07 少年A




 レック達はサンマロウを散策している。
 サンマロウは、花の町の呼び名にふさわしい街だった。
 燦燦と降り注ぐ太陽。
 その光を存分に浴びてきらめく、蒼玉の海。
 アイボリーの家並みの随所に花壇があり、愛らしい花が潮風に揺れている。
 風は、薄桃の花びらの重なったような歩道を優しく撫で、郊外の広野へと吹き抜ける。
 豊かな草原に風が立てば、群生する野生の花と若草とが波打つ。
 その様は、紅水晶やら玻璃やら翡翠やらといった淡い鉱石が転がるよう。
 宝石箱のような街だ、とレックは思う。
 大きな家も小さな家も、どことなくまろい柔らかさを感じさせる造りをしている。
 高家の令嬢が宝石職人に造らせた、ままごとの町。
 そういう印象だ。
「可愛らしい町だね」
 傍らで歩くアベルが言う。
 ソロが顔を顰める。
「カジノはありそうにねえな」
「カジノがなくても、知らない世界っていうだけで楽しいだろ。せっかくセントシュタインの外を歩けてるんだから、楽しもうぜ!」
「別に楽しんでねーとは言ってないだろ」
 レックは鼻歌交じりのスキップで先へと跳ねていく。
 遠くなる彼の背中を眺め、アベルが笑みを漏らす。
「すごく嬉しそうだねえ」
 ソロは肩をすくめた。
「よくもまあ、ああやって考えなしに、俺達みてーな知らねえ奴と一緒に知らねえ場所を歩けるもんだ」
「素直に感謝したらどうだい?」
 端正な顔立ちを、不思議な瞳が覗きこむ。
「君の望んでいた一人旅ではないけれど、こうやって毎日この世界を巡ることができているのはレックのお陰だよ。彼はちょっと能天気かもしれないけど、考えなしじゃない。ソロだって、分かってるだろう?」
「分かってるよ」
 ここ数日、彼らはクエストなしに世界の街をめぐっていた。
 事の始まりは、レックにある。
 先日行われたソロの報酬をめぐる一連の出来事の最中、レックは初めてセントシュタイン領の外の大地に降り立った。無論、それ以前に大魔王の地図攻略の途でいくつかの街を通り過ぎたことはあったのだが、強敵との戦いが控えていることもあって、気にする暇がなかったのである。
 ともかく、ガナン帝国領を訪れ、レックは冒険心を刺激されたのらしい。
 帰って来た後、彼はナインに取引を持ちかけた。
 ナインの望みを、何か一つ叶える。
 世界に仇なすことがないよう、酒場に登録した状態でセントシュタインの外へ出る。
 行く場所は一日に一カ所だけ、ナインが指定した場所にする。
 出かける時はナインかノイン、もしくは二人が不在ならばリッカかルイーダに告げる。
 一人で旅をせず、大魔王討伐パーティーの誰かと共に行く。天使達と一緒でも構わないが、彼らが不在でも手を煩わせるようなことはしないと誓う。
 移動手段には天の箱舟を使う。一日経っても帰ってこないようならば、ルイーダの酒場を利用して呼び出してくれて構わない。
 以上の条件付きで、見事セントシュタインの外へ出る許可を得たのである。
「酒場の契約つきっていうのは大きいよ。光と闇が生じる世界のほぼすべてに展開してる《酒場》との契約は、ナインとの個人的な契約よりも強力だ。ソロは、ルイーダの酒場を使ったことがあるかい?」
「ない。俺の世界にはなかった」
「僕もないよ。でもレックの頃にはあったらしいから、僕らが知らないだけで、どこかに酒場があったのかもしれないね」
 ソロは柳眉をひそめる。
「僕ら? アンタ──」
「『ソロさーん! お呼びよー!』って一声だけで、酒場に登録した人をその場にすぐ連れてきちゃうんだって。すごいよねえ。僕の世界には、馬車で連れていけない仲間の魔物を預かってくれるモンスターじいさんって人がいたんだけど、それと似てるなあ。もしかしたらモンスターじいさんも、酒場の仲間なのかも」
 アベルは自分を見つめる訝しげな紫の瞳に構わず、話し続ける。
「ともかく、レックの提案はみんなに得だ。世界の安全が守られる可能性も高いし、僕らも自由に歩き回れる。僕も子供たちへのお土産話ができて、万々歳だよ」
「アンタ、子供いるのか?」
「うん。二人いるよ」
 とっても可愛いんだ、とアベルは相好を崩した。
「聞く? 双子の男の子と女の子でね──」
「おーい! ソロ、アベル、早く来いよ」
 だいぶ先へ進んでいたために、姿の見えなかったレックが駆け戻ってきた。
「お前が先に行きすぎなんだよ」
「まあまあ。それより、もしかしたらカジノがあるかもしれねーぞ!」
「マジかよ!?」
 ソロの目の色が変わった。
 こっちこっち、というレックの弾んだ声と共に、二人は疾風のように駆けていく。
 小さくなって海へと溶け込んでいく二つの背中を、アベルは微笑んで眺め、
「生き延びてみると、何があるか分からないものだね」
 独り言ちてから、その後を追った。





 街のはずれ、砂浜の傍に小屋が一つ建っていた。
 他の洒脱な家々とは似つかない、石でできた箱のような小屋である。
 戸口に立つ老人が、中でニュービジネスをやっていると言う。
 入ってみると、薄暗い。地下へと続く階段が一つだけあって、その脇にはにこやかに誘うドレス姿の女性の姿がある。
「カジノって、暗くて地下にあることが多いだろ? だから、この階段を降りた先には新しいカジノがあるんじゃないかって」
 レックがそう語るので、三人は地下へ降りてみた。
 あったのは、行水場だった。
 地下水路にしか見えぬ暗がりに仄青い水が満ちていて、その中をたくさんの老爺が歩きまわっている。
「なんだこれ」
 レックは愕然としている。
 アベルが従業員に話を聞きに行った。何やら話をした後、戻ってきて地下水に漂う老人達を片手で示す。
「ここは『じじいの行水場』だそうだよ。あの水は若返りに効果があって、だからお年寄りが浸かりに来てるんだって」
「ニュービジネスって、そういうことか」
 レックは額を押さえた。
 ソロは腹を抱えて笑った。
「カジノとはだいぶ違ぇなあ! でも、おもしれーから入ってみようぜ」
「ひやかしみたいに思われないか?」
「ここまで入って来られたんだから、大丈夫だよ。ほら、若い人も入ってる」
 アベルの言う通り、行水場の中には若い男性の姿もある。
「なら、いいか」
「せっかくだから楽しもうぜ。お前もさっき、そう言ってただろ?」
 ソロは言うが早いか、若葉色の短衣を躊躇いなく脱衣籠へ脱ぎ捨てた。
 レックとアベルも服を脱ぎ、三人は水着一枚を身に着けて地下水へと足を伸ばす。
「うわっ!」
「冷たいねえ」
 レックが水面に足先をつけて身を縮める横で、アベルはあっという間に胸まで水に浸かった。
 同意するような言葉に反して、厚みのある胴体は大きな船のように易々と水を裂いていく。ソロがくつくつと笑いを漏らした。
「全然冷たそうじゃねえな」
「ひんやりしていい気持ちだよ」
 肩回りの髪を紐で一括りにまとめてから、ソロはアベルの後を追って水深のある所まで進む。
「本当だ。冷てぇけど、いいな」
 肩まで沈んだソロが振り返る。
 レックはおそるおそる腰まで浸かって、一息吐いたところだった。
「大丈夫か?」
「俺のことは気にしないで、浸かってくれ」
「冷たいの、苦手なんだね」
「旅の途中で水浴びしなかったのかよ」
「したけど、いつもこの瞬間だけは苦手だったんだよ。慣れれば平気なんだけど」
 ヘルハーブ温泉の方がまだハードルが低いなどとこぼしながら、レックはやっとソロ達の近くへ来て沈み込む。
 座り込むと、水が微かに動いていることに気づいた。どうも、街中から流れて込んでいるらしい。仄かに青く見えるのも、壁に灯された青い蝋燭のせいだけでなく、外から光が差し込んでいるためであるようだ。
「澄んでるね」
「水の流れから考えるに、ここが上流に近いからかもな」
 アベルの一言に応えたソロが、老人達のいる景色を見やる。
「この世界も、面白ぇわ。人が集まる場所なんて大方変わらねえんじゃねえかと思ってたけど、結構違って楽しめた」
「だろ?」
 レックは破顔する。
 彼らはこれまでの観光旅行を振り返る。
 条件はあったが、それ以外には特に縛りのない緩い旅行だった。
 行き先は、この世界の住人であるナインとノインが作ってくれた手製のパンフレットの情報を参考に選んだ。旅行への参加は自由で、メンバーもバラバラならば、現地に着いてからの行動もバラバラだった。小さなグループに分かれて異邦の地を歩くこともあれば、全員が一つにかたまって動くこともあった。
「レックは毎回参加してるよね。どの土地が面白かった?」
 アベルがレックに訊ねてきた。
「もちろん、全部面白かったぜ!」
 カルバドの広漠とした草原には、胸がすくような思いがした。
 エラフィタの桜は美しく、その後に訪れたビタリ山の頂に彫られた石造りの街並みには驚かされた。
 ナザム村やツォの浜の素朴さに癒され、グビアナの華麗な宮殿に圧倒された。
「インパクトがあったのは、ドミールの火山かな。でけぇし、熱気が凄ぇのなんのって!」
「宴会も楽しかったよね」
「な! 酒も飯もうまくて、最高だった」
 ドミールの時には、全員が参加していたからか、ナインとノインの厚意で現地の宿に泊まることになったのだ。
 宿であてがわれた部屋にて宴会を開き、異邦の味に舌鼓を打ちながら談笑したのはいい思い出だ。
「ドミールの火酒で飲み比べ勝負、本当に楽しかったなあ!」
「一番最初に潰れてたのに、覚えてんのかよ」
「覚えてるって。俺、酒で記憶が飛んだことないんだ」
 ソロの茶化しに応えるべく、レックは記憶をさかのぼる。
「俺、ソロ、ソフィアの三人と、アレフ、アレン、ノインの三人でチーム組んで、どっちがたくさん酒を飲み干せるか競った。俺は最初に飛ばしすぎて起き上がれなくなっちまったけど、ちゃんとお前らのことは見てたぞ」
 自分の次にアレフが平静を失った。周囲の相手を捕まえ、しばらく見境なく呂律の回らないピオリムトークをかましていたが、途中で偶然合い向かいに座ったサンドラが相槌を打った途端、この上なく幸せそうに微笑んで寝た。
 ソフィアはやたら吼えていた記憶がある。一杯飲み干しては獣のような咆哮を上げ、飲まなくとも唐突に猿叫を上げる。宴会の最後までそんな調子だった。
 対照的なのはノインで、終始ニコニコとして静かに飲んでいたのだが、突如椅子を引き抜かれた人間のように仰向けに倒れた。気絶したのかと顔色を青くして駆け寄るエイトに、いち早く彼女のもとへ駆けつけていたナインが寝ているだけですと告げた。言葉通り、彼女は安らかな寝息を立てて眠っていた。アベルが敷き布団を用意し、ナインが寝かせた。
 皆がそれぞれの展開で勝負を忘れていく中、最後まで張り合っていたのがアレンとソロだった。ただ、一杯を飲み干す合間に長い舌戦を挟むので、勝負より先に宴会がお開きになってしまった。
「しっかり覚えてるんじゃねえか。起きて、ソフィアかアレフを止めてくれりゃあ良かったのに。サンドラとエイトが苦労してただろ」
「いやあ。楽しそうな雰囲気が夢みたいに心地よくて、起きる気にならなかったんだよな」
「二人とも、あの状態を分かってたのに止めなかったんだ」
 アベルが言うと、レックとソロは揃って彼の方を向いた。
「アベルだって、強くは止めなかっただろ」
「ソフィアの叫びにも、アレフの喋りにも、うんうん相槌打ってたじゃねえか」
「僕も酔ってたってことかな」
 怖いなあ、と目を糸のように細めて笑う。
「全員、成人とは思えない酒の飲み方だったね」
「ちょっと羽目外しすぎたとは思ってる」
 ソロが珍しく反省の弁を述べた。レックも頷く。
「俺らのために離れを貸し切ってくれたナインとノインに、大感謝だな」
「一般のお客さんの迷惑にはならなかったみたいで良かったよ」
「まあ、あの環境だったから安心してはしゃぎすぎたってのもあるけど」
「節度ある大人が環境を言い訳にするんじゃねえよ」
「お前もな」
 三人はぼんやりと中空を眺めた。話しているうちに、あの晩の酔いが戻ってくるような気がした。
(本当に、あれだけくつろいだのは久しぶりだった)
 レックは、ゆるゆるとこれまでを思い返す。
 レイドック城へ王子として戻ってから、宴席であのような振る舞いをしたことはない。無礼講は何度かあったが、やんやと騒ぎ、飲めや歌えやの盛り上がりを見せる臣下らを、レックは上席から微笑んで見つめるだけだった。
 夢の世界にいた自分ならば、あちら側にいるのが自然だったはずだったのだ。共に兵士となったハッサンと共に、きっと面白おかしく過ごしただろう。
 そのような夢を見たからこそ──レックは、「自分の上に皆が重ねて見る夢の自分」を無視することができなかった。
 王国の次期統治者。大魔王を倒した勇者。
 暁の王子。
 国民は彼をそう呼び、期待に満ちた瞳でレックを見る。
 期待という名の、各々の思惑を孕んだ夢が自分に投影されている。
 レックはそれを意識せずにはいられなかった。
(暁の王子なんて、俺には相応しくない)
 何度、胸の中でその台詞を繰り返しただろう。
(俺だって、夢を誰かに託してしまいたかった。俺よりずっと力のある誰かに任せて、気ままに暮らせていたら良かった)
 だが、彼らの前でありのままの己を差し出せるほど、レックは無謀ではない。
 いかに生きようと、孤独なのだ。
 仕方のないことだと理解している。
 こうなるのを承知で、大魔王を討ったのだ。
 そう、分かっている。
「アベルはどこが印象深かったんだ?」
 ソロの声で、レックは我に返った。
 紫水晶の双眸が、アベルへと向かっていた。
「僕はベクセリアの景色が好きだったよ」
 とても紅葉が綺麗だった、とアベルは目を眇める。
「ああ、良かったよな」
 レックはすぐに意識を現在の会話へと戻した。
「歴史の在りそうな石の街並みと、木々の色が合ってた。落ち着く街だったよ」
「気候も過ごしやすそうで、いいよね」
 レックとアベルは残る一人へ視線を転じた。
 ソロはすぐ意図に気づき、返事をする。
「俺は、カラコタ橋。変な野郎ばっかりで、適当な感じがよかった」
「分かる!」
 レックは繰り返し首を上下に振った。
「面白かったよなー。神父の権利を買った奴とか、変わった装備屋とか、見所ばっかりだった」
「あの店の女主人と天使達が仲良しだったのも驚いたよ」
 アベルが言う。
「店の品ぞろえの癖が強かったよね。凶悪そうな武器があったり、メイド服や水着があったり。ああいう店に二人が通うとはね」
「あれだろ。博愛主義ってやつ?」
 ソロがいい加減な調子で言う。
「ドマゾであろうと色狂いであろうと、全てのものには存在価値があるのデス……みてぇな」
「まあ、そうかもな」
 レックは笑いながら、首を横に振る。
「ナインとノインは、世界への好奇心が第一優先なんだよ。純粋なんだ」
「変な奴ら」
「君だって変わってるじゃないか」
 アベルが茶化す。
「天使相手に『異世界で一人旅をしたい』なんて無理を通そうとする人、滅多にいないよ」
「げ。その話、蒸し返すのかよ」
 ソロが顰め面をする。レックは笑いかけた。
「何で嫌がるんだよ。誰もあの戦いを不満には思ってないんだから、いいじゃねえか」
「そりゃあ、お前らはそうだろうよ。アベルの提案は全員が納得できるものだったし、天使連中の用意した報酬は十分だったからな」
 ソロの分析には、自虐も羞恥もない。冷静に、周囲の様子を把握している。
 しかし、それが分かっているならば、何故先日の一件を話題に出すのが嫌なのだろう。
 レックが首を傾げていると、ソロは苦々しい顔で言った。
「まったく。お前らが全員お人好しで、嫌になるぜ」
「なんで?」
「無茶を言った俺を、こんなにも受け入れる。普通は、多少責めるなり文句を言うなりするのが、自然だろうが」
 溜息を吐く彼に、レックは言う。
「文句ならアレンが言ってるじゃん」
「アイツのは文句って言うか、趣味だろ」
「ソロこそ、お人好しだよね」
 アベルが口を挟んだ。
「結局、まだこの大魔王の地図攻略クエストを受け続けているんだから」
「そういうのじゃねえよ」
 ソロは鼻を鳴らした。
「まだバカンスが足りねえの。それに、これだけ頭数がいるなら、もう俺の出番なんてなさそうだろ?」
「そうかい」
 アベルは、まっすぐな目で彼を見つめていた。
「君が言うなら、そうなんだろうけど。いかに利己的に語ろうと、君の抱いた魔王達への違和感が正しかったのは事実だ。僕は君を、信頼に足る戦士だと思っているよ」
「そうそう」
 レックは身を乗り出した。
「ノインから聞いたぞ。アイツが危機を察してメンバー召集をかけようとした時に、お前が宿へ戻ってきたって」
 先日のクエストで、予想外の大魔王達の襲撃を受けて壊滅の危機に瀕したレック達のパーティーを救ったのは、ノイン率いるパーティーだった。ノインがソロとアベルを急遽捜し出してやって来たという話だったが、後で聞いたところによると、ソロの方はノインが探しに行こうとした矢先に自らやって来たのらしかった。
「しかも、俺達の戦う洞窟の場所までノイン達を案内したのもソロだったんだよな?」
 レックはソロに笑いかけた。
「改めて、ありがとうな。助かったよ」
 ソロは何も言わず、ただ鼻を鳴らした。
「それで。どうして、旅行に行きたいなんて無茶を言ったんだい」
 アベルがなおも訊ねる。
 ソロはいよいよ訝しげな顔になった。
「何でそんなに気にするんだよ」
「君なら、他にやりようがあったんじゃないかと思ったのさ」
 問われるまま、アベルは語る。
「実際、君は一時的でもパーティーを離脱し、行方をくらませていたんだ。世界を回ることは、その時にやろうと思えばできた。そうだろう?」
 それを何故、わざわざパーティーに戻ってから天使達に要求したのか。世界を保持する彼らの立場を思えば、簡単に頷かれないのは分かっていたはずだ。
「手間がかかるばかりで要領の悪いことをしたのには、きっと他に理由があるはず。そう考えた方が自然だと思うけれど」
 アベルは話しながら、じっとソロを見つめる。不思議な虹彩は、ひたと端正な顔へ据えられたまま動かない。双眸や口元こそ笑みの形に弧を描いているが、妙な迫力があった。
「君の本当にやりたいことは、実は違ったんじゃないのかい」
 ソロが、じとりと彼を見つめ返した。
「それを聞いてどうする」
「別にどうもしないさ」
 アベルは答えた。
「裸の付き合いをするような関係になった今なら、教えてもらえるかなと思って」
「何だそりゃあ」
 ソロは呆れたように笑った。
「一個だけ訂正させてもらうが、俺は完全に行方をくらましていたわけじゃねえ」
 ノインは知っていたのだ。
 そう、彼は打ち明けた。
「エスタークを討った日の夜、俺がアイツに言ったんだ。俺一人で、エスタークの監視を続けたいってな」
「何で?」
 レックは訊ねた。
「ソフィアから、進化の秘法の話を聞いただろ」
「ああ」
「そもそも進化の秘法を生み出したのは、エスタークの方でな。それだけじゃねえ。本物のピサロは今でこそ秘法が解けているが、エスタークは違う。アイツはまだ進化し続けている、不死身の怪物なんだ」
 意識がある限り、周囲を破壊し続ける。
 外傷を与えることによって活動を止めることはできるが、あくまで止めるだけだ。眠りによって受けたダメージを回復すれば、また目覚めて破壊の限りを尽くす。
 そういう生き物だから、パーティーの離脱とエスタークの監視を願い出た。
「動き出したら、ノインに知らせるつもりだった。もっとも、俺が想定していたよりも復活が早かった上に、地中を移動しやがったもんだから、うまく止められなくてお前らに手間をかけさせちまったけど」
「それ、何でアレン達に言わなかったんだ?」
 言っていたら、少なくともアレンのソロへの評価は大分違っただろうに。
 レックが言うと、ソロは笑った。
「けど、エスタークが本物かどうかも分からねえんだぜ? いくら不死の怪物とは言っても、こっちは二度倒してる。パチモンならなおさら、アイツらと交代で見張りをするまでもねえ。まだ他に、戦ったことのねえ魔王がたくさんいるんだ。万が一魔王達が洞窟から出てきた時に備えて、そっちの対処法を掴むのを優先した方がいいだろ」
 それに、と心底おかしそうに続ける。
「アイツの俺への評価なんて、知らねーよ。俺の価値も行動も、俺が決める。アイツはちょっとした不信感で戦えなくなるほど、ひ弱な人間でもねえしな」
 レックは内心首を捻った。自分なら、パーティーメンバー全員に正直に事情を話していくところだが。
(要は、ソロなりの信頼だったってことか?)
 まだ何か話してないことがあるのかもしれない。
 そう思って黙っていると、ソロの顔から笑みが消えた。
「結果的に、そうして正解だったわ。一つ、確信が生まれた」
 ソロはこの世界に来てから、シドーとエスタークを二度討った。加えて、レック達たちの戦線に駆けつけたことにより、偽者ではあるがデスピサロとも戦った。
 その経験から、気付いたことがある。
「二度目に倒した奴の方が、一度目に戦った奴より強くなっている」
 行動の間合いが短くなった。
 使用する特技が増えていた。
 まるで、こちらとの戦闘により成長したかのようだった。
「エスタークだけじゃねえ。シドーもそうだ。それだけじゃねえ。他の奴らから聞いた話じゃあ、どいつもこいつも一度倒せば蘇る上に、元の世界にいたヤツより知性を感じないそうじゃねえか」
 レックは頷いた。ムドーも同じだった。まともな会話などせず、己の力を振るうこと、こちらの命を奪うことに固執していたように感じた。
「進化の秘法を施された魔族に、よく似てる」
 ソロは呟いた。
「まるで、俺達との戦闘で奴らを育てているみてぇだ。この世界に進化の秘法なんてもんはねえらしいが、それでもどうにも嫌な感じがする」
「それで、天使達を疑ったのかい」
 アベルが問う。
「彼ら天使や、もしくは彼らのさらに上にいる何かが、魔王達を育てさせているんじゃないかと」
「俺は、誰であろうと疑わずにはいられねえんだ」
 ソロは皮肉気な、左右非対称な笑みを浮かべた。
「俺は誰にも期待できない。神サマも魔王も人間も魔物も──勿論、テメェ自身もな」
 邪悪な者を育てて、世界の転覆をはかっている者がいるのではないか。
 だから、天使達を手がかりに確かめたくなった。
「結局、俺の気になることは掴めなかった。でも、アイツらが仕掛け人じゃねえことは分かった。変な奴らだが、世界ってものに対して全くと言っていいほど私欲がねえからよ」
「確かにそうだね」
 アベルが己の顎に手を添え、考え込むような仕草をする。
「この世界の魔王達は、どうも様子がおかしい。躾けられた犬が小屋から出ないように、棲み処で大人しくしているばかりで。野心があってやって来たようには見えないな」
「でも、この前は三体同時に襲い掛かってきた」
 レックが口を挟む。
「ナイン達の話じゃあ、同じ進化の秘法を用いた者同士が惹かれ合ったんじゃないかって話だった。でも、それなら何でエスタークとソロ達が戦った時は来なかったんだろうな」
「どうも釈然としねえ」
 ソロが冷水に浸った手で己の片頬を叩く。
「創造神のグランゼニスとかいう爺さんは、かなり昔に分裂しちまって、宝の地図に収まったり何だりしちまってるらしい。じゃあセレシアっつー神様が怪しいのかと思ったが、俺のカワイイいちゃもんくらいじゃあ出て来なかった」
 そもそも、グランゼニスに連なるだけの、創生の力を持たない神が、他の世界から魔王を連れて来られるのだろうか?
 また、天使達の話によれば、彼女は世界の在り方に対して保守的な神だという。父神により滅ぼされそうだった人間を身を挺して守ったり、その後も地上の生物の意思を信じて世界を見守ったりするような神だ。それが大魔王を連れて来る動機が分からない。
「じゃあ他に、いったい誰が大魔王の地図を作ってバラまいたんだ?」
「そうだなあ」
 アベルが天を仰ぐ。
「ナイン達の知らないような神が実はいた、とか」
「別の世界から隠れて侵略しようとしている何かがいる、なんて可能性もあるぞ」
 実際、レックの戦った大魔王デスタムーアはそういう敵だった。出身こそレックと同じ世界だったようだが、自ら創り出した狭間の世界に身を隠し、配下の魔族を使ってあの手この手で世界征服を企んでいた。
「だが、これだけ世界を回ってみたのに、それらしい場所を見つけられなかった」
 ソロは、お手上げと言いたげに両手を広げた。
「これからどうしたもんだろうな」
「まずは、君の疑問をみんなに共有したらどうかな」
 アベルが提案する。
「君の疑問はもっともだと思うよ。僕達の目的は、この世界と僕らの世界の危機を救うこと。魔王退治は言うまでもなく大事だけれど、魔王達の正体を突き止めて復活を阻止することも、いつかは求められるだろうから」
「俺が言ったところで、アイツら、信じるかなあ」
 ソロは疑わしげに言った。
「この前の旅行話の延長だと思われそうなもんだが」
「大丈夫だろ」
「そう言うのはお前だけだよ」
 レックの後押しをソロは一言で流し、そうだ、とアベルを見た。
「アベルが提案してくれよ。アンタなら、アイツらも信用してるだろ」
「僕は構わないけど。いいのかい?」
「ああ。アベルが言い出して、俺がそれに乗って話せば、趣旨は伝わるだろ」
 ソロとアベルは、何をどう話すかについて語り合い始めた。レックは二人の話に耳を傾けながら、ソロの怜悧な横顔を見つめる。
(やっぱり、根はちゃんと勇者なんだよなあ)
 ソロは、アレンやアレフと違った方向に自分を強く持っている戦士だ。己自身と己を取り巻くもの全てを慎重に検討し、思案し、世界の形を正確に見極めようとする。疑り深さと自己愛の低さは一般的には欠点かもしれないが、彼の場合は間違いのない仕事をするための美点となっていた。
 己の信条に従い自由に戦うのは、きっと苦しいだろう。自由とは、自分の行動に伴う全てを一身で背負うことだ。彼のような勇者は、孤独といつも肩を並べて歩まなければならない。
 しかしレックは、そんな彼を少し羨ましいと思った。
「どうした?」
 何も言わず、見つめていたからだろうか。二人が怪訝そうにこちらを窺ってきた。
 レックは笑顔を返す。
「いや、何も──」
≪ソロさん、アベルさん、レックさーん!≫
 その時、脳内に女の声が届いた。
 魔法により、木霊しながら遠方より辿り着いた声。ルイーダの酒場の呼び出しだ。
 三人は飛び上がった。
「やべえ!」
「よりによって今かよッ」
「服! 服!」
≪お呼びよ~!≫
 水場を飛び出して下着を穿くのが限界だった。
 レック達三人は、どうにか脱衣籠に入れてあった装備品を抱えた。その格好のまま、呼び出しの強制力に誘われ、行水場の出口目指して走り出した。






 ルイーダの酒場に呼ばれた者が開ける扉は、いかに遠方の扉であろうと全て酒場へと通じる。だからレック達が開け放った行水場の扉も、例外なくセントシュタインの酒場に繋がった。
 三人が飛び込むと、ロビーにいた人々が怪訝そうにこちらを見た。しかし、飛び込んできた面子が全員ずぶ濡れの下着一丁だと認識した途端、すぐに目を逸らした。彼らをまっすぐ見つめ続けたのは、ルイーダのカウンター前にいるサンドラとソフィアだけだった。
「うわ。貴方達、何してたの」
 サンドラは駆け寄ってきた三人を前に、顔を顰めた。
 レックは苦笑いで答える。
「サンマロウの行水場に行ってたんだよ」
 一方、同じように彼らを迎えたソフィアはにこにことしていた。
「さっすが歴戦の戦士。よっ、気前がいいね!」
「おうおう。ありがたく享受しとけ」
 ソロは鼻を鳴らした。
 レック達は持ってきたタオルで身体を拭き、服を纏う。下着の湿った状態で服を着るのは気が進まないが、仕方ない。このまま宿の利用客や従業員に、ちらちらと物珍しげな視線を浴びせられ続けるよりはマシだろう。
 真っ先に着衣を終えたのは、アベルだった。そうして改めてサンドラ達を見、首を傾げた。
「君達、二人だけ? ナインとノインが僕らを呼んだんじゃないのかい?」
 酒場の呼び出しは、クエストの契約者同士で行われるものである。レック達の契約者は天使の二人のはずだから、ここには彼らもいるのが自然なはずだった。
「私も、そのつもりだったんだけどね」
 何故か、サンドラの口ぶりは苦い。
 すると、カウンターの向こうからルイーダが話しかけてきた。
「酒場主人の権限で、特別に代替者の呼び出しに応じることにしたの。だって彼女達、アレが終わるのを一時間くらい待ってたから」
 美しいマニキュアの施された指が、酒場より右手の階段の方を示す。見れば、階段の上の中二階で、こちらに背を向けた天使達がはしゃいだ声を上げていた。
「強固なメタルの加護!」
「オーロラのような煌めき!」
「メタルを超えたプラチナのボディ!」
「背中にオーラが宿ってる!」
 レック達は顔を見合わせた。
「ボディビルでもやってるのか?」
「似たようなものかもしれないわ。観客が勝手に盛り上がっているだけなのだけれどね」
 サンドラは片腕を上げ、天使達を指し示した。
「ダメもとで、声を掛けてきてくれないかしら。唯一外出していたあなた達が帰って来たと気付けば、いい加減話を進めてくれるかもしれないから」
「分かった」
 レックは階段を上っていく。天使達はまだはしゃいでいるようだ。その背中が近づいてくるにつれ、彼らの向こうにいる者の姿も見えてきた。
 そこにいたのは、小柄な少年だった。白いシャツと新緑の外衣をだぶつかせる体躯は、どう見ても逞しさからは程遠い。さらに頭巾を被った顔は童顔で、途方に暮れた表情がなおさら彼を子供めいて見せていた。
 狼狽えている少年へ、天使達は興奮した様子で次々言葉を飛ばしている。
「これぞスタープラチナ!」
「天使を超えた輝き!」
「全てのモンスターの系統を超越した極致!」
「その輝きに痺れる、憧れる!」
 何を言っているのか、さっぱり分からない。
 レックは声を掛けた。
「ナイン、ノイン。ただいま」
 天使達は同時に振り返った。全く同じ角度で口角を上げ、声を揃えて言う。
「お帰りなさい。ちょうどいいところにいらっしゃいました」
 二人は小走りにレックのもとへ駆け寄った。それぞれ彼の左右の腕を取り、少年の前へと導く。
「レックさん。お分かりになりますか」
「何が?」
「彼はあなた同様、モンスター職を経験した人間なのです」
 レックは眼前の少年へ目をやった。すると少年もまた、レックへ眼差しを返してきた。その顔からは先程まで浮かべていた戸惑いの色が消えており、代わりに旺盛な好奇心が溢れていた。
「君も、ダーマ神殿で転職を?」
 そう言う声は予想していたよりも低く、大人びていた。そこで改めて彼を見つめたレックは、彼が少年というより青年に近い、十分に立派な骨格の男だということに気付いた。骨ばった喉や掌の大きさ、しっかりした肩の形は成人のものであり、背丈も己より低いことには変わりないが、子供と呼ぶには高すぎる。少年に見えたのは、纏うシャツがかなり大柄なものであるのと、シャツの裾から覗く黒いズボンの細さのせいだったようだ。
「ああ」
 レックが頷くと、青年は微笑んだ。口元に笑窪が浮かび、またあどけなさが増す。
「すごい。世界には、まだまだ僕の知らないことがたくさんあるんだな」
 青年はレックに手を差し出した。
「僕はアルス。Ⅶ番の世界から来ました」







▶︎



 新たに発見された地図に記された魔王の名は、オルゴ・デミーラといった。
 彼は万物の王たることを目指し、Ⅶ番の世界の各地へ己の息のかかった者を置き、闇の世界へと取り込んでいった。やがて、その企みに気付いた神と数百年にわたる戦いを繰り広げ、辛くもせり勝つと、圧倒的な力と謀略により、世界を己が闇の中へ収めきってしまった。
 その魔の手から逃れられたのは、小さな無人島一つのみ。
 人の心に付け入る悪魔に侵略されないその島を、乱世より生き延びた漂流民は楽園と呼んだ。その民の末裔の腹に生を受けたのが、アルスだった。
 アルスは仲間達と共に、島に遺された遺跡を介して過去へと旅立った。そして、魔王に封印される前の時代に何度も干渉し、世界をもとの光の中へ誘い出した。
「この世界に、オルゴ・デミーラの配下は生まれていないかな」
 アルスは、作戦会議のために集まったパーティーの面々の視線を一身に浴びて、緊張しているようだった。それでも己の知る魔王のことを簡潔に語った後、ナインとノインへそう問いかけた。
 天使達は顔を見合わせる。
「つい先日、ここにいる皆さんと世界を巡る旅行をしてきたところです」
「しかし、異常は特に見当たりませんでした」
「そう。そのまま何事もなければいいんだけど」
 アルスは目を伏せた。
「アイツの恐ろしいところは、ヒトの心を闇の形で露出させるのが得意なところだと、僕は思うんです。そして一度形になった闇は、解消できない。大きな争いに発展する前に異常を見つけられれば、被害を小さくできる」
 アルスは時折口ごもりながら、ゆっくりと話す。そうした姿は第一印象通り、内気な少年のようだった。
 彼は本当に、魔王を討ったパーティーの一員なのだろうか。
 最初、レックは疑問に思わずにいられなかった。しかし彼が話すことを聞くにつれ、魔王を討つ旅をしてきたのは事実だろうと考えるようになった。何故なら彼の語ることは、確かに魔王の創った闇を見てきた者のそれだったからだ。
「分かりました」
 ナインがメンバーを見渡して言った。
「今回は、二手に分かれて動いた方が良さそうです。いつものように魔王と戦う四人パーティーと、世界の異変を探りに行く人々。それから万が一に備えて、セントシュタインの宿屋で待機する人もいた方がいいでしょう」
「私とナインは、分かれた方が良いですね」
 ノインが片割れへ目をやった。
「世界と魔王と、両方を確認しておく必要がありますから」
「ええ」
 ナインは頷いた。
「では、まずはオルゴ・デミーラと戦う面々を決めましょう。アルスさん、オルゴ・デミーラの戦闘能力について話していただけますか」
 アルスは小さく頷いた。
「僕はオルゴ・デミーラと二回戦った」
 初回は過去の世界に大魔王として君臨する彼との、もう一回は現代に偽の神として蘇った彼との戦いだった。
 オルゴ・デミーラは細身の人間男性に似た形態と、巨大な蛇と蠍の合いの子のような竜の形態を持つ。さらに、ダメージの蓄積に従って形態が細かく変化し、戦法も変わってくる。
 そう語り、アルスはいくつか攻撃の例を挙げる。四大属性の強力な呪文や特技。鋭利な爪でこちらを鷲掴みにし、叩きつける攻撃。状態異常をもたらす技や、いてつくはどうなど。
「待ち時間に、貸してもらった記録を読んだよ。これまでに戦った魔王は偽者ばかりだったけれど、本物と似た技を使うそうだね」
 アルスは傍に積んであったモンスター図鑑を手にした。
「形態変化はしないとしても、どの技を使ってくるかは分からない。特に使われたくないのは、状態異常をもたらす技だ。オルゴ・デミーラは、催眠、錯乱、猛毒をかけることができる」
「ふむ」
 ナインが手を顎に当て、考え込むような仕草をする。
「毒ならばまだダメージが少ないからいいですが、眠らされたり混乱させられたりしたら手間です。パーティーメンバーには耐性装備を持って行ってもらいたいところですね」
「もしもの時は僕が回復できるから、可能な限りで十分だよ」
 アルスは言いながら、手元の冒険者名簿をめくる。
 アベルが声を上げた。
「ねえ。回復手段があるのはいいけど、君がいつも回復できるとは限らないんじゃないかな」
「そうね」
 サンドラも同意する。
「あなた自身が眠ってしまったり、混乱状態になってしまったりする可能性もある。過信は禁物よ」
「うん。そうですね」
 アルスは二人へ、控えめな笑みを浮かべた。
「でも、大丈夫。僕は、状態異常に完全耐性を持つ職に転職できるから」
「完全耐性だと? そんなことができるのか」
 眉を跳ね上げるアレフに、アルスは頷いた。
「僕の世界は、職業が独特らしくて。ちょっと待ってくださいね」
 アルスは言いながら、腰に下げた鞄の中から一冊の本を取り出した。背表紙を見るに、どうも彼の世界のモンスター図鑑らしい。
 分厚いそれをパラパラとめくり、アルスはある一ページを開いて彼らの方へ見せた。そこには、鋼の身体を持つスライムがいた。
「ナイン達から聞いたよ。メタルスライムは、どの世界にもいるらしいね。この魔物は、打撃以外の全てに耐性を持つ。属性攻撃は受け付けないし、状態異常にもならない。皆さんの所も、そうですか?」
 円になったメンバー全員が頷いた。アルスの瞳が、きらりと光った気がした。
「僕はこの、メタルスライム属の魔物の力を借りて戦うことができるんだ。僕達の世界では、こういう魔物の心得で戦う職業を、モンスター職って呼んでる」
 アルスはさらにページをめくり、現れた魔物を知っているかと周りに問いかけた。
 はぐれメタル。これは、アレフ以外知っていた。
 メタルキング。こちらも、ほとんどが知っていると答えた。見たことがないと言うのは、ロトの勇者達だけだった。
 そういう話を、アルスはにこにことして聞いた。嬉しげなその様子を見て、どうも彼は研究者タイプの戦士らしいとレックは察した。先程まで見えた内気さが、この話が始まってから少し引っ込んだ気がする。
「僕の世界には、メタルキングよりちょっと大きいプラチナキングっていうヤツがいる」
 アルスはまたページをめくった。そこには、白金の平たいパイ包みのような身体を持つ、メタルスライムの亜種の姿があった。
「僕は、このプラチナキング職を極めたんだ。だからこの職になって戦闘に行けば、状態異常の技を喰らっても大丈夫なんだよ」
「便利だな」
 アレンは食い入るようにプラチナキングを見ていた。その顔は、「一度なってみたい」と雄弁に語っていた。
 そんな彼を、ソロが茶化しにかかる。
「アレン殿下はもう身も心もブルーメタルマンなんだから、いらねーだろ」
「うるせえ。俺は本気だ」
「何で」
「これになれたら、どんな状況でもお前をタコ殴りにできる」
「やべぇやべぇ。勇者サマ、コイツでーす」
 ソロはふざけてアレンから距離を取り、レックの背後に回る。
 レックの隣にいたエイトが笑う。
「君達、どっちも勇者だよね?」
 レックは一連のやりとりに応えるように微笑んだ後、片手を挙げた。こちらを向いたアルスを見据え、口を開く。
「完全耐性はいいけど、体力は保つのか? メタル職は強力だけど、体力がネックだ。それに、火力も不安がある」
「問題ないよ。実際にこの職で、オルゴ・デミーラよりやばいのと戦ったことがあるから」
 アルスはそう言った後、笑みを深めた。
「それより、その話しぶり。やっぱり君も、メタル職についたことがあるんだね?」
「いや──」
 しまった。
 レックはどう返したものか迷う。しかし、すぐさまこちらを向いた天使達の顔を見て、抵抗を諦めた。追求心の化身の如き彼らから、逃げ切れるわけがない。
「ああ、そうだよ」
「何故教えてくださらなかったのです?」
 ナインの問いに、肩をすくめて答える。
「うまく使いこなせるか、自信がなかったからな」
 レックの世界に存在するメタル職──はぐれメタル職では、他職の追随を許さない素早さと守備力を得ることができる。覚える技も強力だ。ビックバンやジゴスパーク、マダンテなど、強力なものが揃っている。
 しかし、体力と火力には不安があった。レックはアタッカーとして戦闘に挑むことが多いため、そのどちらも重要である。だから極めこそしたものの、あまり実用はしていなかった。
 レックがそのように話すと、天使達は頷き合った。
「レックさんが行けるならば」
「決まりですね」
 天使達は揃って、メンバーのうちの一人に顔を向けた。
 顔を向けられた者は、全員の視線が集まる中心で顰め面をしていた。
「ソロさん」
 ノインは、満面の笑みで乞うた。
「今回は、私がアルスさん達と一緒に行きます。ついて来てください」
「俺かよ」
 ソロは秀でた美貌を露骨に歪める。
「ベホマズン持ちは、俺以外にもいるだろうが」
「ノインと組んで一番長いのは、あなたですから」
 ナインが頭を下げる。
「僕は行けません。ノインをお願いします」
 ソロは溜め息を吐き、しょうがねえなと頭を掻いた。
「ありがとう」
 アルスは礼を言い、それから全員を見回した。
「各地に異変を探しに行く人は、僕の冒険の書を読んでいってください。オルゴ・デミーラの手口を知る参考になると思うから」
「はいはーい」
 ソフィアが手を挙げた。
「ここで話すんじゃ駄目なの? あたし、本だと読み切れる自信がないな」
「なら、僕が話そうか? 時間がかかっちゃうけど、それでも良いならば」
 アルスが答えると、ソフィアは頷いた。
「大丈夫! だって、挑むのは明日でしょ? 時間には余裕あるじゃん」
「どうする?」
 アルスは天使達を見やった。
 まず、ノインが答える。
「では希望者のみ、この後アルスさんの話を聞くという形はどうでしょう?」
 次いで、ナインが答える。
「その前に、世界の巡回をするメンバーと宿屋で待機するメンバーを決めてしまいましょうか」
 天使達の提案に、全員が同意した。
 話し合いの結果、アレン、アベル、エイトの三人が宿に残り、それ以外の面子が世界の異常を探しに行くことになった。
 その後小休憩を挟み、アルスの旅路を聞く会が始まった。
 レックはオルゴ・デミーラ討伐パーティーに参加するのだから、アルスの話を聞く必要はない。だが、異なる世界を生きる者の話は本人の語りで聞いた方がいいに決まっていると考え、参加することにしたのだった。
 見れば、その場には宿の仕事を手伝いに行くという天使二人以外の全員が残っていた。細かい動機に個人差はあるだろうが、どうも、異界に興味を持つのは誰しも同じらしかった。
「じゃあ、かいつまんで話します」
 アルスは、自身の書の表紙をなぞりながら微笑んだ。
「先に言っておくけれど、嫌になったら途中で退席してくれて大丈夫だよ。とても長い話になるし、何より、その──わくわくする冒険ではないから」






 アルスの言う通り、彼の旅は二つの意味で長かった。
 彼は特定の条件下で時を遡ることのできる、タイムトラベラーだった。出身地にある遺跡を媒介として、遥か昔、魔王に封印される頃の異郷へ飛ぶことができるのだ。そうして各時代、各地で魔王の配下と戦い、世界を封印の歴史から解き放った。彼の旅は、壮大な時を駆ける路だった。
 その気が遠くなるほどの年月に起こった、魔王に脅かされる異郷の事件の数々は、これまた気が遠くなるほどに陰惨だった。アルスは最初に言った通り、魔王の企みに巻き込まれた各地のエピソードを要領よく語ってくれた。それでも、そのあらすじを聞くだけで気が滅入る気がした。
 魔王に兄を殺され、自身もその命を時代の封印を司る鍵と変えられた、元人間の魔物。
 呪いの雨で住人の全てが石化し、そのまま滅びた町。
 生まれた赤子が皆、魔物に変わってしまう国。
 話を聞き終えた頃、場の空気はすっかり沈んでしまっていた。だが、このような事件を再び起こしてはならないと、世界巡回パーティーのメンバーは気持ちを奮い立たせて作戦会議をしに行った。
 レックは共にオルゴ・デミーラ討伐に向かうソロと共に、アルスを部屋へ案内することにした。あらかじめ天使達から彼の部屋の位置は教えられていたので、案内は容易かった。
「アルスは、遺跡から過去に飛ぶまで、魔物もいないような平和なところに暮らしてたんだろ?」
 エレベーターの中で、レックはアルスに話しかけた。
「なのに、よくあんな旅を続けられたな。すげえよ」
「ありがとう」
 アルスは控えめな笑みを浮かべた。
「でも、何も考えていなかっただけなんだ。だって僕は、本当に何も知らなかったから」
「あれだけ人間との愛憎といざこざにまみれた状況なら、何も考えねえ方が正解だろ」
 ソロが言うと、アルスは首を傾げた。
「そうかな」
「おう。考えすぎると毒だぜ」
 ソロは片手を軽く振った。
「何も考えないでいれば、本能の方が勝手に都合のいいものだけ受け取ってくれるからよ。考えねえくらいの方が、精神衛生上良いんだわ」
(自分はできないのに、よく言うよ)
 レックは胸中で呟いた。ここ数週間行動を共にして、彼を思考停止という言葉からは程遠い男だと感じていた。
「そうだね」
 アルスは同意した。
「ギリギリ生きてるっていう状態の人間は、概ねそうなる。でも僕は、極限状態にはついぞならなかったよ」
 レックとソロは、新入りを見下ろした。
 変わらぬ小さな笑みを浮かべている。
「僕は、あまり考えるのが得意じゃないんだ。そういうものかって、受け止める。できたのは、それだけだった」
 目にするものを受け入れ、耐えた。そのうち、どんなものに出会っても、思うことより先に対処法の検討を始めるようになった。
 アルスは訥々と、そのようなことを言った。
「大変だとか悲しいとか、そういうことも思うよ。でも、今これはどういう状態なのか、じゃあどうするか、みたいなことの方が、どうしても気にかかってしまって」
 お前はよく平気そうな顔をしていられるな。
 まったく、ぼんやりしてるんだから。
 旅の最初の頃は、一緒にパーティーを組んでいた感受性の豊かな友人達に、よくそう言われたものだった。
「僕はきっと、薄情なんだろう。世界を知りたくて、遺跡を見つけた。その延長で、旅をした。でも何も知らないから、現地の人達の痛みも完全に分かち合ってあげられなかった」
 エレベーターの鈴が鳴った。
 アルスは部屋に下りた。彼は充実した部屋に感嘆の声を上げ、案内した二人に礼を言った。
「明日、よろしくね」
 手を振るアルスの前で、エレベーターの扉が閉まる。
 魔法の箱は、再び上昇を始めた。
「考えてるし、十分優しいじゃねえか」
 レックは呟いた。ソロが頷く。





続く