ゆらめき
帰ってきて最初に彼が言ったのは、感謝の言葉だった。
ありがとう。君のお陰で水のリングを手に入れることができたよ。こんな所まで着いてきてくれて、本当にありがとう。
その優しい声は私の鼓膜を通して、奥底に眠ろうとしていたものを揺さぶり起こそうとする。
分かっているのだ、彼にそんな気など全くないことくらい。それでも、そんなつもりがあるような気がしてしまうのは、私が醜いせいなのだろう。
せめて起き上がらんとする思いを押さえつけるべく、無理に笑顔を作る。
「いえ、そんなありがとうって言われることじゃないわ。だって、貴方も魔物達も皆とっても強いんだもの。私寧ろ足引っ張っちゃったかも」
ごめんね、と謝ると彼は首をふる。
「いや、そんなことないさ。君がいてくれて助かったよ。それに、楽しかった」
楽しかった。そんな一語に気持ちがふわりと舞い上がって、また沈む。そう、もう一緒に冒険はできない。幼い頃からの夢はもうおしまい。彼は現実へと帰っていく。
私の知らない、美しく清らかな女性のもとへと。
「……本当はね」
気が付けば言の葉が零れていた。いけないと思ったが、もう止まらなかった。
「ここまで無理矢理着いてきたのは、貴方と最後に冒険したかったからなの。だって奥さんがいる人と冒険に行くなんてしたら、奥さんに悪いでしょ? だから無理に着いてきちゃったの。我儘言ってごめんね?」
笑顔はしっかり保てていたと思う。母さんが死んでから、沈みがちな父さんを元気づけるために随分笑顔を作ったから。
海に据えられていた目を隣に移した。彼は黙ってこちらを見つめている。その顔に笑みはなく、ただあの瞳が真っ直ぐ向けられていた。
その柔らかく澄んだ色の中に自身が沈められ、絡めとられ、ずっとずっと奥底まで覗き込まれているような心地がした。
「あっそうだ!」
わざとらしく大声をあげ、視線を振りほどいた。
「お夕飯作らなくちゃ! ごめん、しばらく待っててね」
早口にまくし立てて、逃げ出した。
不自然に思われただろうか。思われてしまっていたとしても仕方ない。彼にあんなに見つめられたのだから。
彼の瞳は昔から不思議だった。普段はその視線が自分に注がれていると居心地よく感じるのに、しかしたまにひどく逃げたくなってしまう。その理由は大人になった今でも分からなかった。
台所へ行って食事を作る。船旅の最中であるから、大したものなんて作れない。それでも彼は美味しそうに食べて、私を褒めてくれた。
今日もそうだった。一通り食べ終わると、彼はにこやかに言った。
「ご馳走様。ビアンカはやっぱり料理が上手だね」
「やだ、褒めたって何も出ないわよ」
片付けを始める。彼は好き嫌いなく食べてくれるから、片付けが楽だ。皿を水につけて洗い始めようとする。しかし、隣に気配を感じて振り返った。思ったよりも近い場所に、彼がいた。心臓が一つ、大きく音を立てる。
「僕がやるよ。君は休んでて」
「そんな、別にいいわよ。すぐやっちゃうから」
「いや、作ってもらったんだし、僕がやる」
「いいってば、私がやる」
「でも……」
「いいから、お姉さんの言うこと聞きなさい」
ね? と少し怒ったように言って笑う。すると彼も少し微笑んで、こっくりと頷いた。
「分かった。ありがとう」
洗い桶に向き直って、食器を洗い始める。ひんやりとした水が心地よい。数枚洗い終えて、しかしそれでも隣の気配がなくならないことを訝しく思って、首を捻った。彼はまだそこにいた。
「なあに?」
「いや……」
彼は少し言葉を切って、瞳を落とした。優しげな顔立ちに影が落ちて、それからまた視線をあげる。
「綺麗になったね、ビアンカ」
咄嗟に言葉が出なかった。穏やかな、しかし子供の頃より数段艶を増した声が頭の中で木霊する。上質の絹で何度も肌を撫でるように、残滓が脳に繰り返し囁きかけて。
返事ができたのは、それより数拍置いてからだった。
「……あら、子供の頃はあんまり可愛くなかったってこと?」
少し拗ねたように言うと、彼は慌てて頭を振った。
「ごめん、違うよ! そういうことじゃないんだ。勿論子供の頃から可愛かったけど……その……」
私は堪らず吹き出した。しどろもどろになっている彼は、とても可愛らしい。子供の頃を思い出して、少し懐かしくなった。
「ごめん、冗談よ。ありがとう。嬉しいわ。でも、これから奥さんができるっていうのに、あんまりそういうことを他人に言うのは良くないわ。フローラさんに怒られちゃうわよ?」
彼の瞳が翳った。余計なことを言ってしまっただろうか。洗い桶に顔を戻して、残りを手早く洗い上げながら言う。
「貴方は昔からすぐそうやって人を褒めるから、そのままじゃきっと勘違いされちゃうよ?」
首筋が熱い。私の体温が高いのか彼の視線が注がれているからなのか、それとも。
「でも、安心して。もしそれでフローラさんに捨てられちゃったら、私が貴方をもらってあげるわ」
なんてねっ、と身体を返すと、珍しく笑みの欠片もない彼の顔があった。自身の身体から血の気が引いていくのを感じる。
「……ごめんなさい、悪い冗談ばっかり言って」
忘れてちょうだい。
何とかそれだけ言って、私はその場を後にした。彼が何か言いかけたが、聞こえないふりをした。
甲板に出る。幼い頃、彼と助けたキラーパンサーが尻尾を振って寄ってきた。撫でてやると、もっと撫でてと頭を擦り付けてくる。その愛嬌ある姿に和まされながら、私はいつしか心を落ち着かせようとしている自分に気付いた。
胸に手をやれば、鼓動も常より早い。大きく息を吐く。
ぼんやりと黒い海を眺めていると、似た色をした幼馴染みの瞳を思い出した。
いつも波一つない彼の双眸。それが去り際に見た時、揺れているように感じられた。
まさかそんな。心の中で呟く。暗い喜びが広がろうとするのを、そんなことない、そんなことないと何度も自身に言い聞かせることで掻き消す。
そう、そんなわけがない。彼には素敵な婚約者がいて、天空の防具を集める使命がある。私はただの幼馴染みで、もう今となっては彼にしてあげられることも、彼が私を必要とする理由もない。私が出る幕なんてない。
出しゃばってはいけない。
――綺麗になったね、ビアンカ。
不意に、彼の声が甦った。声変わりして、聞く者に安寧をもたらす低い声。それが今は、私の気持ちをどうしようもなく高ぶらせ、騒がせる。
しかし今、思い、感じたところで何ができよう? このざわめきを伝えることなんて、自分にはできやしないのだ。
「ばか……」
行き場を失った呟きは、空をたゆたって細波に溶けていった。
20131020