幻影はいまだ残り続け
きっかけはほんの些細なことだった。
新エテーネ村の近況について、シンイから話を聞いていた。その中に何か面白い話題があって、二人して笑った。
その時に、誰かがこう言うのが聞こえた。
「あの二人、新婚さんみたいね」
誰が言ったのかは分からない。村人の誰かだったと思う。自分達以外の何かについてそう言っているのではないかとも考えたが、あの時周りにそう言えるものはなかった。他の二人組について話している者もいなかった。
胸に、これまでになかったざわめきが生まれた。
彼が自分にとって特別な人なのは確かだった。背中を預け合って死闘を潜り抜けた戦友だからというのはもちろん、今となっては数少ない古馴染みで、生き返しを受ける前からの憧れの人だからだ。
シンイは旧エテーネ村の巫女アバの孫である。エテーネ村の巫女は、未来予知の力を持つ予言者で、村の祭事から生活まで全てを取り仕切っていた。だから孫のシンイも、絶対的な統治者に近しい立場にあった。
だが、彼はそのような絶対的な立場にいるにも関わらず、幼少の頃から腰の低い努力家だった。
彼には生まれつき予知の力がなかったが、そのようなことは村人達にとって大した問題ではなかった。大人も知らないようなことを知っており、誰に対しても分け隔てなく接するシンイを、村人達は村の世話役として頼りにしていた。また、非常に頼もしいのだがたまに激情を爆発させて手を付けられなくなる巫女との間を、うまく取り持つことのできる唯一無二の存在だというのも、民が彼を心の支えにする大きな要因だった。
シンイはミーナ達姉妹にも優しかった。七つで両親と死別したミーナを憐れまず、対等な隣人として接し、何かと良くしてくれた。特にミーナが助かったのは妹のことである。
幼かった妹はやんちゃで、両親の死を理解できずにぐずったり暴れたりと大変だった。しかしシンイが遊び相手になってくれた頃から、妹は次第に落ち着きを見せていった。他の大人が遊び相手になってくれることもあったが、年の近さ故かシンイを特に気に入っていたようで、彼が帰ろうとすると嫌がって泣くこともあった。アバとシンイの家に泊めてもらった回数は、両手両足の指の数より多い。成長した妹に、文字を読むことを教えてくれたのもシンイだった。両親の残していった蔵書を読めるようになった妹は錬金術の楽しみを深め、笑顔でいる時間が増えた。今でも妹は、彼を兄のように慕っている。
(エテーネの村の人間は、みんな家族同然だった)
奇妙な胸のざわめきを覚えた日の夜。ミーナはなかなか寝付けず、囲炉裏端で丸くなるフワーネの寝息を聞くともなしに聞きながら、ベッドへ横たわって物思いに耽っていた。
(だから、互いに助け合うのが当たり前だった。あたしも、村の仕事は何でも手伝ってたし)
シンイにとっても、そういう認識だったはずだ。
年の近い、家族同然の存在。
それがお互いの認識で、特別な感情など何もない。
少なくとも、シンイの方には。
(あたしは、どうなんだろう)
村人達全員にとって、彼は次の長として特別な存在だった。
自分もそうだったと思う。一方で、そこから逸脱していたような気もする。今となっては分からない。村が滅びてから重ねた記憶と思いが多すぎて、並一通りのレッテルを貼って自分の心情を片付けることすらできなくなってしまった。
ミーナは、焼け野原となった古い故郷の記憶を掘り返す。そのうち。閃光が瞬くように懐かしい記憶が瞼の裏へ蘇ってきた。
+
ミーナが九歳になるかならないかという頃だった。
収穫した果物のうち、食べきれそうにない分を備蓄にしようと皆で作業している中、誰かが昔語りを始めた。
昔語りと言っても本当に昔あった話を語るのはほんの少しで、多くは言い伝えられてきたお伽話や伝承を語るのが常だった。その時もいつものように、作業に参加していた村人達が、次々と自分の知る物語を語った。
ある人は恋に落ちた湖の精霊と詩人の話を。
ある人は毒消し草を煎じた茶に命を救われた先祖の話を。
ある人はドラゴンと笛吹きの話を。
何度も聞いた話もあったが、語り手や聞き手が違えば不思議な新鮮味を感じることもあった。何より、単調になりがちだが気を抜くわけにもいかない加工作業の伴として、昔語りは最適だった。
「なあ、退屈じゃないかい」
とある人が、話の切れ間にミーナへ話しかけてきた。
「どうして?」
「あたしらはいつも同じ話ばかりするだろう。若い人には退屈なんじゃないかと思ってね」
「そんなことはないわ」
ミーナは破顔して首を横に振った。
「何度も聞いた方が覚えられるでしょう。妹に話して聞かせるのに都合がいいから」
「ミーナはどの話が好きかの」
別の人が言うので、少し考えてから答えた。
「魔法使いのおばあさんが出てくる話が好きよ。あたしも魔法が使えたら、って想像するのが楽しいから」
たとえば、下草を一瞬で藁に変える。
たとえば、泣き止まない妹がが喜ぶ何かを出現させる。
たとえば、死んだ両親を呼び出して会話する。
そういうことが自在にできたら、どんなに心強いだろうと思っていた。
「ミーナなら魔法を使えるんじゃないか?」
別の人が言った。
「カメさまの申し子なんだから、素養があってもおかしくない。教わったら使えるようになるんじゃないか?」
「そうかな」
「おーい、シンイ様ぁ」
ちょうどそこへシンイが通りかかり、村人が大きく手を振って呼び止めた。
「この子、魔法が使えると思うかね。使ってみたいって言うんだけれども」
シンイの視線が自分へ向いて、ミーナは赤くなった。
「その……使ってみたいと言うか、使えたらいいなって思ってるだけで」
「やってみましょうか」
シンイは、あっさりとそう言った。
「呪文を発動させるには少し知識が必要ですが、何より大切なのは心の持ちようです。ミーナさんならできるのではないかと思います」
その日から、隙間時間を使っての魔法のレッスンが始まった。
神や精霊の領域にある御業の代行──それが魔法だ。使い手が未熟だと、何が起こるか分からない。
だから、練習は民家より離れた川の傍でやることになった。木々の空いた広場に、シンイが家から持ってきた魔法書や黒板を持ち込んで、天の運行と地の掟を学ぶ。そして、不可視の精霊界に思いを馳せ、繋がりを得ようとする。
「最初のコツを掴むまでに時間がかかると思います。でも、大丈夫。少しずつ気長にやりましょう」
シンイは根気よく付き合ってくれた。その忍耐強さは同じ年頃として感心するほどで、彼がたまに見せてくれる魔法の実演と合わせて、ミーナの彼への敬愛と憧れを強めた。
また、それまで知らなかった彼の気さくさを知ったのもこの頃だった。シンイは長の血族としての丁寧な姿勢は崩さないまでも、畏まって硬くなりがちなミーナをほぐすように色々な話をしてくれた。
中でも忘れられないのは、ハツラツ豆の話だ。
「おばあ様はハツラツ豆が本当にお好きなんです。私が一粒食べる頃には十粒食べ終えているほどで。食べ終わった後も、豆のあった辺りをいつまでも名残惜しそうにご覧になるものですから、最近はすべておばあ様に差し上げるようになりました」
それから、内緒ですよと前置きしてこんなことも囁いた。
「おばあ様の魔力か癇癪か、どちらかはハツラツ豆に関係してるんじゃないかと思うんです。そのうち、その年に食べた豆の数と予言、癇癪の記録を取ってみようかなと考えてます」
別の時は、ミーナが待ち合わせの広場へ行ったら川にずぶ濡れのシンイが立っていた。持ってきた本を夢中になって読んでいたら、ネジの緩んでいた眼鏡が川へ落ちてしまい、拾おうとして自分も転がり落ちたとのことだった。
「本は無事だったのが不幸中の幸いでした」
シンイは髪からも水が滴るような有様だったが、涼しげな顔をしていた。だが、ミーナが拭くものを持ってこようとするのを大丈夫だと制したそばからくしゃみをしたので、ミーナは強引に魔法の練習を延期して日向ぼっこをすることに決めた。
渋るシンイを村の中でもよく日向の当たる丘の上へ連れて行き、そこに座っているよう言って、村からよく乾いた布と替えの服、洗濯棒を持ってきた。シンイは、少しバツの悪そうな顔をして大人しく待っていた。ミーナに布と着替えを渡されると、木の陰へ行って素早く体を拭き、濡れた服を取り替えて戻ってきた。
「服はここで干せばすぐ乾くはずです。油断すると風邪を引きますから、よく日に当たって身体を温めましょう」
「すみません。ありがとうございます」
シンイが草原に足を伸ばして座る。
見下ろした彼の髪は、まだぺしょりと濡れている。その様子に気付いたミーナは声をかけた。
「ちょっとごめんなさい」
「えっ」
ミーナはおもむろにシンイの足を跨ぐようにして膝をついた。彼の眼鏡を外し、大きめの石の上へ置いておく。そして頭に布をかぶせると、丁寧に彼の髪を拭い始めた。
「今日はお天気がいいからすぐ乾くかもしれないけれど、髪に少しでも湿り気が残ってると、日が暮れる頃に寒くなっちゃうと思うから」
それで、妹が軽い風邪を引いたことがある。以来、水浴びをした後はミーナが妹の髪を拭くようになっていた。
痛くないよう、軽く柔らかいタッチを心掛けて念入りに髪を拭く。そろそろいいかという頃合いでタオルを取り、眼前の髪に指を絡ませる。まだ少ししっとりしているが、概ね元通りになっていた。
「シンイ様の髪、ふわふわでいいですね。ステキです」
こちらを見上げてきた彼に、にこりと微笑む。
綿毛や猫の毛並みのような、心地よい手触りをもっと楽しんでいたかった。しかしさすがに図々しいかと思い、さっさと眼鏡を返してその場を退いた。
シンイの顔を見ると、頬に血の色が差してきていた。冷えた身体がやっと温まってきたのだろうか。そう思いながら様子を見ていると、彼はふいと目を逸らした。
「おばあ様の世話には慣れているつもりなのですが、自分の世話を焼いていただくのには慣れなくて」
言い訳のような口調で発された言葉を聞き、やっと彼が照れていたのだと気付いた。
一緒に過ごす時間が長くなるにつれ、彼の年頃の少年らしい側面が見えてきた。そうして分かったのは、シンイは生来の聖人ではなく、境遇に相応の実力であろうと努力する頑張り屋な少年だということだった。知識と魔法は祖母に最初の手解きこそされたが、あとは家の蔵書を漁って才を磨いたらしい。そのことを知って、ミーナは彼を身近に感じると同時に、さらに敬愛を募らせた。
魔法の練習を始めてから、ミーナとシンイは以前より格段に仲良くなった。そこへもともと懐いていた妹も加えて、三人で過ごすことが増えた。村人からは、仲良しトリオとして認識されるようになっていった。
三人は様々な時間と心情を共有した。ある時はアバの災害級の大癇癪玉をどうやって鎮めるか、額を突き合わせて相談した。またある時はミーナの作った木の実のクッキーが、妹の錬金によって全て未調理の材料の状態に戻ってしまい、三人で腹を抱えて笑った。さらにまたある時は拗ねた妹がどこかへ行ってしまい、シンイとミーナで村の外へ探しにいったものの日が暮れても見つからなくて、二人して泣きながら探し回った。
加えて、彼から学んだ魔法原理がミーナの見える世界を変えた。万物に精霊の息吹が宿ると知ってから見る世界は、以前より彩り鮮やかだった。精霊界と自然界は等しいもので、その生命の循環の中に魔法が宿るのだと知った。そのため、これまで淡々とこなしているだけだった生活の雑務にも身が入るようになっていった。
そうして過ごしてきた十一歳のある日。ミーナは呪文の使役に成功した。
満月の煌々と輝く夜。いつもの森の広場の、川のほとり。むせかえるような緑と水の香りに包まれながら、広げた掌の上に小さな火の玉を浮かべた。初めてのメラは、ミーナの掌の上で小躍りするように跳ねていた。
「ついにやりましたね」
灯火に照らさたシンイの顔は笑っていた。
ミーナも嬉しかったが、それより掌の炎をどうしたものか分からなくてあたふたしていた。
「これ、どうしたらいいですか? 放ったら森が火事になっちゃうかも」
「大丈夫です。そのまま待っていてください」
シンイはミーナの広げた掌の上で踊る炎に、己の掌を翳した。そして円を描くようにしてくるりと掌を返すと、小さな火球は彼の掌に移っていた。
「火を呼び出すことができましたね」
言いながら、彼は掌を閉じる。炎がふっと消え、辺りに暗がりが戻ってきた。川の水面に反射する月光だけが、唯一の光源だった。
「次回は、この火の玉を目標物にぶつけるトレーニングをしましょう。召喚ができたのですから、運用はそれより簡単です。すぐものにできると思いますよ」
シンイが励ましてくれている。ありがとうございます、とミーナは笑顔で応えながらも、意識は先程シンイのして見せたことに向き始めていた。
「シンイ様は、他の人が呼び出した魔法も操れるんですね」
「操れると言うより、借りる感覚に近いですね」
ちょっとしたものなのですが、と言いながらシンイは川に手を翳した。
すると、水面に揺れていた月光が消えた。代わって、ひっくり返した彼の掌にきらきらとした蛍のような光がゆらめき始めた。
「こうやって、受け取った魔力の形を少し変えて放出するんです」
「それは、何ていう呪文なんですか?」
「呪文はありません。手探りで見つけた、まだ形を捉えきれていない魔法です」
シンイはまた、円を描くように掌を返した。掌の光が消えると同時に、川の水面に月光が宿った。
「今はまだ少ししか借りられませんし、借りたものをそのまま受け渡すくらいのことしかできません」
そう言う彼の横顔を見ながら、ミーナは考えた。
精霊との約束の呪文を用いて魔法を使役するのでなく、呪文なしに魔法を借りる。
その感覚は、どうやって掴めるものなのだろう。
(お伽話に出てくるような本当の魔法使いって、シンイ様みたいな人じゃないとなれないものなのかもしれない)
そして、自分はきっと真言を使って魔法を扱うのが精一杯なのだろう。
ミーナはそう悟った。同時に、それでもいいかと思った。
かつて自分の抱いていた『万能の魔法使いになりたい』という願いは、両親を失った喪失感から来ていた。だが、負った痛みはいつの間にか、心を許せる幼馴染の存在によって和らいでいた。彼を見ていて、人は努力次第でいくらでも強くなれることも知った。
(呪文を使えるようになれるなら、他のこともできるようになれるかも)
たとえば、自分や周囲を守れるだけの武術を身につけること。
たとえば、傷病や苦悩を癒せるだけの知恵をつけること。
たとえば、遺体もなく突如『死んだ』両親を探すこと。
(いっぱい力をつければ、何かを無くしてしまうかもしれないって怖がることも減るかな)
ミーナは錬金術にハマり込んでいる妹を思う。彼女を安心させるにも、自分は強くなれるだけ強くなった方がいいのではないか。
「ミーナさん、そろそろ戻りましょう」
暗いので足下に気をつけて。
そう言ってシンイの差し伸べてくれた手を取る。その掌の温かさを握りしめ、ミーナは心に決めた。
(あたしは、もっと強くなる)
目の前を歩く背中が、両親を失った苦しみから自分を救い出してくれたように。
自分もまた、魔法に限らずあらゆる手段で誰かを救えるようになりたかった。
+
(思えば、あの頃のあたしは何も知らなかった)
目を瞑ったまま、ミーナは苦い笑みを零した。
世界にはエテーネ族しかいないのだと思い込み、故郷は永遠に変わらぬ生活を送れるものと信じていた。
無知ゆえに幸せだった日々。あの頃の自分に戻るわけにはいかないが、大切な思い出だ。
(あたしは強くなれたのかな)
ミーナは掌を握りしめる。あらゆる武器を握ってきた掌は皮が硬くなり、ちょっとした衝撃では傷つかないようになっていた。
転職できる戦闘職は全てこなした。使える冒険者のためのサービスはなべて使ってみた。財力を得るために職人仕事もやっている。クエストも、紹介されたものはすべてやるようにしている。自分の両親に再会して彼らが養父母だったことも知ったし、生みの両親にも会えた。
それでも、十分に強くなれたという満足はまだない。自分がこれまで様々な強敵と戦って生き延びられたのは、仲間達やルイーダの酒場のサポートあってのことだ。縁や運も実力のうちと考えることもできるかもしれないが、その縁の恩恵を受けるにふさわしい人間であるために努力が欠かせない。
苦悩も、喪失の恐怖も消えないと実感した。この掌には限りがあり、世界は己の手一つで救えるほど狭くない。かと言って「無理だった」「仕方なかった」で片付けることもできず、失われたり傷ついたりしていったものを思い出し、どうすればよかったのかと悶々とすることもある。何かを救うために必要なのは確かな行動のみだと心得ていても、なお。
次に似たような状況が現れた時、どうしたらいいか。
また、誰かが損なわれることにならないか。
次は、誰を傷つけて生き延びるのか。
そういうことを、つい考えてしまう。
(あたしはきっと死に方を選べない)
人命救助、世界平和。そういった高潔なお題目を唱えていても、話して分かり合えない相手の命を奪ったことに変わりはない。中には分かり合えずとも命を奪わずに済んだ者もいるにはいたが、救った命より奪った命の方が多い。そう自負している。直接的でなくとも、自分の働きをきっかけに人生を狂わされた人もいるだろう。
自分が生き延びるため。より多くの命が生き延びてアストルティアを存続させるため。
そういった本能や理想は免罪符にならない。行動に付随する名声や厚意も、同じだ。
罪悪感に囚われての自死すら選びたくない。誰かを活かすための自己犠牲も極力避けたい。一人のドワーフ少女の命と引き換えに得た身体を自らの意思で損なうのは、彼女への冒涜のように思われた。
(あたしの命をできる限り、周りのために使いたい)
旅は終わらないだろう。
その道でいつか、今度こそ蘇ることなく死ぬかもしれない。
(そうしたら、またあの人を泣かせてしまう)
滅びゆく故郷を前に、諦められなかった愛情深い人。
戦いの中で二度目の死を迎えた自分を前に、泣き崩れた優しい人。
自分では彼を幸せにできない。でも、いなくなることのなさそうな誰かが彼に寄り添ってくれたなら、自分が彼より先にこの世を去っても、エテーネの民をまた失ったという悲しみを癒せるかもしれない。
(だからあたしは、このままでいたい)
年の近い、家族同然の存在。
それがお互いの認識で、特別な感情など何もない。
ミーナはそっと意識を殺し、眠りについた。
こうして胸のざわめきは、いつの間にか消えた。
20231028