エンドロールが流れてしまい





 見覚えのない荒屋にいることに気付き、生き延びたのだと安堵したのは束の間だった。
 近場にあった水面を覗き込み、ミーナは愕然とした。
 魔瘴の色の薄く滲む、浅黒い肌。
 小さくもしっかりと頭蓋に根付いた角。
 人離れした漆黒の瞳。
 かつて己の故郷を滅ぼした男や、アストルティアを襲った数々の災厄と同じ、魔族のいでたちをした自分がそこにいた。
 その後、偶然自分を見つけた魔族と血の盟約を交わされたのだと知り、解除法を求めて一度アストルティアへ戻った。魔と対極の力を持つ勇者姫を頼れば、どうにかなるのではないかと考えたのだ。
 だが、彼女には会えなかった。同じくあてにしていた叡智の冠の長と共に、修行の旅へ出ていた。
 ミーナは考えた。他に手がかりを知っていそうな、頼れる人が他にいなかったか。できれば、居所の知れている人がいい。
 すぐ、脳裏に一人の顔がよぎった。彼ならば高確率であの場所にいる。話せば、きっと親身になって相談に乗ってくれるだろう。
 しかし、ミーナは即座にその考えを打ち消した。
(あの人に、どんな顔でこの姿を見せられるって言うの)
 魔界なら、石碑のある地へ自由に飛ばしてくれるアビスジュエルだが、アストルティアへ移動する時は限定的な移動しかできない。
 そう知っていたから、自分は顔を仮面で隠し、肌もすべて衣装で覆った状態で、アビスジュエルを用いたのではなかったか。
 この身体に流れるのと同じ魔の力により、一度滅ぼされたあの村で、彼にこの顔を見せる勇気が湧かなくて。
 結局、解決法を見つけられないまま、ミーナは魔界へ戻った。
 それからしばらく、アストルティアには帰らなかった。魔族から人に戻れるようになっても、どうしてもアストルティアに行かないといけない用事がない限りは戻らなかった。
 魔界でのことは、誰にも言えなかった。言ったところでいいことが一つも無さそうだからというのは勿論、かつて自分が魔族へと向けていた憎悪が魔族になった自身へと跳ね返り、口を重くさせた。魔界の──いや、魔界だけでない真のアストルティアの歴史を知り、魔族の力になりたいと思うようになっても、これまでアストルティアに侵攻してきた魔族がしたことや、自分の受けた仕打ちを許したわけではない。未だ、侵略者への憤りは胸に燻っている。被害者ヅラをしたいわけではないが、それでも恩と仇を単純な足し算や引き算で消化できなかった。
 だが、いつかは明らかになることだ。アストルティアに対してだけではない。魔界の面々にも自分の正体を打ち明けなければ。
 問題は、どういう手段で明らかにすればいいのか。
 悩んでいるうちに、大魔王城へ凄まじい光が轟いた。
 玉座の間に集まっていた三魔王の背後から、強引に扉を破って現れた面々。
 彼らの顔を見た。雷に打たれたように、何も言えなくなった。
 ──いつか来るとは思っていた。
 前にも増して輝かしい、親友の勇姿。
 依然として理知的な賢者の佇まい。
 冷静な竜女の眼差し。
 そして。
 ──隠し事の報いを受けるのかな。
 会いたかった。会いたくなかった。
 知らせたかった。知られたくなかった。
 流されるまま、どちらの勢力にも肩入れをしてしまった。そんな自分の軽薄と浅慮を、彼は軽蔑するだろうか。
 ──そうだとしても。
 流されながらも、最後は自分の意思で大魔王の座に就いたのだ。その責務は果たさないといけない。魔界を含めた、アストルティア全土を守るためにも。
 ミーナは一歩前へ出て、震える小さな侍従を庇う。各々得物を構える魔王達の無事を願いながら、こしらえたばかりの鎌を握り直した。
 以前ならば頼もしく横で見ていた面々を、正面から見る。敵意に満ちた顔を眺めながら、かつて自分もああいう顔をして魔王を睨んでいたのだろうかなどと考える。
 ──やっぱり、あたしは大魔王には向かない。
 ミーナは仮面の下で、自嘲の笑みを漏らした。
 この場にいる面々の中で、おそらく最も柔和な顔に睨まれた。たったそれだけのことで、全身を劫火に蝕まれたように息が苦しくなるのだから。











 勇者姫の渾身の拳が大魔王の仮面を暴いたのをきっかけに、戦闘は収まった。
 アストルティア全土に訪れつつある危機を確かめた面々は急遽共同戦線を組み、異界滅神に立ち向かった。長い交戦の上にからくも勝利を収め、アストルティアは喜びに沸き立った。
 大魔王城で開かれた祝宴は、突如舞い戻った巫女を交えた後も長く続いた。人々は興奮冷めやらず話し込み、完全なお開きになったのは、魔界の闇の空に緑光が差し込み始めた頃だった。
 魔界各国から来た者達は、アビスジュエルを用いて居場所へと帰っていった。アストルティアから来た者達も帰ることになり、ミーナがそれぞれ送っていくことになった。送りながらもまた積もる話があり、最後に竜族の隠れ里に住まうエステラを送り届けた頃には、もうへとへとだった。
 ──帰ったらすぐ寝たい。
 風呂は宴に向かう前に済ませてあった。宴で浴びた熱気を散らすためにもう一度シャワーを浴びたい気持ちもなくはないが、今はとにかく干し草のベッドに飛び込みたかった。
 新エテーネ村を記憶したルーラストーンを掲げ、魔力の青い瞬きとなって飛ぶ。
 夜明けのささやかな光に紛れて降り立った村は、しんと静まり返っていた。人影はなく、皆眠っているようだった。
「おかえりなさい」
 不意に声をかけられ、びくりとして振り返った。
 そこには、先程宴席で別れたはずのシンイがいた。いつもは広場中央の天馬像の下にいるものだから、いないと思い込んでいたのだ。
「どうして?」
「そろそろ帰ってくると視ていたので」
 彼は目元を指差した。ミーナはやっと、彼の祖母譲りの能力を思い出した。
「もうすぐ朝ですね。だから私も皆さんをお送りすると言ったのに」
「だって、一応あたしの城での催しだったから」
「まあ、ミーナさんが送ってくださった方が喜ぶのは確かでしょうけれど」
 シンイは肩をすくめた後、ミーナをまっすぐ見つめて微笑んだ。
「やっと、帰ってきてくださったのですね」
 おかえりなさい。
 もう一度発された言葉に、ミーナは息が詰まった。
 最後にこの村に帰ってきて泊まったのは、ヒメアのもとへ出向く前夜。その前に真っ当に滞在したのは、いつだっただろう。魔界へ出向く前だった気がする。
「ごめんなさい」
「謝らないで」
 頭を下げると、シンイは首を振った。
「ミーナさんは何も悪いことをしていません。あなたはアストルティアの歴史に残る立派な仕事を成し遂げた。同郷として誇りに思います」
「妹に、あまりシンイさんに心配をかけないでって言われました」
 つぶらな瞳がぱちくりと瞬きをした。
「それはそれは。あの人が言いますか」
「そう思いますよね」
「あなたの顔を見ない日が続く度、また大変なことに関わっているのではないかと心配していたのも事実ですけれど」
「うっ」
「大魔王があなただと知った時は、特に」
 ミーナは困ってしまう。謝るなと言われた手前、何を言えばいいか分からない。
 それを察したのか、シンイは苦笑した。
「責めているわけではありません。ただ、あの時は物凄く混乱したなあと思い返しているだけで。一体何があったのか、本当にあなたなのか、何か魔族に酷い目に遭わされているのではないか……なんてね」
「はい」
「せめて、魔族のしもべにされた後に少しでも教えてくださればよかったのに、とは思いましたが」
 ミーナは辺りを見回した。まだ夜陰の名残に浸る村に、誰かが出てくる様子はない。時折、猫達が歩くくらいである。
 ミーナとシンイは、魔界で再会してからゆっくり話せていなかった。魔瘴の噴き出したジャディンの園から帰った後に、自分が魔界に行くことになってから今に至るまでのことを説明したくらいである。その後は次々と現れる課題に追われ、腰を据えて二人で話す時間はまともに取っていなかった。
 ──いや。本当は、話そうと思えばいつだって話せた。
 ミーナは多忙を言い訳にしていた自分を見つめ直す。
 今こそ、話すべきだ。
「本当にごめんなさい」
 ミーナは、自分より少し高いところにある顔を見つめ返した。
「でも、あたしがあの時正直に何があったかを言ったら、シンイさんはきっとユシュカを殴りに行ったでしょう?」
 常に温和で、どこか飄々としたところさえある幼馴染の根底には、熱い情が秘められている。それをミーナは、ナドラガンドで初めて知った。蘇生した後、彼の頬に滂沱の涙の跡を見つけた時は戸惑ったものだった。
 シンイは仲間思いだ。かつてエテーネの村を治める一族の長子として育ったからか、民へ深い愛情を抱いている。村民を守るためなら、自分が危険な目に遭うことすら辞さない。それは、生き返しを受ける前から変わらない彼の気質だった。
 だから、旧エテーネ村の生き残りであるミーナが危険な局面に遭遇すると、時折シンイはかつての村の守護者の顔を覗かせる。
 こちらの問いかけに、シンイは表情を変えなかった。五大陸へ出る前なら──エテーネ村しか知らないミーナだったなら、この顔を見て本当に穏やかな人だと感心していただろう。しかし今のミーナは、彼が並々ならぬポーカーフェイスの持ち主だということを知っている。
「さて、どうでしょうね」
 案の定、シンイははぐらかした。
 やはり彼の心の内は容易には覗かせてもらえないらしい。
「二人を対立させたくなかったんです」
「ユシュカさんは、あなたを強引に眷属にしてこき使ったのに?」
「あの人、不器用なんだと思います。苦労したせいか、自分を強い立場に置かないと立ち回れないところがあって。それに、命を助けられたのは事実でしたから」
「確かに苦労人でしたね。村に来た彼と話をしてみて、そう思いました」
「言わなかった理由は、それだけじゃないんです」
 シンイは首を傾げた。
 ミーナは俯き、呟いた。
「魔族になった姿を、シンイ様に見られたくなかった」
 頭上で、小さく息を吐く音がした。
「ミーナさん。今はあなたが村長なのですから──」
「それでも、あたしにとってエテーネの長はあなたです」
 新エテーネの村はかつての村を継ぐ地ではあるが、エテーネの民だけのものではない開かれた村である。
 それでもこの村を故郷と呼べるのは、シンイがいるからだ。彼がいるから、ミーナは家に帰ってきたと思える。これは、自分のルーツがさらに古い王国にあると知った今でも変わらない。
「あたしも魔族のことを本当に憎んでいました。今だって、村を襲ったネルゲルは憎い。でも、ユシュカに出会って魔界全体の知識を得ていくうちに、彼らの生きてきた過酷な環境を知って、魔族そのものを憎むことは無くなりました。魔族になってしまった自分を恐れることも、なくなりました」
 それでもアストルティアの民にとって、魔族は冷徹な侵略者だ。
 滅ぼされる故郷を目の当たりにした彼の絶望を、ミーナは知っている。
「だから、シンイ様に拒まれるのが怖くて……勇気が出ませんでした」
 ミーナは頭を下げた。
「今更ですが、謝らせてください。ずっと言えなくてごめんなさい」
 シンイは何も言わなかった。
 今頃こんなことを言い出した自分に、怒っているのだろうか。頭をを下げたまま待っていると、顔を上げてくださいという声がした。
 顔を上げて見たシンイの様子は、何も変わらない。
「転魔の刻印、でしたか」
 突然彼の言い出した言葉に、ミーナは首を傾げる。
「あなたの魔族の姿を引き出すアイテムです。持っていましたよね」
 使ってくれませんか、とシンイは言った。
「でも」
「いいから」
 渋りながらも、ミーナは印を翳した。
 黒い魔力が体へ宿り、たちまち容姿が魔族のものになる。緊張して正面を向けず、ミーナは軽く顔を背けた。
 視界の端で、シンイの腕が動いた。
 そう認めるより先に、頬に彼の肩口を感じていた。
「シ、」
「あなたが大魔王になったと知った時」
 咄嗟に彼を自分から離そうと、手を彼の胸へ添える。だがそれより先に腰へ回った手に力がこもり、もう一方の手で頭を肩へもたれかけさせられ、動けなくなった。
「私は、よりによってあなたが何故、と思いました。エテーネ村の数少ない生き残りのあなたが、何故魔族の肩を持つのかと。エテーネ村で過ごした日々を忘れたのだとしたら、なんてことも考えましたね」
 触れた箇所から、穏やかに伝わる言葉。
 だがその内容は不穏で、ミーナは身を強張らせる。
「しかし、大魔王城から帰ってあなたの様子を見続けるうち、分かりました」
 添えられた青年の指が、柔らかに頭を撫でる。
「あなたはあなたのままだった。魔族になっても、大魔王になっても、まっすぐなまま。助けを求める者を見つけたら寄り添い、手を差し伸べずにはいられない。それが分かって、ひとまずほっとしました」
 シンイの声は温かく、包み込むようだった。
「アストルティアの真の歴史を知り、魔族にも信頼できる人がいると知った今なら、言えます。あなたはどんな姿でも、エテーネの一員です」
 殺された民のことを思えば、いかなる事情があってもアルトルティアで魔族のしてきた侵略を許すことはできない。
 それでも、あなたを信じて共存の道を探りたい。
 シンイはそう囁いた。
「私の狭量で、不安にさせてしまってすみません。謝るべきは私の方です」
「そんな! シンイ様に謝ることなんてありません」
 ミーナは慌てて顔を上げた。
「そもそも、あたしが邪神に騙されて盾島へ行って死にかけたから、こんなことになったんです」
「その点についてはそうですね。あなたはもう少し、警戒心と自愛を覚えてください」
 優しくもぴしゃりと釘を刺され、ミーナは項垂れた。
 魔界との和睦に繋がったから良かったものの、自分の行動でアンルシアを始めとしたグランゼドーラの面々にも心配をかけた。大魔王城の戦闘で、マスクの取れた自分の顔を見たアンルシアの表情は忘れられない。悪気はなかったものの、彼女には酷いことをしたと思う。
「あなたを拾ったのがユシュカさんで、本当に良かった。他の何かだったら、どんな目に遭っていたか」
 言いながら、シンイは指先でミーナの髪を梳く。裁縫針や書物を操るのに慣れた指は、髪を絡ませることなくそよ風のようになぞる。
 ミーナは知らず目を閉じ、彼の肩に頭を預けた。
 寄り添う体温と優しい指が懐かしい。幼い頃、手先の器用な彼に髪を結ってもらったのが思い出される。
「心配かけてごめんなさい」
 魔族の自分まで、シンイに受け止めてもらえた。
 安堵からか、転魔の刻印で元に姿を戻る時に何かしらの魔力を使ったからか。張り詰めていた気持ちが急速に緩み、身体の力も抜けていく。
「お願いですから、自分を大切にしてくださいね」
「うーん。善処、します」
「そこは確約してほしいところなのですが」
 それはできない。
 言ったつもりだったが、言えていなかったらしい。ミーナさん、と訝しげに覗き込む彼の気配で、はっと我に返った。疲れきった身体が限界を迎え、シンイに寄りかかるようにして半ば眠ってしまっていたようだった。
「ごめんなさい。眠くなっちゃったみたい」
「いえ。お疲れなのに引き止めて長話をしてしまい、すみませんでした」
「家に、戻りますね」
 ミーナは眠ろうとする舌をなんとか動かしてそう言い、シンイの背中に腕を回した。
「おやすみなさい、シンイさま」
 最後にぎゅっとハグをして、ミーナは身体を離した。離れた瞬間だけ少しふらついたが、すぐに体勢を立て直し、歩いて家へ戻る。
「んまーっ。ミーナちゃんったら、やるのねえ」
 家事の一切をやってくれているモーモンの声に適当に返事をし、干し草のベッドに倒れ込んだ。温かいベッドは、陽だまりを思わせる。
 ミーナはほどなく眠りに落ちた。幼い妹の髪をシンイと共に結う、懐かしい夢を見た。







+++



「おはようプケ」
「おはようございます」
 朝日に聳え立つ天馬の像の前に、トンブレロがとことこと歩いてきた。とある村一の錬金術師が生み出した錬金生物、ハナである。
 ハナはいつものように村長補佐に挨拶をし、その足元の匂いを嗅ぐ。そして、にっこり笑顔の花のついた帽子ごと飛び上がった。
「そんちょう、帰ってきたプケ!」
「ええ」
「ごほうびあげるプケ」
「ええ」
「村のまわり、クンクンしてきたとっておきプケ」
「ええ」
「どうしたプケ」
 ハナは、いつにも増して静かな村長補佐を見上げた。
 彼の視点からは、補佐の顔が見えない。だから後ろ足で立ち上がり、彼の匂いを嗅いだ。
「シンイさん、そんちょうの匂いするプケ」
「そうですね」
「仲良しプッケ?」
「そうなんでしょうね」
 ハナは帽子を傾けた。珍しく、シンイの声はぼんやりとしていた。上の空のような、物憂げなような。ハナにはどちらとも判別しがたかった。
「気を許されているのはいいんです。けれど、ここまで来ると複雑ですね」
「プケ」
「警戒心と自愛。何としても覚えていただかないと」
 これからも、心配させられそうだ。
 そんなことを言って、シンイは溜め息を吐いた。
 よく分からないが、励ましてあげた方がいいらしい。
 そう判断したハナは、仕入れてきたメダルフラワーの一つを、そっと彼に差し出した。










20231020