女王と村長補佐の秘密のお戯れ




※ver5.5までのネタバレ有。























 これは、ある秘密の物語である。

 舞台は、レンダーシアの秘境、エテーネ島。
 そのエテーネ島の中でも隠された村、新エテーネ村。
 その新エテーネ村の中でも、村外れにひっそりとたたずんでいる南西の家屋。

 そこに、二人の人間とたくさんの猫がいた。

 人間の片方──ふわふわとした猫っ毛に翼の生えた個性的なヘルメットをかぶった青年は、ひたすら猫缶の蓋を開け続けている。

 彼の指先で缶の蓋が剝がされた途端、あたりに磯の芳香が迸る。
 好物の気配にすぐさま反応し、群がり飛びついてくる猫たち。

 しかし青年は、彼らのしなやかかつトリッキーな動きも何のその、まるで知っていたかのようによけ、流れるように缶をさばいては器に中身を放っていく。
 その身のこなし、手さばきは、誰がどう見ても只者ではない。

 彼の名はシンイ。
 この村では知らない者のいない、村の結界の守護から猫のエサやりまでこなす、働き者の村長補佐である。

 実際のところは、新エテーネ村の村長は出かけていることが多く、村の雑事はシンイがこなしているため、彼が本当の村長ではないかという声も上がっている。

 その声をあげている人物は当の村長であり、

「前のエテーネ村長の血筋で、仕事もオレ以上にしてるんだから、どう考えてもシンイが村長だろ」

と常々言っているのだが、これまた当のシンイが彼を村長にと推して聞かないので、しかたなく村長を名乗っているのであった。

 もう一人の人物──たっぷりとした菫色の髪を一つにくくった長身の美女は、床に寝転がり、猫たちが飯にがっつくのを、緩みきった締まりのない顔で眺めている。

 彼女の名はメレアーデ。
 新エテーネ村の源流、古代エテーネ王国が祖レトリウスの血を最も濃く継いだ、王国最後の女王である。

 チェスを持たせれば腕利きの軍人であった弟に連勝し、エテーネルキューブを持たせれば時間軸への冷静かつ正確な干渉を成し遂げ、民の前に立てば民族の長たる慈愛と優雅さと貫禄をあらわして彼らの声援を浴び、ブーメランを持って戦闘に加われば攻撃から蘇生まで行うこともできてしまうとんでもない才女だが、猫にだけはふにゃふにゃの笑顔で腑抜けた声をあげることしかできなくなるという一面も併せ持っている。

「猫ちゃ~ん、いっぱい食べてえらいでしゅね~」

 女王は高い声で猫に話しかけるが、猫たちは彼女の方を一瞥したきり、黙々と食事を続けるだけだった。

 カシュ、カパ。カシュ、カパ。カシュ、カパ。

 シンイが猫缶を開ける音が響く。

 全ての猫たちが食事にありついた後、シンイは額の汗をぬぐって立ち上がった。
 メレアーデの方を見れば、横になったままぴくりとも動かない。背を向けていて表情は伺えないが、眠ってしまったのかもしれないとシンイは思った。

 実際、以前彼女が半日部屋から出てこなくなったことがあって、心配して見に行ったところ、猫ベッドで猫たちと一緒に丸くなって寝ていたことがあった。

「メレアーデは、ここに癒されに来てるんだよ。寝かせておいてやろう」

 あの時そうシンイに語ったのは、この村の村長であり、彼女の従弟でもあるエックスだった。
 新エテーネ村の空気は、良質な毛布のように暖かいから、放っておいて大丈夫だろう。
 二人は、そっと部屋の鍵を閉めて帰った。

 その翌朝、メレアーデがシンイのところへやって来た。

「昨日はありがとう。心地良くて、すっかり寝入っちゃったわ」

 照れくさそうに笑って、王国へ帰っていった。

(なんと強い人なのだろう)

 ルーラストーンを翳す彼女のすらりとした背中を見つめ、シンイはそう思った。

 エックスという血を分けた友がいるとはいえ、かつてのエテーネ王国を知る王族は彼女一人。
 他国の民草の命と自身を犠牲にしてまで国を守った弟王と、散っていった者たちの遺志と、生き残った民の不安と期待とを一身に背負ってなお、彼女はどこか間の抜けた笑みを浮かべ、飄々と生きている。

 無論、彼女を支えてくれる存在は国内外にいるらしい。彼女自身が遺志を継ぐことを望んだのだということも、エックスから聞いている。

 だが、長として守り抜くつもりだった村を滅ぼされ、転生してなお、竜族として、エテーネ人の生き残りとして、民族を背負う立場に立つことになったシンイは、彼女の身の上にある種の共感を覚えていた。

 今の生活はかけがえのないもので、楽しい。村の人々を守ることも、竜の世界を見守ることも、やりがいがある。
 それでも、過去に知った絶望と怨嗟は消えない。

 穴の空いてしまった服に、新しい色鮮やかな布を縫い付けるようにして、シンイは生きている。
 だから、彼女もそうなのではないかと思う時がある。

(でもそれは、私の勝手な投影だ)

 メレアーデは、猫たちが食事を終えて毛繕いを始めても、一向に動き出す気配がない。
 シンイは以前のように、静かに退室しようとした。

「ねえ、シンイさん」

 踵を返した瞬間、呼ばれた。
 いつものふわりとした声とは異なる、とても静かな声だった。
 シンイは立ち止まる。

「なんでしょうか?」
「あのね」

 メレアーデはそう言ったきり、黙り込んだ。
 シンイは振り返らぬまま、彼女の台詞の続きを待った。

「エックスとアンルシアちゃんって、実際どんな関係なの?」

 振り返った。彼女は上体を起こし、こちらを見つめていた。
 空色の瞳は何の屈託もなく、きらきらと輝いている。

「二人は、盟友と勇者として一緒にたくさん戦ってきたんでしょう? 私がエテーネ王国の再興に追われてる間も、魔界に行ってから色々あったそうね。それも乗り越え、闇の根源を討伐して帰って来た。すごいわ。あの二人は、どうしてそんなに強い信頼関係を保ち続けられるのかしら」

 旅路があまりにも辛かったから?
 それとも実は、恋人だったりして。

 磨き抜かれた青い宝石のようにきらきらと輝く双眸を前にして、シンイは内心大きなため息を吐いた。
 身構えて損した。

「メレアーデさん。それは詮索ですよ」
「あんまり褒められたことじゃないのは、分かってるわ。でもね、シンイさん。私、キュルルの魔法で、あの二人が心の奥深い場所で出会ったことを知っちゃってるの」

 シンイさんも知ってるでしょう、とメレアーデは小首を傾げた。

「クロウズさんって、あなたのもう一つの顔よね?」
「……そこまでご存じとは」

 シンイは驚いた。
 生き返しを受けた姿のことは、隠してこそいないが必要に迫られて話すこともないため、クロウズと自分が同一人物であることは、エックスとその弟以外誰も知らないと言っていい。

「そこまで時の妖精によって知らされている、時渡りの使い手であったあなたならば、いまさら聞くまでもないのでは?」
「そうよねえ。何となく、見当はつくわ」

 メレアーデは、近づいてきた猫を抱えてまた寝転がった。

「でも、私ね。キュルルの魔法であの二人の旅路を見て、大変な運命を生きてるんだって尊敬する一方で、思っちゃったのよ。世界の命運を背負うことになって、離れ離れのたった一人きりになることがあっても、お互いを信頼して戦い続けるって、どうやったらできるものなのかしら」

 私はきっと、これから先もずっと一人よ。
 メレアーデの顔の上には、腕から這い出した猫が乗っており、声がくぐもっていた。

「私の大切な人たちは、マローネおばさまとエックス以外、みんな逝ってしまったわ。私が愛したエテーネ王国は、もうない。それでも、私の大切な人たちが守ろうとした国を、私も守りたくて……過去のエテーネ王国の幻影を胸に抱きながら、今のエテーネ王国で生きている。大いなる力にすべてをゆだねず、自らの目で未来を見る。過去の王国と同じ轍を踏まない、みんなが生き続けられる国を作りたい」

 猫がメレアーデの顔の上から退く。
 彼女は見下ろすシンイと目を合わせ、眉を下げて微笑んだ。

「国のみんなは、私にとってもよくしてくれる。エックスは、心の支えになってくれているわ。可愛くて頼れる弟がもう一人できたみたいで、とっても嬉しいのよ」

 生きている弟のような人と、死んでしまった実の弟と。
 メレアーデは、二人の大きな楔で生かされている。

「それでもたまに、結局のところすべては私の独り善がりなんじゃないかって、思うことがあるのよね」

 シンイは黙っている。
 メレアーデは起き上がり、大きく伸びをした。

「ああ。嫌ね、もう! シンイさん、ごめんなさい。変な話を聞かせちゃった」

 舌をぺろりと出して、手を横に振る。

「キュルルの魔法で見たエックスとアンルシアちゃんの旅に、すっごく感動しちゃって! もっと続きを知りたくなっちゃったのよ。詮索みたいなことしちゃって、ごめんなさい」

 メレアーデは立ち上がる。
 部屋の隅にまとめてある空いた猫缶の詰まった袋を手にして、彼女は出口へ向かう。

 シンイとすれ違った。
 その時、彼の手がメレアーデの手首を掴んだ。

「来週」

 驚いて振り向いたメレアーデに、シンイが言う。

「エックスさんが言っていました。来週、エックスさんがアンルシア姫にエテーネ王国を案内することになっているそうですね」
「そうよ。よく知ってるわね」
「尾行しましょう」

 メレアーデは、目をぱちくりさせた。










 エテーネ王国は、時空転移後のグランゼドーラ王国と良好な関係を築き上げてきている。
 特に現グランゼドーラ王アリオスはエテーネ王国に友好的で、エテーネ王国とレンダーシア、アストルティアの架け橋として、様々な補助をしてくれていた。

 ある時の会合で、王は言った。

「メレアーデ殿。アンルシアに、エテーネ王国のことを教えてやってはくれまいか」
「もちろんです。でも、なぜ急に?」
「アンルシアは、魔瘴深き時代に勇者として生まれてきた。来たるべき時を警戒して、私たちはあの娘を満足に城の外へ出してやれなかった。大魔障期を越え、闇の根源を討った今、あの娘には戦い以外の方法でも外の世界のことを知ってほしいのだ」

 五千年前、エテーネ文明が世界に及ぼした影響は計り知れない。
 その超文明国が現代へやってきたのだ。今後、世界によりいっそうの影響を与えるだろう。
 だから、アンルシアにはまず大エテーネ島へ行ってもらいたい。
 アリオス王はそのようなことを語った後、目を伏せた。

「アンルシアをあなたにお願いしたいのは、それだけが理由ではない。あの娘は、近しい年頃の友人が少なくてな」

 アンルシアには兄がいたが、大魔王から妹を守るための影武者として生き、命を落とした。
 エックスからも聞いた話だ。
 メレアーデは黙って王の話に耳を傾ける。

「私達は、勇者としてあの娘を育てざるをえなかった。だが、一人の娘としても幸せに生きてほしいと願っている。公務の大変なところに無理を言って申し訳ない。どうか、頼まれてはくれないだろうか」
「まあ! 頼まれるなんて、とんでもありませんわ」

 メレアーデは満面の笑みで手を打ち合わせた。

「姫のことは、かねてからぜひご招待したいと思っていたのです。グランゼドーラ王国の、それも当代の勇者がエテーネ王国に親しんでくだされば、我が民も大いに活気づきましょう。ぜひ遊びにいらしてくださいな。私個人としても、可愛らしい姫とさらにお近づきになれる機会をいただけるなんて、願ったりかなったりですわ」

 王国と自分、両方に益がある提案を、吞まないわけがない。
 家族を大切に思う王に、報いたい気持ちもあった。

 そのような経緯で、メレアーデはアンルシアとちょくちょく会っていた。

 最初に、共にドレスを着てキィンベルを歩いた。
 次に、錬金術師たちの店へ遊びに行った。
 その次に、軍と市民両方の警備隊のもとへ顔を出した。

 皆、アンルシアとメレアーデの来訪を喜んでくれた。

 特に王国軍の盛り上がりようは素晴らしかった。
 アンルシアと模擬試合をした兵士達、それを観戦した兵士達。
 どちらも彼女の強さに驚嘆し、触発されてさらに腕を磨こうと決意する者が現れた。
 クオードを失って以来、火の消えたようだった軍部に、少し活気が戻った。

 メレアーデも、何事にも素直な彼女と接する度、自分が癒されるのを感じていた。
 だから大エテーネ島の地理を彼女に見てもらう日に、あいにく別の公務がかぶってしまった時は本当に残念だった。
 レーテの湖やラウラリエの丘、星落ちる谷といった素晴らしい景色を前にした彼女の反応を見たかったと悔やみつつ、仕方なく彼女と気心が知れているエックスに案内とボディーガードを頼んだ。

(あの時の私が、今の私を見たらびっくりするでしょうね)

 メレアーデは今、久しぶりに橙の旅装を纏い、バントリユ地方レーテの湖のほとりに立っていた。
 岩場の陰から、エックスとアンルシアが湖を散策しているのを眺める。

 今日のアンルシアは、白と若葉色の優雅なロングドレスを身にまとっていた。
 エックスはいつもの旅装、鎧姿である。
 まるで、令嬢と付き従う護衛のようだった。

(少しはドレスアップしてくればいいのに)

 メレアーデは、従弟らしい飾り気のなさに笑ってしまった。

「あなたが錬金術師たちと話し合っている間、エックスさんたちはバントリユ地方をくまなく巡っていました。この地方は、エックスさんにとって思い出深い場所のようですね。おかげで、あなたの見たい景色に間に合いました」

 隣のクロウズ、もとい竜族の姿に変化したシンイは、帽子のつばを持ちあげて彼らの様子を窺っている。

「アンルシア姫の勇者の眼に見破られるのではないかと思っていましたが、問題なさそうです。よかったよかった」

 シンイは、公務の終わったメレアーデをここまで連れてきてくれたのだった。
 しかも、メレアーデの仕事中に、彼らの動向を飛竜を通じて把握し、こっそり尾けていたのだという。

「シンイさんって、すごいのね」
「お褒めにあずかり、光栄です」

 メレアーデは、ずいぶん背の高くなった彼を見上げた。

「アンルシアちゃんは、幻術を見破る力を身に着けてるんでしょ? なのに、こうやって見ていても気づかれないなんて」
「私が魔族だったなら、即座に気づかれていたかもしれません」

 風が吹き、シンイの長い髪が背後へ流れる。
 首筋の、人ならざる鱗模様があらわになる。

「厳しい修業を経たアンルシア姫は、いっそう闇の気配に鋭くなりました。その力、アストルティアの一所に現れたたった一人の魔族の気配を、離れた大陸にいてもなお即座に察知するほどです。ですが私は魔族ではなく、彼女に敵意もない。加えて、幻術は空を司る竜族のお家芸です。竜族の幻術を破ることは、他の種族には難しい」

 もっとも、とシンイは目を細めた。

「今は傍に盟友がいるから油断しているだけ、ということも考えられますが」
「エックスに見破られることはないの?」
「まずないでしょう。エックスさんは今、竜族の幻術封じの呪具を持っていません。しかも、幻の類にはとても弱い」

 私の知る限りでは、一人きりで幻術を打ち破れたことはほぼありません。

 そう言うシンイの眉間には、皺が寄っている。
 メレアーデは大きく頷いた。

「エックスって、幻術じゃなくても騙されやすいというか、すぐ人のことを信じるものね」
「はい。誰にでも親身になれるところが、エックスさんのいい所なのですけれど」
「気苦労が絶えないでしょう」
「ええ。本当に」

 シンイとメレアーデが語り合う間、エックスとアンルシアは湖郡に点在する石の上を飛び歩き、景観を楽しんでいた。

「きれいな湖ね! 深いのに透明で、ずっと眺めていられるわ」
「アンルシア、ちょっと待って。このあたりはぬかるんでるところもあるから、気を付けないと──」

 悲鳴があがった。
 先に行くアンルシアを追いかけようと、飛び石を急いで渡っていたエックスが、足を滑らせて大きく体勢を崩したのだ。

 メレアーデが息を呑み、シンイが飛び出そうとする。

 しかし、いち早く駆け戻ったアンルシアが手を引いて胴を支えたため、エックスは石の上でたたらを踏むだけで済んだ。

「大丈夫?」
「ご、ごめん」

 アンルシアが心配し、エックスは詫びる。
 一方、遠い岩場の上で様子を眺めていたメレアーデとシンイは、顔を見合わせていた。

「今の悲鳴、シンイさんは誰の声に聞こえた?」
「裏返ったエックスさんの声でした」
「私の聞き間違えじゃなかったんだ」

 二人して、それぞれの額に手をやる。

「本当に、心臓に悪い……」

 特に、シンイの吐き出した溜め息は大きかった。
 メレアーデは彼を見やる。

「エックスって、たまにすごく危なっかしいと思わない?」
「私はたまにどころではなく、いつも危なっかしいと思っていますよ。エックスさんは、事件や事故に巻き込まれたり、大変な局面に自ら飛び込んでいったり、思わぬ事態を引き起こしたり、そういうことばっかりしていますから」

 今も、湖に落ちて異世界にトリップしないかとひやひやしました。
 そう告げるシンイの表情は真剣だった。外見がクロウズの彫りの深い顔立ちであるため、迫力も増している。
 メレアーデは肩を竦めた。

「でも、ことを収めるのも得意だから不思議よね」
「そう。どんなに荒だった局面も、気づけばまとめてしまっている。だからこそ頼もしく思っていますし、大丈夫だと信じてはいるのですが」

 それと幼馴染を失う恐怖とは別です。
 シンイは再度大きな溜め息を吐いた。
 メレアーデは彼の肩を叩いた。

 少し離れたところでそんなやり取りが繰り広げられているとはつゆ知らず、エックスはアンルシアに支えられて赤面していた。

 二人はちょうど、ワルツを踊るペアのように向き合っていた。
 ただしドレス姿のアンルシアがリードし、鎧のエックスがリードされるという、あべこべな形だったが。

「ごめんなさい。少しはしゃぎすぎたわ」

 勇者姫が眉を下げる。

「いや、今のはオレのドジだから」

 もう大丈夫、と盟友は体を離した。
 二人は足場を渡り、対岸に辿り着く。
 アンルシアがスカートの白いフリルを翻し、エックスに微笑みかける。

「エックスとこうやってのんびり出かけるのって、初めてよね」
「あれ、そうだっけ」
「そうよ」
「あちこち一緒に行ってるから、出かけた気になってた」
「そうだけど、いつも修行や討伐が目的だったでしょ」

 こんな日が来るなんて、思わなかったわ。
 アンルシアは清々しい笑顔を浮かべている。

(なんて可愛いのかしら!)

 企画してよかった、とメレアーデは思った。

 あんなに可愛い女の子の出掛ける目的が、戦闘のためだけだったなんて世界は不条理だ。
 できればあの笑顔を隣で見たかった。でも、彼女が笑ってくれただけよしとしよう。

「湖は一通り見たかな。じゃあ、海岸を走って次の場所に行くか?」
「うん」

 エックスがエアカー型のドルボードを出現させ、二人で乗りこんだ。

「はぐれるといけないわ。私達もドルボードで行きましょう」
「分かりました」

 行く先が分かっているので見失う可能性は低いのだが、念のため同じ手段で後をつけることにする。
 シンイは空飛ぶほうきを形どったドルボードを取り出し、ひらりとまたがった。

「メレアーデさん。私たちを隠すための幻術が解けないように、なるべく私の近くを飛んでくださいね」
「わかったわ」

 声に、エンジンのような音が重なって聞こえた。
 振り向けば、メレアーデがベビーピンクに染色されたとらねこバイクにまたがっていた。

「なぁに?」
「いえ」

 シンイは、彼女がいつの間にかゴーグルまで装着していることに気づいた。

「勝手に、スイーツボードプリズムで来るものと思っていたので」
「キィンベルのみんなの前で、いつものドレス姿で乗るならそうしてたわね」

 うふふ、と笑い声を漏らす。

「この猫ちゃんバイクを走らせる時を、ずっと待っていたのよ」

 甲高い歓声をあげて、バイクは走り出した。
 結局、走る速度を合わせたのはシンイの方になった。










「きれい!」

 ラウラリエの丘へたどり着き、森の中の一面の花畑を目にしたアンルシアは華やいだ声をあげた。

「甘くていい香り。メレアーデちゃんと一緒に見たかったわ」

 一緒に来られたらよかったのに、とこぼす声が本当に残念そうで、メレアーデは隠れている茂みの陰から飛び出したくなった。

「私だって、一緒に行きたかったのよ。でも錬金術師のみんなとの会合は、とっても大事だから外せなかった。ごめんね、アンルシアちゃん」

 絶対あとでもう一度遊びに行く都合をつける、とメレアーデは決意を固くする。
 一人でぶつぶつと呟いている彼女を横目で見て、シンイが言う。

「もう、合流してしまってもいいのでは?」
「いいえ。アンルシアちゃんと花畑で遊びたいけど、エックスと二人きりでどんなふうに過ごしてるかも気になるもの。初志貫徹するわ」

 木陰からメレアーデとシンイが見守る中、エックスとアンルシアは奥の丘へ進む。

 切り立った崖の上、薄桃色に丸く染め抜かれたような花園の中心には、歌姫シャンテの墓がある。
 二人はその前で頭を垂れた。

「王都から遠く離れた、こんなに美しい場所に、お墓を作ってもらえるなんて。シャンテさんは愛されていたのね」

 アンルシアは墓標に目を落とす。
 エックスは天を仰いだ。

「ああ」

 薄桃色の花々が、潮騒と共に波打つ。
 二人は、しばらく横に並んで佇んでいた。
 何も言葉を交わさず、ただ花の香りに包まれている。

(さっきまで、ずっとお話してたのに)

 メレアーデは、道中ドルボードからの景色を楽しんでいた二人を思い出す。

「重い場所を紹介しちゃったわね」

 歌姫シャンテの件は、王宮がまだ天空に浮かんでいた頃に弟から聞いていた。
 手前の花畑を見てもらうだけで十分だからとエックスには言っておいたのだが、この様子を見るに、アンルシアにシャンテの話も伝えたのだろう。

「問題ありませんよ。いまさら、行先で気まずくなるような二人ではありませんから」

 会話も沈黙も、彼らにとって変わりない。
 シンイはそう評した。

「王家の迷宮に、花が欲しいと思わない?」

 おもむろにアンルシアが言った。

「いいな、それ」

 エックスは天を仰いだまま、答える。

「あそこに花畑があったら、きっとすごくきれいだろうな」
「修行の場が花畑だと、いっぱい踏みつけちゃってかわいそうだから、修行しない場所に花畑を作りたいわ」
「あそこに修行しない場所なんて、あるのか? そもそも修行の場所なんだろ?」
「どうかしら。迷宮はあそこに埋葬されている王家の祖先や縁者たちによって成り立っている、霊界に近い場所だから、平和な時代の勇者が仲間入りすれば、少しは変わるかもしれないわよ」

 アンルシアが言うと、なるほどとエックスが返す。

「なら、修行できる場所とヒールスポットみたいな感じで分けて作ったらどうだ? 花畑はヒールスポットで、修行の場は大地の箱舟がいいな」
「何で大地の箱舟なの?」
「迷宮の外にも繋がりそうだから。オレは、新エテーネ村とかいろんな場所の様子を見たいんだ」
「いいわね。その時は、私も一緒に連れてってよ」
「どこが見たい?」
「あなたと一緒なら、どこでもいいわ」

 二人は和やかに会話している。
 メレアーデは胸をなでおろした。
 沈んだ空気にはならなかったようで、良かった。

「王家の迷宮にこんな発想を結びつける勇者と盟友は、きっと初めてでしょうね」

 シンイが笑みをこぼす。

「エックスはたくさんの人や場所と、縁があるものね」
「ええ。盟友ですから、王家の迷宮に死後留まるのは仕方ありません。それでも故郷のことも思ってくれているようで、安心しました」
「ん?」

 メレアーデは、小首を傾げた。

「エックスも一緒に、王家の墓へ入るの?」
「おや」

 シンイも同じように小首を傾げた。

「盟友が王家の迷宮に入ることは、義務ではなかったはず。私は中へ入ったことがないので詳しくは知りませんが、霊界に近い場所ですから、埋葬されている者との縁をたどって、他の地に埋葬されている魂が出入りできるという話があったように思います」
「身体が迷宮の外にあっても、勇者と縁があれば出入りOKって感じなのね」
「おそらくは」
「他所から入って来た魂って、心層の迷宮をいじれるのかしら」
「さあ」

 二人はしばらく、首を傾けて思考していた。

「じゃあ、オレ達は新エリア『ワクワクの箱舟』を作るってことで」
「ルシェンダ様に、ふざけてるのかって言われないかしら」
「美容院も入れれば許してもらえるんじゃないか?」
「ふふ。いける気がしてきたわ」

 尾行者たちを深い思考の淵に落とし込んだ勇者と盟友は、ラウラリエの丘を後にしようとしていた。

「次はティプローネ高地の、星落ちる谷か。ルーラストーンで直接行ける場所なんだけど、キィンベルからドルボードで向かってもいい?」
「いいわよ。ルーラストーンが好きなエックスがそう言うなんて、珍しいわね」
「あそこは遠いところから向かった方が面白いんだ」

 エックスがルーラストーンを掲げ、消えた。
 メレアーデとシンイは、慌てて自分たちのルーラストーンを掲げた。










 王都キィンベルの北東門からティプローネ高地に入り、北上していく。
 北へ進めば進むほど、空は暗くなる。濃厚なブルーブラックのインクが滴るような中に、星雲が横たわる様が見える。

「まだ、昼間のはずなのに」

 夜の風情を濃くした景色に、アンルシアが戸惑っている。

「面白いだろ」

 ドルボードの行く先を見つめたまま、エックスが説明する。

 ティプローネ高地の北部にある谷の周辺は、常に暗黒に包まれている。
 これは、上空に特殊な磁場が発生しており、時の流れが停滞しているためではないかと言われている。
 それでもこの地で灯りに困らないのは、虹色に光り輝く結晶体──星の彩晶石が大地のあちこちに突き出ているからだ。

「いつも真っ暗な夜空で、星みたいな石が地面にあるから、『星落ちる谷』なのね」
「そういうこと」

 二人はドルボードから降り、岩壁の合間を抜けて、谷の奥地へと進んでいく。
 メレアーデとシンイも、こっそりその後に続く。

 そこには、天高く聳え立つ巨大な彩晶石があった。
 ここまでに見かけた彩晶石は燐の燃えるような青であることが多かったが、この巨大な結晶は極彩色の光を放っている。
 その豊かな彩光は、周囲を取り囲むむき出しの岩肌や小さな池もかかっており、大地から立ち上るこまやかな光の粒とあわさって、まるで天に横たわる銀河の一部になったかのような錯覚を覚える。

「幻想的な場所ですね」

 シンイが、ほうと声をあげた。

「でしょう? 危険な魔物にさえ襲われなければ、とってもいい場所なの」

 メレアーデは、巨大な彩晶石の手前に佇む勇者と盟友を見つめる。
 アンルシアは、この光景に言葉を失ったようだった。

「すごいわ。こんなところがあるなんて」

 やっとのことで絞り出した声は、上ずっていた。
 頬が上気している。

「闇の中にいるはずなのに、とっても明るい。すごく、きれい……」
「この鉱石は、錬金素材にすると強い光を放つことができるんだ」

 エックスは地面を見下ろす。
 足元の岩さえ、結晶の性質を含んで煌めいている。

「知り合いの錬金術師が、これを使ってライトを作ろうとしてるんだけど、加減が難しくてなかなかうまくいかない」
「そうなの。出来上がったら、見てみたいわ」
「目が眩むくらいすっげー強力なライトだから、覚悟しといた方がいいぞ」
「洞窟探索に良さそうね。兵士たちが喜びそう」

 アンルシアはうっとりと辺りに見入っている。

「この景色を持ち帰れたらいいのに」
「写真でも撮るか?」
「そうね。あなたも映りましょ」
「え、オレも?」

 二人はエックスのカメラで、数枚写真を撮った。
 すぐに出来上がった写真を見て、アンルシアは満足そうに頷く。

「うん。谷全体の様子が映り切らないのは残念だけど、エックスといい記念写真が撮れたから良しとしましょう」
「谷を全部映すのは無理だな」

 エックスは顰め面で、鏡のような小さな池やら、遠くにある三日月のような岩やらを撮る。

「プラネタリウムにでもできれば、谷の光景まるごとひとつを持ち帰れるだろうけど」
「いいわね! 星落ちる谷のプラネタリウムができたら、きっと大人気よ。お友達の錬金術師さん、プラネタリウムは作らないの?」
「うーん。電灯を作ることしか考えてなさそうだからなあ。伝えるだけ伝えてみるよ」

 ディアンジさん、あんまり器用な人じゃないからな。
 エックスは頭を掻く。

 メレアーデは眉を持ちあげた。

「エテーネ王国のことをアストルティア諸国に伝えるのに、いいかもしれないわ。本気でディアンジに提案してみようかしら」
「難しそうですね。幻術を使った方が早そうです」
「そっちの方が難しいわよ。第一、他国の王にプレゼンのためとはいえ幻術なんてかけたら、国交断絶待ったなしだわ」
「冗談ですよ」

 エックスが撮れた写真を渡すと、アンルシアは大きく頷いた。

「ありがとう。お部屋に飾るわ」
「オレ、少しは役に立つ話ができたかな?」
「ええ。今日は本当にありがとう」

 アンルシアが瞳を細める。

「一緒に来られて嬉しかった。一度、戦闘なしであなたと出かけてみたかったの」

 メレアーデは、隠れている岩壁の陰から身を乗り出した。

「あら。なんか、いい雰囲気じゃない?」
「そうですか? いつもあんな感じですよ」

 アンルシア姫は、まっすぐな方ですからねえ。
 シンイはまったく表情を崩さない。

 一方、エックスは落ち着かなそうに身じろぎしていた。

「……アンルシア、本物だよな?」
「そうよ。だから、あなたが最初にくれたドレスを着てきたんじゃない」

 アンルシアがスカートを摘まんで見せる。
 エックスはうなだれた。

「あの時は、見分けられなくてホントにごめん」
「いいの。エックスらしかったわ。あなたが騙されたおかげで、魔界とこれ以上対立せずに済んだのだから、結果オーライよ」

 眉をひそめ、メレアーデが首を傾げる。

「なんのこと?」
「エックスさんはアンルシア姫に化けた魔族に騙されて、プクランド大陸のキラキラ大風車塔で大事なものを盗まれたのです」
「あらまあ、あの子ったら」

 メレアーデは目を丸くした。

「盟友って、勇者を見分けられないものなの? それともエックスだから気づかなかったのかしら」
「勇者も盟友も、お互いを絶対に見分けられるわけではないようです」

 シンイは顎に手をあてる。

「一番わかりやすいのは、危機に瀕した時。盟友は勇者が危機に瀕した時に、盟友にしか駆使できない防壁を張ることができます。そういった命を賭す局面が、お互いがお互いを見分ける一番の方法です」
「ふぅん」

 運命共同体のような勇者と盟友でも、そういうものなのか。
 メレアーデが見つめる先で、二人は会話を続けている。

「どう、このドレス。少しは私もお淑やかに見えるようになった?」
「うーん。そんな気もしなくもない」
「微妙な反応ね」
「だって、アンルシアはアンルシアだろ」
「ふふ。あなたって、本当に面白い!」

 トーマ兄さまなら、どんなアンルシアでも可愛いよって言うところよ。
 オレにお兄さまを求めるなよ。トーマさんはプラチナキング級のレア兄貴だぞ。
 何それ。

 アンルシアが笑いだした。エックスが何やら説明しているが、それを聞いて笑いはさらに止まらなくなってしまう。しまいには、よくわからないままにエックスまで笑い始めてしまった。

「どうですか?」

 メレアーデが振り返ると、シンイが彼女を見つめていた。
 薄い笑みを浮かべている。

「これが彼らの普段の様子です。満足できましたか?」
「ええ」

 彼女は、もう一度勇者と盟友に目を戻した。
 まだ、笑っている。

「ご感想は?」
「うーん。普段私や他の人と接する時と、全然変わらないわね」

 ここに来るまで、互いにしか見せない顔があるのかと思っていた。
 だが実際は、アンルシアもエックスも、メレアーデの知る顔のままで隣に並んでいた。

「すごくリスキーな関係のはずなのに、明るくて──」

 何と言い続けようか、逡巡する。

「とても呑気に見えるでしょう?」

 あえて選ばなかった言葉を、先に言われた。
 シンイが肩を竦める。

「彼らもかなり辛酸を舐めてきているはずなのですが、二人そろっていると、前向きというか無謀というか。時には楽天家のように見えることがあります」

 相手を救うためならば、命を賭す必要があったとしてもためらいなく突き進む。
 相手を信じた先に大変な道のりが待っていると分かっていても、皆で笑える未来があるならばその道を選ぶ。

 これまで厳しい戦いを強いられ、時には互いの似姿で惑わされ、互いのために生死の境さえさまよったこともあるのに。
 命を分かち合った記憶を頼みに、また互いを確かめて信じ合う。
 一途に相手への信頼を抱き続ける。

 その勇敢かつ無策ともいえる姿勢を、楽天家と呼ばずして何と呼ぼう。

「ただのお人よしの考えなしかと疑ってしまうことも、ありました。しかし──」
「二人とも、覚悟がある」

 メレアーデは呟く。

「どこまでもみんなの幸せを求めて、死後さえも共に歩き続けるつもりなんだわ」

 ラウラリエの丘で二人の間に落ちた沈黙には、メレアーデも覚えがあった。
 死者を悼む静寂。
 亡くなった人に呼びかけ、風の音に包まれる。
 去った人の幻を大切に抱き、風に負けまいと、在りし日のぬくもりをあたためているのだ。

(何であの二人のことが気になったのか。分かった気がする)

 クオードに死なれてから、月日が経った。
 かつて、王宮が天空に輝いていた頃のメレアーデは、クオードが王となってエテーネ王国を盛り上げる、その手助けをするつもりでいた。
 しかし時見の箱によって繁栄した王国は、その成り立ちの狂いから、外郭だけを残して時の狭間へ溶けて消えた。
 後に残されたのは、異界漂流者の力で世界を知ったメレアーデと、指針を失い守りたい他者を支えに立ち上がろうとする国民だけ。

(決断は盲目でもある。死は当人にとって無意味かもしれなくても、他人といれば大きな意義をもたらす。情欲、知識、通念、観念、社会、個人、この世のあらゆるすべてに、意味はない。因果律においてどうとでも替えのきく、ひとかけら。だからといって、楽観も悲観も必要不可欠ではない。他者のためのよき行動だけがすべてを回す)

 王族として生きていくため、理屈は心得ていた。
 それでも、様々なひとかけらを抱いてやってくる人々を前にして、途方に暮れることがある。

「これで……いいのね」

 メレアーデは掌を握りしめる。
 クオードの冷たく強い掌の感触。
 自分も、この手に残るかさついてぬるい幽かな命の名残を、抱き続けてもいいのか。

「私は、小さな村の人間です。ですから大したことはできませんが、新エテーネ村のあなたの部屋を、保ち続けることくらいはできます」

 シンイが言う。
 その涼やかな双眸に目を合わせ、メレアーデは微笑んだ。

「ありがとう」
「では、キィンベルに戻りますか。エックスさんたちが挨拶に来る前に戻っておかないと、怪しまれます」

 シンイが踵を返した。メレアーデはその後についていく。

「結局、いけないことに付き合わせちゃったわ。ごめんなさい」
「いえいえ。私も、思いがけず大エテーネ島周遊ができて楽しかったです」

 すぐ何も言わずにいなくなるエックスさんの動向も把握できて、ちょっとすっきりしました。
 青年はくすりと笑う。

「メレアーデさん。このことは、内緒にしておいてくださいね」
「もちろん。シンイさんも、よろしくね」

 戻ったら、とメレアーデは考える。

 不在の間に何かなかったか、軍団長に確かめよう。
 それからいつものように会議室を開いて、語りにやって来る民の声に耳を傾けよう。
 そしてまた、新エテーネ村に猫を愛でに行こう。

 ルーラストーンを掲げる。
 転移の光が、いつもよりあたたかく感じられた。










20210920-21