背後から射す光は消えず





 大事な人に口付けて、泣かせる夢を見た。
 月光を浴びる彼女の横顔は仮面を被っているかのように無表情だった。それからこちらを向いて何か言ったのだが、耳をふさがれたようにその声が聞こえない。唇を読もうにも、夜闇が濃くてよく見えなかった。
 そんな彼女に、夢の中の自分は口付けた。
 彼女は呆気にとられた顔をして、泣きだした。今度こそ見えた唇は、ひどいと言ったようだった。
 自分はそれを、嬉しく聞いている。そんな夢だった。
 起きてから、シンイは考えた。
(今のは、予知と夢のどちらだろう)
 どちらにしても嫌だ。特に、一方的に唇を奪っただけでなく、泣き顔を見て喜んでいる自分には辟易した。
 そんな歪んだ癖があったつもりはなかった。しかし、いつも気丈で涙を見せない彼女が、昔一度だけ見たのと変わらず、途方に暮れてどうしようもなくなってしまったと言いたげに泣く様が可愛かったと思っているのも事実だった。
(調子が狂っている。戻さないと)
 シンイは寝床から起き上がり、支度をしながら自分を見つめ直す。
 このところ、心の整理をうまくつけられなくて困っていることが一つあった。それは、彼の住む新エテーネ村の村長の今後に関することだった。
 以前のシンイは、彼女がこの地を故郷として親しんでくれるならばそれでいいと思っていた。彼女は、常に何かを探して旅を続ける冒険者だ。困っている者を見捨てることのできない彼女のもとには、自然と助けを求める者が集まってくる。その延長で、彼女は当代の勇者の盟友として目覚めたり、ナドラガンドにて一族の復興を図るナドラガ協団と密接な関係を築いたり、村のルーツでもある古代エテーネ王国の時を超えた因縁に関わったりと、濃密で波乱万丈な人生を送っていた。
 そんな彼女なのだから、いずれは新エテーネ村の外に自分の終生の家を設けた方が自然だ。この村には、好きな時に帰ってきてくつろいでくれれば、それでいい。
 彼女が魔界に行くまでは、そう考えていた。
(あれから、私はおかしくなっている)
 シンイは衣類を整えながら、溜め息を吐いた。
 彼女が自らの意思で大魔王になったと知った時、裏切られたのかという疑念と、彼女を引き戻したいという衝動に強く駆られた。
 何故、故郷を残虐に荒らした魔族の仲間の肩を持つのだろう。エテーネの悲劇の生き残りとして、魔族だけでなく彼女まで糾弾しようとする感情を押し殺すのに必死だった。
 一方で、これまでと変わらず彼女を信用する自分もいた。話を聞いてみると、彼女が大魔王になる選択肢を選ぶことになった動機と背景は、至極真っ当だった。アストルティアの常識が覆るような情報が多々あったが、それでも理性的に考えて矛盾や齟齬はなかった。
 シンイの胸の内は、真っ二つに裂かれた。
 そんな自分を変えたのは、刻々と迫り来る異界滅神の存在と、それに立ち向かおうとする彼女と魔族達の姿だった。
 初めて目の当たりにした魔界の住人達は、思っていたような冷酷非道な輩とは少し違った。ジャゴヌバの侵攻によって生まれた過酷な環境で生き延びるために、自分にも他人にも犠牲や非情、理不尽を強いてまで生きるのが当たり前になってしまっただけの、自分達と同じアストルティアの民だった。彼らとて守りたいものがあり、他人に犠牲を強いることに苦悩する魔族もいた。
 だから、エテーネの悲劇の元凶となったネルゲルを許すことはできないが、魔族とはよりよい共存の道を探っていきたいと考えるようになった。大魔王になったという彼女の選択も、今では虚勢なしに肯定できる。
 この変化自体は、良いものとして受け入れている。
(けれど、一つだけ困ったことがある)
 シンイは部屋を出て、炊事場で前日煮込んでおいた朝食のスープをよそりながら、なおも物思いに耽る。
 困ったこと。それは、彼女をずっとエテーネ村に繋ぎ止めたい、村を終生の家と捉え、絶対に帰ってきてほしいという、以前より遥かに強くなった願望の存在だった。それが、異界滅神討伐からもうかなり経つのに、一向に収まってくれないのである。
 頭では、彼女がどこを拠点にして誰と過ごそうが、彼女が決めたことならそれでいいと考えている。彼女はこの村の器からはみ出すほどの人間になった。旅を続ける理由に、別種族の若者の身体に生き返しを受けたことが関係しているらしいのも知っている。同じ境遇の身としても、与えられた生命を活かしたいと思う気持ちには共感している。
 なのに、心はなかなか納得してくれない。魔界のせいではない。魔界での出来事をきっかけに、彼女が誰の手も届かないところへ行って死ぬのではないかという恐怖が、再来したのだ。
 彼女は自分の身を顧みず、他人の苦悩や痛みを助けたり肩代わりしたりするのが当たり前の人だ。加えて、自分のできることを限界まで追求するのをやめられない。人脈の広さと重ねた経験を活かして、彼女を求める者がいればどこまでも行こうとする。
 そうして、いつか帰って来なくなるのではないか。彼女のことは信頼しているが、未知の沼はあまりにも多く深いのである。
(やっと、アストルティア有史以来の敵を討てたと思ったところなのに)
 さらに、最近の彼女の様子がシンイの不安を募らせていた。
 このところ、たまに旅の途中で村に立ち寄る彼女は、どこか浮かない顔だった。本人が話すまで余計な口を挟まない方がいいかと静観していたのだが、彼女が妹のところへある依頼を持ち込んだことで、彼女が関わっているものの正体が知れた。
(天界。現代を生きる人間には荷が重くて当然だ)
 書物をたしなんでいると、時折有翼人の存在がほのめかされることがあった。彼らが何のために身を隠しているのか、どうして時折地上に降りてくるのかを突き止めた者はこれまでにいなかったが、依頼の内容から察するに、彼らはアストルティアの守護と監視を行ってきたらしかった。
 異界からもたらされた未来予知の能力や時渡りですら、人間は持て余すのだ。アストルティア有史以前の問題に彼女が取り組んで、身体も心も無事でいられるのだろうか。
 それでも、自分には見守ることしかできない。たまに、無理をせず村で休むようにと言うのが限界だった。
(あの人が選んだことなのだから、応援してあげたい)
 けれど、己の身を粉にして働くあまり、帰って来なくなったら。
 次こそ自分は、激情に駆られて彼女を強引に連れ戻そうとするかもしれない。
 シンイは、このところそんなエゴをずっと持て余しているのだった。
 先日、彼女の妹と話していた時に、話の流れで己の心情を吐露した。すると、いいんじゃないと言われた。
「お姉ちゃん、流されやすいでしょ。シンイさんが行けば、案外素直に帰って来るかもよ」
 少女は小柄な外見に似つかわしくないさばけた調子でそう言い、頬杖を突いた。
「シンイさんって、澄ました顔して結構熱いよね。アバ様の孫だなって思うわ」
「そうですか」
「クロウズさんも熱い人だったし。だからお姉ちゃんみたいに生き返し先と分離しないで、綺麗に統合できたのかも」
「かもしれませんね」
 生き返し先のクロウズとシンイは、共通項が多かった。家族構成。己の民族への情。不可視の魔法領域に干渉するのを得手としていること。立ち振る舞いに反して熱情を秘めていること。
 だから、一族のための激しい修行の末に命を落とした彼と、一族が滅びるのを目の当たりにして死んだも同然だったシンイは、ぴたりと重なり合った。まるで最初から二つの地に身体を持つ一人の青年だったかのように、魂も体も縫合跡なく縫い合わさり、一つになった。未だに、寝ぼけている時などは、シンイかクロウズのどちらか一つになりきってしまう時がある。
「あなたは落ち着きましたね」
 そう言うと、少女は長く生きすぎたからねと笑っていた。
 五千年の旅路の果てに帰ってきた彼女は、ナドラガンドにいた時よりもなお頼もしくなっていた。それでも村が滅ぶ前に馴染んだ無邪気さはそのままで、それがかえって彼女を、人の理を超越した神の子のように見せた。
 寂しがりやで、気のムラの激しい子供だったのに。一体どれだけ苦労したのだろう。
(私も、彼女を穏やかに待てるようにしないと)
 朝食の片付けを終え、一度部屋に戻って外へ出るための身支度を整える。鏡を見ると、いつも通りの自分がこちらを見返してきた。黒目がちの目は思考が伝わりづらいらしく、こういう時には助かるものだった。
 今日は竜族の隠れ里に行く用事がある。その前に、念入りに村周りに異常や脅威がないか、確かめておきたかった。
 シンイはヘルメットをかぶり、教会を出る。薄明の空に、鶏のコピが朝の訪れを告げる声が木霊していた。











 竜族の隠れ里はモンセロ温泉郷から南西、人の足で踏み入るには険しい峰々の一角、煙霧の谷にひっそりと息付いている。奈落の門が開かれ、ナドラガ神の野心が潰えた今、もはや潜む意味はない。しかし、あまりに険しい地形ゆえにアストルティアの六種族が容易に立ち入れず、結局のところ未だ秘郷なのだった。
 この日のクロウズの用件は、オルゲン、エステラとの話し合いだった。先日、エステラを通じてナドラガ協団から相談があったのである。
「現在ナドラガンドでは、全ての竜族が住みやすい環境を作るために、五つの領界間での連携が進んでいます。その中で、身寄りのない子供達の問題が挙がっています」
 行き場のない孤児達は、ナドラガ協団へやってくることが多い。協団は、以前総主教オルストフが孤児を引き取っていたことから、複数の子供を受け入れて育てる環境は十分に整っている。だが、その子供達がこれからどう生きていくかは空白だった。以前ならば神官になったところだが、今の協団はそれを望んでいない。彼らには違う未来があっていいのではないかと考えている。
 無論、彼らの将来は協団の決めることではなく、本人の望み次第だ。しかし、あらかじめ将来の間口を広げておくのも先達の務めではないか、と協団は考えたのだった。
「こちらの里が許してくださるならば、ナドラガンドの外へ行ってもいいのではないか、という意見が出ています。あくまでまだ案の段階ですが、実現可能かどうかのご意見をいただきたいのです」
「そうじゃなあ」
 エステラの言葉を聞いたオルゲンは口髭を撫で、まったりとした調子で語り出した。
「我らの里にいるのは年寄りばかりじゃ。もしここでの生活を望む者がいるならば、子供でも大人でも歓迎しよう。だが、一つ承知しておいてもらいたいことがある」
 アストルティアに竜族の大陸はなく、自分達は圧倒的な少数派だ。他の種族の者達は、竜族の存在すら知らない。里の外へこの姿のまま出るだけで混乱が起きる。
「わしらはこの谷での静かな生活を大切にしておる。不要な争い、軋轢は避けたい。ここへ住むなら、このクロウズのように里の外では正体を隠して生きた方が無難じゃ。そのことを心に留めておいてもらいたい」
「竜族として、大手を振って外を歩くのは難しいのですね」
「ええ。今はまだ」
 クロウズは首肯した。
「しかし、新エテーネ村では竜族の村人が普通に働いています。これまで特に問題が起きたことはありませんから、あの村でならば、他種族と暮らすこともできるかもしれません」
「そうじゃな」
 オルゲンも同意した。
「クロウズの友人が村長をやっとるという新しい村なら、他種族と交わって暮らすことも可能じゃろう。だがその他に、竜族が竜族として暮らせる地はないと思った方が良い」
「分かりました」
 エステラは真剣な表情で頭を下げた。
「貴重なお話をありがとうございます。いただいたご意見を協団へ伝え、慎重に考えて参ります」
 話し合いの後、クロウズはオルゲンと世間話をしてから、里の家々を一軒ずつ回っていった。この里唯一の子供だった彼は、里の竜族全員に見守られて育った。だから、里に帰ってきた際には全員のもとへ顔を出すことにしていた。
 どの住人達も、クロウズの来訪を喜んでくれた。皆、元気そうだった。自分達以外にいないと思っていた竜族の仲間──エステラがやってきたことが、彼らに活力を与えたようだった。
 里で一番迎えが近いのではないかと思われていた老人ゴハも、予想していたより衰えていなかった。むしろ目が爛々として、少し若返ったような印象さえ受けたのには驚いた。
 この老爺は自慢の妻を亡くしてから随分老け込んでしまい、クロウズが竜化の術を身につけて里を出る頃には認識が大分危うくなっていた。視力も急激に悪化したから、もう次に里へ帰る時には会えなくなっているかと思っていたのだが。
「お久しぶりです」
 クロウズが彼の住まいへ挨拶をしに行くと、以前は家を出ていた娘もいて、クロウズに手を振った。
 老人はクロウズを見ると、お前さんは、と声を上げた。
「いつぞやはありがとうの」
 目が悪いのは相変わらずらしい。
 クロウズを誰かと勘違いしたまま、しかし元気に喋り始めた。
「わしの亡くなったカミさんはべっぴんのばいんばいんでの。よくバニーが似合う女じゃった。お前さんのおかげで、あの頃の思い出がイキイキと蘇ってきたわい」
 以前のクロウズならば、爺さん相手が違うぞと言っただろう。だがシンイと融合した彼は、シンイの自制心と穏やかさをもって直截な物言いを飲み込むことを覚えていた。
 笑みを浮かべるだけのクロウズを見かねたのか、娘が父に言った。
「やだ、お父さん。クロウズ坊に何言ってるの」
「おお、クロウズじゃったか。目がよう見えんから分からんかったわい」
「ごめんねぇ」
 娘のユグがクロウズに詫びる。
「うちのお父さん、だいぶ前に来た異種族の旅の人にバニーちゃんになってもらってから、たまにこんな感じなのよ。エステラさんが来てからは、エステラさんの話題と交互に話してて」
 最終的にお母さんの思い出に行き着くのは、どっちでも変わらないんだけどね。
 ユグは肩をすくめてそう言った。
「確かに可愛い女の子だったよ。でも、うちのお母さんには似てなかったと思うのだけど、お父さんにはどっちでも良かったみたい」
 笑みを浮かべて話を聞くふりをしながら、クロウズの頭は別のことを考えていた。
 異種族、旅人、女の子。
 クロウズがエステラを連れてくる前に、この村を訪れた旅人は一人しかいない。
「それ、どんな人でした?」
 答え合わせのため訊ねる時。眼差しが鋭くならないよう、笑みを保つのに苦労した。











20231028