おとぎの園が死んだ後も





 アンルシアとミーナは、グランゼドーラの王族のみが過ごすことを許される談話室にいた。昔話に花が咲き、あるものの話題になったからだった。
 二人で、本棚を覗き込む。金の細工に縁取られた四角の中に、法律辞典や歴史書、兵法書などが整然と収まっている。ミーナがそういった書物を興味深く眺めている隣で、アンルシアはしゃがみ込んでいた。その視線の先には、ミーナにも見覚えのある大判の背表紙がある。
「年季の入りようが違うわね」
 ミーナが彼女の見る本を指さして話しかけると、アンルシアは顔を上げた。
「そうね。代々受け継がれてきた物語だから」
 白魚の指がその本を引き抜く。
「版を重ねているのに装丁が古びているのは、幼い私が気に入って、何度も兄様やお母様に読んでいただいたせいでもあるでしょうね」
 表紙には、二人の人間の姿。
 勇者と盟友の物語である。
「私はこれが一番好きだった。お母様が他のお話も読みなさいって、いろいろ読み聞かせてくれたけれど」
 アンルシアは、これとこれと、と下段の絵本を何冊か示す。
 ミーナはしゃがみ、示された本を見た。どれも、表紙に美しいドレスを着た少女がいる。
「頬被り姫、ゆめみの美女……知らないわ」
「あら。そうなの?」
「読んでもいい?」
「ええ。どうぞ」
 ミーナはアンルシアの許可を得て、絵本をぱらぱらをめくってみた。
 どの本も、あらすじは次のようなものだった。
 昔々あるところに、少女がいた。
 少女を取り巻く世界は、彼女に冷たく当たる。しかし少女は逆境に負けず、純真に耐え抜く。
 すると、最後にはそんな彼女を見染める王子が現れ、幸せにしてくれる。
「これって、お妃様の持ち物?」
「違うわ。城下町からメルサンディ村まで、すべての女の子達がみんな読む本だそうよ」
「へえ」
 ミーナは挿絵の、高貴な身なりをした優男を示した。
「トーマ王子みたいね」
「そう。だから私、お母様のお薦めしてくれる本の王子様達は好きだった」
 アンルシアは形の良い眉をひそめつつ、微笑んだ。
「お母様は、剣の稽古に励んでばかりの私が心配だったのでしょうね。お姫様の出てくるお話をたくさん聞かせてくれたわ」
「実際、アンルシアも姫だもんね」
「でも、お母様には悪いのだけれど、お姫様にはあまり惹かれなかった。だって、お姫様は王子様を守れないんだもの」
「あー。その気持ち、分かるかも」
 ミーナが大きく頷くと、アンルシアは嬉しそうに相好を崩した。
「分かってくれる? さすが私の盟友ね」
「うーん。これをみんなは読んでるのか」
 ミーナは広げた絵本達を眺めて腕を組んだ。
「不思議な感じ。あたしの知ってるお伽話と違うから」
「あなたはどんなお話を読んできたの?」
「読むこともあったけど、村の人達から話を聞くことの方が多かったかな」
 ミーナの幼い頃に馴染んだお伽話は、自然がメインだった。喋る動植物、森や湖の精、人間。そういう多種多様なものが入り乱れて物語を織りなしていた。
「エテーネ特有の文化なのかも」
 ミーナは自分の知るお伽話を少しアンルシアに話した後、自分の見解を口にした。
「エテーネ王国は、元々自然の精霊を生活に感じる文化が強いのよ。エテーネ村の人達は、王国の中でも特に自然の中で生きてた、自給自足を目指す人達の末裔だったから」
「なるほど。そういうことなのね」
 アンルシアは目を輝かせ、しきりに頷いている。
「何だかすごく、納得したわ」
「そう?」
「あなたとメレアーデちゃんが似てるのは、エテーネの気質を継いでるからなのね」
「え?」
 ミーナは首を捻った。何故急に従姉の名前が出てくるのか、分からなかった。
 アンルシアは身を乗り出した。
「実は、前から不思議に思ってたのよ。あなたとメレアーデちゃんって、育った時代も環境も違うでしょう? なのに、すごく似てる。血筋だけでこんなに似るものかしら、何でなのかなって」
「そんなに似てる?」
 従姉のメレアーデとは、気が合うと感じている。しかし自分達が似ていると思ったことはない。特に外見については、彼女の気品や華やかさが羨ましいと常々考えていた。
「うん」
 アンルシアはミーナの問いに頷き、顔を覗き込んだ。蒼穹の瞳が、ひたとこちらを見つめる。
「目がすごく似てるわ」
「色なら、貴方の方が近いじゃない」
 ミーナの目は、髪と同じで土の色をしている。彼女達のような明るさはない。
「そうじゃないわ。似てるのは目の配り方。物の見方よ」
 アンルシアは言う。
「いつもはふわっとしてるけど、いざって時はびっくりするほど落ち着いてる。予期しないことに襲われても、立て直しが早い。のんびりしてるようで、いろんなものをよく見てる。そういうところがよく似てる」
「そうかな」
「私はあなた達のそういうところが大好きよ。尊敬してるわ」
「やだぁ。照れるからやめてよ」
 ミーナはふざけて友人の肩を押した。
 アンルシアはくすくすと笑った。
「不思議ね。お姫様も王子様も知らなかったあなたが、今じゃあみんなが知る英雄になってる」
「ふふ。ありがとう。あなたには負けるけどね」
「ありがとう」
 アンルシアは小さく口元に笑みを浮かべ、睫毛を伏せた。
 ぱちぱちと暖炉の爆ぜる音がする。二人の他に誰もいない談話室に、沈黙のとばりが落ちる。陽だまりのような少女の顔にも、いつの間にかさやかな影が差していた。
「私は、結局のところお姫様だったわ」
 アンルシアは呟いた。
「トーマ兄様を守っているつもりで、守られていた。勇者の使命の重さは、分かってる。お父様やトーマ兄様の決断を非難するつもりは、決してないわ。それでも何も知らなかった自分を思うと、今でも歯痒い気持ちになる」
「アンルシアは悪くないよ」
 ミーナは友の肩に手を置いた。
「時代が良くなかったのよ」
「そうね。争いは嫌なものだわ」
 毎日のように出征する父。そんな父の身を案じる母。勇者として命を狙われる兄。
 強固な城に守られた穏やかな生活の向こうに、いつも黒い脅威を感じてきた幼少期だった。お伽話は、そんな生活に差し伸べられた一筋の光だった。だがそれさえ、自分の視野を狭めたのかもしれないとも思う。
 アンルシアはそう語り、手元の絵本に眼差しを賭した。
「私はあの頃、どうしたら良かったのかしら」
 白い指が、表紙に刻まれた盟友の輪郭をなぞる。
「トーマ兄様を守りたかったから、盟友になりたかった。でも、それじゃあ足りなかったのね。私は、何になろうとすれば良かったのかな」
 金の巻き毛から、白いうなじが覗いている。
 いたましいほどにか細いそれを眺めながら、ミーナは考えた。
(グランゼニス神も男の人達も、本当に勝手だわ)
 影武者を立てたのは、人類の命運のかかる生存戦略のため。そして、愛しい少女を守るため。
 それは、分かっている。
 きっとトーマの生き延びる未来を、王も王子自身も望んでいた。
 それも、分かっている。
 それでも、アンルシアが勇者としての自覚を持ちながら育っていく未来を信じても良かったのではないかとも思う。それはきっとアンルシアにとって楽な道のりではないだろう。彼女の負うものは、あまりにも重い。見守る者達も、気が気ではない思いをするはずだ。
 だが、自分のために勇者として生きて死んだ兄を己に宿して振る舞うアンルシアを傍で見ている身としては、あの作戦について少し考えてしまうところがある。
 自己犠牲や醜聞を厭わず理想を叶える精神は尊い。一方で、守った者に重いものを託して──とも思うのだ。
(ああ。やだやだ)
 ミーナはかぶりを振った。
 自分の悪い癖が出た。今更考えても仕方のないことだ。
 自己嫌悪を振り払い、ミーナはアンルシアの背中へ手を添える。
「あなたはよく頑張ったわ」
 アンルシアは顔を上げた。しおらしい笑顔に、胸が軋む。
「湿っぽい話をしてごめんなさい」
 お伽話の話だったわね。そう明るく言って、アンルシアは眼下に並ぶ本を示してミーナを見上げた。
「ミーナは、お伽話の誰になりたかった?」
「え?」
「あなたの幼い頃の話が聞いてみたいの」
 教えてよとねだる友人を、無碍にするわけにもいかず。
 ミーナは己の胸に手を当てる。
 幼い自分に、なりたいものなどあっただろうか。色々と破天荒な妹のために、保護者になるので精一杯だった。
「ああ、そうだ」
 思い出した。
 手を打ち鳴らした盟友を、勇者姫は促す。
「なぁに?」
「魔法使いのおばあさんになりたかったかも」
 大きな青い瞳が、ぱちぱちと瞬きをする。
「意外だわ」
「なんで?」
「あなたのことだから、富豪って言うかなって」
「それ、普段からあたしが金策金策って言ってるからでしょ」
 ミーナは笑った。
「お金は好きだよ。でも、富豪に憧れたことはないかな」
「どうして魔女なの?」
「物知りで、いろんなことができるから」
 ミーナは手元の絵本を何冊か開いた。
 そこには、魔女がステッキを振り翳して奇跡を起こすところが描かれている。
「カボチャを馬車に変えることも、王子様やお姫様を助けることもできる。いいでしょ?」
「ああ。そういうことなのね」
 アンルシアはやっと腑に落ちたようだった。
「いろんなことをやりたがるあなたらしいわ」
「そう。あたし、欲張りだから」
 ミーナは笑みを浮かべた。
「だから、昔は魔法使いになりたかった。豊かな自然の中で生きるエテーネの民にとって、神霊の恩恵でもある魔法を上手に使えることは憧れだったから」
「そうだったの」
 アンルシアは小首を傾げた。
「でも、あなたが魔法使いをやってるところをあまり見たことがないような」
「だから、昔の話なの」
 やめたんだ、と言った。
「ええっ」
 アンルシアは目を丸くした。
「なってみたいならやってみればいいのに。あなたならきっと、すごい魔法使いになれるわ」
「ありがとう。買いかぶりだとしても嬉しい」
「どうしてやめちゃったの?」
 素直な親友の目から、視線を逸らす。
 話していいだろうか。彼女になら、話して問題ないだろう。
(でも、言葉に気をつけないと)
「もしかして、私との戦闘に気を遣ってくれてる?」
 アンルシアの眉が、きゅっと八の字になる。
 友人を不安にさせたくはない。破顔して即座に首を振った。
「違う、違う。他の仲間もいるんだから、やろうと思えばできるわ。アンルシアのせいじゃないよ」
「じゃあ、何で?」
 慎重に。
 ミーナは口を開いた。
「理想の魔法使いがいるの」
 その人は特別な能力を持つ血筋に生まれたが、最初その能力を持たなかった。
 だが腐ることなく努力し知恵をつけ、神霊の領域に干渉する魔法の才を開花させ、それを惜しみなく皆のために活かした。
 決して驕ることのない丁寧で落ち着いた物腰と柔らかな笑顔に、何度癒されただろう。
「その人を守りたい。そう思ったから、魔法以外のことも頑張ろうと思ってね」
 武術の腕を磨けば、あの人に近付くものを阻むことができる。
 癒しの術を覚えれば、あの人の痛みを和らげることができる。
 できることを増やせば、あの人の力になることができるかもしれない。
「だからあたし、何でも魔法みたいに解決できる人になりたいなって」
 アンルシアの瞳が光った気がした。
「それって、シンイさんのことよね」
 絶対そう来ると思った。
 ミーナは額を押さえ、自分の言ったことを思い返す。
 守りたい憧れの魔法使いとしか言っていない。それ以外は何も明かしていないはずなのに、なぜその答えに行き着いた。
 彼女がどう答えようか考えている間に、アンルシアはてきぱきと絵本を片付けた。そしてミーナの腕を引っ張って談話室を出、そのまま引きずるようにアンルシアの私室へ連れ込む。ドアを閉めるや否や、輝く顔で目を白黒させている友の両手を握った。
「ついに自分に素直になったのね」
「へ?」
「前は、恋愛ができないからしてみたいとか言ってたのに。大事な人がちゃんといるって、認められたじゃない」
「いや、待った。そうじゃないから」
 ミーナはアンルシアを制した。
「誤解よ。これはそういうのじゃないの」
「シンイさんのことだっていうのは否定しないのね」
 しまった。
 ミーナが苦虫を噛み潰したような顔をする一方で、アンルシアは満天の星空も霞む笑みを浮かべる。
「あなた達、出会ってからの期間の短さの割に戦闘の息が合いすぎてたから、おかしいと思ってたのよね。それに私、知ってるのよ。シンイさん──いや、クロウズさんって言った方がいいかしら──が奈落の門の向こうに行った後、あなたがちょくちょく光の神殿へ通って奈落の門を探してたのを」
 さすがバトルプリンセス。フィールドでちょっとだけ魔物を蹴散らしたのをきっかけに気付くとは。
 ミーナは溜息を吐いた。天馬によって自分にかけられた生き返しの術も、勇者の慧眼を前にすれば何の意味も持たないらしい。
「恋心ではないけれど……あの人が大切なのは、その通りよ。認めるから、このことは誰にも言わないで」
 特に、ホーロー様には。
 ミーナが真剣に言うと、アンルシアは大きく頷いた。
「うん。言わない」
 そう言った後、彼女は首を傾けた。
「で。どうしてそんなに恋じゃないって言い張るの?」
「何も求めてないからよ」
 ミーナは肩をすくめた。
「手を繋いでほしい。付き合ってほしい。自分だけを好きだと言ってほしい。そういうことを求めようと思えない」
 一緒にあの村で、同じ時を分かち合えるだけで十分。
 見栄でも何でもなく、そう思っているのだ。
「そう……なの?」
 アンルシアは拍子抜けしたようだった。
「本当に?」
「うん、本当」
 ミーナは苦笑する。
「だから、恋じゃないって言ったでしょう。あたしの気持ちに仮に名前を付けるなら、同胞愛くらいのところじゃないかな」
 同じエテーネの血を引いて育ち、度重なる苦難を共に乗り越えた者への愛情。
「それと、敬愛ね。あたしにとってあの人は、本当のエテーネ村の長だから」
「ミーナ」
 何か言いかける友人の唇を、人差し指を添えて制した。碧眼が丸くなる隙に、囁く。
「内緒よ」
 彼に伝えるべき特別な言葉はない。
 アンルシアはこくりと頷いた。ミーナはそれに満足して、人差し指を外した。










20231028