思春期の少年なら悩んで然るべきあれについて






「ちょっと待って……ちょっと待ってよナイン!」

 憩いの宿屋の一室にて、アルスは慌てていた。彼の滑らかな頬には自身のものではない手が添えられている。その手の持ち主は座り込んだアルスにまた詰め寄る。身体と身体の距離は、拳三個分もなかった。

「何故です?」

 だって、とアルスは頬を赤らめて俯く。羞じらうような彼の仕草をナインはじっと見つめる。

「急に、こんな……」
「後の方がよろしいですか? それならそうしますが」
「いや、そうじゃないんだ!」

 離れようとする薄い肩を焦って掴む。太腿と太腿が触れ合ってしまい、深緑の少年は狼狽を隠せず身を震わせる。

「なら何を躊躇うのですか?」
「だって僕達……男だよ?」
「僕は一応天使です。男女がするのと変わりありません」
「いやそうじゃなくて……っ」
「愛しているのでしょう?」

 アルスは息を飲んだ。ナインの愛らしい顔立ちに、珍しく笑みはない。そのせいか彼の男らしさが際立って感じられ、アルスは少し悔しくなる。
 深緑の少年は更に顔を紅潮させて、しかし抵抗するかのようにナインを睨み付けた。

「そうだよ」
「ならば躊躇うことはありません」

 アルスの視界がぐるりと回る。天井を背景として、まさに天使のような美貌が大きく映り込む。

「え……えっ?」

 両手を顔の脇で固められ、太股の間の床に衣装を縫い止めるかのように膝を据えられ、身動きが取れない。アルスはこの段階になって、かつてない焦燥を覚える。これまでの冒険で培ってきた危機対処方法など、今は何も役に立たない。身体の自由を取り戻すべく力を込めるが、動けない。

「何するんだよ!?」
「ちょっとしたコツを押さえれば簡単です。大丈夫、これからゆっくり教えますから」

 ナインは平静そのものである。似たような年頃で体格なのに、この差は何だろう。
 自分と同じくらい幼く見える、しかし自分より整った顔容が音もなく寄せられる。長い睫毛に覆われた濃灰色の瞳は深い森の奥に隠された湖のようで、波紋一つ立たない。

「アルスさんが攻めるのでも構いませんが、初めに僕がやった方が早いでしょうから」

 よろしいですね?
 吐息が唇を撫でる。濃灰の湖面に、アルスのオリーブグリーンの瞳が映る。堪らずぎゅっと目を瞑った。

「駄目だ、待っ――」



 どさどさっ。



 アルスははっとした。ナインの拘束が緩み、二人して戸口を見る。開け放されたそこには、足元に散らばった果実に見向きもせずこちらを凝視する、優しげな面立ちの青年が立っていた。

「ご、ごめん。盗み聞きするつもりはなかったんだ」

 彼は半ば凍った口元で必死に笑みを形作る。アルスの額を汗が伝った。

「え……」
「あの、俺は俺の部屋で二人がそう……思ったより仲良くしてたことに驚いただけであって、うん、拒絶してるわけじゃないんだ。引いてるわけじゃないんだ。大丈夫だよ、愛って男も女も何も関係ないから。相手を一人の人としてとにかく大切にすることが重要だよね。社会的なしがらみに気を取られずにお互いを尊重しあうことが大事だよ。俺はそう思ってる」

 初めはやや早口だったが、話しているうちに落ち着いてきたらしい。エイトは大きく息を吸い込むと、自らの生んだ全てをその腕に抱き、偏りない慈愛を注ぐ女神のような微笑みを浮かべた。

「だから気にしないでアルス、俺は君とナインが愛し合ってるならその意思をそんちょ――」
「ちッッッがあああああああああああああああああう!!!」

 それはアルスの人生において初めてとなる、声が嗄れるほどの絶叫であった。








「マリベルと旅行に?」

 アルスは頷いた。いつも人の良さそうな笑みを浮かべることの多い彼の顔は、珍しく仏頂面を作っている。

「久しぶりに冒険したいからお供しろって。でも行き先は観光地だし、話を聞いてるとやりたいことも遊びに行くようなものだから……うん、旅行なんだ」

 アンタはオマケなんだからねっ、彼氏として彼女のエスコートは当然なんだから! とマリベルは繰り返し強調していた。でもアルスは物心つかぬ頃からの付き合いであるから、彼女の長く長く熱心に語られる冒険計画を聞いて、彼女の真意を正確に掴み取った。

「冒険っていう名目で、二人きりで泊まりがけの旅行に行きたいんだ。これまで色々な場所に一緒に行ったけど、恋人になってからは行ってなかったから」
「アルスさんのマリベルさんに対する理解力は素晴らしいです。前提の誤謬が意図的なものであることを正確に見抜いてらっしゃいます」

 落とされた果物を洗いに行って帰ってきたナインは、会話の端を聞いてそう称えた。アルスはじろりと彼を見てから溜め息を吐く。

「で、問題は宿の部屋なんだ……マリベルが指定したのが一級宿のスイートルーム、しかも一部屋だけでこういう感じなんだけど……」

 観光用の冊子を取り出して、アルスはある頁を開いて見せる。エイトはそれを覗きこんだ。

「ベッドが一つしかないね」
「キングサイズです」
「彼氏が付きっきりで彼女の安全を守るのは当たり前だからって言うんだよ。どうせ僕はソファーとか廊下で寝ることになりそうだし、というかそのつもりだからいいんだ。変なことしたら地獄を見せるって言われてもいるし……いくら親公認でも彼女箱入りだから、下手に手は出しちゃいけないと思うし」

 エイトは眼前にいる自分より一層幼く見える少年を、深い哀れみの情をもって見つめた。若くしてこれほどの思いやり、忍耐力、そして健気さを見せる若者はそうそういないだろう。

「でも、そのつもりでいたらこの間アイラがやって来てさ」

 アルスは遠くを見るような目付きである。かつての仲間でもある、かの王城勤務の女剣士のことを思い出しているのだろうか。エイトも仕事で彼の世界に足を運んだ時に、一度だけ会ったことがある。しっかりした印象のある美しい女性だった。

「アイラが言ったんだ……『マリベルが勝負下着買ったわよ、頑張って』って」

 彼女の赤い唇が蠱惑的な笑みを形取る様が、あっさりと脳裏に浮かんだ。なるほど、そういう人かとエイトは一人納得する。
 頭を抱えるアルスはその時のことでも詳細に思い返しているのか、俯いて口をつぐんでいる。代わりに問いかけてきたのはナインだった。

「エイトさんは如何思われますか? マリベルさんとアイラさんの真意はそれぞれどういうものなのでしょう?」
「確かなことは言えないなあ。二人ともそこまでよく知らないし」

 マリベルは素直ではない毒舌な少女、アイラは落ち着いた女性ということしか知らない。

「女性は旅行の前に新しい下着を買うものだっていうからきっとそんなことはないと思うんだけど、けど……」

 アルスは勢いよく頭を横に振る。緑の頭巾がぱたぱたと揺れ、それから思いきったようにエイトに詰め寄った。

「ねえ、どう思う? これは彼女の言葉通りにした方がいいのかな? それともいつものなのかな?」

 すがるように見つめるアルス。エイトがどう返したものか考えているうちに、その頬が次第にまた朱色を帯びてくる。

「いつものだとしたら……そう、もしもの時は、男として期待に沿わなくちゃ……なの、かなあ?」

 それがどういうことかは、明言されなくとも分かる。
 常にのんびりとした少年の切羽詰まった様子に、エイトは同情を覚えながらも微笑ましくてつい口元が緩んでしまう。年相応の面と年に似つかわしくない面などと意外にも多くの顔を持っている彼だが、こういうところを見るのは初めてだった。

「どちらとも言えないから、両方とも想定しておいて臨機応変に応じるべきじゃないかな?」

 そう答えてから、ふと自分の疑惑が解消されていないことを思い出した。

「で、さっきのはどういった経緯でだったの?」

 訊いた途端、アルスは肩を跳ね上げた。彼が答えに逡巡する間にナインが口を開く。

「アルスさんが性行為の経験がないからうまくできるか不安だと仰ったので、ならば経験を積めばいいのではないかと僕は考えまして、僭越ながら僕がそのお相手を務めようと提案していたのです。しかし、僕では何か問題があるようで……」
「だからね、エイトが思ったような関係ではないんだ。そういうのじゃないんだよ本当に」

 それだけは信じて、とアルスは懇願する。何だ、そういうことか。エイトは安堵すると同時に申し訳なくなって、自分の早とちりを彼に謝った。
 アルスとエイトとが頭を下げ合ったり苦笑いし合うのを見て、一人首を傾げるのはナインである。

「僕には何の問題があったのでしょうか? 技術ですか? 人格的なものですか?」

 天使の問いに、二人は顔を見合わせて揃って苦笑した。

「違うんだ。あのね、人間は普通恋人以外とそういうことをしないものなんだよ。それに僕は、恋人じゃない人とそういうことはしたくないから……ナインのことが嫌なわけじゃないんだよ?」
「なるほど。僕に問題があるわけではないのでしたら、少し安心しました。アルスさんの嗜好として、マリベルさん以外の人と肉体関係を持ちたくないのですね」
「まあそうなんだけど……ナイン、その言い方どうにかできない?」
「言い方?」

 エイトは耐え切れず言った。ナインはきょとんとしている。どうやら自分が喋るごとにアルスが気まずそうな様子を見せることに、気付いていないらしい。

「うん。もうちょっとソフトな表現にできないかな? たとえば性行為とか、堅くて生々しいというか……」
「生々しいですか」

 ナインは顎に手を当てて考える。代替案はそれほど経たないうちに出て来た。

「肉体の交歓」
「余計ダメ」

 彼のソフトが分からない。

 ナインはそれから次から次へと代替案を出してきたが、どれも更に生々しかったり言うのが恥ずかしかったりするような表現ばかりだった。アルスはどうしたらいいのか分からないと言いたげに恥ずかしそうに俯き、エイトはナインの語彙の豊富さに感心しながら、これは言葉のせいではなく本人の愛らしい顔立ちが不釣合いだからではないかと考えるまでに至ったのだが、そうでなくともやはり問題があるのは言語の方だと思い直した。

「では、コウノトリ召喚の儀と呼びます」
「ああうん、いいんじゃないかな」

 数々の語が却下された末、やっと決定した時にはエイトもナインも本来の主旨を忘れかけていた。ああようやく決まった、さて何のためにこんなことをしていたんだっけと記憶をたどる。黙って様子を見ていたアルスがおずおずと言う。

「その、僕初めてだからうまくできる自信がなくて」
「ああ、そうだよそう!」

 エイトが手を打ち合わせる。アルスは何だか心配になってきていた。しかしこの中で経験者は――おそらく――エイトのみである。彼に訊くより他ない。

「俺も上手いわけじゃないけど、優しくすること、相手の様子を見て無理させないこと、焦らないこと、この辺に気を付ければ大丈夫なんじゃないかな」

 よかった、思ったよりまともな答えが返ってきた。胸を撫で下ろす。やはり少し脱線してもエイトはエイトだった。頼りになる。
 しかし、ここでナインが小首を傾げる。

「心掛けはそれで勿論問題ないでしょうが、実際の手順や技術的な問題は大丈夫ですか?」
「そういうのは最初は上手くいかないもんだし、のんびり手探りでいけばいいんじゃない?」

 アルスは唸る。確かにそうなのだ、不安である。ゆっくりできるならいいが、彼女はあまり忍耐強い方じゃないし、一度失敗して嫌だと感じられたらもう一生同じことをしようとしない可能性もある。そうなったら、自分達の関係が上手くいかなくなることも十分考えられる。

「うーん、どうしよう……」
「お困りのようだな!!!」

 その時、バアアアアアン! と音を立てて扉が開け放たれた。
 アルスとエイトは思わず飛び上がるが、ナインだけは平然と乱入者を見る。

「レックさん、サタルさん」

 そう、部屋に入って来たのは青と黒の突っ立った髪が特徴的な二人組だった。その組み合わせを見て、アルスの背中を冷汗が流れ始める。

「気配は先ほどから感じていたのですが、どうかなさったのですか?」
「どーしたもこーしたもねえよ!」

 レックがこちらをまっすぐ指さす。

「俺達の大事なアルスの、決戦が迫ってるって聞いてな!」
「黙っていられないね、聞いちゃったからには」

 サタルが爽やかかつ好印象な笑みを浮かべる。この人の良い笑顔は嵐の前の静けさだと教わっている。
 二人はずかずかと歩み寄って来る。唖然とする三人の前で、レックが高らかに宣言した。

「俺達がお前を、一流の夜の帝王に仕上げてやるぜ!!」

 あ、もうダメだ。
 アルスは一瞬で全てを諦めた。







20140503