ひとりとたくさん




 流通経済論の受講を終えて教室を出たキラナは、扉を出てすぐ、こちらをまっすぐに見据える双眸に気づいた。
「キラナさん」
「ナインだ。どうしたの?」
 少年が彼女を呼ぶので、キラナも笑顔で応じる。
「今、お時間いただけますか?」
「いいよ」
 今の講義が今日の最後だった。この後、アルバイトやゼミの頼まれごとは入っていない。
(すごい偶然。そういえば、前に冒険部に行った時もそうだったっけ)
 キラナは思い返す。あの晩以来、冒険部には顔を出していない。
 二人は横に並んで歩きだした。どこに行くのか尋ねると、どこにも行かないと返ってきた。
「話がしたいだけです。話ができるならば、どちらでも」
「食堂でもいい? 今、海底強歩部の新歓コンパやってると思うけど、隅くらいなら貸してもらえると思うよ」
 すると、ナインは少しだけ眉根を寄せた。
「あまり賑やかですと話をしづらいので、できれば静かな場所の方がありがたいです」
「なーんだ。行き先あるじゃん。じゃあ、私の知ってる、とっておきの静かな場所に行こうよ」
 キラナはナインの手を引いた。
「誰にも言っちゃだめだよ。あと、移動してる間は話さないでね。」
 彼女はいつものルートをたどる。
 普通科棟の、一階の隅。
 誰も寄りつかない経済構造学教室のタペストリーをめくり、指輪をとある箇所にはめ込むと、壁を通り抜けることができるようになる。
 左右に永久蝋燭の灯った煉瓦組の通路を行く。繋いでいる手が時折軽く引かれるので、振り返ると、ナインが目を輝かせてあたりを見回していた。好奇心が刺激されて周囲を観察せずにはいられないのに、一言も発さない彼の姿を見て、キラナはくすりと笑う。
 やがて壁につき当たる。キラナは入った時と同じ要領で壁の細工を動かし、外に出た。
 ナインはぐるりと頭を巡らせる。
 背後にはルティアナ学園の外壁がそびえ、眼前には森が広がっている。
「ここは。ルティアナ学園の裏ですか?」
「そう。授業で行く、空間を移動して向かう女神の森とは違う、ルティアナ学園の裏手にある森だよ。研究室の助手とか、准教授とか、学園の職員とか。そういう人たちが必要な素材を手に入れたい時に、この抜け道を使って森に来るんだ」
「僕を通してよかったのですか?」
「うん。学園の職員に承認されている人がいないと、通れない道だから。それから、ナイン君はこの道を悪い目的で使う人じゃないって、信じてるもの」
 キラナはナインの手を一度強く握って、離した。
 二人は森の中を少し進む。真新しい切り株が二つ並んでいたので、そこに腰かけた。
「さて、お待たせ。何のお話?」
「冒険部に入部しますか?」
「直球だねー」
 キラナは噴き出してしまった。
 ナインは唇に緩やかな笑みを浮かべ、彼女をじっと見つめていた。
 出会った日と、まったく同じ表情だ。実際に笑っている心情なのかどうかは、分からない。
 そのため、キラナも大笑いはせずに話し始めた。
「学園新聞、見たよ。私は冒険部の求める基準を満たしてるの?」
「はい」
「そっか。さしづめ、この商売人としての天賦の才能とコミュニケーション能力の高さと、ポジティブさを買われてるってところかな?」
「加えて、危険に臆せず立ち向かえる度胸と、冒険部への興味を持っている点です」
 少しおどけてみせたものの、静かに認められた。
(冒険部への入部希望を持っているではなく、冒険部への興味を持っている、か)
 キラナはもう少し、ナインと話してみたくなった。冒険部での一晩の冒険の間、キラナはナインとあまり話していなかったのである。
「ごめんね。お返事する前に、ナインにいろいろ聞いてもいい?」
「何故でしょうか」
「もし入部するなら、同じ部活の仲間になるんでしょ? じゃあ、相手のことを知りたいって思うもんじゃない」
「そうですか」
 ではどうぞ、とナインは言った。
 ではどうぞって。機械か。
「ナインは、どうして冒険部に入ったの?」
「まだ知らぬアストルティアのことを、できるだけ多く知りたいと考えたからです」
「就職してからでもよくない? 社会人の方が、お金を得られれば自由だよ? 物を知らない子供って扱いもされないし、馬鹿にされないよ?」
「物を知らない子供は、いてはいけないものでしょうか」
 ナインは呟いた。
「子供が迷惑がられる原因はもちろん、無知ゆえに、生命などの取り返しのつかないものを失う危険さがあるからでしょう。一方で、長い時をかけて大きくなった子供たち、もとい大人たちが築き上げてきたもの──たとえばルールや信条のような、安心を得られるもの──を、現在の子供たちは無分別に否定し、破壊するからという理由もあるのではないでしょうか」
(えーっ、どうしよう。ちょっとナインのことを知りたかっただけなのに、すごい真剣に考えた答えを返されてる)
 キラナは迷った後、腹をくくる。
 仕方ない。聞いた側の責任として、区切りのつくところまでは話を聞こう。どこかで区切りをつけられそうなら、つけてもらおう。
「まあ、確かにそうかもね。会社の新人教育も、考え方次第では、先に生きてきた大人のルールを守って、安心できる人間関係を築いてちょうだいねって意図のものに、とらえられなくもないかも」
「はい。最初から全てを知る大人はいるでしょうか。そして、最期に全知になれたという大人はいるでしょうか。女神ルティアナすら、息子ナドラガの慢心と破滅を予見できなかったというのに」
「神話も語れるの? すごいなあ。私、全然知らないよ」
「そうですか。独りよがりなたとえをしてしまいました。失礼しました」
「いいよいいよ。私こそ、乗れなくてごめんね。ところでナイン、入部の理由は?」
「はい。自分がどこへ出て行っても迷惑をかけない、全知の者になれる時は来ないでしょう。さらに、全知の者など世界そのもの以外にいないでしょうから、今できる研究を、社会に出る前に自由にしたいのです」
 ナインは答えをまとめた。キラナは眉を持ちあげた。
「馬鹿にされるのは、気にならないんだ」
「僕が原因の問題が生じているようならば解決を目指しますが、単に僕をけなしめることで相手が安堵できるならば、それは問題ではありません」
(こいつ、恐ろしく自分が強いなー)
 キラナがあきれと感心の入り混じった感情でどういう顔をしようか迷っているうちに、ナインは続きを話し始めた。
「社会に出て役目を得れば、どうしてもその制約がついてまわります。たとえば、伴侶を得て家庭を築いた男がいるとします。彼はこれによって『夫』という役目を得ます。子を成せば、『父』という役も──ああ、もちろん『妻』『母』でも問題ありません。ここではあくまで、社会の役目の話ですので。ジェンダーギャップまで取り上げると、さらに話がこみ入りますので今回はおいておきましょう──得るでしょう。『夫』もしくは『父』となった彼は、各国や現地の倫理に従い、伴侶としての責任をまっとうすることで社会に迎えられます。妻を放棄すること、子を育てないことは許されません。できるにはできますが、社会や家庭──要は、彼の所属する共同体──がそれを許しません。やがては、役目をこなさなければ家庭を築く中で得た相互補助関係を捨てることに繋がります」
「ちょっと、ちょっと待って」
 キラナは頭を抑えた。
「家で良い夫、妻みたいな顔して浮気してて、それがバレても相方が許して家族を続けてる場合もあるっていうよ? 親が育てなくても独り立ちしていく子供も、子供を捨てて普通に生きていける親もいる」
「ええ。ヒトは、たった一つの相関関係にとらわれずとも、生きていけるものですから。相互補助関係が崩壊したなら、別の相互補助関係を作ります。と言っても、これはヒトだけでなく、全ての生物に言えることです。一つの平原の草を食べつくした牛は、別の草原へ移ります。仮にこれまでに食べてきた草がなくなったなら、別の食べられるものを食べて生き延びる。食べられなかったなら、死にます。生物の普遍的な理です」
 ナインは首を横に振る。
「よく勘違いされる方がいらっしゃるので、念のため言います。僕は不義を推奨する、もしくは夫婦としてのモラルを遵守することを推奨するわけでも、家庭や職場のような共同体を抜けよ、もしくは守れなどと言っているわけでもありません。僕は、これまでに見てきた現象の話をしています。僕が語るのは、多く、僕の見かけてきた理のことです」
「うーん。なんとなくわかった気がする」
「話をもとに戻します。僕は、社会である役目につくこと自体に、抵抗はありません。生物同士相互補助をするのは社会の仕組みであり、生物の生存システムにも組み込まれています。その成果が今日の文明の栄華につながっているわけですから、受け入れないわけがありません。まして僕が働くことで誰かの役に立てるのなら、大変喜ばしいことです。しかしその前に、今の、ただの学生としての自分で挑めることをやってみたいのです」
 要は、研究のためにのびのび動き回りたくて、冒険部に入部したということか。
(ナインならば、社会に出て誰とも関係を結ばずに生きていけそうな気がする。っていうか、むしろ社会で誰かと組んで動くイメージがないわ)
「ナインって、いつもそういうこと考えてるの? 社会学の講義みたい」
 キラナが問うと、ナインは頷く。
「ええ。目の前にあるものの仕組みを考えて、仮説を導き出してから、原則それを言わずに相手の求めていそうな回答を言います」
「仮説はどこに行ったの?」
 ついツッコミを入れてしまった。
 ナインは首を傾ける。
「仮説は僕の頭の中にしまっておくか、その話をしてもよさそうな人に話して、語り合います。だって、目の前にいる相手は、僕の仮説を確かめるためにいるわけではないでしょう?」
 キラナは驚いた。
 彼の口から相手を慮る言葉が出てくるとは、予想していなかったのだ。
 ナインは肩をすくめた。
「僕にも、自分の現在の人間関係から過去の失敗を推測する思考はあります」
「多分、周りからは人に何も興味を持ってないんじゃないかと思われてるよ」
「そうですか。それがある種事実であることは否定しきれませんが」
「しきれないんだ」
「妄信は大敵ですから」
「まあ、そうね」
「ともかく。実際僕はおそらく、自分が全ての生物を愛しているのだと、解釈しているのですが」
「急に話がでかくなりすぎじゃない?」
「ですが、そうとしか言いようがないので」
 すべてが愛しいのです、と彼は目を細めた。
「眼前の他者を愛し、知りたいと思うからこそ、その有り様を僕のはたらきによって歪めるのは本意ではありません。ですが、僕は自分の在り方を気にしないので、他者が何をもって僕を自らの有り様を変える脅威であると感じるかを察するのが難しいのです。さらに、僕が何かを本当に愛せているかどうかも、疑わしいと思っています」
「自分がいい恋愛ができてると思ってて、相手といい関係でいられるなら、それでいいじゃん。あれこれ頭を使う必要なんて、ないよ」
 キラナは返す。
 ナインは首肯する。
「キラナさんは、潔い方です」
「ふふん。でしょ?」
「あなたは周囲の状況を見て、全方面に波風が立ちづらく、かつ人道的な選択をすることに長けていらっしゃいます。強く自身を持っていますが、己の感情や利益を、交渉の第一の原動力にしません」
「なに? 急にすごく褒められてる」
「事実ですよ。僕は自分の主観の入らない、純粋に見てとった現象を語るよう、心掛けていますので。良くも悪くも忖度がないと言われます」
 キラナが戸惑っていると、ナインははっきりと笑いかけて見せた。
「褒められたら、アンタがすっごい美少年に見えてきたわ」
「そうですか。それはともかく」
「いやいや、その前に。今のは『ありがとう』って言っとくといいと思うよ」
「はあ。では、ありがとうございます」
「あっ。別に私に対しては言わなくても良かったんだけど。無理強いしてごめんね」
「いえ。個人の価値観を聞けると大変勉強になります」
「話を戻そうか」
「はい」
 二人の目線の先、木立の間を影がよぎる。目を上げて見れば、鳥が飛んでいくところだった。ルリイロヒタキです、とナインが言った。
「ともかく、僕の言う『愛』は『恋愛』のことに限定したものではありません」
「あ、そうなの」
「本能的な愛ですから。愛着というものではないかと推測しています」
「へえ」
 掘り下げると長くなりそうなので、相槌だけにした。
 もう話は、既に十分長くなってしまっているのだけど。
「生き物の形も、生きる環境も多種多様です。どうして思考だけが、皆統一されることなどありましょうか。ですが、それにしても僕は、平均よりはるかに素直なところがありながら、はるかに偏ってもいると、自覚を得てきました。僕の気質は、愛着は、知らず誰かを傷つけてきたのでしょう。過去の言動はもう変えられませんが、せめて今この時は、気をつけたいと考えています」
 キラナさん、とナインは彼女に向き直った。
「部活動も、愛着に組み込まれていくと思いませんか」
「思ってたんだけど、学園のみんなは部活に期待しすぎじゃない?」
 ナインは目を丸くした。
「キラナさんがそのような考えをおっしゃるとは、意外でした」
「私だって、言うつもりなかった」
 分かっている。今の台詞は、聞く人によっては激怒するだろう。
 ルティアナ学園の部活動は、一定の部員数さえそろっていれば、各自がのびのび遊んでいいのだ。他人のものを盗む、教室で乱交に励むといった公序良俗に反することさえしなければ、何でもありである。
 だからこそ、この広いキャンパスで、思う存分満足がいくまで、いろんな人といろんなことをやってみたいと考えている学生が多い。
 それ自体は、いい。
「部活に入ったことがない私に、いい部活のあり方なんて言う資格はないと思う。元々、部活動もあまり好きじゃないから、なおさらね。でも私は、冒険部についてあれこれ文句を言う学生たちを眺めていて、冒険部もそういう部活になったらどうしようって考えたら、なんだか嫌な気持ちになった。それでこれまで、授業とかバイトとかしながら、ずっと距離を取って考えてたの」
「どうしてですか? あなたは、冒険部に入りたいと言ったことはなかったはずです。そこまで感情移入をする要素は、見当たらないように思いますが」
「はっきり言うね。でも、その通りかも。冒険部のためじゃなくて、完全に私の趣味かな。ここまで言ったからには、説明するよ」
 ナインは頷いた。
 キラナは学園の城壁の、そのさらに遠くを見つめる。
「私、両親がいないんだ。父の顔を見たことがない。母は私たち姉妹を生んですぐに死んだ。物心ついた頃には、孤児院にいた。孤児院のものはみんな共用だったけど、だいたい我の強い子、喧嘩が強い子が占領したがった。仕方ないんだ。だって孤児院には、世話を焼いてくれる大人はいたけど、『あなたが一番』って子供一人一人を抱きしめてくれる人は誰もいなかったから。みんな、自分だけのものが欲しかった。
「子供は、大人がいる前では子供の顔をしてるだけで、根っこのところを見れば一丁前の顔をした人間なのよ。周りをよく見ていて、自分の利益になりそうなことには敏感で、派閥だって組むわ。孤児院では、大人に自分たちをよく見せるために、子供たちは徒党を組んであれこれ画策した。好きなおもちゃを好きなだけ使えるようにしたいとか、他の子のご飯の取り分を減らして自分の分を増やそうとしたいだとか、そういうしょうもないけど、切実なものばっかりだった。
「私は他の子たちが、顔を分けて、おだてたりけなしたりするのを見るのが嫌だった。なんでみんな、自分より力のある誰かに頼って自分の願いを叶えようとするんだろう、普通に相談しに行けばいいのにって。孤児院のみんなが群れては割れてを繰り返す、その様子を見て、私はみんなで動くのが嫌になった。早く孤児院を出られるようになりたくて、自分のやりたいことは自分でやれるように頑張ったよ。でもこれも、私には仲のいい妹がいたからできたことなのかもしれないけどね。そう考えれば、私も、自分一人でできるようになったわけじゃないんだ。
「ルティアナ学園を選んだのは、ここならば学費を免除してもらえるし、寮に入れてもらえるから。授業も魅力的だったからね。だって、必要なことをして成果を示せば、私の好きなように何を学んでもいいんだもの。アピール上手が力を持つ孤児院と比べて、天国だった。
「でも、部活だけは入れなかった。なんでなのか分からなかったけど、授業やアルバイトで友達もできたから、あんまり気にしないでいたんだ。楽しかったんだもの。はっきりしたつながりがなくても、一緒に楽しく過ごしてくれる人がいれば、それでよかったんだ。
「冒険部に出会うまでは、ね」
 キラナはナインへ視線を映した。
 自分と似た暗い色の瞳は、じわじわとせまってくる夕闇のせいか、黒檀のように見える。
「ナインにこの話をしたのは、君が私と同じで一人なのを自覚してると思ったから」
「キラナさんには、友人がたくさんいらっしゃいます」
「そうだね、ありがたいよね。でもね、友達がいるのと私が『一人』なのは別だよ」
 キラナは足をぶらぶらさせる。
 ナインはその様子を見下ろして、程よい筋肉のついた足だと思った。フットワークも良さそうだ。
「私、ゼミでもバイトでも、なるべく一緒に組む相手のいい面を見てやっていきたいって思ってるんだ。それに誰かの悪口を聞くのが苦手だから、冒険部に来るまで君のことを知らなかった」
「それほど、僕にはマイナスイメージがついてしまっているのですね」
 ナインは苦笑した。
己の評判がよくないことは知っていたが、そこまでのものだと知ると、改めてこれまでの自分の行動を反省したいと思う。実際反省しようと思って、自分の噂をする人に意見をくれと言ってみたこともあるのだが、いまだ意見は来ない。
「あ、ごめんね。何を言われても気にしないっていうから、言っちゃった」
「構いません。むしろ、今後の身の振り方の参考に、あとで詳しく教えてほしいくらいです」
「ブレないなあ」
 キラナは笑った。
「ティエちゃんのポスターを見て、この人は他人のいうことを気にしない、自分を強く持った人なんだろうなーって、冒険部に興味を持ったの。ローレ君に会って、あんな育ちのいい子がいるんだなって、いいなって思った」
「そのローレさんが、少し前に何度かキラナさんを探しに来ていたと思うのですが」
「えっ、うそ。それは本当にごめん。試験勉強とバイトに集中してた」
「僕もローレさんに詫びたいことがあるので、あとで一緒に行きましょう」
「そうする」
 キラナは額に手をあてて、やってしまったと後悔していたが、ややあって続きを話し始めた。
「団結力が強いっていう技術科の縄張りに近づくのは怖かったけど、聞き込みを兼ねて科の人たちと話をしてみて、親しみやすくて、すごい技を持ってるけど普通の人たちだってわかって、安心した。ルアム先輩にはすごく警戒されるのが伝わってきたけど、それだけ技術科のことを思う気持ちが強いんだろうなって思った。入り込んだ絵の中で、ピペちゃんが何も気にせず絵を描いてたのも面白かったよ」
 冒険部への気持ちをなんといったらいいのか。
 キラナはまだ迷っている。
 あの晩そろった面々は、みんな本気で、持てる限りの力を使って、失踪したピペを含めた全員での帰還に挑んでいた。
 あれは、それまでキラナのイメージしていた部活と違った。
 どういうものなのかよくわからなかったけれど、こういう部活ならば入ってみたいと思ったのだ。
「本当はすぐに入部しに行こうかなって思ってたんだ。でも、炎上したでしょ。それで一度、様子を見ることにしたの」
 冒険部周辺のいざこざの情報を追うのは、キラナにとってつらかった。
 しかし、あの魅力がありそうな集団がどうなるか、目を逸らすこともできなくて、うわさを集めた。
「確かに、ティエちゃんのやり方は多少強引だったかもしれないし、ルアム先輩の冒険部の宣伝が、本人の影響力もあって予想以上に冒険部をすごく見せちゃったところもあるかもしれない。今回の件は、ティエちゃんを中心とした冒険部のメンバーと、ルアム先輩と、その他の入部したかった人たちと、その周辺の直接はかかわりのない人たちの、よくある、ミスコミュニケーションかなって。私には、そう見えた」
「そうかもしれません。それから、ティエさんとルアムさんの、方向性の違いでしょうか」
「へえ、そう。どんな?」
 ナインはこれまでにあったことを話した。
 キラナは目を丸くして聞いた。
「まだ部活結成したかしてないかっていう時期なのに、もう考えの違いが出てるんだ。早いね。でも、二人も部活に所属し続けてるってことは、どちらにもそれだけの思い入れがあるってことかな。私には、どちらの事情もうまく想像できないけど」
 キラナだったら、他のメンバーとの活動の方向性の違いが大きくなったら、衝突が起きる前に話し合って辞めているだろう。
 自分と目指す方向性が異なる相手とのつながりも大切にしたいから、致命的な決別に至る前に、穏便に別の道を歩むことを選ぶのだ。
「言い争う相手がいても、冒険部を存続して所属し続けたい強い意志や理由が、お二人にはあるのでしょう」
「やっぱり私、部活動向きじゃないんだなあ」
 キラナは溜息を吐いた。
 ナインは首を傾ける。
「そうですか」
「学園に入学した時から気づいてはいたの」
 新入生部活動歓迎期間の、周りの空気。
 知り合いの付き合いでいくつか見学はしてみたが、行けば行くほど、あの空気と自分との温度差に気づいた。
「みんな、部活動に大きな期待を持って入部していくんだよね」
「そうでしょうか。なんとなく楽しそうだからという理由もよく聞きますけれど」
「それも、大きすぎる期待だと思うの」
 キラナはナインに人差し指を向けた。
「受け身すぎない? 新しい友達を作りたい、なんとなく楽しそうなものでヒマをつぶしたい、ときめきがほしい──どこかから、自分を満足させてくれる何かが来ないかなーって。部活は、プロが演出するテーマパークじゃないし、入部者はお客さんじゃないんだから。ゼミとか職場とかと同じ、何か目的があって活動するための集まりでしょ。自分が何に満足できるかもリサーチしてないのに、適当に所属した部活に都合よく自分の好みのものが集まってくるかなあ?」
「統計を取ってみないと分かりません」
「それで、自分の予想より面白くなかったり、楽しくなかったりしたら、どうするか。その部活が悪い、部活を紹介した人が悪い、って文句を言う。その部活に出会うことで気づいた、自分にとって楽しくないものをもとに、次の楽しそうなこと、ためになりそうなことを探せばいいじゃない。楽しくなかった部活について、楽しくなかった人同士けなし合えば、多少は鬱憤が晴れるだろうね。悪口を言い合う連帯感も生まれて、楽しいだろうな。でも、やりすぎは時間の無駄じゃない? ずっとマイナス面ばっかりみて盛り上がる人間関係で生きていくの? いや、それ自体はいいよ。そういう楽しみ方とか、味方が大事な時もある。弱音を吐ける関係性の友達は必要。言い方や言う相手を間違えるとやばいこともあるけど、一緒に愚痴を言える友達がいるって、健康のためにも大事。だけど、その発想だけを軸にして楽しく生きていくのは、難しいと思う」
 キラナは立ち上がって両腕をかかげ、伸びをする。
「学生生活、居場所も楽しいこともいっぱいあるでしょ。バイトすればお金がもらえるし、いろんな仕事を知れる。貯めたお金で旅行に行くのも楽しいよ。他の部活をかけ持ちしたり、ボランティアしたり、学外の団体と関わったり、忙しいけど楽しいことに会える可能性も高くなる。たった一つだけの部活にこだわる必要って、きっとないと思うんだ」
「キラナさん」
 少女は振り返った。ナインは座ったまま、彼女を見上げて言う。
「なに?」
「社会経験のあまりない学生に、その発想は厳しいと思います」
「そうかな?」
「人は未知を恐れます。変化も未知の一つです。いくら若者とは言っても、知らない場所に踏み出すのを恐れて一人で動けないのは、生存本能なので仕方ないかと」
「期待しすぎないっていうのも、難しい?」
「主観ですから」
「そう」
 キラナは目を伏せた。
 地面が少しずつ、見えづらくなってきている。
 日が落ちきってしまう。帰らないと。
 そう思うが、キラナを見つめる漆黒の双眸は、落ちることなくこちらを見据えるので、もう少しだけ話したくなってしまう。
「受け身な期待ばっかり大きくて、それでいて思うようにいかなかったらけなすだけの人たちが、私は許せなかった」
「はい」
「そんなにみんな強くないんだって、分かってるんだけどね」
「そうですか」
「ああ。分かってきた気がする。これ、嫉妬なんだ。私も本当は、ぼーっとしてるだけで誰かが幸せにしてくれる、そういうのが欲しい。でも、待ってるだけじゃ来ないって知ってるから、いつも動いてる」
 だから、憧れるんだ。
 何も見えない行く先へも、突き進もうとする背中に。
 キラナは、立ち上がったナインに正面から向き合う。
「私は冒険部のみんなのこと、全員好きでいると思う。というか、こう言うとティエちゃんがショック受けちゃうかもしれないけど、冒険よりも、いるメンバーが気になってるから。あのメンバーありきで私は活動したい」
「大丈夫です。きっと、ショックは受けないと思いますよ」
「一枚岩にはなれないかもしれない。意見が違うのは、リーダーのせいでも部員のせいでもない。人が集まったら仕方ないこと。無理に仲良しこよしさせる気はないわ。でも、あまりに割れるようならば、私は退部する。さっきも言った通り、私は部活にこだわって所属できないから、程ほどの仲の部活じゃないと頑張れない。そんな部員がいても、足を引っ張るだけだろうから、潔くやめるわ。仲が割れきっちゃう前に距離を置きたいし、むやみに対立するグループに所属するのは趣味じゃないし、協力し合う人たちのことはみんな好きでいたい」
「それは僕も同意見です」
「え? ナインもやめるの?」
「いえ。僕は冒険部が続くなら、よほどのことがない限り、所属し続けると思います。無くなったとしても、ティエさんとは世界研究について語り合う関係性を保ちたいですね」
「ブレないなあ。で、何が同意なの?」
「僕も程よい人間関係の部活動に所属したいということです」
「そっか。じゃあやっぱり、ナインに話してよかった」
 キラナは笑みをこぼした。
「じゃあ、改めて。連絡も全然してなかった上に、めちゃくちゃに要望が大きい候補生なんだけど、今からでも間に合う?」







 次の日。
 冒険部の部室に、ひときわにぎやかしい女の声が響いた。
「やったー! ダメもとで申し込んでみるもんだわー!」

 これが、堅実な少女が、奇妙なポスターを見かけたところから始まった、初めての冒険の結末である。
 その先の道は、まだ誰も知らない。