背の高い影法師
悠久の桜咲き誇る王都カミハルムイの宮城へ、小さな白き桜が舞い込んだ。
万年桜の花弁を織り込んだ、その手漉きの便箋は、風の町アズランより飛脚によって運ばれて来た。手にすると、長寿の桜たちがこぼすのとは異なる、新鮮な風の匂いがした。
それは、萌芽の香り。
新たな葉が芽吹いたときに木々がこぼす、喜びの息吹だった。
(そうか。アズランにようやく、新たな風乗りが生まれたか)
老王ニコロイは封を解いて中身に目を通す。次第に、自然と相好を崩していた。
手紙には、送り主であるアズラン領主タケトラの、格式ばった文章に隠しきれない喜びがにじみ出ていた。
長くツスクルの学びの庭に行っていた娘が、風乗りになる決意を固めてくれたこと。
それもほかならぬ、アズランの民のことを思っての行動であったこと。
スイの塔に魔の者がよこされていて苦戦したが、見事風の衣と手綱を持ち帰ってきたこと。
『スイの塔に魔の者が棲みついていたこと、非常に気がかりではありますが、現在異常は見られないようです。新しい風乗りが就任して十日経ちます。アズランの風は日々清らかになり、悪心を抱く魔物は里より離れ、町の者も健やかに過ごしております』
その他、手紙には風送りの儀のことや、アズラン地方の様子などが事細かに記載されている。
一通り目を通し、至急手を打たねばならない事態は起きていないことを確認して安堵した。
アズラン地方は風の要所だ。あの場所に異変があれば、大陸全土に影響が出るおそれもある。レンダーシアとの連絡が途絶え、アストルティア各地で魔瘴が発生している今、アズランに新たな風が吹き始めたことは僥倖だった。
(嬉しい便りというのは久々だ)
玉座に就いて、もう長い。その月日から、心の底から喜べる吉報というのはめったに来ないものだと教わった。多くは泰平が揺らぐ不安につながる話ばかりである。
久々に訪れた純粋な喜びを噛み締めようと、もう一度手紙に目を落とした。
ちょうど、タケトラが新しい風乗り──彼と、先代風乗りの娘でもある──が継承を決意した次第について綴った部分だった。
『これは、娘の儀式を手伝ってくれた者から聞いた話なのですが』
タケトラは、常々娘が心を開いてくれないと嘆いていた。
『人にはきっと、それぞれやるべきことや行くべきところがある。自分の場合はそれが風に乗ることだ──そのように、娘が言っていたそうです。その言葉を聞いて安心すると同時に、嬉しく思いました。
『娘の望まぬ道を強いることは、領主としても親としても良い結果には結びつきませんでしょう。一時は、娘でない者を風乗りにとも考えました。しかし、娘は自分で故郷アズランを守りたいと言い、風乗りになることを選んでくれました。
『娘が学びの庭に行っている間、私は我が身を振り返っておりました。六年前、娘はカムシカを憎んで町を出ていきました。あの時、どんな言葉をかけても娘は風乗りになろうとはしませんでした。当然、腹が立ちました。
『けれど、思い返せば妻も私も、アズラン地方のことや風のことで手いっぱいで、これまで娘と向き合ったことがあまりありませんでした。これまで娘を見てこなかった我々の態度が、今の娘にあらわれているのではないか。向き合えなかった時間が、娘の心をかたくなにさせたのではないか。時が経つにつれ、そう思われて仕方なく、娘にアズランへ戻ってくるよう言いづらくなっていきました。
『しかし、アズランは風の要。悠長にはしていられませんので、今年は帰ってくるよう伝えていました。娘は帰ってきた当初こそ強ばった顔をしておりましたが、母親の墓参りをした後には柔らかな表情になっていました。私は、フウラを案じた同窓の友の働きかけと、カムシカたちの献身が娘の心をほぐしたのだと知りました。
『この六年、娘は未熟なりに苦しんだのでしょう。本人の未熟さ故の苦しみでもありましょうが、子の未熟は親の未熟です。私も自らの非力が憎く、先立った妻を恨めしくさえ思いました。
『それでも、フウラは変わってくれた。大きな悲しみから逃げるようにツスクルへ発ったフウラが、よどんだ風に苦しむ町の者の手を取り、立ち上がることができるようになりました。ありがたいことです。これも、長きにわたりフウラを受け入れてくださったヒメア様のお導き、学びの庭の師兄らの教え、そして同窓の者らの心くばりのお陰でございましょう。
『我々親子は、各方面へご迷惑をおかけしてきました。これより、その分のはたらきをする所存でございます』
(学びの庭か。懐かしい)
学びの庭は、より高き知恵を身に着けたいと願うエルフなら誰しも一度は戸を叩く場所である。
ニコロイも、かつて髪が青々としていた頃は、ツスクルの草原の上を跳ねまわっていたものだ。
(人にはやるべきことや行くべきところがある、か)
フウラが言ったという言葉を噛み締める。不慮の事故で母を失った少女の六年を思うと、感慨深いものがあった。
エルトナ大陸を統べるカミハルムイとしても、風送りの儀は規則通り行うことが望ましかった。にも関わらず、それをフウラに強いなかったのには二つのわけがある。
一つは、風乗りは心から風を吹かせたい者でなければなれないから。エルドナ神の恵みは、嫌々与えられるような安いものではない。
もう一つは、フウラの身の上に自分を重ねて同情を覚えたからだ。
ニコロイは、幼い頃に家族を亡くしていた。
朗らかな父王。優美な母后。そして物静かで賢い姉。
良い家族だった分、喪失感は途方もなく大きかったようで、家族を亡くした当時の記憶はあまり残っていない。おぼろげに思い出せるのは、侍従の背中に負われて見た旧都の黒ずんだ影と、遷都の慌ただしい空気程度である。
老王は格子戸の外へ目を向けた。
遷都して五十年。旧都から移植した桜の巨樹を囲うようにして植えた前栽は、降り積もる薄紅の花弁に劣らぬ豊かな緑を蓄えた。
新しき風が吹けば、古き風は散っていくだろう。
魔瘴が活発化すれば、腕利きの勇士たちが立ち上がろう。
(やはり今こそ、故きを温ねる時なのだろう)
老王は目を瞑る。
その瞼の裏には、彼のふるさと──新都が背を向けた、旧カムハルムイ王城の影が浮かんでいた。
+++
エルフ族の王都カミハルムイに不穏な空気が流れている。
その中心には、五十年ほど前に突如捨てられた旧カミハルムイ王城の存在があるらしい。
「私達エルフにとって、遷都というのはとてつもない大事なのです」
イム曰く、風の民エルフにとって移ろいの儀式は浄化を意味する。
アズランで古き風を清めるために風送りの儀が行われたように、エルフは決まった手順で変化を迎えることで、古きものの澱みを払えると捉えているそうだ。
「エルフにとって『変化』は禁忌ではありません。エルドナ神は風の神ですから、変化自体は聖なるものとして捉えられます。しかし、遷都だけは違うのです」
そもそも旧都カミハルムイのあった土地は、聖地であった。太古の樹霊たちが集う夢幻の森の奥地は魔瘴を清める力を蓄えており、エルトナ大陸の命の源とも言える場所であったという。
そのような霊場を敬い、守るため、多くのエルフたちが集った。そのうち、聖地に通じる力の強い者が王となり、カミハルムイの都が誕生した。
こうした歴史を持つ旧都を捨てざるを得なかったというのは、大変なことなのだ。
何せ、かの聖なる地で、不浄を清めきれず、浄化の力までも失うような忌み事が起きたということなのだから。
「学び舎の古老達さえ、五十年前の遷都については口を噤みました。歴史書にも、遷都したとあるだけで詳細は記されていません。聖地の不浄……最近の状況とよく似ています。調べれば、魔瘴の活発化を和らげる手掛かりが見つかるかもしれません」
「最近の?」
「ええ。世界樹の内側から、魔瘴が噴き出したのです」
イムのいたツスクルの北東、久遠の森には世界樹の生える丘がある。
エルフ達にとって夢幻の森と同じく神聖なその地で、イムは世界樹の内部から魔瘴が噴き出すのを見たのだそうだ。
世界樹は生命の恵みの樹である。触れた者の命を奪い、魔物すら狂暴化させる魔瘴がそこから湧くのは、異常なことだった。
「世界樹は無事だったのか?」
「はい。世界樹から魔瘴が出た時、空から大いなる光が降りてきました。あれは、レンダーシアより放たれた勇者覚醒の光だと聞いています」
「光……」
「僕達が見たのと同じだね。エックス、覚えてる? あの時は僕が主に動いてたから、覚えてないかな」
ウェディのエークスが問いかけてきた。
「いや。あの光なら、よく覚えてる」
レーンの村のさらわれた花嫁キールを取り戻しに、花婿アーシクとヒューザと共に亡霊と戦った晩。
魔瘴の力で暴走する亡霊は、突如夜空を駆けぬけた白光によって闇を払われ、我を取り戻した。
魔の濃厚な気配が立ち込める夜を、さざ波のように洗い流していった、あの光。
星々は喜ぶようにちかちかと煌めいて、空は高揚したように裾を紅に染めた。
突然よく分からない体に蘇ることになって混乱していたエックスも、あの時ばかりはあまりの絶景にすべてを忘れた。
「あの光によって、魔瘴は払われました。その後、世界樹の精霊が身を捧げて世界樹を復活させてくれました」
イムは細い顎に手をあてた。
「これまでに世界樹は、悪しき者が現れるたびに何度も滅ぼされかけてきたのだそうです。そして勇者もまた、混沌の中に生まれる者。光と闇は表裏一体でありますから、それがせめぎ合う場所へ行くことで、正体を確かめることもできるでしょう。
「旧カミハルムイ王城は、古くはエルトナ大陸の聖なる力の心臓とまで称されました。あの地について調べて、聖地が力を失った理由を知れば、現在の異常を解き明かすこともできるかもしれません」
「それ、オレ達二人だけでできるのか?」
話の規模が大きすぎて、こなせる気がしない。
エックスが問うと、イムは首を横に振った。
「調べごとだけならば私たちだけでいいでしょう。けれど、この先どんな荒事が待っているともわかりません。知り合いにサポートを頼んでいます。現地の酒場で合流する話になっているので、支度ができたら私のルーラストーンで飛びましょうか」
+++
アズランの宿を引き払って、イムと共にカミハルムイへ赴いた。
王都は美しい場所だった。
家々は釘を使わず、限りなく自然に近しい形で木材を組み込んで作られている。黒い瓦屋根に白壁を基調としたデザインが奥ゆかしい。
玉敷の舗道に風が吹けば、ひらひらと淡いピンクの花びらが落ちてくる。光の雨粒のようなそれは、カミハルムイの端正な街並みに文字通り花を添えている、桜という樹木のものなのだそうだ。
「本当ならば暖かく穏やかな季節にしか咲かないのですが、城の学者の研究の成果により、この辺りの桜だけは一年中花を咲かせるようになりました」
イムが説明して、酒場の軒先に咲き誇る桜の木を見上げた。
エクスもつられて仰ぐ。葉の代わりに甘い朱を帯びた花で着飾った桜の木は、雲一つない碧空を背景にすると、その美しさと儚さが際立つようだった。
「雪みたいだ。きれいだなあ」
エックスが眺めていると、エークスが感嘆した声を漏らした。
「ゆき?」
「エックスさんは雪を見たことがないのですか?」
イムが問う。エークスはかぶりを振った。
「そう。エックスの住んでた村は、僕の住んでたコルット地方みたいに一年中暖かかったみたいだよ。だから、長袖も着たことがないんだって」
「エックスさんの故郷は、レンダーシア大陸でしたね。エルトナ大陸はそこまで暑くなることがないので、いつか行ってみたいです」
エクス達は酒場に入った。入ってすぐ正面がカウンターになっており、右手側に客が座るためのテーブルが並んでいた。客席側は少し高くなっていて、畳──アズランでも出会った、草を編んだ床だ──の敷かれた座敷になっている。
座敷はがらんとしていた。隅に一組だけ客がいて、その一人が机にもたれかかりながらこちらに手を振った。
「おーい、イムー!」
エックスは目を瞠った。
赤銅の肌に、頭と肩に二本ずつ生えた角。ウェディの自分と背もあまり変わらない、肉付きのいい女である。
(オーガだ)
好戦的でまっすぐな気性の者の多い、炎と戦いの種族である。
エックスはオーガとまともに関わるのは初めてだ。しかし、本当に驚いたのはそちらではない。
女オーガの隣には、兜をかぶった真っ白なモーモンが浮かんでいたのである。
「イム様、久しぶりでごじゃりますモン」
喋った。意外と声が低く、人間でいうところの中年男と少年の間くらいの不思議な声質をしている。
「かつて受けた恩を返すべく、グレースとこのトロロ、馳せ参じましてごじゃりますモン」
「お二人とも、ありがとうございます」
イムは座敷を横切り、彼らの正面に座った。エクスもその後に続いてくと、オーガとモーモンがこちらを見る。イムがエクスを指した。
「こちらは今一緒にパーティーを組んでいるエクスさんです。職業は武闘家でしたね?」
「はい」
よろしくお願いします、とエクスは頭を下げた。
オーガが己を指さす。
「アタシはグレース。ランガーオ村から出てきて、アストルティアをめぐって武者修行の旅をしてるところさ。で、こっちのかたっ苦しいスノーモンはトロロ」
「清廉潔白が評判のスノーモン、トロロと申しますモン。よろしくお願いモンしあげます」
モーモンは中空に浮いたままお辞儀をした。なかなかに癖が強いのも気になるが、それ以上に町の中に魔物を見るのが初めてで、エックスは戸惑っていた。
「エクスさんは、魔物使いに会うのは初めてですか?」
イムの言葉に頷く。すると、グレースが説明してくれた。
「魔物使いっていうのは、魔物と心を通わせて生きる職業さ。詳しく知りたければ、プクランド大陸のオルファの丘に行ってみな。美人のおねーさんが、優しくサポートしてくれるよ」
「そうですか」
エックスが知っている職業は、ダーマ神官に教えてもらった戦士、武闘家、魔法使い、僧侶、盗賊、旅芸人の六職だけである。各職業で身に着けた技能は、基本的にその職業についている間しか使えないが、中には職業につくつかない関係なく自分の能力を上げさせてくれるスキルもある。だから、新しい職業の存在を知れたことはありがたかった。
のちほど、地図上でオルファの丘を調べてみよう。
エックスがそんなことを考えていると、グレースが声をかけてきた。
「あんた、ウェディなんだよね?」
「はい」
「ふーん」
グレースはどこか訝しげな様子だった。
「あんたみたいに、美人って聞いても何の反応もしないタイプのウェディもいるんだね」
やばい。怪しまれた。
エックスは強いて何事もない風を保ちながら、湧き出てきた背中の汗が収まることを祈った。
別に正体がバレてもいいのかもしれない。しかし、ネルゲルやレーンの村の面々のことを考えると、うかつに人間の自分の存在を表に出そうとは思えなかった。
「確かに、ウェディには素敵な異性って聞いたらリアクションしちゃう人が多いかもね」
何も言えないエックスの代わりに、エークスが話し始めた。
「でもウェディ族のモットーは、素敵な異性と仲良くなることっていうよりも、人とのつながりやつながりから生まれた心を大切にすることだと僕は思うんだ。ウェディが十人いれば十通りの人の好みがあるけど、根っこのところはみんな、大事な人への愛を大切にしたいんだと思うよ」
「へえ」
グレースは関心の有無が分かりづらい返事をした。
エークスは話し続ける。
「ウェディの男が美人さんを気にかけやすいのは、美人さんに見る人の心を動かす力があることが多いからじゃないかな。ウェディは感情の動きに敏感だから、そういう感情を動かしてくれる人と関わりたくなるんだと思う。だから中には僕みたいに、きれいとか醜いとかそういう時代や種族の基準はどっちでもよくて、いろんな人と関われるだけで満足できるタイプもいるんだ」
「あんた、変わってる」
「そうかもね。でも、そういうのがいてもいいだろ?」
「どっちでもいいけど、アタシからすれば付き合いやすいわ。下手に見た目とか性別とか気にされるの、面倒くさいんだよな。大事なのは、戦いの腕でしょ」
「わあ、かっこいい」
グレースはエークスと握手した。エックスは内心で大きく胸をなでおろす。
よくわからないが、人間だとバレなくてよかった。
「じゃあ、仕事の話をしようか。イムさん、カミハルムイの捨てられた城について調べたいんだったね」
グレースは周囲を見回す。店内はがらんとして、客は誰もいない。カウンターでマスターがグラスを磨いているだけだ。
それでもオーガは声を潜めた。
「ちょっとだけ噂を集めてみたんだ」
「どうでした?」
イムが尋ね返す。グレースは吊り上がった眉根を寄せた。
「前のカミハルムイの城、結構やばいっぽいよ。しかも、今のカミハルムイ城にも何か起きてるみたいだ」
今から五十年前、現王ニコロイ以外の王族が全員亡くなった。
原因はまったく分からない。当時のカミハルムイ王と王妃、そしてニコロイの姉が亡くなったという話だけが伝わっている。
その王族の死と時を同じくして、カミハルムイに秘めた聖地が力を失い、城が急激に朽ち果てはじめた。
一連の事件を、人々は呪いだと恐れた。
そして、まだ幼かったニコロイ王を連れて都を捨て、夢幻の森の南に新しい都を造ったという。
「で、なんでこの話を城の人達から聞けたかっていうと、最近も捨てられた城に関わる噂があるからなのさ。王様のニコロイが、ちょくちょく捨てられた城に通ってるんだって」
グレースは右の手のひらを広げた。
「通い始めたのは、五年前に王妃が亡くなってから。カミハルムイの人達は不安がってるよ。王様に何かあっちゃあ、民族の危機だからね」
「ニコロイ王のお世継ぎは、亡くなられたお妃様との間に生まれた姫だけ。しかもまだ若くていらっしゃりますモン」
「陛下が、そのようなことを」
イムは利き手で髪を一房取り、指に巻きつけてはほどくのを繰り返している。
「陛下は堅実な執政で知られた方です。理由もなく禁足地に出入りするとは思えません。まずは城へ行って、謁見を願いましょう」
「会ってどうするんだ?」
「ご挨拶を兼ねて、様子を見るだけです。カミハルムイの住民でもないのに、急にこみ入ったことを尋ねたら角が立つでしょうから」
イムを先頭にして、宿を出た。
宿の北西に、カミハルムイ城の南門がある。そこへまっすぐ向かおうとしたところ、大通りから一人のエルフ女性が駆けてきた。
女性はイム目掛けて走ってきたようで、彼が足を止めると彼女も歩を緩め、その顔をまじまじと観察して言った。
「あなた。もしかしてツスクルのイムさん?」
「はい。私がイムですが」
「やっぱり! 私、昔あなたに夫の薬を作ってもらった者です。リンドウといいます。ずいぶん大きくなってたから、ちょっと自信がなかったの」
彼女は相好を崩した。
「あの時は本当にありがとうございました。おかげで夫もすっかり元気になって、船頭の仕事を続けられていますわ」
「それは何よりです。これからもお身体を大切にするよう、お伝えください」
はい、とリンドウは頷く。
「ところでイムさん。もしかして、城へ向かわれるの?」
「ええ」
「なら、一つ頼まれてくださらないかしら。実は、ニコロイ様が昨晩出かけられたきり、お戻りにならなくて」
エクスはグレースを見た。彼女も視線を合わせて頷いた。
イムは会話を続ける。
「見つからないのですか」
「ええ。詳しくは分からないけれど、どうも最近こういうことが多いようなの。呪われた大地に限らず魔瘴の活発化してきたこの状況で、ニコロイ様に何かあったら嫌ですわ。イムさんは、腕利きの魔法使いでもいらしたわよね? できたら、お城に行ってコトル大臣に声をかけてくださいな」
大臣はすっかり参ってらして、こうして案内係の私に腕の立ちそうな者を探すよう頼むくらいなの。
リンドウは気の毒そうに眉を下げる。
「大臣は、ことを解決してくださった方には、褒賞をお渡しすることも考えているわ。力を貸してくださらない?」
「分かりました。やれることがないか、見に行ってみましょう」
イムは女性と別れて、城門へ向かう。その後をついていきながら、エックスは彼の背中を見送る女性を少し振り返る。
「イムって有名人なんだな」
グレースが、知らないのかと目を丸くする。
「ここらじゃちょっと知られた人だよ。薬作りの名人でね。学生だった頃、各地の素材を集めて薬を作って、必要そうな奴に無償で渡してたんだ。アタシ達もそれで世話になった」
「グレースも?」
「うん。二回」
「トロロもでごじゃりますモン!」
モーモンがエクスの顔の前へ飛んできた。
危うくぶつかりそうになるのを、頭を後ろにそらして躱した。
「あれは今から七十五日前! グレースとトロロはロンダの氷穴で死闘を繰り広げましたモン。激しい戦いの末に、凍傷で死にかけたところを村人に救出されたものの、もはや虫の息。そんな絶体絶命の危機を救ってくださったお薬が、イム様印のお薬だったのでごじゃりますモン!」
「バカ。でかい声で恥晒すんじゃないよ」
グレースはモーモンを鷲掴みにした。
トロロは短い手足と羽をばたつかせている。
「離すんでごじゃりますモン! トロロはイム様の武勇伝を語りたいのでごじゃりますモン! この暴力仲間オーガ! 離すんでごじゃりますモむぐぐ」
グレースが、空いていた方の指でトロロの口をつまんだ。
そして、エックスにむぐむぐと呻くトロロを掲げて示す。
「モーモンの口をふさぎたいときは、必ず首根っこを掴んでから口をつまんだ方がいい。そうしないと、こいつらの口がペリカンみたいにガバッと開いて、あんたの拳を飲み込むからね」
「はあ」
「さっきの話は聞かなかったことにしておくれ。モーモンと取っ組み合いの喧嘩して死にかけたなんて、恥ずかしくて言えやしないよ」
グレースは何やらぶつくさ言っている。
一方エックスは、彼女のモーモンを押さえつける両手を眺めて考えていた。
(モーモンの首って、どこなんだろう)
門をくぐり、城の敷地に踏み込む。
宮城は、白砂青松の楚々とした品位ある宮城だった。屋根は漆黒の瓦張り。壁は純白の漆喰。城下町と同じモノトーンの色調で統一されている。
ウェディやオーガの身長で見ると、決して規模は大きくはない。しかし、その分造りがかなり繊細だった。
まず廊下や部屋の床は板目調で、丁寧に漆が塗りこんである。慎ましい艶を帯びていることから、念入りに手入れをしていることがうかがえる。
次に敷地をぐるりと一周するたった一本の廊下で、すべての部屋が繋がっている。シンプルながらつまらないとは思わせない構造で、面白い。
そして、何よりも見事なのが庭だ。カミハルムイ城には大きな中庭があって、廊下の開け放しになった出入り口からいつでも行けるようになっている。中庭は。こまやかな白砂が敷き詰められた、優美な楽園だった。中心に背の高い桜の古樹が鎮座し、その傍へ控えるようにエルトナ固有の常緑樹や広葉樹が佇んでいる。植物の配置が工夫されており、大きな木々が小さな花々や澄んだ池泉を雨風から守るようになっていた。
「綺麗な庭だなあ」
エックスが初めて見る景色に驚いていると、エークスが感嘆の溜息をもらした。
「エルトナ様式は、雅って言葉が本当によく合うよ」
「ふーん。どのあたりが?」
グレースがあたりを見回しながら問う。エークスは両手を掲げた。
「それはもう、全部! 人の手で作ったものと、自然のもののバランスがちょうどいいんだよ。僕らウェディの街は、水こそたっぷりあるけど、植物まではあまり組み込んでないんだ。エルトナ様式は、川も、木も、池も、花も、何でもうまく組み込んで、自然とも人工物とも言いきれない庭を造る。特にこのカミハルムイ城の庭は最高だって聞いてたから、見てみたかったんだよ」
エークスは桜の古樹の前へ駆けていった。
めいっぱい頭を上げて、豊かな桜花の天蓋を仰ぐ。
「すごいなあ。桜ってこんなに大きくなるんだ」
「その桜は特別ですからね」
近くに佇んでいた女性が、くすりと笑って話しかけてきた。
「注連縄というものを知っていますか。この幹に巻いてある、紙を挟んだ太い縄のことです」
女性が差す通り、巨樹にはエークスの胴の太さは超えているだろう見事な縄が巻いてある。
「注連縄は聖と俗を隔てる境界のようなものです。この大きな桜は、旧都から移植されました。前の城で亡くなった先王ナシュロイ様と、王妃アグシュナ様の墓標代わりと聞いています」
「二人だけですか?」
寄ってきたイムが尋ねる。女性は顔を曇らせる。
「ええ」
「おや。そこのお若いのは、この桜に興味がおありかな」
そこへ、老いたエルフの男がやってきた。イムが彼の方へ体の向きを正す。
「はい。五十年前の悲劇について、少しだけ聞きました」
「そうか。大きな事件じゃったからのう」
老人は桜を見るともなしに眺める。
「あの日は、とんでもない日じゃった。まさかリタ姫が──」
「爺さん!」
鋭い声が飛んだ。見れば、池泉にかかる太鼓橋から、エルフの老女が彼を睨んでいた。
「それ以上はいかん。あの姫の名前を口にすると、災いがやってきますぞ」
「そ。そうかのう」
老女の剣幕に、老人はとぼとぼと去っていった。
エックスは、俄かに張りつめた空気を肌で感じてひやりとした。
(この人たちは、遷都を体験したんだ)
カミハルムイの禁忌は、まだ生きているのだ。
「玉座へ行きましょう」
イムが促した。
「大臣に城へ入る許可をもらわないと、盗人扱いになってしまう」
指さした先には、立派な天守をいただく正殿があった。観音開きの大扉の前に、人影がある。兵士長と、恰幅のいい小柄な男が一人。
イムが双眸をつと開いた。女性が黄色い声を上げる。
「まあ、キュウスケ様だわ!」
男は戸を開け、大股で玉座の間へ入っていった。
オールバックの後頭部しか見えなかったが、ドワーフだろうとエックスは考えた。背格好や大ぶりな仕草にそういう雰囲気があった。
「ふむ。本当にキュウスケのようですね」
「知り合い?」
「ええ」
イムは驚いていたのも束の間で、すぐに笑みを浮かべた。
「ちょっと玉座の間を見に行きましょうか」
「え? 大臣と話すなら、あのキュウスケって人が出てきた後の方がいいんじゃあ」
「キュウスケなら大丈夫。ほら、早く」
どこかウキウキした風のイムに急かされて、エクスとグレースも玉座の間に向かう。
扉の前に立つ兵士長に、陛下捜索に協力したくて参りましたと告げ、入室の許可をもらってから玉座の間を開いた。
「コトル大臣! 学びの庭をかつてない成績で卒業したこの奇跡の秀才、キュウスケをお呼びですかな?」
(言葉もでかいなー)
扉を開くなり聞こえた名乗り口上に、エックスはそんな感想を抱いた。
玉座の間には、大柄な大臣の前にひざまずくキュウスケの背中があった。大臣はキュウスケの姿を認めると、つぶらな瞳を糸のようにした。
「おお! キュウスケ、来てくれたか。実はまたニコロイ王が捨てられた城へ行ってしまわれてな。すまぬが、様子を見に行ってくれ」
「ハイッ! お安い御用で」
男は機敏に立ち上がり、大股で出口のあるこちらへ近づいてきた。
後ろに撫でつけた紫髪、口周りに生えた四角いひげ。
笑い皺のあるふくよかな頬と愛嬌のある目が、社交的な雰囲気を醸し出している。
間近まで近づいてきたキュウスケは、イムの姿を認めると一瞬立ち止まってにやりと笑った。
それにイムがどう返したか、エックスは見られなかった。キュウスケの耳の形を確かめて、驚いていたからだ。
(耳がとがってる)
キュウスケはドワーフではなく、エルフだった。
「エルフじゃん」
キュウスケが出て行った後、グレースが呟いた。エックスと同じことを考えていたようだ。
「おお。そなたらは旅人か」
大臣がエクス達に気づいた。
「今の話を聞いていたか。いや、それは良い。兵士長が通したということは、そなたらもワシの頼みを聞いてくれる気があるのだろう?」
「はい、陛下の身を案じて参りました。私はツスクルのイム。こちらは仲間です」
イムはエクスたちのことを紹介する。大臣は大きく頷いた。
「王はおそらく旧カミハルムイの王城、捨てられた城へ行っている。王は、あの地の忌まわしい過去を解き明かそうとなさっているのだ。あそこは不吉で恐ろしい地ゆえ、先ほど向かわせたキュウスケ一人では苦戦するだろう。奴も、同窓の友が行くならば心強いに違いない。どうか助けてやってくれ」
イムは両腕を一つに組み合わせるエルフ式の礼をして、玉座の間を辞した。
中庭に出てみると、すでにキュウスケの姿はない。すでに捨てられた城へ向かったらしい。
「学びの庭の秀才だってね。イム、そうなのかい?」
グレースが問うと、イムは頷いた。
「ええ、間違いありませんね」
玉座の間にいた時は真剣な顔をしていたのに、今は口角が勝手に上がってしまって仕方がないようである。声もやや弾んでいる。
「キュウスケは、私と一緒に学びの庭を卒業した同期です。恋人に会うためだけに、卒業の試練の一次試験を十年連続合格し、同じ数だけ二次試験を落ち続けた、驚異の成績の持ち主ですよ」
「何それ。すごいの? すごくないの?」
「私はすごいと思っています。インチキ商品を学徒や旅人に売りつけようとするヤクザなところさえなければ、学びの庭での評価ももう少し高かったでしょう」
イムはこらえきれないようで、笑い声を漏らした。
「いやあ、あの様子。ツスクルを出てから力と自信をつけたようですね。ツスクルを出て王都カミハルムイを真っ先に目指すとは、キュウスケらしい。今の彼ならば、私たちが行かなくてもうまく事を解決しそうな気もしますが、乗り掛かった舟です。私たちも協力しましょう」
エルフは颯爽と歩いていく。
エックスは後に続きながら、早々に先へ進む手掛かりがつかめそうなことに安堵していた。
+++
王都の北門を抜けた先には、明るい緑が広がっていた。若草のテーブルクロスを広げたのに似たなだらかな草原は、南北へ行くにつれてゆるやかに高くなっていく。常緑の木々が暖かな陽射しを浴びて笑い合い、桜が濃淡の多様な紅の花弁を風に遊ばせる。常春の国の名に恥じぬうららかな景色に、エクス達は束の間なごんだ。
だが、その北へ広がる森に足を踏み入れた途端、空気は一変した。
大地を覆うものが、しなやかな若草から厚みのある苔に変わる。
樹は、灰を帯びた年嵩のものばかりになる。
古樹の大きく広げた枝葉が空を遮る。
そこから射し込むささやかな光と影とが相まって、エックスの目には、森が沈み込んでいるように映った。
「なんか、暗いな」
エックスが囁くと、エークスが首を傾けた。
「そうかな。光が青くて綺麗じゃない?」
確かに、この森に射す光は青い。古木のひび割れた樹皮も、足元の苔も、鼻先を漂う空気も、水底のような陰翳を帯びている。
「青褪めてるみたいじゃないか?」
「夜明け前の微睡む町みたいだよ」
同じ体に宿っていても、二人のエクスの感想は噛み合わない。
囁き声でやりとりしていると、二人から離れた先を進んでいたグレースが呟いた。
「変だね」
エックスはぎくりとした。
自分達のやり取りを聞かれたかと思って身構えたが、グレースは辺りを見回して言う。
「静かすぎやしないか」
エックスははっとして、耳を澄ます。
言われてみればそうだ。あたりから、先程まで聞こえていた梢を揺らす風や鳥の声が失せていた。
「あはは」
不意に、子供の笑い声がした。
振り向くと、エルフの少年達が平野からこちらへ駆けてくるところだった。
「アグシュナ王妃さまが帰って来るよ」
「ご病気がよくなったんだね!」
子供たちは顔を見合わせて笑い合う。
そして、彼らの横を走り抜けて森の奥へ消えていった。
去っていく彼らの体の向こうに、森の景色が透けて見える。それに気づいたエックスは顔を強ばらせた。
「死霊か?」
「いえ」
イムが首を横に振ってみせる。
「純粋な過去の思い出でしょう。この夢幻の森には、心が宿っているのです」
エルフは森を見据えた。
「そう。『カミハルムイを包む森には 心が宿っていました。人々は森を愛し、木々と共に生きました。森もまた人々の暮らしを見守り続けました』」
イムの口調が、急に諳んじるような調子に変わった。
何かの物語を読み上げているようだった。
「しかし悲しい事件が起き、カミハルムイの人々は都を捨てて森を去りました。森は音を失い、静けさに包まれました。やがて、森は夢を見るようになりました。にぎやかだった過ぎ去りし日を、まぼろしにのせてそっと繰り返すのです……」
イムはエックス達を振り返った。
「カミハルムイ出身のエルフが書いた、『夢幻の森のはなし』の一説です。古来よりエルフは自然を尊ぶ民族でした。カミハルムイの民も、例外ではありません。故郷を捨てざるをえなかった思いがこの話を書かせたものと思っていましたが、森の様子を見るに、物語の内容は事実でもあったようですね」
イムは歩を進める。その後ろにエックス達も続いた。
苔の積もる石畳の道を辿る。森のあちらこちらに、建物の基礎やら石燈籠やらが点在している。かつてエルフ達が憩っていたのだろう都跡は、今はスモールグールやサブナックが彷徨う幽鬼の街となっていた。
「そこそこ名の知れた者たちがそろっとりますな。しかし、噂に聞いていたほど不穏な森とは感じぬでごじゃりますモン」
「ああ」
トロロが言うのに、グレースも同意する。
「よくわかんないけど、ゴツいのはいないね」
「見た目はそうでごじゃりますが、あんたより格上の者らばかりでごじゃりますモンよ」
トロロがたしなめると、グレースはむっとした顔をした。
「弱そうだとは言ってないじゃないか」
「どうだか。命は大切に、決闘はここぞという時にするのでごじゃりますモン。今はクエストを請け負っているのでごじゃりますから、武者修行というお題目の無茶な挑戦は控えるよう」
「分かってるよ」
「無茶と言えば、王様の話だけど」
エックスは口を挟んだ。
「どうして一人で危ない所に行くんだろう。誰か、王様について行くっていう兵士はいなかったのかな」
「そりゃあいないだろうさ」
グレースは顔を顰めた。
「カミハルムイのエルフは、この場所の話を本当にしたがらないんだ。それだけここが怖いんだよ」
「幼子にも、都の北へ行くことを禁じておりましたな」
トロロがうんうんと頷き、イムも首肯する。
「エルトナ大陸において、捨てられた城周辺は呪われた大地と同じくらい避けるべき忌み地なのです。陛下お一人が危険な地に赴いたことを肯定はできませんが、そうされたお気持ちは分かる気がします」
「臣下を危ない目に遭わせたくなかったのかな」
エークスが想像する。
それに、とグレースが言う。
「ニコロイ王は居合いの達人だって言うじゃないか。武勇王と言えばガートラントのグロスナー王やグレンのバグド王だが、それに迫る腕前だって聞いてるよ。それなら、臣下を連れて行かないのも納得できる」
「城の兵士によれば、ニコロイ王が柄を握れば戦士が退くとの話でごじゃりましたモンなあ」
「ええ、そうです」
イムは認める。
「陛下はツスクルの学び舎で世の理を追究する学士であったと同時に、刀の修練に余念のない剣豪でもありました。実直なお人柄で取り組み、どちらの道にも優れるに至ったと聞いています。しかし最近は、刀を手にすることも減ったとか」
「ここ最近のアストルティアの情勢じゃあ無理ないよ」
エークスが指を折る。
「長かった泰平の時代も今は昔。最近は、魔瘴の活発化、魔物たちの狂暴化、聖地の弱体化でてんてこ舞い。魔物は逃げられればまだどうにかなるとしても、魔瘴は触れたら一発でアウトだから、国家の要人は外出を避けた方が無難だよね」
「そうだね」
グレースは何かを思い出すように視線を宙へやった。
「例外はグランゼドーラくらいか。あそこの王家には勇者がいるんだけど、軍に混じって連日出陣続きだって聞いたことがあるよ」
「へえ」
エークスは眉を持ちあげた。
「詳しいね。レンダーシアに知り合いがいるの?」
「いや。アタシはもともとレンダーシアの生まれなんだ。去年まであっちにいて、その時に聞いた話さ」
「勇者ってどんな人?」
「詳しくは知らない。今、あの王家には王子と姫が一人ずついたはずだから、そのどっちかじゃないかい。どっちも腕っぷしが強いって話だよ」
「すごいなあ。王族でも、勇者だと前線に出るのか」
エークスは感心している。
「兵士の士気は上がるだろうね」
「それでも、魔瘴や魔物の影響で命を落とす人が絶えない」
深刻な状況です、とイム。
まったくだ、とグレース。
「グランゼドーラはレンダーシア各地の魔物の発生状況を調べて、数の多すぎるものの討伐を一般の冒険者に依頼してる。軍の働きだけじゃ足りないんだ。あそこの国は、噂じゃあ魔族と戦争してるらしいからね」
「五大陸も、各国が兵を出して作った討伐部隊の本部がレンドアにできて久しい」
「王族って忙しそうだなあ。ニコロイ王は、お妃様に先立たれたんだろ? それじゃあ、自分の剣の腕を磨く時間も張り合いもないだろうね」
異種族の若者達は、歩きながらアストルティアの情勢を語り合う。
それに耳を傾けていたエックスは、改めてアストルティアの状況に驚いた。
(本当に大変なんだ)
彼の住むエテーネの村は、一日にも満たぬ間に滅ぼされこそしたが、その前日までは何にも脅かされない平穏な日々を過ごしていた。村の中に魔物が攻め入ることもなかった。そもそも外に出る魔物自体、五大陸に比べて弱いものばかりだったように思う。
世界の異変は一体いつ、どうして始まったのだろう。話を聞きながら考えたが、エテーネ村の外を知らないエックスには分からなかった。
しばらく進むと、旧王城へ向かう石畳の道が途切れてしまっていた。彼らは手持ちの地図と周囲の地形から城への道を推測し、ついに旧王城へ辿り着いた。
カミハルムイの捨てられた城は、石の積み上げられた高台の上で、大きな影となって聳え立っていた。一行は、じっとりと苔生す石垣と宮城をふり仰ぐ。廃城の上には、重い暗雲が立ち込めている。
「おかしいな」
エックスは背後の森を振り返った。
森の上空には、依然として碧空が広がっている。分厚い雲があるのは、城の上だけだった。
「これが呪いなのか?」
城の不吉な噂が、エックスの中で俄かに重みを増す。
「触れてすぐ命を取られるような、危険な気配は感じません」
イムは行く手を示した。
「陛下はきっとこの先です。行きましょう」
一行は、石垣に組み込まれた階段を登っていく。登るにつれ陽光が遠ざかり、濃霧が立ち込めて暗くなる。
直角に曲がりながら続いていた階段を登りきると、開けた場所に出た。
エックスは目を凝らした。
一面に満ちる白い霧の中に、背の高い人影がある。
それは、老齢のエルフだった。短く刈り込んだ白髪に、エルトナ式の冠を被っている。純白の狩衣と佩刀が、凛々しく伸びた背筋によく似合っていた。
「ニコロイ王」
踏み出そうとしたイムの前に、影が入り込んだ。
先ほどの少年達だ。
幻の少年達は無邪気に笑いながら駆けていき、老王の横をすり抜けた。
ニコロイにもその姿が見えたようだった。頭を巡らせてその背中を目で追い、呟く。
「また亡霊か」
恐れるほどのものでもない。
そう言って、濃霧の先へと進んでいってしまった。
エックス達は後を追う。
やがて、城壁の中心に据えられた正門へ辿り着いた。甍は豊かな苔を蓄えており、木柱は黒ずんでささくれ立っている。
「確かに、ここ五十年の寂れようではありませんね」
イムが肌の荒くなった門扉に手を添える。
「この先が宮城本丸です。何が起きてもおかしくありませんから、覚悟をしておいてください」
イムは正門を開いた。
目の前に、白砂を敷き詰めた方形の庭が現れた。その向こうに、現カミハルムイ王城に似た黒白の高床式家屋や回廊が見える。屋根や床を支える柱、壁などの崩れが多々見受けられるものの、どの建物も倒壊にまでは至っていない。雅でありながら芯のある造りに、在りし日の栄華の面影が見られた。
エックス達の足元から直線に伸びた石畳の向こうに、帝が執務をこなしていたのだろう御殿がある。老王はその前に、佇んでいた。背後に、先に到着していたらしいキュウスケが控えている。
彼らは何をしているのだろう。
エックスは二人の視線の先を窺った。
二人の前には、幻影の幼子が一人立っていた。身なりのいい少年で、両の掌に山ブドウを乗せている。
辺りの霧が、一層濃くなった。その中から一人の若い兵士が現れ、幼子へ声をかけた。
「ニコロイ王子。おいしそうな山ブドウじゃないですか」
幻の幼子──かつてのニコロイ王子の幻は、手にした果実を大事そうに抱える。
「うん、カク。姉上は山ブドウが大好きだから」
これなら、きっと喜んでくれるよね。
ニコロイは、期待のこもる笑顔で兵士を見上げた。
兵士は一瞬表情を曇らせたが、すぐ笑みを作り、王子の目線の高さへしゃがみこむ。
「そうですね。明日はナシュロイ王様のお誕生日。リタ姫様にも元気になっていただいて、一緒にお祝いしたいですものね」
王子は頷く。
その時、御殿の方から慌ただしい物音がした。
「だ、誰かっ!」
中から見事な打掛姿の女性がまろび出てきた。
その姿を認めたカクは、驚いたようだった。
「アグシュナ様?」
女は、ニコロイの母らしかった。言われてみれば確かに、大きな髷を飾る金の簪や髪留めは妃らしい雅やかなものである。
アグシュナは切迫した声で訴える。
「リタが、リタが乱心した」
振り返ろうとした彼女が、突如御殿から吹き飛んだ。
華やかな紅梅のかさねが宙を舞い、階段下へ重い音を立てて落ちる。
飛んだ彼女の後を追うように、建物の中から小さな影が現れた。
それは、齢十になるかならないかという、幼い少女だった。
彼女は、特徴的な見た目をしていた。全てが白いのである。ニコロイと揃いの礼服から覗く肌も、額の中央で分けて肩口で切りそろえた髪も、一切の彩りを封じられたように白い。
その中で、切れ長の瞳だけが紅く燃えていた。その目で、童女は眼下に倒れる女を睨んだ。
うち伏した王妃が呻く。
「リ、タ……なぜ、王を」
少女──リタは答えず、左手を掲げた。
その手が青白く発光するのと同時に、王妃が同じ色の燐光を帯びて宙へ浮き上がる。
瞬間、光が雷に変じてその身体を焼いた。
アグシュナが絶叫する。
手から指輪が転げ落ち、幼いニコロイの足元へと転がった。
呆然と立ち尽くす幼子を、顔を歪めたアグシュナが呼んだ。
「ニコロイ。よく、お聞きなさい。暗黒大樹の葉を、この城に。そうすれば」
言葉の半ばで、アグシュナの姿は掻き消えた。
「アグシュナ様っ!?」
「母上っ!」
カクが、ニコロイが王妃を呼ぶ。返事はない。
ニコロイが母のいたところへ寄ろうとするのを、カクが制した。兵士は御殿に佇むリタを警戒していた。
リタは膝から崩れ落ち、荒く息を吐いていた。
「姉上」
ニコロイの震える声に、リタは顔を上げた。
開いた瞳に狼狽する弟の姿が映る。
彼女の顔に寸時憐れみのような表情が過ぎる。しかし、すぐ身を翻して御殿の奥へと走り去ってしまった。
そして、全ての幻が消えた。
「なんだ、今のは……」
老王ニコロイは膝をつき、地に伏した。その様は、まるで先程の放心した童子が乗りうつったようだった。
「姉上が、父上と母上を」
「ニコロイ王!」
放心した王にキュウスケが駆け寄る。
イムもまた彼らに近寄った。
「キュウスケ」
「イムさん」
二人の視線がかち合う。
キュウスケは何やら逡巡した様子だったが、覚悟を決めた顔付きになった。
「いや、もうあの頃の俺じゃねえ。イムと呼ばせてもらおう」
「ずっとそれでいいと言っていたのに」
エルフたちは束の間微笑を浮かべたが、すぐ深刻な顔に戻った。
「とんでもねえもんを見ちまったな。こんなところに来たってことは、お前もコトル大臣から王のことを頼まれてきたんだろ?」
「ええ」
「とにかく今はこれ以上進まずに、一度カミハルムイ城に戻ろう」
「私達が警護を務めます」
キュウスケは王に手を差し出し、立ち上がるのを助ける。
イムはエックス達を振り返った。
「私とエクスさんが先頭に立ちます。グレースさんとトロロさんは殿をお願いできますか」
「わかった」
一行は二つに分かれ、ニコロイとキュウスケを挟む。
そうして、覚束ない足取りの王を守りながら、夢幻の森を後にした。
幻影による衝撃が、あまりに大きかったのだろう。
捨てられた城で半ば意識を失いかけていたニコロイ王は、帰途で完全に気を失った。だが、自分の城の輪郭が見えてくる頃には目を覚まし、帰城した時には調子を取り戻していた。
コトル大臣は無事に歩いて帰った主君の姿を見て安堵した。しかしそれは束の間で、キュウスケから捨てられた城での出来事を聞くと、気を失った時の主君と同じくらいに顔を青くした。
「陛下、あの地へ行くのはもうおやめください」
玉座にて物思いに耽っている王に、大臣は懇願した。
「あのような場所で気を失うなど! キュウスケがいたからまだ良かったものの、御身に何かあったら」
「そうガミガミ言うな、大臣。無茶をした甲斐はあったのだから」
「なんですと?」
「おぼろげだが思い出したのだ。カミハルムイ王家のことを」
ニコロイは、大臣とエクス達に語った。
カミハルムイの王族には、髪も肌も白い『白き者』と呼ばれる子供が生まれることがあった。白き者はカミハルムイの聖地と心を通わせることができる子供だった。
ニコロイは玉座の間に飾られた肖像画を仰ぐ。そこには、五十年前の彼の家族が描かれていた。
福々しいナシュロイ王。
可憐なアグシュナ妃。
そして純白の少女、リタ姫。
「わしの姉上はそういう特別な子供だったのだよ」
しかしその聖なる子供は、乱心の末に実の両親を殺めた。
だから、旧城は忌み地となった。
「その日より聖地の力が失われたのも、恐らく姉上の乱心によるものだろう」
ニコロイは目を伏せた。
「あのようなことがあったのに、何故忘れていたのか。これまでのうのうと暮らしていた自分が恥ずかしい」
頭を垂れる主君を、大臣が気づかわしげに見守る。キュウスケとイムは、黙って控えている。
エックスは再び、壁に飾られた王族一家の肖像画を眺めた。その中のリタ姫は、捨てられた城で見た幻影とほぼ同じ年頃に描かれていた。静かな微笑みを浮かべ、弟の傍に佇む姿には、奥ゆかしさと育ちの良さが現れているように思われた。
(何故あの子が、親を殺すようなことになってしまったんだろう)
エックスは城で見た幻の情景を思い出す。
あの時リタ姫が母親へ向けた顔には、確かな敵意があった。けれど、弟に向けた目は哀しんでいるようだった。
(王様の様子から考えるに、家族仲が悪かったとは思えない)
なのに、どうして。
エックスが考えていると、俯いていたニコロイが顔を上げた。
「いや、待て」
老王は、思案しながら呟く。
「母上はいまわの際に暗黒大樹を求めていた。あれはどういう意味だったのか。あの城に遺された母上の遺志が、わしに何かを伝えるため、あのような幻影を見せたのかもしれぬ」
母上はたぐい稀なる魔力をお持ちの方だったからな。
王は立ち上がった。
「よし。確かなことは分からぬが、捨てられた城に暗黒大樹の葉を納めよう。母上のあの言葉に意味がないとは思えん」
「暗黒大樹の葉ですと?」
大臣は困惑しているようだった。
キュウスケが進み出る。
「エルトナ大陸西端の呪われた大地にそびえる黒き大樹の葉ですね。かなり入手の難しい物ですが」
「うむ。大臣、おふれを出せ! もっともはやく暗黒大樹の葉を城に届けた者に、褒美を取らすと」
「わ、分かりました」
戸惑いながらも命令を拝受し、大臣が辞そうとする。
「お待ちを」
それをキュウスケが制した。
「力なき者をいたずらに危険な目にあわせるのは、ニコロイ王も本意ではありますまい。ここは私と、後ろにいるイムにお任せを」
エックスは隣のイムを窺った。
イムは目をぱちくりさせていた。
「おお、そなたがイムだったか。ツスクルの俊英だと聞いている」
王は目を細めた。
「ならばそなたらに頼もう。すまぬが暗黒大樹の葉を取ってきてくれ。頼んだぞ」
「はっ! お任せください」
キュウスケは畏まって一礼する。
「……謹んで拝受いたします」
イムもそれに続いて礼をする。
しかし、その目がまだぱちぱちと瞬いているのを、エクスは見逃さなかった。
「別に構わないだろ? オレ達なら呪われた大地だってどーってことないさ! なっ?」
それじゃあ、最寄りのガケっぷち村集合で!
王の御前を辞したキュウスケは、そう言ってイムの肩を叩き、風のように去っていった。
その背中を眺めたグレースが、胡散臭そうに言う。
「話を勝手に進めてくれちゃって、困った奴だね。イム、本当にいいのかい?」
「まあ、私が暗黒大樹のもとへ行くこと自体は構いませんが」
イムはかぶりを振った。
「困りましたね。呪われた大地は魔物が多く、不定期に魔瘴が噴き出す危険な土地です。かつての私ならともかく、今の私には魔物を退ける力がありません」
「何言ってるんだい。アタシも行くよ」
グレースは胸を叩き、拳を突き出した。
「あんたには命を助けられたからね」
「トロロもお供するでごじゃりますモン」
スノーモーモンが大きく口を開け、牙をむき出して笑った。
エックスも頷く。
「オレも行く。魔瘴をもろにかぶったらどうにもならないけど、ある程度装備を調えておけば多少かすっても平気だろ。魔物とも戦うだろうし、城下町で支度をしてから向かおう」
イムは目を瞠り、次いで破顔した。
「ありがとうございます。助かります」
エクス達は道具屋で魔法の聖水やキメラの翼などを買い、武器屋と防具屋で装備を見直した。
そして、カミハルムイ領北の西、落陽の草原へ向かった。
落陽の草原は、一面にススキが生えた黄金の野原である。沈みゆく太陽が敷いた絨毯を思わせるような景色だから、この名がついたのだろう。
草原の西には光の河が南北に流れており、その傍に集落がある。その通称が、ガケっぷち村なのだった。
ガケっぷち村は、災禍に見舞われた村だった。家屋の倒壊した破片が端に積み上げられ、人々は焦げた家屋やテントで生活している。地面は焼けて暗褐色に変わり、ところどころ毒の沼が湧いていた。
「ここは、ずっとこうだったわけじゃねえんだよ」
村の入り口──柵も壁もないのでどこが入り口かは分からないが、家々とススキの原の狭間なので、以前はここが玄関口だったのだろうとエックスはあたりをつけた──で最初に出会ったエルフの男は、悲しげに笑った。
「ついこの間のことだった。光の河からとんでもねえデカさのバケモンが出てきて、辺りを焼いちまったんだ。オレ達はこれからどうなるんだろう」
村へ入ると、端の方からキュウスケが飛び出してきた。
「よう、遅かったな。このキュウスケさんが下調べしておいてやったぜ」
キュウスケが振り向く。エックス達は彼の視線の先を仰ぐ。
村はずれの橋の向こう、途轍もない大きさの樹影が青空にくっきりと浮き上がっていた。
「あのどでかい木が噂の暗黒大樹だ。朽ち木同然で葉っぱなんてちっとも残ってねえんだが、なんでも一本だけ葉っぱをつけてる枝があるって話だ」
「ふむ。そうですか」
イムは目を細めて丸裸の巨樹の影を眺める。
キュウスケは繰り返し頷いた。
「そうだ。それじゃあ頼んだぞ、イム」
「へ?」
エックスは間抜けな声を上げた。
キュウスケは肉付きのいい肩をすくめ、へらりと笑う。
「オレはニコロイ王を運んで疲れてるからさぁ。ひと足先にカミハルムイへ戻らせてもらうぜ」
「何言ってるんだい。アタシ達だって、あんたらを守ってたんだから一緒だよ」
グレースが言い返すと、キュウスケは大仰に両手を振った。
「いやいや! あんたらが疲れてねえとは言ってねえよ? オレは、王の御身をこの手で支える責任の重さにすっかりやられちまったんだ。これ以上動き回ると、この後の仕事が保たねぇのよ」
オーガが口を開くより早く、キュウスケは暗黒大樹の影を仰いだままのイムを全身で示した。
「心配しなさんな! あんたらには、世界樹の論文を発表してカミハルムイの学会を騒がせた大天才イムさんがついてる! オレの実地調査を受けて、あとはイムがバシッとどうにかしてくれるって」
「キュウスケ」
イムは言う。
「カミハルムイ城の正殿の前で落ち合いましょう」
キュウスケは満面の笑みを浮かべ、エックス達に片手を掲げてみせた。
「それじゃ。こっから先は、よろしく!」
そして、跳ねるように駆け出した。紫のオールバックが靡く残像だけを残し、キュウスケはススキの合間へ消えていった。
トロロが呆れたように言う。
「あのキュウスケとかいうエルフ、喰えない男でごじゃりモンなあ」
「なーんか口ばっかり達者で、せこそうだ。信用できないよ」
グレースは腕を組む。
イムはくすりと笑みをこぼし、やっとこちらを向いた。
「エルフでもそう言う者は多いですから、オーガ族ならなおさらそう感じますよね。しかし、カミハルムイ王の命で受けた仕事です。今回ばかりは、多少手は抜いても、きちんと頭を働かせているでしょう」
イムは村の中央を走る道を、呪われた大地に向かって歩き始めた。
躊躇いもなく危険な地を目指して歩く背中に、エックスは感心する。
「イムはよく怒らないな」
「なぜ私が怒るんです?」
横に並んだエックスに、イムは首を傾げた。
「力を失った聖地と暗黒大樹という、魔瘴に侵されたエルトナ大陸の鍵となる存在の謎に迫れる。これは、またとない好機なのですよ」
イムは大樹の影をまっすぐ見つめた。
「エルトナ大陸を魔瘴の危機から救うこと、世界の実像を究明すること──これが今の私の使命なのです。学びの庭では呪われた大地での調査を禁じられていましたから、この時が本当に待ち遠しかった。早く、暗黒大樹を見たいくらいです」
エックスは口をぽかんと開けた。
グレースがおかしそうに言う。
「キュウスケのやり方を汚いと思わないのかい?」
「彼のやり方ならよく知っていますから。多少イカサマの気はあれど、彼は賢い。今更何とも思いませんよ」
イムは笑み崩した。
すると、身体の中の片割れことエークスが口を開いた。
「君は本当に知恵の一族だね」
それを聞いて、エックスはなるほどと思った。これがエルフの哲学なのか。
「ここまでの人は、エルフでも珍しいでごじゃりますモンがね」
トロロが言った。
一行は村を通過し、光の河の上にかかる橋を渡る。エックスは、初めて目にする光の河をまじまじと観察した。
深い谷の底から、黄金を溶かしたような光が溢れている。眩いはずなのに、じっと見つめても目が痛くならないのが不思議だった。
光が湧き出す谷の果てを見つめてみた。裂け目はどこまでも深く、また地平線の遥か彼方まで続いているようだった。
「光の河は初めてかい」
物珍しげなエックスに、グレースが問う。
「これは世界のどこでも湧いてるんじゃなかったっけ?」
「ウェナ諸島では、あまり目にすることがないものなのでしょう?」
イムが言う。
「光の河の位置を記した地図によると、あのあたりの光の河は海の中を走っているのだそうです」
海に河。言葉だけ捉えれば変な話だ。
だが、この光の奔流ならそのように存在しても不思議ではないと思えてしまう。
「ラーディス王島の辺りなら、肉眼で見えるって聞くよ」
僕は行ったことないけど。
エークスがそう言って、光の河に視線を落とした。
「綺麗だなあ。この光はどこから来てるんだろう」
「落ちないように気を付けるでごじゃりますモン」
トロロが注意する。
「光の河に落ちて帰ってきた者は、おらんそうですモンからに」
橋を越えた先には、魔瘴に侵された不毛の大地が広がっていた。
見渡す限りの大地が紫に染まっている。まばらな枯れ木は、かつてこの地にも命が根付いていたことを物語っているが、今は生き物の気配が希薄だった。闊歩するのは、ゾンビやあくま系統の魔物など、毒性の強い土地でも生きられそうな魔物だけである。
エクスは空を仰いだ。大気は紫に烟っている。上空は暗く淀み、天を窺うことすら適わなかった。
「これは、辺りの毒沼から立ち上ってきた靄です」
イムは大地に点在する毒沼を指さした。
「含まれる魔瘴はごく微量で、体に悪影響を及ぼすほどではないはず。それでも、長い間ここにいて気分が悪くなる人もいます。早く用を済ませて戻りましょう」
一行は、呪われた大地を進む。
縦横無尽に走る、巨大な亀裂。
高く、凸凹に突出した岩盤。
深く穿たれ、地底に窺えないほどの闇を湛えた峡谷。
荒漠とした奇景を眺めながら、エックスはこの地に何があったのかを考えた。
大昔に大規模な地殻変動が起きたのは確かだろう。しかし、それだけでここまで荒れ果てるだろうか。どうしてこの地だけ、酷い瘴気が発生するのだろう。
瘴気の源を求めて谷間を覗き込むと、遥か下方に闇と見紛う毒の海が波打っているのが見えた。エックスは既視感を覚えた。
(さっきもこんな感じで、光の河を見たっけ)
あの煌めく景色のすぐ近くに、似ていながらも対照的な荒んだ景色がある。
何だか不思議だった。
橋代わりの倒木を渡り続けていると、次第に暗黒大樹の影が近づいてくる。足元まで進めば、輪郭しか認められなかった大樹の全容が明らかになった。
大樹もまた、大地同様に鉱石のような灰の肌をしていた。キュウスケの言う通り、葉など窺えない枯れ木同然の姿で、何故未だ地に根を張っていられるのかが不思議だった。
頭上の枝に、暗黒に染まった世界樹の葉が一枚、赤く輝いているのが見える。
あれが、暗黒大樹の葉だろう。
「あの高さ、登って取れるかなあ」
エテーネ村にいた頃、毎日木に登っていたから、木登りの腕には覚えがある。だが、この高さだと自信がない。
グレースがスノーモンの背に生えた翼を見る。
「トロロ、あそこまで飛べない?」
「この羽根にそこまでの筋力はないでごじゃりますモン」
どこからか、くぐもった声がした。
全員が見上げると、大樹の幹より暗黒の葉の甲冑を纏う怪人が三人降りてくるところだった。皆、エルフの背丈ほどもある偃月刀を手にしている。
トロロが目を丸くした。
「暗黒大樹の番人でごじゃりますモン」
番人は彼らを包囲した。
イムが語りかける。
「暗黒大樹の番人よ。我々は王都カミハルムイのために、葉をもらいたいのですが──」
番人達は偃月刀を掲げ、イムたち目掛けて走り出した。
三本の刃が、それぞれ振り下ろされる。イムとエクスを狙った二つの刃は、エクスの棍が弾いた。残る一本を躱したグレースは、眉を吊り上げて腰に帯びていた鞭を手にする。
「葉をもらう者として十分な力があるか、示してみろってことかい? よし、やってやるよ!」
大きく鞭をしならせる。
それを見たトロロが、エックス達に叫んだ。
「下がるでごじゃりますモン!」
「うわあ」
突如、身体の主導権がエークスに移った。
飛び上がったウェディの足元を、鞭が抉った。
グレースが鞭を遮二無二振り回すと、鞭が五つ首を持つ竜のように暴れ、辺りを蹂躙し始めた。
「イム様、トロロの後ろにいるでごじゃりますモン」
トロロが盾を構え、イムを背後に庇いながらグレースより遠ざかる。
エークスも飛び跳ねて大樹の根元へ避難する。
番人達も退き、それぞれ別の避難場所からグレースを注視している。鞭の動きを警戒しているらしい。
「すごいパワーだ」
エークスは、岩のような大地をも砕くグレースの鞭に感心する。
「でも、力を込めすぎてるみたいだね。自分の振った鞭に振り回されてる」
「どうするんだ?」
小さく独り言を言うエークスに、エックスは困惑気味に囁く。
「番人達と戦おうにも、これだと巻き添えを喰らうぞ。グレース一人に任せるわけにもいかないし」
エークスは頭を巡らせ、人々の位置を確認する。
全員、中央のグレースから大きく距離を取った場所にいる。
イムとトロロは大樹と反対側の岩陰に。
番人の一人はイム達より南の岩場の上に。
もう二人は暗黒大樹の根元、エクスより根二本離れた向こう側に。
エークスは彼ら二人とグレースを交互に見やり、
「まあ、ここは任せておいてよ」
鞭の嵐へ飛び込んだ。
迫る鞭を身軽に跳ねてしゃがんで避けていく。避けきれそうにないものは棍で軽く触れていなし、鞭が巻きつく前に掌で器用に棍を転がして逃がす。
そうして番人の一体へ迫り、その胴を強かに打った。
手応えはあった。しかし昏倒させるまでには至らず、よろけた番人が斬撃を繰り出してくる。
その時、グレースの鞭の暴走が収まった。
エークスと番人が打ち合いを続けるところへ、好機と見たらしいもう一人の番人が加わろうとする。
「ドルクマ!」
トロロがスティックを振った。精霊文字が舞い、エークスの眼前の番人を闇が襲った。
間を置かずして、エークスにも同じ闇が襲いかかった。離れた位置から、三人目の番人が同じ呪文をエクスに向けて詠唱していたのだ。
イムがエークスに回復呪を唱えると、三人目は新たな詠唱の標的をイムに変えた。
「このぉ」
グレースの振るった鞭から、光が放たれる。
強烈な閃光が全員を襲った。
エークスは目を伏せて番人の背後に回り、光が収まった頃合いで顔を上げた。
暗黒大樹の番人たちはふらふら揺れながら、大樹の影へと逃げていくところだった。
エークスは天を仰ぐ。
枝に止まっていた赤紫の煌めき──暗黒大樹の葉が落ちてくる。
落下地点へと走り、葉を拾う。
目的達成だ。
「イムさん、ごめん!」
そんな声が聞こえて、エークスは振り返った。
グレースが、勢い良くイムに頭を下げていた。二人の周りをトロロがふわふわと舞っている。ぬいぐるみに似た白い体が揺れるのに合わせて、青い燐光が宙を漂う。モーモン族の回復特技『フワフワダンス』だ。
「味方の目まで眩ませちゃうなんて。本当に申し訳ない」
「平気ですよ」
イムは相変わらずの涼しい声で応えているが、目を両手で抑えている。先程のグレースの技が効いてしまったらしい。
「以前と比べて、上達したのでは?」
「上達したのは確かでごしゃりますモン。前は剣で殴るのが精一杯で、特技自体使えなかったでごじゃりますモンから」
フワフワダンスが終わった。
微笑んだエルフが手を下ろし、銀の双眸にトロロの姿が映る。
「ありがとうございます、トロロさん。もう大丈夫です」
「良かったぁ」
グレースが大きく息を吐く。
イムは彼女にも微笑みを向ける。
「そんなに気にしないでください。あなたの努力が実ってきているようで、私も嬉しいんですから」
「だけど、特技が使えても威力を調節できないんじゃあ困りものだよね。何とかしたいよ」
エークスが近づいていくと、トロロが飛んできた。身体の周りをぐるりと一周し、頷く。
「エクスは、グレースの鞭での傷は負ってないようでごじゃりますモンな」
それから中級回復呪文を唱えた。傷が癒えていくエークスに、グレースが詫びる。
「戦いづらくさせちゃって、悪かったね。見ての通り、アタシはとんでもない戦闘音痴なんだよ」
「そうなの? すごい光で番人達を退かせたんだから、いいじゃん」
「あんたは優しいね」
グレースの眦が下がる。
「ちょっと張り切りすぎちゃうんだ。それは自分でも分かってる。でも、頑張っても上手く加減できなくて」
溜め息を吐く。
「才能がないんだ。分かってるんだよ。でも、戦うのを諦めるわけにはいかないんだ」
どうして。
そう問おうとしたエックスより先に、イムが彼の手を指差した。
「その、暗黒大樹の葉を見せてくださいませんか」
「ああ」
エックスは葉を渡した。
イムは葉を裏返したり掲げたりして、全容を観察する。
「この禍々しさ、ふんだんに含まれた瘴気。確かに、暗黒大樹の葉です」
「これ、あの古い城に持って行って大丈夫なのかなあ」
エックスは腕を組む。
「よく知らないけど、邪悪なものなんだろ? それを捨てられた城に持っていったら、悪い風に作用しちゃうんじゃないか?」
「悪い風とは、たとえば?」
イムがエックスを見上げる。
エックスは考え込んで、首を振った。
「分からない。何となくそんな気がしただけで」
「私も、これが持っていて良い作用をするものとは思えません」
イムは、指で摘んだ葉が風に揺れるのを眺める。
「しかし、私達は今世界の一部を見ているに過ぎない。私達アストルティアの生物の身体に悪い作用を及ぼす毒が、私達の予想できない世界を見せてくれることがあるかもしれません」
その世界が良いか悪いか。
その善悪はいつの、誰にとってのものか。
それは、やってみないと分からない可能性の話だ。
イムは葉を道具袋にしまった。
「これは私が預かっておきます。城へ戻り、陛下に献上しましょう」
エックスは頷き、ルーラストーンを掲げた。
+++
幼いニコロイにとって、姉は全能の存在に等しかった。
姉は静かな人だった。美しい顔は仮面をつけたように表現が乏しく、切長の瞳は常に悟ったような光を湛えていた。そのため、人に近寄りづらい印象を抱かせるところがあった。
しかしニコロイは、姉の無表情の奥に潜んだ優しさを知っていた。
たとえば、顔を合わせれば喧嘩ばかりの兵士カクと侍女スズが、いつの間にか仲良くなった件。これは二人の間に姉が入って、二人の本当の思いを汲み取り、素直な言葉でお互いに伝えたからだと、後でカクから聞いた。
たとえば、母の体調が悪化し、遠くの村へ療養に行くことになった時。母が恋しいニコロイを姉は元気づけ、たくさん遊んでくれた。
当時のニコライは知らなかったが、その裏で姉もまた母の不調を不安に思っていたらしい。病を治すため自分にできることはないかと悩んでいたのだと、捨てられた城に放置され、風化していた彼女の日記を見つけて初めて知った。
たとえば、父の誕生日が近くなった頃。
忙しく頑張っている父に、子供達からの贈り物を用意しようと姉が提案した。そして、ニコロイには遊びを兼ねて森の木の実集めを手伝わせただけで、知らないうちに小さなケーキを仕上げてしまっていた。
「ニコロイ」
姉はいつも、そよ風のような声で話した。
「前に、父上のお誕生日祝いの話をしたでしょう? お菓子を作ったの。これ、見て。ニコロイと私からのお誕生祝いとして、どうかな」
それは、胡桃や松の実、山ブドウを上手に散らしたフルーツケーキだった。
ニコロイは最初こそはしゃいで姉に感謝したが、そのうちふと気づいた。
二人からのプレゼントなのに、自分はほとんど何もしていない。
姉はいつもそうだった。ニコロイの知らないうちに、一人で動いて周りを助けてしまう。そんな姉を父も頼りにしていて、何やら二人で話し込んでいることもあった。
ニコロイも、力になりたかった。
「姉上。どうしてケーキを作る時、ボクを呼んでくれなかったの?」
姉は戸惑ったようだった。
ええと、と言葉に詰まる彼女にニコロイは言い募った
「ボクも作りたかった。ボクももうすぐツスクルの学舎に入る年になるんだから、姉上のお手伝いだってできます」
「その、ごめんね」
姉は眉を下げた。
「ケーキ作りに慣れてなくて。本に書いてある通り作るのに精一杯で、ニコロイに何をお願いしたらいいのか分からなかったの」
「じゃあ、次はボクも本を読むよ」
ニコロイは姉の手を握った。
「来年は手伝うから。忘れないでね!」
その翌年の誕生日を迎えることなく、ニコロイの家族は崩壊した。
それでもニコロイは、世間が噂するように、姉の邪心故に聖地が穢れたとは思えなかった。
幼い頃のように、姉を人を超越した聖者の如き存在と思っているわけではない。捨てられた城を探索し、遺された当時のものを調べて姉の真意を知ったからこそのことだった。姉は優秀であったが、やはり人の子だった。その聡さ故に不器用にならざるをえない、頼り方を知らぬ子供だったのだ。
彼女をそうさせたのが白き者としての使命なのか、それとも生来の性分なのか。
そこまでは分からないが、少なくとも邪心の少ない姉であったのは明らかだった。
「陛下。キュウスケらが戻ったようです」
物思いに耽るニコロイに、大臣が声をかけた。
入室を促すと、キュウスケとイム、その仲間達が謁見の間に入って来た。
イムから暗黒大樹の葉を受け取り、ニコロイは立ち上がる。
「そなたらの働きに、まことに感謝する。大臣、その者らに褒美を。わしはこれを御殿の玉座へ納めに行こう」
すぐに、謁見の間を後にした。
脳裏には、かつての王城での記憶が蘇っていた。
+
コトル大臣はイムたちに褒賞を渡した後、追加でクエストを課した。
それは、捨てられた城に単身向かった王を追ってほしいというものだった。
イムは了承し、一行とキュウスケは再び城を発った。
夢現の森で先を歩いていた王に追いついて、共に捨てられた城へ辿り着く。御殿の正面は崩れた木材で塞がれているため、玉座の間に入るには他の建物の中を通る必要があった。
一行は壁の崩れた従僕棟を抜け、軋む回廊を歩く。
もうすでに日は暮れている。立ち込める濃い霧に夜陰が加わり、物の輪郭が夢の中にいるように曖昧だった。
そのせいか、玉座の間へ向かうまでの道では、廃城のかつての記憶と思しき幻を見た。
城門では、療養地に長らくこもっていたアグシュナ妃が帰還するのを見た。
幼いニコロイは、飛びついて歓迎していた。リタ姫は最初こそ駆け寄ろうとしたものの、結局そうしなかった。父王のそばに留まったまま近寄らず、じっと母を凝視していた。
渡殿では、欄干越しに王族一家の団欒を見た。鬼ごっこをして遊ぶ母后と王子。それを見守る父王。
しかしリタ姫だけは、離れた欄干の下から彼らを眺めていた。
幼い弟が母親の買い与えたケーキを渡しにいくと、リタ姫はそれを手で払い除けて地に打ち捨てた。
ケーキを前にした途端、垂れ下がっていた幼子の眉が俄かに吊り上がり、キッと母親を睥睨したのを、エックスは見た。
(何だろう)
エックスは戸惑った。
判然としない不吉な感覚を覚えていた。
その正体を突き止められないうちに、一行はアグシュナの亡くなった御殿の玉座前へ着いた。
「今は亡き母上よ」
ニコロイは玉座へ拝礼する。
「長くお待たせしたこと、お許しください」
手を差し伸べ、暗黒大樹の葉を捧げた。
葉は宙を舞い玉座へ辿り着いたかと思うと、妖しい煌めきと共に砕け散った。
瞬間、紅梅の鮮やかな着物が舞い降りてきた。
驚きの声を上げるキュウスケの前で、着物がすっくと立った。
それは、かの亡きアグシュナ妃であった。この城で見た幻影のまま、花の盛りの如きうら若いかんばせで、辺りを見回した。
「ここは?」
彼女の声は、確かに空気を震わせていた。
姿形も透けていない。
ニコロイ王は、信じられぬように呟いた。
「母上?」
その声に、アグシュナ妃の双眸は眼前に佇む老人を映した。
「まさか。ああ、まさか、ニコロイ?」
アグシュナ妃はニコロイに向き直る。
「微かだが面影がある。あの小さなニコロイが、立派になって……」
母后は眉をひそめ、悲しげに微笑した。
ニコロイは跪く。
「見間違えようもない。あの日のままの母上よ。こうして再び会えるとは!」
「どうやら苦労をかけたようですね」
アグシュナ妃は頷いた。
「でもニコロイ、あなただけでも無事でよかった。して、ニコロイ。この者たちは?」
彼の背後を見やる。
王はイム達を紹介すると、アグシュナ妃は鷹揚に微笑んだ。
「おお、そうだったのですか。おかげで、長き眠りから目覚めることができました。なんとお礼を言ってよいか」
「母上」
ニコロイは性急に口を開いた。
「教えてください。五十年前のあの日、この城で何が起こったのかを」
すると、アグシュナは顔を曇らせた。
「ニコロイ。あなたは姉のリタが大好きでしたね。真実は知らない方が」
「私はもう幼い子供ではありません。どうか真実をお伝えください」
ニコロイの言葉に、アグシュナ妃は頷いて語り始めた。
「リタは……白き者としての聖地と通じ合える力を利用して、聖地の大いなる力を我が物にしようとしていたのです」
あの姫が、何故そんなことを企んだのかは分からない。
ナシュロイ王と妃が気づいた時にはすでに遅く、身に余る聖地の力を取り込んだリタは心を失い、暴走した。
「ナシュロイ王はそれを止めようとしてリタに殺められ、私はかろうじて命を奪われなかったものの、リタの操る力でこの地に五十年間封じられたのです」
「そんな。なんということだ」
ニコロイは顔を歪め、背けた。
王妃は背筋を伸ばす。
「ニコロイ。私達は王家の一族として、聖地を守るという使命を果たさねばなりません」
聖地はこの大地の力の源、エルトナ大陸の心臓。
あの地が悪しき者の手に落ちれば、この大陸は暗黒大樹にすべてを蝕まれ、滅びゆく運命にある。
そう語った王妃は、聖地の安否を確かめに行きたいと訴えた。
「ニコロイよ。あの日に私が落とした黄金の指輪を持っていますか? あの指輪は、王家の庭にある聖地の扉を開く鍵なのです」
ニコロイは頭を垂れた。
「母上が持っていた黄金の指輪ならば、あの日以来肌身離さず持っております。すぐに王家の庭へ向かいましょう」
それからこちらを振り返って言った。
「イム、キュウスケ。そなたたちも共に王家の庭へ来てくれ」
王家の庭に通じる近道は、土砂で塞がれている。城壁の外へ出て、右手で壁を伝うように回り込むといい。
ニコロイはそのように王家の庭の位置を伝えると、母に向き直った。
「母上、少しよろしいでしょうか。実は、姉上が力を求めた理由に心当たりがあるのです」
そして、王とその母は玉座の間を出て行った。
二人の足音が聞こえなくなった頃、キュウスケが肩をすくめた。
「いやあ、びっくりだよなあ。まさか死んだと思われていた王妃が、こんな形で現れるなんてねえ」
「ええ。しかも、年月の影響を受けないままに封じられていたとは」
イムが腕を組み、聞き手を顎に添える。
「暗黒大樹の葉で封印が解けたのは、王妃を封じるのが聖地に通じる白き者の力だったからでしょうか」
「あんな小さい子供に、聖地をどうこうしようなんて野望があったとはねえ」
グレースは王達が出て行った扉を窺う。
「王様は心当たりがあるみたいだったけど、何だろう。見当もつかないよ」
「とりあえず、行ってみようぜ」
もしかしたら、心当たりを確かめた後に教えてもらえるかもしれない。
エックスは扉を開けた。
すると、ひそめた声が聞こえてきた。
「母上、これを」
ニコロイ王だ。
エックスは左右を窺い、声が左手側の廊下の曲がった先から聞こえてくるのに気付いた。
後ろで何事かと彼を見る仲間達に、静かにするよう身振りで示し、足音を忍ばせて廊下を左側へ進む。
曲がり角の壁に身を潜め、こっそりその先を窺った。突き当たりにニコロイがおり、アグシュナに古びた冊子を開いて渡していた。
「姉上の部屋で見つけた日記です」
アグシュナは目を落とし、読み上げた。
「お母さまのご病気を治すのに、聖地の力を使えれば──ああ。あの子が聖地の力を求めたのは、私の病を治すためだったのですね」
「恐らくは」
俄かに美しい顔が歪み、よよと袖に顔をうずめる。
「なんということでしょう。可哀想なリタ」
ニコロイは母を案じるように見守る。
アグシュナはすぐに平静を取り戻し、沈んでいた大きな髷を持ち上げた。
「いいえ、大丈夫です。それより今は、王家の使命を果たさねば」
エックスたちはその場を離れた。
渡殿を通り城門を出たところまで戻った時、鼻を啜り上げる音がした。
グレースだった。見れば、瞳が潤んでいる。
「あんなに小さな子供が、母親のために無理をして。泣かせるじゃないか」
しきりにすんすんと鼻を啜って、目頭を手の甲で拭っている。
トロロはグレースの肩に止まり、丸めたちり紙のように顔をくしゃくしゃにしていた。
「それなのにこの結末とは。志清らかな者に対して、あんまりな仕打ちでごじゃりますモン」
「まったく、悲しい話だ。やはり聖なるものに仕える者は、幼くとも尊いもんなんだなあ」
キュウスケは感じ入ったように腕を組み、目を瞑っている。
三者三様の感情の表れに、エックスの悲哀と同情はそちらに持って行かれてしまった。
これから聖地の異常を確かめに行くのに、同行者の三分の二がこの揺らぎようで大丈夫なのだろうか。
かえって冷静になったエックスがイムを窺うと、常と変わらぬ涼やかな瞳が視線を受け止めた。
「大丈夫です。すぐ持ち直しますから」
キュウスケに至っては、半分恋人のことを考えているようなものですし。
そう言うイムに、エックスは小声で問う。
「恋人? こんな時に?」
「彼の知性は恋人のためにありますから」
イム曰く、キュウスケがカミハルムイに士官すること自体、恋人に似つかわしい自分の力をつけるためなのらしい。彼の恋人は、世界樹を司る巫女に仕える浄めの女官なのだという。
「要するに、リタ姫から恋人を思い出してるってこと?」
「はい。じきに奮い立つはずですよ」
するとその言葉通り、キュウスケが目を開き決意の籠った顔で大きく頷いた。
「おっと、こうしちゃいられねえな! 陛下がいらっしゃるようだぜ」
確かに、渡殿の床が軋む音が近づいていた。
「イム、露払いを頼む。オレは陛下と太后様をお連れする」
「はい。では後ほど」
同輩の返事を聞いたキュウスケは、あっという間に来た道を戻って行った。
イムは、しおらしいグレースとトロロに声を掛ける。
「お二人とも。陛下が王家の庭に向かわれるようです。先に道中の魔物を追い払っておきましょう」
「ふむ、承知つかまつったモン」
スノーモーモンが舞い上がり、くるくると旋回する。
「聖地の状態を確かめて異常を解消できれば、乱心した姫の菩提も弔えようというもの。やるでごじゃりモンよ、グレース」
「よし来た」
魔物使いは赤みを帯びた目元を強引に拭い、鞭を手に取って張った。
そして一人と一匹は右手の小道を進み、片方は鞭で地を叩き、もう片方は目を赤くして牙を剥き出した般若の形相で威嚇しつつ、声を張り上げた。
「控えい、控えい。怪我したくなきゃ道を空けな!」
「カミハルムイ王のお通りでごじゃりますモン!」
エックスたちが後をついて行ってみると、なんと徘徊する魔物たちは本当に彼らに道を空けていた。
どうも、突如現れたこの珍妙なコンビに戸惑い、遠巻きに様子を窺っているらしかった。
「ね?」
イムはエックスに笑ってみせた。
王家の庭は南北の城壁、東西の丘に挟まれ、夜の底にその身を潜めていた。辺りにはちらほらと石塔が佇んでいるだけで、何の装飾もない。名前に反して、極めて質素な庭だった。
片隅には湧く小さな泉の前で、ニコロイは瞼を下ろして息を吐いた。
「今なら思い出せる。この王家の庭は、姉上が好んだ場所であった。幼き頃、ここへ来て二人で遊んだものだ」
ニコロイは、しばし頭を垂れた。
その背中を見つめていたエックスは、瞬きをした。
王の足の先に、小ぶりなエルトナの靴が揃えて置かれている。よく観察して、エックスはその靴が青く透けていることに気づいた。
「エークス、見えるか」
「ああ」
口の中にて押し殺した声で尋ねると、返事が来た。
「あれは何だ」
「リタ姫の最後の足跡さ」
エークスは答えた。
「あそこで入水したんだ」
エックスは肌が泡立つのを感じた。
大いなる力を我が物にしようとし、両親を害した子供。
そうだと分かっていても、あまりに悼ましかった。
ニコロイ王は目を開いた。
「ではこれより、聖地へ入るとしよう」
「さあ、ニコロイ」
アグシュナが促す。
「黄金の指輪を泉に投げ入れなさい。聖地への扉を開きましょう」
ニコロイは拳を泉に差し出した。
握りしめた指を開くと、小さな金の円環が泉へと落ちていく。
指輪は泉に沈み、波紋を生んだ。そこから青白い閃光が広がり、たちまち一行を飲み込んだ。
驚いたエックスは光を辿り、周囲を窺う。
泉から視線を逸らさないニコロイ王。
飛び上がるキュウスケ。
腕で顔を覆うイム。
口を開けるグレースと、そっくり同じ顔をしたトロロ。
小さく笑みを零す王妃。
眩さは、すぐに失せた。一行は柔らかな明るさに満ちた空間へ導かれていた。
キュウスケが首を回す。
「ここが、聖地?」
極光を放つ木々の群れの中に、彼らはいた。
空は高くなるほど暗く、低くなるほど明るいという、曙に似た不思議な色をしている。彼らがいる場所だけ円形に開けていて、足下には薄く清水が湧いているようだった。
ニコロイは目を細めた。
「なんと美しい所だ。これで聖なる力が失われているとはとても思えぬが」
ふと、王の視線が広場の一箇所へ定まる。
エックスはその視線を辿った。彼らの正面、奥へと通じる並木道が伸びている。その道の先へ行こうとうする者を妨げるようにに、真っ白な大木が佇んでいた。
「あの一際大きな木は? もしや、聖地の入り口を塞いでいるのか。母上、いったいあの木は」
ニコロイの言葉が、呻き声に変わった。
先を歩いていたエクスとグレース、トロロが振り返る。
地に打ち倒された王のもとへ、エルフ達が駆け寄ろうとしていた。
「ニコロイ王!」
イムが王を支え、キュウスケが二人を背に庇う。
彼らが睨む先には、顔を伏したアグシュナの姿があった。肩を震わせ、低く笑い声を漏らしている。
「可哀想なニコロイ坊や! 騙されやすいのは父親譲りなのかねえ?」
「は、母上?」
ニコロイは困惑していた。
アグシュナの声が不気味に太く歪む。
「この五十年、なんと長かったことだろう! あの小生意気なリタのおかげでずいぶんと時間がかかってしまったが」
女は顔を上げた。
エックスはぎょっとした。
太后の白目は、血に染まっていた。人離れした細長い黄の瞳孔が、エックス達を射すくめる。
「今こそ、エルトナ大陸は私のものになるのだ!」
「貴様、何者だ」
ニコロイが問いただすと、王妃であったものは自らを誇るように真紅の両袖を広げた。
「我が名は、怪蟲アラグネ」
この大陸を死と絶望で染めるため、暗黒大樹より生まれ出でし者。
そう語り、白い手で紅梅のかさねを纏う体をなぞる。
「ニコロイ坊や。母に会えて、家族を取り戻せて嬉しかったかい? お前の母親なら、とっくに死んだよ。殺したのは、この私」
喰い殺してやったのさ。
赤い唇が嘯く言葉に、ニコロイは目を瞠る。
異形の双眸に残忍な愉悦を湛え、女は嗤った。
「王妃になりすまして、間抜けなナシュロイ王を騙し討ったまでは良かったんだがねえ。白き者をたかが小娘一人と侮り、放っておいたのが失敗だった。まさか私の正体を見抜き、己の命と引き換えに私を封じるとは」
女はコバエを払うように、手をひらりと振る。
「だが、もうよい。私の望みは今こそ叶うのだから」
そう言って、くるりと身を捻った。翻った鮮やかな着物が失せる。その影から、突如として小山のような土蜘蛛が湧き出てきた。
(これが、こいつの本性か)
エックスは、エークスの手が得物を握りしめる間に敵を観察する。
黒と黄の縞の、毒々しい身体。
でっぷりとした腹から伸びた後ろ六本の足には凶悪な鉤爪が、前二本の足先には人の手が生えている。
アラグネは鬼のような形相で牙を剥き出した。
「私の征服を助けたお前たちには、その礼として名誉ある死を与えよう。お前たちの悲鳴は、今日からこの大陸に産まれ落ちる破滅と暗黒の産声となるのだ」
「グレースさん、トロロさん、エクスさん」
イムが呼ばう。
「力を貸してください」
「頼まれるまでもないさ」
グレースとトロロが、いち早くエルフ達と大蜘蛛の間に割り込んだ。
「卑劣な怪物め。他人を騙し悦ぶその精神、許せんわ!」
グレースが鞭を構えた。
トロロは牙を剥き出している。
「我らが成敗致す。いざ尋常に、勝負でごじゃりますモン!」
エークスは棍を上段に振りかぶり、肩に担いだ。ゆらゆらと得物を揺らしながら、怪物を見据える。
「エックス」
低く語りかけてきた。
「今回ばかりは、君に痛い思いさせちゃうかも。耐えてくれよな」
「オレのことは気にすんな」
エックスが答えると、エークスは頷いた。
土蜘蛛が長い手足を駆使して迫り来る。
トロロが声を張り上げた。
「者ども、行くでごじゃりますモンよ」
一匹と二人は肩を並べ、各々得物を構える。
そして、大蜘蛛へ突撃していった。
イムは、座り込み硬直したニコロイ王の肩を揺すっていた。
「陛下、お気を確かに」
「オレに任せろ」
キュウスケがニコロイの肩に腕を回し、踏ん張って立ち上がる。
三人は立ち向かう戦士たちの背後、極光に輝く樹木の根元へ下がった。
根へ腰を下ろしたニコロイが呟く。
「わしは、なんということを」
「まだ、悲観するには早いです」
イムは神々しい木々を振り仰いだ。
「陛下の見立ては正しい。聖地はまだ力を失っていません。姉君はあの者を封じ、この地を閉ざして守ったのです。エルトナの聖なる心臓は失われていません」
「いやいや。それどころか、ビッグチャンスじゃないですか!」
キュウスケが勢い込む。
「あいつのせいで聖地が閉ざされたんですから、あいつを倒せば聖地も復活するんじゃないですかね? きっとそうだ! とにかく、やるしかないですよ」
若者達の言葉は希望に満ちていた。
しかし、ニコロイの戦士としての経験は、事はそう易々とはいかないと告げていた。
「だが、姉上──白き者さえ、封印が精一杯だったのだぞ」
古城の書物にあった伝承によると、聖地を蝕む脅威が現れる時、それに対峙すべく王家に生まれるのが白き者だった。
姉は幼く、過去の白き者に比べて力は弱かったかもしれない。
それでもその神通力は、今思い返しても常人を超えていた。
──自分は過去だけでなく、やっと得た未来さえ、あの怪物に奪われねばならぬのか。
「何を弱気なことを仰ってるんです」
「陛下。希望をお持ちになってください」
若者達が励ます。
だが、老いた王の目は暗いままだった。
アラグネの攻撃を最初に受けたのは、エークスだった。
鉤爪が襲いかかるのを棍で弾き、逸らした。
それだけなのに、腕がじんと痺れている。
巨躯に見合うパワーだった。
「近づくんじゃないよッ」
グレースが鞭を振り回す。
鞭が唸りをあげて暴れ、土蜘蛛を叩く。しかし、勢いの割にアラグネを怯ませられない。
長い鉤爪が彼女の腕をかする。ぱっと血の華が咲き、グレースは顔を顰めた。
「ベホイミ」
トロロが、彼女の傷を癒す。
アラグネは、次いでトロロを鉤爪で襲う。トロロは大蜘蛛から距離を取りつつ、自らを癒す。
エークスは魔物使いコンビの前に立ち、棍の両端に氷の力を宿してアラグネを乱打する。
頭は今どこを向いているか。
手脚はどう動いているか。
他に妙な動きはないか。
敵との間合いを読みながら、エークスは仲間との位置関係に気を配って立ち回る。
しかし、敵の脅威は鋭利な牙や爪だけではなかった。アラグネは多彩な特技の使い手でもあったのだ。
「メダパニ」
一番はじめにグレースが混乱呪を喰らった時は、天使の鈴を用いて治した。
「ボミオス、ルカナン」
身体を取り巻く空気が重くなる。
身の守りがそぞろになる。
魔法職の少ないパーティーでは、どうにも対処のしようがない。トロロの回復に頼りながら、アイテムを多めに使ってしのぐ。
さらに厄介なのは、定期的に吐き出される糸による呪縛と、広範囲へのトゲの噴射だった。
糸は、必ず誰か一人を標的にした。力強い巨体から高速で放たれる糸は躱しようがなく、捕まってしまえばしばらく身動きが取れなくなる。誰か一人が捕まったら、残る二人が庇うように動いて対処した。
トゲは、全員に降り注いだ。投石の如きそれは、離れていてもまるでトゲ自身が意思を持つかのように飛んでエークス達を刺した。喰らった後はトロロが必ずフワフワダンスを舞い、敵の追い打ちで回復が間に合わない時はエークスかグレースのどちらかが薬草でフォローした。
そうして何度も全滅の危機を迎えながらしぶとく立ち向かい、じりじりとアラグネの体力を削っていった。
(大丈夫、まだいける)
エックスは枯れた魔力を補うために魔法の聖水を撒くウェディの、無駄のない腕の動きに頷く。
問題はグレースだ。オーガは肩で息をしていた。
アラグネの攻撃で消耗しているのもあるが、それ以上に当たりはずれにムラのある自分の技を扱いかね、体力と魔力を削られているのだった。次第に長い鞭を蜘蛛の脚で絡めとられることが増え、身動きを取りづらくされている。
(戦いが長引けば、呪文でもっと弱体化させられて不利になる)
今はまだ、トロロが持ちこたえてくれている。だが、それもいつまで続くか分からない。アラグネもトロロがパーティー唯一の生命線であることを察し、彼を狙って攻撃するようになってきていた。
(そうなってほしくはないけど)
エックスは最悪の事態を考える。
(トロロが戦闘不能にされたとしても、イムがこっちに来れれば戦い続けられる)
エックスはエルフ達をちらりと見た。
イムは、先ほどアラグネに一撃を喰らったニコロイ王に、少しずつ癒しの術を施しているようだった。
ニコロイ王は前線を離れて長い。強い回復呪は急激な治癒で戦いに慣れない者を弱らせることもあるため、弱い呪文で様子を見ているのだろう。
治療が終わったら、イムのことだ。こちらの助太刀に来てくれるはず。エックスはそう信じていた。
(イムが来てくれればスクルトで身を守りやすくなる。でもボミオスは解消できない)
攻撃の回転が悪い分、一撃一撃を重くして相手を削りたい。そのためには、グレースの攻撃が欠かせなかった。彼女の鞭は、うまく当たればエークス以上の威力を発揮するからだ。
どうにかして、敵への攻撃のコツを掴んでもらえないだろうか。
(この土壇場で、他人のオレにどうこうできるとは思えないけど)
本人もキツそうだ。指示するようで気が引けるが、戦い方に口を出してみてもいいかもしれない。
上手くいかなかったら後で謝る。
エックスはそう決めて、口を開いた。
「エークス」
考えたことを話すと、半身は了承した。
「分かった。僕は手を動かすのに専念するから、喋るのは君に任せるよ」
「ありがとう」
エックスはやや離れて戦うグレースに声をかけた。
「グレース!」
オーガがこちらを向いた。
エックスは棍で敵を示す。
「オレが前に立って壁になる。君は後ろに下がって、攻撃に専念してくれないか」
「でも、どうやって」
グレースは戸惑った。
「アタシの鞭は、あいつの脚に絡まっちゃうんだよ?」
「あいつの体の中心を狙うんだ」
エークスが左右から迫る敵の手足を払いのける。
エックスは喋る。
「今の、見た? 虫の関節は、斜めに放物線を描くようにして動いてしまう」
だから鞭を振りかぶって頭上から落とせば、防がれにくくなる。
仮に、落とされる鞭より早く手脚がその下にもぐりこんだとしても、力の働く方向も強さも違うのだ。完全には勢いを殺せまい。
「分かった。やってみる」
グレースはエクスの背後に回る。
アラグネがせせら笑う。
「往生際の悪い奴らよ。暗黒大樹より得た私の力を、ヒトの子が上回れるものか」
アラグネは戯れるように左右の手を、爪を、グレースへ伸ばす。
エークスが大きく跳躍し、棍を振るって軌道を逸らす。
その間に、グレースは大きく鞭を振りかぶった。そして、頭上から叩きつけるようにしてアラグネへと放った。
アラグネは鼻を鳴らし、エークスに弾かれたのとは別の脚で鞭を防ごうとして。
ギャッと声を上げた。
垂直に叩きつけられた鞭が、長い脚を歪ませて太い胴体へ直撃したのだ。
「入った!」
グレースが八重歯を見せて歓喜する。
鞭は収縮し、絡めとられることなく操り手のもとへ戻った。
トロロが快哉を叫ぶ。
「いいでごじゃりますモンよ。その調子!」
グレースは再び鞭を振りかぶった。
アラグネは両手をかざし、攻撃に耐えようとする。
「うっ」
だがエークスの棍が顔面を打ち、視界がぶれるうちに強烈な一撃が叩き込まれた。
グレースが態勢を立て直した。それと同時に、勢いを削がれていた一行はいつしか戦況を巻き返そうとしていた。
+
繰り返される痛烈な打撃に脳天が痺れる。
アラグネは混乱していた。
(何だ? へなちょこのヒトの子にしては、力が強すぎる)
オーガとは、アラグネの獲物としてきたエルフより力強い生物であると知っている。それにしたって、眼前のオーガは戦い方が拙い。一人前の旅人であるのが怪しいくらいだ。
しかし、要領を得たオーガが振り下ろし続ける鞭は威力を増す一方である。
加えて、彼女の連れらしきスノーモーモンは打たれ強く、なかなか息絶えない。
残す一人のウェディもおかしい。アラグネが死角から放った一撃を、目で見ずに受け流すことがあるのだ。
再度、オーガの鞭が額を抉る。
アラグネの意識が飛びかけ、魂が霊界に引き寄せられる。
その時、魔性の蜘蛛の目に彼らの本性が映った。
まず見えたのは、オーガとスノーモンの魂。
身体こそ別だが、魂同士が太い魔力で結ばれ、一体となっている。
(近頃噂で聞いていた、魔物使いというものか)
一方、ウェディの中には魂が二つあった。
橙と青の、色の違う二つの火の玉が分かれては混ざり、混ざっては分かれを繰り返している。この色の違う意識が、彼の知覚を広げているのだと察した。
そして、全員の魂に共通することがあった。
皆、身体から魂が離れたのを一度結び直された痕跡があるのだ。
(こやつら。全員、黄泉から還ってきたのか)
死の理に従いながらも復活した者は、強い力を得ると言う。
魔族にも、死して生まれ変わり特別な霊性を得る転生モンスターというものがいる。ヒトの子にもそれに近い者が現れていると、風の噂で聞いていた。
(だが、所詮は命短きアストルティアの人形よ)
アラグネは力を振り絞り、眼前のウェディを呪縛の糸で絡めとると突き飛ばす。
頭を掲げ、吠えた。
「五十年の悲願。そう易々と諦めてなるものかッ」
+
異種族の冒険者たちは善戦していた。
しかし、怪蟲アラグネの生命力は尋常でなかった。魔物使いの鞭に打たれるままだった大蜘蛛が、突如爛爛と目を輝かせウェディを呪縛の糸で絡めとり、咆哮して魔物使いとモーモンへ突撃した。
距離を掴み損ねたオーガが転がった。モーモンは蜘蛛から逃げ回りながら、自身と仲間の回復に努める。
いつ押し負けるかという状況だった。それでも冒険者達は諦めず、武器を手に態勢を立て直そうとしていた。
ニコロイは、戦う彼らを案じながら見守る。暗い過去へ向かっていた老王の意識は、知らぬうちにあがく冒険者達へと引き寄せられていた。
「彼らは何か、勲章を持つ戦士なのか」
ニコロイは尋ねた。
「いえ、ほぼ何も」
イムが答える。
「グレースとトロロは何も持っていません。エクスは風送りの儀を手伝い、緑のキーエンブレムを授けられています」
アズラン領主に認められたのだから、相応の働きができる者なのだろう。
だが相手は暗黒大樹より生まれ、カミハルムイを追い込んだ怪物なのだ。
それなのに何故、何度追い詰められても戦えるのか。
「特別な生まれなのか」
「戦いに秀でた生まれなのかまでは、私も知りません」
イムは、座り込んでもなお己より背の高いニコロイ王を見上げた。
「陛下。少なくとも彼らは今、自分の役目に夢中なのです」
眼前の危機を越えるために何ができるか。
生き延びるために何ができるか。
そればかりを考えている。
「彼らは我々ほど、あの化物の恐ろしさを知りませんから」
イムは呟いて、いやと首を傾げた。
「もしかしたら逆かもしれませんね」
我々エルフは恐怖のあまり、このカミハルムイの伝説の実態が見えていないのかもしれない。
そう言って、イムは治療のため王へと翳していた手を引く。
「処置は済みました。これで後の生活に支障は残らないものと思われます。しかし、城に戻られたら必ず侍医にご相談ください。私は、彼らに加勢しに行きます」
イムはニコロイへ頭を下げると、戦場へ向かって駆け出した。彼が守備力増強呪を唱えると、オーガとモーモンが歓声を上げた。
傾いていたパーティーが、また持ち直した。
「ニコロイ王」
キュウスケが真面目な顔を向けた。
「あなたは、特別だった姉上にできなかったことは、ご自身にもできないとお考えですか?」
「いや」
ニコロイは口ごもった。
先程までは、できないと考えていた。
しかし、あの冒険者達が大蜘蛛とせめぎ合う姿を見ているうちに、暗澹たる気持ちが晴れていくのを感じていた。
「カミハルムイの遷都から、もう五十年です」
キュウスケは続ける。
「いや、早くも五十年と言った方がようございますかね。新都は今や、アストルティア中に常春の都と呼ばれるまでに発展しております」
小太りのエルフは首を捻る。
「どなたのおかげか。エルドナ神の加護か? 古きエルフの叡智か? もちろんそれもございましょうけれども、やはりニコロイ王、あなた様のおかげでございましょう。今のあなたはカミハルムイの名君。だからこのキュウスケもまた、あなたに一時の宮仕えに参ったのです」
「お前は本当に、よく喋る」
ニコロイは苦笑した。
「だから、おべっか使いなどと陰口を叩かれるのだ」
「私の言ったことがおべっかかどうかなど、誰が決めるのです」
キュウスケは太い眉を釣り上げた。
「ヒトは変わりゆく生き物。おべんちゃらとて、褒めた相手がそのようになれば真実になりましょう」
ふくよかな両腕を開き、男は力を込めて言う。
「ヒトには、己を偽ってでも果たしたい役目がある。嘘より作り出したい真がある。そうは思いませんか、ニコロイ王」
ニコロイは束の間押し黙った。
それから、ぼつりと呟く。
「民はわしを、良い王と呼んでくれているか」
「ええ、もちろん」
キュウスケは大きく首肯した。
「そうでなければどうして、大臣、兵、誰も彼もが、あなた様が禁足地へお出かけになるのを反対しながらも容認するのです」
ニコロイは、かつてに思いを馳せる。
家族を亡くし、わけも分からぬまま王となった五十年前。
年嵩の者たちが薦めるがまま、古都のことは考えないよう努め、六才だったニコロイはツスクルの村へ発った。
学問を修め、周囲の子らと打ち解けて楽しく過ごした。それでも一人でいると、胸の底にしまい込んだ天涯孤独が身に染みることがあった。
その度に人目をしのんで泣いていた自分が、いつから王の責務に集中するようになったのか。
「多くを見、世の理を見定めよ。己の役目を果たしなさい」
ニコロイは呟いた。
それはツスクルの学びの庭を卒業する時、世界樹の巫女より授けられた言葉だった。
キュウスケは頷いた。
「今でも、そう言われて旅立ちます」
「そうか」
過去を顧みずに過ごした、この五十年。
若い頃は、過去からやって来る漠然とした不安から目を背けるようにして生きていた。けれど臣下と妻子、良き領民に恵まれ、気付けば前を見据えて皆の幸せを願いながら過ごせるようになっていた。
しかしこの数年。妻に先立たれ、各地から不穏な報告が上がってくるようになると、昔のことがまた気に掛かり始めた。
孤独に震える小さなニコロイは、今もまだ己の中にいるのだ。
それでもこの長い年月を、涙に歪んだ目だけで過ごしてきたわけではない。
皺の刻まれた手が、左腰の刀へ伸びる。
+
その時、エークスの背びれがぞわりと冷えた。
(動いてはいけない)
エックスもまた、理屈は分からぬままに悟って様子を窺う。
背後から、一陣の風が吹き抜けた。
彼らの眼前に迫っていた大蜘蛛の動きが止まる。凍り付いたように固まった鬼の面が、中心からぱっかりと二つに割れた。
「そんな」
アラグネは両手を伸ばした。崩れる顔を押さえ、急な結末に抗おうとする。
だが、一度開いた傷口から溢れる魔瘴は止められない。
「私が、消える? ふざけるな、どれだけ待ったと」
憤る声が萎んでいく。
身体は砂山の如く崩れ、紫の粉塵を噴き上げてなだらかになる。
その向こうに、老王ニコロイが佇んでいた。
中段に構えた右手にて、白刃が冴え冴えとした輝きを放っている。
「母上、父上」
王は刀を一振りした。
僅かに付着していた塵を払い、左手の鞘へ切っ先を納める。
「どうか、安らかにお眠りください」
鯉口に鋼が噛み合い、澄んだ音が響いた。
極光の景色のどこからか、優しい風が吹いてきた。風は最後の毒蜘蛛の瘴気を巻き上げ、遠く悠遠なる空の彼方へ去っていく。
目を上げたニコロイ王は、息を呑んだ。
並木の中央を閉ざしていた白き大木が消え、代わりに純白の幼子が浮いていた。
リタ姫だった。閉ざした目と口元は、うっすらと微笑んでいる。
「ああ、分かります。聖地を狙っていた恐ろしい魔物はもういないのですね」
リタは瞼を開いた。
深い思慮を湛えた葡萄の瞳が、眼下の老人を映す。
「ありがとうございました。これで、この聖地の力を解放することができます」
聖地の力は再び、このエルトナ大陸中に届くでしょう。
リタは不意に笑みを消し、細い眉を寄せた。
「そこのお方。あなたにお願いがあります」
彼女は老王を見据え、こう言った。
「私の大切な弟に、伝えてほしいことがあるのです」
名をニコロイと言います。
まだ幼い、たった六才の子供です。今もどこかで泣いているかもしれません。
どうか、伝えてください。
リタは切実な声で言う。
「あなたは強い子だから。たとえ一人になっても、この国を守る強い王になれるはず、と」
「あ……」
老王は何か言いかけたが、力強く頷いた。
「わかりました。伝えます、必ず」
それを聞いたリタは安堵の笑みを浮かべた。
天を仰ぎ、目を瞑る。
「お父さま、お母さま。リタもおそばへ参ります」
姫の身体から清廉な光が放たれる。
姿が、声が溶けていく。
「ニコロイ。あなたのことだけは……守れ、た……よ、ね……」
少女は天に昇る。
老王は彼女を見上げて一心に唇を噤んでいたが、輪郭が消える間際に手を伸ばした。
「あ──」
姉上。
ニコロイの叫びが、聖地に木霊した。
清らかな昇天の光が失せる。
老いたエルフはがっくりと項垂れた。
「そんな。何故あなたはいつも、最後の最後まで他人のことばかり思いやって」
声に悔恨が滲む。
「あなたはこんな所で……たった一人で、命と引き換えに聖地を守っていたというのに。わしは姉上にすべてを押し付け、のうのうと」
「でも、ニコロイ王」
項垂れる君主のもとへそっと歩み寄ったキュウスケが、語りかけた。
「私達は最後に、リタ姫様のことをお助けすることができたじゃないですか。リタ姫様の魂は自由になれました。だからこそ、あんなにも幸せそうな顔をなさっていたのです」
ニコロイは、袖で荒く目元を拭う。
それから、振り返って笑った。その顔は、平生のカミハルムイ王だった。
「まったく、お前にはかなわんな」
王はキュウスケとイム達へ向き直り、目礼した。
「お前たちには何度礼を言っても足りぬ。共にカミハルムイ城へ戻ろうではないか。そこであらためて礼をしよう」
ニコロイ王は颯爽と歩きだした。
その後ろにキュウスケがつき、次いでイムが、さらにそろって鼻を啜るグレースとトロロが続く。
エックスは最後に、もう一度来た方を振り返った。
静謐な光を湛えた木々は、来た時と変わらぬ姿でそこに佇んでいた。
+++
捨てられた城で起きたことは、瞬く間に王都カミハルムイを駆け巡った。
五十年越しに明かされた旧都の真実。聖地が再び力を取り戻したこと。
民の多くは、王の無事と聖地の復活を喜んだ。その陰で、遷都を知る老いたエルフたちは、聖地のために一人身を捧げた白き姫を想って涙を流した。
不安に静まり返っていた王都が、息を吹き返した。
城の学者たちが聖地の調査に動き出した。
姫の菩提を弔う桜の植樹が決まった。
王が五人の冒険者に桜のキーエンブレムを授与した。
冒険者とはすなわち、イム、グレース、トロロ、エクス、そしてキュウスケだった。
「わしは姉上の遺志を継ぎ、この後の人生をかけて聖地の守り手となるつもりだ」
ニコロイ王は授与の後、そう宣言した。
「お前達のことは忘れない。もし今後困ることがあったら、次はわしが力になろう」
五人は一躍英雄になった。
カミハルムイの人々は、五人を見かけるとにこやかに会釈するようになった。
中には様を付けて呼ぶような者まで現れ、エックスは大いに狼狽えた。
自分は、パーティーに加入して流れに身を任せていただけなのだ。どうにも落ち着かない。
「いいじゃないか。どんと構えてなよ」
グレースはエックスの悩みを聞くと、笑い飛ばした。
「最後に引導を渡したのは王様だったけれど、アタシ達だって十分働いたさ」
忌み地を梯子して、怪物と戦ったんだから。
グレースの言葉に、まあそれもそうかと納得することにした。
キュウスケは、いち早くカミハルムイから旅立っていった。
去る前に、彼はイムに礼を言いに来た。
「オレがキーエンブレムをもらえたのは、イムがオレの代わりに動いてくれたおかげだからな」
そこで呆れたようなグレースとトロロの眼差しに気づき、キュウスケは肩をすくめた。
「そう冷たい目で見るなよ。悪いが、オレが命を賭けるのは愛するユーチャーリンのためだけと決めてるんでね」
「はあ」
それが、以前イムの言っていた彼の恋人の名らしかった。
「キュウスケ。達者で」
イムが手を振ると、キュウスケは片手を挙げ、アディオスと陽気に返した。
最後まで、南国のにわか雨のような男だった。
グレースとトロロがオーグリード大陸へ行くという話を聞いたのは、イムが王に呼び出されてカミハルムイ城へ赴き、トロロがカミハルムイ領南の親戚まわりに出ている時だった。
城下町の茶屋で、エクスはグレースと三色団子を摘まみながら話していた。
「グレン国の王様が、武功を上げられるような腕利きの旅人を集めてるって話でね。アタシはそこに行って腕を磨こうと思うんだ」
うまく活躍できれば、キーエンブレムももらえるだろう。
キーエンブレムをたくさん集めれば己の目標が近づくのだ、とグレースは語った。
「目標って?」
「強くなって、レンダーシアに渡るんだよ」
「えっ、本当か」
エックスは驚いた。
「オレもレンダーシアに行きたいんだ! でも、船が出せないって言われて」
「今はまだそうだね。でも、諦めちゃいけないよ」
レンダーシアは世界の要と称される大陸だ。
何故なら、アストルティアの国々を束ねる宗主国にして、現在ある国家の中でもっとも古い歴史を持つ王国グランゼドーラを擁する地だからである。
魔に封印されていても、かの地に渡りたい者は多い。きっと誰かが、航路復活に向けて動いているはずだ。
「レンダーシアに渡れる船は、レンドアに停泊している豪華客船グランドタイタス号だけ。昔はかなりの金持ちか、特殊な乗船パスを持った者じゃないと乗れなかったって噂でさ」
「金持ちってどれくらいの?」
「メダルオーナー級なら確実だったって」
「駄目じゃねえか」
メダルオーナーとは黄金の娯楽島ラッカランの主、ゴーレックである。
彼はアストルティアで一二を争う大富豪で、その財は国家予算並みだという。
いやいや、とグレースは首を横に振った。
「それは昔の話だから。でも、次の出港が決まった時には乗りたい客が殺到するだろうから、その時は本当に大金でもないと乗れないかもな」
「そんなぁ」
「でもさ」
がっかりするエックスに、グレースはにやりと笑った。
「キーエンブレムをたくさん持ってれば、レンダーシアに渡りたい人の護衛の仕事を任してもらえるかもしれないよ?」
「なるほど」
エックスは手を叩いた。
「それでキーエンブレムか!」
「そう。キーエンブレムは各地の実力者からの信頼の証。アタシ達だって、桜のキーエンブレムをもらえたことによって、カミハルムイの駅を自由に使っていいって許可がもらえただろ?」
そうなのである。
五大陸の王族が住む都の鉄道は、基本的に一般の利用者に開放されていない。だが、王族が認めた者だけは利用していいそうで、今回桜のキーエンブレム所持者となった彼らも利用者として認められたのだった。
「そうか。これ、そういうものだったんだな」
エックスは、大事なものを収納している魔法の袋を覗き込んだ。
緑と桜のキーエンブレムは、袋の内側に括りつけてある。
この記念メダルのようなものを皆が求める理由がよく分かっていなかったエックスは、今ようやっとその重みを理解した。
「あんたもレンダーシアに行きたいなら、まずはアタシたちと一緒にグレンに行かないかい?」
グレースは誘ってから、言い直す。
「いや。行かないかっていうより、来てくれれば嬉しいね。あの蜘蛛と戦った時、アタシの攻撃がまともに効いたのはあんたがアドバイスしてくれたおかげだった。遅くなったけど、改めて言わせておくれ。あの時はありがとう」
オーガは頭を下げる。
エックスは驚き、戸惑った。
「そんな、お礼を言うのはおかしいよ。オレ達だって、グレースの攻撃で助かったんだから」
「あれからまともに攻撃ができるようになってきたんだ。あんたのおかげだよ」
グレースは嬉しそうだった。
「グレンに行けば、他にもいいことがあるよ。ダーマ神官の転職試練は、あそこでクリアできるんだ」
「そうなのか」
「試練をクリアすれば、基本の六職以外にも転職できるようになる」
「なら、オレも行こうかな」
「そう来なくちゃ」
そこへ、カミハルムイ城南の入り口からイムが出てくるのが見えた。
グレースは大きく腕を振り、彼を呼び寄せた。
野点傘の下、緋毛氈の敷いてあるベンチに座して団子を頬張る仲間の姿に、イムは笑みを零した。
「カミハルムイを満喫していますね」
「これ、美味しいよ。イムもどう?」
エックスが団子を差し出すと、イムはいただきますと言って受け取った。
彼もベンチに座り、三人で並ぶ形になる。
グレースが身を乗り出した。
「今、次の旅先の話をしてたんだ。エクスもグレンに仕官しに行くって」
「そうですか。残念ですね」
イムは眉を下げた。
「申し訳ないのですが、私は一緒に行けなくなりました」
若葉色の双眸が丸くなった。
「何かあったのかい?」
「ニコロイ王の命で、暗黒大樹の調査チームに入ることになりまして」
「ええっ」
今度はエックスも目を丸くした。
「すげーな!」
「重大任務じゃないか!」
ありがとうございます、とイムは言った。
エックスは首をひねる。
「ってことは、また呪われた大地に行くのか? オレ、ボディーガードが必要ならやるよ」
「アタシも。前より攻撃、マシになったから」
「大丈夫ですよ」
二人の申し出を、イムは柔らかな笑みで辞退した。
「今、あの辺りは魔障が活性化しているんです。収まるまでは、当分城で研究に専念して、現地に行かない予定なんです。それに、今度あの地に行く時は、カミハルムイ兵がついてきてくれるそうですから」
「そうか」
グレースは息を吐いた。
「なんだか寂しいな」
「惜しんでくれるんですか」
「そりゃそうさ。短い間だったけど、アタシは二人と組めて楽しかったんだ」
初めて、トロロ以外とまともに旅をした。
そう言ってから、グレースは気まずそうな顔をした。
「ああ。色々大変なことがあったのに、楽しいなんて言ったら良くないか」
「いいえ。私も楽しかった」
イムは目を細めた。
「私はエルトナ大陸の魔瘴問題が落ち着くまで、ここを本拠地にするつもりです。でも任務の手が空いた時や、問題の解決策が見つかる時が来たならば、また二人と旅をしたい」
「ああ。また一緒にパーティーを組もう」
エックスは大きく頷いた。
「何かオレにできることがあったら呼んでくれ。駆けつけるから」
「ふふ。じゃあ、甘えようかな」
はい、とイムは鞄から平たいものを取り出し、エックスとグレースに渡した。
それは、カミハルムイの都が描かれた紙だった。
「これ、新しく売り出したカミハルムイのご当地便箋じゃないか」
グレースが便箋を日に翳す。
エックスが初めて目にするアイテムをしげしげと眺めていると、エークスが喋った。
「綺麗な手紙だね。でも今これを僕らに渡したら、肝心の君が手紙を送れないよ」
「まだ同じものを持っているので大丈夫」
イムは鞄からもう一枚取り出した。
「用がある時は、この便箋で手紙を書いて送りますね。大丈夫。あなた方がどこにいても、郵便局所属のお知らせドラキーが、手紙の届いていることを教えてくれますから。手紙が届いたことが分かったら、最寄りの郵便局に行ってみてください。受け取れるはずですから」
どういう仕組みなんだ。
エックスは手紙そのものを使ったことはあったが、ご当地便箋も、旅人に届くと言うシステムも初めてだった。
よく分からないが、まあいいやと思い直した。エークスが知っているようだから、二人きりになった時に聞けばいい。
「今渡した便箋は、もらってください。私からの餞別です。グレンで無事に過ごせるよう、祈ってますよ」
「ありがとう」
グレースは笑った。
「何も用事がなくても送っていい?」
エークスが問うと、イムは頷いた。
「もちろん。旅先で新しい便箋を見つけたり、絶景の写真が撮れたりしたら送ってください。何も文字を書いていなくてもいいですから」
「いいんかい」
「それって手紙なの?」
グレースが笑い、エークスもつられた。
イムも口元に手を当てて笑う。
和やかな笑いに包まれた空間に、ひらひらと桜の花びらが舞い落ちてくる。
それを目で追い、睫毛を伏せたグレースが言った。
「懐かしいな。こうしてると、平和に友達と過ごしてた頃みたいだ」
「え、友達だろ」
エックスは目を瞬かせた。
イムとグレースは、束の間顔を見合わせた。その後、神妙な顔でイムが手を差し出してきた。
「エクスさんがそう言うならば、友達ということで」
「ええ、何で握手するの? いや、そうじゃなくて」
流されるままイムと握手した後、グレースにハイタッチを求められて応じる。
それから、エックスはいやいやと話題をもとに戻す。
「二人とも、友達だと思ってなかったのかよ」
「仲間だとは思っていましたよ」
「同じじゃね?」
「エクスって、一度肩組んだら誰でも友達って言うタイプ?」
「何だよ、そのたとえ」
「ただいまでごじゃりますモン」
そこへトロロが帰って来た。
エックスは助けを求めた。
「なあ。友達と仲間って同じだよな」
「エクス殿は垣根の低いお人でごじゃりモンなあ」
「嘘だろ!?」
三人と一匹はその後、日が沈むまで喋り倒した。
そんな彼らの頭上へ、カミハルムイの桜たちはずっと、言祝ぎの紙吹雪のように花弁を降らし続けていた。
(了)