青き獅子は憤る
高祖アレフレッド=ヴァン・トラウゴッド・ロト=ローレシアは、かく語りき。
「我アレフガルドの騎士なれば、ラダトーム王に代行してこの地を治めん」
「然ればここに築く国の名はローレシア。我が生涯の伴侶にしてラダトーム姫君の名を礎とす」
「我はロトなれど、神に非ず。よって精霊神ルビスの御名の下、我が民の恒久の平和の為、国民の総意を以て、自由と信義、福利と公正を永遠に保つ為の立会人とならん」
「精霊神ルビスの御名の下、我、自由と信義、福利と公正を永遠に保つ為の立会人として、『ローレシア王国典範』を定める」
──『ローレシア王国典範』序
*
初代ローレシア王の言ったことなど、くそくらえである。
何が恒久の平和だ。何が国民の総意をもって、だ。
国民の総意なんぞ、何百年待ったってまとまるわけがないのに。
青年は、眼下を睥睨する。身に纏うは軍指定のフードに修練着、それらと同じローレシアンブルーの色合いに統一された彼のブーツは、床にひっくり返った神官兵の腕を踏みつけている。神官兵は顔を赤くして足の拘束から逃れようとするが、拘束する青年の顔は涼しいものである。
「貴様、ここは教会だぞ! それを承知でこんな」
神官兵は怒鳴った。青年は辺りを見回す。高い窓から差し込む光が、床に敷き詰められた青いタイルに反射されるせいだろうか。遠巻きに事態を見守る参拝者たちの顔は青白く、強張っていた。青年は神官兵に視線を戻して、自分の左手側を顎でしゃくってみせる。
「お前がしたのと同じことをやってるだけだろ。なあ?」
示した先では、彼とそう年頃の変わらない職人が腕を抱えてうずくまっていた。その右腕は既に、紫に変色して腫れ上がっている。
彼の怯えた眼差しを意識しながらも、青年は足に力を込めた。ブーツの下から、軋む感触が伝わってくる。
「戦う術を持たない者をいたぶるのは楽しいか?」
「神官兵にこんなことをして、タダで済むとッ……!」
「質問に答えろ」
コキン。骨の軽く弾んで折れる音が靴底を伝い、神官兵が大口を開けて悶絶する。青年は男から痛みの衝撃が抜けきるまで、足の力を強めずに待っていてやる。
男はしばし口をぱくぱくとさせていたが、急に正気付いたように、青年を挟んで反対側にうずくまる職人を指さした。
「こ、コイツが、喜捨を定額持ってこないから! 仕方なくやったんだ!」
「そうか。喜捨に定額があるなんて、初めて聞いたな」
粗末な嘘にもほどがある。ルビス教は国教であり、ローレシア国王は代々ルビス教の大司教も兼任するために、運営に必要な資金は国庫から出る。だから信者の喜捨に定額をさだめることはしないし、定額を決めようものなら法で裁かれることになっている。
青年は溜め息を吐いた。
「お前の方がただじゃ済まされないだろう。脅迫罪、傷害罪及び詐欺罪で牢屋送り。謹慎処分も免れられないぞ」
「てめえっ、何の権限があって――」
「俺がお前を裁くわけじゃねえッ」
突如青年の口調が乱れた。
「ローレシア王国典範二十七条!」
白銀の眉を吊り上げ、彼は鋭くも朗々と響く声で諳んじる。
「ローレシアの民は信仰を強いられない! ただし慈愛と豊穣の神ルビスの御加護により民の信仰の自由を守るため、国家はルビス教を支援し、国教と定めることとする!」
「二十八条! ルビス教は運営費、人件費においてのみ国庫支援金を得られるものとし、喜捨に如何なる限度も定めてはならない!」
「十五条! 民は平和を愛し、公共の福祉を守るためたゆまぬ研鑽を続けなければならない! 又、如何なる理由があろうとも、隣人の権利を害することがあってはならない!」
どう見ても軍人にしか見えない筋肉質な青年の口から出た流暢な口上に、踏みつけられた神官兵はもちろん、取り囲む参拝者たちも唖然とする。だが青年はそんな周囲の視線も気にならないようで、男を軽蔑の眼で見下ろしている。
「以上の典範規則違反により、あんたは裁かれる。法と罰則で説明しねえと、やっちゃいけねえことも分からねえのか? 生死がかかってるわけじゃねえのに人を一方的に痛めつけるなって、その腰に剣を帯びた日に教わらなかったのかッ」
青年は神官兵の腕から足を下ろし、抵抗を忘れたそれを軽く蹴った。男はもんどりうって喚く。
「あんたらもあんたらだ!」
男の喚く様をただ眺めていた参拝者たちは、突如青年の氷の如き碧眼が自分たちを見据えたのに気付いてびくりと身を震わせた。
「何で市井の仲間が苦しんでいるのを助けない!? これが有徳の君主と名高い騎士王アレフと共に国を興した、ローレシアの民の末裔か! 聞いて呆れる!」
白藍の虹彩は、まるで灼熱の炎を宿したかのようである。彼はキッと、立ち尽くす者たちを順に見回して叫ぶ。
「神に救いを乞う暇があるなら、目の前で苦しんでる人間を自分の手で救え! いつ来るか分からない助けを待つより、助け合った方が早いだろう!」
青年の叱責に、周囲が静まり返った。
何人をも赦す慈愛を説く教会において、彼の硬質な気迫と憤怒は明らかに異質である。だが人々は、不思議と彼の声に聞き入った。そして彼の怒りに燃えるアイスブルーの瞳と目が合うと、まるで火傷でもしたかのように、ぱっと顔を伏せた。
周囲の目が中心に立つ青年から離れる。青年の視線が、神官兵から逸れる。その隙に無事な方の腕で起き上がった神官兵は、隠し持っていたナイフを構え、彼に向かって突撃した。
「危な──」
いち早く気付いたのは向かいの職人である。彼は急を知らせようとして、だがその口は、「い」の音を発する前に固まる。
瞬時に振り向いた青年が、突進する男を見るなり唇を歪めたのだ。
修練着が男の懐に入った――そう職人が認識した時には剣が弾き飛ばされており、青年の手が男の首根を地に叩きつけていた。
悲鳴が上がる。人だかりから幾人かが逃げ出した。しかし青年は男の首を絞めつける手を緩めないまま、口元を歪めたまま。
笑っている。
「手ぬるい。今の剣、本当に俺に刺す気があったのか?」
グローブを嵌めた手が、なおも男の首を絞める。
「俺を害したいなら、殺す気で来い。ぬるすぎて逆に殺意が湧くぞ」
空気を求めて喘ぐ男の眼から、みるみるうちに生気が失せていく。青年は凛々しい顔立ちに浮かぶ笑みを崩さずにそれを凝視していたが、男の口から泡が零れだした頃合いを見図って手を離した。急に空気を得た男は激しく咳き込む。
「何だ、何の騒ぎだ」
そこへ一際のっぽな警吏を先頭として、警吏たちが飛び込んできた。事件を見守っていた人垣が割れる。のっぽの警吏は横たわる神官兵の傍にしゃがんでいた青年を睨んだが、彼が立ち上がってこちらを向いた途端、目を剥いた。
「アッ、アレン王子!?」
人垣がどよめいた。囁きが伝播する。
──アレン? アレンってあの?
──王太子の?
──アレン王太子殿下って、たしか。
足下に座り込んだ職人が青年の顔を、特に眉のあたりを凝視しているのを彼は感じた。誰かが、本当だ髪が白いと呟く声が聞こえた。
だが青年は無遠慮な視線も声も何のそので、慌てふためく警吏に大股に歩み寄る。
「ああ、ケルビム長官じゃないか。手間をかけさせてすまない」
「すまないと仰るならやめてください! 困ります、またこのようなっ」
「うるさいな、ただの喧嘩だろ。俺は今、王族の身分を返上してるんだぞ?」
「屁理屈を仰らないでください!」
「そこの男が金をゆすり盗ろうとしていて腹が立ったから喧嘩した。さあ、俺ごと牢に連行してくれ」
勘弁してくださいよぉ。警吏は半泣きになった。
*
ローレシア王国第一王子アレン・レイ・ニコラウス・フォン・ローレシアは悪魔の子である。
そんな囁き声に囲まれながらアレンは育った。
曽祖父である高祖アレフレッド王とその妻ローラは金髪碧眼の典型的なラダトーム人であったが、その子の代以降から現地民であるローレシア人と婚姻関係を結ぶことが多くなったために、現在のローレシア王族の髪色はローレシア人に多い黒または焦茶、瞳の色はダークブルーと決まっている。それはアレンの父エイブラハムも同様で、彼は既に齢六十を迎える高齢であったが波打つ長髪は未だ黒々としており、彫りの深い顔立ちに厳めしく据えられた狼の目は、彼の武勇王としての衰えない気迫を伝えるに相応しいと民は讃えた。
一方、アレンの母は生粋のラダトーム人だった。王族の分家である名門一族の令嬢で、寒暖差の激しいローレシアの気候に馴染めず伏せがちであったが、ブロンドに白磁の肌、翠の虹彩が一際美しい佳人であったという。
そんな二人の間に生まれた王子アレンは、どちらからも生まれ得ない容姿をしていた。
褐色に近い肌。色のごく薄いアイスブルーの双眸。そして何より目を引くのが、さっぱり色の抜け落ちた銀髪である。ローレシアの王族にもラダトームの親戚にも似たような色を持つ人間はおらず、たちまち王宮中で彼は何かの過ちで生まれた子なのではないかと噂されるに至った。
だが少々考えれば分かる通り、親子といえども全く同じ色合いで生まれてくる者は少ない。誰しも多少なりとも色合いの違いがあるもので、また両親より遠い縁戚の血がいきなり濃く出たなどという例は、人間ならずとも何の種でもよくあることだ。
だから身体的特徴が問題であるだけならば、アレン王子が王位継承者として取り沙汰されることはなかっただろう。
しかし運の悪いことに、彼の王子としての問題はそれだけではなかった。
この魔力枯渇の時代で、ロトの一族を統治者たらしめていた要因――魔法と呼ばれる術を、彼は一切使えなかったのである。
「アレニウス様。困りますなあ」
アレンが牢に入れられたのは束の間のことで、すぐさま彼は王の間へ連れて来られた。そこには既に現国王はもちろん、宰相や政治顧問に大臣たち、近衛隊長、騎士団長に兵士長といった文官武官の頭が揃っている。
アレンの姿が見えるなり、宰相が声をかけた。
「あれほど城下での御振る舞いにはご配慮をと申しましたのに。近頃民は不安定なのです。次の王となられる方が自ら掻き乱すようなことをなされては、民が余計落ち着きませぬ」
「訓告痛み入る、ジュネーゼ宰相」
ねちっこい小言をアレンはぶっきらぼうに遮った。
「ですが私は今、こうでもしないと陛下の御前に立つことも許されぬ一兵卒でありますので」
「殿下、そのためだけに乱暴をはたらくのはいかがなものかと」
近衛隊長が恐る恐る、しかし声色に僅かな非難を混ぜて言う。だがアレンは動じない。
「訂正します。民に喜捨だと言って金を強請る男がおりましたので、気に食わずくってかかりました。その結果、ついでに陛下に御目通り適うことになりました」
「何も、手を上げることはないではありませんか。ねえ、あなた?」
父の従姉、セオドール公爵夫人が夫に振る。派手好きで高飛車な妻とは対照的な気の弱いセオドール公爵は、口の中でもごもごと返事をしたようである。しかし夫人は聞いていない。
「もっとさり気なくやめさせる方法があったでしょう。話し合うとか、早くに警吏を呼ぶとか」
夫人の濃い隈取りを施された目が、嗜虐的に輝いた。
「催眠呪で、眠らせるとか」
周囲から失笑が漏れた。アレンの勉学の師である政治顧問の爺や剣の手ほどきを受けた騎士団長、直属の上司である兵士長などは苦虫を噛み潰したような顔をしているが、当のアレン本人は眉ひとつ動かさない。
王宮の禿鷲どもから魔法をネタに突かれるのにも、もう慣れていた。
「催眠薬など、一兵卒には高価に過ぎますので」
澄まし顔で一蹴する。
「アレン」
父王が重々しく呼ぶ。たちまち王座の間が沈黙し、アレンは感心する。
王宮には蔓延る権力闘争の様子からもうロトの血族もダメかと思っていたが、まだまだ父の威信は健在のようだ。
要は、アレンという格好の引き摺り下ろす対象がいるから、禿鷹どもは好き放題しているのだということか。
「その者達の言うことも尤も。そなたは情に厚いが短絡的に過ぎる。自制せよ」
「はっ」
反省は全くしていないが、形だけでも頭は下げた。
「して、申したいことがあったのだったか」
アレンは目を丸くして王を見た。
父と己の仲は、世間的な王族の親子らしい関係性だとアレンは考えている。即ちあくまで互いを為政者と次期後継者候補として捉えており、庶民のような打ち解けた絆はそこになく、「如何にして国政を回せる器となるか」というのが父のアレンに求める最重要項目だった。
無理もない。高祖アレフの次世代から、ローレシア王国は三人の王位継承者のもと三国に分かたれた。智恵と中立のサマルトリア王国、信仰と魔法のムーンブルク王国、そして忠義と武勇のローレシア王国。勇者ロトの血を引くこれら三国を束ねるのが、宗主国ローレシアの王である。他二国より教育が厳しくなるのも必然であり、しかもその後継者が魔法を使えないとなっては、それまで以上の扱きようとなるのは当然だろう。
アレンは王室ではなく、騎士団長のもとで育てられた。同い年の子供達が水鉄砲で遊んでいた頃、アレンは木刀を握って兵士たちと打ち合い稽古に励んでいた。自分のことは何でも自分でし、朝から晩まで勉学と武術に励んだ。十一歳で王族の身分を返上して軍属となり、父の命によりローレシア各地方へ戦のために駆り出され、それとは別に修行のため未開の地へ単身放り出され、幾度となく命の削りあいの前線に立たされてきた。
その間、父が自分に世間並みに親らしい言葉を掛けたことなど一度もなかった。あくまで為政者と臣下らしいやりとりしかせず、アレンが王子として扱われるのは、今のように城下で騒ぎを起こして牢に入れられそうになった時だけだった。
そんな父が自分の台詞を聞き入れ、意見を述べよと言った。これは、それまで騒ぎを起こして連行されても叱責の言葉しかかけられてこなかったアレンにとって、驚くべきことだった。
「陛下、畏れながら申し上げます」
アレンは今度こそ跪いた。
「精霊神の加護が遠ざかって久しい今、民草は不安を覚え、心の安寧を求めております。城下では先程私が目にしたような騒ぎが後を絶たず、各地では不穏な動きも見られます」
「不穏な動きとは?」
「各地の教会がおかしいのです」
アレンは数日前、魔物の大群に襲われたという東方の街へ支援に向かった。その時、奇妙な体験をした。
「魔物との戦いで急ぎ傷を癒さねばならなかった私たちの隊は、教会の世話になりました」
いつもならば薬草を使って癒すところなのだが、隊の手持ちがもう切れていたのだ。そこで、この街で長いという老神父と老シスターの夫妻に世話になった。
優しい人たちだった。彼らの助力があったから、アレンたちは戦に勝てたのだ。
アレンは街を発つ前に、もう一度礼をと思って、後日その教会に寄った。ところがドアを叩いて出てきた彼らは、訝しげにアレンを見て言った。
「彼らは、私たちを助けた覚えはないと言いました」
おかしいと思った。老夫婦と会話をしてみたが、どうも加齢による物忘れをしている風でもない。
そこでアレンは隊員に老夫婦の注意を引きつけてもらい、隙をついて教会の中へ押し入った。礼拝堂に異変はなく、気のせいかと祭壇脇の台所へ通じる部屋を覗いてぎょっとした。
そこには、腸を食いちぎられた老夫婦が横たわっていたのだ。
「魔物が化けて成り代わっていたのです。私が仕組みに気づいた途端、奴らは正体を現して襲いかかってきたので、返り討ちにしました」
本物の老夫婦は、事切れて一日以上経っていた。丁寧に埋葬し、街の長に事件を報告して、魔物の死体を処理した。
「その魔物が、こんなものを」
アレンは懐から、小さなロケットを取り出した。一堂の視線が黒いそれに集まる。
王室付き司祭が歩み寄り、印を切ってからそれを受け取る。ロケットを開くと、とぐろを巻いた竜と髑髏の浮彫が邪悪に笑いかけてきた。
「邪神教の偶像です」
司祭が告げ、中身を王に見せる。王が傍に控える政治顧問を窺う。
「ハーゴンの仕業か」
「左様でござりましょう」
「なんと! 邪神官ハーゴンの!?」
宰相が叫んだ。列席する人々が青ざめる。
ハーゴンとは、ルビス信仰の中心地であるムーンブルク王国に仕える六人の大神官、通称六導衆の一人であった。新進気鋭と言われた彼は、ある日突然ルビス教への呪詛を吐き教会を去った。そして今は行方も知れず、ただ風の噂で邪神教に手を染め魔族に身を落とし、ルビス教に対抗すべく信者を増やしていると聞く。
「ついに我が国にまで、奴の手が伸びてきたか」
王は顎髭に手を添えて考え込む。アレンは訴える。
「各地の教会へ人を遣わして、宗派改めをするべきです。ハーゴンは魔物を従えると聞きます。私の見たような手口がそこここで蔓延れば、いくつもの街が魔物に侵されかねません」
「しかし殿下、そのための人手はどこから出すのです?」
宰相が嫌味ったらしく尋ねる。
「我が国とて国境と各地方の守り、王宮の警護で手一杯。街の数ほどある教会を全て回っていては、それこそ敵に隙を見せることになりませんか?」
「ならどうすればいい?」
アレンは苛立ちを隠して問う。
「各地の有力者に、様子を窺わせて報告させては如何でしょう?」
それこそ危険だろうが、阿保か!
アレンは内心罵った。それで仮に、各地の有力者が魔物に殺されたらどうなる? 街が丸々一つ、魔物の隠れ家になりかねないではないか。
宰相や公爵夫妻、近衛隊をはじめとした現国王を取り巻きたがる人間たちと、アレンはそりが合わなかった。彼らは現国王に取り入り、自らの王宮での発言権を得ることに夢中な人種であった。さらに言うならば、次世代の王宮ではもっと権力を持ちたいと考えているようで、公爵夫妻は二人の娘のどちらかを次なる王の正室に、またまだ幼い息子を王にと望んでいる。宰相は自分の孫を王族の嫁として閨閥政治を企んでいると聞く。
現国王は正室を一人しか持たず、その彼女もアレンを産んですぐに亡くなってしまったために、嫡男はアレン一人しかいない。だが、ローレシアには公爵夫人をはじめとして王族が数多く存在する。そうした高貴な血を引く人々や、野心豊かな政治家にとって、アレンは憎たらしい瘤のような存在なのだ。寝首を掻かれるのは無論であるが、食べ物に毒を混ぜられたことも一度や二度ではない。王宮は、アレンにとって陰湿な戦場だった。
だがその中で生き延びてきた彼が、この程度で引き下がるわけがない。
「ですがあの魔物は、我々ローレシア軍をしても機会を逸すれば殺され兼ねないような、狡猾なものでした。各地方の有力者には荷が重いのでは?」
「最近は腕の立つ傭兵も多いと聞きます。給付金を出せばどうにかなるでしょう」
「傭兵はそう、都合よく動くものではありません。金を積んだって命が惜しくなれば逃げる、もとの雇い主より多く金を積まれればそちらに流れる者もいます」
「はて、殿下は疑心暗鬼に陥ってらっしゃると見える」
「今は王子ではありません。人が信じられるられないの問題じゃない、魔物は手強いと言っているのです」
アレンと宰相の不穏な言い争いは加速していく。止めた方がいいのか。周囲の空気が張り詰めた時だった。
「陛下っ! 陛下ーっ!」
階下から年若い兵士が飛び込んできた。宰相が苛々と手を振って咎める。
「何だ騒がしいッ。閣議中であるぞ!」
「申し訳ございません! ですが、ムーンブルクより伝令が参りまして」
「伝令だと!?」
王座の間は俄かにどよめいた。
魔法大国ムーンブルクは、ただの連絡に人を寄越したりなどしない。それが伝令を飛ばすとなれば、国家存亡レベルの緊急事態である。
階段が騒がしくなる。階下から、重い金属を引きずるような音が近づいてくる。やがて現れた姿を見て、アレンは息を飲んだ。
ローレシアの兵に挟まれて登ってきたのは、茶褐色に煤けた全身白金鎧の兵士だった。胸の中央で赤く輝く不死鳥は、纏主の右胸もろとも片翼をもがれて弱々しく点滅している。
アレンは圧倒される思いで、満身創痍の兵を見つめた。だが彼はアレンの視線にも、誰の存在にも気を払っていないようだった。
「ローレシア王……」
弱々しい声は、意外にも若い。階段を登りきった使者は自らを引きずってきた兵士を振り払い、ただ王座に鎮座する者を認めてよたよたと進み出る。馴染んだ戦の匂い、血の匂いにアレンは息を詰めた。
使者は欠けた右胸を隠すようにして敬礼し、膝をついて首を折った。
「大神官ハーゴンの軍団が、我がムーンブルクの城をっ……一夜にて、外郭が落ちましたッ……!」
アレンは、己の手が冷たくなっていくのを感じた。
ムーンブルク城の外郭は、結界で護られた強固な砦であったはずだ。それが落ちたとなるとーーアレンは知らず、幼い頃一度行ったことがあるだけの王城を思い出す。慎ましやかな白亜の城、周囲を豊かな森と花々に囲まれたあの国には、思慮深い王と姫君、ローレシアにはもういなくなってしまった王宮魔法使いの一団と聖職者たち、そして信心深い民が多く住むのではなかったか。
使者は荒く息を吐いて、声を絞り出す。
「大神官ハーゴンはまがまがしい神を呼び出し、世界を破滅させるつもりです! 王様……何とぞ、ご対策を……ッ」
男は崩れ落ちた。アレンは男に駆け寄り、助け起こす。
「おい!」
兜を取り顔を軽く叩く。しかし男のガラスのような虹彩は、虚空を見つめたまま動きを止めていた。ヒビ割れて色を失った唇を血が伝い落ち、絨毯に黒い染みを作った。
アレンは男を抱え、呆然と座り込む。
この男が伝えたものが、何を意味するのか。この時のアレンにはまだ分かっていなかったが、事切れて急に重くなった男の身体から、何か途轍もなく重大なことが起こったのだということを、漠然と感じ取っていた。
「その男を、丁重に弔ってやれ」
王の声をアレンは遠く聞いた。駆け寄った司祭が、亡骸を受け取る。政治顧問が滑り寄り、アレンに囁いた。
「殿下、あとはじいにお任せなされ」
「聞いたな? アレンよ」
アレンは玉座を仰いだ。王の狼の目が、彼を見下ろしていた。
「そなたを王太子の身分に戻す。修業はここまでだ。『ロトの誓い』を果たす時が、ついに来たのだ」
広間が再び、ざわめきに揺れた。
『ロトの誓い』は、かつてアレフ王の定めた王室誓約より重い、血の誓いである。ロト三国の王位継承者たちは、法学を学ぶ前にこの誓いを暗記する。
『ロトの血を引く者たちよ。汝の使命を忘るる勿れ。汝に通いしロトの血は――』
「『ロトの血は闇を刺す剣、光を守る盾、闇を照らす光』」
アレンは諳んじた。王は頷いた。
「お前の血を試される時が、ついに来たのだ」
話し声がぴたりと止んだ。
誰もが、王と自分の会話に耳を澄ましている。アレンは周囲の痛いほどの視線を感じながらも、ダークブルーの瞳から目を離さなかった。
「まずサマルトリア、ムーンブルクの同胞を求めよ。その者達と力を合わせ、邪悪な者を打ち滅ぼして参れ」
「陛下、お待ちください!」
兵士長が立ち上がった。
「殿下お一人に行かせるなど危険です! 我が軍から随伴をッ」
「御意」
応えたアレンに、兵士長が目を剥く。王子は立ち上がった。
「伴は必要ありません。即刻発ちます。路銀を少々いただけますか?」
「構わん。ついでにこれを持っていけ」
アレンは玉座へ歩み寄り、王の手から路銀の袋と剣を一振受け取る。離れようとする逞しい腕を、節くれだった指が掴んだ。王が何事か囁く。王子は束の間目を瞠ったようだったが、すぐ頭を垂れて下がり、一同に告げた。
「ではこれで失礼する。皆、達者で」
王子は躊躇いなく階段を降りていく。ローレシアンブルーの修練着が消えるのを、人々は呆気に取られて眺めていた。
「殿下! 殿下ーっ!」
街へ繰り出したアレンの背を追いかける者が一人。背高のっぽの警吏、ケルビムである。彼は玉座の間に王子を連行してからずっと、王座と階下とを繋ぐ階段の脇で、一連の流れを見ていたのだった。
「お待ちください、伴も連れず一人でとは無茶です!」
「無茶だからこそやるんだよ」
アレンは歩みを止めずに言った。商店街へと足を向ける彼を、ケルビムは必死で追う。
「俺は魔法の使えない、ごく平凡な男だ。だからこそ俺は発ち、自分の手で、自分のやるべきことをやる」
人混みに紛れれば、彼を知るケルビム以外誰もアレンを見はしない。アレンは王族として民の前に立ったことがなかった。だから当然と言えば当然なのだが、誰もこの無鉄砲な王子を止めようとしないことに、ケルビムは腹立たしくなる。
本人は平凡だと言うが、ケルビムはそう思っていない。この王子の人となりを知る城の連中ーー騎士団や兵士たち、城の下働きの連中は彼を好いている。誕生してすぐ「悪魔の子」と呼ばれ、魔法を使えないことで国中から落胆されたアレニウス王太子は、今や不断の努力と不屈の精神を誇る戦士として皆から称賛されていた。
「皆、貴方を必要としてるんですッ! お願いですから待ってください!」
この不安定な情勢、頼りになるリーダーを一人きりで送り出したくはない。
人混みを抜けた。言葉を続けようとしたケルビムは、曲がり角を曲がった途端追いかけていた背中が止まったことに気付き、慌てて立ち止まった。
アレンが振り返る。凛々しい顔立ちは、何故か仏頂面だった。
「今日はいったい、何なんだろうな」
フード越しに頭を掻いている。
「変なことばっかり起こって……まあ、そんなこと言ってる場合じゃねえか」
彼のぼやく意図がわからない。ケルビムが首を傾げていると、アレンは言った。
「俺はな、ケルビム。正直に言うと、腹が立っているんだ。酒場に行っても教会に行っても、みんな不安だ不安だって言ってるだろ? なのにどうやったら不安を晴らせるかについては、誰も話さない」
年若い王子は手を両腰に当てて、眉根を寄せる。
「精霊の加護がなくなったから世の中は終わりに近づいてるんじゃないかとか、魔物が凶暴になってきていつ襲われるか分からないとか。そんな不安を酒やら祈りで誤魔化して、逸らした目をどこに向ければいいか、何にすがれば助けてくれるかばかり考えてる。だから、俺はやってやることにしたんだ」
アイスブルーの瞳が、ケルビムを見据える。その逞しい胸板を拳で叩き、王子は告げる。
「俺は魔法も神霊も、この身に流れているかも分からねえロトの血も、あてにはしない。自分の手と足で十分生きていけるんだってことを、証明してやる!」
あまりに力強い宣誓だった。
これがまだ魔法の使える王子であったなら、ケルビムも止められたかもしれない。そうは言っても貴方がこれまでやって来れたのは、魔法のおかげもあったのだ、と、諌められただろう。
だがこの王子は、本当に今まで魔法なしで生きてきたのだ。厳しいローレシアの風土を、陰謀渦巻く王宮を、その強い眼差しで見据えて己の身体一つで生き延びて来たのだ。
ケルビムは止められなかった。また無鉄砲なことを言っている。無茶なことをしようとしている。それを理解していても、ケルビムは行くなと言えなかった。
アレンは立ち尽くす警吏の肩を叩き、その目を見据えて破顔した。
「頼んだぞ、ケルビム長官。俺がいない間、俺の国を頼む」
「……ずるいですよ、殿下」
警吏は呟いた。
「いつだって俺たちを置き去りにして、何でもやっちまうんだから」
「すまないな」
「すまないって言うなら、連れてってくださいよ……!」
ケルビムは笑おうとした。やはり、半泣きになった。
*
もうすぐ王宮が見えなくなる。
アレンはローレシア城を見下ろせる一番遠い丘に立ち、既に豆粒ほどになった郷里を眺めた。
「『ロトの誓い』、か」
アレンは独りごち、諳んじる。
「『ロトの血を引く者たちよ。汝の使命を忘るる勿れ。汝に通いしロトの血は闇を刺す剣、光を守る盾、闇を照らす光。いずれか欠けてもロトならず、三者揃いて初めてロトとならん。
如何なる時も汝の欠けたるを愛し、満たす者を慈しめ』」
海風が右腕を撫でる。生暖かな風に、路銀と剣を渡しながらこの腕を強く掴んだ、王の指を思い出した。
――行け。我が息子よ。
囁いた王の声は、わずかに震えていた。
「分かってるよ。クソじじい」
アレンは生まれて初めて、曽祖父も良いことを言うものだと思った。
20170130 執筆完了
20170218 加筆修正