静夜




 扉を後ろ手に閉めて、彼は空を見上げた。暗闇から白いものが降りてきている。いつの間に降り出したのだろう。何時間も前に彼が店に入った時には、重苦しい雲は立ちこめていたけれど舞うものはなかった。しかし既に踝が埋まるほど積もっていることから察するに、かなり前のことなのだろう。


 一歩踏み出すと積雪がきしりと鳴く。足が前に出る度にきしりきしりというささやかな声は、宵闇に飲み込まれてすぐに消えていく。靴跡は舞い降りた白片にそっと埋められる。まるで彼が歩いた跡を、存在を消そうとするかのように。


 今日はやけに人に会わないな。花街を離れた頃に彼は気付く。もう夜更けであるから当たり前かもしれないが、それにしても常なら酔いどれなどの誰かしらとすれ違うものである。それが皆無だなんて、珍しい。


 辺りを見回した。人はやはり見当たらなかったが、代わりにある一軒家に目が止まった。取り上げることなど何もない家屋である。だがその扉には、赤い実に彩られた常緑樹の輪が飾ってあった。


 そうか、今日は聖夜なのか。それで彼は忘れていた聖誕祭を思い出した。彼は一週間ほど野山を彷徨い、今日この町に着いたばかりである。日にちなど数える事を忘れていたし、天の子の誕生日を祝うなんて概念は頭になかった。


 近くに商会が設置したのだろう長椅子を見つけ、白い厚みを払って腰掛ける。外套が濡れるのが分かったが、構わない。紫水晶の瞳を細めて先程のリースを見つめた。徐々に、鈴を振るような声が蘇ってくる。


「ソロ、見て! 母さんに教わってリースを作ったのよ」


 目の裏に、華奢な少女が長い髪をなびかせて走ってきた。彼女の手には少し歪な常緑樹の輪がある。赤い実と松ぼっくりで彩られたそれは、素朴で可愛らしかった。


「ずっと作ってみたかったの。可愛いでしょ? 来年はソロにも作ってあげるね」


 そりゃいーけど、作るならもっとちゃんと丸いのにしてくれよ。そう言うと、彼女は頬を膨らませる。


「形が変で悪かったわね。見てなさいよ、絶対職人さんが作るのより凄いのを作ってみせるから!」


 勝ち気に眉と口の端を吊り上げて、彼女は笑った。
 彼女は宣言通り、次の年は形の綺麗なリースを作ってきた。正直驚くくらいの出来だったのだが、自分はまた彼女をからかって怒らせた。でも少しだけ、ほんの一言だけ褒めてやると表情が一転して綻んで。


 彼は瞼を上げた。目の前に広がる暗闇に、彼女の姿はない。細い指で括られたリースもない。あれも多分、魔物の手で壊されてしまったのだろう。


 彼女の名を呼んでみた。しかし声に出した途端周囲を包む漆黒に吸い込まれて、自分の耳にも届いたはずなのに、先程音となったのかどうかも分からなくなってしまった。


 しんしんと雪が降る。吐く息より音もなく、確かに積もっていく。全てのものが息をひそめ、あるいは息を止める時分。町の人々も家の中で粛々と過ごしているはずだが、外から見れば誰一人いないかのように存在感がない。先程会ったはずの女将の顔、娼妓の肢体、それさえもはや朧気だった。皆、どこへ行ってしまったのだろう。そして、自分はどこにいるのだろう。


 空を見上げる。頭上にのしかかる黒、髪を圧迫する白。彼は呼吸を止めてみた。
 苦しかった。









20131224