素晴らしき盟友




※ver5.5までのネタバレ有。
※冒頭のみ、現実ではしてないけど致してるっぽい描写有。
















 大切な人を汚す夢を見た。

 最初は王家の迷宮で駆け回っているだけの平穏な夢だったはずなのに、気づけば迷宮に存在しない、陽光降り注ぐあたたかな草原で、彼女の身体と自分の身体とが折り重なっていた。

 細かいことは、あまり覚えていない──否、思い出したくない。

 それでも目が覚めてしばらくは、夢の彼女の残影がちらついてしかたなかった。

 たとえば、いつも清楚な襟の中に秘している、ほっそりとした白い咽頭。
 それが金髪を絡みつかせながら汗ばんでのけぞり、仄かな光を纏うが如く煌めく様。
 切ない声を漏らす唇や時折覗く舌、潤んだ瞳のふちの透き通った赤。
 よれた赤いスカートに濃く落ちた影。
 素肌に触れるぬくもりの柔さ。
 かき抱いた腕に伝わる、緊張と弛緩の不規則なリズム。
 あなたは私の特別だからと羞らい囁く声の、震える余韻。

 彼女は、あまりに清らかで美しかった。
 それなのに、目に焼き付く光景がたまらなくて、眩暈がした。
 状況の不可解さや、普段の彼女と比較しての違和感など、考えもしなかった。

 込み上げる衝動のまま、抱いた。
 なまっ白くまろい喉に舌を這わせ、儚い声を漏らす花唇にかぶりつき、起伏の少なくもたおやかな肢体を、己の全身を使って隅々までなぞった。

 夢から覚めると同時に、彼女も、何処かの晴天の草原も消え去った。
 代わりに彼を取り巻いたのは、新エテーネ村の丸太組みの家。
 まだ窓の外は暗く、世話焼きモーモンは暖炉のそばに用意した寝具の上で丸くなっている。

 そののどかで平和な光景を眺めていても、揺れる焚火にうねる黄金の髪が重なる。
 次いで濡れた舌が、体温が蘇る。

 エックスは一人家を抜け出し、人気のない村を早足で横切って、教会下の川に飛び込んだ。
 冷たく澄んだ流れに身を晒せば、頭がクリアになっていく。
 それでもなお、時折夢の美しい残滓が身体の随所に甦る。

 繰り返し、息を止めて川に潜った。
 腹の底に籠もった熱が、なかなか冷めない。
 悪態を吐きたくても、声さえ出せない。
 何か言えば、あの夢があった証がまた一つ体に残りそうで。

(くそ)

 腹いせに川面を殴る。
 最悪な気分だった。







+++



 その日、エックスはアンルシアの随伴として大エテーネ島へ赴くことになっていた。

 エテーネ王国とグランゼドーラとは、かの国が現代へ現れて以来、良好な関係を築き上げてきている。
 特にグランゼドーラ王アリオスは、エテーネ王国の新女王メレアーデに対し、即位時から歓迎の姿勢を示していた。

 メレアーデから聞いたことによると、彼は永らく空白のまま分からなかったエテーネ王国の高度な錬金術や自然、文化を目にすることができた喜びを語った後、娘と似た年頃の、女性の王族が現れたことが嬉しいとこぼしていたという。

「アリオス王は私に、アンルシアちゃんと仲良くしてほしいって何度も仰ってたのよ。子煩悩な方なのね」

 グランゼドーラ王が家族を大切にする方だとわかって、安心したわ。
 従姉はおっとりとした口調でそう語った。

 メレアーデは並々ならぬ半生から、古王国の王たるにふさわしい見聞と才覚、そして多くの人の間に立つ者として相応の愛嬌を備えている。
 王からすれば、彼女は娘の友として心強く見えるに違いない。

 メレアーデはアリオス王と会見をするかたわら、アンルシアとも親睦を深めてきた。
 二人の姫は国務の合間に城下町を歩き、多くの話をしてきたという。
 だが、まだ移動に手間がかかる都の外までは歩けていないのだそうだ。

「私も一緒に行きたいけど、錬金術師のみんなとの定例会議がずれこんじゃって。だからね、エックス。あなたに、アンルシアちゃんの案内をしてほしいの」
「オレが? 案内できるほど詳しくないよ」
「いっぱい歩き回ったでしょ? それで十分よ」
「でも」
「ね、お願い。あなたが一番の適任なのよ! もうちょっと詳しく説明したいなら、うちの蔵書を貸してあげるから」

 メレアーデは手を合わせてエックスを拝む。
 引き受けるしかないのだと察した。
 このような次第で、エックスによるアンルシアのための大エテーネ島ツアー開催が決まったのである。

(よりによって今日、あんな夢を見るなんて)

 水浴びを済ませ、家に戻ったエックスは、身支度を整えて囲炉裏の前へ座る。
 しばらく火にあたって暖をとれば、冷え切った体は健全な体温を取り戻していく。
 エックスは大きなため息を吐いた。
 夢は夢、今日は今日。
 気を取り直して、新エテーネ村の家を出た。

「おはようございます、エックスさん。もう、お出かけの時間ですか」
「おはよう、シンイ。夜には戻るよ」
「大エテーネ島ですね。お気をつけて」

 村長補佐のシンイには、可能な限り自分の予定を伝えている。
 今日もあらかじめ伝えてあった予定を確認してから、グランゼドーラ城西の尖塔バルコニー行きのルーラストーンをかざした。

 光と共に降り立ったバルコニーには、朝の白々とした光が溜まりはじめていた。
 エックスが控えの間に入ると、侍女ピクシスが頭を下げた。

「アンルシア様は、ただいまお仕度中でございます。こちらで今しばらくお待ちくださいませ」

 椅子に腰掛けて、この後の日程に思いを馳せる。
 アンルシアを連れて、キィンベルにいるメレアーデに挨拶してから都外へ出る。
 バントリユ地方、王国領、ティプローネ高地の順に巡る。
 最後にもう一度メレアーデに声をかけたら、ツアーは終わりである。

(メレアーデは、必ず景色がいいところに連れて行って欲しいって言ってたな)

 具体的にあげていたのは。
 バントリユ地方、レーテの湖。
 王国領、ラウラリエの丘。
 ティプローネ高地、星落ちる谷。
 どこも、大エテーネ島でしか見られない景勝地だ。
 せっかく遠出してもらうなら、他で見られないものを楽しんで欲しいじゃない、というのがメレアーデの弁である。

(まずは、辺境警備隊の詰所前に飛んで、ドルボードでレーテの湖まで。ラウラリエの丘と星落ちる谷も、ドルボードで移動して向かえばいいか)

 アンルシアは途中の景色も見たいと言っていた。
 すでにドルボードを二人乗りのデザインにカスタマイズし、ルーラストーンの行き先登録も済ませてある。

 アンルシアの部屋の扉が開く。
 エックスは立ち上がった。

「待たせてごめんなさい」

 現れた彼女の姿に、驚いた。
 身に纏うのは、純白と若葉色の優雅なロングドレス。
 柔らかな腕をオペラグローブで覆い、羽をあしらった背の高いつば広の帽子を被った顔には、緩く弧を描く前髪がかかっている。

「その格好、どうしたんだ?」

 このドレスは、初めてエックスが贈った衣装だった。
 しばらく着ているところを見なかったから、飽きたのかと思っていた。

「メレアーデに会いにいく時は、なるべくドレスを着るようにしてるの。いつも戦いらしい服を着てばかりだと、なんだか仰々しいじゃない」
「そういうことか」

 エックスは胸を撫で下ろす。

「何かドレスコードのイベントでもあったかと思って、焦ったよ」
「そういうのがあったら、前みたいにあなたの衣装を用意しておくから大丈夫」
「助かる。オレ、そういうの全然わからないから」

 アンルシアがくすりと笑う。
 エックスは、アンルシアへ手を差し伸べた。

「じゃあ、行こうか」












+++



 王都キィンベルの空は、雲ひとつない快晴だった。
 空っぽの永久時環にどこまでも深い青が染み込んで、まるで空と一体化しているようだった。

「今日一日は、大エテーネ島のどこも晴れているそうよ。お天気に恵まれてよかったわ」

 メレアーデは二人に紅茶を振る舞い、笑顔を見せた。

「この島のことは、エックスも詳しくなったはずだから、色々聞いてね」
「ええ」

 それから互いの近況や、都の顔見知りの人々のこと、旅の思い出などを語り合って、出発した。
 予定通り、バントリユ地方の辺境警備隊詰所前に飛ぶ。

「このあたりのことは、何かメレアーデから聞いてる?」

 アンルシアに訊ねると、彼女は思い出すように視線を上向かせた。

「昔住んでたって聞いたわ。エックスと出会ったのも、その頃だって」
「そうか」
「北のお屋敷は、もうないのよね」

 バントリユ地方の北。
 かつて空に浮いていたドミネウス邸と呼ばれた屋敷は、今は地に落ちて廃墟と化している。

「そう。すごく、立派な屋敷だったよ」
「見に行ってもいいかしら」
「今はもうボロボロで、誰もいないぞ」
「うん。でも、メレアーデちゃんとエックスの旅が始まった場所を見たいから」

 エアカー型ドルボードに乗り込んで、北へ向かった。

(アンルシアに、何を話したらいいかな)

 メレアーデに言われて、バントリユ地方のことは改めて調べてあった。
 王国始まりの地。豊かな自然にはよろずの精霊が宿り、エテーネ王国の繁栄を助けてくれている。

 それにしても、エックスがバントリユ地方を訪れるのは久しぶりのことなので、言葉に迷う。

 魔界での闇の根源討伐を終えても、やることはたくさんある。
 異常が起きていないか確かめるため、魔界各国を訪れ、グランゼドーラ城などのアストルティアへ定期的に顔を出し、新エテーネ村へ帰っている。

 また、異常事態に備えて、クエストや討伐任務を積極的に引き受けていた。
 戦えば腕も鈍らなくて済むので、いい。
 その一環でエテーネ王国にもメレアーデを訪ねに来ていたが、この地方には向かわなかった。

 この地方の新警備隊長がとても頼りになる人なので、異変が発生しても速やかに王都と連絡を取って解決してくれる。
 そうメレアーデが言っていたので大丈夫だと思う反面、新隊長に挨拶しに行きたいと思っていた。

(結局、アストルティアでしばらく来てない場所は、ここだけなんじゃないか)

 この地方に何か起きていないか、気になっていなかったわけではないのだが。

「思い出の多い場所、なんでしょう?」

 物思いに耽っていたエックスは我に返った。
 アンルシアが、彼の横顔を見つめていた。

「ごめんなさい。無理に行かなくてもいいのよ」
「ああ、ごめん。そういうわけじゃないんだ」

 エックスは笑い、正面に向き直った。

「本当に、来たいと思ってたんだよ。ヘルゲゴーグが本当にいなくなったか分からねえし、警備隊の人たちにも会いたかったから」

 険しい岩と緑の豊かな大地を見つめる。

「今、な」
「うん」
「アンルシアに何を話そうか考えてたんだ」

 ここには、エテーネ王国の古来より伝わる伝承が残っている。
 始祖レトリウスとその友キュレクスの物語を伝える石碑の最初の一つは、この地方にあったのだ。

「レトリウスの話って、したっけ」
「ええ。漂流していたキュレクスを助けたのが、レトリウスだったのよね」
「そう」

 エックスがメレアーデやキュルルと出会ったのも、この地だった。
 突然メレアーデの部屋に転移してきてしまったエックスは、不審者としてクオードに物置小屋へ閉じ込められ、メレアーデに救われた。

「エックスが急にグランゼドーラから消えた時、ホーロー様は本当に慌てていたわ。私もすごく心配した」
「オレも、あの時はすっげーびっくりした。何もしてないのにクオードに怒鳴られるし、早く帰りたくてしょうがなかった」

 エックスは、天高く揺れる梢を仰いで目を細める。

「でも今は、少しだけ、あの頃に戻れたらって思うよ」

 アンルシアは、そうとだけ呟いた。

 エアカーはドミネウス邸跡に到着した。
 墜落した屋敷の壁や天井は、エックスが最後に着た時よりも崩れていた。
 屋敷を覗きこめば、魔物がうろついている。
 風化の一途をたどっているのは明らかだった。

「ここのことは、グランゼドーラに戻ったばかりの時に話したよな」
「ええ」

 アンルシアは屋敷の周囲を巡る。
 エックスはついて行きながら、唸っていた。

「うーん。何か新しく話すこと、あったかなあ」

 時を超える旅をしていた頃。
 現代へ帰ってくる度、エックスはアンルシアに旅先で見たものの話をしていた。
 バントリユ地方は最初に訪れた場所だったこともあって、二人はこの地についてかなり語りこんでいた。

「エックスったら、真面目ね」

 アンルシアは、腕を組んで考え込む彼へ笑いかける。

「私は、エックスやメレアーデちゃんからたくさん話を聞いたから、ここを見たくなったの。だから、連れてきてもらえるだけで十分よ」
「そうか」

 二人は屋敷の中を散策して、レトリウスの第一の石碑を眺めた。
 アンルシアは石碑の前に佇んで、苔むした表面をとくとくと観察する。

「ひび割れてしまっていて、読めないわ」
「時渡りした影響かもしれないな」

 強い風が吹いた。
 高い梢の影が石碑に落ち、ひび割れが一層広がったような錯覚を受ける。
 ねえエックス、とアンルシアが言った。

「いつも助けてくれて、ありがとう」

 エックスは彼女の顔を見た。
 空色の瞳は、石碑の上に注がれている。

「私はいつも、あなたに助けられてばかりだわ。あなたの旅路は、どんなに説明してもらったとしても、きっと私に想像しきれないほどのものなのでしょう。旅の中であなたが感じたことを──喜ばしいことも、苦しいことも、私は分かってあげられない。一緒にあなたと旅をして、あなたに託された思いを、私も感じたい。でも私は、勇者としてグランゼドーラに留まらなければならない。分かっているけど、あなたのことを思うと、もどかしく感じることもあるわ」

 今のはみんなには秘密ね、とアンルシアが唇に人差し指をあてる。

「あなたの長い旅の中では、私はほんの一度の瞬きにも満たない存在かもしれないけれど。あなたによって救われた人もいるって、忘れないで」
「そんなことは」
「自分を責めてしまうのは仕方がないことだけど。あなたは、いつも出会った人たちに十分寄り添って、助けようとしてくれているわ。それも、認めてほしいの」

 エックスは口を噤んだ。
 視線を石碑に戻す。レトリウスの偉業を讃える文字は、現代では二度と読み取れそうにない。

「オレ、そんなに暗い顔してた?」
「ううん、変わらないわよ。でも、表情が変わらない時のエックスは、集中してるか、考え込んでるか、落ち込んでる時が多いかなって思ってたから」

 エックスは苦笑した。
 落ち込んでいるのかと聞かれたことは、あまりない。周りからは表情が豊かな方と言われていて、自分でもそうだと思っている。

 しかし、悲しみだけは例外だった。
 悲しみが大きければ大きいほど、すぐには顔に出ない。呆然としてしまって、心も顔も働きを忘れてしまうのだ。
 他人に見せたい感情ではないので、この癖だけはありがたく感じていた。だが、付き合いが長くなったアンルシアには見透かされてしまったらしい。

「オレの手で全部どうにかできるなんて、思ってない。確定した時間軸は変えられないってことも、分かってるんだけど。あの時こうしていたら、ってどうしても考えちゃうんだ」

 ドミネウス邸に突如転移したあの時、チャコルに扮していたメレアーデからすべてを聞き出せていたならば。
 魔法生物の事件で再会したクオードを、王宮に行かせなければ。
 あの時代に、今の自分が行けたならば。

「バントリユ地方は、思い出が多すぎて。いい思い出も、こうすればよかったっていう思い出もたくさんある」

 エックスはアンルシアの空色の瞳を見据えて、笑みを浮かべる。

「だからここに来たかったけど、なかなか来られなかった。今日は、アンルシアが一緒だから来られたんだろうな」

 気を遣ってくれてありがとう。
 そう言うと、彼女はかぶりを振った。

「大丈夫?」
「ああ。次の場所に行こうか」

 アンルシアが微笑んだ。
 風になびく黄金の巻き毛が、若葉色のボレロと白いフリルの襟に絡みつく。
 柔らかな色合いに包まれた彼女の笑みに、心が安らぐのを感じた。











+++



 バントリユ地方西の洞窟を見て、レーテの湖へと向かった。
 レーテの湖を渡るアンルシアを急いで追いかけたら、足を滑らせて湖に落ちそうになった。
 間一髪で、彼女が引き寄せて助けてくれた。

「大丈夫?」
「ご、ごめん」

 エックスは、大きな息を漏らす。
 湖面を見下ろせば、自分たちの姿がはっきりと映っていた。
 鎧をまとう自分が、ドレス姿の彼女に腰を支えられている。

(うっわあ。カッコ悪いな)

 アンルシアは助けられていると言うが、こちらの方が助けられているのではないかと思う。
 さらに彼女は色々助けさせてくれるから、自分も尽くしたくなる。
 たちの悪い、見事な好循環だ。

 そんなようなことを考えてから、水面に映る自分たちの距離の近さに気づいた。

「ごめんなさい。少しはしゃぎすぎたわ」

 間近に、眉を下げたアンルシアの顔がある。
 一瞬、今朝の夢で草原に押し倒した顔がよぎる。

「いや、今のはオレのドジだから」

 言いながら、さりげなく彼女の身体を離した。
 鎧を着ていてよかった。
 密着した身体の柔らかさ、軽さは、僅かにしか伝わってこない。

 二人は散策を続けながら、会話をする。

「エックスとこうやってのんびり出かけるのって、初めてよね」
「あれ、そうだっけ」
「そうよ」
「あちこち一緒に行ってるから、出かけた気になってた」
「そうだけど、いつも修行や討伐が目的だったでしょ。こんな日が来るなんて、思わなかったわ」

 笑ったアンルシアは、目を線のように細め、頬で愛らしい曲線を描く。
 その屈託のない笑みに、エックスは彼女の純真な好意を見る。
 何の混じり気もない、相手と共にいることをこころよく思う気持ちだけが現れた表情。

(可愛い)

 この眩い清らかな笑みに、誰かの手が無遠慮に触れるのはダメだ。
 だから、夢の中の自分を許せない。
 生物としての本能が見せた幻なのだろうが、あんなものを見るくらいならば生殖機能などいらないと思ってしまう。

「アンルシアにどこか行きたい場所があるなら、陛下やルシェンダ様の許可をもらってくれれば、連れて行くよ」
「本当?」
「ああ」

 エックスは物思いに耽っていても顔に出ない。
 会話はスムーズに続いた。

「湖は一通り見たかな。じゃあ、海岸を走って次の場所に行くか?」
「うん」











+++



 一面、薄桃や薄紅の花々が咲き誇る中へ踏み入ったアンルシアは、いつまでもそこにとどめておきたい可愛らしさだった。
 ラウラリエの丘へたどり着くなり、彼女は歓声を上げ、メレアーデと共に来られなかったことを悔やんだ。仲が良さそうで良かった。

 奥の丘へ進む。切り立った崖の上、薄桃色に丸く染め抜かれたような花園の中心には、歌姫シャンテの墓がある。
 その前で頭を垂れる。
 ラウラリエの丘は、風に揺られた花々のさざめきだけに包まれることのできるいい墓地だった。

「王家の迷宮に、花が欲しいと思わない?」

 アンルシアが言う。

「いいな、それ。あそこに花畑があったら、きっとすごくきれいだろうな」

 このような光景の中にいる彼女を永遠に守れるならば、きっと幸せだろう。

「修行の場が花畑だと、いっぱい踏みつけちゃってかわいそうだから、修行しない場所に花畑を作りたいわ」
「あそこに修行しない場所なんて、あるのか? そもそも修行の場所なんだろ?」
「どうかしら。迷宮はあそこに埋葬されている王家の祖先や縁者たちによって成り立っている、霊界に近い場所だから、平和な時代の勇者が仲間入りすれば、少しは変わるかもしれないわよ」

 修行の領域とヒールスポットの領域を分けて作ったらいい。
 花畑はヒールスポットで、修行の場は大地の箱舟がいい。
 エックスがそう言うと、アンルシアは首を傾けた。

「何で大地の箱舟なの?」
「迷宮の外にも繋がりそうだから。オレは、新エテーネ村とかいろんな場所の様子を見たいんだ」
「いいわね。その時は、私も一緒に連れてってよ」
「どこが見たい?」
「あなたと一緒なら、どこでもいいわ」

 また、そういうことを言う。
 しかし、死後まで彼女の隣にいることができてあちこち見て回れるならば、これほどいいことはない。

 彼女と肩を並べ続けられる。なんといい来世だろう。

 ラウラリエの丘を後にし、星落ちる谷へハンドルを切りながら、エックスはそう考えていた。










+++



 星落ちる谷を見たアンルシアは、絶句していた。
 地上に落ちた銀河のような場所だから、無理もない。

「すごいわ。こんなところがあるなんて」

 やっとのことで絞り出した声は、上ずっていた。
 頬が上気している。
 いいリアクションをしてくれて、嬉しい。

「闇の中にいるはずなのに、とっても明るい。すごく、きれい……」

 この谷に多く含まれる彩晶石について語りながら、エックスは地面を見下ろす。
 足元の岩が結晶の性質を含んで煌めいており、その仄かな光が彼女の姿に投影されて、まるで光の衣を纏っているようだった。
 その姿は、生き生きとした表情と相まってより美しい。

「この景色を持ち帰れたらいいのに」
「写真でも撮るか?」
「そうね。あなたも映りましょ」
「え、オレも?」

 二人はエックスのカメラで、数枚か写真を撮った。
 すぐに出来上がった写真を見て、アンルシアは満足そうに頷く。

「うん。谷全体の様子が映り切らないのは残念だけど、エックスといい記念写真が撮れたから良しとしましょう」
「谷を全部映すのは無理だな」

 どこまでも素直な彼女に返事をするのも照れくさくて、違う話題へ逃げた。

「プラネタリウムにでもできれば、谷の光景まるごとひとつを持ち帰れるだろうが」
「いいわね! 星落ちる谷のプラネタリウムができたら、きっと大人気よ。お友達の錬金術師さん、プラネタリウムは作らないの?」
「うーん。電灯を作ることしか考えてなさそうだからなあ。伝えるだけ伝えてみるよ」

 ディアンジさん、あんまり器用な人じゃないからな。
 エックスが撮れた写真を渡すと、アンルシアは大きく頷いた。

「ありがとう。お部屋に飾るわ」
「オレ、少しは役に立つ話ができたかな?」
「ええ。今日は本当にありがとう」

 アンルシアが瞳を細める。

「一緒に来られて嬉しかった。一度、戦闘なしであなたと出かけてみたかったの」

 最後まで、何の含意もないのだろう普通の言葉が、ダークトロルの痛恨の一撃並みの威力で殺しにかかってくる。
 いや、ダークトロルよりたちが悪い。ダークトロルは無邪気な悪意だが、アンルシアは無邪気な好意だ。

(オレじゃなかったら、とっくに勘違いしてる)

 普段からこういう感じだから、偽者が思わせぶりなことを言った時に、つられてしまったのだ。

「……アンルシア、本物だよな?」
「そうよ。だから、あなたが最初にくれたドレスを着てきたんじゃない」

 アンルシアがスカートを摘まんで見せる。

(まあ。勘違いしちゃう側も悪いんだよな)

 欲望からありもしない幻を見て、つられる。
 エックスはうなだれた。

「あの時は、見分けられなくてホントにごめん」
「いいの。エックスらしかったわ。あなたが騙されたおかげで、魔界とこれ以上対立せずに済んだのだから、結果オーライよ」

 アンルシアはどこまでも素直で優しい。
 そのままの姿で多くの人の前に立てば、この優しさに何人の心が殺されるだろう。

「どう、このドレス。少しは私もお淑やかに見えるようになった?」
「うーん。そんな気もしなくもない」
「微妙な反応ね」
「だって、アンルシアはアンルシアだろ」
「ふふ。あなたって、本当に面白い! トーマ兄さまなら、どんなアンルシアでも可愛いよって言うところよ」

 彼女の実兄になれたらよかったのに、と思う。
 勇者トーマのような、彼女を燦然と照らせる存在に、憧れがあった。

「オレにお兄さまを求めるなよ。トーマさんはプラチナキング級のレア兄貴だぞ」
「何それ」

 アンルシアが笑いだした。
 しまいには、エックスもつられて笑ってしまった。

 このようなのどかな笑いに満ちた空間が、何十年も、いや、恒久に続けばいいと願った。










+++



 新エテーネ村へ戻ってきたのは、夜だった。
 ちょうどシンイが焚火の前で、夕飯の焼き魚やらエテーネルスープやらを食べていた。
 焚火の周りには、大鍋をかき混ぜているカエマンのほかに、誰もいない。

「ただいま」
「おかえりなさい」

 エックスも同じように、村人から焼き魚とスープをもらってきて隣に座る。

「いかがでしたか?」
「楽しかったよ。引き受けたクエストのはずなのに、普通に楽しんじまった」
「それは結構なことでした。アンルシア姫も、あなたと出かけられて、喜んだでしょう」
「あの人、何でも喜んでくれるからな」

 ずっと一緒に来てみたかったとか、一緒にいければどこでも楽しいとか、すげー殺し文句ばっかりだったよ。
 エックスが魚にかじりつくのを、シンイは大きな眼鏡の奥から見つめる。

「確かに、アンルシア姫にはそのようなところがありますが、今日の件については、相手がエックスさんだったからなおさら嬉しかったのだと思いますよ。数日前からウキウキしていたと、おじいさまから聞きました」
「そうかあ?」
「余計なおせっかいなのは承知ですが、もう一度だけ言わせてください」

 シンイは匙を器に戻し、声をひそめる。

「あなたの人生はあまりに険しい。共に歩けて、未来を築いていきたいと思える人がいてもいいのでは?」
「前も言っただろ。オレ、自分の子供を残す気は、今のところないんだよ」

 エックスは魚を食べつくす。
 唇の端に魚の白い身をつけたまま、破願する。

「いろんな世界のみんなを少しでも多く助けられるのが、オレの生きがいなんだ。それに、一緒に歩いてくれる人なら、シンイがいるだろ?」
「それはもちろん。新エテーネ村は、私たちの家ですから」
「オレはきっと、ずっと家にはいられない。こういうオレみたいなのが父親になれば、子供が寂しい思いをする」

 弟もそうだった。
 エックスは、今は魔仙卿としてデモンマウンテンにいる、血の繋がらない弟のことを思う。
 一人になることを恐れていた弟。両親がやむをえない事情で旅立ってからは、エックスが彼を抱いて寝たものだった。

「あなたはかたくなに否定しますが、アンルシア姫はそう言葉を安売りする人ではありませんよ。どこでも一緒にいたいなんて、誰かれ構わずは言いません」
「そうかなあ」
「あなたは、古エテーネ王国の王族でしょう。母君もご存命です。その気になれば──」
「ありがとう、シンイ」

 エックスは言葉を遮った。

「でもオレ、本当にそういうのじゃなくてさ」

 どこまでも彼女を支えていたい。
 彼女がどれだけ年をとっても、どこにいても、誰と結婚して子を残しても、たとえ死んだ時に伴をすることになっても、構わない。

「オレは、アンルシアの盟友だ。あの人に盟友として求めてもらえるのが、オレはすごく嬉しいんだよ」
「そうですか。余計なことを言って、すみませんでした」

 シンイは、隣であっという間に空になったスープの器を取る。

「おかわりしてきましょうか?」
「いいのか? 悪ぃ」

 シンイは自分とエックスの器を持って、スープ鍋をかき混ぜるカエマンのところへ行く。

(当事者の問題に、私が口出しするものではない)

 それでもエックスの幼馴染として、叡智の冠の一員の孫として、思ってしまう。

 勇者と盟友という祝福される関係は、輝かしくあるべきという通念に包まれるが故に、一種の呪いとも言える側面を孕んでいる。

 いや、勇者と盟友も関係なく、特殊な環境で生まれ育ったエックスだから、勝手に己を呪っているのか。

 今守る者がいる幸せを手放せなくて、でも誰も守り切れる気がしなくて、こうなっているのか。

 またはその愛情深さ故に、かえって人を傷つけることを恐れているのか。

 カエマンにスープをよそってもらったシンイは、エックスに椀を差し出す。

 エックスが笑顔で受け取る、それに微笑み返しながら、強く願う。

 どうか、呪われし青年に幸あれ、と。










20210926