憩いの宿の朝




 大きな長机の上は朝日に照らされて彩色豊かである。大きなバスケット四つに山盛りになったパン、十二人分の手羽先の塩スープ、チーズとサラダ、温野菜、シリアルに牛乳、中央にこんもりと積まれているのは瑞々しい果実たちである。
ナインは食卓を眺めて、厨房にまた足を向けた。
「エイトさん、如何ですか?」
「ごめんあと少し待って」
 赤々と燃える火の前にエイトはフライパンを手に立っている。鉄の円の中心で黄色が踊る。背後にある調理台の上には既に十一のオムレツが乗っていて、そのうちの三つを器用に腕に乗せたノインがナインと入れ替わりに厨房を出ていった。
「うまくいけ……よいしょっと! よし!」
 エイトは皿を片手に取る。フライパンから綺麗な船形がそこへ躍り込む。湯気を立てるオムレツたちをナインは食卓へと運ぶ。その間に調理器具を洗ったエイトは、拭いたばかりのフライパンとお玉を手に厨房から出る。
「おっけー?」
「おっけーです」
 エイトの問いにナインとノインは声をそろえて答える。エイトは莞爾と微笑んだ。
「よし、じゃあ行こうか」
 三人は広い部屋を出て、ラウンジを通り階段を登る。朝の宿はすがすがしい光と静寂に満ちている。顔を見合わせて大きく頷いた。
「いくよ」
 ――ガンガンガンガンガンガン!
 フライパンとお玉をかち合わせるけたたましい音が木の壁と床、天井を揺らす。三人が張り上げた大声が綺麗に重なった。
「みんなー朝ですよーっ!!!」











 まず、一つ扉が開いた。その影から短い黒髪に寝癖をつけた眠たげな顔が覗く。
「おはようございます、サンドラさん」
「サンドラおはよう」
 また声をハモらせた天使コンビと続くエイト。おはようと少女は無愛想に返す。
「その目覚まし強烈ね。何度聞いても飛び起きるわ」
「ごめんね。でもこれでも起きない人がいるから」
 ノインがさささとサンドラに歩み寄り、手櫛でその髪を整える。彼女は特に嫌がりもせずにされるがままになっている。
「ちゃんと髪の毛梳かして下さいね」
「ええ」
「準備出来たらソフィアさんを起こすのを手伝ってくれませんか?」
「分かったわ」
 サンドラは部屋の中へと引き返す。彼女の身支度は素早いが、その間に他の部屋を見に行くには十分だ。三人はそれぞれ別の部屋の戸を叩いた。











「アベルさん、起きてください」
 ベッドにはまだ解かれた黒髪が散っており、中心では人好きのする整った顔立ちがまどろんで微笑む。まだ夢の世界にいるようだ。
 ナインは彼に歩み寄り、その逞しい肩を揺さぶろうとした。
「おはよう、ナイン」
しかしその寸前に瞼が開き、不思議な瞳がこちらを見つめ返してきた。起きていたんだなとナインは自分の認識を改めた。
 アベルは任務中の野宿では敵の気配をいち早く察知して起きられるが、普段はよく眠る。しかし、こうして起こしに来ると十中八九自分から起きる。彼の神経は不思議だとナインは思う。
「いつも悪いね」
「いえ」
 アベルは上体を起こし、大きく身体を伸ばした。ナインは何食わぬ顔をしながら、次こそは見破って見せると内心決意を新たにした。











 ノインは思い切りある一室を開け放った。乱雑にものの散らかった部屋は、しかし誰もいない。大きく開け放たれた窓でカーテンがそよいでいる。
 窓に歩み寄る。まっすぐな光を放つ太陽は等しく地を照らしている。宿の前に二つの影が長く伸びている。影は跳んでぶつかって離れては鋭い金属音を奏でる。ノインは健やかな大気にのびのびと声を放った。
「レックさん! アレフさん!」
 剣戟が止んだ。二人がこちらを見上げるので、ノインは手を振る。
「ご飯ですよー!」
「おーっもうできたのか!」
「ありがとう、すぐにいく!」
 レックは破顔して、アレフは満足げに頬を緩ませて答える。ノインはついでにもう一声飛ばした。
「あとで私も混ぜてください!」
「りょーかい、楽しみにしてる!」
 少女は嬉しそうに唇を綻ばせた。











 エイトは扉を二度ノックした。
「ソロ? 入るよ」
「はいはいどうぞ」
 後ろから声が聞こえて、エイトは飛び上がった。振り向けばにやにやと人の悪い笑みを浮かべた美青年が立っている。
「なんだ、来てたなら言ってよ」
「へへ、それじゃつまんねえだろ」
 悪童じみた友人の肩を叩く。いい加減、彼の悪戯を余裕で躱せるようになりたい。
「もう下行ける?」
「おう」
「じゃあ他の人起こすの手伝ってよ」
「起こすっつったってもう大体起きてるだろ」
「手ごわいのが残ってるんだよ」
 エイトは肩を竦めて見せる。ソロはああ、と頷いた。
「ソフィアか? アイツなら鼻の前に焼いた肉ちらつかせりゃ起きるぞ」
「そんなものないし彼女じゃないから。サタル起こして」
「あん? アイツそんな寝起き悪ぃっけ?」
「て言うか、癖が悪いんだよ」
 頼むよと困ったような笑顔で手を合わせるエイト。対して紫水晶には、興味深げな愉悦の光が煌めいた。











「あーんノインのバカバカー! まだ眠いー」
 盛夏の木々に似たふわふわの髪を抱き締めた枕に摺り寄せて、美少女はいやいやをする。しかし引き下がるわけにはいかない。料理が冷めてしまう。
「起きれば眠くなくなります! 顔は洗えばさっぱりしますっ!」
「さっぱりよりうっとりがいい! 寝たい!」
 布団をはぎ取っても、ソフィアは寝間着がまくれ上がり太腿が露わになるのも気がつかないといった様でベッドにしがみつく。ノインは彼女の豊満な肢体に取りつき、小さな腕で精一杯寝具から引きはがそうとする。だが本当に張り付いてしまったように離れない。
 サンドラはきゃあきゃあと騒ぐ彼女達を一歩下がった位置から眺めていたが、やがてぽつりと呟いた。
「なら貴方の分の霜降り肉、私達が食べてもいいよね」
「霜降り肉!?」
 すると先程までの渋りが嘘だったようにソフィアは跳び起きた。すかさずノインがその両手を掴んでベッドから引き上げる。
「はい、ソフィアさんおはようございます! 行きましょう」
 そしてそのまま勢いで部屋を出る。ソフィアはノインの手を振り払ってサンドラに詰め寄った。
「ねえ霜降り肉は!?」
「嘘」
「わーんっ! サンドラのバカーっ!」
 さて次だとノインは二人に背を向けた。











 自分を捕らえる温もりの誘惑は甘美で、彼は抗う気すら起きなかった。この心地よい空間にいつまでも漂っていたい。ここは神霊界はおろか、何処かの果てにあるという失われた楽園よりも居心地が良く思われた。
「サタル」
 誰かが自分の名を呼んでいる。その声は遠く、かろうじて音を聞き取れたのみで性別の区別はつかない。だが自分を起こしに来るのはいつも恋人である。サタルは瞼も開けず、気配を頼りにその手を掴んで引き寄せた。寝具が軋み、腕の中に布に包まれた高い体温が落ちて来る。
 解かれた髪が絡みつく首筋に顔を寄せて、夢見心地のまま囁く。
「ね、もう少しだけ。もう一回寝るのって、気持ちいいよ?」
「そうか。そんなに気持ち良いのがいいか」
 あれ、何か違う。違和感を覚えた途端眠気がさっと引いていったが、既に遅い。
「あちょっ待っすいません人違いでしたマジですいませんでしたあっ勘弁してくださいあっあひゃっウワアアアアアアア」











「朝ですよ!」
 穏やかな眠りの海に身をゆだねていたアルスのもとに、二つの塊がタックルしてきた。気道が潰れてうげえっと情けない声が漏れる。
「アルスさーん!」
「あーさーでーすーよー!」
「うっくっ……分かった! 分かったから!」
 アルスは上体を起こそうとするも、上にあるもののせいで上手くいかない。さすがは世界を股にかける冒険者二人である。
「アルス? ああ良かった、起きてた」
「良くないよ助けてよぉ」
 にこやかに歩み寄って来るエイトにアルスは助けを求める。天使二人は楽しそうに彼の上でバタバタと手足を暴れさせている。エイトから見れば、とても微笑ましい光景だ。
「改めまして」
「アルスさんおはようございます」
「うん、おはよう……」
 ナインとノインは満ち足りた笑顔で挨拶するが、アルスは早くもくたびれてしまっていた。











 そっと覗き込んだ部屋の中央では、青年が片手腕立て伏せに励んでいる。彼の恵まれた体躯が上下する度に、大きく筋肉が隆起する。それはとても見事な光景だった。
「見ろよ、指一本だぜ?」
「凄いね、熱心だね」
「今何回目なんでしょうね」
「汗の量からして百回は超しているのではないでしょうか」
「さすがだ。先祖として誇らしいぞ」
「でもあのフライパンの音でも中断しないなんてよほど夢中なのね」
「筋トレ大好きなんだねぇ」
「もうあんなに筋肉あるのに」
「やだ、人間超えちゃうじゃないの?」
「アレン。生息地域ローレシア。マンドリル属」
「全身の筋肉を波打たせることで求愛表現をする」
「――さっきからひそひそうっせえんだよ!」
 十一対の瞳に耐えかねた男はトレーニングを中断して振り返り、声を荒げた。十一の声が「あーっ」と残念そうに重なる。
「何だ、やめちゃうの?」
「諦めんなよ!」
「うるせえよ何がしてえんだよっ!」
 残念そうなソフィアと熱く拳を握るレックにアレンはツッコミを入れる。そしてある意味几帳面な彼は、その前の気になった台詞も掘り下げずにはいられない。
「俺のことマンドリルって言った奴と求愛行動とか言った奴手ぇ挙げろ! 分かってんだぞ!」
 一同の視線が二人の美青年に集まる。逆立った黒髪とストレートの緑髪はお互いの手を挙げさせようとじゃれあっている。
「先生違います。ソロ君が言えって言ったんですぅ」
「嘘ですサタル君が言えって言ったんですこの筋肉野郎」
「誰が筋肉野郎だぶっ飛ばすぞ」
「やってみろ」
 二人の声が調和した途端、青い疾風が吹き抜けた。だがそれよりやや早く悪童達は階下へと逃れ、外へと駆け抜けようとしていた。
「待ちやがれ今日こそぶった切るッ!」
「へえぶった切るの?」
「ぶっ飛ばすんじゃなかったのかよっ?」
「揚げ足とかガキかテメエらはッ!!」
 残像と笑い声、怒号と共に駆ける三人を、遅れてやって来た一同は開け放たれた玄関から眺める。アベルが目の上に手をかざし、眩しそうに目を細めた。
「今日も平和だね」
「いや全くだ」
 アレフが大きく頷いて同意する。レックがハイハイと手を挙げた。
「いいなー俺も一緒に遊びたいっ!」
「あたしも!」
 ソフィアがウサギのように跳ねる。エイトは笑みと共に両手を打ち鳴らした。
「じゃあその前にご飯食べようか」
「そうです、食べましょう」
「今日はパンいっぱいありますよ」
「わーい。もうお腹ぺこぺこだよ」
 ナイン、ノインの台詞を受けてアルスが腹に手を当てる。九人は和やかに食堂へと向かう。
 今日も穏やかな一日が始まろうとしていた。