06 まもの使い




「こっちだ」
 アベルが呼ぶのに合わせて大地を蹴った。
 敵の頭は見事に反対側を向こうとしていて、剣を振りかぶるレックに気づかない。
 振り下ろした剣が、抵抗なく敵の身体に入った感触があった。
 肥大して腐った果実のような青紫の巨体が、転々と地面を転がる。
 風船が割れるがごとく、黒い霧を立ち上げながら暗黒神ラプソーンは消えた。
「討伐達成です」
 ナインが告げる。
 レックは大きく伸びをした。
「うーん。久しぶりに気持ちよく勝てた!」
「予想以上に危ないところもなく勝てて、びっくりしたよ」
 エイトが気の抜けたように笑う。得物の槍を背負いながら、アベルの方を向く。
「これも、アベルさんの立ち回りがよかったお陰かな?」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど」
 アベルは笑う。
「僕は特別なことなんて何もしてないよね。回復して、たまに攻撃してたくらいだった」
「でも、アベルさんがラプソーンの攻撃をうまく見切って動いてくれたから、俺たちもうまく動けたんだと思う」
「それ! 俺も思う!」
 レックはアベルの背中をばんばんと叩く。
「アベルは絶対避けなくちゃいけない大技が来る時、一番最初に下がり始めてただろ? だから俺達も一緒に下がって避けられた。誰も死ななかったし、安定して戦えた理由はそこじゃねえ?」
「ラプソーンは、マダンテのような回避しなければならない技を連発する癖がありました。僕も大きな魔力が動く時は気づけましたが、そうでない時もアベルさんは早く対策のための行動ができていました」
「俺達それぞれの攻めるチャンスの瞬間を教えてくれるのも、早かったよね」
 ナインがアベルに近寄ってきて、不思議そうに顔を覗き込む。
「僕は天使の頃の名残で生体感知ができます。あなたもできるのですか?」
「そんなすごい技、できないよ」
 アベルははにかむように笑う。
「強いて言うなら、僕は敵味方関係なく、魔物を眺めてきた時間が長いから。何となく、次はこう動くかもしれないっていう想像をいくつかできるんだ」
「アベルは魔物使いだよな?」
「うん。レックのところみたいに、いろんな特技は使えないけどね」
 ラプソーンに挑む前に、彼の冒険者名簿を見せてもらった。
 職業欄には魔物使いとだけあった。しかしその職能は、レックの世界の魔物使いとは違った。
「アベルさんの能力は、魔物使いという職業によるものではないと思います」
 ナインは言う。
「アベルさんの固有の才能が、『魔物使い』という役割に近かったのではないでしょうか」
「まーた分かりづらい言い方する。もうちょっと簡単にしてくれよ」
 レックはナインの頭をかき混ぜる。ナインはされるがままの状態で、語りを続ける。
「今の戦闘の中で、アベルさんには優れた能力が少なくとも三つ見受けられました。一つは対象物を観察し、分析する力。次に俯瞰する力。最後に言語だけでない伝達力。これらがあるから、アベルさんが明確な指示を出さずとも、仲間が彼の動きから最善の選択を悟って動くことができます」
「ナイン君って、いつもこんなに褒めてくれるの?」
「うん。褒めるっていうか、趣味なんだろうけどな」
 アベルとレックは短い会話を交わす横から、エイトが口をはさむ。
「ナインの分析は面白いけど、もうそろそろリッカの宿屋に戻った方がいいんじゃないかな。遅れると、ノインやアレンがソロをおさえるのに躍起になって、最悪宿が壊れちゃうよ」
 彼の台詞を聞いて、ナインは溜息を吐いた。
「ごもっともです。あの三人が乱闘騒ぎになったら、セントシュタイン兵が動きかねないでしょうね……」






▶︎▶▶



 天使達によると、大魔王討伐のクエストも折り返しを過ぎているらしい。
 大魔王の地図は全部で十三枚。これまでに九枚の地図に記された位置にいる大魔王を倒した。
 つまり、残り四枚。あと四体を倒せば、異世界から発生した大魔王を倒したということになる。
 しかしここまで来て予想外の問題が発生した。
 Ⅳ番の世界からやって来た勇者ソロが、どうしてもリッカの宿外を拠点にして、一人で行動したいと言い出したのだ。
 ソロの言い分は、こうである。
「ピサロもエスタークも、俺のところの奴じゃねえってことが分かった。だからもうこのパーティーを抜けようと思う。で、まだ報酬は決まってなかったよな? じゃあ、俺がおねだりしてもいいだろ?
「この世界を一人で旅させてくれよ。三日もらえりゃ嬉しいが、最低二日は欲しいな。もちろん、泊まる宿はセントシュタイン以外の宿がいい」
 詳しく話を聞いてみると、ソロを勧誘しに行ったノインは報酬について詳しく話さなかったのだという。
 しかしナインは彼の要求を承認できないらしく、今日クエストが終わった後に話し合いをすることになっていた。
「彼の言うことにも一理あります。後払いならば、彼の労働に合った対価を支払うのが道理です」
 ラプソーン討伐から帰る道すがら、ナインはこの問題についてそう語った。
「僕が勧誘した皆さんには、それぞれご要望のレアアイテムをお渡しすることを事前に約束しました」
「ああ、そうだったな」
 レックははぐれの悟りとレア装備数点を、エイトは貴重な錬金素材をもらうことになっている。
「異世界の旅人がたった一人で世界を歩くことは、天界のルールとして望ましくない。これだけは、ソロさんの報酬として容易には許可できないのです」
「なんでだ? いろんな世界の奴が入り混じるなんて、どこでもよくあることだろ?」
 レックの冒険も、夢の世界にいた自分が現実の世界に行くところから始まったのだ。夢の世界の住人と現実の世界の住人が行き来することで、最終的にデスタムーアの脅威を退け、世界をもとの一つの形に戻すことができた。
 そう言うと、ナインは頷いた。
「それは承知しています。しかし、こうも考えられるはずです。そもそも異世界からデスタムーアが来襲しなければ──彼の配下である四魔王がやってこなければ、レックさんの世界の一連の事件は起きなかったのではありませんか?」
 返事ができなかった。
 その通りだ。
 デスタムーアの介入が自分の世界に与えた影響は、計り知れない。
 奴がレックたちの世界に干渉しなければ、両親であるレイドック国王夫妻の苦労もなく、各地でたくさん人が亡くなることもなかっただろう。
 一方で、あの世界があったことで救われた人もいた。
(俺だって、ムドーが現れなければハッサンやミレーユに会うこともなかった。他のみんなだってそうだ)
「ちょっとした変化が、こちらが予想した以上に大きく響くことが多いのです。その変化自体は、善でも悪でもありません。ただ世界の姿が頻繁に大きく変わってしまえば、一つの時代ではなく、世界そのものが不安定になって滅びかねません」
 ナインは語る。
「だから僕達は、異世界からの旅人の皆さんにリッカの宿屋を利用することをお願いしているのです。リッカの宿屋は、一般の宿とは活動の規模が異なります。世界宿屋協会のもと、異世界にも展開していますから、様々な不測の事態にも対処しやすいのです」
「そういうわけだったんだ」
 エイトがくり返し頷く。
「よく考えてみれば、一つの世界の中でもそうだよね。人の住む町に魔物が入ると混乱が起きるし、人間同士でも、お互いの生きてきた場所や環境が違うと揉め事になることもある。そういうのが、異世界同士になると、もっと大きくなるってわけか」
 ナインは晴天を仰ぐ。
「ノインは優秀な天使です。どんな窮地でも希望を見失わない、器の大きさがあります。でも、それは別の見方をすれば見積りの甘さでもあるのです。この件では、残念ながら彼女の特性が少し厄介な事態に結びついてしまいました」
「ソロに、他に欲しいものがないか聞いてみたのかい?」
 アベルの問いに、天使はかぶりを振った。
「それがまったくないようなのです。ソロさんにとって利益がありそうなもの、目新しそうなもの、どちらを提案しても駄目でした。欲しいのは、この世界で一人、自由に歩く権利だけだそうです。また、一人旅ができるまでは帰らないとも言っていました」
「セレシア様って女神様がこのクエストを頼んでるんだろ? 相談してみたのか?」
「それが、セレシア様は僕の判断に任せると仰るのみでした。創造神グランゼニスなき今、この世界のことは、この世界の住人に任せると」
「それは困っちゃうね」
「はい」
「ソロは、なんでそこまで一人きりにこだわるんだろう?」
 エイトが呟いたのを最後に、全員口を噤んだ。
 レックには、ソロがそこまで単独行動にこだわる理由が分からなかった。レックは一人旅も好きだが、一緒に歩いてくれる人がいればもっと楽しいだろうと考えている。宿にこだわりもない。ソロは、自分にはないこだわりを持っているということだろうか。
 ふと周りを見ると、自分だけでなくナインやアベルもその答えを考えているように見えた。ナインの眉間には、珍しく小さな皺が寄っている。アベルはどこか遠くを眺めていて、考えているようにもぼんやりしているだけのようにも思えた。





 レックがソロと過ごした時間は非常に短い。例のデスピサロら大魔王三体戦後の七日程度だ。
 その短い時間の中で分かったことは、勇者ソロが皮肉屋で、勇者や運命という言葉を嫌っているということだった。
 たとえば、先日大魔王三体戦が終わった後に放った彼の台詞はこうだ。
「別に、オメーらを助けに来たわけじゃねえの。エスタークの奴の行動が気になって追ってたら、ここに着いたってだけだ。天使のねーちゃんたちは偶然行き会っただけだぜ」
 勇者の鑑だと評すると、顔をしかめられた。
「けっ。そう呼ばれるくらいなら、助けるんじゃなかったわ。俺ァ、アンタらと違って因縁のヤツらを追っかけてるだけなんだからよ」
 もっとも、勇者であるレックやサンドラにひどく当たることはしなかった。
 非常にくだけた人柄で、軽妙な冗談交じりの語りでこちらを愉快な気分にさせてくれる。
 それでも話す内容の端々から、以前アレンが言っていたように、このクエストに対する不信や反抗心が感じられた。
「なんでこのクエストに参加したか? 殺したはずの奴らが自分の家まで来たら嫌だろうが。世界の安全とか、女神とか、関係ねーよ」
「この世界にも、もっと強ぇ奴らがいるだろ。何で俺らじゃなくちゃいけねーんだ?」
「勇者ってこんなにいるんか。ふーん。ご苦労なこった」
 このような調子である。
(あの言い方は、アレンみたいな根性まっすぐ、正々堂々っていう奴からすれば、腹立つだろうな)
 レックは怒りを感じなかった。彼の言い分にも、もっともなところがあると思ったからだ。
 むしろ、それを前面に出してきた彼の度胸に感心した。今天使たちに協力している面子は、困っていると言われたら手を差し伸べずにはいられない者、強敵と積極的に戦おうとする者ばかりだ。
 そういった面々にたくさんの疑惑を突きつければ、疎まれるのは目に見えている。
(ソロ、帰っちゃうのか)
 彼が望むのならば仕方ない。
 だがレックは、もう少し彼と話してみたかった。
 周囲との折り合いを損ねても、自分の信じた道を貫く姿勢と、窮地で見た不敵な戦い様を、もう一度眺めてみたかった。






 リッカの宿にたどり着く。時刻はちょうど正午に差し掛かるところで、食堂は混雑していた。
 レックたちは昼食を摂り、そのままVIPルームの一つへ向かう。
 部屋にはもう、自分たち以外の六人がそろっていた。大テーブルにはアレフ、アレン、サンドラのロト一系とノインが集い、暖炉前のロッキングチェアにはソフィアが座っている。ソロは、一番奥のベッドで横になっていた。
「お待たせしました。無事、ラプソーンを討伐できました」
 ナインが報告する。
「お疲れ様でした」
 ノインが立ち上がり、お辞儀をする。
 寝転がっていたソロが立ち上がった。
「じゃ、お疲れのところ悪ぃが相談させてくれや。俺だって、もう脱走して天使ちゃんや王子様と鬼ごっこするのは勘弁なんでな」
 歩み寄ってきたソロを、大テーブルについていたアレンがぎろりと睨む。
「なら、さっさと帰れよ」
「遊びのある人生ってのも楽しいもんだぜ、王子様?」
 ソロは唇の片側だけを持ちあげる、左右非対称な笑みを浮かべた。
「せっかく遠いところまで来て、苦労して勇者って仕事もしたんだ。ちょっとくれェ遊ばしてくれたっていいだろ。この世界、カジノねえの?」
「小さなものなら各地にありますが、大規模なものはありません」
 ナインが返事をすると、ソロは形の良い眉を上げた。
「へえ。じゃあそれを探してみるのも楽しいかもな。許してくれるか?」
「ソロさんお一人だけで旅をしてくださっても結構ですが、宿泊は必ずリッカの宿で行ってください。それさえ守ってくだされば構いません」
「ずっとそればっかり言ってるな」
「確かに、デスピサロ・エスターク・ミルドラース戦におけるソロさんの活躍は素晴らしいものでした。あなたに来ていただけて良かった。しかし、こればかりは譲れないのです」
 ソロは肩をすくめた。
「なんで、お前らや世界宿屋協会と一緒じゃねーと動き回れねえんだ?」
「異世界からの旅人は、この世界の住人最低一人と一緒に動いてほしいのです。天使界が存在していた頃からさだめられていたことです」
「監視つきって感じだな」
「そう思われるのも仕方ありませんが、異世界からやって来たあなたの存在が、時空間の迷子になるのを防ぐためにもなります」
「俺は迷子になったって構わねえんだよ。いつも、悔いのねえように生きてるからな」
 ソロはナインの正面に立った。両手をポケットに突っ込んだ姿勢のまま、ナインを見下ろす。
 対してナインは、会話を始めた時からずっと、彼の紫水晶のような瞳を見つめていた。
「それでも許さねえってことは、他に理由があるんだろ」
 低い声でソロが問う。ナインは彼の目を見据えたまま、言う。
「時間軸や、世界の存在が乱れるのを防ぐためです」
「オメーらを生んだグランゼニスだかセレシアだかって神さんも、ここから手ェ引いてるんだったよな? なら義理立てするこたァねえ。俺一人くらい、動き回っても変わらねえよ」
「それが許されない理由は、あなたが一番ご存じのはずです」
「へっ。俺を呼んだからには何もかもご存じってわけか」
 ソロは皮肉に笑う。
「とにかく、縛られるのはけむったくてやだね。無理矢理帰そうってんなら、こっちも無理矢理居座らせてもらうぜ」
「どうなさるつもりですか」
「口じゃケリがつかねーの、分かってんだろ」
 長い指が、とんとんと腰に帯びたものを叩いた。
 ドラゴンを形どった鍔の剣。天空の剣という、天空の勇者だけが帯刀できる武具である。
 ナインは片手を自分の顎に添えた。
「市街での戦闘は好ましくありませんね。ソロさんを害するのも気が引けます」
「ねえ、ちょっといい?」
 手が上がった。
 全員の目が、手の主であるアベルに集まる。
「僕はこの世界の人間じゃないけど、提案してもいいかな?」
「はい、もちろんです」
 ナインが頷く。アベルは片手でソロを示す。
「この世界のクエストで彼は呼ばれてきた。彼が希望する報酬は、リッカの宿以外の宿屋を拠点にして、この世界を一人で歩く権利。普通なら許されないだろうけど、彼はクエストでも十分に活躍してくれている。だから、特別な条件をつけて報酬を与える」
 彼の不思議な双眸が、この一室にいる全員を順に映す。
「この、異世界を超えてきたパーティーの中の三人と一対一で戦って、ソロの方が多く勝つ。これができたら、この世界を自由に歩き回る権利をあげたらどう?」
「つまり、最低二人に勝たないといけないということですね」
「難しいのではないか? 一対一での戦いとはいえ、彼は三連戦することになるんだぞ」
 アレフが口をはさむ。アベルは首肯した。
「それくらい難しくなくちゃダメなんだよ。世界の存在に関わることなんだから」
「いいでしょう」
 ナインが言う。
「世界の理はもちろん大切ですが、今回のクエストは神霊の命のもと発動しています。契約の延長に認められる権利とみなし、特例を認めましょう」
「おいおい、本気か?」
 ソロは台詞こそ疑うようだが、口元が笑っている。乗り気らしい。
 ナインはアベルに向き直った。
「アベルさん、審判をお願いします。」
「僕でいいの?」
「ええ。僕とノインはソロさんの契約者です。審判として中立ではありません」
 ナインは一同を見回した。
「僕らの問題に巻き込んでしまって申し訳ありません。ですが、もう一つ皆さんにお願いがあります。審判とソロさんの対戦相手を、あとお二人ずつ、引き受けてくださいませんか」
 彼は勝負の内容を話した。
 勝負は一対一。互いに好きな武器を用いての白兵戦にすること。
 勝者は、戦闘の中で決められた条件を達成した方にする。条件とは、審判があらかじめ選手の耳につけたスライムピアス──不正がないように、審判が道具屋で新品を人数分購入しておく──を破壊することである。
「命を取るような事故が起きないよう、尽力します。ノインが皆さんに、常時盾ガードの術をかけます。これでスライムピアスが壊れることはあっても、命を落とすことはないはずです。できますね、ノイン?」
「はい」
 ナインの視線を受けて、ノインは身を縮こまらせながら首を縦に振った。
(怒ってる感じじゃないからこそ、怖いよなあ)
 彼女の不注意から起こった事態ではあるが、レックは少し同情した。
「報酬は、皆さんの次のレベルアップまでに必要な経験値でいかがでしょう。無理強いはいたしません。審判と対戦を引き受けてくださる方はいらっしゃいませんか」
「俺が対戦相手になっていいか?」
 最初に名乗りを上げたのはアレンだった。
「こいつとは一度、白黒はっきりつけときたいんだ」
「やめとけよ」
 ソロはにやにやしている。
「もう散々追いかけっこしただろ。十分白黒はっきりついてるぜ」
「うるせえ!」
 アレンが噛みつく。
 ナインが他の面子を見やると、ソフィアが立ち上がった。
「じゃ、あたし審判やる。ソロの顔なじみが一人くらい入ってたっていいよね?」
「構いません。その方が公平なジャッジができることもあります」
「あれ。戦う側じゃないのか?」
 レックが声をかけると、ソフィアは肩を竦めた。
「ソロとの戦いって、いまいち燃えないんだよね。だからパス」
「オメーなあ。そこは友達だからとか言えよ」
 ソロが心外そうな顔をしているのに構わず、ソフィアはレックに問う。
「レックこそ戦わないの? こういうお祭り、好きそうなのに」
「ラプソーンと一戦してきたばっかりだからなあ」
「俺も、他にいなそうならば審判をやってもいいよ」
 エイトが軽く挙手をする。
「俺はソロとほとんど面識がなくて、ナインと過ごしてきた時間の方が長い。ちょうどいいよね?」
「そうですね。お願いします」
 ナインが頭を下げた。
「他に対戦相手となってくださる方はいらっしゃいませんか?」
 まだ何の役にもついていないのは、レック、アレフ、サンドラの三人だけである。
 アレフが言う。
「俺はソロと戦うより観戦がしたい。学ぶことが多そうだ。駄目だろうか」
「それはもちろん構いません」
「ぶれねえな」
 レックは笑って呟いた。
 ソロはナインに尋ねる。
「これで俺と、アレン、レック、サンドラが戦うってことで確定じゃねえの? まあ、三人目と戦う前に俺が二勝して終わるだろうけどな」
「待てって。俺は戦わないぞ」
 レックは念を押した。ソロとの手合わせは楽しそうだが、今は自分が出る幕ではないような気がしていた。
 ナインが頷く。
「承知しています。希望していない方を戦わせたくはありません。ソロさんと戦う一人目はアレンさんで確定とし、三人目の相手は二戦した結果で決めましょう」
「二人目は誰だよ」
「僕です」
 少年の大ぶりな瞳は澄んだ鏡のように彼をくっきりと映して、一切の揺らぎも伺えない。
 彼らの近くにいたレックは、彼の瞳に映ったソロがわずかに身じろぎしたのを見た。
「僕はこの世界の住人で、あなたをこの世界に招き入れたきっかけを作った人間でもあります。審判としては適しませんが、僕が戦うのは当然ではないでしょうか」
「分かったよ」
 ソロは顔を逸らし、片手をひらひらと振った。
「では皆さん、勝負は早い方がいいでしょう。今から一刻後、セントシュタインの城門前に集まりましょう。全員で、会場に移動します」
 ナインは異論がないか尋ねる。全員賛同して、解散となった。






▶︎▶▶



 レックたちはセントシュタイン平原へ集合した。
 平原の中心に、見慣れない黄金の、細長く大きな箱がある。近寄っていくと、箱の端で向き合って話をしていたナインと男がこちらを振り返った。
「これで全員か?」
 男が問う。見事な逆三角形の身体をした、炭鉱夫のような格好の壮年である。
「はい。そろいました」
「よぅし、行くか!」
 二人が箱の一部についたドアを開け、中に入るよういざなう。レックたちは少し高い位置にある扉に飛び込んだ。
 箱の中は、部屋になっていた。絨毯の敷いてある床以外、どこもかしこも金色で、見たことのないゴツゴツしたパーツが組み合わさっている。
「これは何なんだ?」
 レックはナインに訊ねたつもりだったが、答えは壮年の男から返ってきた。
「よくぞ聞いてくれたな! コイツぁ呼ばれりゃいつでもどこでもすぐ参上、世界最速の車こと天の箱舟よ」
 男は白い歯を見せ、レックの手をがっちりと握って大きく振った。
「俺はアギロ。この天の箱舟の運転士だ。こんなにお客さんが乗るのは久しぶりで嬉しいぜ。サンディ! 出てきて座席まで案内してやんな」
「ハーイ」
 アギロの横に小さな光が瞬き、少女の妖精が現れた。小麦色の肌に金髪巻き毛の妖精は、ぱちりとウインクする。
「九名様、ごあんなーい!」
 半透明な羽を動かして飛ぶ彼女の後ろを、天使たちを除いた九人がついていく。
 入ってきたのとは別の扉をくぐる。その向こうには、先ほどまでいたところと同じような黄金の部屋があった。違うのは、長椅子が並んでいる点だけである。
「ご乗車アリガトーゴザイマース。アルバイトのサンディが、お客様にご案内をしまーす」
 サンディというらしい妖精は、レックたち全員が部屋に入りきると話し始めた。
「つーか、フツーのお客さん来るの初めてだから、何言ったらいいかわかんないんですケド。でもアタシってばチョーデキるバイトだから、テキトーに言っちゃお!」
(この子は本当に妖精なのか?)
 レックはサンディをまじまじと見つめた。
 羽さえ生えていなければ、ただのミニチュアガングロギャルである。
 ギャルは頬に指を当てて、考え込むように斜め上を見ている。
「えーっと、ご案内そのイチぃ。この箱舟は、空を飛びまーす。テンチョーがルートとか組んでるんで、お客サマの寄りたいところには行けないからよろしくネ」
「それ、乗らせてから言うのか」
 アレンの顔が引き攣った。その隣ではアレフが目を輝かせている。
「空を飛ぶのは初めてだ。楽しみだな」
「どんだけのんきなんですか。見ず知らずの人間に命握られてるってことですよ?」
「ナインの知り合いのようだから大丈夫だろう」
「アレフさんは飛んだことがないから、そんなことが言えるんですよ」
「ご案内そのニぃ」
 言い合うロト子孫コンビを無視して、サンディは額の前に二本指を翳す。
「箱舟がそろそろ飛ぶので、座席に座るとすってんころりんしなくてイイと思いまーす」
「早く言え!」
 半ば悲鳴のような声でアレンが言い、いち早く席についた。
 皆が長椅子に座る中、ソロだけが壁に寄りかかって立っている。レックは頭だけ回して話しかけた。
「座らないのか? 俺の隣、空いてるぞ」
「離陸くらい、なんてことねーだろ」
 ソロがそう返した直後、急に身体が重くなった。
 レックは座席にしがみついた。後ろの席のソフィアが壁にかかった幕を持ちあげた。
「わあ、すっごーい!」
 そこには窓があって、急激に遠ざかる大地が見えた。ついに箱舟が飛び立ったのだ。
 ソロは上昇する圧力に耐え切れず、床に転がった。一回転したところで肘をついてその場にとどまり、そばにあった手すりに摑まる。
「こんなに荒い運転するなんて、聞いてねえぞ」
 悪態をつきながら立ち上がるソロを見て、サンディは笑っている。
「すってんころりんするって言ったの、信じなかった方が悪いっての。マジうける」
「おい、テンチョーってどいつだ。バイトの教育がなってねえ」
「キャハハ、クレーマーとかマジうける! キャハハ」
 箱舟が上昇するのをやめ、重力が安定しはじめた。ソロがサンディへと歩み寄ろうとすると、妖精は素早くドアのあちら側へと飛んでいった。
 ソロは舌打ちする。彼の袖を、近くに座っていたアベルが引いた。
「これから試合があるんだから、怪我をしたらいけないよ。座ったらどうかな」
「その言葉、あのガングロクソバイトから聞きたかったぜ」
 ソロはアベルの隣にどっかりと腰を下ろした。
 それを見届けたレックは、安心して外の景色へ視線を移した。すでに箱舟はとんでもない高度に達しており、周囲には雲が、眼下には海が広がっていた。セントシュタインの姿はもうなく、箱舟の後方にうっすらと大陸が浮かんでいる様子が窺えるだけである。
「この箱舟っていう乗り物は良いね。いっぱい人が乗れて、速くて、すっごく便利」
 ソフィアが窓に張りついて、弾んだ声を上げる。
「あたしも気球に乗って世界を回ったんだ。高い山を楽に越えていけて、徒歩よりずっと楽だったけど、スピードは速くないし、八人も乗っちゃうと座るのもやっとって感じだった」
「それで、加速がもっと緩やかだと予想していたのか」
 アレフがソロを窺う。ソロは足を組んで頬杖を突き、答える。
「おう。馬車と気球しか乗ったことねえんだから、仕方ねえだろ」
「重てぇもんを上にやるのに相当な力が必要なのは当たり前だ」
 アレンがソロを横目で見ながらあてこする。
「人間も、一人で高いところから落ちるより、三人でかたまって落ちた方が勢いも加わって早く落ちるだろうが」
「なるほど。実際に落ちて怖い目にあったから、先ほどあれほど怖がっていたのか」
「ああ、もう!」
 素直に納得するアレフの台詞をくらったアレンは頭を抱えた。今度はソロがにやにやする番だった。
「この乗り物は、何の力で動かしてるんだろう」
 レックは箱舟の壁に手をあてた。
「俺の世界にこういうものはなかったから、さっぱり分からないな。空を飛ぶための乗り物なんて魔法の品くらいしかなかった。あとは、ペガサスの力を借りたくらいか」
「俺のところは、伝説の神鳥の力を借りたよ」
「私も、不死鳥の背に乗せてもらって空を飛んだわ」
 エイトが言い、サンドラも頷く。
「なんていう鳥? 俺のところはレティス」
「私の方はラーミア」
「あれ、もしかして同じ?」
「ピンポンパンポーン!」
 先頭の扉が開き、ギャル妖精が飛び込んできた。きちんとソロの手が届かない天井近くへ飛び上がり、両腕を広げる。
「お客サマにご案内しまーす。もうすぐ目的地に着くよ!」
「早いな」
「ってことは、今度は浮力か」
 アレフが感嘆し、アレンが座席を握りしめる。
 サンディは首を横に振った。
「ううん。今度はうちの転送装置で、シュンってルーラっぽい感じで降りるだけだよ」
「最初からそうしてくれよ」
「だって、急にキャトられて箱舟についたらビックリするじゃん。ナインなりの気遣いじゃね?」
 サンディは一行の頭上を飛び回っている。魔力の残光がふり注ぐ。
「つーか、お客さんたち。あんな場所に何の用? アタシがナインから離れて神の国でバイトしてる間に、ナインと会ったワケでしょ? まだ二か月も経ってないじゃん。見かけによらず、それなりに強いってワケ?」
「なあサンディ。俺達はどこに向かってるんだ?」
 サンディがレックの鼻先へ降りてきた。目が丸くなっている。
「マジ? 聞いてないの?」
「わあ。紫の大陸だ」
 ソフィアにつられて、レックも外を見た。箱舟の行く先に、妙に暗い色をした大地が現れていた。
「毒の沼が多いな」
「険しい土地だね」
 アレフ、アベルがそれぞれ感想を述べる。レックは箱舟が徐々に高度を下げていることに気づいた。
「お待たせしました」
 先頭車両からナインがやって来た。次いで、レックの前にいるサンディへ問う。
「観光ガイドはできましたか?」
「時間が足りないっての」
「そうですか。まあいいでしょう」
 ナインは一行に向き直った。
「試合場に到着します。降りる準備をして、こちらにお越しください」
「なあ、ナイン。降りる場所って、もしかしてあそこか?」
 レックは今やはっきりと見えてきた暗い大地を指さした。
 その大地は峻険な山々に囲まれた、広大な荒れ地だった。中央に廃城が聳え立ち、周辺には瓦礫と毒沼と黒い草がまばらに散らばっている。沼のない平らな土地もあるが、その土は灰のような生気のない色をしていた。
「はい。そうです」
「すごく荒れてるっぽい場所だけど、降りて大丈夫なのか?」
「ええ。皆さんのレベルでしたら、生息する魔物たちも恐れて寄ってこないでしょう。大気も無害ですし、弱体化の呪いもかかっていません」
 ナインはレックに微笑みかけて、眼下の荒れ地を指した。
「これ以上心配をおかけしないためにも、降りる前にここがどのような場所かをご説明しましょう。サンディ、お願いできますか」
「えー、そこでアタシに投げるぅ?」
 サンディは溜息を吐いた。
「じゃ、説明するわ。あれはガナン帝国領。あのぼろぼろのお城には王サマたちが住んでて、魔物になって世界征服しようとしてたケド、ナインに負けて滅びちゃった。だから今は廃墟ってワケ」
「そういう次第です。旅人も住人もいません。いるのは危機察知能力の高い魔物たちだけ。存分に戦うのに、ここ以上にぴったりな場所はないかと」
 ナインは車両の扉を開いた。
「さあ、降りましょう」






 ガナン帝国領に足を踏み入れた。砂は脆く、つま先を軽くつけるだけで砕けて、白い煙をまき上げる。
(灰みたいだ)
 足元に注目するレック。その袖を、アレフが引く。
「始まるぞ」
 灰の野原の中心に、赤いレンガの足場が見え隠れする十字路がある。
 そこを中心として、ソロとアレンが対峙していた。
 十字路の北端、ガナン城を背景にしてエイト、アベル、ソフィアが並んでいる。レックはアレフに引っ張られ、サンドラ、ナイン、ノインが待機している十字の南端にやって来た。
 アベルが問う。
「二人とも、スライムピアスはちゃんと付けられてるよね?」
 ソロは右側の髪をかき上げ、アレンもフードの右側を軽く持ちあげて見せる。新品のスライムピアスが光っている。
「ルールは確認するかい?」
「必要ない」
 アレンがフードを下げ、剣を抜く。氷のような双眸は、不敵に笑うソロを睨んでいる。
「右耳のスライムピアスを壊した方が勝ち。髪が切れても、片耳が落ちても、減点もペナルティもなし。そうだな?」
「うん。僕らは止めないけど、本当にいいんだよね?」
「ルールとしては問題ありません。大きなケガをしないようにするために、ノインがいるわけですが」
「頑張ります」
 ノインは装備しているメビウスの盾を握りしめる。ソロは彼女を一瞥し、白い歯を見せた。
「構わねーよ。どうせ回復呪文で治る」
「ケガしてもてめーの責任だからな」
 アレンが言うと、ソロは首を傾ける。
「てめーってのはどっちのことだ?」
「俺自身のことだ」
「ノインでも、俺でもねーのかよ」
 ソロは愉快そうに言う。
「王子サマのそういうストイックなとこ、俺ホントに好きだぜ」
「俺はお前の茶化すクセが嫌いだ」
「茶化してねえよ。真面目に言ってんだって」
 口角を吊り上げたまま、ソロは逆手で天空の剣を抜く。
「俺とアンタは、この世界に来てからずっと一緒に戦って来た。シドーを倒して、エスタークを倒して。ちょっとした雑魚を蹴散らしたこともあったか。いつも前線にいたアンタは知らなかっただろうが、俺はアンタを後衛として見てた。アンタが思うよりちゃんと、戦うアンタを見てたつもりだよ」
「それで? 俺を見切ったと言いたいのか?」
 アレンは剣先をソロへ向けた。
「御託はいい。さっさと来い」
「アンタ、マジで戦いてぇだけなんだな」
 ソロは喉奥で笑い、身をかがめた。
「始めッ!」
 アベルの一声で、二人は衝突した。
 刺突しようとしたアレンの剣を、ソロも突くように剣を繰り出して、いなす。
 躱されたと分かった途端、アレンはソロに体当たりする。ソロは一直線に背後へ吹き飛んだ。地面に仰向けに倒れる。真っ白な砂埃が湧きあがる。
「くっそ」
 悪態を吐いたソロは、煙幕のような砂埃の中を起き上がろうとして刮目した。
 アレンが剣を構え、突っ込んでくる。
 ソロは即座に横へ転がった。頭の形にくぼんだ砂の跡を、ロトの剣が貫いた。
 立ち上がり、大きく跳躍して距離を取る。アレンは大地から剣を抜き、後ろ斜めの方向へ逃れたソロの方へ頭を向けた。
「避けなくたって、回復呪文で治るんだろ?」
「それと、てめーの一撃をまともに喰らいたくねえのは別よ」
 口の端を引き攣らせている。
 アレンは力強く大地を蹴り、再びソロへ肉薄する。
 ソロは剣を弾き返し、下がる。繰り返し迫るロトの剣を何度も跳ね返しながら、アレンが近づくたびに後退して距離を取る。
「守ってるだけになってるな」
 レックは彼らの戦いを、胡坐を掻いて見物していた。隣に佇むアレフが答える。
「無理もない。遮るものの何もない場所でアレンの勢いを躱し続けるのは、難しい。あまり接近しすぎれば、先ほどのように力でねじ伏せられる」
「障害物があれば、別なのでしょうね」
 二人の様子に集中しながらも、ノインが言う。
「ソロさんは、戦いの中で扱うものが多ければ多いほど本領を発揮するタイプです。仲間、敵、地形、時刻。一見不利に思える環境さえ、有利に生かせる状況を考え出して実現する柔軟な発想が、彼の持ち味なのです」
「使える障害物は何もない。力も体力もあるアレンとの一対一は、長期戦になるほど不利なはずだ。どんな対策を練ってくるか、興味深いところだな」
 アレフは、剣を振り払ってはあちこちへと後退してまわるソロを目で追っている。
 ソロが片手を翳す。空から雷が迸り、アレンを強かに打つ。
「おっ。喰らった?」
 レックは身を乗り出した。ピアスは砕けただろうか。
 アレンはまとわりつく紫電を、剣の一振りで払った。風が吹き、フードに隠れたアレンの右耳をあらわにする。
 スライムピアスは無事である。
「邪魔だな」
 アレンはフードをわしづかみ、放り投げた。
 短く刈り込んだ銀髪が現れる。
「せっかくフードで隠せてたのに、いいのか?」
「隠していたつもりはない。むしろ、よく見えるようにしてやったんだからもっと突っ込んで来い」
「無理だろ」
 レックはつい言ってしまい、慌てて口を押えた。
 幸い、戦う二人には聞こえなかったようだ。
「じゃあ、そうさせてもらうわ」
 ソロはへらりと笑って詠唱する。
 アレンが飛びのいたあたりで、イオラの瞬きが弾けた。
「遅ぇよ!」
 アレンはソロに向けて剣を振り下ろす。
 ソロが躱すと、剣先がその背後にあった石塔をかすめる。石塔は、まっ二つに割れた。
 レックの背筋が冷える。
「あんな一撃をいなし続けてたのかよ! 守るので精いっぱいになるわけだ」
「だが、守るだけでは勝てない。それはソロとて分かっているはずだ」
 アレフは一心に試合を見つめている。
 アレンはソロへ矢継ぎ早に剣を繰り出しながら、吠える。
「どうした。いつもみたいに攻めてこないのか?」
「お、それ今言っていいのか?」
 ソロが剣を弾きながら笑う。
「後悔しねえ?」
「ほざいてないで、さっさと本気を出せ! お前の攻撃はぬるすぎて退屈だ」
「言ったな?」
 ソロはアレンを突き飛ばした。
 しかしアレンほどの威力は出せず、よろける程度で終わってしまう。
 そこへ詠唱をかぶせる。
「ギラ」
 火焔が足元を舐める。アレンはせせら笑った。
「そんな弱い呪文で、俺に勝てると──」
 言葉が止まる。
 いや。
 レックは立ち上がった。
 見れば、アレフだけでなくナインとノインも身を乗り出していた。
 アレンが立ち尽くし、時折痙攣している。
「あれはなんだ。動けないのか?」
「麻痺毒だ」
 戸惑うアレフに、レックが答える。
 ノインが目を丸くしている。
「ソロさんに麻痺攻撃の手段はなかったはず。いったい、いつ」
「いえ、攻撃ではありません」
 ナインが首を横に振った。
「アレンさんが立っている場所。見覚えがありませんか」
 レックたちはアレンとソロが向き合うあたりを眺める。
 これと言って変哲のない、灰色の大地が広がっているだけだ。
 戦いが始まった赤レンガの十字路から、やや西に離れた箇所。
 本当に、何の特徴もない。
「忘れたか? なら、上手いこといったんだな」
 ソロはアレンに歩み寄りながら、片方の口角を上げる。アレンは双眸こそ怒りに燃えているようだが、口を開閉させるだけで何も話せない。
「俺が最初に倒れた場所だ。アンタが突っ込んでくる前に、地面にまだらクモ糸と毒蛾の粉を仕込んでおいた。倒れた俺をアンタが刺しに来た時は、罠を壊されるじゃねーかと思ってハラハラしたが、うまく作動したみてえでよかった」
「そうか」
 レックは気づいた。
 今アレンが立っている位置にあったはずのソロの跡は、いつの間にか消えてしまっている。
「やたら逃げ回って魔法を使ってたのは、アレンに罠の場所を分からなくさせて、警戒させないようにするためだったのか」
 痙攣するアレンの耳元へ、ソロは片手を伸ばす。
「アレンよぉ。アンタ、まっすぐすぎるんだよ」
 彼のスライムピアスを外し、手の中で一度回してから宙へ放り投げた。
「だから俺みたいなひねくれ者に、足元をすくわれるのさ」
 高く舞い上がったスライムピアスは、炎に包まれて溶けた。
「勝負あり。勝者、ソロ!」
 審判たちが頷きあい、アベルが宣言した。






 アレンの麻痺はなかなか治らなかった。ソロ曰く、効くか分からなかったので三倍量を仕込んでおいたらしい。
「容赦ないなー」
「だって、アレンだぜ? 並みの人間の罠が効くか分からないだろ」
「納得だわ」
 ソフィアはソロと軽口をたたきながら、硬直しているアレンをアベルたちの近くへ運ぶ。エイトが満月草を煎じたものを処方して、治療をする。
 治療されたアレンは、すぐに口を開いた。
「くそ。卑怯だぞ」
「勝ちは勝ちだ」
 アレンはソロを睨みつけたが、それ以上は何も言わなかった。
 ソロは十字の東側に戻る。
 反対側には、すでに次の相手が待っていた。
「ソロさん。準備はよろしいですか」
 十字の西で、ナインが問う。
 ソロは肩を竦めた。
「オメーこそいいのか?」
「はい。よろしくお願いします」
 ナインが頷くと、動きに合わせて右耳のスライムピアスが揺れる。
 レックは、改めて両者の装備を確認する。
 どちらもいつもの軽装だ。
 装備している武器は、ソロが天空の剣一本。ナインは鞭一つ。
(へえ。ナインって、鞭も装備できるんだ)
 これまでに使っているのを見たことがあるのは、弓と剣くらいだったか。
 考えて、気づいた。
「そういえば、ナインが防御以外で前線に立つのって、初めてかも」
 言うと、アレフが食いついてきた。
「本当か? だとすると、不利ではないか」
「なんで?」
「ソロは呪文が幅広く使えるから後衛にいることが多かったが、片手剣での近接戦も得意だ。仮にナインがうまく鞭や魔法を使いこなしたとしても、接近戦に持ち込まれればひとたまりもないぞ」
「あー。どうだろうな」
 レックは頭を掻いた。
「アレフ。ナインが持ってるあの鞭、見たことある?」
「始めて見た。有名なのか?」
 ナインはまだ腰に巻き付けているだけなので、はっきりとは見えないが、あの特徴的なデザインは忘れようがない。
 三叉に分かれた長い尾。縄状の編み込みの、艶やかな光沢。
「グリンガムの鞭っていうんだよ。攻撃力は鞭の中で最高峰。魔法使いを肉弾戦要員に変えられる武器だ」
「そんなものがあるのか」
 驚くアレフに、ノインが付け足して聞かせる。
「あれはただのグリンガムの鞭ではありません。錬金によって強化された、超グリンガムの鞭です」
「超がついただけじゃ、いまいち凄さが分かんねえ」
「見てもらった方が早いです」
 ノインはそれだけで説明を終えた。
 ナインとそっくりな挙動をする天使だが、こちらの方がやや雑駁かもしれない。
「カッコいい武器、持ってんじゃねーか」
 ソロもグリンガムの鞭の存在を知っていたらしい。
 ナインは莞爾と笑う。
「手に入れるまでに苦労しました」
「俺にもくれよ」
「ソロさんは鞭を装備できないというお話でしたよね?」
「よく覚えてやがるな」
「もちろん。クエストを達成するため、この世界に助けに来てくださった皆様のステータスは、きちんと覚えております」
「そう言えば、アンタは天使だったっけな。驚きの記憶力だが、人間じゃねえなら当たり前か」
「さあ。僕は、純粋な人間でも天使でもありませんから、記憶力がどの程度のものであるかを知りませんので」
 二人は会話している。どちらも笑顔で、声に敵意も感じられない。
 荒涼とした背景と装備した武器さえなければ、これから戦おうとしているとは到底思えない様子だった。
(酒場で、一緒に飲み食いしながら会話してた方が自然な感じだな)
 眺めながら、レックはそんなことを考えた。
「天使に鞭を持たれると、怖くてしゃーねえよ」
 ソロは大げさに我が身を抱く仕草をしている。
「何故ですか?」
「調教されるみたいでよ」
「ソロさん」
 ナインはにこやかに言う。
「僕は天上の支配人でも、管理者でも、神でもありません。そういった者達は、地上の者に直接働きかけはしない傾向があります。僕はこうして地上を動き回っていますから、そういった方々とは違う存在であるのは明らかでしょう?」
「そうだな。直接は、手を下さねぇわな」
 ソロはなぜか復唱した。深くなった笑みに、何やら意味のありそうな雰囲気を感じ取った。
 しかし、正体が分からない。
「彼らは、なぜ戦い始めないんだ?」
 アレフも不思議に思ったようで、首を傾げている。
 レックはあたりを見回した。
 ノインは戦いが始まらないことを察したのか、盾を下ろしている。その傍にいるサンドラはいつもの無表情で、二人の会話を聞いているのかも分からない。
 一方、向かいにいる審判の三人は、二人のやりとりを真摯に聞いているようだった。エイトは眉根をひそめ、アベルは唇を引き結び、ソフィアは神妙な顔をしている。
(なんだ?)
 レックは戸惑った。
 好戦的なソフィアが試合開始を急かさないのも意外だったが、それ以上にエイトとアベルの表情が気になった。
「ナイン。お前は何者なんだ」
 ソロが問う。
「ノインにも聞いたんだが、いまいちよく分からなかった。俺はここに来てから、ずっとそれが気になってたんだ」
「僕はナインです」
 ナインは答える。
「僕らについて説明をするのは、非常に難しいのです。何故なら、僕やノインのような存在は、このⅨ番の世界軸以外に存在しないからです。僕らの生まれた星について説明しても、分かりづらいでしょう。比喩を使ったところで、正確に言い表せるわけでもありません。ですが、あなたを呼んだ者として、説明に最善を尽くしましょう」
 少年は自らの胸に手をあてた。
「僕は、天使でも人間でもない者です」
 ナインは語る。
 かつて、この世界には創造主グランゼニス神とその愛娘セレシアがいた。
 グランゼニス神は天地を拓き、あらゆる生き物を創った。
 しかし、彼が最後に創った人間には悪の側面が強かったため、彼らを失敗作とみなして滅ぼそうとした。
 それを、身を挺して守ったのが女神セレシアである。
「セレシア神は自らの身を世界樹に変えました。そして、人間の持つ清き心を自らに捧げ続ければ、自分が元通り神として復活できるように仕組みました。身をもって、人間が清き行いのできるものであることを証明しようとしたのです。
「グランゼニス神はセレシア神の決意を知り、人間を滅ぼすのをやめました。セレシア神の願いを叶えるには、人間の清き心を、世界樹に捧げる仕事をこなす者が必要です。そのためにグランゼニス神の創った清き存在が、天使でした。天使は善の指針をもって人間を見守り、彼らが善の方向へ向かえるよう手助けをし、人間の感謝の心から生まれる星のオーラを集めて世界樹に捧げました。
「これが、この世界における天使です。人間の清き心によってセレシア様が復活した後、彼らは神の国へ還っていきました。もう人間に関わることもありません」
「ふーん。天使ってものについては分かったわ」
 ソロは腕を組む。
「ヒトをキレーにしようとするのが天使ってことな。じゃあ、お前は? なんでお前だけ、こうやって人間に混ざって生きてるんだ?」
「ソロさん。もう、お分かりのはずです」
 中性的な顔は、変わらぬ笑みを湛えている。
 レックは、妙な胸騒ぎを覚えた。
「ソロさん。改めて、お礼を申し上げさせてください。この度はクエストにご協力してくださり、ありがとうございました。あなたのお力を借りたおかげで、大魔王を五体倒し、パーティー全滅の危機も免れることができました。あなたに来ていただけて、本当によかった」
 少年は丁重に頭を下げる。
 ソロははじめこそきょとんとしていたが、ややあって噴き出した。
「なんだよ。褒めたところで、俺は変わらないぜ」
「ええ。あなたに要求を下げる意思がないことは承知しています」
 ナインが頷く。
「接した時間は短かったですが、あなたは興味深い人でした。大切な仲間として、好きです」
「へえ。そいつはどうも」
「ソロさん」
 少年は、繰り返し名前を呼ぶ。
「僕は、この世界を愛しています」
 ソロが両眉を上げた。
 レックは混乱した。
 急に、何を言い出すのだろう。
「この世界にも以前、存亡の危機が訪れたことがありました。人間に裏切られた天使が、人間を魔物化し、自らを裏切った人間を含めた世界を滅ぼさせようとしたのです。その活動拠点が今いるこの場所。ガナン帝国でした。妄執はかの天使の清き心を研ぎ澄まさせ、黒く染め、堕天へと至らしめました。
「僕は、その堕天使を屠りました。彼はもともと、僕の大師匠でした。師匠の師を天のもとへ召すのは、とても寂しかったです。しかし僕は、彼の目指す人間のいない理想郷を受け入れられませんでした。僕は、グランゼニス神の創造の御業の虜でしたから」
 ナインは語り続ける。
「世界は素晴らしい。全ては生まれた時から欠けており、欠けたものを追いかけて様々な形で求め合うのです。炎は木によって勢いを増し、木は水によって繁り、水は光陰が生じるところに激しく降り、光陰は確固たる土をもって輪郭を成し、土は炎より灰となって積もり出づるのです。動植物は自らの欠けていく形を補うために、美味しいものを食べます。人間は美味しいの感覚が狂っています。子らは全き親の似姿を求めて街灯を探し、羊飼いがアルカディアでないことを悟ると家に帰りたがりました。もう家が大蛇の皮になったことに気づかないまま! 家は六芒星になってすでに世界旅行に出かけているのです。子が浮かれたハネムーンの交歓によって銀河の流れ星になることは自明の理なのです。人魔聖邪光陰、節度なく生じて転じてせめぎ合う。だから世界は素晴らしい!」
 まるで、音の放流だった。
 うっすらと頬を染めた少年の、笑みを形どる林檎のような唇から、とめどなく言葉が溢れてくる。
 だが意味が分からないので、彼の台詞はただの音としてしか認識できない。
 それでも彼の嬉しそうな表情を見て、きっと大切なことを言ったのだろうと思ったレックは、もう一回頭の中で聞いた台詞を繰り返してみた。
(ダメだ。全ッ然分かんねえ)
 五秒くらいで諦めた。
 周りを窺ってみた。アレフとアベルは表情が固まっていて、アレンとソフィアとエイトは目が点になっている。サンドラは首を横に振っており、ノインは満面の笑みを浮かべている。
 高揚しているらしいナインは、満天に煌めく瞳をまっすぐソロへ向けている。
「僕が何か、分かりましたか?」
「……少なくとも、今考えたくなかったな」
 ソロが口の端をひくつかせた。
「戦う前に聞くんじゃなかった」
「つまり?」
「どうしても俺に言わせてえのか」
「孤独な星は投げかけた対象を求めます。果実を仄めかしたのはあなたです」
 不良勇者は、大きな溜め息を吐いた。
「意味なんざ、分かっちゃいねえよ。だがオメーの言葉だけで考えるなら、こうだ」
「はい」
「天使は神の示したキレーな理を求める。お前はキレーを汚すものも含めて世界を愛するという。ならお前は天使じゃねえ」
 堕天使だ、と。
 ソロは告げた。
「きっとその通りです。人間に裏切られた自分のトラウマから、世界の形を変えようとした大師匠と、僕は本質的に同じです。世界の形に執着するがゆえに、僕は天使としての位を捨て、人間界へ堕ちました。神の理の体現以外に執着した。一度に飽き足らず、二度も果実を口にした。その理屈で考えるならば、僕は堕天使なのでしょう」
 ナインは笑う。
 生まれたての赤子のように、屈託なく、柔らかく笑み崩す。
「どうしてソロさんの要求のためにこの試合を設定し、対戦相手として参加することにしたのか。せっかくですので、僕の意思を伝えておきますね。この世界の形が崩壊する危険性を恐れる一方で、異世界からもたらされる新たな創造を受け入れるのを星々が望んでいるのか、見届けたかったからです。
「全ては、創造主の成し給うた奇跡のもとに生まれました。大師匠が世界を滅ぼそうとした時、僕は奇跡が失われることが耐えられなかったために、どの存在からも切り離されて生きる道を選びました。後悔はありません。均衡を保とうと揺れる世界のすべてが愛おしく、大切で、羨ましい。これが僕の、渇きです」
 ナインは高らかに両腕をかかげた。
 中空に、魔力の白光を帯びた小さな球体が現れる。
「ソロさん、始めましょう。天使界の領域から外れた、この楽園の果てで、僕にあなたの意思を見せてください」
 宙に浮かぶ球体が増えていく。白、青、赤、黄、黒、緑──カラフルな球の群れを、レックは口を開けて眺めていた。
 ソロは舌打ちして剣を構える。
「アベル、始めろ!」
「いいのかい?」
「延ばしても仕方ねえ!」
 アベルが開始を宣言した。
 ナインの頭上に集まった七色の球が円を描き、ジャグリングするように回転してからソロ目がけて飛びかかった。
 ソロは天を仰ぎ、次々と降り注ぐ球を跳ねて避ける。躱された球は大地を抉り、高く粉塵をまき上げる。
「綺麗だねー」
 ソフィアが感嘆している声が聞こえてきたが、表情までは伺えない。ナインの放つ攻撃のせいで景色が濁っていて、遠方がよく見えないのだ。
「逃げないでください」
 ナインは嬉々としてカラーボールを投げ続ける。球は、すべて放たれてもすぐに空から湧いて出て、駆け回るソロを追って飛んでいく。
 枯れ木に赤い球が直撃して燃え上がった。
「喰らえってか? やなこった!」
 ソロが突っぱねる。
「あの攻撃は何だ?」
「キラージャグリングです」
 アレフが問うと、ノインが返事をする。
「ナインが最初に極めた職、旅芸人の特技です。魔力を練り上げた純粋なエネルギー弾を複数放ち、触れたものを破壊します。純粋なエネルギーの塊なので、フォースによる属性を載せて威力を増すことも可能です。もっとも彼の場合、修業の積みすぎで、本来の技の威力を超えた別の何かになっていますが」
 カラーボールの勢いはますます激しくなり、土砂降りのように降り注ぐ。
 ノインが盾を握りなおした。かかげる腕が震えているので、相当な威力を叩き出しているのだろう。
 サンドラは彼女の周囲に魔法の聖水を撒きながら、アレフとレックに言う。
「あなた達は最初からいなかったから知らないかもしれないけど、この大魔王の地図攻略の初戦──私とノイン、ナインでバラモスと戦った時、攻撃役をこなしたのはナインだったのよ」
 ノインはマルチタスクが苦手で攻撃を避けられなくてケガをしやすいから、初戦は後ろにいて様子を見て戦った方がいい。
 自分は複数のことを同時にやりがちだから、前衛に立って様子を見るのがいいだろう。
 ナインはそう言って、挑んだのだそうだ。
「ノインが守護と回復をやるパラディンになって、私が回復に専念。ナインがバトルマスターとして戦った」
「バラモス? 勇者ロトが最初に倒したという魔王ですか」
 アレフが顔色を変えた。
「全てを凍り付かせ、焼き尽くすような、強力な魔法攻撃を持つ魔族だったと聞いています。三人で立ち向かったのですか?」
「ええ。一回で勝てた」
 勇者の子孫は目を剥いた。
 サンドラは遠くを眺めるような表情をした。
「その後、ナインはやっぱり補助役に回りたいって言ったの。普段からいろんな職業に転職して、いろんな役割をこなしてるから、その方が動きやすいんですって。ノインと別れることになったその時に、手元にあった地図がムドーの地図とエスタークの地図だけだったから、それぞれの地図に対応する戦士を調べてみて、マルチで動くのが得意なナインがムドーの地図を、一つのことに集中して動くのが得意なノインがエスタークの地図を選ぶことになったのよ」
 つられて、レックも彼との出会いを思い出した。
「俺のところに来た時、ナインも言ってたな。ガンガン攻められる、サポートしがいのある奴を求めてるって」
「ナインが最初に極めた旅芸人は、攻撃も回復も補助もできる職業ですから、その立ち回りが戦闘スタイルの基本になっている可能性もあります。しかし、本人の思考も戦闘スタイルにかなり影響を与えているものと思われます」
 ノインが眉間に皺を寄せ、ガードに集中しつつも付け足した。
「この世界の旅芸人が使用する武器は、剣、鞭、扇のみです。攻撃のメインになりたいなら剣のスキルを取るのが一般的ですが、ナインは鞭を選びました。パーティーメンバーに火力の中心になってもらって、自分はサポート役として範囲攻撃をするつもりでいたそうです。ナインの基本には、周囲の力をいかに活かして引き出すかという思考があるように思われます」
「あの攻撃力でか」
 アレフは依然として降り続ける光弾の雨を、穿たれたために穴だらけになった大地を指して問う。
 ノインは、最初から現在の攻撃力だったわけではありませんよと言う。
「ナインの奉仕の姿勢は、普段サポートアタッカーや壁役、癒し手という形で現れることが多いです。他人の強化方法を熟知している者が自己強化を苦手としているというパターンも往々にしてありますが、ナインの場合そうとは──」
 あっ、と叫んで説明が途切れた。
 レックたちは戦況へ目を戻した。朦々と舞い上がる白い粉塵の中へ、ナインが鞭を振り下ろしていた。
 ただの鞭ならば意味のない行動だが、使うのはグリンガムの鞭である。
 伸縮自在の魔法の鞭は、使用者の意図するようにどこまでも伸びる。
 鞭は、靄に覆われた大地全体を薙ぎ払った。
「ソロは」
 アレフは口を噤んだ。
 何度目かに振り下ろした鞭が急にピンと張り、ナインが靄の中へ引きずり込まれたのだ。
 その後は、よく見えなかった。
 靄の中で数回雷電が瞬き、熾烈な光の奔流が横殴りに大気を灼いた。
 烈しい閃光。
 焦土の匂い。
 視界が晴れた時には、鞭を振りぬいたナインと剣を振りぬいたソロが背中合わせになっていた。
 レックは目を凝らす。
(スライムピアスは)
「そこまで!」
 アベルの張った声を聞きながら、レックは未だソロの周囲を漂っているデインの煌めきの中に、青い粉末が舞っているのを見つけた。
「勝者、ナイン!」
「こんなの、無理に決まってんだろ!?」
 ソロは叫んで仰向けに倒れ込んだ。
 レックは首をひねった。いまいち腑に落ちない。
「あの雷、ソロの技だろ。なのになんで、ソロのピアスが壊れたんだ?」
「旅芸人の必殺技『アクロバットスター』です」
 ノインが盾を下ろして答える。
「使用者の回避率とカウンター成功率を格段に上げる、身体強化の技です。ソロさんがギガソードを放った後、ナインが発動させたのでしょう」
「使える技が豊富だな」
 アレフは感心しきりである。
 ナインは鞭を束ねてベルトへ戻し、仰向けに倒れ込んでいるソロのもとへ近寄る。
 ソロは寝転がったまま、ぎろりと彼を見上げた。
「オメー、前衛もできたのかよ」
「攻めるのが苦手だと申したことはございません」
「バケモノだな」
「その通りです」
 ナインは肯定する。
「しかし、旅芸人は強敵と戦うには火力が中途半端です。そのため、最近はあまり使わなかったのですが、火力を問われず単独で取り組まざるを得ない、今回のような戦いを制するのに、使い勝手がいいことに変わりはありません。これまでに旅芸人として戦っていたら、あなたに戦闘パターンを知られて、読まれていたでしょう。今回は運が僕に味方をしたようですね」
「運なんてくそくらえ」
 ソロは吐き捨てる。
「勝ちは勝ちです」
 ナインが返すと、ソロが上体を跳ね起こした。
「それ俺の台詞!」
「今は僕が勝者です」
「うめぇこと皮肉言った気になってんじゃねーよ」
「皮肉? ソロさんの理屈に乗っただけですが」
「それを皮肉って言うんだよッ」
 ソロは拳をナインの足にぶつけた。ナインはその拳を取って、引き起こす。
「対戦ありがとうございました。回復しましょうか?」
「いらねー。ホンットに、ヒトの気持ちが分かんねー奴だな」
「よくそう言われます。努力はしているつもりなのですが、純粋な天使でもヒトでもない、バケモノですから」
 ソロは己が額を叩いた。
 そんな彼を、天使は無垢な笑みで見つめていた。






 ノインがソロへ駆け寄っていく。
「傷がないか、確かめさせてください」
 彼の周囲をぐるりとめぐる。そこへアベルも加わって、二人で外傷だけでなく内傷がないかも確認していく。
「ソロさん。痛いところはありませんか?」
「かすり傷だ」
「回復しよう」
 レックの位置から見えたソロの身体には、浅い裂傷が数か所あった。
 キラージャグリングによるものか、鞭によるものかまでは判別できない。
「堕天使か」
 隣のアレフが難しい顔をしている。
「どうかした?」
「レックは気にならないのか」
 アレフは眉を持ちあげた。
「神の理を外れ、堕ちた存在。堕天使は、悪魔に分類されることもある、魔の領域の存在だぞ。俺達は彼らのクエストに応えていて、いいのだろうか」
「どうだろうなー」
 レックはナインとノインを──これまで、神の御使いとして信じてきた存在を眺める。
 二人は、アベルの回復呪文によって傷の癒えたソロの腕を持ちあげたり、身体をつついたりして、身体の調子を確かめている。ソロがやめろと振り払おうとしているが、お構いなしだ。
「俺には、たくさん魔物の仲間がいる。何度も命を救って、救われて。一緒に戦ってきた、信頼できる仲間だ」
 スライム、バトルレックス、他にもたくさん。
 あまり言葉が話せない者が多かった。それでも長く接していればお互いのことは少しずつ分かってくる。癖が強いけれど、頼もしいメンバーだった。
「一方で、人間の裏切りや争いもたくさん見た。誰かを傷つけたくてひどいことをする奴もいれば、誰かを大事に思っているのにその気持ちが相手を傷つけてしまうような、そういう奴もいた」
 レックは肩を竦めた。
「ナインは、ソロに堕天使だって言われた時、そうかもしれないって言っただけだった。滅ぼされそうな世界を救うために、魂は天使のまま、肉体だけが人間になったって話だったっけ」
「ああ、そうだ」
「よく分からねえけど、俺はナインとノインのことを信じて、クエストをこなしていってみるよ。これまで一緒に過ごしてきて、いい奴らなんだろうなって思ったから」
「そうか」
 アレフは頷いた。
 二人が会話しているうちに、ソロの体調確認は終わったようだった。
 ナインとノインがソロから離れ、レックたち見物席の方へやってくる。
 審判のアベルが一同を見まわした。
「これまで二戦して、一勝一敗。三回勝負で二勝した方が勝ちっていう話だったよね」
 あと、一戦。
 誰かが、ソロと戦う必要がある。
(とは言っても、もう候補は絞られてるんだよな)
 レックは一人一人の顔を見る。
 審判のアベル、ソフィア、エイトは試合相手になれない。
 アレンはもうソロと戦って負けた。
 ナインは先ほど勝ったところで、ノインは戦士たちの盾ガードをする役割があるので、参戦できない。
「レックか、サンドラさんか、俺か」
 アレフがレックの考えていたことを代弁した。
「見学していたかったが、仕方ない。俺が──」
 背負った剣に手を添えかけたアレフの横を、細身の影がすりぬけていった。
「私が出る」
 サンドラである。
 短い黒髪とマントを風にあおられながら、それでも僅かな土埃さえ立てず、静かに対戦の地へ歩み出た彼女を、皆驚きの眼差しで見つめた。
 それは、対戦相手のソロも同様だった。片眉を持ちあげて、問いかける。
「アンタが、俺と戦うのか?」
「そう」
 サンドラは肯定する。
 変わらない表情に、何の意思も伺えない。
 胡坐をかいていたレックは立ち上がった。
「サンドラ、無理すんなよ! 後衛の方が好きだって言ってただろ?」
 それだけではない。
 レックはこれまで彼女と共に戦ってくる中で、一つの確信を得ていた。
「それに、本当は戦いが好きじゃないんじゃないか?」
 戦いの前後の彼女の言動は、いつも至極冷静だった。彼女の理性ゆえと考えることもできるが、レックはそこに、消極的な雰囲気を感じ取っていた。
「俺が出ます!」
 アレフが自らを示した。
「強敵との戦いは望むところです。戦い方を学びたくて見学をしていましたが、試合相手になる覚悟もあります!」
「だとよ。俺は、交代しても構わねえぜ?」
 ソロはレックたちを利き手の親指でさす。
「俺は、これまでの戦いで、アンタが剣をまともに振るってるところを見てねえ。他のヤツからそういう話を聞いたことも、な。ソフィアみてぇなバーサーカーでもねぇ、しかも女と喧嘩するような、そーゆー趣味は俺にはねえんだよ」
「誰が緑のバーサーカーか! 今から審判降りてぶった斬ってやろうか! やるかコラ!」
 ソフィアがわめいている。
「今からじゃあダメだよ」
「君の髪色までは言ってないよ」
 アベルがなだめ、エイトが補足する。
 その隙に、アレンがソフィアの背後に忍び寄り、彼女の武器を取った。
 ソフィアがばっと振り返る。眉を吊り上げている。
「ちょっと! 勝手に人の武器取らないでよ!」
「審判のくせに喧嘩売るのが悪いんだろうが。試合が終わるまで、悪いようにはしねえよ」
 天空の剣を抱えたアレンが、走って審判たちから離れる。
 追っていこうとするソフィアを、エイトが羽交い絞めにする。ソフィアが暴れ、もうもうと土煙が立ちのぼる。
「あーあ。立てばバーサーカー座れば人面樹、頭の中は爆弾岩ってか?」
 ソロが顔の片側だけで笑う。
 対面で、くすりと笑う声がした。
 サンドラが、微笑んでいた。
「ああ。ソフィア、そうじゃないの。あなたを嗤ったわけじゃない」
 彼女はすぐ、自分を凝視していたソフィアに声をかけた。
「話の流れで、ちょっと思い出し笑いをね。悪いけど、ここは私に譲ってくれる?」
「いい、けど」
 ソフィアは暴れるのをやめて、体の力を抜いた。エイトが恐る恐る腕を離し、ほっと一息つく。
 それからサンドラはレックとアレフの方を向いた。
「レック、私が前に言ったことを覚えていてくれて、ありがとう。アレフも、気を遣ってくれてありがとう。二人とも、優しい人ね」
 アレフの頬が赤らんだ。
 そしてサンドラは、ソロに向き合った。
「ソロ。あなたは、よく物の見える人です。私が戦いを好きでないことも、このところあまり剣を振るっていないことも、どちらも事実。そんな私と戦いづらいと感じるあなたは、まっとうな感性を持っている。あなた自身がどんなに否定しても、認めたくなくても、あなたは間違いなく、勇者の度量の持ち主。雷の御業を扱える以前に、あなたの人柄と才覚は、勇者と讃えられるにふさわしい」
 ソロは顔をしかめた。何か文句を言うかと思われたが、無言で唇を引き結んでいる。
 サンドラは微笑む。
 レックも初めて見る、優しい笑みだった。
「きっと、あなた自身何度も言われてきたから、分かっているのでしょう。どれほど激しい怒りや恨みに駆られても、あなたの心の底には光がある。それはあなたを愛した人々の優しさや、あなたの感じた痛みかもしれない。なんであれ、それは光と呼ぶにふさわしい、あなたや周囲を良き未来へと導くもの」
「アンタに何が分かる」
 ソロが低い声で言う。
 サンドラは首を横に振った。
「私が今言ったのは、あなたの人生と関係ない推測。私は今も、これから先も、あなたのことを分かることはできない。それでも、あなたの中に強い光を感じる」
「占い師気取りかよ」
「いいえ」
 せせら笑うソロに、サンドラは無表情で返す。
「私は勇者。あなたと同じ、身も心も真の勇者となるべく育てられ、育ってきた、生まれついての勇者」
 違うのは故郷との関係と、性別くらいでしょう。
 サンドラは背負った剣を鞘ごと外し、身体の前へ持ってくる。顔の前に剣を掲げれば、表情が見えなくなる。
「さっき、笑っちゃったのはね。昔、魔王討伐の旅をしていた頃に言われたことを思いだしたからなの。故国アリアハン公認の勇者として、立派な勇者となることを国中から望まれた私は、自分でも立派な勇者になるために努力した。けれど、不思議。修業をして勇者のようにふるまう私に、みんな時折妙なことを言う」
 ──今日この日のために、お前を勇敢な男の子のように育てたつもりです。
 ──よくぞ来た、勇者オルテガの息子……いや、娘よ!
 ──うわーっ、勇者様って、女の人だったんだ!
「それまで謳われてきた勇者の物語はみんな男のもので、女の勇者の物語はなかった。そんな世界で『勇者のように』育ってきた私は、知らず、男のような立ち振る舞いをしていた。旅をしていく中で、私はやっとそのことに気づいた。時には、奇妙に思えることもあったのでしょう。私を男だと間違えていたことに気づいた人が、その後わざわざ女扱いすることもあった。
「本当は、私にとってどちらでもいいこと。私は勇者である、それだけが大切だったのだから。でも、私の性別を間違えた人たちがみんな気まずそうな顔をするから、周りの女の人を真似して、こういう、大げさなくらいの女言葉を身につけたのよ。間違わせないためにね。それでも男扱いされて、気まずそうな顔をされることは、今でもなくならないけど。最近じゃあ、敬語が一番いいんじゃないかって思います。男でも女でもない、『勇者』であることを示すのに、ちょうどいい気がして」
 それでもきっと、私の意思に関わらず、私は『王道の勇者』像から逃れられない。
 鞘を握る角度が変わる。
 その上に、サンドラの双眸が現れる。
 濃い夜闇のような群青の瞳に、ソロの姿が映り込む。
「あなたは、この『戦い』を望んだ。望みを諦めるつもりは?」
「いや、ない」
「ならば、私に挑めばいい。私もあなたが気兼ねすることがないよう、今こそ繕うところのない、ありのままの私で答えよう」
 サンドラは鞘を払った。
 現れた蒼刃が眩くて、レックは目を眇めた。
 ソロもまた剣を抜く。それを確認したサンドラは、明後日へ鞘を放った。
「アンタ」
 剣を斜に構えながら、ソロが言う。
「戦い、嫌いなんだろ。なんで勇者なんか引き受けたんだ」
「あなたが勝てたら話そう」
 サンドラはそういえば、と首をわずかに傾けた。
「あなたの育った故郷の名を聞いてなかった」
「名前はない」
 ソロは答える。
「俺を──赤ん坊だった勇者を、魔族から隠れて育てるためにひっそりできて、誰にも知られず滅ぼされた、ただの山奥の村だ。もう、いいだろ。勇者だとかそんなことはいい。俺はただのソロだ」
「そう。私もただのサンドラだけど、故国の名乗りの流儀が癖になってるから、やらせてもらうよ」
 サンドラは、顔の横で水平に剣を構える。
「アリアハン王国生まれついての勇者、アレクサンドラ=ロト。参ります」
 アベルが開始の合図をかけた。
 しばし、二人はその場で静止していた。
 先に動き出したのは、サンドラだった。
 マントを後ろになびかせながら、斬りつける。
 ソロが剣を弾きあげる。体を一回転、剣を体に引き寄せ、相手の耳元目がけて突く。
 切っ先が、サンドラの耳に揺れるスライムへ吸い込まれていく。
「うわっ」
 レックはつい声を漏らした。
 首筋を逸らしてソロの剣を躱したサンドラが、そのまま倒れ込んだように見えた。
 しかしそれは錯覚で、両手を地についた彼女は足を高く上げ、ソロの胴へ蹴りを入れた。
 ソロがよろめき、大きく後退する。
 サンドラは腕をバネのようにして飛び起き、体勢を整えるソロへ燕返しをくれる。
「盾ガードって便利だね」
 後方へ吹き飛ばされるソロへ流し目をくれて、サンドラは己が剣を見た。刃に血糊は一切ついておらず、冴え冴えとした青い輝きを放っている。
「私が剣の腹で殴れば、大魔神も腕が砕ける」
 サンドラは、片腕を地につきながら、顔をしかめつつ起き上がるソロの姿を確かめる。
「骨折なし。打撲もしてないようだね。あなたの受け身もいいんだろう。軽めにふるったとはいえ、両腕がもげるようなことにならなくてよかった」
「なあ。あれ、別人か?」
 レックは瞬きを繰り返して、隣人に問う。
 隣のアレフの目は、戦況に釘付けである。
「いや、サンドラさんだ。あれこそが」
 言葉が途切れる。
 ソロが突如大きく踏み込み、剣を二閃させる。
 サンドラが右手を振るえば、応じて火花が散る。
 二本の剣とその操り手の応酬が、俄然激しさを増しはじめた。
「これは、驚いたな」
 ソフィアの天空の剣を抱えたままのアレンが、レックたちの傍へ寄ってきて言う。
「アイツ、真面目な顔してやがる。俺と戦った時は、にやにやしてやがったのに」
 青いグローブの手で示したのは、ソロである。
 いつもの不敵な表情の変化がない。感情表現を忘れ、ただ一心に青の剣筋を追うソロの姿は、元来の美麗さが引き立っている。
 剣を振るうと見せかけて、魔法を使う。退くと見せかけて攻める。時には、正面から足払いをかけて成功させることさえする。
 定型にはまらず、剣も魔法も戦術も巧みに操る彼の荒々しい戦い様は、さながら王城に飾られた英雄の彫像が動き出したかのような夢想をレックにもたらした。
 対して、相手取るサンドラに平時同様表情の変化はない。
 彼女の立ち回りは地味だ。
 剣で単純な線を描く。魔法は使わない。華々しさは皆無と言ってもいい。
 しかしレックは、次第に気づいていく。
(変だ。なんで、ずっと一定に動いてられるんだ?)
 彼女はずっと、至って基本的で、自然な動きしかしないのだ。
 相手の機動を下げるための、四肢への攻撃。
 相手からもたらされる衝撃をいなすための回避行動と、身体の弛緩。
 その両方を組み合わせ、相手の急所めがけてカウンターを繰り出す動作も、淀みない。
 一つ一つの動作は、非常にシンプルだ。
 その単純な動作が、時にはかまいたちのように、時にはそよ風のように、一切乱れぬ型で絶えず繰り出されているのである。
(アレフとアレンも、動きそのものは単純だった)
 レックは、以前竜王戦で見た彼女の子孫たちの戦いを思い返す。
 彼らはレックやエイトのような特殊な技を使わなかった。
 それでも一太刀で大岩を粉砕し、巨竜の鱗を断つような技を見せた。
 あの威力は、上級職の攻撃に匹敵していたと思う。
 レックは打ち合いを続けるサンドラとソロを眺める。彼らの周囲には、アレンやナインの戦った時のような、地形が乱れるほどの激しい攻撃の痕跡はない。
(サンドラの攻撃の威力は、まだ分からない)
 すでに、アレンとナインが戦った時間を超えているのに。
 未だサンドラの攻撃は乱れず、息も上がっていない。
 あくまで自然に、剣をふるい続けている。
「いや。普通じゃねえ」
 レックは呟いた。
「ソロの動きは、変則的だ。そんなアイツに、なんであんなに決まりきった、最低限の動きだけで張り合えるんだよ」
 サンドラの動きは、どこまでも『最低限』の域を出ない。
 攻撃を回避して、相手の前へ戻るまでの動線。
 相手にダメージを与えるための、剣と身体の動線。
 どちらも、基本的には直線を保っている。
 最小にして最短のコースしか取らないのだ。
「決まりきった動きしかしなかったら、読まれて攻撃されて、ペースを崩されるもんだろ?」
「そうだな。さらに、相手は搦め手が得意なソロだ。普通なら耐えきれねえし、さっさと勝負をつけにいくだろう」
 俺みたいに、力業でな。
 アレンがレックに応じる。彼に訊く。
「なんで、サンドラは崩れねえの?」
「難しい話ではない」
 答えたのは、アレフだった。
「サンドラさんは、全てにおいて優れているのだ」
 力も体力もある。動きも素早く、頭の回転も速い。
 加えて、肉弾戦はもちろん、魔法も攻撃回復補助と手広くこなせる。
 ゆえに敵の手の内を予測し、攻撃に耐えて自分のペースを保てる余裕が生まれる。
「その昔、『ロト』という称号は、子の名づけに使うことを禁じられていたらしい。その理由は、一説によると、『ロト』が神に近き者という意味の称号なので、畏れ多いからだという」
 アレフは、変わらぬ顔色で戦うサンドラを、憧憬の眼差しで見つめる。
「万能の戦士。それが、勇者ロトなんだ」
 レックは戦場へ顔を戻した。
 剣戟が続いている。
 対峙する二人の周囲を、絶えず二色の光が舞っている。
 荒々しく大胆な、天空の剣が描く銀の線。
 しなやかで鋭い、王者の剣が描く青の線。
 気づけば、レックを含めた全員が、言葉をなくして戦いに見入っていた。
 果てしない打ち合いの終わりは、突然訪れた。
 王者の剣の届く範囲から退いたソロが、催眠呪文を詠唱したのだ。
「ラリホーマ」
 放たれた薄紫の精霊文字が、サンドラの頭部に絡みついていく。
 サンドラがふらついた。王者の剣を取り落とし、その手で額を押さえる。
 催眠呪文は、対象に強力な眠りの呪いを与える。その威力は、喰らった者が立ったまま眠りについてしまうほどだ。
 アレフは身を乗り出した。
「まずいぞ」
「運が悪かったですね」
 ノインが戦いの先を読んで、評する。
 ソロは剣を構え直す。狙いを相手の耳元へ定めたのが分かった。
 サンドラは催眠の精霊言語を振り払い、懸命に顔を上げようとする。
 それでも、瞼は落ちていく。
 そこへ、天空の剣が突き込まれる。
 終わった──ように、思われた。
 その後起きた出来事は、瞬き一回に足りるかというほどの儚い間に過ぎ去った。
 しかし目を凝らしていたレックは、全ての顛末を見届けることができた。
 天空の剣が滑り出した瞬間、瞳を閉ざしたままのサンドラが、前のめりになった。
 ソロもそれに気づいたようで、僅かに瞠目して剣先の向きを変えた。
 軌道を彼女の身体から逸らし、孤を描いて耳元へたどり着くよう、変えたのだ。
 途端、サンドラの額を押さえていた手が、神速の勢いで伸びた。
 ソロの胸倉を掴んで引き寄せる。
 反射的に、切っ先をサンドラの頭から逸らすソロ。
 その肩口へ、彼女は頬を寄せる。
 目を瞑っている。けれど、唇が動いている。
(何を言ってるんだ?)
 レックは身を乗り出した。
 彼女はこう言っていた。
「ギガデイン」
 二人を中心にして、極雷が炸裂した。
 視線を逸らそうとしたが、遅かった。レックは目を押さえてうずくまる。
「うっぎゃあっ!」
「なんだ、なんだ!?」
 あちこちで仲間たちが騒いでいる声が聞こえる。
 レックはそれどころではない。強い光で目がやられて、何も見えない。
「レックさん、大丈夫ですか?」
 幸い、駆け寄ってきたナインが回復呪文を施してくれたおかげで、視力はすぐに回復した。
 目が利くようになってもう一度見た戦場は、様相を変えていた。
 中心にクレーターができていて、座り込むソロと佇むサンドラがいる。
 ソロは、呆気にとられたような面持ちで佇む彼女を見つめていた。
 彼の右手は、自身の右頬に添えられている。レックは彼の耳元を見て、息をのんだ。
 ピアスホールに金の輪一つだけを残して、スライムピアスが消えている。
 一方、サンドラの右耳にはスライムピアスらしきものがあった。「らしきもの」というのは、彼女のスライムは耳に吊り下がってこそいるものの、顔面が消し飛び、激しくひび割れ、もはや雫の残骸としか見えないものになり果てていたからだ。
「あなたの言う通り、私は戦いが嫌いだよ」
 サンドラは言う。声がややくぐもっている。
「だから、あなたの戦い方をいいなと思って眺めていた。アレンと戦った時、麻痺毒一つだけで他に何の外傷も与えなかった。ピアスも手で取ってあげていたよね。ナインと戦った時は、盾ガードによって体へのダメージは間違いなく防がれるだろう、強力な技を使って、確実に、ピアスだけを一撃で砕きにいった。憎まれ口のお陰で分かりづらかったけど、誰も傷つけないようにしているあなたの戦い方を見て、私は気づいた」
 サンドラが首を傾ける。
「戦いが好きじゃないのは、あなたも……いや、君も同じ。だよね?」
 かろうじて形をとどめていたスライムピアスが、彼女の仕草に合わせてパラパラと崩れていく。
 ソロは思わずといった風に、片手を伸ばす。
「おい。そのままじゃあ、ピアスが」
「甘い」
 サンドラは言う。
「君の行く手を阻む私のことなんて気にかけないで、今この瞬間に、呪文でも剣でも何でも使って、私のピアスを壊してしまえばいいのに。綺麗な夢を掲げて、そのためにつらい苦労をして、やっと夢に手が届くと思ったら、そこで見えた景色に気を取られて手を放してしまう。君は本当に」
 彼女は、白い小粒な歯を見せて鮮やかに笑う。
 上下の歯列の間に、小さなスライムが挟まっている。
 ソロのスライムピアスだ。
「辛口のくせに、とっても甘くて。本当に、勇者サマだわ」
 白い歯が、スライムを嚙み砕いた。
 その衝撃と共に、彼女の耳に留まっていたスライムもまた、砕け散った。








 場を、沈黙が支配していた。
 見物席の面々は立ち尽くし、審判たちは黙り込んでいる。
「サンドラさんは眠りかけてた。どうしてあの状況から、ギガデインを唱えられたんだ?」
 アレンが唖然としている。
「ラリホーマを詠唱してから発動するまでのタイムラグです」
 ノインが盾を下ろして、答える。
「ソロさんがラリホーマを唱えた、その瞬間にサンドラさんはギガデイン発動の支度を整えていたのでしょう」
 呪文は、定められた言葉一言を唱えるだけで発動するものではない。唱える前に、使い手がその魔法を使うことを選択し、奇跡を顕現させる支度を整える時間が要る。
「俗にいう、コマンド選択済みだったわけです。発動の準備がなされた呪文は、術者がどんなに激しい攻撃によって死にかけていても、発動します。ラリホーマが詠唱され、効力を完全に発揮するまでの短い間に、サンドラさんは眠りに誘われながらも、呪文が発動できる状況を整えたのです」
「すげー精神力だな」
 レックは唸る。自分だったら、眠いと思った瞬間には寝ている。
 アレフがぼそりと問う。
「今の勝負は、どうなんだ」
 ナインが答える。
「この勝負は、審判に託しました。彼らの判断を待ちましょう」
 ソフィアは完全にうずくまり、エイトは天を仰いでいる。
 中央のアベルだけが、判定を待つ戦士二人を見つめ返していた。
「ああもう! なんでこんなことになっちゃったかなあ!?」
 ソフィアは髪をかきむしり、ソロを指さす。
「ソロの意気地なし! ヘタレ! 何度も決着つけるチャンスがあったのにピアスを壊された、アンタの負けでいいでしょ!」
「それはそうだけどよぉ。審判がそんな主観的な判断でいいのか?」
 ソロがあぐらをかき、反論する。
 うるさい、とソフィアは一蹴する。
「あたしは、こういう白黒つかないやつが一番苦手なの! ねえ、エイトはどう思う!?」
「俺は、サンドラの勝ちとは言いきれないかな」
 エイトは眉を八の字にして、首を横に振った。
「サンドラがソロのピアスを壊したのは確かだよ。でも、自分のピアスも自分のギガデインで壊しちゃったわけだから、自滅だよね」
「自滅でも、相手のピアスを壊してればいいじゃん」
「サンドラがソロのピアスを壊す前に、サンドラのピアスは壊れはじめてた。完全に壊れたのは、二つとも同じタイミングだったけどね。この時間差、ソフィアはどう思う?」
「そーれーはぁ」
 ソフィアはまた頭を抱えてしまった。
「引き分けだよ」
 それまで黙っていたアベルが口を開いた。
「勝者の条件は、相手のピアスを壊すこと。自分のピアスを壊せとは言っていない。エイトの言う通り、サンドラはスライムピアスをソロから奪ったけれど、彼のピアスを壊すより先に自分のピアスが壊れていた。これは、ソロにピアスを壊されることを避けるための、サンドラの自滅とも考えられる。そう考えれば、ソロが間接的に彼女のピアスを壊したということになる。一方で、ソフィアの言う通り、サンドラがソロのピアスを壊したことに変わりはない。よって、勝敗はつけられない」
 引き分けだ。
 アベルはそう繰り返して、左右の審判を窺う。
「そういうことでどう?」
「俺は賛成」
「うーん。すっきりしないけど、仕方ないわ」
 エイトは即座に首肯し、ソフィアも渋々ながら認める。
 アベルは、戦場の二人に向き直った。
「今の勝負は引き分け。よって、ソロは一勝一敗一引き分け。三戦して二勝した方の勝ちという話だったから、ここまでの勝負の結果、勝者なしかな」
 アベルは視線をソロ、ナインへ順番に注ぐ。
「どうかな? 異議申し立て、意見があるならば今言ってくれるかい」
「僕は異議ありません」
 先に、ナインが声を張って答える。
「ソロさんの要求は叶えられませんが、他の、世界間の法則を乱さない範疇で可能な報酬をお渡ししたいです。また、最後の一戦が判定の難しい結果で終わってしまいましたので、もう一戦して再検討しても結構です」
「だそうだよ、ソロ。延長一戦できるってさ」
 どうする、とアベルが問う。
 ソロは眉根を寄せ、片手を振った。
「いーや。もう充分だ。たった二日三日の一人旅に、これ以上命すり減るマネ、したくねーよ」
 そう言うや否や、その場で仰向けに寝転がって大の字になる。
「やめたやめた、めんどくせえ! 俺の報酬は大金にしてくれ!」
 やけっぱちのような返事である。
 それを聞いたナインとノインは顔を見合わせ、満面の笑みを浮かべた。
「ソロさん、ありがとうございます!」
 まず、ナインが頭を下げた。
 次に、ノインも同様にする。
「お金、いっぱい用意しますね!」
「おう。よーく考えてみたら、カジノで一発かますための資金も欲しかったんだよな。だから、よろしくな」
「はい!」
 そのまま、ソロとナインノインの三人は、報酬について話し合い始めた。
 アレンがしきりに首をひねっている。
「今の、『はい』で大丈夫なのか? もう一度、試合やる羽目にならねえ?」
「今度はナインもついてるから、大丈夫だろ」
 レックは笑いかけた。緻密な彼のことだ。きちんと明確な基準を設けるに違いない。
 そこへ、緑の人影が猛烈な勢いで突進してきた。
「あたしの得物返せッ!」
「あ、悪い。忘れてた」
 ソフィアはタックルしつつ、アレンの手から天空の剣をぶんどった。
 アレンが詫びるも、ろくに聞いていない。剣を抜いて、異常がないか確認している。
 彼女の後ろから、アベル、エイト、サンドラがやって来た。
「お疲れ! 大変だったな」
「本当だよ」
 レックがねぎらうと、エイトが泣きそうな顔をしてみせた。
「盾ガードがあるとは言っても、抜き身の武器を使ってるからひやひやするし、攻撃は容赦なく激しいし。最後の戦いなんて、判定どうしようかと思った」
「微妙なことして、ごめんなさいね。私も、勝負の判定のことまで考えられる余裕がなかったの」
 サンドラが謝る。
 すると、武器の点検が終わったらしいソフィアがすっ飛んできた。
「サンドラは謝らなくていいんだよ。それより、強いんだね! 最後のスライムピアスを歯で割るやつ、カッコよかったあ」
「ありがとう。でもそれ、何を褒めてるの? 私の歯の強さ?」
「ううん。そこまでの展開!」
 女二人は、離れたところで話し込みはじめた。
 レックはサンドラの横顔を見つめる。また、ポーカーフェイスに戻っている。
(判定まで考える余裕がなかったなんて、そんなわけないんじゃねえの?)
 ソロと打ち合いをする間、一切の呼吸と攻撃の乱れを見せなかった姿。
 上位催眠呪文を喰らって、とっさに呪文攻撃を選択する判断力。
 そして、勝敗のかかった最終戦での、相打ちという絶妙な決着。
(ソロに甘いって言ってたけど、サンドラだって、本当は勝ちたくなかったんじゃないのか)
 計算づくでこの結末に至ったとは思わない。どんなに先手を読める余裕があったとしても、状態異常発生の確率までは正確に計算できないだろう。
 けれど、レックはソロとサンドラが長いこと打ち合う姿を眺めている間、その技の巧みさに感心しつつも、一方でこう考えていた。
 どうして二人とも、あと一歩攻め込まないのだろうと。
「どうしたの?」
 アベルに話しかけられて、レックは我に返った。
 思いのほか、思索にふけっていたらしい。
 サンドラから視線を外し、アベルに向き直った。
「悪ぃ。ちょっと、ぼーっとしてた」
「そうか。具合が悪いわけじゃないなら、良かったよ」
 さっき目が眩んでただろう? ちょっと心配だったんだ。
 アベルはそう言って、微笑んだ。
 レックは驚いた。審判をしながら、こちらのことも見ていたのか。
「二人とも、大変だったな」
 アレフとアレンが寄ってきた。
 先にアレンが声をかけ、次いでアレフがアベルの手を握る。
「よく主審を引き受けてくれた。貴殿の判定、非常に冷静かつ的確で、感服した。お陰で良い戦いを楽しめた。ありがとう」
「大げさだねえ。でも、褒めてもらえて嬉しいよ」
 アベルは照れ笑いをする。
 アレンは話し合いをする天使たちを、それからソロの方を見て、憤慨したように言う。
「アイツ、あんなに頑固に一人旅にこだわってたのに、コロッと意見変えやがって。何なんだよ。意地張るなら、最後まで張り通せっての」
 彼はこの世界に来た時からずっとソロと一緒で、散々手を焼かされたようだから、このあっさりとした結末に納得がいかないのだろう。
 レックは首を振った。
「俺もソロの立場だったら、さっきの三連戦を続けるのはキツいって思うぜ」
「俺だったら続ける。本当に叶えたい願いのためならな」
(それ、アレンのメンタルとフィジカルがとんでもねーから言えるんじゃね?)
 レックはそう思ったが、口には出さないでおいた。
「だいたい、自由に一人旅したいって何だよ。いくら来たことねえ世界に興味あるからって、無理なもんは無理だろ。自分の世界でしろよ。本当にこの世界で一人旅したいなら、ナインたちと厳しい約束取りつけてでも、力づくでも、やりきってみせろよ」
「それ、アレンは何度もソロに言ってたよね」
 アベルが思い返す。アレンは大きく頷いた。
「ああ。でもあの野郎、言ってみることに意味があるとか、お前みたいな奴には分かんねえとかなんとか、わけわかんねーこと言いやがって」
 話すにつれて、アレンは次第に眉間の皺を深くしていく。
「あー、やっぱり腹立つ!」
「何にだ?」
 アレフが問うと、子孫は眉を吊り上げて答える。
「だって、あんな方法で負けたんですよ! なのに、アイツこれで帰る気なんでしょう!? このまま帰してたまるか。まだここにいさせて、どこかで絶対リベンジしてやる!」
 アレンは腕まくりして、天使とソロたちの話し合いの場へと駆けていった。
「なんだ。さっきの試合の結果が悔しかっただけかよ」
 レックは拍子抜けした。
 エイトは大笑いし、アベルも微笑んでいる。大真面目に頷いているのは、先祖のアレフだけだった。
「あれでこそロトの血統。その向上心が、ロトの血筋を強くするんだ」
「お前ら、戦闘民族なんだな」
「あながち間違ってはいない」
 冗談で言ったのに、真面目に受け止められてしまった。
「君だって笑顔で大魔王に斬りつけにいくタイプなんだから、他人のこと言えないよね」
「俺は逆境にめげない好青年ってだけだろ! 戦闘民族とは別だって」
 エイトが余計なことを言うので、言い返した。
 しかしもう聞いていないようで、次にアベルに話しかけていた。
「この試合は、そもそもアベルの発案だったよね。うまくおさまってよかったよ」
「ああ。単純にソロとナインが戦うだけだったら、こうはならなかったかもしれん。第三者が審判に入って、十分戦う機会を設けたことが、良かったのだろう」
 アレフもしみじみと頷く。
 その流れに呑まれて、レックも言う。
「そうだよなあ。それに、アベルはよく主審を引き受けたよなあ」
 ソロの願い自体は、一人旅がしたいっていう小さいものだった。
 しかし、時空間の問題であることに変わりはない。非常に重い問題だ。
 複数の世界の形が関わる問題の審判、それも中心となる主審を託される事態など、レックは想像もしたくない。
 アベルは首肯する。
「うん。ほっとけなかったからね」
「素晴らしい人柄だ」
「いや、そういうわけじゃなくて」
 アレフがまた讃えるのを遮って、アベルは眉を下げた。
「ソロやナインのことが気にかかったのはもちろんだよ。けど、本当はそれだけじゃあないんだ」
「なんだ?」
 アレフが尋ねる。
 アベルは微笑み返す。
「それが、僕にもよく分からないんだけどね」
 なんだか無性にほっておけなかったんだよ。
 彼はそう語って、それ以上は何も言わなかった。