じっとこちらを見ている




 パトリシアはコーミズの厩にくつろいでいた。もう夜は深く、干し草をたらふく食べた彼女の瞼は重くなろうとしていた。

 しかし首を落としてまどろもうという時、その耳が小さく動く。厩の戸に人影が立っていた。


「怖がらないで、君に危害を加える気はないんだ」


 人影は優しい声の持ち主だった。干し草を踏みしめる音、近づく者を厩の小窓から差し込んだ月光が照らす。凛々しい顔立ちに優美なブロンドが似合う青年である。


「君、勇者様の馬車を引いてる馬だよね? 綺麗だなあ、毛並みなんてシルクみたいだ」


 青年は落ち着いて艶のある声に反して、少年のような口調で言う。腕を伸ばし、長い指をパトリシアのたてがみに絡める。愛おしむような手つきで梳いた。


「毎日いっぱい馬車を引いてるの? 身体逞しいよね。僕身体あんまり強くないから羨ましいよ。一人で洞窟にも入れないんだ」


 パトリシアは不思議とその人物を警戒するつもりにならなかった。彼は己の主人より同じ形をしていたが顔つきはパトリシアに近かった。


「いいなあ、馬っていいなあ。たくさん人間と一緒にいられるんだ。いいなあ」


 双眸を細めてしきりにいいなを繰り返しながら彼はパトリシアの長い首を撫で、無駄なく筋肉のついた足を間近で眺め、丈夫な胴に手を当て、尻尾を軽くもてあそんだ。まるで馬の全身をその目に写し取ろうとしているかのようだった。

 ひとしきり観察を終え、彼はまたパトリシアの正面に戻って来る。彫りの深い顔はうっとりとして、眼差しは夢見るようだ。


「君と一緒にいれば、僕も馬になれるのかな」


 田舎の深夜、厩に珍妙な呟きを拾う者はいない。パトリシアはただ目を瞬かせる。


「あのね、僕人間になりたかったの。それでずっと人間と一緒にいたんだ。そしたら人間になれた」


 ずっと一緒にいてくれた人は知らないんだけどね、と彼は意味深に人差し指を唇に添える。


「魔物は生まれてからずっと一人で生きるけど、人間は大人になっても人間と一緒じゃない? それが僕、羨ましくて」


 彼は子供のような笑顔を浮かべた。顔立ちに合って可愛らしく、綺麗な表情だった。


「人間になれてすっごく嬉しかった。二本の足で地面を踏んで歩くのが新鮮で、指先がこんなによく動いて、視界がすごく高い。人と話しても怖がられない。これで僕も人間の中で生きていけるって思うと、夢みたいだった」


 青年の声は弾んでいて、その時の喜びが伝わって来るようだった。しかしその直後、彼は顔を地へと俯けた。


「でもね、人間になってすぐ僕は……一人で、別れた仲間にしてくれた人を追いかけたんだ」


 指がたてがみを握りしめる。


「おかしいよね。僕人間になるためについて行ってたのに、いつの間にかついて行く方が大事になっちゃって。それでまた一人ぼっち」


 パトリシアは彼の顔を窺う。暗がりに沈んでしまって輪郭しか見て取れない。


「僕のお世話になった人には大事な使命があったんだ。でも僕は足を引っ張ることしかできなくて、人間になったんだからもう一緒に旅するわけにもいかなくて……分かってるんだ。僕が馬になっても一緒には連れてってもらえない」


 指がたてがみから離れる。青年はパトリシアから一歩、二歩と後ずさった。


「ごめんね、もうついて行くのはやめるよ。ライアンさんも自分の進む道にやっとたどり着けたんだもの。僕もこれからは人間として生きるよ」


 厩の戸まで下がると、月明かりに青年の姿が浮かび上がる。慈しみの籠った微笑みで彼はパトリシアを見つめていた。


「ライアンさんのこと、よろしくね。あの人結構不器用だから」


 細身に似合う旅衣が翻る。パトリシアはまた瞳を閉じた。






第35回ワンライ参加作品。お題「ホイミン、パトリシア」選択。




20150215