優しい嘘




 子供の泣き声がする。どこの子だろう? 聞き覚えがあるような。
 それより、父はどこだ?

「お父さん、お父さん」

 視界に金の影が二つ、いや三つ。ぼやけた世界の輪郭が三重から二重、そして一重になった時、彼の自我も明確になり、自身が妻との間に二児をもうけた父であることを思い出した。
 加えて、自身の意識が何故混濁していたかも。


 強敵との激しい戦いの最中、大切な家族達が次々と倒れていく。魔物達、妻、子供――どういうわけか、自分の操る蘇生呪文は成功しなかった。最後に自分を守るため前に立っていた従者が地に伏した時、恐怖は己が心臓を凍らせた。

 ――また、失ってしまう。

 覚えているのはそこまでである。いや、正確にはその直後に全身が沸き立つような感覚があったのを、身体が記憶している。
 そこまで思い出せば、あれが何か、自分が何をしたのかを悟るのは早かった。
 凍りつき凝縮された魂を解き放ち、生命を使う感覚。


「レックス、タバサ……ビアンカ」

 失ったはずのその存在を確かめるように名を呟くと、金髪の双子は飛びついてきた。高い体温は、命の証。彼は安堵の溜め息を吐いた。

「ごめんねお父さん、僕もうやっれないから……れったいやられないからっ……!」
「お願い、もうこんな呪文使わないで……!」

 息子は泣きじゃくり舌をもつらせながらも絶え絶えに誓い、娘はすすり泣きを押し殺しながら懇願する。彼は微笑みながら、しかし黙って二つの頭を撫でる。

 こんな呪、と我が愛し子達はあの呪文を嫌う。しかしアベルにとってはまぎれもなく、天からの喜ばしい贈り物だった。
 伝説の自己犠牲呪文メガザルは、術者の命と引き換えにその仲間を冥界から呼び戻す。自分の命一つで大切な人を恐るべき死から守ることができるなんて、なんという奇跡の御業だろう。アベルは本気で、この呪を自分に授けてくれた天の主に感謝していた。
 できることならもっと自分が幼かった頃に欲しかったが、しかしそれは言ってもどうしようもないことである。

「ほら、二人とも。もうそんなに泣かなくてもいいの」

 妻が、双子の肩に手を乗せる。二人はまだ、しゃくり上げるのが止まらない。それでも天空を写し取ったような二対の瞳を、母に向けた。

「お父さんはもう大丈夫だから。あの呪文も、もう使わないわよ」

 ね、あなた。彼女はこちらをじっと見つめる。まだ血の気の戻りきらない顔は頼もしく微笑んではいるものの、双眸に浮かぶ色は双子とよく似ていた。

 ――お願い、使わないと言って。

「ああ。だから、お前達も無茶な戦い方はするんじゃないよ」
「絶対しない!」
「しない!」

 頷くと、子供達は目に涙を溜めたまま力いっぱい言い放った。その愛らしさにどうしても、頬が緩んでしまう。

「よし、じゃあサンチョが起き上がるのを助けてきてくれるかい? どうも腰が痛くて大変そうだからね」

 赤い目をこすって、双子は馬車の方へ駆けていく。馬車の御者台に手をついた従者が背を丸めて腰をさすっている。あの様子だと、意識が戻ったのはつい先ほどだろう。ピエールが傍に佇んでいるところを見ると、彼が運んでくれたのだろうか。

「ありがとう」

 アベルは視線を、隣に移す。妻がこちらを見上げていた。

「ありがとう、みんなを……あの子達を連れ戻してくれて。それから、ごめんなさい。何もできなくて」

 そんなことはと言おうとして、胸板に置かれた手に遮られる。

「でも、もうあれはなるべく使わないで」
「……それは」
「分かってるわ、とてもとても大事な呪文だってことは。だけど私は、貴方が、父親が何度も死ぬところをあの子達に見せたくない。こんな戦いの場に連れてきておいて、矛盾してるけど。それに、あの呪文をあまり使いすぎたら、貴方はきっと」

 また自分を、粗末にしてしまう。
 アベルはビアンカの卵型の顔へ眼差しを注ぐ。そして言い聞かせるように、しかし優しく言う。

「そんなことしないよ」
「じゃあ、何ですぐにあの子達にもう使わないと答えてあげなかったの?」
「……僕は嬉しいんだよ。僕の命一つを使えば、みんなを助けられる」
「自分を道具みたいに言わないで。貴方は……私の愛する人で、あの子達の父親なんだから」

 道具、か。
 アベルは昔のことを思い出す。まだフローラとの婚約を結び付けて天空の盾を手に入れようと思っていた頃。ビアンカに再会して夜通し語って、自分の意思を伝えた時、彼女は柳眉をひそめてその言葉を口にした。

 ――貴方は自分のことを、道具みたいに思うようになってしまったのね。

 一瞬、息が止まったような心地がした。彼女はアベルが、父の遺志に従うため無意識のうちに、自分のこともフローラのことも意思を持った個体ではなく、手段の一つと見ていたことに気付いたのだ。

 とても、恐ろしいことだった。もしビアンカと再会せずあのまま彼女と結婚していたら、自分は。

「貴方がその呪文を使ったら、私達の魂は確かに戻って来るでしょうし、どんな重い傷も間違いなく治る。でも、私達のために貴方を死なせてしまったという事実は、決して消えないのよ」

 彼女の両手が伸び、アベルの頬を挟む。

「ねえ、私達に貴方を殺させないで。もう、使わないで」

 視線が交錯する。そして不思議なことに、彼は何故か父のことを思い出した。

 地位も名声も捨てた父。赤子の自分を世話しながら、世界を巡った父。あまり自分を構ってくれず、寂しい思いをしたこともあった。でも今思えば忙しく厳しい旅の中でもよく面倒を見てくれていたと思うし、大切なところは言葉だけでなくその背中で、ちゃんと教えてくれた。気高くも気さくで、豪傑な父。そして最期に……嬲り殺された、もう会えない自分の英雄。
 昔はどうして、どうして、と思うことが何度もあった。でも、今なら分かる。
 大事な人を守るため、ならば。

「……うん、もうしないよ」

 アベルはそう言ってエルヘブンで紡がれたような金髪を引き寄せ、微笑んだ。









20140808