒスイの扉がそびえている。フウラが真正面から扉を見上げ、唾を飲み込む。
 風の衣──風乗りだけが着ることのできる衣を収めたこの扉を開けられる者は、次の風乗りとして認められる。
 フウラは、恐る恐る手を伸ばした。






+++



「これはまずいよ」
 根を握りしめたエークスが呟いた。何がだろう、とエックスは思う。
「この魔族、まだ余力を残してる」
 フウラが開いた扉の向こうには、予想外の風景が広がっていた。パステルに統一した、クラシックな少女趣味のインテリアで統一された部屋を見渡して、本当に風の衣があるのかと困惑した。
 しかしそこの部屋の主である丸っこい怪物──プスゴンというらしい。首に巻いたピンクのリボンが目立つ──は風の衣を他人に渡さないために何者かに雇われたらしく、衣を渡そうとしない。
 それどころかフウラが握りしめていた人形にとてつもない魅力を感じたらしく、それを奪い取ろうと戦いを仕掛けてきた。
 ここまでの展開だけでもう充分意味が分からなかったのに、プスゴンと戦って倒せそうかというところで、エークスの先の台詞である。エックスは混乱した。
「そうか?」
「うん。だって、こだわりのインテリアをまったく壊さないようにして戦ってるんだから」
 言われてみれば、戦いの始まりにプスゴンが壁沿いへと移動させたインテリアは全く壊れていない。
「ええ。かなり力をセーブしている印象があります」
 後方に控えるイムが肯定する。
「ほら、来ました」
 プスゴンの体が赤く膨れ上がる。
「ぐおおお! お前ら、本気でオレを怒らせたな!」
 怪物は赤い口腔をさらけ出して吠える。
 エークスが身構える間もなく、突進してきたプスゴンの腕で仰向けに倒された。
「やい、オレの絨毯によだれの一つでも垂らしてみろ。窓から放り投げてやる!」
 胸を足で踏みつけられて、身動きが取れない。
 抜け出そうともがくエークスをよそに、プスゴンはイムを殴る。イムは盾をかざして衝撃をいなした。
 手の届かぬところへ逃れてエークスに回復呪文をかける彼へ、プスゴンはイチゴ型の爆弾を次々と投げる。詠唱途中だったイムは、爆発をまともに食らってしまう。フウラが悲鳴を上げる。
「イムさま!」
「下がっていてください、フウラ」
 イムは物陰から飛び出そうとしてきた彼女を制する。
「私たちはまだ大丈夫。守備力の高い装備を持たない君が前に出るのは危険です」
「でも……」
 イムはフウラを突き飛ばした。
 彼のもとへイチゴが飛び込み、爆発する。
 盾で逸らしきれず、イムは片膝をついて胸を押さえた。咳き込んだ口の端を血が伝う。
「ツスクルの庭に来る前から、ずっと持ってましたね。それだけ大切にしてきた人形だと知ってます。フウラが大切にしてきたものならば、私も大切にしたい」
「どうして」
 フウラは色味の失せた唇で呟いた。
「どうしてそこまでできるの? ただの人形なんだから渡しちゃえ、って言わないの?」
 イムは自分を回復して、再び投げつけられた爆弾を躱す。
 苦戦するエークスに重力強化呪を施す。
 エークスは棍をめいっぱい伸ばし、プスゴンのリボンに引っ掛けて解いた。
「ああっ、オレのチャーミングリボンちゃん!」
 プスゴンが気をそらした隙に、足の下から抜け出した。
 エークスは背後からプスゴンを殴る。多少揺れたが、びくともしない。
 回転したプスゴンが、エークスをぎろりとねめつけた。
「朝一時間かけたセットを、よくも……こうなったのは」
 血走った目が、さらに奥──スティックをかざしたイムに焦点を絞った。
「お前のせいかぁッ!」
 プスゴンがイムへ迫る。
 イムが逃げようとする軌道を読み、エクスが割って入る。だが、重量も力の差も明らかである。抑えきれない。しまいには脇に押しやられてしまった。
 プスゴンとイムが対峙する。丸太のような腕が上がり、イムは盾を構える。
 その時、突如両者の間にぽんと放り込まれたものがあった。
 人形だ。
「イムさまをいじめないで!」
 フウラが叫ぶ。人形を投げた姿勢のまま、怪物をにらんでいる。
 しかし彼は、エルフなど眼中にないようだった。
 プスゴンは自分に投げられた人形を前にしばし我を忘れていたようだったが、やがて恭しい手つきで人形を持ちあげると、ふわふわの体を堪能するようにほおずりした。
「ふん。今回はハニーに免じて、このくらいにしておいてやらぁ!」
 怪物は大切そうに人形を胸に抱え、エークスたちに鼻を鳴らしてみせた。そして人形を両手で支え、窓の外へ飛び出して行ってしまった。
 残された一同は立ち尽くした。
(なんだアイツ)
 特に片割れと仲間たちが戦う様を眺めていたエックスの頭は、疑問だらけだった。
 風の衣を守る話はいいのか。
 ヤツを雇ったのは誰か。
 どうやってこの部屋に入り込み、どうしてここまでオリジナルデザインにリフォームしたのか。
 引きずるような足音で、エックスは我に返った。イムが部屋を横切り、奥の小高いところに据えられた宝箱の前へ歩み寄っていたのだ。
「きっとこれです」
 この中に、風の衣がある。
 イムは半身を翻した。衣装の前側が、爆弾を喰らったせいかはだけている。エックスはぎょっとした。
 あらわになった上半身。首から腹までの、未踏の雪原のような肌の上に、蛇がのたうったような黒々とした線が刻まれていた。
「イムさま。それ、今の戦いで……?」
 フウラが声を震わせた。
 イムは眉を八の字にして微笑んだ。
「違いますよ。もとからあったものです。見苦しいものを見せてしまって、すみません」
「でも、ツスクルにいた頃にはなかった」
 エクスの体が勝手に動く。エークスが装備袋を探り、中にあった絹のローブを差し出した。
「これ。よかったら羽織って」
「ありがとうございます」
 イムは絹のローブに袖を通した。その様を黙って見つめていたフウラが、おずおずと口を開く。
「もしかして、イムさま。若葉の試みの前に古代呪文を復活させようとしてたって噂、本当だったの?」
 エルフたちは目を合わせた。エックスにはよく分からないが、二人の間に何かしら通じ合った空気を感じた。
 無言のイムに、フウラは話し続ける。
「イムさま。若葉の試みの前の日の夜から、変わったよね。アサナギが言ってたわ。知の試練での回答が適当だったって。学びの庭の先生たちとあつい議論をかわしてきたイムさまとは思えないほどで、最初は手を抜いてるんじゃないかって怒ってた。でもその後の力の試練で、ずっと使ってた両手杖も持たずにスティックで戦ったんだよね? アサナギも戸惑ってたわ。詳しく聞きたかったけど、ヒメアさまからイムさまのことをお尋ねしないように言われていて、聞けなくて」
 フウラは近寄って、彼の髪の黒く縮れた箇所を指で梳いた。
「この髪も。若葉の試みの時は帽子をかぶってたから分からなかった。顔色も、すごく白くなって。お身体が悪いの? イムさま、つらいの?」
「大丈夫ですよ」
 イムは目を細めた。
「黙っていてすみません。私もこの件については軽率に話さないよう、ヒメア様から仰せつかってました。でも、ツスクルに籍を置かなくなった君にならば、もう話していいでしょう」
 イムはエクスの方を向いた。
「身内の話になりますが、僕があなたにお声掛けした理由にもつながります。よければ、聞いて行ってくれませんか」
「わかった」
 エックスが答える。
 イムは天井を仰いだ。
「あの夜、私はエルトナ大陸に近づく滅びの時を回避するための古代呪文を復活させようと、術式を練っていました。しかしその途中で……お恥ずかしい話ですが、術式の上に汗を垂らしてしまいまして、壊れて暴走する術式によって命を奪われたのです。
「ヒメア様──ツスクルの庭にいらっしゃる、世界樹の巫女様です──に後から伺った話ですが、本来私はそこで死ぬさだめだったそうです。しかしそのさだめが微妙にずれてしまった。ひょんなことから、偶然にも『死にながらにして生きながらえる』体の状態になってしまった。よって、『死ぬ』というさだめには従いながらもこの世にとどまっているという、摂理を乱す存在になってしまったのです。
「無理に心身と精神をアストルティアにとどめた影響で、私はそれまで使えていた魔法を使って世界に干渉することができなくなりました。実を言うと、若葉の試みの時も意識が朦朧としていて、すべてがどこか夢の中の出来事のようだったのです。まともな状態に戻れたのは、ツスクルを出てからでした」
 イムは絹のローブからこぼれた首筋の、黒く浮き上がる幾何学模様をなぞった。
「これは代償です。摂理に背いた、その印。一刻も早く古代呪文を復活させようと、不十分な状態で神霊の領域に手を伸ばした、私の驕りに対する罰だったのかもしれません」
「違う」
 フウラは顔をゆがめた。
「イムさまはいつも一生懸命勉強して、修行も頑張って、エルトナ大陸を魔障の危機から救うんだって言ってたじゃない。そんなイムさまに罰だなんて、そんなのないよ。ひどいよ」
「ありがとう。フウラは優しいですね」
 イムは微笑んで、後輩の頭を撫でた。
「君はきっと良い風乗りになる。風のようにすぐ変わってしまう、繊細で激しいところも少しだけあるけれど、その心の底はいつも、世界樹の新芽からこぼれた息吹のように優しくて純真です。苦しみを乗り越え、向き合いながらも共生しようとしていくあなたならば、アズランだけでなく王都カミハルムイ、やがてはツスクルの村にまで届くような正しく清らかな風を作りだせるかもしれません。アストルティアにふりかかる災厄を退け、人々の苦しみを和らげることもできるでしょう」
「イムさま……」
「昔からあなたは、風の魔法についてだけは卓越したセンスを持っていましたね。それがいつも不思議でしたが、ここまで来て納得しました」
 イムはフウラの肩に手を置き、首を横に振った。
「大事な人形を差し出させてしまって、すみません。そして、再会しても何も言わず黙っていたことについても、すみませんでした」
「ううん。いいの」
 フウラはもじもじしている。
「あのね、イムさま」
「なんですか」
「昔してもらったみたいに、ぎゅってしてもいい?」
 イムが頷く。フウラは小さな手を彼の背に回して、慎重に抱きしめた。
「イムさまの体、前より冷たい」
「でも、生きてるから大丈夫」
「うん。そうだね」
 フウラは額を彼の胸にこすりつけた。
「カムシカはあんまり好きじゃない。ケキちゃんを離すのも嫌だった」
「すみません」
「でも私、アズランのみんなが大好きなの。お母様の好きだったアズランが壊れちゃうのは嫌。それにイムさまが死んじゃったら、本当に嫌」
 震える小さな肩に、イムの手が沿う。
「ああ。イムさまが生きてて、これからも生き続けられて、本当によかった……!」






+++



「いやー。惨敗」
 エークスが小声で呟いた。エックスも小声で返した。
「あんな丸っこい怪獣にまともに太刀打ちできなかったなんて、マジでやばい」
「このままじゃあ、巨猫族との戦いなんて勝てる気がしないな」
「でもヒューザが待ってるだろ。どうする?」
「手紙を出そう。もうちょっと修行してから戻るから、持ちこたえてって」
「平気か?」
「ヒューザなら平気。僕、ヒューザと手合わせしてまともに勝てた試しがないんだよね」
 ここは風の町アズラン、領主タケトラの屋敷前。ウェディの「エクス」の声帯を使って小声で会話する二つの魂は、傍から見ればただの独り言の激しいウェディである。
 しかし今は周囲に人がいないから大丈夫だ。いや、大丈夫だと思いたい。
「イムくんがオレ達に目を付けたのって、同じ黄泉がえり同士だったからなんだな」
「それにしてもよく僕達がそうだって見抜いたよね。僕は分からなかったのに」
「ああ。それな、フウラの話だと、イムってツスクルの学びの庭始まって以来の天才なんだって」
「うわあ。それは気づかれるわけだよ」
 二人で話していると、タケトラの屋敷からイムが出てきた。領主とフウラの親子に別れを告げてきたのだ。
「お待たせしました。では、行きましょうか」
「本当に一緒について行っていいの?」
 エークスが尋ねる。イムは大きく首肯した。
「もちろんです。私はもう戦えませんから、前線に立ってくれる方がいるととっても助かります。こちらこそ、カミハルムイまでついてきてもらってしまっていいのですか? 人を待たせているという話でしたよね?」
 イムはこの足で、エルフ族の王都カミハルムイに向かうことにしていた。そちらの方から悪い風が吹いてきているから、調査に行きたいのだという。
 エークスは片手の親指を立てた。
「とやかく言われるかもしれないけど、ウェナ諸島の海みたいに心が広い大大大親友だから大丈夫」
「うーん。少し怪しそうですが、私も戦力がいてくれるのはありがたいので、このままお願いしますか」
 三人は欄干を歩いていく。
 そうして、心地よい追い風を背に受けながら、風の町を後にした。







(了)