DQ小説同盟との出会い




※ほんの一瞬ですが、他ジャンル♂×♂のCP名が出ます。









 私とDQ小説同盟の出会いは、小説同盟に登録した二〇〇九年の夏より少し前だった。二次創作を初めて知ったのがその前年だったので、二次創作を一年見学してから実際に手をつけ始めたことになる。
 さっそく話題が逸れるが、私の二次創作読書遍歴の入り口について語らせてほしい。
 私が初めて訪れた二次創作世界は、何とはなしに検索エンジンをいじっていたら辿り着いてしまった国民的探偵漫画の探偵と怪盗の薔薇園だった。淡いブルーの背景と白文字からなるその個人サイトのレイアウトは、私の二次創作の原風景として今でも網膜の裏にぼんやりと思い浮かべられる。
 あの時の感情を、何と形容したらいいのか。
 滾る。冷める。萌え。萎え。好ましい。厭わしい。
 そのどれでもなかった。
 私の心にあった感情という感情、色という色の概念が揺らぎ、淡くなった。強いて言うならば「衝撃」に近かったのだろう。
 作品を二三読んで、ウィンドウを閉じた。それからしばらく自分の目にしたものについて考えた。
 思い返してみれば、当時の私はただ漫画を読んでそのストーリー展開にひたるだけで満足できる人間だった。だから、自分の帰りを一途に待つ女をよそに間男とよろしくやってる高校生探偵がいる世界線など想像したこともなくて、動揺したのである。
 私の素直かつ純真な人となりが窺える愛らしいエピソードだろう。しかし見方を変えれば、この出来事は当時の私が数年来読み込んできたはずの名探偵の物語について思索を深めたことがまったくなかったという証明でもある。
 当時の私にとって、物語を楽しむとは「ストーリー展開を見て、受け止める」ということだった。起こったことが全てであり、行間を読むことはしない。予想外の刺激を受け止めることが快感で、それが物語を楽しむことだと思っていた。
 しかし二次創作と出会い、私は変わった。行間を読んで物語を疑うことも刺激に結びつくと知ったのである。
 この記念すべきファーストインパクトの後、私は一年あまり二次創作小説を読みあさった。漫画小説映画の垣根を越え、ジャンルを越え、普段殺伐としているバトルファンタジー小説がほのぼのとした日常の顔を見せる話や、抱腹絶倒のギャグ漫画が胸糞の二文字が胸にのしかかるサイコスリラーに変身する話など、原作とはまったく違う展開をむかえる物語を嗜んだ。それまであまり読んだことのなかった恋愛ものにも手を出し、異性愛、同性愛、無性愛、人外愛と、ひとしきり読んだ。
 大変楽しかったものの、自分が書こうとは思わなかった。楽しいのは予想外の刺激を受け止めることなので、自分の書いたものは対象外なのである。つまり、趣味は広がったが根本的には何も変わっていなかった。
 それが変化したのが、DQ小説同盟との出会いだ。
 あの頃、Pixivのような作品投稿サービスは二次創作であまりメジャーではなかった。「ランキング」や「サーチ」などと呼ばれる、個人の同人サイトをまとめた検索システムを利用することが二次創作を嗜む基本だった。
 その一環で、私はDQ二次創作小説取り扱いサイト専門のサーチエンジンを検索した。最初にヒットしたのが、DQ小説同盟だった。
 一目見て、スマートな画面だと思った。簡潔な同盟概要説明文がトップページにある。様々なページへのリンクがうまく収められている。おまけにPC画面でも携帯端末画面でも見やすく、使いやすい。使っていくうちに、感嘆の気持ちはどんどん大きくなっていった。
 歴戦のDQファン諸兄の前で今さらこのようなことを語るのも恐縮だが、DQの最大の魅力は余白の美にあると私は考える。DQのゲーム展開は、プレイヤーキャラクターを動かし、出会いによって言葉やアイテムを得、ボスのもとへ辿り着いて倒すという筋道を辿る。選択肢に多少の余裕こそあるが、ストーリー展開が決まっているために縛られていると感じるという声もある。もっともである。
 しかし、DQの余白とは行動ではなく言葉選びにあるのではないだろうか。
 たとえばⅠの竜王の台詞で「世界の半分をやろう」というのがある。ここでまずプレイヤーは「世界の半分とは?」と疑問を抱く。
 「はい」と答えれば竜王から「闇の世界」をプレゼントされるわけだが、この「闇の世界」という言葉にまたプレイヤーは惹きつけられる。当然だ。そのような存在など、ここまでの道のりにまったく窺えなかったのだから。
 しかしこれまでに得た人々の言葉や事件を思い返してみると、そこにほのかな陰翳が見えてくる気がする。周回するうちに、プレイヤーはおのずから闇の世界について考察を深めていく。するとこれまで見えていたアレフガルドの世界の景色や人々の顔が違ったものに見えてくる。
 一般的に自由度の高いゲームというと、行動や選択の幅が広いものやエンディングの種類が豊富なものを指すが、DQは違う。DQでプレイヤーに自由を与えてくれているのは世界観であろう。世界観はイベントによって作られる。DQのイベントには言葉がつきものだ。人の台詞やコマンドが、私達にイベントの進行を伝えてくれる。
 DQの言葉選びは絶妙である。世界の輪郭を一つの明確な言葉で表すことをせず、あまたの言葉の集積でそれとなく示す。時にどのような言葉で語ったかというより、何が語られなかったかというところで示すことさえある。DQは言葉に繊細なゲームなのだ。
 その特性は、ファンサイトであるDQ小説同盟にも生きている。
 可不足なく書かれた同盟に関する説明ページ。要領よく簡潔に情報を伝えてくれる新着情報欄。無駄のないレイアウト。
 特に愛用させていただいた検索システムなど、その最たる例だろう。シリーズごとや作品の長さ、作品形式、物語の傾向、キャラクター、カップリング別、さらにはフリーワードでの検索ができるという細やかさが素晴らしかった。
 同盟名簿、メンバーの個人ページも良かった。シンプルなメンバーの名前の羅列、そのひとつひとつをクリックすれば途端にそのメンバーの色が迸る。個人ページでは、そのメンバーのサイト紹介文や登録作品の一覧を確かめることができた。登録作品には作品説明と冒頭文の抜粋、タグ付けがほどよい量と質でなされていた。この個人ページの内容編集はメンバー自ら行うことができるのだが、ここに選ばれた言葉を見ることによって、読者は作品を見る前にそのメンバーの特色を知ることができた。気分は平安朝、雅なお屋敷の縁側に垂れ下がった簾から、鮮やかな十二単の襲をちらりと垣間見る男である。こんなたとえが必要かって? DQは日本のファンタジーなんだからそれくらいの喩えをしたっていいだろう。いいえ少しこの言い回しを使ってみたかっただけです。ひけらかしたがりでごめんなさい。イキリは楽しい。
 そのようなシステムだったから、私は無限にDQ二次創作を検索して浸っていられた。
 検索を使って目当てのジャンルを読みあさり、その後は名簿順に気になるサイトを見に行った。
 スムーズな検索ができるから、冷めることなく「まだこんなに読むものがある」と次から次へとリンク先のサイトに飛ぶことができた。胸の高まりが止まらない。ふるえるぞハート。燃え尽きるほどヒート。
 そしてある時、ついに私の中の何かがプツンと切れた。
 自分もDQの物語を書きたい。DQ世界を書くことによって、世界観をもっと味わって深めたいと思うようになったのだ。
 手始めに、その頃プレイしていたDQⅢのパーティーを小説にしてみようと思った。他に動機として、小説同盟に居並ぶ個性溢れるロトパーティーへの憧れもあった。私は自分のパーティーの物語について空想し、ある程度骨組みができあがったところでサイトを作ることにした。
 HTMLをマスターして一からサイトを作り上げるだけの忍耐がなかったので、無料の携帯HP作成サービスで簡単な個人ページを作った。その過程で簡単なHTMLの言い回しを覚え、文字を太くさせたり色を変えることができるようになったりして、ちょっと得意な気分を味わった。良い思い出である。
 簡単にHPができたところで小説の冒頭を仕上げ、DQ小説同盟に登録申請した。通った。参加者名簿に自分の名前が載っているのを何度も眺め、自分の物語が憧れの同盟の一部になったことを噛み締める。二〇〇九年七月末のことであった。
 あれから十一年。途中他ジャンルの更新ばかりしてDQをまったく書かなくなったり、最初のサイトを消したまま失踪したりした時期もあったが、またDQ小説界に戻ってきてしつこく居座っている。
 たまに、何故だろうと考える。
 時が経つにつれ、DQ以外の作品に出会って熱狂し創作をする機会も増えた。DQは好きだが、生活しながらDQのことをずっと考えているわけでもない。スバラシイ二次創作を書いたら100万円が手に入ることもない。そんなことが現実に起こったら小説同盟の存在だけでスク工二が潰れてしまう。まだDQⅩの最新ストーリーまで追いついていないからダメだ。むしろもっと金を払わせてくれ。
 PixivにDQ二次創作を投稿すれば、同じく自分が書いた旬ジャンルの二次創作との反応数の差に愕然とする。反応欲しさ第一に創作をしているわけではないが、小説というのは読者の反応があって初めて全貌が見えてくるという性質を持つ。自分の妄想を楽しみたい人間ならば、多少気になってしまうのは仕方ないことだ。
 国民的RPGでこのような楽しみ方をする人は少ないのだろうか、私の書き方がまずかったのだろうか。たまに悩むが、一度飯を食べれば大抵忘れる。満ちた腹をさすりながら、ぼんやりする。
 そういえば、どうしてDQの二次創作を続けているのだろう。しかも何故小説なのだろう。
 また一瞬考えるが、深く考えずにさっさと次の物語の舞台について妄想を膨らませ始める。時間をかけて考えるべきことかもしれない。しかし私は考えずにここまで来てしまった。
 サイトを閉めたり、また作ったり、移転したり、また閉めようとしたり。気まぐれに活動休止と再開を繰り返しながら、初めて書いたDQⅢの小説を七年越しで完結させ、短編や連作をぽつぽつ書き、新しい長編に手をつけている。筆の原動力は情熱と呼ぶには弱く、習慣と呼ぶには癖が強い。
 いつの間にか、小説を書かない日が連続すると落ち着かなくなってしまった。自分の書いた文字が並んでいない日々はつまらない。じゃあ何を書こうかと思うと、最初に浮かぶイメージがDQなのである。
 奔放な私のイメージを、世界を文字にする。DQは受け入れてくれる。なにせとてつもなく広い余白があるのだから、私の妄想程度、大した障りにならないのである。
 もっとも余白を意識できたのは、原作をプレイしている時ではなかった。余白に描かれたプレイヤーたちの物語を読んで、その存在に気付いた。シンプルなドットの組み合わせからはじまった世界を、物凄い数の人々が各々の色の線でなぞったりはみ出したりして、楽しんでいる風景。DQへの親愛。原作への忠実で愉快な懐疑。妄想の悦楽。
 私はそれを眺め、足を踏み入れ、遊び回ってきた。DQ小説同盟の空気を吸って育ったのだ。私の創作が自由奔放な理由も、そもそもの出発点が小説同盟だからなのかもしれない。
 小説同盟でDQについて考えることを覚え、DQに様々な解釈がある魅力も、言葉や世界を考察して深める喜びも知ったのだ。



 このたび、DQ小説同盟が実質閉鎖になるという。個人サイトのまとめどころがなくなる寂しさはもちろんあるが、同時にもうちょっとサイトを続けていこうという思いを新たにした。
 私の根本には、小説同盟で過ごした愉快な日々がイデア界のごとく存在する。私が創作を続けていけば、少なくとも私の中にはかつて見た夢を今しばらく留めておける。オリジナルの同盟のように大きく強いものでなく、蜃気楼のようなか弱くやわな存在かもしれない。だがDQ小説同盟をもとにしてできた世界だ。そこで培ってきたものを叫び続けたい。
 私は叫ぶために文章を練る。言葉を蓄積し、選び、形にする。
 その度にDQと、誠実なファンサイトだった小説同盟を、そこで読んだ小説たちを思い出すだろう。
 更新頻度が低くなっても、訪れる人がいなくても、時代の流行りが変わっても。
 私は私の良いと思うものを追い続ける。かつて見た小説同盟の景色を目指して。







20200801 DQ小説同盟感謝祭に寄せる