テルマエノユメ




「あーあっ空飛ぶベッドが欲しいなあ!」


 グランエスタード城の浴場に子供の声がこだまします。池ほどもある浴槽には、この国の象徴である獅子自らが絶えず口より湯を注いでいるため、澄んだ水が豊かに湛えられています。霧がかかったように湯煙で薄くぼやけた世界で、白壁と灯明とを反射した湯が、黄金のごとく輝き波打つその光景の豪勢さときたら、厳格な掟を遵守する砂漠の民でさえ、一瞬水の精霊への宗旨替えを検討してしまうほどでした。

 にも関わらず、その浴場を一人独占する王子の頭に恩恵への感謝はありません。彼がまだ、両手で数えきれるほどの年しか生きていない子供だからということもあります。ですがそれ以上に、彼の頭は今あることでいっぱいでした。

 それは、今日侍女に読んでもらった本に描いてあったものでした。


「空飛ぶベッドがあったら父さまや兵士に捕まらないですぐ城を出られるし、島を出て世界中を見て回れるのになあ」


 キーファ王子は根っからのロマンティストで、物心ついた頃から自分の主なテリトリーである城以外の世界に思いを馳せてきました。町の中をくまなく探索してみたい、島全体を探検してみたい、そしてゆくゆくは海の向こうも――と、考えていたのです。


「あー! 冒険に行きたーい!!」


 彼はざぷりと大きな波をたてて立ち上がり、そう叫びました。すると浴場の戸を叩く音がしました。


「王子、どうかなさったのですか?」


 侍女です。年ごろのキーファは焦りました。待て入るな、そう言おうと身体を急に翻したのが悪かったのです。

 彼は見事に足を滑らせ、湯の中にどぼんしました。



 生暖かい中を意識が漂っています。あー気持ちいいな、空飛ぶベッドに寝たらこんな感じに包まれたまま旅ができるのかな。キーファは意識が朦朧としていても、まだそんなことを考えていました。


「どなたですか」


 しかし聞き覚えのない声がして、はっと彼は目を覚ましました。

 少年が立っています。見たところ、キーファより年上のようです。掃除中の侍女のようにくすんだ茶の髪を三角巾でまとめ、エプロンを身に着け、デッキブラシのようなもので床をこすっていました。背景は不思議なことに桃色に靄がかかっていて、そこがどんな場所なのかさっぱり分かりませんでした。


「きっキーファ・グランといいます」

「キーファ・グラン」


 すると彼は、眉と眉の間を狭めました。その顔は機嫌が悪くなったわけではなく、変なことが起こるものだと言っているようでした。


「貴方はどうしてここへ?」

「分かりません……お風呂に入っていたら急に」

「お風呂? 空飛ぶベッドではないのですか?」

「空飛ぶベッドを知ってるんですか!?」


 キーファは短絡的に飛びつきました。普通ならこれでは話がおかしなことになります。しかし、どういうわけか奇跡が起きました。


「知っていますよ。知人の持ち物です」

「そっ、それもらえませんか!?」

「あげることはできません。ですが、乗せることならできるかもしれません」

「本当!?」

「ただし、条件があります」


 少年は人差し指を一本立てました。


「貴方の友人の母君にマーサ……じゃなかったマーレさんという方がいらっしゃるでしょう」


 キーファは自分を知らないはずの彼が自分の友人の母を知っているということを不思議に思わず、首を縦に振りました。


「あの方はその力強きことゴレオン将軍のごとく、逞しきことゴレオン将軍のごとく、豪胆なることゴレオン将軍のごとしと聞いております。その方から、気付かれずにその得意料理を頂いて来るのです。そうしたら、乗せられないか検討してみましょう」

「えっまさか……小魚の佃煮か!?」

「それではありません。アンチョビサンドです。それを持ってきてくれたら、貴方を本物のキーファ・グランと信じて空飛ぶベッドに乗れないか持ち主と交渉しましょう」


 やった! とキーファはガッツポーズを作りました。それからゴルゴンしょうぐんが誰かを聞こうとして、自分の前にその少年がもういないことに気付きました。

 キーファはいつの間にか、フィッシュベルのとある家の前に立っていたのです。それは親友の家でした。つまり、目的のブツを製造している家です。

 キーファはすぐさま家に駆けこもうとしました。しかし、一歩踏み出してみて跳ねあがりました。足の裏がチクチクしたのです。ぱっと下を見て、それでキーファはやっと自分が全裸であることを思い出しました。


「いっけね」


 いくらワルツのステップがみかわし脚のよう、奏でるヴァイオリンが剣戟のよう、食事をする様が戦争のようと言われても、彼は一応王子です。お天道様の下をありのままの姿で歩くのはまずいことだという認識がありました。

 そこで彼は最寄りのツボを割り、そこから薬草を発見して装備しました。

 急所を隠して準備万端、キーファは今度こそ、親友の家を覗き込みました。

 まだ日が昇り切っていないため、家の中は薄暗いです。しかしそれでも、せっせと働いている丸い影がありました。マーレおばさんです。

 おばさん、それ一個ください! そう声をかけようとして、少年の言葉を思い出しました。彼はマーレに気付かれずに取ってこいと言っていました。ということは、声をかけたりお願いしてはいけないのです。即ち、作り終わったものをこっそり頂く、盗るしかないのです。

 それはいくらなんでも気が引けます。まだ日が出る前であることを考えると、あれはきっとマーレの大切な夫か息子のために作ったものなのです。それをこっそり盗るなんて、していいのでしょうか?

 いいじゃないか、冒険のためだ。キーファはそうも思いましたが、脳裏に友人の幼い笑顔もちらつきました。それから、それが泣きそうに歪む様を思い浮かべました。


「やっぱり俺には無理だ」


 彼は呟きました。


「だってそんなの嫌だ」


 すると、それがまるで合図だったかのように目の前が歪みました。


「本当に、キーファさんのようですね」


 先ほどの少年が現れました。今度はたわしを手にしてしゃがみ込んでいます。


「その絶妙な強引ぶりと冒険心と親友を慕う様子、間違いないようです」


 キーファに何かもの言う間を与えず、彼は立ち上がりました。


「風呂掃除はいったん中止です。知人にベッドのことを尋ねてみましょう」


 キーファは歓声を上げて、その彼の背中を追いかけました。追いかけて初めて、キーファは自分がどこかの風呂釜の中にいたことを認識しました。



「王子様、キーファ王子!」


 キーファは目を開きました。侍女の必死な形相が視界に飛び込んできました。


「あれ……?」

「良かった気が付かれて! 何があったか覚えてらっしゃいますか?」


 侍女の語ることには、キーファは湯浴み中に倒れたのだそうです。そう言えばそうでした。しかし、それだけではない気もします。

 キーファは首を傾げます。しかし捻っても何も記憶は蘇りません。


「まあいいか」


 キーファは熱で気だるい上半身を起こしました。それから下半身に据えられた薬草を見、もう一度首を捻りました。













第21回ワンライ参加。お題「キーファ、マーサ、ゴレオン将軍、受け流し・身かわし脚、薬草、空飛ぶベッド」選択。




20141109