ソラスタルジアの共振




 漆黒の中を黄金の列車が滑っている。
 列車の周囲は黒一色で、時たま流星のような光が通過していく。本来なら周囲にあるはずの、木も、水も、空も、大地も、さらに足元に伸びているはずのレールさえ見当たらない。列車はただ、先の見えない暗闇を進んでいく。
 車内には、客が一人だけいた。
 一言であらわすならば、中庸な青年である、
 茶色の髪は長くもなく短くもなく、肌はそこそこ日焼けしている。釣り上がった眉尻や引き結んだ口もとに多少凛々しさが漂うものの、黒目の小さい驚いたような瞳や、太い眉の、間の抜けた印象を払拭するほどではない。
 彼の隣には、市場で見かけぬ短髪のウェディ人形が座っている。
 青年が窓の向こうに広がる無限の暗がりを眺めていると、声がした。
「何、考えごと?」
 青年は隣を見る。
 ウェディ人形がこちらを見上げ、柔らかな赤い布でできた口腔を見せていた。
「オレ、気付いちゃったかもしれない」
「何に?」
「アストルティアには、エテーネの民の生き残りがたくさんいる」
 ウェディ人形は頭を傾けた。
 短髪であるために、まん丸な頭が転がりそうだ。
 心配になって、青年は指先でその頭を支えた。
「このアストルティアには、何かすることがあったために生き返しの術を受けて、勇者の盟友になって、いろんな世界を冒険し続けるエテーネの生き残りが五万といる。オレもそのうちの一人みたいだ」
「そうだね」
「アストルティアっていう一つの世界を軸にして、たくさんの冒険者の旅が別々に展開してる。なあ、どうなんだ。どう思う?」
「うーん」
 ウェディ人形が立ち上がる。
 青年の膝の上へ這い上がって、車窓を覗いた。
 果てなき闇に、光がまっすぐな線を描いては消えていく。
「景色、綺麗だね」
「そうな」
「とこなつココナッツが食べたい」
「そっかあ。なら、帰ったらウェディに戻って一緒に食べるか」
「うん!」
 列車はやがて、周囲を駆けていた光の束に飲まれていく。





+++



 青天の霹靂。
 始まりの記憶。



 いつにもまして濃い夜。
 火焔に呑まれ、炭化して崩れ行く家々。
 間に合わせてみせると駆け出した幼馴染の足音。
 ヤシの実より大きな火球を軽々と投げつける魔物。
 迫る火球を前に立ち竦む、弟の背中。




 暗転。




 何処とも知れぬ部屋の中央を漂っている。
 周囲には五つの石像が五芒星よろしくならび、円柱がこれまた等間隔に立って天井を支えていた。  足元を見下ろすと、ほのかに煌めく水鏡に自分の姿が映っている。やけに色が薄い。
 目の前に己が手をかざしてみて、本当に輪郭が透けていることに気づいた。自分は死んだらしい。
 それより、村はどうしたのだろう。
 外を伺ったが、果てしない夜が広がるばかりである。
 どこからか声が響いてきた。

 お前の命は絶えたが、まだ魂には使命がある。
 蘇り、使命を探せ。
 エテーネの外にはアストルティアという広大な大地がある。そこには人とは違う種族が住んでいる。
 奇遇にも同日に命を落とした他種族の若者がいるから、彼らの体を借りて新たな生を受け入れよ。
 宿りたい種族を選べ。

 そのようなことを言っている。
 村は。思ったが、体がないから聞くこともできない。
 部屋を何週か歩いてみた。出口がない。
 弟は。シンイは。アバさまは。
 村の面々が浮かぶ。
 助けに行きたい。今ならまだ誰か救えるかもしれないと思った。
 しかし、あの魔物の軍勢を前にした自分は無力だった。
 無力なのだ。
 仮に今ふるさとへ戻れたとしても、それは変わりない現実である。
 それでも彼は、出口を探すことを諦められなかった。
 部屋を巡る形で、手掛かりを探す。五つの石像は異種族の神らしい。像の前に石碑があり、異種族の説明が刻んである。
 【好戦的で強き者を尊んだ彼らは、抜きんでた強いチカラと体力で弱き者や仲間のために──】
 炎の民、オーガ。
 【伝統と格式を重んじる彼らは世界の理を深く学び、多くの優れた呪文の使い手を──】
 風の民、エルフ。
 【高い技術力と強い欲望を持つ彼らは、持ち前の器用さと素早さでいくつもの高度な文明を──】
 地の民、ドワーフ。
 【強い魔力と器用さを生まれながら持つ彼らは、戦いより、ものを作りだすことより、楽しさを──】
 花の民、プクリポ。
 脱出のための手掛かりがない。
 何だっていい。ここから出たい。
 焦燥が募る彼の目に、ある石碑の一節が止まる。
 【束縛を嫌い──】
 立ち止まる。続きを読む。
 【速さと強さという特性を生かして、愛する者を守る時にだけ本気で戦った】
 彼はその石像を見上げた。魚のヒレを持つ美しい女と目が合った。
「オレはエテーネ村のエクス」
 声が出た。しかし彼はその先にあるもののことを考えていて、気づかない。
 錬金術に失敗して、まあ次こそは見ていてよとウインクしてみせた弟。
 布地に顔を近づけ、針と糸の行く先に気を配る幼馴染の指先。
 好物の豆をかっくらう老巫女の、笑みの形をした大きな口腔。
 木を狩り、魔物を屠る男たち。果物かごを頭に乗せて運ぶ女たち。一緒に遊んでと寄ってきた子供たち。
 あの光景が失われていいものか。
「この命をあなたに捧げます。ここから出してください」
 女の目じりが、少し下がった気がした。
 ──君も、誰かを助けに行きたいんだね。
 先ほどから話しかけてくるのとは別の、若い男の声がした。
 エクスの姿は掻き消えた。微かな波紋が水鏡を伝い、やがて広間には完全なる静寂が訪れる。






+++



 エテーネ村のエクスは、牧歌的な村に育ちながら剣を握って前線に立つことにためらいのない青年だった。
 魔物狩りの趣味はない。争いごとも好まず、むしろいつも調停役にまわるか、謝っているかのどちらかである。なぜならば彼の弟は、平和を絵に描いたような村の、唯一にして一番の歩くトラブルだったからだ。
 錬金術に目のない弟は、いつもありえない実験に励んでは爆発を起こしていた。村には彼の実験結果を記録する看板ができ、成功と失敗と大失敗の回数が刻まれた。失敗と大失敗の数は、エクスが頭を下げた回数と同じかそれ以上だった。
 それでもエクスは弟が可愛くてしかたない。錬金の成功率の低さにもめげず、いつかは天才錬金術師になるのだからとのたまう能天気な笑顔を見ていると、迷惑をかけた相手に頭を下げろと言いながらも、すでに心のうちの半分くらいは許してしまっている。残る半分は、自分のはたらきでどうにか挽回しようと考えている。甘々である。
 その一環で剣を覚えた。村の防衛は男たちの役だ。若いエクスは自分なら傷の治りも早いからと、敵の前に立って戦うことを選んだ。
 巫女アバの孫であるシンイが後方支援型の魔術使いだったこともあり、エクスは重宝された。ゆくゆくは村一番のガーディアンになるだろうともいわれた。
(でも、槍なんて使ったこともないぞ)
 エクスは己の手にある得物とを眺める。
 目が覚めた時、エクスの持っている武器は槍と爪と棍しかなかった。村では一切使ったことのない武器である。しかし実際ふるってみると、体は実にすんなりと初対面の武器を使いこなした。
 この体の持ち主が実際に愛用していた武器なのだから、当然なのだろう。だがどうにも違和感がある。
 違和感は武器だけに限ったものではない。
 エクスのいる大地は、故郷に似てどこか絶妙に違う南の島である。
 亜熱帯の植生で、出くわす魔物は海沿いのものばかり。
 さらにここで文明を築いているのは、人間ではない。
 あたりを見回す。穏やかな湾に沿うようにして存在する小さな村。
 名をレーンの村という。
 周囲には、人間のような五体を持ちながら、人間でいうところの耳の位置や背中からヒレを生やす魚じみた生物たちがいる。
 エテーネの遺跡の壁画に描かれていたウェディという異種族に違いない。
 エクスは足元の浅瀬をのぞき込む。ウェディがこちらを見返してきた。
 肌は、南の澄んだ海を練って焼き上げた青磁のようなつややかさ。
 鼻筋が通っており、柔らかな輪郭の目に収まる瞳孔は大きな紫の宝貝のよう。
 短い髪は銀を帯びた青で、顔の真横のヒレと相まって、青魚を美しい人間にしたらきっとこういう形になるだろうという風貌をしている。
「オレはエテーネ村のエクス」
 声を出してみると、水面のウェディが同じ言葉を話した。
 村が襲われた。神像の並ぶ間に飛ばされた。
 そして気づいたら、エクスはウェディになっていた。
「わけがわからない」
 エクスが喋ると、またウェディの口が動いて声を発する。もとの自分の声とは全く異なる、流麗な声をしている。
「何を一人でぶつぶつ言ってるんだ」
 背後から声をかけられて、振り返った。仏頂面をしたウェディ族の若者がやってくるところだった。まばゆい金髪も整った顔立ちも、ウェディという一族の血をよく感じさせるものである。
「新しい歌を思いついたんだよ」
 エクスは答えた。この答えはエクス自身が考えたわけではない。ふと唇に上ってきたのだ。
「ヒューザもどう?」
「いやがらせか」
 溜息を吐いて、青年はエクスの座る甲板の傍に佇んだ。
 青年ヒューザは、この体の持ち主であるウェディのエクス──自分と同名である──の幼馴染である。ヒューザとエクスは、この村の孤児院で育った仲間であり、互いに村を出る時を夢見て武術の腕を磨きあう関係性だったのだという。
 しかしその手合わせ中に、ヒューザは誤ってエクスを殺してしまった。
 エクスが目覚めた時、この不幸なウェディの体はレーンの浜から棺に入れられて海へ送り出されるところだった。大海へ流れ出す直前でエクスが起き上がったことにより、彼は奇跡の生還を遂げたということになっている。
(この人にだけは、本物のエクスが死んだことを知られたくないな)
 エクスは渚を眺めるヒューザの横顔を見つめ、思う。彼はエクスが生き返ってから、やけに身の回りにいる。ぶっきらぼうだが、眼差しには険がない。気遣ってくれているのだろう。
 生き返しの術というのは便利なもので、生き返って授かったウェディの体の記憶は、エクスの中にも多少残っていた。たとえば名は自分と同じエクス──ウェディたちに発音させると、エークスというやや訛った形になる。水流に似た彼らの発声のせいなのだろう──だということ、この村の孤児院で育った青年だということ、村に友人がたくさんいるということ、その中でもヒューザと仲がいいことなどが、昔見た夢の名残のように脳内を漂っていた。
 体は、一度宿った魂を簡単には忘れないのだろうか。エクスはこの村に初めて来たのに、いざ動いてみるとどこに誰がいて、それがどんな人で、どう会話をしたらいいかがすぐ分かるようになった。体の持ち主であったウェディのエクスが導いてくれているのかもしれない。
 エクスは魔術に明るくないのでわからないが、今はとにかく生前のエクスが残したと思しき幻を頼りに、なるべく生前のエクスの知己だった村人たちを悲しませずにここを去りたいと願っていた。
 ウェディのエクスの友人アーシクが、隣町の町長の娘キールと結婚する。その仲人として二人を祝福するシェルナーに選ばれれば、一人前の証をもらえ、各国の長への謁見が許される。故郷を探すのに役立つだろう。
 しかし一人前の証が欲しいのはエクスだけではない。隣にいるヒューザもそうなのである。彼は己の力を磨くために、村から出ることを望んでいた。
 だからこれから二人は、シェルナーの座をかけて競う予定なのである。
「ヒューザ」
「なんだよ」
「手加減するなよ」
 ヒューザへの言葉は、不思議なことに意図せずとも次から次へと出てくる。これも生前の名残だろうか。
 どうやらこの言葉も不自然ではなかったようで、ヒューザはゆったりとこちらへ首を回した。表情こそ変わらないまでも、瞳に挑発的な光が閃いていた。唇の片側が持ち上がる。
「すると思うか?」
「ヒューザはお人よしだからなあ」
「お前に言われたくねえよ」
(いいなあ)
 エクスは羨む。エテーネの村には、自分と腕を磨きあえるような同年代がいなかったのだ。同年代といえばシンイくらいで、仲は良かったが、魔術と剣術では連携技の練習はできても手合わせはしづらかった。
「だって、前にルベカのリボン入れに蛇が入り込んでた時、知るかよって言いながら取ってくれた」
「あれはアイツの悲鳴がうるさかったからで」
「蛇除けも作ってあげてた」
「悲鳴が鬱陶しいからだ」
「僕が小さい頃、夜に寝られなくて泣いてたら、おんぶしてくれたよな」
「……それ、自分で言っていて恥ずかしくならないのかよ」
「ヒューザおにいちゃん」
「絶対手加減しねえからな」
 エクスはけらけらと笑った。
(いつまでこうやって、勝手に口が動いてくれるんだろう)
 内心溜息を吐いた。誤魔化し続けられればいいのだが。






+++



 この村にいたエクスの人柄をなぞりながら精一杯動き回っているうちに、アーシクとキールのシェルナーとなり、昔村で亡くなった新郎新婦の亡霊を成仏させ、さらには一人前の証を手に入れていた。
 ヒューザが気にかかったものの、彼は証に頼らない強さを証明すると言って一人先に旅立っていった。
 結局、村でエクスが以前のウェディでないことに気づいたのは孤児院の養い親であるバルチャだけだった。彼によると、生前のエクスは生き別れになった親を探すために旅立ちたがっていたのだという。彼と自分の目的が一致しているならば、なおさら行くしかない。
 そうしてエクスはレーンの村を出て、故郷へ帰る道とこの体の持ち主の両親を探す旅を始めた。
「エクスくん、大丈夫かい?」
 離れたところで戦っていたウェディの戦士が声をかけてきた。彼はレーンで雇った傭兵である。次の街に行くまでの間、死にかけて消耗している──実際は本当に死んだわけだが──エクスを守るという約束で、レーンの村長が雇ってくれた者の一人だった。
「はい、ありがとうございます」
 エクスは微笑んで、彼らの方へ歩み寄る。彼らは流れ者で、生前のエクスを知らないから接するのも気楽だった。
「あ、見えた」
 ウェディの魔法使いが遠方を指した。全員がそちらを見やり、僧侶が声をあげる。
「あれがジュレットの町だよ」
 鯨型をした青の屋根で知られる、美しき白亜の港町ジュレット。アストルティア大陸鉄道の通る大きな街だ。大陸鉄道を使って各国を回れば、故郷へ行くための方法もつかめるだろう。
 ところが、たどり着いてすぐ一つの事件に出会した。町の少女が、捨てられていた巨猫族の赤子を連れ帰ったのだ。猫島に住む魔猫の中でも、巨猫族はウェディと軋轢のある因縁の一族である。その子供をウェディの町に置いておくなど、火薬庫に火を放り込むようなものらしい。
「家族になってほしかったの」
 巨猫を連れ帰った少女ソーミャはうつむいてそう言った。気持ちは痛いほどにわかる。
 ソーミャには親類がいない。この幼さでひとりきりなのだから、さぞ寂しいだろう。
 しかし、このままにしておけばもっと悲しい結末が訪れる。
 ジュレット町長の依頼で、ソーミャと、奇しくも再会したヒューザと共に巨猫族のもとへ赤子を帰しに行くことになった。話の途中で、決行する日を決めないままに夜になり、それぞれ帰路に就いた。






+++



 巨猫族についての一同の話し合いは、数日に及んだ。
 ある夜、エクスはジュレー島上層、夜の浜辺に一人だけで見回りに出る。
 あたりをうろつく魔物の姿を確認する。猫の魔物が大半を占めている。ただの捨てられた巨猫に、ここまで猫の魔物が動くはずがない。あの赤子はきっと、巨猫族の中でも特別な位置にいるのだ。
(拾ってくれたのが優しい子でよかった)
 もしウェディの大人が発見していたら、あの赤子は殺されていただろう。エクスのウェディの体は巨猫族に何かしらの思い出があるらしく、巨猫の名を聞くたびに微かな震えのようなものを覚えていた。それほどに恐ろしい一族なのだろうか。
(ふくふくしてて、ふわふわで、かわいかったけどなあ)
 おくるみに包まれた赤子を思い出して、エクスの頬が緩む。
 エクスは子供が好きだ。彼らの純粋さは尊い。これから紡がれる彼らの時を守りたいと思う。
 この世に生まれたばかりの命に、何の罪があるだろう。ましてや、生まれついた体を理由に奪われていいはずがない。
 生まれたばかりの者だけでない。芽生えて何年も経った命には、生きようという本能と意思がある。神でもない第三者がそれを軽率に奪うことは、傲慢にもほどがあるのではないか。
(でもオレは巨猫族を知らない)
 自分が知らないだけで、彼らにはそれほどの罪があるのだろうか。
 しかし仮に罪があったとしても、自分にはあの赤子が殺されるのも、ウェディと魔猫とが血で血を洗う争いになるのも、見過ごすことができない。
 これ以上、無為に亡くなる命を見たくない。
 エクスはジュレーの海岸から遠洋を見やる。黒い海の彼方、それよりなお澱んだ闇が中空に滞留していた。
 人間が多く住むというレンダーシア大陸のあるあたりだった。あの中心に、エテーネの島もあるのだ。
 レンダーシア大陸に船を出しているのは、アストルティアの中でも港町レンドアだけだという情報を知ったエクスは、今日だけ暇をもらい、日中レンドアへと足を運んだ。
   故郷への船便が出ているか聞いてみたところ、今レンダーシア大陸周辺はひどい魔の瘴気が立ち込めていて、船を出せない状況なのだという。
 あんな魔瘴はこれまでになかった。
 あれのせいで船が沈んだ。
 あの中へ向かおうとした船から命からがら戻ってきたクルーは、死を目の当たりにして人が変わってしまった。
 そんな声を聴いた。
 エクスの村を襲い、あの魔瘴を引き起こした冥王ネルゲルとは、何者なのだろう。
 強大な力を持っていたが、死を司る神だとは思えない。ただ殺戮をもたらすだけの魔族のように思われた。
 拳を握りしめる。
 故郷はどうなっただろう。
 緑豊かな村は、火の海に侵されていた。
 みんなは無事だろうか。倒れてしまった人も見た。もしかして。
 いや、カメさまのいる村が簡単にどうにかなってしまうだろうか。
 しかし、アバさまは村が滅びると予言した。
(そもそも、あれは本当にあったことだったのだろうか)
 エクスは黒い海を見つめる。ヒレを撫でる夜風は塩辛くなく清涼で、物思いさえ飛ばしてくれる気がした。
 もしかして自分は、悪い夢でも見たのではないだろうか。
 自分は何か妙なことが起きて、ウェディの若者と魂と体が入れ替わってしまったのではないか。自分は今こうしているが、自分の体は今頃エテーネの村にあって、その中にこの体の持ち主だったウェディのエクスの魂が入ってしまっている。
 最初に入れ替わったことに気づいてくれるのは誰だろう。弟でないことは間違いない。きっとシンイだろう。アバさまの孫である彼は予知能力を受け継いでいるだけでなく、豪快な祖母をきめこまやかにサポートできるだけの胆力と洞察力も持ち合わせている。
『あれ。エクスさんの様子がおかしいですね』
 そう言ってシンイがあれやこれやと策を巡らせている頃、弟は木箱に果物を放り込んで十倍に増やす錬金術を試みているのだ。失敗して、追い回す村人から隠れている時間が長くなるうちに、やがて気づくのである。
『兄ちゃん、遅いな。早く次の果物を持ってきてくれなくちゃあ、いくら天才錬金術師の手にかかったとは言っても、さっき犠牲になったばっかりの果物たちがかわいそうだよ』
「……ぶっ」
 吹き出してしまった。
 ひどい妄想だ。でも弟ならば本当に言いかねない。
 思い返してそのまま笑いだそうとしたエクスは、自分の口から出た声に驚いた。

   ウェルナールシェルを託されたとき
   僕は多分気づいていた
   みんなの積み重ねた時を
   持っていって欲しいんだって
   時の波にさらわれないように
   海賊に壊されないように

 歌だ。それも、まったく聞いたことがない。人間としてエテーネの村で暮らしていた頃も、このウェナ諸島にやってきてからも、一度も耳にしたことがないはずだ。
 そういえば、ウェディは歌の一族でもあったか。
 この体の持ち主が覚えていたのだろう。しかし元の持ち主の魂がなく、自分に歌おうという気もないのに、なぜ歌いだしたのだろうか。
 戸惑う間に、ウェディの口は旋律を紡ぎ続ける。

   ひとり知らない海を泳ぐ僕は
   貝殻の中にあったはずの真珠のことを思う
   ひとり冷たい海を行く僕は
   あれは貝の吐いた幻ではないかと惑う

「いやだ」
 のびやかで優しいバラードだ。だが今はどうしようもなく聞きたくなかった。
 口は動き続ける。ふさぐにも手は口の方へ向かおうとしないので、エクスは耳をふさいだ。
 しかし自分の耳をふさいだところで、自分の体内で発生する歌声は聞こえてくる。

   でも君はきっとそんな僕を分かっていた
   あの時 君は僕の背中を押して言った
   君にウェルナールシェルを預けたのは
   僕らの時に似ているから
   生まれた海の違う僕らが
   同じ海で過ごして見つめた虹
   この身がどの海に染まろうと
   この血にどの水が混ざろうと
   僕らは魂で結ばれている
   たとえ体が滅びようと
   あの日真珠に映った虹は色褪せない

「歌ってる場合じゃあっ……」
 荒げた声が中途に切れた。息を吸い込んで、溢れたのは声ではなく涙だった。
 エクスは混乱した。どうして自分は泣き出したのだろう。泣くようなことなどあっただろうか。
 それより、エテーネの村が。
(ああ)
 気づいてしまった。
 エテーネの村の、あの状態。
 冥王が呼び出した瘴気を体験したエクスには、本当はもうわかっていた。
 あれだけの瘴気が立ち込めている場所が、無事なわけがない。
「ああ、あ……」
 嗚咽交じりの哀哭の歌は、浜辺の片隅で波に紛れて消える。
 歌いながら涙を流すその姿を、離れた岩場の影からヒューザが一人、見つめていた。






+++



 翌日、町長の家でヒューザが意外なことを言い出した。巨猫族との交渉は、ソーミャとヒューザの二人で行うというのである。
「それは無茶だよ。だって、巨猫族だよ?」
「お前に心配されるほどヤワじゃねえよ」
 ヒューザは笑った。
「それよりお前こそ、巨猫族を甘く見てるんじゃねえか? 一度死にかけたその体でタイマン張れるほど、巨猫族は甘くねえ。すぐに終わらねえ、長い交渉になる可能性もある。だからお前はまず、体を癒してきた方がいいだろうよ。アズランなんてどうだ? エルトナ大陸にある良い温泉地だって話だぜ。あそこに通うウェディも多いそうだ」
「私がヒューザ君とソーミャにつけられる用心棒を雇おう。町としても、交渉をする準備を整えるのにもう少し時間が欲しいところなんだ」
 町長が提案する。
「ヒューザ君に聞いたんだが、君はキールの結婚式の前に、ひどいけがをしていたそうじゃないか。恩人をそんな状態で戦わせ続けるわけにはいかない。どうか行ってきてくれないか」
 そこまで言われたら、行くしかない。
 エクスは湯治に行くことにした。数日かけて路銀を用意し、再びジュレットの町に戻ることを約束してから、大陸鉄道に乗り込んだ。