白浪と人魚姫
※ver6.5までのネタバレ有。
※主人公♂×リナーシェ。
※主人公はウェディ♂(器シンクロ率高)
ヴェリナードの王子と姫が帰った後。話の流れで、リナーシェに訊ねられた。
「好きな人はいますか?」
「リナーシェ様が好きです」
あくまで軽い調子を心掛けて、青年は心へ留めてきた思いを口にした。
真剣に言うことも、考えなかったわけではない。けれど、彼女のことを想う度に、その心域で読んだ日記が脳裏をよぎるのだ。
彼女は、争いを繰り返す男達を嫌っていたのではなかったか。
もっとも、彼女が男を嫌いだと公言したことはない。真に厭うたのは、男ではなく、繰り返される争いの方、という可能性もある。寧ろ、これまでの振る舞いを思い返すと、益の無い諍いを嫌っている風な様子が強かったように思う。
だが、一度心を許そうとした男に殺されたトラウマは、そう簡単に癒えないだろう。
それを、自分のエゴで呼び起こさせてしまったら。やっとほぐれてきた彼女の笑顔を失うのが、怖かった。
「まあ、嬉しい」
彼女は目を細め、唇を綻ばせた。
「わたくしも、あなたのことが大好きですわ」
さらりとした言葉に、胸が高鳴った。
向けられているのは、しっとりとしたところのない、軽やかな親しみの気持ちかもしれない。そうであったとしても、構わなかった。彼女の蜂蜜の双眸に宿る親愛には、巨万の富にも勝る価値と魅力があるのだから。
しかし次の瞬間、黄金の瞳はつと横へ滑った。唇に湛えた笑みは、そのままに。長い睫毛を伏せた細面は、何やら思案の影を纏っているように思える。
どうしたのだろう。見つめる青年の前で、彼女は顔を明後日へ向けた。
そこには、黄昏の海が広がっていた。斜く陽を名残惜しげに宿し、火照ったように赤く煌めいている。
「もう少しだけ。こうしていても、構いませんか」
表情は伺えない。静かに問う声に、ただ頷いた。
リナーシェは日が落ちていく中、ずっとそうして佇んでいた。その間、青年はほっそりとした背中から目を離せないでいた。
何を考えているのだろう。
幾度か、訊ねようかと迷った。その度、彼女の物思いを妨げることへの躊躇いや、気を許されている貴重な時間を味わいたい気持ちから、問いを飲み込んだ。
しかし、あまりにも彼女が海を見つめたまま動かないので、徐々に心配の気持ちが強くなってきた。何より、光を湛えて眩いガーネットの海に、儚いシルエットがいつか溶けてしまうのではないかと怖かった。だから、青年は彼女を見つめ続けた。
日が水平線へ浸かり、海が夜の気配を感じて微睡み始める頃。リナーシェは呟いた。
「ありがとうございました。行きましょう」
やっと振り向いた彼女に、青年は訊ねた。
「泳がなくて、いいんですか」
優しい輪郭の瞳がやや見開かれ、すぐに狭まる。
「いえ。眺めるだけで十分」
「そうですか」
彼女の視線がまた戻る前に、言葉を続けた。
「僕は、レーンの海に育てられました」
生まれこそレンダーシアだが、物心ついた頃以降、毎日この海と共に生きてきた。その記憶は、今もしかと身体に生きている。
「だから僕も、この海が大好きなんですけれど。今日、初めて妬ましいと思いました」
リナーシェは、まあ、と驚いたような声を上げた後、くすりと笑みを漏らした。
「あなたも、そんなことを言われるのね」
「どなたかに、言われたことがあるんですか」
「そういうことではありませんわ。あなたは、ウェディの男の人に珍しい、素朴な方だと思っておりましたから」
「あなたを前にして、自分を飾る余裕がないだけです」
青年は頭を振った。
「本心ですよ。嘘じゃありません。いいところを見せたいと虚勢を張ったところで、自分の首を締めるのが関の山ですから」
「あなたは、そのままで十分ですわ」
リナーシェは言う。
(本心かな)
青年は思う。
分かるはずがない。表情や仕草、言葉遣いは、彼らの表面に現れた瑣末な欠片だ。それを統計立てて確実な法則性を導き出したとしても、その産物が推測であることに変わりはない。これは、相手が誰であろうと同じだ。
でも、たとえ心許ない手掛かりであろうと、無いよりはマシに違いない。
青年は目の前の女を凝視する。
いつもの美しい笑顔。
自分が彼女を正確に読めなかったとしても、彼女はこちらの意図を汲むだろう。
青年は口を開いた。
「あなたと同じ時代の海に生まれたかった」
彼女は優しい眼差しを注いでくれる。
そこに、年少のものを慈しむような色合いを感じ取って、焦れる。
「あなたと同じ時を分かち合えたら。あなたを攫ってしまえる波になれたら良かったのに」
「ふふふ。お気持ちは嬉しいですわ」
歌姫は頭を傾ける。海風を受けた見事な金髪が、細波のように広がり、揺れる。
「けれど、わたくしの全ては、コルレーンの──ウェナ諸島の民のためにありますの。それは昔も、今も変わりませんわ」
「そうですか」
分かってはいた。
青年は俯く。失意というより、しょうもない我が儘を言ってしまったという後悔に苛まれていた。
「民想いの女王に恵まれて、僕達は幸せですね」
リナーシェは柳眉を下げ、困ったように微笑んでいる。
「そんなお顔をなさらないで。あなたを罪人にしたくありませんし……あなたがこの時代の方で良かったと、わたくしは思っておりますのよ」
「大丈夫です。分かってますから」
困らせたくない。でも、上手い物言いが思い浮かばない。
青年は、懸命に考える。思案に夢中になるあまり、視界の端へ白いヒールが入るまで、彼女が近付いてきていることに気付けなかった。ふと顔を巡らせれば、ごく近いところに彼女の顔があった。
「お耳を貸してくださる?」
言われるがまま、少し身をかがめる。
南国の花か、果実か。定かではないが甘やかな香りが鼻腔をくすぐり、耳ヒレに吐息を感じた。
「今のわたくしだからこそ、差し上げられるものもありますのよ」
頬に細い指の腹が触れる。
耳の付け根に、それとは異なる感覚が落ちた。
小さく触れ、離れていく、柔らかな反発。
咄嗟に、離れようとする身体を抱きすくめた。唇に唇を合わせると、グロスで滑りそうになる。逃すまいと、慌てて食んだ。化粧を崩してしまったかもしれない、彼女が手鏡を持っているか分からない、天星郷へ戻る前に自分が確認しておかないと──脳内で言葉が上滑りする。その一方で、唇は無心に彼女を味わっていた。
どれほどそうしていたのか、分からない。
後頭部を支えていた手を離す。濃くなってきた夕闇の中で、彼女の形の良い唇から、薄紅がはみ出しているのが見て取れた。
「あ。ごめんなさい」
謝ると、リナーシェはきょとんとした。それから、目を細めて言った。
「まあ。今のは、謝らなければならないことでしたの?」
「え? いえ、そんなことは」
「手慣れてらっしゃるのね」
「あ、えーと」
「わたくしは、隠れてこっそりが精一杯でしたのに。注目の的ですわよ?」
はっ、と周囲を見た。
武器屋の主人、防具屋の女将、道具屋の店主、浜辺に佇む老婆と少年……そこには、すっかり忘れていた村の住人の姿があった。彼らの目は、一様にこちらへ注がれていた。
「ねえ」
少年が老婆を見上げて言う。
「あのお姉ちゃん、花嫁さんになってくれるかなあ」
「さて。どうじゃろな」
老婆が青年を一瞥し、にやりとする。
防具屋は、豪快な笑い声を上げた。
「いいもん見せてもらったねえ~」
「よっ。故郷に錦を背負って帰る魚っ!」
「ニシキゴイ!」
武器屋と道具屋に囃し立てられ、青年は顔を赤くする。
頬が干上がるかと錯覚するほどに、熱い。
「う、うるさいな! 悪かったよ」
青年は詫びとして、ちょうどセーリアから土産としてもらったばかりの女王サブレを配って回った。そして、リナーシェの手を引きつつ、満面の笑みの村人に見送られながら、村を後にした。
村を出て、青年は背の高い岩壁の影までリナーシェを連れていった。向き直って、頭を下げる。
「勝手なことをして、すみませんでした。周りのことが、すっかり頭から抜けてしまって……」
少し頭を上げ、顔を窺う。彼女は微笑みを浮かべ、こちらを見下ろしていた。
「嫌、でしたか」
「うふふ」
リナーシェは口元に指先を添えた。
「生まれてこの方、初めての体験でしたわ」
「すみません。王族にこんなことしたら、タダじゃすみませんよね」
「そちらもそうですけれど、ね」
含みのある言い方に首を傾げる。
問いただす前に、リナーシェはそうだわと両掌を合わせた。
「わたくしのお化粧、崩れていませんか?」
「口紅が、少し」
リナーシェはどこからともなく貝殻のポーチを取り出し、口紅を青年に差し出した。
「それなら、あなたの手で直してくださるかしら」
「僕がやっていいんですか」
躊躇っていると、彼女の手が自分の手を取り、紅を握らせた。手を握ったまま、リナーシェは笑う。
「あなたの手で、あなたの思う一番素敵なわたくしにしてほしいの」
青年は、唾を飲んだ。
紅の滲んだ口元で、何ということを言うのだろう。
「あの……リナーシェ様」
「はい」
「もう一回、許してくれませんか」
「反省してらっしゃるの?」
言葉に詰まった。
そんなこちらの顔が、面白かったのだろうか。リナーシェはころころと笑う。
「冗談ですわ。あなたがあまりに慣れてらっしゃったから、意地悪をつい。許してくださいまし」
青年は頭を掻いた。
「いや、僕こそすみませんでした。どうも、あなたのことになると必死になってしまって」
すると、その言葉を聞いたリナーシェは、高い鼻梁を俯けた。蜂蜜の瞳が、前髪に半分隠れる。
「正直な方ね」
「え?」
「あなたのこと、笑えませんわ。わたくしこそ……口付け一つで妬いてしまうんですもの」
声が小さくて、聞き取りづらい。
青年は身をかがめた。
彼女は、消え入りそうな声で呟いた。
わたくしは、終生一度も。
「……それ、本当ですか」
すっかり笑みの消えた青年が問う。
リナーシェは目を上げた。
「あなたには、どう見えて?」
青年は、もう一度唇を奪った。
20240403