優しい世界
気球に乗ってから、世界の広さを知った。
首をぐるり一回りさせても見きれない空、海、大地。
空には薄く白い雲がたなびき、渡り鳥が風を切って舞う。
海は黒と見紛う荒々しい色をしていることもあれば、水があるのかすら疑ってしまうほど澄んでいる時もある。
海が浅くなれば大地が広がる。
その上に広がる草原に森、砂漠。大陸を縫うように大小長短様々に流れる川は複雑な文様を描いている。
そんな大地の中に、時折ぽつりと水滴を垂れたように存在する異物。
人間が棲む、町というもの。
俺達は、あの狭い世界を守ったのか。
彼は考える。
否、それだけではないのだろう。
きっと、奴らが侵略して戦火に飲まれるはずだった場所全てに住む命を──この気球から見下ろせる景色すべてを、守ったのだ。
だがそれは可能性である。実際に邪法が完成したところで、本当に世界が滅びたかはわからない。
少年はひねくれて考えた。
「世界は美しいですな」
隣に立つ戦士がそう漏らした。
彼はいかつい横顔に目を投じた。
彼の目に映るのは、この気球からの景色だろうか。それとも、姿を現すであろう峻嶮なる山々に囲まれた故郷だろうか。
「本当に綺麗! 見てあの海、あんなに透き通って見えるわ!」
お転婆姫がはしゃいだ声を上げる。
少年は眼差しを下げた。
海は日の光を反射して幾度にも色を変えた。
波は穏やかで薄く、紫、群青、紺碧、翡翠、浅葱、白藍、少しずつ顔を変えて溶け合う。
時折その狭間で、思い出したようにキラキラと輝くのは魚の群れだろう。
「何だか、いつもより海が透き通っている気がしますね」
彼女にずっと付き添って来た神官が微笑む。
彼の瞳は慈しみを湛えて、海とそれに夢中な姫とを映している。
「ふん、このあたりの海はいつもこんなじゃわい」
ぶっきらぼうに言うのは年老いた魔術師。
彼は地平線を眺めていたが、姫の声に合わせて視線を落とした。
サントハイム主従の顔に、海の煌めきが映りこむ。
表情の輝かしさに、彼らが語る華やかな大国の幻影を見た気がした。
「そうでしょうか。私はこころなしか、今日はそれだけでなく天気もいい気がしますよ」
恰幅のいい商人は機嫌が良さそうに荷物を揺する。
やっとその荷を下せる家へ帰れるのだ。
土産でも持たせられればいいけど。
少年は考えかけてかぶりを振った。
父が無事に帰ることに勝る土産などないだろう。
「ホント、なくならなくて良かったわねぇ」
のびのびと腕を伸ばしながら踊り子が言う。
いつも明るい彼女だが、その口調にはどこかしみじみとした響きが含まれていた。
彼女にそっくりな占い師も、やはり感慨深げに呟く。
「ええ……これで、旅が終わるのですね」
気球に沈黙が満ちた。
なすべきことを終えた、その充足感から来る静寂だった。
やがて戦士が、姫とお供達が、商人が、姉妹が気球から地へと足を下ろす。
少年は終始笑顔で彼らを見つめ、歓喜に沸く人々のうちに帰っていく彼らの後ろ姿をじっと見つめた。
感謝としばしの別れを告げ、再会の約束を取り付けようとする仲間達に、彼は整った顔立ちに薄く笑みを乗せて、首を縦に振った。
最後に一人残った彼は、また気球に乗って宙へ浮きあがる。
そして、改めて世界を見渡した。
空は大地に近づくにつれその青を薄くし、大地へと染み込んでいく。
陽光を吸い込むのは、常緑の森や草原。
照り返すのは、岩山や砂漠。
時折鈍く、しかし強く閃くのは、小さな街並み。
世界は広い。そして、美しい。
彼は景色を噛み締める。
しばらく飛んだ彼は、地上にある一点を見つけ、高度を下げた。
大地に籠がつくなり、気球がしぼむのも待たずに歩き出す。目指す場所はもう目前だった。
「ただいま」
勇者は呟いた。
森の隙間にぽかんと空いた、枯れ土の空白に、僅かに声が木霊した。
応じる声はない。
魔物によって侵略された村の跡地は、未だ荒れ野のままだった。
まばらな雑草が生え、毒の池がところどころに広がっている。
みすぼらしいところだと彼は感じた。
しかし世界を巡って、どんなに世界の広さと美しさを確認しても、彼の帰りたいと思える愛しい場所はここだけだった。
少年は袋から薄汚れた灰色の塊を出す。
よれた羽根帽子。それを手に、かつて姿の変わらないエルフの少女が寝転がっていた場所へ足を向ける。
そこには今、毒の沼が広がっている。それでも彼の目には、満開の花畑と同様に映った。
――わたしね、この村が大好き! 貴方のことも大好き! だから、いつまでも一緒よ。
「ああ、シンシア。みんな」
少年は微笑んだ。
「ずっと一緒にいるよ」
踝が、ずぶりと沼に沈み込んだ。
第33回DQ小説同盟主催ワンライ参加作品。
お題「羽根帽子、気球」選択。
2015