役者は舞台へ上がり続ける





 アストルティアで初めて会った祖父ホーローは、祖母を気丈な女だと語った。
「本当に気丈なヒトじゃった。一族と自分の最期を悟ってなお、魔の手からアストルティアを守るための布石を打ちきってみせた。まこと、あっぱれな──わしが幼い頃からベタ惚れだっただけあるわい」
 彼は、気性の激しい祖母とは正反対の朗らかな老人だった。ふくよかな顔に懐かしむような笑みを浮かべたのは束の間で、じきに丸い肩を落とした。
「唯一の欠点は、わしに助けての一言も寄越さなかったところじゃな。それだけが少し、連れ合いとしてあてにされておらんようで悔しくはあるが……まあ、あいつらしくはある。それに、わしは一つ所に定まれぬお役目だから、連絡の取りようもなかったのかもしれん」
 祖父は悲しげに目を伏せた。
「すまなかった。わしは何もしてやれんかった」
 彼を責めようとは思わなかった。祖母が頭を捻っても、また時を渡れる友人が力を尽くしても、あの村が滅びるという結末を変えることはできなかったのだ。他にあの過去を覆せる者がいるとは思えなかった。
 シンイが復興した新しい村で生きることを告げると、ホーローは彼の意思を応援してくれた。その一方で、こうも訊ねた。
「かつての予言の一族の役目に縛られず、外で自由に生きてもいいのじゃぞ。お前も、アストルティアの広さを知ったじゃろう」
「ええ。ですが、私はエテーネの地で生きようと思います」
 シンイはそう答えた。
「クロウズとして、ナドラガンドをアストルティアに繋げる目的は果たせました。あとはナドラガ神の最期を見届けた者としての務めを続けながら、今度こそエテーネの村を守ろうと思います」
「お前ひとりで、つらくはないのか」
 ホーローの問いに、首を横に振った。
「あの村に帰りたいと言ってくれる人達がいるんです」
 一人は、悠久の時を渡る錬金術師。一つの時間に留まれない彼女は、自分が生きた村へ帰ることを切望していた。
 もう一人は、絶えず未知の世界へ足を運び続ける旅人。エテーネの災厄で死してなお故郷へ帰ろうとし、シンイと共に村を復興させた後は、もう一人が帰ってくるのを待ちながら、旅を続けている。だが、彼女は自分の意思で厄介ごとに首を突っ込みに行くところがあるので、目を離せない。
「彼女達が帰ってきてくれる限り、私は一人ではありません」
「そうか」
 ホーローは自分によく似た黒目がちの双眸を細めた。
「お前ももう気付いておるじゃろう。エテーネの民は、少々特異な宿命の中におるようじゃ。お前や友人達を含めて、わしら一族はわしら自身思いもよらぬ何かを秘めておるために、これからも、途轍もなく大きな影が迫ってくるやもしれぬ」
 だが、不安に思いすぎることはない。
 祖父はにっこりと笑みを浮かべた。
「お前のクールかつウィットに富んだところは間違いなくこのわし譲りじゃろうが、タフでソウルフルなところはアバ譲りじゃ。それだけではない。守りたいものを守れる良き縁を紡げるだけの力が、今のお前にはついておる。きっと、わしのような過ちは繰り返さんだろう」










 旅装に着替えたミーナとシンイは、教会の外へ出た。
 自分が帰ってくるのを待たないでほしい。
 そう言った彼女の意図を確かめたくて──また、自室に漂ってしまった妙な空気を散らしたくて、シンイが外へ誘ったのだった。
 人気のあるところでは話しづらかったため、昔通い慣れた道を辿り始めた。昔二人で魔法の練習をした、森の中の広場だった。
「この世界は、まだ何かおかしいと思うんです」
 ミーナはそう言った。
「本当は、ジャゴヌバと戦う前から気になっていました。でも、あたし一人にはそれを突き止める力も伝手もない。やることも色々ありましたから、掘り下げることもできないまま、ここまで来てしまいました」
 そうしてついに、最近の旅でアストルティア暗黒時代以前の記憶に触れ始めた。
 創世以前から生じて奇妙に捻れた縁が、今を生きる自分達を締め上げてくることになる──旅の中で、ミーナは気付いた。
「あたしはこれから、その大元達と対面しにいくことになると思います。アストルティアが創られるより前からの因縁に関わることになる。今度こそ自分がどうなるか分からない……そんな気がしています」
 隣を歩いていたミーナが、シンイを見上げた。月明かりに白く照らされた顔に、数時間前までの戸惑いは見られなかった。
「あなたは、あたしも含めた村人全員を大切にしてくれる。そんなあなたに嘘を吐いたり、生半可な期待を持たせたりしたくないから、伝えておきます」
 シンイは彼女の双眸を見つめる。
 月光が茶色の虹彩に差し込み、澄んだ光を湛えている。まるで、悠久の時が作り上げた琥珀のようだ。
「あたしがもしも世界の敵になるようなことがあったら、その時はあたしを見限ってください」
「そういう予定があるのですか?」
「いえ。でも、何がどう転ぶか分からないから」
 ミーナは、はっきりとしたことは何も言わなかった。余計なことを知らせて、こちらに災いが訪れるのを避けたいのだろう。
 シンイは顎に手を当て、しばし考えてから口を開いた。
「分かりました……と言うのが、村の実務を担当する身としては正解なのでしょうね」
 だが、シンイ自身の考えは違う。
「残念ながら、恐らくそれはできません。あなたがどんな悪事に手を染めたとしても、あなたは家族同然の存在ですから」
 実際、大魔王になった彼女と縁を切る発想すら浮かばなかった。
 シンイが答えると、ミーナはうっすらと笑った。
「優しいですね」
「そうでしょうか」
「ええ。あなたは昔から──子供の頃から私達に優しかった」
 歩いていくと、囲んでいた木が途切れた。
 少し開けた空間は、昔と同じで月明かりに照らされて明るかった。川のせせらぎの安らかさまで、変わらない。
 ミーナはシンイに背を向け、川の方へ歩いていく。
「あたしはきっと、死に場所を決められません」
 背の高い木が彼女の上へ影を投げかけ、月から隠す。
「これまでの旅で、命を奪いすぎました。分不相応に、たくさんの人生に関わってしまいました。過ぎた因果が、あたしの首を絞めに来る──その覚悟はできています」
 アストルティア全体の平和にどれほど尽くそうが、免罪符はない。
 そう言う彼女の声は、ひどく落ち着いていた。
「自分の罪悪感に囚われて死ぬことすら、あたしには贅沢。託された命と奪った命の分まで生きる。そう決めてます」
 命を奪わないで生きる者はいない。
 そう言おうと思ったが、やめた。彼女とて分かっているのだろう。それでもそういうものだと割り切って受け流せないから、こうして話しているのだ。
「与えられた命を、可能な限り、周りのために使わせてもらうつもりです。旅はいつまでも続くでしょう。だからあたしは、そのうち帰れなくなると思うんです」
 シンイは彼女の隣へ歩いていった。
 湿った草を踏む微かな音を、彼女は聞き分けたようだった。シンイが並ぶと、こちらを向いた。月明かりに照らされた顔は、綺麗に半分ずつ光と影に分かれていた。そのうちの半分が、こちらをじっと見つめている。
「ならば、あなたが命を使いたいという対象に、私の望みも加えてくれませんか」
 彼女は微かに首を傾けて、続きを促した。
 シンイは言った。
「今生の別れになる前に、私を呼んでください」
 ミーナは顔を正面の川へ戻した。再び表情の読み取りづらくなった彼女へ、話しかけ続ける。
「あなたを一人で逝かせはしない。私にはクロウズの翼があります。あなたを迎えに行きます」
「この村があるでしょう」
 ミーナは反論した。シンイは苦笑した。
「私とて、いつまでもこの村で生き続けられるわけではありませんし、村は私一人のものではありません。天馬ファルシオンの加護もありますから、じきに、私がいなくとも村人達が自治と自衛をこなせるようになります」
「妹が悲しむわ」
「彼女は、好きにすればいいと言ってくれました」
 ミーナは俯いた。夜風が吹き、横顔を長い髪が覆った。
「シンイ様はあたしに親切すぎます」
「そうでしょうか」
「エテーネ王国が復活して、エテーネの人間は昔よりずっと増えました。一度故郷を離れた旧エテーネ村の住人も、ちらほら戻ってきています。新しい人もこれから増えるでしょう。生き残り一人に重きを置いたら、大局を見失うわ」
「両方見てみせますよ。それに、あなたを見捨ててまで誰を助けられるというのです」
 向かい風が、彼女の髪を背後へ攫った。木陰が動き、月明かりのもとにその横顔が露わになる。月のように整った、表情のない顔だった。
「お願いだから、もっと適当に扱ってください。あなたの優しさは、十分いただきましたから」
「難しいことを言いますね」
「お願いよ」
 ミーナがこちらを向いた時、雲が月を隠した。風が止み、戻ってきた木立の影がその全身を隠す。
 暗闇から、彼女の声がする。
「あなたの優しさを、今にあたしは裏切るわ。あたしが大魔王になった時だって、あなたは傷ついたでしょう」
 だから、と言う声は乾ききっていた。
「お願いだから、どうか酷くして」
 シンイは手を伸ばし、彼女の腰をさらった。
 月の隠れた森の夜闇は、一寸先を見せぬほどに濃い。だがこの地に育った彼には、自分の腕の中くらいは見てとれた。
 少し低い位置で驚いたように見上げる顔に口付けながら、シンイは、予知だったのだなと考えた。
「今更何をおっしゃるのかと思えば」
 唇を離してから言った。
「私からあなたを切り離せると、本気で思っているのですか」
 ミーナは目を見開いたまま、腕の中で固まっていた。
 シンイはその双眸を見据え、言い聞かせる。
「私は、あなたが思うほど理性的な人間ではありません。私は……あなたがいつかこの世の果てのような世界へ赴くことがあって、そこから帰って来られなくなるような事態になれば、今度こそきっと邪魔をしてしまうだろうなんて考えている、小さな人間です」
 触れた背中は、筋肉がついて引き締まっている。それでいながら肌は柔く、実ったばかりの果実のようだった。
「あなたが私に自分を差し出そうとしてくれたように、私はあなたに自分の人生を捧げてもいいと考えています。だから、あなたが帰ってくるのを待たずにはいられないのです」
 硬直したまま変化のない彼女の表情に、思わず笑みを零す。
 そう言えば、この人はそういう人だった。極限になると表情を無くして、まるで全く動じていないかのように顔を動かさなくなってしまう。でも本当は脳内で思考を巡らせて、収拾を図っているのだ。
 それを崩してやるには。
「愛しています」
 ずっと前から。
 呟くと、見開いた茶色の目が一つ、瞬きをした。
 そうしてみるみるうちに、その眦に透明な雫を溢れさせた。
「酷い」
 彼女は泣き出した。眉を吊り下げて、ぽろぽろと涙を流す。でも表情だけはまだ泣いている自分が理解できていないように、途方に暮れた風情を醸し出していた。
「優しくしないで、って言ってるのに」
「優しくしたつもりはないのですが」
 彼女が激しくかぶりを振ると、涙が散った。
 その様を、シンイは可愛いなと思いながら眺める。告白より先に接吻される横暴を、優しさと捉えるのだから。
「怖いんです」
 ミーナはしゃくりあげながら言う。
「あなたはどこまでも優しくしてくれるから。あなたの優しさが無くなるのが怖い」
 どんなに強くなって周りを守ろうとしても、世界は終わりなく広がっていく。
 求めた強さに罪と不安が付きまとい、時折気が狂いそうになる。
 彼女はそう、心情を吐露した。
「怖がってる場合じゃないのに。もう、怖くなりたくないのに」
「怖がっていいんです」
 シンイは彼女の頭を撫でた。
「ちゃんと帰ってきてお互いの無事を確かめたら、私があなたの恐れを受け止めますから。あなたが盟友であろうと大魔王であろうと、そしてこれから何になろうと、この村はあなたの帰る場所です」
 ミーナが抱きついてきた。しっかりと抱き締めると、温かい。彼女が生きているのだと安堵する。
「大丈夫。私は村を守り続けます。かつての悪夢を繰り返さないため。そして、あなたの帰る場所になれるように」
 彼女の流した涙が、首元の衣装を湿らせる。次第に冷たくなっていく襟元を意識して、これが彼女の抱いていた恐怖の温度だろうかと考えた。同時に、彼女が泣き声を上げてくれてよかったと思った。
 しばらくして、涙を出し尽くしたらしい彼女は顔を上げた。
 この頃には風に吹かれて雲が退き、夜空は晴れ渡っていた。彼女はまだ身を離さず、シンイを見上げて呟いた。
「あたしは、罪深い人間です」
 重い呟きは、懺悔のようだった。
「それでもあなたが望んでくれるなら、あなたのいる場所に帰りたい。盟友、大魔王……どの肩書きでもない、エテーネの人間として」
 シンイが頷くと、彼女はやっと笑った。笑顔にはまだ物憂さが残っていたが、それでも、今の夜空のように明るく晴れやかだった。











20231028 了