野良の士








 アレフレッド・ヴァン・トラウゴットは奇妙な家で生まれ育った。
 彼の家は、ガライの町にほど近い森の中にあった。交流をしないために客人が訪れることは滅多になく、行商人の類いなど全く来ない。
 必要な物資は全て森で得た。金だけは森にないので、近隣の集落の警備をし、魔物を倒して稼いだ。自然の知識は母が、戦う術は父が教えてくれた。
「トラウゴットの旦那。お疲れさんでした」
「アレフちゃんは、戦うのがうまいねえ」
 たまに外に出て会う集落の人間は、彼らからすれば余所者のはずのアレフ達を丁重に扱った。
 稼いだ金は、森にないものを買うために使われた。だが森にないものはあまりなかったので、滅多に使わなかった。集落の方から警備を頼まれることもあったので、金には困らなかった。
 家は、外壁が黒ずむほどの時を帯びた古いものだった。二階建てで大きい。両親はこの家を、魔法の家だと言った。修繕をしなくとも、森の魔法が家を生かしてくれるのだという。
 部屋がたくさんあった。稽古用の模型がある部屋。水鉄砲や綺麗な丸い球が転がるおもちゃの部屋。かつてはもっと人が暮らしていたのだろうか。両親はあまり昔を語らなかった。
 アレフはその中でも、父の部屋からだけ行ける小部屋が好きだった。本がたくさん平積みにされているだけの物置なのだが、置かれている本の中身が面白かった。
 それは、勇者ロトの伝記だった。アレフは少しだけガライの町に行ったことがあって、ロトの伝説は知っていた。
 吟遊詩人が歌う内容は、天から降りてきた勇者ロトが闇を討ったということを、豪奢な言葉の装飾でひたすら飾っただけの空虚なものだった。
 しかし、小部屋にある本は違う。勇者ロトは天人ではないということ、別の世界に住んでいたということ、彼の旅路、仲間のこと、迫る闇の正体のこと、戦いのこと。詩人のような美しい言い回しではないかもしれないが、それを書いた誰かの体温が確かに生きているように感じられた。
 伝説をもとにして書かれた妄想だろう。ロトの書いた自伝があるならば、ガライの町の詩人たちが放っておくわけがない。
 妄想だとしてもいいと思った。この森しか知らないアレフには、十分な娯楽だった。
 それでもアレフは、書き出しのフレーズを何度も見返した。
『光があるところに闇はある。この記録は光のもとに晒すには適さないので、闇にしまっておこう。これを見つけて読む君の心にだけ、光を届けられるならば、それでいい』
 これが、実際のことだったら。
 そんな妄想を、寝る前に何度も膨らませた。








**



 十一歳の時に、珍しく遠出した両親が体を崩して帰ってきた。原因不明の症状が続いて治らず、寝たきりになった。
 ある日、両親はアレフを呼んだ。ずっと青ざめていた顔が、その時だけは容態が落ち着いて、やや赤みの差した頬をしていた。
「じきに闇が訪れる。そうしたらお前は、この家を出て、ラダトームの城に行きなさい」
 父と母はどうするのか、尋ねた。両親は微かに笑っただけだった。
「ラダトームの王は神の奇跡を代行されている。王に忠誠を誓えば、魂までは魔の者に取られずに済むだろう」
「アレフはしっかりしてるから、何があっても生き延びられるわ」
 薬草を取り替えようとアレフは言った。気が弱くなっているのだと思った。
 額に乗せた布から古い薬草を除き、冷たい水で布を清め、聖水につけておいた新しい薬草を挟んで額に乗せ直した。作業が終わると、両親はあかぎれだらけの彼の手を握った。
 強いお前を誇りに思う、と父は言った。
 優しいあなたが好きよ、と母は言った。
 翌日、両親が亡くなった。家の裏手に先祖の墓があるので、そこへ埋葬して、家にはアレフ一人になった。
 不思議と、森の外に出ようという気にはならなかった。生活の全ては森と家の中で完結していた。森の外に出るのは、人から呼ばれた時だけでいい。
 アレフはこれまでと同じ生活を続けた。森で食物を用意し、剣の稽古をして、夜にはロトの物語を読んだ。
 己は強いのだ。自分一人程度のことならば、苦もなくできる。
 彼はそう思っていた。






***



 両親が死んで五年が経った。
 ある夜、アレフのベッドの上に知らない男が腰掛けていた。
「こんばんは、アレフレッド。お邪魔してるよ」
 アレフは護身用の短剣を抜き、何者なのか、また何をしに来たのかを丁重に訊ねた。
「実体のない相手にそんなことをしても無駄だよ。ほら」
 男は刃を右手で掴む。血が出ない。
「俺はこの家の記憶であり、魂の欠片でもある。君が俺の造ったこの家に住み続けてくれたおかげで出てこられた、君の血から派生した存在だ」
 いや、逆かも、と彼は目を細めた。
「俺は君の先祖。かつてロトと呼ばれていた」
「戯れ言で誤魔化そうとするな」
「いーや。君は俺の子孫で、俺はロトだ」
「ロトはゾーマを倒した後行方不明になった。俺の家はただの百姓だ」
「ロトはゾーマを倒した後、ただの農夫になったのさ。ラダトームに残って目立つようなことをしたら、面倒なことになるばかりだからね」
「出鱈目を言うな」
「嘘じゃないよ」
 どう返そうか考えていると、男の方が先に口を開いた。
「なら聞くけど、どうしてただの百姓であるはずの君の家には剣術や魔法が伝わっているんだい? どうしてロトの伝説に関する書物がいっぱいあるんだい? おかしいと思わないか?」
 返事に詰まる。それは、アレフも胸の内に抱いてきた疑問だった。幼い頃から楽ではない農作業の間を縫うようにして剣の手ほどきを受け、魔法の理論を教わった。正直、一農夫がここまで戦う術を身につける必要はあるのか、疑問に感じていた。勿論、倉庫に山と積まれたロトの書物の意義も。
「教えてあげようか。君達に代々戦う術を伝えるようにしたのは、戦うべき者が現れた時のためだ。そして伝説に関する書物を多く遺したのは保身と、君達にロトというものについて知っておいて欲しかったから」
 こっちにおいでよ、と男は滑るように家の中を移動する。居間にある暖炉のもとへ辿り着き、かがみ込んで、煉瓦を三つ指さす。
 アレフがその通り押すと、煉瓦が震え始めた。壁の中央に亀裂が入り、向こう側に小さな石造りの部屋が現れた。中央に台座の上に、古い銀のサークレットが収めてある。内側に小さく記された文字を読み、アレフは目を剥いた。
「我が子……が健やかに育つことを願って……オルテガ」
 オルテガはロトの父だ。広く伝わるロト伝説にその名が出てくることはないためあまり知られていないが、彼もまた勇者と呼ばれた男だった。
「生前ここに隠したんだよ。思い入れのある品だから捨てられなくてね。君にあげるよ。俺の血を引いているし、もう装備できるはずだ」
 男はサークレットの宝玉に手を添えた。
「俺の真似をして、言うんだ」
 導くままに、そっと半透明の手の上に自身のものを重ねる。彼は流れるような言葉を紡いだ。アレフの知らない言語だった。その通りに口を動かすと、宝玉が眩い光を放ち夥しい量の精霊文字が迸り出る。耳鳴りがする。白に近い青の文字の羅列が身体に絡みつき、思わず目を瞑った。
 鼓膜に響く音が消え、目を開くと宝玉はもう光っていなかった。男は台座の縁に腰掛け、くすくすと笑っている。
「つけてみなよ。きっとぴったりなはずだ」
 アレフは恐る恐るサークレットを持ち上げた。予想より軽い。癖毛を掻き上げて装着すると、額にぴったり馴染んだ。
「さあ、これで君がロトの子孫だって信じてくれるかな?」
 男はアレフの顔を覗き込む。つい、目を逸らす。特殊な家系にあるということは分かった。しかし、よりによってロトの子孫だなんて。
「まあいいさ。ロトの装備を手にすれば分かる。君の務めに、きっと役立つと思うよ」
「務め?」
「ラダトームに行けばわかる」
「信じられない」
「君がそれでいいのなら」
 言葉の余韻が消えるより先に、彼の身体が粒子状に拡散して溶けていく。
 また一人になったアレフは、額に手を当てた。サークレットの下で、こめかみが熱く脈打っていた。






****



 アレフは家を出た。護身用に使えるだろうと、家の周りに自生していた竹で武器をこしらえ、それだけを持って出立した。なんとなく、もう戻らないだろうと予感して、家から続く小径を振り返れば、道はもう消えていた。茂みが背後を覆い、家の形などもうどこにもなかった。森の魔法の家なので仕方ない。
 ラダトームの城へ向かう途中、アレフは様々なものを見た。まず平野を歩いていて、しばらく外へ出ないうちに訪れたらしい世界の変化を見てとった。どの時間帯でも影が妙に濃く、反面光が褪せている。うろつく魔物の数も多い。
 次に、ロトの洞窟に立ち寄って最奥の碑を見た。ロトの言葉が刻んであり、アレフガルドの三賢人を訪ね、闇を討つための三種の神器を集めよとのことだった。
 最後にラダトームの城下町を見た。城下町という割に建物の数が少なく、閑散としている。聞けば魔物の被害とのことだった。街の中心に戦死者の墓ができており、外れには死にかけた人間が転がっている。
 これは、放っておいてはいけない。アレフはそう思い、城へ赴いた。
 ラダトーム王に謁見を申し出てみると、すんなり通されることになった。案内の兵士に連れられ、生まれて初めて華やかな緋の絨毯を踏みしめる。
 玉座の間に入る。王は栗色の髭を豊かに蓄える偉丈夫で、厳しい面持ちをしていた。言葉なくとも威厳が伝わってきて、アレフはただその前に跪いた。
「アレフ! ロトの血を引きし者よ。そなたが来るのを待っておった」
 唐突にそう呼びかけられ、戸惑った。頭にサークレットはしている。衣も王に会うに相応しく、旅装としてもよさそうなものを選んできた。しかし、国王に会うのは初めてで、まだ何も名乗っていないのである。
 王はこの国の現状を語った。ロトより与えられた光の玉を竜王に奪われたために、世界が闇に飲まれかけているのだという。なすべきは、竜王を倒し、光の玉を取り返すことらしい。
 アレフは拝命し、贈り物を受け取り、部屋の者に話しかけた。
 大臣は王の一人娘であるローラ姫の存在を語った。彼女は半年前に魔物にさらわれた。どうか助け出して欲しいとのことだった。
 近衛兵たちは、旅の心得を語った。人々の話によく耳を傾けること。武器や防具は強いものを買い換えて装備すること。
 それからアレフは玉座の間を辞し、城中を歩き回って人々の話を聞いた。魔物の台頭に対する嘆き、ローラ姫を案じる声、行先への不安。
 可能な限り多くの人々と語らい、アレフはラダトームを出た。そして考えた。
 自分では未だに確信が持てないのだが、ラダトームにおいてアレフはロトの血を引いているということになってしまっている。しかも、何やら仕事を依頼された。
 幼い頃から慣れ親しんできたロト伝説の株は下げたくない。王も期待しているらしい。さらに人々の悩みのタネは、おおかたロト伝説で得た破魔の知識と、武力で解決できそうだ。それならば、多少力になれるかもしれない。
 頑張ってみるか、とアレフは心を決めた。






*****



 リムルダールで鋼の剣を買った。ラダトーム南の洞窟で鉄の盾を手に入れたのをいいことに、調子に乗ってさらに南下したところ、砂漠で見たことのない魔物に出くわして、太刀打ちできずに死んだからだ。死んだアレフの体はラダトーム王の前へ行き、蘇生されたらしい。叱られたが、無理をするなと窘められた。王は優しい方だと、アレフは忠誠心を深めた。
 実は、これまでの人生において、アレフは自分の剣を持ったことがなかった。必要な際は村にあった銅の剣を借りていた。いつかもっと切れ味の良い剣が欲しいと思っていたので、少し嬉しい。
 なかなかに値が張ったので、路銀が心許なくなった。そのため、同時にこれまで使っていた竹竿を売った。
「お客さん。まさか、ずっとこれで戦ってきたのかい?」
 肯定すると、武器屋の主人は白目を剥いた。
 それより、ラダトームから始まり、ガライの町、マイラの村、リムルダールの町と三つの土地で聞き込みを行ったことにより、早くも目的に至るために必要そうな情報が集まってきていた。
 一つ目の目的、竜王討伐のための三種の神器の回収については、うち二つ、太陽の石と雨雲の杖の所在が知れた。太陽の石はラダトーム城に、雨雲の杖はマイラより北西の祠にあるようだ。
 ラダトーム城内については、初めて行った時に立ち入れる範囲をくまなく調べてある。鍵がかかっていて入れない扉が二箇所あったので、太陽の石はきっとその先にあるのだろう。
 雨雲の杖を得るためには、杖を守る隠者曰く、銀の竪琴を持っていかなくてはいけないらしい。ガライの町に行き、気は進まないが詩人の墓に行かなくてはならないようだ。
 二つ目の目的、ローラ姫の救出については、彼女のいるらしい場所が分かってきた。
 ガライの町で、魔物に連れられて南東の方角にさらわれていくローラ姫を見た人物がいた。かつ、マイラの村では、南にある海辺の洞窟で美しい女性の姿を見た者がいるという噂を聞いた。マイラからリムルダールに向かう際、その洞窟を通ってみたが、確かにあの毒に囲まれたうら寂しい場所に合わない頑健な魔法の扉を見かけた。あの先に、もしかしたら監禁されているのかもしれない。
 何にせよ、一度確かめてみる必要がありそうだ。まずは鍵を手に入れるために、この町で鍵屋を探すところから始めよう。
 アレフはリムルダールを散々うろついた。









******



 マイラ南の洞窟に監禁されている女性がいるというのは想定通りだった。しかし、彼女を魔法の扉で監禁するだけでなく、ドラゴンに見張らせていたのは予想外だった。
 立派な体躯と鋭い爪牙を持つ魔物と戦ったことはある。炎を使う魔物や、表皮の硬い魔物と戦ったこともある。
 だが、全てに秀でた魔物と戦うのは初めてである。
 鋼の剣をもってしても削りきれない生命力。手にした盾が軋み、歪むほどの猛攻。爪が血肉を抉る熱さと、回復呪が追いつかない焦燥を知った。
 これが竜族。かつて勇者ロトに光の玉を授けたという竜神とは別の、魔族でこそあるが、天と地と両方に属する生物の特殊性を感じて、アレフは戦慄し、昂揚した。
 鎧を買っておけばよかったという後悔や、でも戦い慣れない装備だったらもっと動けなかったに違いないという想像など、考えることもなかった。
 思考するは、竜と己の間合いのみ。
 竜の純粋な殺意は、アレフの剣に心地よく響いた。命をかけた一筋の志には、同じもので応えるのが礼儀だろう。
 打ち込み、斬り込まれ、気付けば倒れ伏した骸に剣を刺したまま、アレフは放心していた。竜が息絶えたのを認めてからしばらく、現実から離れ、戦闘の余韻に浸っていたのだ。
 初めて、ここまで命を賭けて他者と向き合った。自分の剣に魂をかけて食いつき、打ち負かそうとする相手に、アレフは会ったことがなかった。
 逆手にした剣を引き抜く指が震えた。全てが終わった今頃になってやって来た武者震いと、好敵手を失ってしまった悲しみ。荒く息を吐きながら、アレフは存外冷静に自身を分析した。
 防具がことごとく駄目になってしまった。服は裂け目だらけ、サークレットは途中真っ二つに割れた。装備品は回復呪である程度補修されるようできているが、このサークレットだけは古いから無理だろう。
 仕方ない。それだけの価値がある戦いだった。アレフは溜め息をつき、前髪を掻き上げる。
「勇者様」
 最初、誰のことを言うのか分からなくて反応できなかった。
「もし、勇者様?」
 アレフは顔を跳ね上げた。ここには自分以外にもう一人人間がいたことを、やっと思い出したのだ。
 ドラゴンと戦っていた空間の奥、岩壁の切れ目から女性の顔が覗いている。まだ少女と呼んでもいいような初々しさがあるものの、ドレスの胸元で軽く合わさる指先や言葉遣いに、珠のような品格を感じた。
 女性がつと寄ろうとするのを、アレフは慌てて制した。辺り一帯が血と煤とよく分からない汚れだらけなのに、ドレスの女性をこちらへ歩かせるわけにはいかない。代わりにアレフが彼女のもとへ行く。そこは洞を部屋のように仕立てた独房だった。
「私を助け出してくださる方がいらっしゃるなんて」
 女性はラダトーム王女ローラと名乗り、このままだったら竜王の妻にされていたかもしれないとこぼした。竜は人を妻にできるのだろうか。
 それより、半年近く監禁されて足の弱った女性が、ラダトームまでの道のりに耐えられるとは思えない。足下も悪い。
「お召し物を汚さないよう、お連れしても?」
 アレフは提案した。ローラが頷くのを確認してから、自分に回復呪をかけて傷を治し、衣服を修復する。彼女にその辺りに置いてあった綺麗なマントを羽織ってもらい、片手で腰と足を抱え、腕に座らせるような形で抱きあげた。本当ならば両手で抱えた方がいいが、有事の際に困るだろう。
 これでいいか尋ねるより先に、細い両腕が首に回された。
「まあ、アレフ様。嬉しゅうございます」
 姫は口元を綻ばせる。
 近くに寄せられた顔だけでなく、性格も可愛らしい人だと思った。







*******




 アレフに悩みができた。先日助け出した姫君とどう会話していいか分からないのだ。
 洞窟から救出した日、ラダトームに無事送り届けた別れ際に、【王女の愛】なる謎のアイテムを渡された。アクセサリーのようだが、何故かローラ姫の声で喋る機能がついている。あらかじめ決められた内容を語るわけではなく、どうも今現在の自分の状況に応じて語る内容が変わるらしい。ラダトーム城から離れた場所でこれを使うと、ラダトームから見たアレフの現在地を教えてくれる。立派な魔法の品のようだ。
 そんなよく分からぬすごいアイテムに登録された姫の声は、必ず最後にこう言う。
『ローラはアレフ様をお慕いしております』
 ラダトームの城で直接顔を合わせれば、
「ああ。たとえ離れていても、ローラはいつもあなたと共にあります」
 一番いたたまれないのが、
「アレフ様。貴方はローラのことを想ってくださいますか」
 これを王や大臣、兵士などが居並ぶ玉座の間で言い、さらにはアレフの返事を求めるのだから、たまらない。
 どう答えればいいのだ。半端な気持ちで答えるのもよくないと思い、先日「いいえ」と返してみたが、「そんなひどい」と言われてしまった。罪悪感が凄まじい。洞窟から抱えられて帰った姫を見て、自分もそうやって凱旋したかったと悶絶しつつ転がっていた兵士達に聞かれたら、刺し殺されそうだと思う。
 ローラ姫を救出したことにより、ラダトーム界隈で一躍勇者扱いをされるようになったものの、未だ自分が故郷の知れない人間であることには変わりなく、また本当にロトの血を引いているかどうかも分からない。
 そんな自分が、王国の姫君を想っていると言っていいのだろうか。
 リムルダール南に、最後の神器を司るのだろう「太陽と雨が合わさる祠」というのを見つけて行ってみたが、そこの隠者にはロトの血を引く証拠を持たない愚か者として叩き出された。この扱いの方が当然だと思う。ローラ姫の方が珍しい。
 悩みつつも本来の使命を忘れないアレフは、遙か南のメルキドを訪れた。そこの長老から、ロトの血を引く者のみ手にできるという御印が、アレフガルドから見て北に七十、西に四十の位置にあるという情報を得た。
 場所を確かめるためには、【王女の愛】を使わなければならない。
 メルキドを出て山脈を迂回する形で南下し、そろそろかという位置で起動する。
『アレフ様のいらっしゃる位置は、ラダトームから見て北に六十九、西に六です』
 なるほど、もっと先に進んで良いようだ。毒の沼地に足を踏み入れる。
『ローラはアレフ様をお慕いしております』
「私にはもったいないお言葉です」
 つい、呟いた。いつもならばそれだけで終わるのだが、その日は違った。
『アレフ様』
 【王女の愛】がさらに語りかけてきた。
『なぜ、毒の沼地に入って行かれるのでしょうか』
「……失礼を承知で窺いますが、本物のローラ姫ですか?」
 はい、と【王女の愛】からまた声がした。
「会話ができるとは知りませんでした」
『私が望んだ時にだけ、会話ができますの。アレフ様が望んでくださるならば、いつでもお話し致しますわ』
「ロトのしるしが必要なのです」
『毒の沼地に聖印があるのですか?』
「ロトの遺物ならば、瘴気に侵されることもないはずです」
『まあ』
 アレフはぬかるんだ泥を掻き分けて進んでいく。体力がじわじわ削られていくのを感じるが、まだ回復するほどではない。
『けれど、アレフ様は傷つかれるのでしょう?』
「…………」
 正直に答えれば、姫はきっと心配するだろう。アレフが考える間に、また声がする。
『ローラは、いつもアレフ様のお帰りを待っております。アレフ様がご自身の足でラダトームにいらっしゃるお姿を見る度、ほっとしますわ』
「今、姫はどちらにいらっしゃいますか」
『自室におります』
 ならば、聞いてもいいか。
「貴方は何故そこまで俺を気にかけてくださるのです」
『お慕いする方が気にならない女はいませんわ』
 ここまで言われれば、ただの親しみの感情でないことは察せられた。
「私はただの田舎から来た一兵卒です。姫は、少々私を買いかぶっていらっしゃるかと」
『ふふ。私こそ、それなりに俗ですのよ。ふつうの町娘のように、憧れの殿方のお姿を見るのを心待ちにしたり、思い出に浸ったりしてはいけないかしら』
 アレフは話に耳を傾けながら、辺りへ目を配る。ロトのしるしは見つからないが、魔物の姿もない。最近の魔物の活動状況を考えると、奇跡に近い。
『あまりお話しするとお邪魔になってしまいますから、これ以上は控えさせていただきますけれど、ローラがアレフ様のことをお慕いしている気持ちに嘘はありませんわ』
「私がロトの血を引いていなかったとしても、そう仰れますか」
 ローラの短く笑う、くすぐるような吐息が聞こえた。
『これからお話しすることを聞いても、どうかローラを嫌わないでくださいませ。アレフ様に嫌われるのは、アレフ様にお会いできなくなることの次に辛うございますので』
 彼女の羞じらうような声が、腰に下げたアクセサリーから響いた。
『出会ったあの日。私を抱いてくださった貴方の腕の逞しさ、優しさが忘れられませんの』
「…………」
『ああ! こんなこと、アレフ様を前にしたら恥ずかしくて、二度は言えませんわ。どうか忘れてくださいませ』
「……ローラ姫」
『はい』
「あの、周りには本当に誰もいないんですよね?」
『ええ、おりませんわ。どうしてですの?』
「えっと、その。語弊がですね」
 ごへい、と反復された。
『ローラは、アレフ様を不快にさせてしまったのでしょうか?』
「あ、いえ! まさかその、そんなわけはなくて、むしろ幸せでしたといいますか、はい」
『お父様にもよく、世間のことを知りなさいと言われますの。ものを知らなくてごめんなさい。抱きしめて欲しいなんて、はしたなくていけませんわよね』
 アレフは沈黙した。さりげなく続けていた、毒沼を掻き混ぜる作業も止まった。
『……アレフ様?』
「申し訳ありません」
『はい?』
「貴方がものを知らないなどということはありません。私の方が知らなかったです」
『え?』
「申し訳ありません。しるし探しに戻りますので、失礼させていただきます」
 一応了承を得てから、手早くアクセサリーをしまった。これ以上話し続けたら、体力以前に心が死にそうだった。
「俺は最低だ……」
 体力を回復して、自己嫌悪に陥って目的を忘れないよう、懸命にしるし探しに励んだ。その甲斐あって、ほどなくしてロトのしるしを無事発見した。へどろを指でこするだけで、不死鳥のしるしは黄金の光を取り戻す。日のもとで燦然と輝くシンボルを前にしても、アレフの心には思ったほどの感動が起こらなかった。
 ただ、精進しなければいけないと思った。








********



 虹の雫が手に入ったため、いよいよ竜王の城に乗り込むことになった。
 激しい戦いになるだろう。もしものことも考えて、ラダトームの城へ向かった。王に謁見した後、ローラ姫にも挨拶をと声をかけたところ、そのまま茶を振る舞われることになった。
 姫に連れられて三階テラスへ出た。光の褪せつつある世界でも、十分に良い眺望だった。荒れた内海を挟み、暗雲を纏い聳えたつ魔王の城は不気味だが、城の北、まっすぐなラダトームの背骨山脈は蒼穹のもとにのびのびとして、ラダトーム平野の豊かな緑はどこまでも広がっている。良い場所だと思った。
「この城にテラスがあったとは知りませんでした」
「母が存命の頃は、さかんに使われておりましたのよ。けれど、私がここで外を眺めていて竜王の手の者に攫われてからは、閉鎖されていたそうです」
「陛下がまた心配なさるのでは?」
「父は、私には格別にお優しいの。いつもわがままを聞いていただいて、感謝しておりますわ。それに、今は大丈夫。アレフ様が一緒ですもの」
 ローラ姫はにこりとして、用意されていたテーブルと椅子を片手で示した。竪琴のように繊細な曲線をしていて、鎧姿の自分が座っていいのか不安になったが、腰掛けてみると予想外に安定感があった。
 侍女たちがティーセットを運んできて、ローラとアレフのカップに紅茶を注ぐと、速やかに退出した。アレフはいただきますと会釈をし、カップを傾けた。
「お口に合いますかしら」
「はい」
「恐れ入ります」
 ローラもカップを傾けた。自分とは違う優雅な仕草に目を奪われつつ、どうして連れ出されたものかとアレフは考えた。彼女が城の人々から非常に慕われていることは、よく知っている。茶を飲む相手ならば他にもいよう。
 悶々と考え込んでいると、音を立てずにカップをソーサーに収めたローラが視線を上げた。
「アレフ様。今さらではございますが、ロトの聖印の発見、防具の奪還といった偉業を成し遂げられましたこと、お祝い申し上げます」
「はっ。ありがたきお言葉、感謝申し上げます」
「貴方はこれまでこの地から旅立っていった者にはできなかったことを、たった一年にも満たぬ間に成されました。父も城の者も、貴方の業績を素晴らしいこととして捉えておりますわ」
 畏まって頭を下げ、礼を述べる彼を、ローラ姫は目を細めて眺める。
「貴方は不思議なお方です。どちらからいらしたかも、何故光の玉奪還の任に着こうとしたかも、誰にもお話にならないと聞いております」
「お話しする機会がなかっただけです」
「では、私がうかがってもよろしゅうございますのね?」
 黙って頷いた。
「ご出身はどちら?」
「名もなき森の奥です」
 アレフは額に手を当てた。数ヶ月前までは住んでいた家のことなのに、思い出そうとすると薄靄がかかったようにうまくいかないことが増えた。
「ガライの町の近くに住んでいたものだと思っておりました。しかし、ラダトームを目指して旅に出てから、あの家にはどうしても帰れなくなりました」
「まあ。なぜですの?」
「分かりません。ですが、思うにあの場所はアレフガルドではなかったのかもしれません」
 ラダトームへ行くために家を出た時、自分の住む場所に比べて色褪せた世界だったのに驚いた。あれがアレフガルドとは違う場所だったからだとしたら、家が消えたのも、時折警備に呼ばれた集落がもう見つからないのも、納得がいく。
「奇妙な話です。陛下の命を受けて旅するうち、私の住むような家などないことを知りました。このようなことを言えば、おおかた頭の変な奴と思われるのが普通です」
「私は信じますわ」
 ローラの微笑みには、少しの無理もなかった。だからアレフも、自然と微笑むことができた。
「お一人で旅をなさったのは、アレフガルドになじみづらかったから?」
「いえ。おおかたのことは、出会った人に少し助けてもらえるだけで済んだので、共に旅する人を雇うまでに至らなかったのです」
「辛くありませんでしたか」
「はい。働きを陛下や城の人々に認めてもらえるのが、何よりの喜びでした」
 そう応えると、ローラは自らの胸を押さえて俯いた。
「姫?」
「お優しい方」
 彼女はそっと呟いた。伏せた睫毛が上向く。真っ向から見つめ返したアレフは、この時初めて、彼女の瞳が故郷と同じ澄んだ空の色をしていることに気付いた。それは、この世界で唯一褪せていない色彩だった。
「アレフ様。どうか目を瞑ってくださいませ。そして、ラダトームの姫ではない、どこかの女の独り言に、少しだけ耳を傾けてくださいませんか」
 アレフは言われたとおりにした。瞼の裏の暗がりを見つめていると、やがて声が聞こえてきた。
「本当は今日、貴方にいつものように、離れていてもお側におりますとだけお伝えするつもりだったのです。言ってもどうにもならぬよしなしごとで、貴方のお顔を曇らせては、と耐えるつもりでおりました。けれど私は、私は……本当は、貴方にもう危険な目に遭っていただきたくのうございます。貴方のお力は、助けていただいたのですからよく存じておりますけれど、光の届かぬあの魔の島に、貴方がお一人で行かれることを思うと、胸が張り裂けそうで……。
「光の加護に包まれた我が国は永らく平和な時を過ごして参りました。しかし同時に、安らかな時代は民草から武の心をゆっくりと削いでいったのでございます。宝珠の加護がなくなった今、民はいにしえの暗闇に包まれていた時代のように、途方に暮れることしかできなくなりました。元来この地は、そのような場所なのです。貴方がこれから向かわれるのは、その中心となる場所なのです。貴方の選択を、精霊はきっと助けることはできないでしょう。この城にも、私を含めて、貴方の手助けになれるほどの者はおりません。だから」

 かた、と何かがずれる音がした。
 衣擦れ。微かな甘い香り。ぬくく、柔らかい何かが身体に縋りつくのを感じた。首元がこそばゆい。瞼の裏に、いつか見た白い指先の絡む形が像を結んだ。
「行かないで。どうかアレフガルドの英雄などにならず、私だけの勇者様でいてくださいまし。貴方に想っていただけないことより、貴方がこの世界からいなくなることの方が、ずっと嫌。嫌なんですの……」
 ぬくもりはアレフの頬をゆっくりと撫で、離れた。香りも去った。
 もう構いませんわ、といつものトーンで聞こえて、アレフは目を開けた。陽光のもとで見る姫君の姿は眩しくて、目を細めた。
「離れていても、ローラはいつもアレフ様と共にありますわ。どうか、お気を付けて」
 いつもの顔で微笑んで、ローラはそう言った。
 アレフは彼女を見つめた。躊躇って、口を開いた。
「旅先で、ある人に言われました」
 栗色の柳眉が、やや下がった。何を言うのかと、困惑しているのだろうか。
「竜王はとんでもない力を備えている。本当に戦うつもりなのか、と。そうだと答えると、お前は勇者だと言われました」
「貴方は間違いなく勇者ですわ」
「いいえ。違います」
 アレフは苦笑した。
「私は勇者ロトのファンです。自分がその子孫らしいということを知る前から、彼の物語に親しんできました。だからこそ、思うところがあります。
「自分が勇者の役割を求められていると知った時、私は己に勇者であれと言い聞かせてきました。苦しむ人々を放っておけなかった気持ちは本当ですし、陛下の命を受けた時の、私の力が誰かのためになるならばという思いにも嘘偽りはありません。しかし旅の苦労の中で、私は、そうした理性的な志とは別の、本能的な動機に気付いてしまったのです。
「私は、人々を闇から救うという目的のもと危険に立ち向かいながら、心の底で、己を極限まで追い詰める困難に立ち向かい苦しんでいる己の現状に、喜びを感じ、希望を見出していました。窮地に追い込まれた時に志を貫き、強さ、優しさを発揮できてこそ、理想の勇者像に近づけると無意識に信じていたからです。
「大きな困難に出くわす度に、どう解決するかを考えるのが楽しかった。剣の腕を磨くこともその一部なのでしょう。命を殺める罪悪感より、強大な敵を打ち倒せるか否かに愉快さを感じている自分に気付いてしまいました。俺は勇者ではありません」
「でも貴方は、私を救ってくださいましたわ」
 ローラは口を挟んだ。
「私は、アレフ様のしてくださったことに感謝しております」
「俺の思うところを知ってもですか」
 アレフは自嘲的な調子で言う。ローラは、くすりと笑った。
「私の想いを侮らないでくださいまし。私は貴方様のその、歪みのない純で一途なお姿や、戦いぶりに心惹かれたのです。私はものを知りませんから、アレフ様の仰る勇者というものがどういうものか存じ上げませんけれども、私にとって唯一の勇者様はアレフ様なのです」
「そのようなことを言って、貴方は」
「アレフ様」
 ローラは風に緩やかな弧を描く髪を抑え、アレフに微笑みかけた。
「ローラは、風が少々身に染みて寒うございます。あたためてくださいませんこと?」
 もう、溜め息を吐くしかなかった。
 アレフは立ち上がり、白いレースで覆われた腕を取って引き寄せた。黄のドレスと白いフリルが睦み合う蝶のように舞う。男の腕の中にすっぽりと収められた女は、うっとりと胸板に頬を寄せる。
「他ならぬ貴方が私を勇者と呼んでくださるのなら、私は勇者となれるよう努めます。そして、貴方のもとへ帰ってこられるよう、全力を尽くします」
「はい」
「竜王を討ちに行って参ります。必ずアレフガルドの国に光を……ロトの血の務めを果たしてみせましょう」
 ローラが顔を上げ、瞳を閉じた。アレフは顔を傾け、唇を寄せる。










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 魔の島の深奥。光の届かぬ闇の玉座に、竜王は沈んでいた。黒く巨大な二本の角をそらし、不敵な笑みを浮かべてゆったりと構える佇まいは、以前対峙したドラゴンと比べものにならぬ覇者の貫禄に溢れていた。
「よくぞ来た。勇者アレフよ。儂が王の中の王、竜王である」
 常闇の中、深みのある声が艶やかに伸びる。
「儂は待っておった。そなたのような若者が現れることを。もし儂の味方になれば、世界の半分をアレフにやろう。どうじゃ、儂の味方になるか?」
「いいえ」
「どうした? 世界の半分を欲しくはないのか? 悪い話ではあるまい」
「世界の半分など、欲しくはないのです」
 竜王は立ち上がる。纏う濃紫の衣をはためかせ、杖で床を突く。
「では、どうしてもこの儂を倒すというのだな!」
「そうだ」
 アレフは、先程拾ったばかりの剣を抜いた。剣の柄に施された不死鳥が、羽根を広げ、喜び勇んで舞おうとしているよう、彼には思えた。
「俺が欲しいのは貴方との戦いだ。さあ、来い!」







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「ゆうべは楽しゅうございましたわ」
 隣で頬杖を突き、腹ばいに横たわったローラが歌うように言う。珠のような柔肌にはシーツ一枚が巻き付いているだけで、そのような格好でも不思議とタイトなドレスでも纏っているように見えるのだから不思議だ。
 これはウェディングドレスの後だと思ってたんだけどなあと、仰向けになっているアレフは昨夜に思いを馳せる。
 不肖アレフ十六歳。人生の長さの分だけ抱いていた貞潔と誠実の精神は、初めてできた恋人の前に儚く散った。相手が悪かったと思う。
「俺は、きちんと居所が定まって神の御前で誓いを立てられるようになるまで、貴方を大事にすると決めてたんです」
「まあ素敵。でも、ご安心なさって。ローラは毎日、アレフ様と一生添い遂げますと神様に誓いを立てておりましたの。承諾はもう得ておりますのよ」
 強い。勝てるわけがない。
 アレフが片腕で顔の上半分を覆っていると、もう片腕にとてつもなく柔らかいものが押しつけられている。正体は、腕をどかして目で確認するまでもなく分かる。
「姫」
「ローラ」
「ローラ様。頼むからやめてください」
「アレフ様の逞しい腕で優しく抱かれて、ローラは幸せでしたわ」
「本当に申し訳ありませんでした。やめてください」
「こういう時に町娘がなんというか、私知ってますのよ。アレフ様のえっち、と言うのでしょう?」
 死ぬ。自分の中の色んなものが死ぬ。
 本当にこれで良かったんだろうか、とアレフは思う。
 光の玉をラダトームへ届けに行ったアレフは、王に王位を継がないかと提案された。しかし、アレフガルド出身でない上に武力で名を上げただけの自分にそんなことができるとは思えなかったので断った。自分の居場所は自分で探すべきだ。
 ならば仕方ないと王がこちらの意思を認めてくれたのは良かったのだが、予想外の展開はその後訪れた。ローラ姫がアレフについていくと言い張って譲らなかったのだ。
 ──このローラも連れてってくださいますわね?
 ──いいえ!
 ──そんなひどい。
 この流れを三十四回繰り返されて、折れた。王は快く送り出してくれたが、見送りに並ぶ兵士達の眼差しが剣のように感じられた。このような種類の困難は望んでいなかった。
「ごめんなさい、アレフ様。意地悪なローラを許して。貴方が無事竜王を討って帰ってきてくださって、しかもこうして結ばれて、本当に嬉しゅうございますの」
 ローラが頬を染めている。その言葉で、アレフは最後に見た竜王の姿を思い出した。
 最初人型を取っていた竜王を倒したと思ったら、その後巨大な竜に変化して再び襲いかかってきた。予想通りに死の予感と隣り合わせの戦いになったが、死に物狂いで先に最後の一撃を決めた。竜王は断末魔の一声も上げず、その手から光の玉を取り上げれば、ただ姿が薄れて消えていった。
 思えば、人型を倒した時も同じような消え方をしたのだ。
 もしまだ竜王に、他の姿があったなら。
「アレフ様?」
 ローラが訝しそうに顔を覗き込んでくる。何でもない、とだけ返した。 
 そう、何でもないことだ。光の玉は取り返した。万が一生きていたとしても、その時はその時だろう。アレフガルドが平和でさえあるならば、何も気にする必要はない。
 光あるところにまた闇があるのだ。張り合うものがあれば、腕の磨きがいもある。
「本当に、大丈夫ですの?」
「……まあ、大丈夫です。ですから、少し離れませんか。そろそろ起きてもいい時間のはずです」
「アレフ様がつれなくて、私はせつのうございます」
「恐れながら申し上げますが、全然切ない顔じゃないです。笑わないでください」
「だって、アレフ様はローラのことを想ってくださらないんですもの」
「それも悪かったですって!」
「ローラのことを想ってくださいますか?」
「想ってます。ずっと想ってました」
「お慕いしておりますと仰ってくださいませ」
「ローラ姫、お慕いしております」
「私もですわ」
 さらにきつく抱きついてきた。もうなるようになれ。
 ローラ姫がラダトームに帰ってきてからしばらくして、アレフは城の人々からなんだか雰囲気が変わったようだと言われた。頼りなさげだったのなとも称された。
 しかし、自分は別に何も変わっていないと思っていたし、今もそう思っている。ローラ姫がこの調子で話しかけてくるから、それまで出してこなかった顔が露わになっただけで、何も変わってはいないのだ。
 アレフは強く優しい勇士でありたい、愚かな男である。
 そんな自分を勇者にしてくれた人を大切にしたいと心から思う。
 思うが、そろそろ少し酷く扱ってもいいだろうか。いい加減釘を刺しておかないと、今後自分の身が保たなそうだ。
「うふふ。私の勇者様がいらっしゃる限り、ローラは世界一の幸せ者でいられますわね」
 また今度でいいか。
 アレフは思い直した。











20200527