花冷え




※現代パロディ















 折角の休日なのに、町は墨で掃いたような様相だった。雨粒が家々の窓を叩き、ラジオは今日明日と停滞前線が居座ることを告げる。しかし小さなアパートの一室で俯いてきつく目を瞑る男には、そんな景色も音も全く届いていないようだった。


 瞼の裏に、外とは対照的な暖かな景色が蘇る。満開の桜並木の下、紺色の制服を清楚に着こなした彼女が微笑む。華奢な背へと流れる黒髪は麗らかな陽光を纏って輝き、頬は白桃に似て瑞々しい。


「ねえ秘密よ? お父様が教えて下さったのだけど、ミーティアには婚約者がいるらしいの」


 お写真を見せて頂いたのだけど、素敵な方だったわと彼女。待ち望んだ季節を喜ぶ小鳥のような声が可愛らしくて愛しくて、だからこそそれ以上聞きたくなかった。しかし彼女はまだ会ったことのない婚約者について語り続けた。


 サザンビーク財閥の御曹司さんなんですって。お名前はチャゴス様というの。私のずっとお婆様が、チャゴス様のずっとお爺様と恋に落ちて、でも結婚できなかったんですって。それでお互いの家にそれぞれ男の子と女の子が生まれたら結婚させようっていう、そういう約束をなさってたらしいの。素敵よね、何十年……いえ、百年を越すのかしら。それくらいかけても叶えたかった恋よ。ロマンチックよね。


 彼女の声、そのトーン、話す内容、嫌だったのに今でも思い出せる。彼女に関わる記憶は鮮明すぎて辛くて、大学生になり下宿を出てからは、彼女と進路が別だったこともあってその全てを忘れようとした。縁あって彼女の父が経営する会社に勤めるようになった今でも、彼女の父に会うことは頻繁にあっても彼女とは絶対に会わないようにしていた。婚約者のいる妙齢の女性が他の男性と親しげにしていては良くない、と自らに言い聞かせて。


 結果、彼女とのことはほとんど忘れていた。いや正直に言おう、彼女の記憶をどこか深いところに封じ込めて、全てをなかったことにしろと自己暗示をかけていたという方が合っているだろうか。


「エイト……エイトよね?」


 しかしそんなわけがなかった。昨夜受話器越しに聞こえた声を、彼は覚えていた。そしてその声が震えていることにひどく動揺した。


「貴方が忙しいのは知ってるわ。でもお願い……少しでいいの。私と、会って下さらない……?」


 私、貴方に会いたいの。その言葉は突然のことに空洞となった頭に木霊した。
そこから彼女の言葉は崩れて、繋がった台詞とならなかった。押し殺すような嗚咽の合間に紛れて「駄目」と「ごめんなさい」と「会いたい」を繰り返す。綺麗な声は少し枯れていて、でもそれすら甘やかな響きに感じられた。そんな声を聞いていたらそれまで自分がどうしようとしていたかも忘れて、今日会う約束をしてしまった。


 行かない方がいい。理性はそう主張している。彼女に今会って、お前は自分の気持ちを我慢できるのか? 分からない。でも、会いたい。


 初めて出会った時から彼女が好きだった。何も思い出せない幼い頃の自分を見つけてくれたのは彼女だった。彼女が気に入ってくれたから、その父は自分を引き取って育ててくれた。高校まで同じ有名校に通わせてもらえた。そういった恩を感じる以前から、彼女のことが好きだった。成長とともにその思いは強くなる一方だった。


 しかし自分はどこの馬の骨とも知れない孤児、彼女は財閥の令嬢、結ばれることのない関係であるのは分かっていた。自分と結びつくことで彼女を汚したくない。彼女に自分の思慕を知られないこと、その更なる幸せを願うことが最善だと考えるようになったのは、婚約の話を聞いてからのことだっただろう。いつしか秘めなければいけない思いを愛と名付けることで距離を置くのを正当化し、不思議がる彼女以上に自分を納得させようとした。


 目を瞑ったままの彼の口元が、苦しそうに吊り上げる。ああ、でも駄目だった。その証拠に、彼女が自分の名を呼ぶのを聞いた途端、どうしようもない恋しさが込み上げてきたのだ。彼女の声を直接聞きたい、あの笑顔をもう一度見たい。彼女の様子を見られるだけでもいいと今は思っているけど、目の前にしたらどうなるか分からない。


 会ったら、あの苦悩を全て水の泡としかねないことをしようとしてしまうかもしれない。それはいけない。彼女には申し訳ないが断った方がいいのではないか?
 でも電話越しの彼女の声は、明らかに幸せそうではなかった。このまま放っておくことなんてできない。


 思考は堂々巡りして、時計の秒針を刻む音ばかりが耳について彼を急かす。早く決めなければならないのに、一向に思いはまとまらない。


 封じていた思いと共に彼女との思い出が蘇る。幼い頃彼女の遊びにつき合わされたこと。我が儘に困ったこと。学校で一緒に勉強したこと。体育祭で苦手な運動に励む彼女。一緒の登下校。家で二人でテレビを見たり、料理をしたりもした。婚約の話を聞いて次第に距離を開けようとしたこと。それでも自分を慕ってくれた彼女。他人行儀にすると悲しそうな顔をされるので、振る舞い方に困った覚えがある。彼女の家を出る時に気持ちの区切りとして、それまで貯めたバイト代で彼女の欲しがっていた赤い傘を買ってあげた。寂しそうな微笑みが今でも脳裏に焼き付いて離れない。
 彼の記憶の中の彼女の多くは、幸せそうに笑っている。彼女が幸せに笑っていれば、自分は何もいらないと思っていた。


 彼はゆっくりと目を開き、薄ぼんやりとした明るさに目を慣らしてから窓の外を見る。灰色がかった世界の下、駅からは色とりどりの傘が現れる。


 昔よく彼女の塾の迎えとして待ち合わせた、この駅の前。桜の木が植えられているその下が今日の待ち合わせ場所である。本当はここに暮らしたくなかったのだが、彼女の父がここを指定して譲らなかったので住んでしまっていた。だからあの桜を見て彼女を思い出さないようにすることが自分への試練となっていた。大学を終える頃には、よく封じられるようになっていたのに。


 ふと、駅から出てきた一つの影に目が行く。ほっそりしたシルエットは、見覚えのある上品な仕草で辺りを見回す。その手が傘を手にする。


 開いた色を見て、彼は部屋を飛び出した。












イメージ元:いきものがかり「花は桜 君は美し」

20140401