願いが叶って誰が泣く




※ver6.3までのネタバレ有。






































 やっと、大魔王ゴダを倒した。
 レオーネは腕を下ろした。大魔王の攻撃を防ぐために防御し続けたせいか、腕が疲れていた。
「大丈夫か」
 背後に庇ったダフィアを振り返ろうとして、顔面を手で押さえられた。
 その手に、無理矢理前を向かされる。
 目の前に、大魔王に迫っていたはずの兄の笑顔があった。
「アシュレイ?」
 レオーネの左頬を押さえる兄の手は、ひどく頑丈だった。
 頬に添う掌は優しいのに、指先が顎に食い込んでいる。
「どうしたんだ。痛いよ」
「レオーネ、ちょっとこっち来い」
 アシュレイはレオーネの背中を抱いて走り始めた。
 振り返る暇も与えず、竜の峰の先へと連れていかれる。
 何がしたいのだろう。
 レオーネはいろいろと頭を巡らせる。
「兄貴。心配しなくても、俺はダフィアに気はないよ」
「あー。それはもういい」
 アシュレイは顰め面をした。
「それより、いっせーので飛ぶぞ」
「は?」
「いっせーのっ!」
 言われるがまま、ジャンプした。
 ちょうどそこは山頂の端であった。
 大きく跳躍した二人は、ドラクロンの空を落下しはじめた。
「何考えてるんだバカ兄貴!」
 レオーネは血の気が引き、アシュレイに抱えられていない方の手を、次第に迫ってくる山肌へ向けた。
 その下に、白い何かが滑りこんで二人を受け止めた。
 それは、竜の子供だった。
 純白の鱗を纏う背中に跨る形になった兄弟を乗せて、竜は滑空していく。
「飛竜だよ。乗せてくれるんだとさ」
 凄まじい動悸に喘いでいるレオーネを後ろから抱え、アシュレイは何食わぬ顔で飛竜の手綱を握っている。
 都合のいいことに、竜の背には二人分座れる大きさの鞍がついている。
「ほら、レオ。しっかり手綱持てよ。お前が飛んでいかないように、俺がお前を支えておいてやるからさ」
 しっかし、いい景色だな。
 眼下の森を眺めて呑気なことを言う兄に、レオーネは突っかかる。
「驚いただろ。せめてどうするつもりか教えておいてくれてもよかったじゃないか」
「じゃあ、こうするって言ったらお前、来たか?」
 アシュレイにそう言われ、レオーネは先ほどまで自分たちがいた場面のことを思いだした。
 振り返れば、ドラクロンの頂は遠く霞んでいた。
「師匠は? ダフィアは?」
「来ないよ」
 兄は答える。
「これは俺達だけの乗り物だからな」
「どこに行く気なんだ。みんなが帰りを待ってるのに」
「何言ってんだよ」
 アシュレイはレオーネを振り返り、目を丸くした。
「大魔王を倒したんだから、勇者はお役御免でいいだろ。後はみんなで適当にやるって」
「本気で言ってるのか」
 レオーネは愕然とした。
「俺達は人間の団結のため、ゼドラとレビュールを一つにするためにも──」
「あーあー。風が強くて聞こえねえなあ!」
「アシュレイっ」
 飛竜が急旋回して、レオーネの喉に空気の塊が押し込まれた。
 咳き込むレオーネを余所に、アシュレイは眼下の光景に声を弾ませる。
「見ろよ。俺らの陣地だ。本当に小せぇなあ」
 大地を埋め尽くす木々の隙間に、人間たちが築いたテントや柵がちらほらと見える。
 飛竜が上昇するとそれさえも見えなくなり、レンダーシア大陸が海にへばりついた緑のシミのようになる。
 飛竜は海の上を疾駆する。
 青い海原はやがて若葉溢れる新たな大地へと変わった。
 可愛らしい丸い樹木やポップな花々が踊っている。
 レオーネの知らない景色だ。
「ここは」
「知らねえよなあ」
 アシュレイは地図を手にしている。
「プクランド大陸って言うんだとよ。なんつーか、夢みたいな場所だな」
 飛竜はいつの間にか車に変わっていた。
 黒い車が野原の上を浮遊すると、草原に波が立つ。
 あれ。俺は何故これが車だと知っているのだろう。
 レオーネが疑問に思った時、運転席のアシュレイが座席の頭を掴んで後部座席に移動した。
「お前も運転してみろよ」
「え? うわっ」
 運転手がいなくなった車がふらつき、岩壁にぶつかりそうになる。
 レオーネは慌ててハンドルを掴み、回した。
 車は壁すれすれのところで弧を描いて曲がった。
 ハンドルを操作しながら、慎重に空いた運転席へと身体を移す。
 レオーネが運転席に収まると、ふらついていた乗り物の軌道が安定し、再び車は順調に走り始めた。
「これはドルボード。ドワーフの発明した乗り物で、車とか玩具とか羽根とか、持ち主の好きな形にして走ったり飛んだりできるんだと」
「アシュレイ」
 レオーネは後部座席から助手席に滑り込んできた双子を横目で睨んだ。
「話を逸らそうったって無駄だよ。これだけ勢いのあるものを動かしてるのに舵を離すな。普通、どこかで一度停めた方が安全だろ」
「でも、レオはうまいことやってくれたよな」
「そういう問題じゃない」
「あー。風が気持ちいいなぁ」
 アシュレイは大きく伸びをする。
 彼の茶髪が風になびくのを見て、レオーネもまた自分の後ろ髪をさらう風を感じる。
 花の香りが頬を撫でる。
 車型ドルボードはレオーネの操るままに風を切り、大地を跳ねる。
 走るよりも遥かに速くて、体力も使わない。
 レオーネは目を細めた。
「ああ。そうだな」
「大魔王を倒したら、お前と一緒に出掛けたかった」
 アシュレイは頭の後ろで腕を組み、晴天を仰いでいる。
「二人で二つの部族をまとめて、新天地を切り拓くんだ。魔族に削られた地を回って、人間が住めるようにする。俺達より腕が立つ奴は部族の中にいないんだから、俺達二人にしかできない。そうだろ?」
「腕前に関しては、そうだろうね」
「散々揉めてきた俺達の部族のことだから、これから先も揉めるんだろうな」
 過去の諍いの火は、いつまでもくすぶり続けてなかなか消えてくれない。
 アシュレイは上体を倒し、手の甲に顎を乗せる。
「俺達大魔王を倒した勇者二人が双子の王として仲良くしていたら、いつかは争うのをやめてくれねえかな」
「完全にやめさせるのは厳しいだろう」
 レオーネは車の向かう先を見据えている。
「俺たちは大魔王がいるうちは団結の象徴だが、いなくなってしまったらそれぞれの部族の象徴になる。俺達の治世に、いがみ合ってきたポイントを一つ解消できたら御の字といったところかな」
「そんなまた、悲観的な」
「現実的な分析だよ」
 急に、車が大きく跳ねた。
 二人は揃って声を上げる。
 走っていた地面が急になくなり、車体が下を向く。
 車の鼻先に一面桃色の花畑が迫ってくる。
 わっと花びらが散る。
 散った桃色は弾ける花火になり、虹色のパンケーキの上でちりちりと音を立てつつ、プクリポの少女に運ばれてやって来る。
「お待たせいたしましたー。パンケーキでーす」
 蜂蜜のような瞳と体毛のプクリポは、二人の目の前に形容しがたい甘くて魅惑的な香りを漂わせた菓子を一つずつ置いていく。
 パンケーキというらしいそれは、燦然と輝く太陽や虹のかかる青空、その下でとりどりに目をにぎやかす草花をすべて詰め込んだようだった。
「何だこれ、すげえ」
「何なんだこれは」
 二人は眼前の菓子にそろって目を丸くする。
 彼らは薄暗いカフェにいた。そこら中の看板にネオンが踊り、大きなぬいぐるみや可愛らしい布飾りなどで店内を飾りつけてある。
「どこから食べたらいいんだ?」
「とりあえず食ってみて、もし違ったらあとで食べ直せばいいだろ」
「一度食べたものは食べ直せないだろ」
「いただきます!」
 二人はフォークとナイフを使い、おそるおそるパンケーキの小片を口に含んだ。
 同時に、向かい合った顔を見合わせた。
「甘いな」
「甘いね」
 二人は夢中でパンケーキを食べた。
 小山のようなパンケーキが、みるみる二人の口の中に吸い込まれていく。
「よく分かんねえけど、溶けて無くなっちまったよ」
「もうちょっとマシな感想ないの?」
「もっと早く、こうしていればよかったな」
 空になった皿に、アシュレイがナイフとフォークをそろえる。
「お前をレビュール族の養子にする話が出た時。父上も母上も巫女の言葉に逆らえないなら、何も知らないガキの俺がやっちまえばよかったんだ。お前の手を引いて集落を出て、逃げちまえば」
「子供が部族の大人たちから逃げられるわけがないだろう」
「いや、分かんねえぞ。だって、俺達は二人で勇者だろ」
 二人で懸命に逃げて、いつかゼドラでもレビュールでもない別の人間の──師匠みたいな人達の集まりに出会って。
 そこで別の人間の世界に馴染んで、別の形で二人の勇者として成長して。
 二人そろって魔王を討ち、生還する。
 そんな未来があったかもしれない。
 アシュレイの言葉に、レオーネは鼻を鳴らす。
「お前にそれができるのか? 兄貴はなんやかんや言って、みんなの味方だからな」
 レオーネは笑いながら、老婆の声色をまねる。
「よいか。お前たちは勇者なのだから」
「人々を助けるのは当然」
 アシュレイも茶目っぽく老婆の声色で返す。
 そして、ふと笑みを消した。
「レオーネ。俺さ、勇者とか部族とか、本当はどうでも良かったのかもしれない」
 レオーネは眉を持ちあげた。
 無言で先を促す片割れに、アシュレイは語る。
「俺の目の前にいる人を笑顔にしたい。その人が誰であるかなんて気にしない。目の前の人が笑顔でいれば──それだけで俺はいいんだ」
 アシュレイはゆっくりとかぶりを振った。
「俺が一国の王をうまくこなせなかったのは、こういうところのせいなんだろうな」
 何を言っているのだろう。
 大魔王を倒したばかりで、国王になどなっていないのに。
 レオーネがそう思ったのは束の間のことで、すぐに思い直した。
 ああ、そうか。
 大魔王を倒したのは、今はもう遥か昔だったか。
 レオーネは急に、自分が今夢を見ているのだということを自覚した。
 過去を彷徨っていた意識が現在に取り戻し、全てを思い出す。
 塔に展開している己の心域に朦朧とした魂が混ざったから、このように心域と夢が混ざってしまい、奇妙な展開を迎えていたのだ。
 さらにレオーネは、目の前にいるのは本物の兄だという確信があった。
 兄と心域が繋がっているのを感じる。
 不思議な出来事だが、理屈は分からなくもない。
 何故ならアシュレイはこの世に二人といない己の双子の勇者で──レオーネをその剣で貫いた者なのだから。
 死した後、この世の狭間を彷徨う自分の心域に呼び寄せられ、迷い込んでも不自然ではないだろう。
「だから、お前は勇者なんだよ」
 レオーネは優しく諭すように言う。
「人間は皆等しく同じで、分かり合えると無条件に信じられるんだから」
「俺だって、みんな同じだったわけじゃない」
 アシュレイは両手の指を組み、額に当てる。
 まるで、懺悔するような姿勢になる。
「お前だけは、他の人間と違ったんだ」
 俺の大事な弟。
 引き裂かれた片割れ。
 名前も体も、お前の存在がなくなることだけは許せなかった。
「お前がいてくれたら……何度そう願っただろう。俺はレオに戻ってきてほしかった。今だって、戻ってきてほしいと思ってる」
「兄貴。俺はもう勇者にも盟友にもなれないんだ」
 レオーネはうっすらと笑う。
「俺は心の底から人間に──自分に絶望してしまったから。完璧はないと知った今、もう未練はない」
 そう言ってから、ふと気づいたように声を落として呟く。
「いや。一つだけ心残りがあったか」
「え、何だ」
「教えない」
「何でだよ」
「もう、ある人に頼んだから」
 アシュレイは肩をすくめた。
 レオーネは周囲へ目を転じた。
 カフェの中には、二人の他に人はいない。
 先ほど料理を運んできたプクリポの少女も、どこかへ行ってしまった。
 皿を片付けた方がいいだろうか。
 逡巡するレオーネの手が、皿の横へ置かれる。
 その手に、伸びてきたアシュレイの手が重なる。
「生まれ変わったとしても、お前とまた双子がいい」
 そう言う兄の調子は、珍しく静かだった。
 己と同じ形をした双眸が、まっすぐレオーネを見据える。
「お前と今度こそ同じ場所で暮らしたい。お前にも、対等な関係だと思ってもらいたい。もう一回、お前と」
 切実に訴える唇に、苦い笑みが閃く。
「そう言ったら、またお前に溜め込ませちまうのかな」
「兄貴からそんな言葉が出てくるようになるなんてね」
「おいおい」
 アシュレイは眉根を寄せた。
 今度はレオーネが肩をすくめた。
「俺は、少なくとももう一回あの時代に生まれるのはごめんだよ。兄貴みたいにできる自信がない」
「何で俺みたいに?」
 アシュレイは首をかしげる。
「レオはレオだろ。お前は俺と違って察しがいいし冷静だし、理論家だ。俺より優秀なのに、どうして俺みたいになんて言うんだ?」
「兄貴。最後に戦う前、俺が言ってたことをちゃんと聞いてたのか?」
 レオーネは溜め息を吐く。
「まったく、これだから兄貴は」
「な、なんだよ。話は聞いてたからな」
「分かってるよ。兄貴は生まれながらの強者なんだって」
 アシュレイは困ったような顔をする。
 レオーネは笑う。
「これじゃあもう一回兄貴と一緒に生まれてきたら、また苦悩多き日々になりそうだな」
「言っとくけどな、レオ。俺だって悩んだり苦しんだりするんだぞ」
 お前と同じ悩みじゃないかもしれないけど。
 アシュレイはレオーネを指差した。
「仮にお前が俺みたいになったとしても、苦しみからおさらばできるわけじゃないんだからな」
「アシュレイは生まれてこなければよかったと思ったことがあるのか?」
 そう言われて、黙った。
「……別のやり方をすればよかったかなって思うことなら、いっぱいある」
「兄貴には、俺の苦しみは分からないよ」
「くそーっ。またか」
 アシュレイは頭を抱えた。
「いつも分かってないって言われるんだ。分かってない俺が悪いのは分かってるけど、分からないもんは分からないんだよ。はっきり言葉で教えてくれよ」
「兄貴は腹に溜め込んでるものが少ないよな」
「少なくしようとしてるんだよ。俺だって思うところがないわけじゃねえんだ」
 でも俺は勇者で、強くあらねばならない。
 俺が諦めたら、誰が人を助けるのだろう。
「だけど、俺がそうだと苦しむ奴がいるんだ。俺はどうすればいい」
 アシュレイは本気で苦しそうだった。
 レオーネは頬杖をつく。
「まったく。大した美徳だよ」
 アシュレイは半眼になる。
「嫌味か?」
「少しだけね。でも、真面目に褒めてるよ」
 レオーネは目を伏せた。
「兄貴はいい人だ。人間というだけで、どんな奴でも信じて手を組み、力になろうとする」
 卓上に投げ出された兄の手を、今度は弟が握り込む。
「そういう誰でも信じようとする人が名君と呼ばれる時代か世界に生まれたかったな。そうしたら、俺も兄貴も幸せだっただろうに」
 かりそめの生を受けて世界の続きを知り、改めて思い知ったことがある。
 自分達の生きた世は、原始の乱世だった。
 神の導きを失い、社会が変わる境目だったのだ。
 しかし、人間にとっての神話が神から勇者に変わっても、人間の中身は変わらない。
 人々は自分好みの神話を求め続ける。
 それはいつの時代でも変わらず、特に乱世ではその傾向が強くなる。
 そういう時代において、選り好みしない純真な者は利用され、知らぬ間に周囲の好みの色を付けられる。
 まさに、自分と兄のように。
「人が人を導くなんて、土台無理なんだ。兄貴は悪くないよ」
「導く、か。俺はとにかく平和に暮らしたいよ」
 アシュレイは力無く呟く。
「少なくとも、俺よりお前が生き残って王になるべきだった」
「よしてくれよ。国家なんてうんざりだ」
 レオーネはひらひらと手を振る。
「一人の人間さえ守れない者が、大勢の生活を守れるものか」
「レオ。お前は優しすぎるんだ」
 アシュレイは真剣に言う。
「自分を犠牲にして他人が幸せになるなら、当たり前のように自分を殺す。でもな、お前の人生はお前ので、そいつの人生はそいつのだ。お前の言動だけでそいつの運命が決まったとか、幸せだったとか不幸だったと決めて考えるのは、真面目を通りこして不遜だぜ。お前はもっと自分を誇っていいんだ」
 レオーネはしばし沈黙する。
 点滅するネオンが、二人の上に綾をなす。
「心が痛いんだ」
 レオーネはぽつりと呟く。
「どうしようもなく、痛い。また一人になるのは耐えられない」
「俺はいつもお前を思ってるよ。お前は一人じゃない」
 俺にそんなこと言われても、何の慰めにもならないかもしれないけど。
 アシュレイは自嘲の笑みを漏らしつつも、両手でレオーネの手を握りしめた。
「今は休んで、また一緒にやろうぜ」
「一緒なのは確定なのか」
「そうじゃなきゃ俺達じゃなくね?」
 レオーネは何も言わずに兄を見つめた。
 アシュレイは眉を下げる。
「やっぱり、何度どう離れても双子をやりたいのは俺だけなのか」
 俺の片思いかあ。
 アシュレイは肩を落とす。
 レオーネは耐えきれず、噴き出した。
「なんで笑うんだよ!」
「いや、ごめんごめん。お前の顔が面白くてさ」
「俺は真剣なんだぞ。おい」
 アシュレイは唇を尖らせる。
「ふん、いいよ。悔しいけどな、お前が俺のことを嫌いでも、俺にとってお前が大事な双子の弟なのは変えられないんだ」
 お前がゼドラ族でもレビュール族でも。
 勇者でも、盟友でも。
「ジア・クトの欠片を宿していたって、良かったんだ。天使共がとやかく言ってたって知らねえ。レオはレオだ。俺の大事な、大好きなレオ」
 お前にもう一度会えて、本当に嬉しかった。
 今も幸せなんだ。
 またもう一回会えないかと望むほどに。
 ひそやかに囁き、兄は弟の手を離した。
 レオーネは何も言えなかった。ただ、胸中に兄の言葉が響いていた。
 アシュレイは大きく頭を逸らしてぐるりとカフェを見回す。
「しっかし、この世界は何なんだろうな?」
 がらりと調子が変わって、いつもの明るい能天気な喋りになる。
「最初は俺の心域かと思ったんだ。でも急に知らない景色になるわ、知らない乗り物は出てくるわ、予想外の展開が来るわで。しかも知らないはずなのに、知識はどこからか伝わってくるんだもんな。意味分かんねえ」
「確かに俺達の心域だよ」
 レオーネも冷静に世界を振り返る。
「でも、俺達二人の心域が溶け合ったにしては、知らないものが多すぎる。誰か、俺達とは違う時代を生きるもう一人の心域が繋がっているのかもしれないね」
「なるほどな。おかげで知らねえアストルティア観光ができて面白かったな!」
 アシュレイは破顔する。
 レオーネも微笑んだ。
「腹が一杯だ」
「だよなぁ! こんな甘いもん食ったことなくて、食い過ぎちまった」
「眠くなってきた」
「そう、か」
 アシュレイの声が僅かに揺らいだ。
 だが顔は笑ったまま、元気よく立ち上がる。
「じゃあ、枕でも探してきてやるよ。待ってな」
「いい」
 レオーネの瞼が重くなり、瞳孔が夢に溶けはじめる。
「肩を貸してくれ、兄貴」
 アシュレイは束の間目を見開き、すぐ向かいの席の横へと飛び込んだ。
 同じ高さの肩へ、レオーネは頭を預ける。
 アシュレイもまた、同じ高さの肩を抱いた。
 レオーネが目を瞑り、呟く。
「硬い」
「おーい。貸せって言っておいて、そりゃないだろ」
「俺が処刑される時に迎えに来たのが、天使じゃなくてお前だったら良かったのに」
 アシュレイの肩が震える。
「レオ。お前」
「兄貴」
 レオーネはくつくつと笑う。
「ちょろすぎ。そうやってすぐ泣くんだから」
「分かってんだよ、うるせえな! くっそ、お前って奴は本当に」
 ぶつぶつ言う耳が赤い。
 その色に、訓練で褒められて頬を上気させる、小さな勇者を思い出す。
「アジールは、可愛くて賢くて努力家だった」
「何が言いたいんだよ。はっきり言えって」
「あいつを育ててる時、楽しかった。昔のこともどうでもよくなって、本当に別の人生を歩み始められた気がしたんだ」
 レオーネは自分の右耳の上に添えてある羽根飾りに触れた。
「でも、こいつを外す発想が浮かばなかった。今考えると、我ながら不思議だ」
「レオ、ありがとな」
 アシュレイは肩を抱えていた手で、弟の髪を梳く。
「俺の作った盟友に合わせてくれて」
「お前のためじゃない。アジールのためだ」
 ああ。
 レオーネは瞼を閉ざし、米神に触れる温もりに意識をやる。
 羨望も嫉妬もした。
 支配されてとのこととは言え、嫌いだと口にしたこともあった。
 すべて忘れたこともあったのに。
 どうしてこの温もりが欲しくなるのだろう。
 何故、この片割れの馬鹿みたいにまっすぐな熱い思いをぶつけられて、心が満たされているのだろう。
 いや、本当は分かっている。
 それを胸の奥に仕舞い込み、代わりに囁く。
「おやすみ、アシュレイ」
 片割れは笑う。
「またな、レオーネ」
 声が震えている。
 また、明るい声色を無理して作って。
 本当に愚かしいほど純真で強くて──かけがえのない、俺の大好きで大事な兄貴。
 俺の永遠の、理想の勇者。
「やっぱりお前は、俺の希望だったよ」
 俺を楽にしてくれて、ありがとう。
 レオーネは夢見心地でそう口にして、微睡む。
 瞼の帳が落ちた空色の瞳の前には明るい草原が広がり、幼い二人がどこまでも駆けていくのだった。











20221026