果てなき劇場の闇を抱いたまま





 育みの大地へ降り立ってすぐ、竜化を解いて村へ戻った。夕暮れでそろそろ商売を切り上げようとしている村人達を横目にやぐらの前を横切り、橋を渡る。
 教会の裏手に回ると、木陰に鍋を広げたミーナがいた。猫鍋で新しい猫を呼ぼうとしていたらしい。彼女はこちらの姿を認めると笑いかけてきた。
「クロウズさんだ。久しぶりな気がしますね」
 鍋を片付けて立ち上がった彼女に、つかつかと歩み寄る。
「ちょっと失礼」
 有無を言わさず、その頭を掴むように額へ手を翳した。
 見開いた瞳を見据え、虹彩が映したものを遡る。
 そうして、谷合に存在する卵型をした家々の記憶を探り当てた。
「急に何ですか」
 クロウズが手を離すと、我に返ったミーナが非難めいた声を上げた。それを無視して言う。
「竜族の隠れ里に入ってすぐ。右手側の坂を上った先にある民家で、クエストを受けましたね?」
 一見、彼女は顔つきを変えないようだった。だがクロウズは、彼女の目が一瞬脇へ泳いだのを見逃さなかった。
「そんなこともあったような」
「受けましたね」
「……はい」
 クロウズの能力を知っている彼女は、それ以上無駄な足掻きをしなかった。
 分かってはいたけれど。クロウズは溜め息を吐いてしまう。
「何であのセクハラクエストを受けたんですか」
「セクハラ?」
 ミーナは首を傾げた。
「亡くなった奥さんの思い出でしょう?」
「だからと言って、他人にバニー衣装を着させて意味ありげなポーズを取らせていいものとは思えません。少なくとも私は許しません」
「何で?」
「何でって」
 クロウズは言葉に詰まった。
 まさか、本当にこちらが危惧する意味が分かっていないのだろうか。
(そんなバカな。だったら何でとぼけようとしたんだ)
 次の言葉を考える間に、ミーナは言う。
「大事な人に先立たれて辛いのは分かるから、元気づけてあげようって思ったんです」
 あの老人は、耄碌して弱っていた。ポーズを取るくらいならいいかなと思った。
 彼女はそのようなことを言った。
「報酬にも釣られたんじゃないですか?」
 当時を考えると気前のいい報酬だったようだから。
 クロウズが言うと、ミーナはそれもありますと認めた。
 せめて報酬第一なら、リスクとリターンをきちんと考えられてまだ良かったのに。
 彼は内心頭を抱えた。本当にこの人の危機意識はどうなっているのだろう。ナドラガンドに来るなとクロウズに言われ、妹に来たら死んでしまうと言われても、なお正面から突っ込んで来た。その前から、自分を粗末にする精神はしっかりあったわけだ。
(いや、生き返しを受ける前からその気はあった)
 シンイの記憶では、彼女は村人をよく助けていた。妹や、シンイにまで親切にした。一方で、彼女が何をしたいかはあまり言わなかった。唯一の例外は、魔法を使えるようになってみたいと言ったことくらいだ。
 何とかしないと。クロウズは気を奮い立たせ、彼女を見据えて口を開いた。
「自分を大事にしてください」
「大事にしてます」
 予想以上に自信満々の顔で言い切れられ、二の句が継げなくなる。
「心配されるようなことは何もありません。あたし、そのくらいで傷つくほどヤワじゃないですもの」
 さらに、まっすぐな瞳でこちらの目を見据えて言った。
「いざって時は自分の身を守るなり、逃げるなりできます」
 クロウズの中で、何かが切れる音がした。
 こういう時、いつもならばシンイの思考で繋ぎ止めるはずだった。しかし、シンイは全く繋ぎ止めようとしなかった。やはり、物の感じ方がそっくり同じなだけある。彼女の唯一耐えかねると感じていた点すら、一致していたようだ。
「その、いざという時を回避できずに死んだのに」
 発した声は、意図せず低くなった。
 ミーナは目を見開いた。顔色がみるみるうちに白くなっていくのが、陽の落ち行く中でも見て取れた。
「ごめんなさい。あたし──」
「なら、私が頼んだら同じことをしてくれますか」
 それは行き過ぎだ。
 内心で警告が響くが、今更退けなかった。
 この人は、危ない目に遭っても助かってしまえば忘れてしまう。
 ならば、彼女を損なわない自分が教えればいい。
 そんな傲慢な。無茶苦茶だ。己を責める声を無視して、クロウズはミーナを窺う。彼女は戸惑っていた。
「えーと……衣装を着て、ポーズを取ればいいんですか?」
「あのエロジジイに見せたのに、私はダメなんですか?」
 気持ちは分かるけど、彼女に悪い言葉を聞かせるな。
 クロウズの中のシンイが嘆息する。クロウズが外側になっている時は、感情のセーブが効きづらくて困る。
(こう言われたら断りづらいでしょう? だから、もうこのような依頼は受けない方がいい)
 そう、最後にシンイの言葉で釘を刺して終わろうとした。
 それより早く、彼女が言った。
「服が、家のタンスにあるんです。持ってこないといけないから、待っててください」











 教会のシスター達は夜になるとそれぞれの家へ帰る。アバの部屋に住んでいるシュキエルは名もなき草原や育みの大地の夜景を気に入っており、夜になると散策に出て夜遅くまで帰らない。
 だから、ミーナを自分の部屋へ呼んで着替えてもらった。彼女が着替える間、クロウズは礼拝堂で待っていた。シンイの姿に戻ろうかとも思ったが、今戻ったら彼女を窘められなくなる気がして、そのままの姿でいた。
 部屋のドアが開いた。その向こうから、ミーナが顔を覗かせた。
「あの。着ました」
 クロウズは自室へ戻った。ドアを閉め、佇む彼女を見た。
 彼女は、記憶で見た通りの黒いバニースーツに身を包んでいた。胸元を大きく開き、ウエストを絞った、袖のない黒い燕尾服。その下は、心もとないレオタード。腿の付け根まで曝け出した足はタイツを纏っているものの、目が粗すぎて素足同然だ。
 唯一評価できるのは、ふくらはぎの形の良さを引き立てているヒールの高さだけだろう。何故なら、踏みつければ立派な針になりそうだからだ。それと、頭の動きに合わせて揺れる耳も悪くはない。
「その服、冒険の時は着てないですよね?」
 クロウズが訊ねると、すぐに答えが返ってきた。
「冒険の時には着てないです」
 それ以外では着ているということか。
「今後も着ないことをオススメします」
「あなたが言うなら、そうしますけれど」
 ミーナは不承不承といった感じだった。
「おしゃれでいいと思いませんか?」
「思いません。防具としては布の服以下です」
「守備力は変わらないわ。エテーネの服だって似たようなデザインじゃありませんか」
 口の減らない人だ。
 クロウズは首を横に振った。
「いえ。エテーネの服の方が面積が広いです」
 女性用のエテーネの服は、腹部こそ出ているが胸元と足をある程度覆っている。一方、このバニースーツはどうだ。肝心な部分は隠しているが、肢体の線を引き立てるデザインのためにむしろ身体のどの箇所も目を惹きつけるようになっている。たとえば剥き出しの引き締まった腕や柔らかそうな腋、健康そうなくるぶしなど──いやいや。
 クロウズは考えるのをやめた。さっさと目的を済ませよう。
「では、同じことをしてくれますか」
 ミーナは脚を揃え、姿勢良く立った。しかし、なかなか動き出す気配がない。
「どうしました?」
 焦れたクロウズが促すと、彼女は俯いた。
「あの、ポーズを取るのは勘弁してもらえませんか」
 上目がちにこちらを窺う。その耳から目元のあたりが色づいてきているのに、クロウズは気付いた。
「何故」
「恥ずかしくて」
「何故? 私にポーズを取って見せるのは恥ずかしくて、見ず知らずの人に見せるのは恥ずかしくないんですか?」
 解せない。これが女心というやつだろうか。
 竜族の隠れ里で修業ばかりしていたクロウズには、女性経験がないに等しい。だがシンイが女性心理を理解できて気遣いがうまかった──もちろん、女性に限らず人間全体への理解も深かった──ため、旅をしている間は彼の言動にかなり倣っていた。
 その頭をもってしても、目の前の女の心理が理解できない。彼女が今更自分に照れることなどあるだろうかと首を捻ってしまう。
 ミーナはだって、と答える。
「相手はおじいさんだもの」
「老人でも、相手は力の強い竜族です」
「奥さんを思い出したいということだったから、あたしのことなんてしっかり見ないでしょうし」
「それでも彼が見たのはあなたですよ?」
「もうっ! 分かりましたよ、すればいいんでしょ」
 ミーナは赤らんだ頬のまま、片手を頭の横へ、もう一方の手を腰へ添えて身体をしならせた。
 やらせるんじゃなかった。
 クロウズとしても、シンイとしてもそう思った。
 もともと身体の線を魅惑的に、肉感的に見せる服が、その役割を無駄に果たしている。本人にそのつもりはないのだろうが、反らされた胸元のふんわりとした開き具合やら、胸部をぴたりと包む布の輪郭、寄せた太股の質感が、視界に訴えかけてくるのだ。
 あのジジイ、触らなかっただけ偉いかもしれない。クロウズは好色老人へ妙な感嘆を覚えた。
「何でやってしまうんですか」
「え? だって、あなたがしろって言ったんじゃない」
「本当に危機管理意識が緩いですね」
「あなたがしろって言ったのに!」
 ミーナは憤慨している。ポーズを取るのをやめてくれたので、クロウズは内心ほっとした。
「あなたらしくないわ。言ってることがめちゃくちゃよ」
「めちゃくちゃではありません。私の言いたいことは一貫して同じです」
「何が言いたいんです?」
「そういう露出の多い服で歩き回るのはやめてほしい」
「だから、エテーネの服とそんなに変わらないわよ」
「変わります」
「ほら、タイツ履いてるし」
「そのタイツは、素足よりタチが悪いですよ」
 ミーナは首を傾げている。クロウズの言うことが分からないらしい。
 もともと彼は、目の大きな網タイツがあまり好きではなかった。だがこうして彼女が身につけるのを見てみると、好まれる理由が分かった気がした。遠目にも分かりやすい規則的なグリッドが、覆うものの寸法や質量の予想を目で伝えてくるのである。そして「触って、本当に思った通りか確かめてみたら」と囁いてくるのだ。装備主にその意思はないのだと、分かってはいてもなお。
 動揺しているな。頭の片隅で、自分自身を分析する冷静な声がする。それはそうだ。これまでこういったものに縁遠かったし、バニーガールという生物に興味もなかったから、耐性がない。
「ねえ、クロウズさん」
 ミーナは憤っているような調子から一転、穏やかに諭すような口調で言う。
「確かに、弱りきったおじいさんの頼みとは言え、他人に身体を見せつけるような真似をしたのは良くなかったかもしれないわ。でも、あの場には娘さんもいたんです。あたし自身武器も持ってたから、危険ではないと判断したんです」
 そもそもの要求は、若くてグラマラスな女を連れてきてほしいというものだったのだ。自分は当てはまらないから、大丈夫だろうと思った。ミーナはそんなようなことも言った。
「それに、友達を巻き込むのも悪いでしょう? 娘さんに聞いたら、バニースーツさえ着れば誰でも良さそうだったから、ちょうどバニースーツを持ってたし、あたしがこなしちゃうのが一番効率がいいと思って」
「効率重視で自分を差し出さないでください」
「これくらい、戦闘をするのと変わりませんよ」
 ミーナの眉が、すっかりハの字になっている。何を言ってもダメ出しをされるから困った、と言いだけな顔だった。
「どうしてそんなに怒ってるんですか」
「怒ってません」
「怒ってるわ」
 彼女はこちらへ歩み寄り、クロウズの顔を、自分の腕の長さより短い距離から覗き込んだ。
「お願い。あなたがするなと言うならもうしないから、許して」
 クロウズはふいと顔を他所へ向ける。
「私は、あなたに自分を大事にしてほしくて」
「してます」
「危機管理意識をもっとですね」
「持ってます」
「ならば、どうしてこの場でまた同じことを繰り返したんです」
「同じじゃないわ。あなたがそうしてって言ったから」
 顔を背けたままなので、彼女がどんな顔をしているかは見えない。
「あの頼みを受けたのだってそう。あなたの里の人じゃなかったら、あのお願いを聞かなかった」
 クロウズは顔を戻した。
 正面へ向き直ると、俯いた栗色の頭頂部が見えた。彼女の表情は見えなかった。
「ごめんなさい。勝手にあなたの日記を読みました。あなたは何も言わずに奈落の門の向こうへ行ってしまったから、何かあちら側へ行く手がかりがないかと思って」
 手がかりはなかったけれど、目的を知ることができた。
「あなたは滅んでいきそうな仲間の未来を嘆いていた。そんなあなたは、もしかしたら門の向こうからもう戻らないかもしれない……そう考えたら、あなたの気にかけていた住人のために、何かしたいと思ってしまったんです」
 クロウズは、俯く栗色に手を伸ばそうとした。しかしその下の、レオタードで露わになった乳房の膨らみが目に入り、すぐに引っ込めた。
 ミーナが顔を上げた。眉は下がったままだったが、微笑んでいた。
「だから、あなたが心配してくれるほど危ない判断は、今はしてないつもりです。迷惑や心配をかけてしまって、ごめんなさい。でも、あなたの気を煩わせるようなことは、なるべくしないようにします」
 クロウズは、溶岩のように沸き立っていた怒りが、徐々に冷めていくのを感じていた。
 彼女の危うい行動の根底に、自分がいた。代わりに沸き上がってきたのは申し訳なさだった。
「すみません」
 クロウズは詫びた。
「あなたを巻き込まないためとは言え、心配をかけたのは私も同じでしたね」
「気にしないでください」
 ミーナは首を横に振った。
「冒険者ですから、お互い様でしょう?」
「それはそれとして、これからは冒険でない時にもその服を着るのは避けてくださいね」
 言った直後、一瞬にして胸倉を掴まれた。
(さすが現役の戦士)
 クロウズは感心した。拳一つで襟元を掴まれただけで、首根を掴まれたように動けない。彼女の言う通り、この腕前があればリスクヘッジは万全なのかもしれないと思った。
「ねえクロウズさん。お願いよ」
 どうやら怒りで胸倉を掴んだのではなく、懇願のために縋りつきたかったのらしい。
 彼女はクロウズがもう怒っていないことを察したからか、今度は駄々っ子のように掴んだ襟で彼を引き寄せて揺さぶり始めた。
「心層の迷宮に行く時くらい、いいでしょう?」
「心層の迷宮で着てるんですか?」
 予想外の場所が出てきて驚いた。
 目を丸くするクロウズに、ミーナは拳を握りしめて力説する。
「そうよ。本当はアンルシアと外へお出かけしてオシャレしたいのにできないから、心層の迷宮でやってるんです。バニーはアンルシアと気軽にお揃いにできる、数少ない衣装なんですよ。ウサギの耳と尻尾以外、デザインが違うけど」
「それはおそろいと言わないのでは?」
「ウサギの耳と尻尾があればお揃いです」
 そういえば、彼女は友人である勇者姫と大変仲が良かった。
 クロウズは頷いた。
「いいでしょう。王家の迷宮でなら許可します。でも、その他は駄目です」
「友達とラッカランでバニー女子会をするのもダメですか?」
 ミーナは重ねて提案してきた。
 そんな会が存在するのか。
「その会、もうやりましたか?」
「いや。これからやろうかなって」
「駄目です」
「クロウズさんは真面目すぎるわ」
 呆れたのだろう。襟を掴む手を緩めたミーナは、大きく嘆息した。
「ラッカランのバニーが魅力的なのは分かるけど、冒険者のバニーなんてそう珍しいものじゃないでしょ」
「他の冒険者はどちらでも結構です。私が気にするのは、あなたがその格好で歩き回って誰かに変な気を起こさせることです」
「起こさないわよ!」
「起こしますよ。少なくとも私はね」
 襟を掴んでいた手が、完全に外れた。
 しかし、彼女自身はまだ言われた内容を理解できていないようだった。きょとんとした後、声を上げて笑い始めた。
「クロウズさんにしては珍しい冗談ですね」
「冗談ではないですけど」
 クロウズは薄く笑みを浮かべて言う。
 反対に、彼女から笑みが失せた。
「揶揄うのは止してください」
 クロウズは返事をせず、あえて視線を彼女の足元へやった。
「脚、綺麗ですね」
 すらりと長い、程よく肉のついた足は、エテーネの村人服だと普段ブーツに覆われて見えないものだった。
 一つくらい、何を考えたか正直に言ってやった方がいいだろう。
「見た瞬間から思ってました。噛みついて、歯型を残したいくらいだ」
 彼女はクロウズより数歩後ずさった後、硬直した。
 さすがに引かれたかもしれない。だが、それでいい。
 夜に部屋へ呼ばれても安全な相手だと思い込んでいた自分にこんなことを言われれば、さすがの彼女も他の者達も警戒するようになるだろう。彼女に嫌われるのはこたえるのだが、仕方ない。
「このくらいのことなら、誰だって考えますよ。あなたは可愛いから」
 クロウズの出番は、このくらいでいいだろうか。
 彼はつば広帽を目深にかぶり、念を込めて眠っていた人間の姿を呼び起こす。
 そうしてシンイは、未だ固まったままの彼女に肩をすくめて言った。
「ほら。いざ実際にこういうことを言われたら、気持ち悪いでしょう? されたらもっと嫌な気持ちになります。分かったなら結構ですから、着替えてお帰りください。私はちゃんと、この部屋から出ますから」
 シンイは背を向けて、自室のドアへ向かった。
 出口まであと少しというところで、マントの裾が何かに止められた。
「気持ち悪くなかったわ」
 背後から声がした。
「誰彼構わずそう言われたいとは思わないけど。クロウズさん──シンイさんに言われるなら、気持ち悪くなんて全然ない」
 彼女がマントを掴んでいるのだ。
 シンイは溜め息を吐きたいのを堪えた。まだ分かってくれないのか。
「あなたは分かっていない」
 回りくどい真似はやめて、要望をはっきり言うことにした。
「私はただ、あなたが自分を粗末にしすぎて、帰って来られなくなるようなことがあったら困ると──」
「シンイさんこそ分かってません」
 ミーナは言う。
「あたしには、あなたの思うほど心配するようなことなんてないんです」
「ここに一人で来たでしょう。私はあなたにとって危険視する存在じゃないかもしれませんが、もしかしたら──」
「分かってます。もしかしたら、あなたにどうにかされちゃうかもしれない、ってことでしょう?」
 背後に迫った気配が、シンイの背中にそっと手を添えた。シンイは息を吸って、気付いた。
 夕暮れに会った時には感じなかった、石鹸の香りがする。
「それでもいいと思って来ました」
 囁く声は、もう一人の住人が帰ってきた時を考えて憚っているのだろう。そう理屈では分かっていても、状況と内容が相まって耳元に不要な熱を溜める。
「もしあなたがあたしを一時でも役に立つと思うなら、この身を差し上げるつもりでした」
 だからずっと言ってるんです。心配することなんて何もないって。
 手はしっかりとマントを握りしめているようだった。だが、声は僅かに震えていた。
「自分を大事にしてほしいと、何度も言ってるでしょう」
 振り向かないまま言うと、背後で笑う気配がした。
「優しいですね」
 それが泣き出す直前の吐息のように聞こえて、振り返った。
 彼女は、泣いてはいなかった。シンイが向き直ると、さっと俯いて表情を隠した。
「あんまり、優しくしないでください」
「どうして」
「あなたがあたしに優しすぎるから」
「当然のことをしているまでです」
「それが怖いんです」
 彼女の顔が見たかった。
 シンイは片手をその頬へ伸ばし、指先で撫でた。そのまま顔を上向けようとしたが、手を掴まれて外されてしまった。
 そのまま、彼女はシンイの見る前で彼の手を両手で握り込み、自らの胸元へ寄せた。
 咄嗟に手を引こうとした。けれど、ミーナの手はシンイの手を腕ごと捉えて離さない。かえって指先が柔らかに弾む感触に当たってしまい、それ以上動けなくなった。
「あたしはあなたに、何もしてあげられないのに」
 ミーナは何も気にしていないようだった。
 シンイは自分の手に意識をやらないようにしながら、そんなことはないと否定した。
「村の復興、竜族の解放。たくさん手伝ってくださったでしょう。あとは、あなたが帰ってきてくれればそれで十分です」
 ミーナは黙っていた。
 シンイは彼女の言葉を待つ。だが、ミーナはなかなかものを言わない。いくら待っても自分の手を握りしめるばかりで、口を開こうとしなかった。
 様子がおかしい。
「……ミーナさん?」
 シンイが訝しんで呼んだ時、彼女が顔を上げた。悄然とした雰囲気に反して、目には何かを決意したような光が宿っている。
「お願いがあります」
 ミーナは言った。
「あたしの帰りを、期待しないでもらえませんか」











20231028