カゲヤマへ

 お前に向けて手紙を出すことになるなんて思わなかった。
 きっとお前も、俺からの手紙なんて望んでいないだろう。
 お前とは、ものの見方も戦い方も合わなかった。
 でも、昔のことはもういい。お前にされたことも忘れた。
 だから、どうかこれが最初で最後だと思って、これから書くことを最後まで読んでほしい。
 そして、一時でも同じ部隊で肩を並べたよしみで、俺の頼みを聞いてほしい。
 お前のところにオイカワさんが行くと、マツカワさんから聞いた。目的は、衛兵部隊宛の正式な書簡でも書いた通り、星の砂だ。
 きっとオイカワさんはお前の顔を見に行くだろう。
 その時、あの人がどんな様子であっても、何も訊かないでほしい。
 特に、あの人に、あの人自身のことを訊くのは、絶対にやめてくれ。
 これ以上は言えない。
 けれど、きっと俺の言ったことを守ることは、お前自身のためにもなるはずだ。
 去年の「後悔している」というお前の言葉が本心ならば、かつてのキタガワ第一での記憶を、あの人の前で決して外に出さないでくれ。
 最後の頼みだ。
 この手紙は読んだら燃やしてくれ。

 アオバの森より/クニミアキラ









***



 星の砂を手に入れたオイカワたちは、カラスノを発つことにした。
 サワムラとアズマネが、街の外れまで見送りに来てくれた。
「本当に助かった。ありがとう」
 サワムラは笑顔で言った後、やや表情を曇らせて頭を下げる。
「こちらは助けてもらったのに、ハナマキくんのこと、何も力になれなくてすまない」
「いーのいーの。星の砂はもらったんだし、攫われたのは本人の責任だから」
 カラスノを魔物の大群が襲った、あの日。
 防衛軍の決死の活躍とオイカワたちの魔界の扉召喚により、多数の犠牲者を出しながらも、どうにか都市は守られた。
 しかし、混戦の最中にハナマキが消えた。同じ場所にいて戦っていたカゲヤマの話によると、突然現れた魔族が彼を攫ったのだという。
 ──ゾンビみたいな、変な魔物でした。部屋の片隅に空間のひずみが生じて、そこから出てきてハナマキさんを掴んで消えました。追おうにも、俺は時空間魔術は全然なので、何もできず。
 すみません、とカゲヤマは非常に悔しそうに頭を下げた。
 あの後輩を憎みきれないのは、こういう部分があるからだとオイカワは思っている。
 絶対、本人には言ってやらないが。
「時空間魔術ならば、俺たちの隊に専門がいる。そいつに聞いて、探し当てるよ」
 マツカワが付け加えた。
「それより、復興頑張って。俺たちにできることがあったら、手紙をくれ。世話になった分、できることはする」
「ありがとう」
 サワムラは目を細めた。
 アズマネが片手を上げた。
「スガワラもよろしく言ってた。無事に、元の身体に戻れると良いな」
「うん、ありがとう」
 互いの健勝を祈り、別れた。
 サワムラとアズマネの姿が十分に遠ざかった頃、オイカワたちは一度歩を止める。
「じゃあ、俺たちもそろそろだね」
「そうだな」
 オイカワとイワイズミ、マツカワは向き合った。
 彼らはここで二手に分かれることになっていた。
 オイカワとイワイズミは、真実の鏡を打つのに必要な星の砂を持って、ダテ工業都市に向かう。
 一方マツカワは、ハナマキの行方を求めてアオバ城砦都市に戻ることにしていた。
「まっつん、本当に一人で良いの? 後輩ちゃんたちは城砦の警備に忙しくて、マッキーを救出しにいけないかもしれないよ。俺たちも一緒に行った方がいいんじゃない?」
「いや、非番の奴に協力してもらえば、なんとかなるさ。ハナマキも黙ってやられるような奴じゃない。お前らはひとまずダテ工業都市に行って、本当に鏡を打てるのか確かめた方がいい。もし打てないとなったら、次の手も含めて早めに対策を考える必要が出てくるからな」
 マツカワの言うことは尤もだ。
 オイカワは仲間への懸念を裁ち切り、納得することにする。
「分かった。なるべく早く済ませて、アオバ城砦に帰るからね」
「気を付けろよ、マツカワ」
 イワイズミが念を押す。
「カゲヤマの話じゃあ、敵はアンデッド系の魔族だったそうだ。奴らは搦め手が多いから、無茶はするなよ」
「問題ねえよ。俺は僧職だぞ。アンデッドなら得意分野だ」
「そういえばそうだったな」
「まっつん、聖職のイメージないから忘れてた」
「おい」
 マツカワは壁役として前線で働く印象が強いため、僧侶の神のしもべの雰囲気からは遠いのだ。
 オイカワがそう言うと、マツカワは苦笑した。
「そりゃあ俺は、僧侶じゃなくて道師だけどな……まあいいや。そろそろ行くべ」
「ん。オイカワ」
「はいよ」
 オイカワが道具袋からキメラの翼を取り出した。
 一度赴いた場所に飛べるという移動呪文が練り込まれた、非常に便利な魔道具である。
「先に飛べよ。お前らと同時に飛んで衝突したら、俺の方が消し飛ぶ自信がある」
「どういう自信なの?」
「いいから行くぞ」
 イワイズミはオイカワにキメラの翼を翳させる。
 移動呪文に伴う光の粒子に包まれながら、戦士はもう一度道師を振り返った。
「本当に、無理すんなよ」
「分かってる」
 マツカワは笑って、阿吽のコンビが転移するのを見送る。
 二人が飛び立つようにして消えるのを確かめ、キメラの翼を手にした。









***



 ダテ工業都市は依然として人通りが少なく、閑散としている。
 しかしオイカワは、以前訪れた時に動いていなかった機械がいくつか稼働しているのに気付いた。
 イワイズミにそのことを言うと、その眼光が僅かに和らいだ。
「俺たちのしたことが、少しは役立ったってことか」
 衛兵部隊の詰所を訪ねた。
 出てきたのはコガネカワで、オイカワたちにモニワらの場所を尋ねられると、大きく頷いた。
「ちょうどカマサキさんが来てますよ」
 大声で先輩の名を叫んだ。
 するとどこか近くから「無線で呼べ馬鹿」とフタクチの声がした。
「よぉ、無事だったか!」
 奥からやって来たカマサキは破顔して、手を差し出した。
 イワイズミがその手を取り、堅く握る。
「まあな。星の砂が手に入った」
「そろそろだろうと思ってた。準備できてるから来いよ」
 根性主義者二人は先立って歩く。
 その後をオイカワは続こうとして、横にずいと入り込んできたフタクチに気付いた。
「隊長サン、詰所空けちゃっていいの?」
「俺、今日非番なんで」
 フタクチは腰に下げた刀をガチャガチャ言わせながら、尖った視線をカマサキとイワイズミに投げかけている。
 面構えこそふてぶてしい少年だが、先輩によく懐いている様は微笑ましい。
「先輩が大好きなんだね」
「あ?」
 睨まれた。
 やはり微笑ましくないかもしれない。
「どこに行くんだ?」
「俺らの工房」
 カマサキが連れて行ったのは、大通りを抜けて細い路地の絡み合った先にある、小さな扉の前だった。
 カマサキが戸を開く前に、中からササヤが顔を出した。
「よぉ。早かったな」
「わあ、久しぶり!」
 次いで現れたモニワが破顔する。
 どちらも変わりないが、服が煤けている。モニワに至っては、顔にまで黒い煤が付着していた。
「なかなか帰ってこないから、俺たち骨折り損になるかと思ってたよ。さ、星の砂くれる?」
「どうするの?」
 オイカワが手渡すと、モニワは笑みを深くした。
「ふふん。聞いて驚くなよ」
 オイカワは揃った人間の顔を見回した。
 すると、カマサキとササヤも同じ顔をしているのに気付いた。
 違うのはフタクチだけで、結んだ口元が膨れている。
「俺たちが、鏡を造る!」
「えっ?」
「機械で造るんじゃないのか?」
 オイカワが驚いた声を上げ、イワイズミも同様に問いかけた。
 カマサキが指を振る。
「いーや。真実の鏡みたいな本物の魔道具は、何が何でも手作りだ。それも、錬金釜で造らなくちゃいけない!」
「錬金釜?」
「錬金術師の、魔法の鍛冶道具みたいなものかな」
 ササヤが答える。
「必要な素材を揃えて、必要な手順を踏めば、どんなものでも造れるっていう優れものさ。でも、錬金釜は普段はしまい込まれていて、どこにあるかも、使い方も分からなかった。一般のダテ市民だって、存在すら知らないと思うよ」
「でも俺たちは、頑張って見つけた!」
 モニワはえへんと胸を張る。

「使い方も、魔法の鏡の作り方のレシピも、しっかり調べた。いやー、真実の鏡を造るって決まった時、もしかしてあの伝説の錬金釜が使えるんじゃないかってちょっとドキドキしてたんだけど、ほんっとに見つかって、しかも使えそうで良かった!」
「職人、浸ってないでさっさと話進めてくださいよ」
 俺オフなんスよとフタクチがふてくされている。
 カマサキが後輩の頭を掴む。
「ついてこなければ良かっただろうが」
「何言ってんスか。さっきグミ作ってもらうって言ったでしょ。俺、オリジナル配合の酸っぱいやつじゃないと食べませんからね。売店のなんかじゃ満足しませんから」
「あー分かった、分かったって!」
 モニワがカマサキとフタクチの間に割り込み、引き離す。
 オイカワは口元を押さえ、笑いを堪える。
「構って欲しいんだねぇ」
「アア!?」
「ちょっと、オイカワくんまで混ざらないでよ!」
「で、鏡はいつできるんだ」
 イワイズミが尋ねる。
 騒がしくなりかけていた場が静まり、視線がモニワに集中する。
 元主将は、小さな口をにんまりとさせて言い切った。
「三日。三日あれば、君たちに渡せるよ」









***



 アオバ城砦に戻ったマツカワが市役所の衛兵部隊臨時詰所に向かうと、既に後輩たちが揃っていた。
 円卓を囲んだ面々が、戸を開けたマツカワを同時に見る。
 隊長代理を務めるヤハバが一歩、前へと進み出た。
「部屋、調べました。封印を破られた形跡こそありませんでしたが、中のものが一部、紛失していました」
「何がなかった」
「写真です。俺たちが撮った集合写真が全部、無くなってました」
 マツカワは首を掻いた。
 眉根を寄せたクニミが吐き捨てる。
「記憶がないからと油断していました。もっと厳重に封じて、あの人も見張っておけば」
「仕方ねえよ」
 マツカワは穏やかに諭す。
「優先順位がある。防衛部隊がほぼ壊滅している現状、今の俺たちの第一優先はこの街の警備だ。記憶を無くした三年のことは二の次だろう」
「でも」
 言いかけたワタリが口を噤む。
 マツカワが急にくつくつと笑い始めたのだ。
「あーあ。ホント、なんてタイミングなんだろうな。面白いと思わないか」
「何が、ですか」
「昔からそうだった。アイツ、特別スピード出せるわけじゃないのに、他人より気付くのが一瞬早いんだよな。不意に来た攻撃とか、仲間のフォローとか、早いんだわ。いっつも表情も変えずに、こっちに気付かせる間もなく、何でもすぐにやっちゃうの。入隊したばかりの頃、よく感心したよ。聡い奴だ、コイツが仲間で良かったって」
 アオバ城砦都市衛兵部隊には、花形戦士が二人いた。
 一人は多彩な戦闘技能を誇るオイカワトオル。
 もう一人は不屈の精神と安定した火力を持つイワイズミハジメ。
 さらにこの二人が阿吽の呼吸と呼ばれるほどの連携プレイを得意としていたために、人々の目はそちらに行きがちだった。
 だが、マツカワだけは分かっていた。いや、マツカワだからこそ、分かった。
 固い絆で結ばれた華々しい二役の脇で、ずっと共にいたのだから。
 マツカワは久しぶりに、声を上げて笑った。
 大声を放つような開放的な笑いでこそないものの、静かにとめどなく込み上げてくるせいで、腹が引きつれそうだった。
「ま、マツカワさん」
 キンダイチが心配そうにしている。
 大丈夫だと片手を振って見せた。
「悪いな。いや、記憶が無いクセにあんまりにも変わらないから、懐かしくて」
 マツカワは呼吸を整えて、錫杖を担ぎ直した。
「もうすぐ、真実の鏡ができあがる」
 一同の間を、緊張が走る。
「オイカワとイワイズミが取りに行ってる。短くて三日、長くて一週間で帰ってくるだろう。アイツらが帰ってくる前に、アイツと話をつけておかなくちゃならない」
 行き先はと短く尋ねる。
 即座にヤハバが答えた。
「くらましの館です」
「ギリギリ、アオバの森の範囲か。魔王の城と正反対の方向だったな」
「俺たちも行こうとしましたが、あそこは目視が難しいので」
「行けるとしたら、俺か、キョウタニさんくらいでしょうね」
 クニミが低く言う。
 キョウタニは、黙ってこちらを窺っている。
 隣のヤハバが首を横に振る。
「でも、クニミをここから離れさせるわけにはいきません。キョウタニも……今の防衛軍の状況だと、警備から外したくない」
 後半はなかば悔しそうだった。
 この隊長代理とキョウタニとは、喧嘩仲間で好敵手だからだろう。
「分かってるよ」
 マツカワは瞼を閉じた。
「俺だけでいい」
 眼を開くと、ヤハバの今にも泣きそうな顔が見えた。
 コイツ、表情の豊かさがオイカワに似てきたな、と思う。
「すみません」
「何で謝んの」
 絞り出すように言う後輩に、マツカワは笑いかける。
「お前らは、自分たちの仕事に集中しな。俺らは大丈夫だから」
「すみません」
 ヤハバはまだ頭を下げたままだ。
 表情は見えないまま、か細い声だけが聞こえる。
「本当に、すみません。でも俺……やっぱり、ハナマキさんに会いたいです」
「うん」
 俺もだよ。
 その言葉はまだ言えず。
 代わりに、後輩の頭を軽く撫でた。









***



 オイカワたちは三日、ダテ工業都市に滞在することになった。
 鏡を造っている間は工房へ近づいてはならないと言うので、オイカワたちは衛兵部隊の伝手を頼り、格安で手配してもらった宿で、完成の報せを待つことになった。
 宿で寛いでいても身体が鈍るからと、二人は散策に出た。
 出歩くことを許可されている地域には、商店街があった。建物の構造に合わせ、直線状の道の両脇に軒を連ねた店を、多くの客が覗き込んだり、通り過ぎたりしている。
 客の気を引こうと旬の川魚の名を叫ぶ店、とれたての青果はいかがと呼びかける店、オイカワたちにはよく分からない金属の部品を売る店など、それぞれが商売に励んでいる。
 オイカワは目を細め、賑わいを味わう。
「売ってるものは違っても、商店街ってどこも似た雰囲気だね」
「そうだな」
「アオバ城砦のアーケード街のところに似てない? ほら、あの曲がり角のところとか」
「あー。同じ屋内っぽいからってだけじゃねえの?」
「でも間取りが似てない? 店と店の間の距離とか」
「言われてみれば」
 細く長く続く軒の連なりを眺めて、取り留めのない話をする。見慣れぬ街並み、知っている商品、知らない品物を見るだけでも楽しい。
 それでも思い出して口頭に上るのは、不思議と故郷のことばかりだ。
(俺、そんなにアオバ城砦のことが大好きだったかな)
 口をつぐむ。
 賑わいを見せる軒並みの一角。
 オイカワの視界の中央に、シャッターの閉まった店が一つ現れた。
 寄ってみると、店前に三つ花束が置いてある。
 その中の一つにメッセージカードが添えてある。
「『早く、目を覚ましてくれますように。待ってます』」
「経営者みんなが眠り病なんだろうな」
 イワイズミが推測する。
 ここに至るまでに、シャッターの閉まった店はちらほらあった。それをオイカワは一瞥しただけで通り過ぎた。
 しかしこの店先に置かれた花束を見た時、妙に足が引き寄せられたような気がした。
「みんな、眠り病」
 オイカワは反復した。アオバ城砦と同じだ。
「ねえ、イワちゃん」
 何だ、とイワイズミは続きを促す。
 オイカワはやや逡巡してから、意を決して口を開いた。
「イワちゃんはこの世界のこと、どう思う?」
「ああ。こっちが現実の世界で、俺たちがいた世界は夢の世界で、俺たちは記憶喪失の魂なんだって話か」
 オイカワには判断がつかない。
 自分のいた世界が魔王の作り上げた幻だと言い切れる確証もなく、かといって全くの偽とも言い切れない。
 ただ、カラスノで戦った時に得た既視感から、自分自身が本当にこの世界の住人だったのではないかという気はしていた。
「まっつんやマッキーのことは信じてるよ。俺のしたことが後輩たちのためになるならば、良いと思う。でも」
 花束の中央に差し込まれたメッセージカードの白さが、目に刺さる。
「この世界の俺の本体──身体を持ってるっていう別の『俺』に出会った時、俺はどうなるんだろう」
「身体と魂が出会ったらどうなるか、か」
 イワイズミは天井を仰いでいる。
「合体するんじゃねえの。一つの身体に一つの魂が普通なんだろ」
「そうなったら、俺の意識はどうなると思う?」
 鋭い眼差しがオイカワを捉えた。
 知らず、唾を飲み込む。
 軽蔑されるかもしれない。臆病者と罵られるかもしれない。
 そんな恐れさえ見抜いているのでは、と思わされる眼だ。
「長い間、別の個体として動いていたもの同士が、一つに戻ろうとしたら。どちらかが消えることにならないかな」
「お前は、この世界のもう一人のお前じゃなく、お前自身が消えると思ってるのか」
「この世界の俺が現実の存在で、俺がそこから派生した夢の存在だとするなら、力関係は分かりきってる」
 この世界に降りてきたばかりの頃、誰にもオイカワとイワイズミの姿は見えなかった。
 霊界の精霊は、召喚士が喚ばなければ、ここに形を持って存在することすら危うい。
 視界が薄暗く翳る。
 天窓から差し込む陽光が、雲に遮られたのだ。
 暗がりの中に、イワイズミと二人、立ち尽くす。
「つまり、さ」
 オイカワは息を吸った。
「俺もイワちゃんも、死ぬ可能性があるよね」
 イワイズミは言う。
「こっちに俺たちの身体だけがあって、意識がないなら、問題ないだろ」
「そうだね。でも、この世界の俺の身体には、きっと意識があると思う」
 イワイズミはまっすぐな眼差しで、口を引き結んでいる。
 オイカワはふと、幼馴染みも薄々察していて、これまでに自分が今言ったようなことを考えてきたのではないかと思った。
「俺は」
「なら、もう一回夢を見に行く?」
 二人は振り向いた。
 背後に、青年が佇んでいた。
 トサカじみた髪型。オイカワと同程度の身長を黒い衣装で包み、紅い上着を無造作に羽織っている。
 顔立ちは決して悪くないはずなのに、細まった糸目が不思議と警戒心を抱かせる男である。
 彼を一目見て、実体を持たぬ心臓が一つ、大きく脈打ったのを感じた。
「お前は」
 忘れもしない。
 オイカワをこの世界に突き落とした男だ。
 オイカワが剣を抜くと、トサカ男は両手を挙げた。
「待て待て。今度は何もしないから、俺と話そう。な?」
 細い眼を更に糸のようにして、男は笑う。愛想の良さが信用ならない。
 男は道化めいた仕草で、胸に手を当てた。
「もう一回、自己紹介するか。僕はネコマ魔導都市衛兵部隊隊長、クロオテツロウです。お前らからすれば、初めて聞く名前だろうけどな」
 オイカワは眉を顰める。
「この世界の俺と、知り合いなの?」
「ま、そんなもんかな。だから手助けしに来たの」
「何を企んでる」
 イワイズミが抜刀の構えで問う。
 対してクロオは、うーんと間延びした声を上げる。
「世界平和です」
 胡散臭さがすごい。
 クロオは更に完爾とした。
「信じるも信じないも、お前ら次第。でも、この世界を信じきれているわけでもねえんだろ? そんなに悪い提案じゃないと思うんだが?」
(多分、コイツがこの世界の俺と知り合いだっていうのは、嘘じゃない)
 オイカワはこれまでに何度か、クロオが己をこの世界に落とした理由を考えてきていた。
 仮にアオバ城砦を攻略するという目的があるならば、防衛軍の上役を選んだ方がいいはずだ。
 私怨だとしても、連合国家ヤマトのまとめ役、トーキョーの都市と自分の間には全く縁がない。
 しかし、今の自分が覚えていない「現実の自分」と彼の間に面識があるのならば、納得できる。
 少し、カマをかけてみよう。
 本当に自分の知り合いならば、自分の言動にも詳しいはずだ。
「魔王を倒したって、元には戻れるんじゃないの」
 オイカワが問うと、青年は大仰な溜息を吐いた。
「おいおい、オイカワトオルともあろう者が何言ってんだよ。魔王を倒したら、今具現化した夢の世界もまた消えるだろうが。当然お前らも、体が元に戻れなければ、消えちまうのが普通だろ」
「そうなのか」
 イワイズミが相棒を見る。オイカワは唇を結ぶ。
 やはり知り合いなのか?
 だが、まだ断定するには材料が足りない。
「何が本当か、判断できなくて当たり前だよな」
 見透かしたかのように、クロオが言う。
「お前らは、こっちの世界が本当だ、これまでいた世界が夢だったんだ、なんて言われてきた割に、ここに自分がいた確かな証拠を見られてねえ。衛兵部隊ならば、隊員の帳簿やら集合写真やら、あってもいいはずだ。何で見せてもらえねえんだろうな。いや、そもそも、見せてもらったとして、それを信じられるかは別か。そんなもん、いくらでも偽装できる。現実は、案外揺らぎやすいもんだ」
 例えば、と男は片方の掌を上向けた。
 愛らしい猫のマスコットが現れ、くるくる回る。
「これは鳥です、と幼い頃から教えられた子供がいるとしよう。その子にとって、これは間違いなく鳥だろう。だが他の連中からすれば鳥だ。きっと、その猫を鳥と信じる子供のことを間違っていると言うだろうな。もっともな話だ。
「だが、猫からしてみればどうだ? この生き物を猫だって、この生き物自身が言っただろうか? いや、この生き物と接した一部がそう便宜上名付けただけだ。この生き物からしてみれば、自分を表すものが猫だろうが鳥だろうが、どちらも真実ではない。そういうことにならないか?」
 男の大きな掌の上で、猫のマスコットは軽快なステップを刻み、揺れながら踊っている。
 オイカワは頷いた。
「夢と現実も同じかもしれない。どっちが本当かなんて考えても仕方ないから、どっちを選んでもいいんじゃないかってこと?」
「そうそう」
 イワイズミは眉間にしわを寄せて、猫のマスコットを睨んでいる。
 ただの人形が動けるのは、魔法のおかげだろう。器用なことをする。
 オイカワは周囲を見回して、はっとした。
 ここは商店街の一角。多くの人間が行き来しているというのに、往来の誰一人としてこちらを気にしていないのだ。
「俺たちがいる位相をずらしたのか」
「その根拠は」
 寸時に出た答えに、クロオが問い返す。
 オイカワは足元の石畳を強く蹴る。
 そこには何の跡もつかない。
「ほら、物質に干渉できない。俺たちの存在位置を、時空魔術で作った少しずれた領域に持っていったと考えた方が自然デショ」
「ほぉ」
 クロオはにやりと笑う。
「及第。五十点ってところかな」
 まだ奥がある。当ててみろということか。
 オイカワは考える。
 及第ということは、自分たちが物質界からやや離れてしまったという推理は当たっているのだ。
 そこから発展させて、導き出される推測を示す。
「じゃあ、もう少し。君のような他市の人間を、この鉄壁の街が容易く入れるわけがない。君は厳密にはこの街には入っていなくて、少し位相のズレた、この場所に重なって存在する世界から、俺たちに干渉してる。そこに俺たちは引き摺り込まれたって感じかな」
「さすがオイカワくん。八十点」
 それからもう一つ、とオイカワはさらに続ける。
「ズレた位相からこの都市に間接的に干渉する術を持つ、他者の意図を確認せず別の空間に移す……相当に高度な占星術師でないと厳しい技だ。でもそれを君は楽々使ってる。人間業じゃない」
「つまり?」
「君は人間じゃない。魔族だ」
 クロオの目を見据え、オイカワは自身の眦を指す。
「初めて君に会った時、目が赤く見えた。今はそう見えないけど、擬態してるんだろ。赤眼、変身能力、優れた時空干渉能力、膨大な魔力……加えて神出鬼没と来れば、正体は知れる」
 神話の時代。
 どこからともなく現れては、迷える英雄に知恵を与えたり、戦場をかき回したり、気まぐれに幸と不幸を撒いて去っていくモノがいた。
 些事にとらわれぬ、魔族らしい流動的な生き方を好むその種は、安定を好む人間には嫌われ、こう呼ばれた。
「俗に言う、悪魔。人間以外からは、高等な能力への畏敬を込めて、『ロード』と呼ばれてる」
「ハイ、百点満点。よくできましたー」
 クロオの姿が変化する。頭から二本の角が生え、瞳孔が赤く染まる。
 本来の魔族の姿に戻り、パチパチと口で言いながら拍手をした。
 やはり。オイカワが気を引き締め直す傍ら、イワイズミは鼻を鳴らす。
「で、もう一度聞くが何が目的だ? まどろっこしいのはいいから、簡潔に話せ」
「あれ。思ったより驚かない」
「種族なんかどうだっていいだろ。殴れるか殴れないかだけ、気にはなるがな」
 クロオは唖然としたようだった。
 それからまっすぐすぎるイワイズミの視線を避けるようにして、オイカワの方を向く。
「君の相棒、人間として大事な何かが欠けてね? 大丈夫?」
「いや、イワちゃんは人間として大事な何かが天元突破してるだけ。きっとそうだよ、うん」
 魔族に人間性の心配をされる男、イワイズミハジメ。
 そのお陰なのか分からないが、この世界に来ることになった元凶に出会しても、いまいち恐怖を感じない。イワイズミがブレないせいか、それともこの魔族から全く敵意を感じないせいか。
 どうにも動きづらいな。
 オイカワは得物を握りなおす。抜きっぱなしの剣のやり場に困る。
 一方クロオは、イワイズミに語りかけている。
「だから、世界平和だって。お前らと平和にやりたいの。なんか迷ってるみたいだから、もういっぺん、夢の世界を体験させてやろうと思って」
「何でそんなことしてくれるんだ」
「友達だからです」
「うさん臭え」
「本当なんだって! なあオイカワくん」
「俺、トサカのある友達はいた覚えないかな」
「くそ、友情なんてそんなもんなのか」
 よよと泣き崩れる真似をするクロオ。
 真実味が薄いが、かと言って全くの嘘にも思えない。
 オイカワは溜息を吐いた。
「友達だったなら、この世界の俺のことを教えてよ。いまいちまだ分かってないんだよね。話を聞けば、俺もこの世界に馴染めるかもしれない」
「それは駄目だ」
 クロオは背筋を伸ばし、真摯にオイカワを見つめた。
「自分のことは自分で思い出した方がいい。他人が間に入ると、存在が歪む可能性がある」
「急に真面目だな」
「どうする?」
 イワイズミとオイカワは顔を見合わせた。
「鏡をこっちのアオバ城砦に持っていかないといけないよね」
「マツカワが待ってるからな」
「マッキーも心配」
「大丈夫だ。問題ない」
 クロオは自身を親指で指した。
「鏡ができるのは三日後だろ。それまでに戻って来れるよう、俺が調節する」
「できるの?」
「男に二言はございません」
 大事なところで大仰な言葉を使うから、胡散臭く思えるのだ。
 指摘はせず、オイカワはイワイズミと相談する。
「迷いながら魔王討伐したくないよね。俺、行ってみてもいいかなと思うんだけど、どう?」
「好きにしろ。俺はどっちでもいい」
 魔王をぶん殴る準備は出来ている、とイワイズミ。
 そこまで言われると、こちらも腹を括らなくてはという気になってくる。
 オイカワはクロオに向き直った。
「じゃあ、頼もうかな」
「そう来なくっちゃな」
 クロオはパチンと指を鳴らした。
 足元が揺らいだ気がして、一瞬、まぶたを下ろす。
 その隙に、景色が変わっていた。
 四方の長さが等しい、こじんまりとした部屋にいる。壁も床も木目調で、暖炉が一つ、赤々と燃えている。窓沿いにベッドが、反対側にソファとローテーブルが置かれている。暖炉の向かいの壁には、夥しい数の小さな引き出しを収めた巨大な棚が据えてある。
 天窓から射し込む日射しが、足下の紅いラグに溜まって、午睡にちょうどいい温度を伝えてくる。
 オイカワはラグの長い毛並みから、ソファへと目を移す。
 ソファに少年が寝そべっている。
 首回りまで伸びた髪は、黄色く染めていたのが伸びてきたらしく、根元のみが黒い。ゆとりのある白いローブを纏った小柄な身体はうつ伏せになって、何か四角いものを覗き込んでいる。
「ケンマ、元気か」
 クロオが問いかける。
 ケンマと呼ばれた彼は反応しないかに見えたが、ややあって身体を起こした。
 能面のような顔の中で、大きな瞳のみがキロリと動いて、オイカワ、イワイズミ、そしてクロオを映す。
「この世界で体調不良になるわけがないよ。そろそろ別の挨拶、考えたら?」
 起伏の無い口調である。
 身体を起こす仕草さえ、来客が来たため必要に迫られてという印象だ。
 クロオは、何となく不満そうである。
「だって、現実のお前の肉体が寝てるばっかりだから」
「好きで寝てるんだし、たまに起きてる」
「知ってる。でも、見てる側からすると不安になるんだよ」
「はあ」
 クロオとケンマの掛け合いを、オイカワたちは眺めている。
 突如連れてこられた場所と、その家主とおぼしき少年が何者か、知りたかった。
 ケンマが顔の向きを変え、オイカワたちに言う。
「ここは夢の世界。俺はコヅメケンマ、クロオの友人。その暖炉はテレポートポイントになってるから、そこの棚から行きたい場所の触媒を選んで火にくべれば、すぐにアオバ城砦に行くための扉が開くよ」
 端的に欲しい情報を与えられた。
 まるで、オイカワたちの考えを読んだかのようである。
 思考を読む術を持っているか、そうでなければ、よほど洞察力があるのだろう。
 オイカワは少年の容姿を観察する。
 白い法衣は白魔道士のもの。姿形は平凡な人間のように思える。
 だが、ただの人間が自分の意思で夢の世界へ赴き、このようなテレポートポイントを備えた拠点を築けるだろうか。
 テレポートというのは、時空魔術の一種だ。
 離れた場所、離れた時間を一瞬にして繋ぐことができる。職業で言えば占星術師の専門分野だ。
 光の領域を主に扱う白魔術の原理でも、似たことはできるが、白魔術に関する深い造詣がないと厳しい。この少年にはそれだけの技量があるのか。
「君は、意図的にこの世界にいるんだね。理由を聞いても?」
 やや吊り上がった瞳が、オイカワを視界の中心へ映す。
 視線の動かし方にも無駄がない。猫のようだ。
「長期休暇」
「え?」
「俺もネコマの衛兵部隊に入ってるんだけど、今は精霊界も物質界も静かで、仕事がないから、ここに来た。ここなら好きなだけゲームができる」
「へ、へえ」
 仕事に対する姿勢も非常にクールである。
 それでも衛兵部隊に籍を置き、隊長であるクロオに気にかけられているのだから、きっと能力は高いのだろう。
「クニミみてえだな」
 イワイズミがオイカワの思っていたのと同じことを口にする。全くだとオイカワは頷いた。
 クロオは棚を眺めている。
 オイカワは近づいていき、共に棚を見つめた。
 小さな引き出し一つひとつに、地名が書かれている。ミャギのものはもちろん、他国の強豪都市名から、聞いたことのない場所の名前まで揃っている。
「てっきり君一人の力で、アオバ城砦まで行くのかと思ってたけど」
「いくら魔族でも、夢の世界は精霊界とはまた別だからな」
「魔族の時空間移動は、自分で創った亜空間を使ってするんだっけ」
「そう。ちょっと高いところに行くために、新しい階段を作るみたいなもんだな。たとえば」
 クロオは棚を仰ぎ、天井近くにある引き出しを指さす。
 「ミャギ国アオバ城砦都市」とラベルが貼ってある。
「俺はあそこに行きたい。でもこのまま手を伸ばしても届かない。こういう時、俺たちは亜空間を作る」
 指を一振りすると、彼の腰のあたりに透明な板ができあがった。
 そこに足をかけ、身体を引き上げる。
 アオバ城砦の引き出しに手をかけたクロオが、オイカワを見下ろした。
「これが、魔族の時空間移動だ。人間の時空魔術使いはこうじゃなくて、自分のいる場所と移動したい先を直で繋ぐ扉をぶち開ける。召喚も同じ原理だろ」
 オイカワは頷いた。
 クロオはふわりと飛び降りる。
「こういう違いが、物質界依存の生き物と、精霊界依存の生き物の違いでもあるよな。魔術では、物質界は固体として、精霊界は液体や気体として喩えられる。人間からすると何か別のもの──水とか、他の生き物とか──に変化するのは難しいようだが、俺らからすればそれは逆だ。魔族は何にでもなれる。だが、決まった姿を保つのは難しい。特に、他人の創った空間に馴染むのは難しいな」
「変化が得意でも、そういうことがあるんだ」
 そ、と返事するクロオ。
 手の中で、取ってきた触媒の袋をお手玉する。
「他人の創った空間って、固まりかけた固体みたいなもんなんだよ。夢の世界も同じだな。創った本人でもねえと、確かな存在として居続けるのは難しい。それで、無駄な魔力を消耗したくねえから、ケンマのテレポートステーションを使ったってワケ」
 オイカワは軽やかに飛ぶ袋を眺めつつ、首を傾ける。
「でも、ここに来るのは一瞬でできたよね」
 クロオの話した原則とやったことを振り返ると、矛盾に気付く。
 夢の世界は他者の創った亜空間なのに、彼は先程指先一つの合図で移動したのである。
「それはまた別だ。俺とケンマは特別」
 ちらりと少年を見やり、低く囁いた。
「俺たちは、チェンジリングだから」
 チェンジリング──取り替え子とも呼ばれるそれは、別の種族のもとで育てられた者のことである。
 特に魔族が自分の子と人間の赤子を取り替えたのがきっかけとなるケースが多く、育ち上がった子はそれぞれ、本来の種族としては持ち得ない性質を強く持つという。
 さらにこの取り替えられた子供同士は、育っていく中で一種の同調能力を得る。
 たとえば、遠く離れた所にいても同じ行動を取ったり、片割れの感情を察知して同じ感情を共有したり、危機を悟ったりするという。
(コヅメくんが平気で夢の世界にいられる理由も、クロオくんが人間にうまく擬態できていたのも、納得できる)
 物質界の人間であるコヅメが人間にはあり得ない優れた時空間能力を持つのも、精霊界生まれのクロオが物質界にて安定して姿を保っていられるのも、チェンジリングだからだったのだ。
 その一方でオイカワは、クロオがコヅメをよく気にかけ、己がチェンジリングだと名乗った時の秘めたような口ぶりが示すものも、敏感に感じ取った。
 取り替え子は、本来の種族の理を超えた存在として迫害されてきた歴史がある。赤子のうちに殺されてしまうものも多い。
 クロオはかぶりを振っている。
「チェンジリングは二人で一人みたいなところがあるから、俺は、ケンマのいる場所なら簡単に移動できる。今回は、ケンマが夢の世界にいたから、すぐにここに来られた。有難いが、現実で寝っぱなしなのを考えると、複雑だわ」
「ねえ、行かないの?」
 コヅメが声を掛けてきた。イワイズミと共に、暖炉の前に立っている。
「早めにしておかないと、いくら俺の作ったポイントでも、移動できなくなるかもしれないよ」
「はいよ」
 クロオは暖炉に寄っていく。オイカワも続いた。
 袋を受け取ったコヅメが、中身を確認する。
「言っておくけど、原則移動先は暖炉がある場所になるから。アオバ城砦の場合、衛兵部隊詰め所でいいかな」
「いいよ」
 オイカワが答える。
 コヅメが触媒を暖炉の火にくべると、青い炎が踊り立ち、光の渦が現れた。
 テレポートの光、通称《旅の扉》ができあがったのである。
「おおー」
「すげえな」
 あまりに手軽、かつ見事。
 感心しているオイカワたちに、クロオは手を振った。
「じゃあ、俺はこれで」
「え、行かないの?」
 オイカワは目を丸くする。
「ここからは、水入らずがいいだろ。一度あっちで過ごして、よく考えればいい」
 魔族は二本、指を立てた。
「いいか、二日だ。明日の午後二時、さっきまでいた世界に戻りたくなったら、アオバの森、例の大穴の前で待っててくれ。俺が迎えに行く」
「戻りたくなかったら?」
 イワイズミが尋ねると、笑って首を横に振った。
「もう、何も言わねえよ。そっちで達者にやってくれ」
 オイカワはネコマの二人を見つめる。
 クロオは変わらぬ笑顔で、コヅメもまた変わらぬ無表情である。
 対照的でありながら、同じ読みづらさを持った二人だ。
 クロオだけでなく、コヅメもオイカワのことを知っているのだろうか。
「目的があって俺を突き落としたんデショ。いいの?」
 尋ねると、クロオは黙って手を伸ばした。
 そして、かつてとは対照的な柔らかさで背中を押した。













 光に包まれ、足元が弾けた。
 オイカワは前転して勢いを殺し、起き上がる。
 辺りを見回す。見覚えのある世界である。
 淡い緑青の壁紙、板目の床。
 窓の外には、青々と茂る木々。
 振り返ると、暖炉の上には樹木をあしらったアオバ城砦都市の紋章が掲げられている。
 アオバ城砦衛兵部隊詰所──それも、大穴の上の、オイカワたちが所属していたと記憶している方の衛兵部隊詰所の談話室で間違いない。
「戻ってきたな」
 後ろから続いてきたイワイズミが首を巡らせて、頷く。
「そうだね。戻ってきた」
 オイカワが言った時、談話室の扉から隊員が二人入って来た。
 クニミとキンダイチである。
 後輩たちは少し目を丸くした後、破顔した。
「オイカワさん、イワイズミさん」
「どこから戻って来たんですか? 心配してたんですよ」
「ああ、うん。ごめんね」
 オイカワは曖昧に笑う。
「何か変わったことはないか? 大穴はどうなった?」
 イワイズミが尋ねる。
 キンダイチが背筋を伸ばした。
「報告してきました。監督は、今後あの周辺を立入禁止区域に指定し、防衛軍で調査すると言ってました」
「衛兵部隊は、もう行かなくていいそうです。オイカワさんたちが落ちたことも伝えましたが……」
「ああ、帰ってきたって報告しに行くよ」
 オイカワは二人に休むよう伝え、談話室を後にした。
 イワイズミと並んで、詰め所の廊下を歩く。
 すれ違う衛兵たちが、快活に挨拶をしてくる。
「衛兵部隊詰所が機能している。さっきまでいた世界とは違うね」
「ああ」
 あたりに人がいなくなった頃合いをはかって、二人は会話する。
「こっちは明るいな」
「うん。建物も綺麗で、森も健康そうだよ」
 詰所を出れば、アオバの白い街並みが真珠のように輝いている。
 道には人が溢れ、木々は濃い緑の葉を豊かに蓄えている。
 これこそが、オイカワの心にずっとあった、故郷の景色だ。
(でも、もしかしたらこれは、『現実の俺』が見たかった夢なのかもしれない)
 二人は歩く。
 監督と話す必要があった。













 アオバ城砦都市防衛軍監督は、名をイリハタ ノブテルという。
 一見して温和で地味な印象の中年男である。試合中は座して戦士たちの動向を静かに見守っていることが多く、声を荒げることがない。
 その実、彼はこの防衛軍を国内四強に育て上げた影の立役者であった。
 イリハタは過度な指示を避け、彼らの戦いを注視し、必要に応じて声をかける。
 そうすることで、戦士たちに自ら戦場を分析して対策を練る力と、柔軟に立ち回って戦うために必要な知識と精神を育ませる。
 このやり方によって、彼はアオバ城砦に所属する戦士たちの信頼を勝ち取り、安定した部隊の土台を作り上げてきたのだった。
「オイカワ、イワイズミ。無事だったか」
 イリハタは防衛軍基地の一角、司令室にいた。
 司令室は、防衛軍基地管理棟の空中庭園にある。
 耐魔ガラスで囲われた透明な庭園は、光に満ちた美しい場所だった。一面に明るい表情の若草が伸び伸びとしており、合間に結晶石が顔を覗かせている。
 小川が流れる傍に、巨樹があった。オイカワの胴体より太い根を、小山のような結晶の上に張っている。
 この巨樹は「アオバの大樹」という。アオバの森の核ともいえる存在で、森の木々やそこに生きる命すべてとリンクしている。
 アオバの森の先人たちは、この大樹に特殊な技をもって触れることで、異常を察知し、森や街を守ってきたという。
 イリハタは巨樹の傍に腰かけていた。
 衛兵部隊を束ねる二人の姿を認めると、柔和な笑みを浮かべた。
「報告は聞いた。森に開いていた大穴に落ちたそうじゃないか。何か異常はあったか?」
 イワイズミと視線を交わしてから、オイカワが口を開く。
「監督は、夢の大地をご存じですか」
「ああ。生物の無意識の集合する世界だろう」
「大穴に落ちた先の世界で、大穴の下の世界こそがこの世界のオリジナルであり、この世界はあの世界の夢である──つまり、ここが夢の大地だと言われました」
「それを聞いて、どう考えた?」
 イリハタは問う。
 オイカワはかぶりを振った。
「簡単には信じられませんでした。でも、あちらの世界で過ごしてみて、あちらが現実であってもおかしくないと考えるようになりました」
 三つの都市を巡ってみて、オイカワは大穴を隔てて隣り合う二つの世界に関連性を見出してきた。
 世情が違っても、存在する都市や人間は同じだった。
 さらに、あちらの夢見の洞窟に行った時に出会ったもう一人の自分、たまに見る夢、戦闘時に無意識から呼び起こされた身体感覚から、自分とあちらの世界に強い繋がりがあることは確かだと思われた。
「そうか。イワイズミは?」
「俺もそうです」
 イリハタは鷹揚に頷く。
 驚いている様子がない。いたって平静だ。
(そう言えば、あっちの世界に監督はいなかったな)
 俄かにオイカワは違和感を覚える。
 あちらの世界のアオバ城砦では、話題にすら上らなかった。
 イリハタは主張の強くない監督である。しかし、オイカワたちを育てた重要な存在だ。
(防衛軍監督の話は、あっちの世界の俺達について説明する上で、欠かせないはずだ。説明があってもおかしくないのに、ヤハバちゃんもクニミちゃんも、ずっと一緒に旅してきたまっつんも、一言も話さなかった)
 何故説明されなかったのか。
 そして自分は、何故今まで気づかなかった?
(まっつんは、記憶を失くす前の俺について話すのをためらっているみたいだった)
 ──友達だったなら、この世界の俺のことを教えてよ。
 自然と、先刻クロオに投げかけた言葉が思い返された。
 ──いまいちまだ分かってないんだよね。話を聞けば、俺もこの世界に馴染めるかもしれない。  クロオはこう答えた。
 ──それは駄目だ。自分のことは自分で思い出した方がいい。他人が間に入ると、存在が歪む可能性がある。
 マツカワがオイカワに、オイカワ自身のことを説明するのを避けた理由が、存在の歪みを恐れてのことだったとしたら。
 嫌な予感がした。
「監督は、ここが夢の大地だってことを知ってたんですか」
 オイカワが問う。
 イリハタは頷いた。
 まさか。
「監督は、亡くなってるんですか」
「そのようだな」
 イリハタは認めた。
 イワイズミがつと目を見開き、オイカワに顔を向ける。
「何で分かった?」
「あちらの俺にとっても監督は重要な記憶だろうに、まっつんたちは監督について説明しなかった。そして何より、こっちの世界にいた時は普通に接してたのに、あちらに行った途端、俺の意識から監督の存在が抜け落ちていた。だから、監督はまっつんたちが説明したくないような──あちらの世界の俺が思い出したくないような形で、いなくなったんじゃないかって」
「聡いな、オイカワ。マツカワたちの心境は知らないが、きっとそういうことで合っている」
 イリハタは背後の巨樹に寄りかかる。
「私は戦死したようだ。防衛戦で大樹と同化した後、気づいたらこちらの世界にいた。力を使い果たしたに違いない。春の大会が迫っていた頃だったから、君たちの活躍を最後まで見届けたかったんだが」
 そう言って、溜息を吐く。
 防衛軍が戦をする時、防衛軍監督は戦況を把握し、街を守るためにアオバの大樹と同化する。
「あちらの世界に、後任の監督は来ていないようだな。ミゾグチくんが代理で入って、そのままか」
 そう言われて、オイカワは兄貴分のようだったコーチのことを思い出した。
(ミゾグチくんのことまで忘れてたなんて)
 愕然とする。
 同時に、自分の存在の不確かさに気付かされ、苦々しさが胸を占める。
 知らないうちに、記憶を含めた自分の存在を狭められていた。屈辱だった。
「本当に、亡くなってしまったんですか」
 イワイズミがイリハタに確かめる。
 監督は顎をさする。
「夢の世界は、生者の記憶や望みによって成り立つ世界だ。今を生きる人たちが亡くなった人を望んでくれるならば、夢の世界で生き続けることも可能だろう。現に私も、こちらに来てから、あちらの世界で亡くなった防衛軍の戦士を何人か見かけている」
「魂だけの俺たちがあっちの世界に行けたんだ。逆もできるよ」
 オイカワはイワイズミに言ってから、イリハタの目を見据える。
「監督。俺は、この世界とあっちの世界についてもう一度考えるために戻ってきたんです。でも、またあっちに戻ろうと思います」
「いいのか?」
 イワイズミが横目で問う。
 オイカワは頷く。
「監督やコーチのことの他にも、大事なことを思い出せなくなってるかもしれない」
 ずっと持っていたおぼろげな不安の正体がわかった気がする。
 今の自分は不完全なのだ。
 足りないものの正体を確かめないことには、先に進めない。
「やたら干渉してくるあっちの世界の俺を探して、会って、何があったのか確かめる」
「いいのか」
 イリハタは念を押す。
「もう分かっていると思うが、大穴の下の世界は、考えるのをやめ、目をふさぎたくなるようなことの多い世界だ。死んでしまった私は、ここにいることしかできない。君たちを助けることは難しい」
「分かっています。それでも俺は、自分が何をできないのか、何ができるのか知りたいんです。俺は、もっと強く在りたい」
 凛々しいオイカワの表情が、束の間和らぐ。
「それに、あっちも嫌なことばかりじゃありませんでした」
 オイカワを案じ、共に戦ってくれる仲間がいる。
 思い続けて、泣いてくれる後輩がいる。
 捨て身で信じ、待っている人たちもいる。
 オイカワは、彼らだけをあの場所に留めておけない。
 彼らを満たせなけれあば、自分の理想には近づけない。
「一緒にどうにかするって決めたんです。約束は果たします」
「そうか。ならば、もう止めない」
 イリハタは眉を下げて笑った。
「全てを思い出したいならば、もう一度アオバ城砦に行って、アオバの大樹に触れなさい。生前、万が一に備えて、溝口くんと君に私の権限を託すよう手配していたはずだ。今ならばきっと、かつての森の記憶が、君自身のことも教えてくれるだろう」
「ありがとうございます」
「いつかこの時が来ると覚悟はしていたんだが、あの状態の世界を君たちに託すことになるとは。遺憾だな」
 若い君たちには、もっと平和な世界を生きてもらいたかった。
 イリハタの嘆息に、オイカワは首を振る。
「いえ、監督。もう充分です」
 イワイズミが首肯し、口を開く。
「まだ大人とは言えないけど、俺たちもここで生きる人間です。俺たちの世界なんだから、後はやります」
 二人のまっすぐな視線を受け止め、イリハタは俯いた。
「本当に、君たちのこの先を横で見られないのが残念だ」
 立ち上がり、いつの間にか背を追い越した二人の教え子を見上げる。
「これからは君たちの時代だ。老いた者は去ろう。だが、最後に言わせてくれ。
「君たちには、思考を止めるなと言ってきた。だが、たまに考えるのをやめてもいい。迷ってくれてもいい。何故なら、そういう時が、生きるための思考の根を育むこともあるからだ。木は地にしっかり根を張っているから、あのように天に高く伸びていけるんだ。
「だが、心は殺さないでくれ。人にとって心とは、木を育てる太陽であり、水であり、土でもある。仲間を思う心、自分を愛する心、平和を望む心を持ち続けていれば、いつか止まった思考は巡り始める」
「オイカワ、イワイズミ。君たちはアオバの宝だ。君たちアオバ城砦都市衛兵部隊は、私の誇りだ。この先君たちがどこへ進もうとも、そう言い続ける人間がここにいることを、心の片隅に留めておいてくれ」
 イリハタは片手を差し出した。
 オイカワが、イワイズミが、その手を握る。
「ありがとうございました、監督」
「監督のこと、忘れません」
「ありがとう」
 イリハタは目を細める。
「あの世界に君たちを残してしまって……本当に、すまない」
 細くなった眦から、雫が一つ零れ落ちた。









***



 カラスノ元空中都市の、ある日当たりのいい一画に、耕作地がある。
 そこで、衛兵部隊一年生の四人組が土を耕していた。
「うおりゃあっ」
 ヒナタはツボの中身をぶちまける。
 溢れ出すのは、先日の大襲撃で屠った魔物たちの臓物である。
 ほんのり黒を帯びたピンクやアッシュグレーの肉塊を、カゲヤマが鋤で土に混ぜ込んでいく。
「ひっどい匂い」
 別の畑に臓物を撒きながら、ツキシマが顔を顰める。
「早く、どうにかする方法を見つけないと」
「でもこの堆肥、好評だよ」
 ヤマグチが傍で鋤を振り上げて下ろす。
「ツッキーが作った堆肥を撒いた畑の作物はすごく味が濃くて良いって、食堂のおばさんたちが喜んでた」
「当然だよ。そうなるように調合してるんだから」
 ツキシマは鼻を鳴らす。
「まだ完全じゃない。匂いを消して、誰もが撒けるような扱いやすいものにする。僕らだけで堆肥を撒き続けるなんて、効率が悪いデショ」
 今は誰もいないが、本来この耕作地は多くの人で賑わう地なのである。
 枯れた土でも強く育つ作物を育て、少しでも多く食料を得るため、一般市民、防衛軍問わず、食料への熱意と植物への愛にあふれた人々が出入りし、丹念に手入れしているのだ。
 だが、今日のようにツキシマが調合する魔物を素材とした堆肥を撒く日だけは、衛兵部隊一年の四人組以外出入りが禁止されている。
 この堆肥は、作り出したツキシマがいないと暴れ始める要注意魔法物品なので、体力と理解のある彼らしか扱えないのである。
「さっすがツッキー!」
 ヤマグチが讃える。
 ヒナタも自分の背丈ほどあるツボをひょいと持ちあげつつ、同期を褒める。
「ツキシマはすげーよな。騎士として戦えるだけじゃなくて、こうやって呪術もできるもんな」
「逆だって」
 ツキシマは眉根を寄せる。
「そもそも僕は呪術師で、騎士の方が副業。君らみたいなバトルジャンキーとは違うんだよ。ねえ、聞いてる?」
「カゲヤマーっ、こいつぶん殴ってくれ!」
「さっさとぶちまけやがれ」
 ヒナタがツボの中身を勢いよく撒けると、堆肥が天に向かって浮遊し始める。
 カゲヤマは巨大なスコップを手にして、うぞうぞと蠢く堆肥を繰り返し殴る。
 殴られた堆肥は、渇いた大地に触れた途端、みるみる液状化して染み込んでいく。
「今回の堆肥はこれまでになく活きが良いね。何でだろう?」
「魔界の扉に触れたからじゃないかな」
 感心するヤマグチに、ツキシマが考えこみながら言う。
「魔物も死んだら霊界に還る。人間が天国に行きたいのと同じようなものなんだと思う」
「へえー。なるほどな」
 ヒナタは大きく頷いている。
「魔界の扉を召喚できるなんて、やっぱり大王様ってすげーな!」
「性格は悪いけどな」
「でも、何で召喚する時にあのエースの人を呼んだんだろう」
「それは、僕も知りたいね」
 言いながら、ツキシマはカゲヤマを一瞥する。
 カゲヤマは大きく息を吐いた。
「俺も詳しくは教えてもらえなかった。だが、多分あれは」
「わっ」
 突如、ヒナタが声をあげた。
「なあ、あれ」
 全員が同じ方向を向く。
 耕作地の下方、遠くに見える門の前に誰かいる。
 大きな背中に、白い鷲のエンブレムが刻まれたマントを羽織っている。
 四人組は顔を見合わせた。
「あれって」
「本物かなあ?」
「何でこんなところに?」
 大きな背中は、門のあたりをうろついている。
 カラスノに入って来る気配はない。
 カゲヤマは念入りに観察し、言う。
「オイカワさんが戻ってきたからだ」
「マジで?」
 ヒナタは目を見開く。ツキシマは訝しげである。
「アオバ城砦の人たちが来たことはどこにも話さないって話になってたよね?」
「ああ。でも、あの人はオイカワさんのことをずっと捜してたから、勝手に見つけたのかも」
 話をしているうちに、白マントは片手を上げて、旅の扉を召喚した。
 人影が光の渦に消える。
「消えた」
「どうする?」
「どうするも何も、放置デショ」
「でも」
 残された光の渦を前に、四人は顔を見合わせた。









***



 アオバ城砦市役所の休憩室には、クニミ一人しかいなかった。
 彼は顔を俯けて、窓の外に広がる街並みを見ているようだった。
「なあ。チェスやろうぜ」
 キンダイチが持ってきた盤を掲げると、クニミが振り返った。
「お前から誘うなんて、珍しいな」
「練習しないと強くなれねーから」
 二人は窓際の一卓を陣取り、盤と駒を並べていく。
「俺が先攻で良いよな?」
「何で? じゃんけんで決めればよくね」
「ハンデだよ。勝てたことねーんだから、いいだろ」
 二人は対局を始めた。
 白、黒、白、黒。
 交互に駒を置いていく。
 キンダイチは定跡を思い浮かべつつ、相手の動きを予想する。
 クニミは、どのようにしてキングを取りにくるだろう。
 攻め込まれたら困る位置に駒を置かれないよう、自分の駒を慎重に動かして圧をかけつつ、チェックメイトへ至るための道程を考える。
 しかし、敵はなかなか予想通りに動いてくれない。
 動かし、動かされ、取り、取られ。
 気づけば、盤上の白は少なくなり、黒に押されている。
 しまいには、どう動いてもあと数手でチェックメイトされるところまで来た。
(あー、もうだめだ)
 勝つ手が見出せない。
「投了する?」
 クニミが問う。
 キンダイチは唸る。
「もうちょい考えさせて」
「今日は粘るじゃん」
「考える練習」
「そう」
 クニミは黙った。付き合ってくれるらしい。
(でも、全然手が思いつかねえ)
 終局間近になってしまうと、駒の数や置ける場所の制限が強くなり、打つ手が限られてくる。
 時間を巻き戻せればいいのに。
 キンダイチはそんなことを考えて、苦笑いした。
 ずっと最善と思う一手を積み重ねてきたはずなのに、どうしてこうなるのだろう。
「何でお前、そんなに強いんだ?」
「何度も遊んでるから」
「俺だってやってる」
「キンダイチは堅いんだよ。こういうのは、俺みたいな面倒臭がりに向いてる」
 クニミはそう言うが、それだけではないとキンダイチは思う。
「面倒臭がりは、そうだけど。お前、頭良いよな。たくさんのパターンを覚えられて、先を読めるからか」
「冷めてるだけだろ」
 クニミは笑った。
「今日、何? いつもならさっさと投了して終わるのに」
「あ、悪ぃ。嫌か?」
「嫌じゃないけど、らしくねえなって」
 キンダイチは逡巡する。
「どうやったら成長できるんだろうって、考えてた」
 クニミは眉を上げたが、何も言わない。
 茶化さずに聞いてくれるらしい。
「今まで考えてこなかったわけじゃない。むしろ、ずっと考えてた。少しでも強くなろうと、地道に頑張ってきたつもりだ」
 しかし。
 キンダイチはかぶりを振る。
「でも、足りない。何かが足りないんだ。俺がもう少し強ければ、シラトリザワに」
「なあ、キンダイチ」
 クニミが呟いた。
「俺たちが目指してるのは、打倒シラトリザワなんだろうか」
 キンダイチは言葉に詰まる。
「それは」
「もちろん、シラトリザワは倒したい。あそこにさえ勝てれば、大会で優勝できる。防衛軍の予算が大幅に増える。才能ある次の戦士見習いが流れてくる。全国に行ければ都市の強さの証明になる。利権を得る。名誉でもある」
 クニミは肩をすくめた。
「まあ、そういう面倒臭いあれこれを抜きにしても、純粋に試合で勝ってやりたいとは思うけど──そう、俺たちの戦いが、何の含みもない遊戯や競技ならば、それで良かったんだろうな」
 クニミは窓の外へ視線を移す。
 キンダイチもつられる。
 昨晩から、空には大きなぶ厚い雲が横たわっている。
 冷え込んだせいか、アオバ城砦は霧に包まれていた。街並みの影は灰色にぼやけ、森は心なしか柔らかな表情をしている。
 霧の中の街も森も、輪郭が朧げで、夢の中にいるようだった。
 階下から聞こえてくる隊員の鼻歌だけが、意識ある者の存在を教えてくれる。
「静かだな」
 クニミが呟いた。
 ああ、とキンダイチは目を細める。
 戦火のない森。
 避難民や葬列のない街並み。
 怒号や悲鳴の聞こえない時間。
 去年までの自分たちには想像できなかった日々が続いている。
「こんなに長い間、森に──戦場に出ないのは、いつぶりだろう」
「中学以来じゃないか?」
 キンダイチは思い返す。
「つっても、中学の時も、たまに物資の運搬支援で出てたけどな」
「俺は偵察見習いだった」
「ああ」
 クニミがしみじみと言う。
「もうすぐ、終わるんだ」
 旅に出たオイカワたちが戻ってくる。
 魔王と対峙する時が、近づいているのだ。
「そう、だろうな」
「正直なところ、キンダイチはどう思ってる?」
 窓から視線を動かせない。
 クニミの目を見たら、余計なことを口走ってしまいそうだった。
「怖ぇよ」
 どうにか答えを絞り出した。
「防衛軍の見習いとして、眠り病のない町を取り戻さなくちゃいけないとは思う。今のままじゃあ、根本的な解決にならないって、分かってる。でも」
「今の方が、前よりよっぽど平和だ」
 クニミが後を引き継いだ。
「夢の世界に意識を飛ばしている人間や魔族が多いから、社会が機能しない。だから、戦争も止まった。インフラは代替システムでまわっている。眠り病の人間たちの看護も、身辺の警護以外は不要。何故なら、肉体が精霊界の影響下にあるから」
 占星術師は笑みを漏らす。
「夢の大地のフィールド構築はほぼ完璧だ。ダンジョンの核に夢見の雫と真実の鏡を選んだのも、適切だった。夢を現す雫と本質を映す鏡を一つにしてフィールドを作ったから、眠った人たちがあの世界を『自分の生きる場所だ』と受け入れることができた」
 そうして、魔王の幻に魅せられた者らの世界を取り込んで、『夢の大地』というダンジョンは完成した。
「そのクオリティの高さは、未だに夢の世界を壊そうとする人間がいないところからも察せられる」
「夢の世界が実在化して大地になって、もう一年も経ったのに、どうして誰も魔王討伐に出かけないんだろうな」
 キンダイチが呟く。
 クニミは窓の外から盤面へ視線を戻した。
「考えられる理由は三つ。まず、夢の大地を作り出した存在を見つけられないから」
 そもそも夢の大地は、とある夜、唐突に具現化した。
 深まる夜に形を成した甘美で色濃い夢幻の世界は、微睡む者らに警戒の暇を与えず、無意識の深淵へと彼らを誘い、飲み込んだ。
 夢の世界は無意識の集合体である。
 夢を見ている者は、自身でさえ自分の夢の全貌がわからない。
 だから、自他の見分けもつけられない。
 仮に自分の意識に影響を及ぼしている、世界の核となっている二つのアイテムの存在に気づいたとしても、そこに映るのは自身の夢だ。
 強力なアイテムの繋ぎとして、影のようになった魔王の存在に気づくのは、不可能に近い。
 では、現実で病にかかっていない人間が、夢の大地や魔王を探ることは可能なのか。
 こちらも不可能ではないが、大変難しい。
 夢の大地は、夢を見ない者には視認できない。
 そのため、夢の世界の実在化という異変に気付くことができないのだ。
 眠り病に異常を感じて、患者の夢を解析すれば、いつかは夢の大地の全貌と魔王の存在に気づくこともできるだろう。
 しかし、夢の世界は無数の無意識が混じり合ってできている。解析には、とてつもない時間と技量が必要になる。
 夢を影で支える魔王の現実の居場所を探知する前に、自身も夢に引きずり込まれてしまうに違いない。
 だから、夢に囚われた者も現実にいる者も魔王の存在を知らないので、討伐や交渉という発想を思いつかないのだ。
「次に、戦争で人の行き来に制限がかかってるから」
 今は戦乱の世だ。どこも通行規制がかかっていて、移動が困難である。
 かつ、都市の内情が敵対する他市に知られる危険性を考えると、軽率な情報交換はできない。
 よって、眠り病の実態を突き止めることも、夢の世界の実在化に気づくことも、一年やそっとでは難しい。
「最後に、あの夢には現実で眠り続ける以外の害がないから」
 魔王が具現化した夢の世界は、現実の人々の夢、希望、願望に基づいている。
 戦乱の世に訪れた無償の平穏に、人々は惹かれた。
 仮に眠り病が死に至るものであったなら対策が急がれただろうが、眠り病に陥った人々は、起きないこと以外、何も異常がなかった。
 食事を摂らず、排せつもしない。
 呼吸する人形にでもなったかのようなのである。
 ダテ工業都市のように、眠り病の患者数が多い都市では、社会を回す人員の不足という問題も起きている。しかしそれも、活動の規模を縮小して対処できる程度のものだ。
「魔王によってもたらされた今の事態が良いものであるとは言えない。けれど、夢の大地の具現化は──魔王本人がどこまで考えていたか、何を目指していたかは分からないけれど──きっと本人の予想以上に、受け入れられた」
「ああ」
 キンダイチはうつむき、両手の指を組む。
「誰も死なないからな。とは言っても、身近な奴がずっと起きないっていうのも結構な不安だから、死ぬよりマシとは言えねえ」
「そうだな」
 クニミは両腕を組む。
「これで軍事権限を持つ大人が起きていて、戦闘を続けていたらもっと悲惨だった」
「それ、ずっと気になってたんだけどさ」
 キンダイチは身を乗り出した。
「眠り病って夢に惹かれたヤツがなるんじゃないのかよ。現実でいろいろ叶えられる偉い奴なら、夢に引き込まれねえんじゃねーの?」
 クニミは俯く。
 細まった瞳が、地底を彷徨うように翳る。
「……立場ある人たちにも色々いるだろ。悩みは誰しも尽きない」
「そうかもな」
「でも、それはそれとして、夢の大地が出現したあの一夜で、どの国もこれほど長い間停戦せざるを得ないような状況になったのは、偶然じゃない」
「どういうことだ?」
「眠り病の患者の中には、強制睡眠にかかっている人もいる」
 キンダイチは眉を持ちあげた。
「マジか」
「ああ」
「なんでそう言い切れる?」
 クニミは顔を上げた。
「お前も見ただろ」
「何を?」
「ああ、そうか。あの時、お前は外にいたんだった。あの部屋で結界を張ってたのは、マツカワさんだったっけ」
 クニミの視線が、また明後日の方へ移ろう。
「一年前。魔王が姿を消した後、衛兵部隊のメンバーで魔王の間を見に行ったよな。あの時、お前が侵入者を警戒して屋外を見張っている間、俺は先輩たちと儀式の痕跡を分析していた」
 あの部屋を初めて見た時のことは、今も鮮明に思い出せる。
 地下深くに秘されていた、正方形の一室。
 陽光の届かない、重力の逆転した不可思議の部屋の全面に、黒い血で術式が描かれていた。
 あたりには、儀式で使われたのであろう触媒の飛び散った痕跡もあった。
「術式には、眠り病の内容が書かれていた。夢に惹かれる者を誘う──それだけじゃなくて、もう一つ眠らせる対象が含まれていた。汚れで全ては読み取れなかったけれど」
 触媒として使用されていたヤマト四十七国の戦場の土と、四十七国のシンボルである動植物のパーツ。
 さらに、読み取れた術式の精霊言語から、分析にあたったメンバーはこう推測した。
「各国を取り仕切る心臓部に近しく、かつ戦場に縁のある者ほど、深い眠りに落ちるように仕組んであるんじゃないかって」
「そんなことができるのか?」
 キンダイチは唖然とした。
 クニミは首を振る。
「俺たちも確証がなかった。だから、衛兵部隊の全員には伝えなかった」
「四十七国の土とシンボルなんて、いくらあの──魔族でも、集められるか? 四十七国のシンボルには、精霊界の薬草とか、どこに棲んでるかも分からねえ幻獣も含まれてたよな。それを、どうやって。第一、本物だったのか?」
「分からない。ハナマキさんは本物だって言ってた」
 ならば、本当に集めたのだ。
 クニミは指先で己の目を押さえる。
「あの頃、俺は他人よりモノが視える方だと思ってた。視えているし、視えてない部分があることも分かっているつもりだった。だけど、知らないうちにこの森で魔王が生まれる準備が進んでいて、夢の大地が現れて──そして、何とかしようとした先輩たちがいなくなった」
 掌で両目を覆う。
「できることには限りがある。できないことを受け入れて、できることをやっていく。俺は割り切れる方だと思ってた」
 でも、足りない。
 足りなかった、と思ってしまう。
 クニミは手を外し、キンダイチを真っ向から見つめた。
「お前は、俺たちには何が足りなかったと思う?」
 キンダイチは考え、答える。
「力。先輩たちがいなくならずに済むだけの、能力が育ってなかった」
「どうやったら能力が育つ?」
「うーん。集中、分析、工夫か? それから、強い意思で努力し続ける」
「具体的には」
 生活に配慮してコンディションを整え、戦いや稽古に集中して取り組むことで、得るものを多くする。
 兵法書を読み込み、戦いの定石を頭に入れて俯瞰する癖をつけ、戦闘経験を積むことで知恵をつける。
 そういったことを続けるには、行動を継続できるだけの動機も必要だ。大小問わず目標を持つ、もしくは楽しむことも重要だ。
「でも、俺はともかく、お前は真面目にやってきた方だよな」
 クニミが問う。
「なのに、何故足りないんだ」
「俺には、お前みたいな頭のよさとか、冷静さとか、そういうのが足りないんだろ」
「お前より俺の方が頭が柔らかくて冷静っていうのは合ってるな。否定しないわ」
「少しは謙遜しろよ」
 キンダイチが呆れたように言うと、クニミは少し口の端を吊り上げた。
「俺は、お前みたいにタフじゃないし、素直さもない。この差は、何だろうな?」
 問われて、キンダイチは苦々しげに答える。
「才能と性格か」
「きっと、そうなんだろう。向き不向きとか、飲み込みがいいとか、そういうのは才能と性格によるんじゃないか」
 クニミは椅子に寄りかかり、天井を仰ぐ。
「でも、天才だって最初から全部が分かってるわけじゃない。例に出すのは腹立つけど、アイツだってそうだっただろ」
「ああ、アイツな」
「アイツも、最初は力んで矢が変な方向に飛ぶことがあったよな」
「癖があった。精霊との交渉も粗削りだったしな」
 二人は他市へ移籍していった、独善的な同期の顔を思い浮かべる。
 入部当初のカゲヤマは荒々しかったが、持ち前の貪欲さであらゆるものを吸収し、みるみるうちに弓術や交霊術の腕を上げていった。
「才能は開花させるもの、センスは磨くもの」
 クニミが言う。
「監督が言ってたよな。才能やセンスがなくても、適切に時間をかければ、いつかは身についていく」
 キンダイチは俯く。
「でも。いつかって、いつなんだ」
 卓に置かれた拳に、筋が浮いている。
 黒白の盤上で、己の行く末を知らぬ駒たちが佇んでいる。
(そう言えば、対局の途中だったな)
 クニミは窓の外、灰色にけぶる街と森を眺める。
「それが分かる世界なら、きっとこうなってなかった」
 もし自分の可能性を知る機会を得たら、自分はその内容を受け入れるのだろうか。
 クニミはしばし思考する。
 だが、途中で考えるのをやめた。
 結論を出したところで、過去は変わらない。
「俺たちには膨大な可能性があるが、時間の方は無かった。そういうことだ」
 キンダイチは何か言おうとしたものの、返答が思い浮かばず、溜息を吐いた。
「オイカワさんたち、大丈夫かな」
 代わりに、ぽつりと零した。
 クニミが外を眺めたまま言う。
「今は、俺たちにできることをして待とう」
 その時、二人の腰に帯びた通信機から声がした。
「緊急通信。衛兵部隊第一チーム、武装して森Z地区に集合」
 ヤハバである。
 いつもは陽気な声が、硬くなっている。
「面倒な奴が来た」













 衛兵部隊の一日は、ほぼ訓練で終わる。
 戦技を磨いたり巡回したり、あっという間にクロオとの約束の日になった。
 監督が、昼食にバーベキューを振る舞うと言った。
「普段のスケジュールだと、帰りたい時間に皆がお前たちに注目してしまうだろう。皆が盛り上がっている間に行きなさい」
 イリハタはオイカワとイワイズミだけにこう耳打ちした。
 その配慮をありがたく感じながら、二人は存分に食事を楽しんだ後、焼肉にはしゃぐ部員たちを眺めていた。
「本当にいいんだな?」
「もちろん。後悔しないよ」
 オイカワは隣の相棒を見やる。
「イワちゃんこそいいの?」
「ああ」
 イワイズミは最後の肉片を頬張っている。
「俺が直面している場面は、いつだって現実だ。だから、ここもあっちも現実だ。実体がないとしても、変わらねえよ」
 オイカワは笑みを零した。
「そうだね。行こうか」
 二人は盛り上がる隊員たちを尻目に、詰所の中へと入る。
 クロオは、談話室の暖炉前へ来るように言っていた。
 廊下を歩いていくと、談話室の扉が現れる。
 戸を開いたオイカワは飛び上がった。
 正面にヤハバが佇んでいた。
「びっくりした! ぶつかるかと思ったよ、ヤハバちゃん」
 オイカワは大丈夫かと彼の様子を窺う。
 しかし、いつも陽気な後輩が返事をしない。
 目はオイカワたちを見ているはずなのに、彼の瞳孔に自分たちが映っていない。
「どうした?」
 イワイズミが問う。
 ヤハバは口を開いた。
「来ないでください」
 声もうつろだ。
 オイカワとイワイズミは視線を交わす。
「ヤハバちゃん? どうしたの」
 オイカワが慎重に訊ねるが、ヤハバの瞳孔は動かない。
 力ない声で喋り続ける。
「気づけなかった。いや、気づいていたはずなのに、俺は、考えないようにしていた。オイカワさんなら何とかしてくれるって……何ともならなくても仕方ないって……」
 ヤハバの白金の鎧に傷はついておらず、肉体の外傷も窺えない。
 午前中の訓練で頭を打ってもおらず、先ほどまで他の部員と元気に肉を突いていたはずだ。
 しかし、今のヤハバはどうだろう。
 まるで夢を見ながら喋っているかのようだ。
「先輩たちがいなくなって気づいたんです……俺、先輩たちに頼りっぱなしだったって……俺たちは……俺は、今度こそ力になりたい……」
 眠っているかのような雰囲気。真剣な様子。話す内容。
「こいつ、あっちのヤハバか?」
 イワイズミが言う。
 オイカワも同じことを考えていた。
「見た感じはこっちのヤハバちゃんだけど、話す内容はあっちのヤハバちゃんっぽい。あちらのヤハバちゃんの考えていることが、こっちのヤハバちゃんにも移ってる?」
「そこの暖炉が、あっちと繋がろうとしてるからか?」
「そうかも」
「来ちゃダメです」
 ヤハバの眼に力が宿った。
 両手で二人の腕を掴み、顔を見据えてくる。
「俺、オイカワさんに庇ってもらってるって分かってたのに。イワイズミさんに任せっぱなしだって分かってたのに。俺には何もできないって決めつけて、まだ早いと思ってました。でも、分かったんです。俺、実際にできるかどうかばっかり気にしてて──俺がどうしたいかを無視してました。もう、後悔したくないんです」
 オイカワは息を呑んだ。
 すべらかだった後輩の頬に、ぱっと鮮血が散った。
 切り傷が開いたのだ。
「ぶっちゃけ、俺はもういいんです。先輩たちが無事ならそれで──先輩たちが無事なら。あの人たちが報われない世界なんてどうでもいい」
 ヤハバの身体に閃光が纏わりつく。
 紫電が鎧を焼き、バチバチと音を立てて腕を燃やす。
 しかし、握ったオイカワたちの腕には炎が燃え移らない。
 この世界の景色ではないのだ。
(あっちのヤハバちゃんの身に、何か起こってるのか)
 傷ついていく後輩の姿にぞっとしたオイカワは、ヤハバの手をほどき、肩をゆすった。
「ヤハバちゃん。何が起きてる?」
「知らなくていい」
 ヤハバは笑った。
 目は明後日を向いており、オイカワの言葉に答えたわけではなさそうだった。
「お前には分からない。あの人の本当の強さも、価値も」
「オイカワ」
 イワイズミが暖炉を指さした。
 来た時に見たのと同じ、転移の渦が宿っていた。
「戻るぞ。何が起きてるか確かめる」
「うん。ヤハバちゃん、持ちこたえて」
 二人は暖炉に飛び込んだ。









***



 時折、夢だと自覚している夢を見る。
 旅を始めたばかりの頃、オイカワがそう言っていた。
 彼の夢はひどくはっきりとしていた。起こる出来事に夢特有の突拍子のなさがない。のちにマツカワから聞いたところによると、オイカワが夢で見た景色は、この世界に実在する景観と恐ろしいほど一致しており、彼の見た夢はかつて現実の彼自身が見た光景そのままで間違いないだろうとのことだった。そう納得できるほどに、精緻な夢なのらしかった。
 ──マッキーはそういうの、見たことないの?
 オイカワに聞かれた時、否と答えた。
 ハナマキは夢を見ない。ただ、時折奇妙な感覚に陥ることがある。
 事の発端は、記憶喪失を自覚した時まで遡る。
 この世界におけるハナマキの記憶は、深い森の中から始まっている。
 気づけば、森の中で仰向けに横たわっていた。
 視界の中心に青ざめた空があって、それを霞むほどに背の高い古樹たちが浸蝕していた。
 眺めながら、自分は何故こうしているのだろうと考えた。
 何をしていてこうなったのか。そもそも自分がどういうものなのか。さっぱり思い出せなかった。
 まあいいやとハナマキは考えた。
 そんなことはどうでもいい。
 なんだか、何もかもがどうでもよかった。
 全身にのしかかる虚無が重くて、ハナマキはそのまま二日間寝そべっていた。
 だが、天体が空を巡る様を二周も眺めていると、さすがに寝ていること自体に飽きてきて、ハナマキはのろのろと起き上がった。
 これからどうしよう。何も思いつかないまま、立ち上がって歩いてみた。
 そして、猛烈な飢餓感に襲われた。
 ただの空腹感とは異なる、巨大な手で内臓をひっくり返され、潰されたかのような痛み。
 今すぐ何かを食べて力を養わないと死ぬという危機感。
 強烈な二つの衝動に、頭が支配された。
 身に着けたものをあさってみたが、食べられそうなものがない。
 木々の幹にすがりながら歩き、必死にあたりを窺って、やっと木漏れ日に一輪の花が綻んでいるのを見つけた。
 性急に駆け寄り、根から毟りとって口に含んだ。
 嚥下した蜜はたまらなく甘美で、喉を滑り落ちるそれが、上質の酒のように冷え切った体を熱くした。
 もっと味わいたくて、日の当たる場所を探し求めては花を貪った。
 傍から見たら、さぞかし異様な光景だっただろう。
 ハナマキ自身が己のおかしさに気づいたのは、周辺の花をすべて貪って満腹になった後だった。口の周りを手でこすり、べったりと付着した緑の液にぞっとした。
 自分は何かおかしいのかもしれない。
 そんな恐れから逃げるように森を出て、各地を転々とした。
 異常な飢餓感は行く先々でハナマキを襲った。嵐のような衝動に翻弄されつつ、試行錯誤するうち、この衝動を抑えるのには甘い物を食べることが有効であると気づいた。少しずつでも定期的に甘味を摂っていれば、我を失わずに済むらしかった。
 ハナマキは薬草を売ったりダンジョンの案内役を引き受けたりして金を稼いだ。
 奇妙なところのたくさんあるハナマキだったが、魔術の心得や探索の技法を身につけていることもその一つだった。人々はハナマキの器用さに驚いた。どこで培ったのかと訊かれたこともあったが、その度曖昧に笑って誤魔化した。
 稼いだ金は、甘いものを買うために使った。目につく様々な菓子を買ってみたが、一番腹持ちがいいのはクリームの甘味だった。特に気に入ったのはシュークリームである。皮を割って溢れ出るクリームの食感が絶妙で、頬張るとすぐ心が満たされた。
 マツカワと出会ったのは、そんな生活が安定してきた頃合いだった。
 その日、ハナマキはいつものようにダンジョン案内を引き受けていた。
 知人の隊商のもとへ行くのだという家族に付き添って洞窟を通り抜ける仕事で、さして難所もなければ移動距離もない、比較的気楽な仕事のはずだった。
 だが、折悪く洞窟にゴーストの大群が発生してしまい、それを追い払うために魔力をひどく消費してしまった。加えて、家族連れの子供たちが泣いて取り乱し、先に進めなくなりかけたので、彼らに手持ちの菓子をかなりあげてしまった。
 だから、雇い主一家を隊商に無事送り届けた後、洞窟をもう一度抜けた帰り道で、手持ちの菓子がつき、発作が起きてしまった。
 灼けつくような衝動が頭を真っ白にして、うっすらと我を取り戻した頃にはどこかの花畑で花を毟り取って食べていた。
(あーあ。またやっちまった)
 本能の赴くままに花を契り、口元に運ぶ自分の手を眺めながら、頭の片隅で皮肉る。
 せっかく綺麗だったのに、かわいそーな花。こんなわけわかんねえ理由で摘まれちゃって、災難だな)
 他の命を貪らずには生きていられない卑しき野生を見せつけられているようで、どうしようもなく嫌だった。
(つっても、普段の食事だって死んだ命を食ってるのには変わりないんだけど)
 同じ刈り取られた命でも、せめて、美味しくいただける形に整えてから食べたかった。
 嘆いても、毟る手は止まらない。
「おい」
 その時、声をかけられた。
 見知らぬ人間の気配に、さすがに本能も警戒したのか、食べる手を止めてそちらを向いた。
 花畑の中に、僧形の男が佇んでいた。いつやって来たのだろう。手が届くほどの距離にはおらず、害意も感じられなかったが、身構えた。
「やっと見つけた。これ、必要だろ」
 そう言って、男は手にしたものを投げてよこした。
 蓋に美しい鳥のガラス細工が施された瓶だ。中には琥珀色をした液体が満ちている。
 エルフのみが製造法を知るという秘薬、さえずりの蜜だ。
 即座に蓋を取って飲み干した。なみなみと魔力を湛えた秘薬は、ハナマキの飢えをあっという間に癒した。
「大丈夫か。大丈夫じゃないな。だいぶひどそうだ」
 男の口調は親しげだった。だが、ハナマキは彼に会った覚えがない。
「ありがとう、ございます」
 荒く息を吐きながら礼を言い、尋ねた。
「あの、俺を知ってるんですか」
 問うと、男は息を詰めたようだった。
「そうか。悪いな。俺はマツカワイッセイ。お前の……チームメイトだった」
 短い眉を寄せたその表情を見て、記憶を無くした自分にショックを受けているのだと、ハナマキは察した。
 マツカワは、自分たちがアオバ城砦都市衛兵部隊の仲間だったこと、魔王が出現して危機的な状況にあること、ハナマキは現在魔王の力によって魂だけの状態にさせられていることを語り、故郷へと連れて行ってくれた。
 故郷には仲間たちがいた。そのうち、ハナマキを見ることができるのは後輩のクニミとキョウタニだけだった。二人ともハナマキの顔を見て安堵したようだったが、記憶がないことを知ると寂しそうな雰囲気を漂わせた。
(でも、誰も俺がアオバ城砦にいた証拠を見せてくれなかった)
 かつての自分との思い出話はするのに、使っていた武器も、日用品も、部屋も、何も見せない。
 先日の魔王の事件のせいで、拠点にしていた衛兵部隊詰所が荒れてしまって、見せられる状態にないからというのが口実だった。
 だが、ハナマキが様子を窺ってみたところ、衛兵部隊詰所には強大な呪いも穢れも残っていないように思われた。マツカワの手によって封印が施されているようだが、彼は封印を維持するための努力をしていない。本当に害を及ぼすような呪詛が残っているならば、結界維持のための努力は必須のはずだと、ハナマキの魔術的勘が告げていた。
 それに、ハナマキの身の回りのものがなくとも、他の衛兵部隊のメンバーが当時を偲べるものを持っていてもおかしくないのではないだろうか。
 一度、メンバーの写真はないのかと後輩たちに訊ねてみたら、二人とも首を横に振った。その他の、ハナマキを目視できないメンバーも同様だった。誰も見ていない隙を見計らって、メンバーの仮住まいにお邪魔してみても、何の痕跡もない。あの、情に脆そうな同期のユダでさえ、そういうものを一切部屋に置いていなかった。
 徹底した痕跡のなさが怪しい。
 何か、隠している。
 幸いにして、隊員に目視されないハナマキには大した仕事がなく、暇だった。
 加えて、記憶喪失であってもなお、彼の魔法知識は隊の誰よりも際立っていた。
 詰所の結界を分析し、自分の気配を消すアイテムを作成する。マツカワやクニミの注意が他所へ向かっている機会を見つけて、ハナマキは詰所に侵入した。
 そして、そこで荒れてなどおらず綺麗に整えられた自分の部屋を見つけた。
 アオバの森でオイカワたちと出会う、一週間前のことである。





 ハナマキは目を開けた。
 彼は石造りの部屋にいた。暗褐色のレンガ壁に嵌め殺しの窓が組み込まれていて、外が見える。だが窓の向こうは濃い霧に包まれており、景色はおろか、日や月の光さえ窺えなかった。
 部屋の隅で呻き声がした。
 見ればゾンビが蹲っており、上体を起こしたハナマキに反応したのか、のっそりと立ち上がろうとしていた。
 カラスノで自分を時空のひずみに引きずり込んだ魔物だと気づいた。
「俺を連れて来たのは、お前だったよな」
 ゾンビは首を傾げた。
 ハナマキはかぶりを振る。
「いや、いいよ。だいたい分かった」
 時空間移動できるのは大概魔族だ。ゾンビのような魔物には難しい。
 この魔物を操作して、ハナマキを迎えに行かせた存在がいる。
「案内してくれねえ?」
 乞うと、ゾンビは緩慢に頷いて部屋を出た。ハナマキもその後に続く。
 ゴシック調の長い回廊、広いバルコニー、大きなロビー。
 どこも誰もいない。動くものはゾンビとハナマキと、随所の壁に据えられた燭台で揺れる青白い炎のみだった。
 ゾンビは洋館の奥へとハナマキを誘う。地下への階段をくだり、アンティークな木の扉、鉄格子の扉を潜る。
 次第にあたりが一層暗く、空気が冷えてくる。次第に燭台の間隔が広くなり、暗褐色のレンガが闇と同化する。
 それでもハナマキは、道の突き当りに、漆黒の鉄扉が鎮座しているのが見えた。
 ゾンビは扉の前で歩くのをやめ、ハナマキの方を振り返って静止した。ここが目的地のようだ。
 ハナマキは両手で扉を開いた。蝶番の軋む音と共に向こうに現れたのは、だだっ広いドーム状の一室だった。壁に灯った青い炎が、天井に彫られた精緻な造りの魔物の彫像群やら、壁の絵画を照らしている。
 部屋の中央には、黒い箱があった。
 蓋がずれて、収められた誰かの手が覗いている。
 箱じゃない。棺だ。
 ハナマキは棺へと近寄り、蓋をずらした。













 くらましの館はアオバの森の外れ、樹海へと接続するその境にある、精霊界のものである。
 館の周辺には、いつもうっすらと霧が立ち込めている。霧の濃淡が不規則に変わるため、一般市民が踏み込んでしまえば、森の複雑さも相まって、まともに進むことも退くこともままならなくなる。
 マツカワは懐から鈴を取り出し、錫杖に括りつける。すると鈴が白銀に輝き、前方へ向けて一筋の光を投げかけた。
 光の導く方向へしばらく歩けば、眼前に暗褐色のレンガからなる古風な洋館が現れた。
 巨大な黒曜石の扉の両脇に燐の炎が灯っているのを見つけ、マツカワは呟く。
「ついに開いたか」
 マツカワは扉を開こうとした。
 だが、背後に気配を感じ、取っ手に伸ばしかけていた手を下ろした。
 振り返ると、魔族が六体こちらを見つめていた。
「何か、ご用で?」
 マツカワは首を傾けてみせながら、相手を観察する。
 見た目は人間に近しい、怪人系の魔族が四人。頭やら舌やらが余分についた魔犬が二匹。
 この森に住む魔族ではない。おおかた、魔界からやって来たものだろう。
 先頭に立つ三つ目の怪人が眉を持ちあげる。
「それはこちらの台詞だ。我々の拠点に何の用だ」
「へえ。ここに住んでるんですか。いつから?」
 マツカワは平然とした口調を保ちつつ、内心は驚いていた。
 この館に第三者が入れるわけがなかった。
 入り口は『彼』が失踪してからずっと閉ざされていて、マツカワさえ入ることができなかったのだから。
 魔族は月の周期で答えた。ちょうど、マツカワたちが真実の鏡を求めて旅立った直後だったらしかった。
「そうですか。こりゃあ失礼しました。俺はアンタらの前からこの家に住んでいる主人の友人でして、引っ越したという話は聞いていなかったんですが」
 微かに愛想笑いを浮かべるマツカワに、魔族たちは鼻を鳴らす。
「おかしなことを言うな。この家は空だったぞ」
 四本腕の怪人が言う。
「俺たちが何もしなくても、食事の時間になれば美味い食い物が食卓に並ぶ。魔界の家として、いい出来だ」
 のっぺらぼうの怪人が言う。
「最初は怪しいと思ったが、今のところ異常はない。俺たちを歓迎しているらしいな」
 触手足の怪人が言う。
「俺たちがアオバ城砦を攻め落とすのを望んでいるんだろう。もうじき、望みどおりになる」
 マツカワは目を眇めた。
「へえ。あの街を」
「そうだ。あの土地はうまい霊力に満ちているのに、厄介なのがいるせいで、なかなか手を出せなかった。アレがいなくなって久しい今が勝機だと、我が旅団の長はお考えよ」
「はあ」
 マツカワは取っ手を握り、扉を開いた。
 怪人たちが非難する。
「おい。勝手に開けるな」
「すみません。興味のある話ではあるんですが、先に進みながら話しませんか」
 マツカワは有無を言わさず館の中へ押し入る。
 速足で進むと、文句を言いながら魔族たちがついてくる。
「俺たちの拠点だぞ。踏み荒らすんじゃない」
「そのまま返しますよ」
 マツカワは広いロビーの中央、深い緋色の絨毯を錫杖で突く。
 涼やかな鈴の音と共に、絨毯の中心へ若葉色の発光とともに紋様が浮き上がる。
 アオバ城砦都市の紋章だった。
「ここは俺たちの拠点だ。長くこの館の主が戻らないために、ずっと閉ざされていた、アオバの拠点の一つだ。信じられないならばもっと周りをよく見てみればいい」
 階段の手すり、柱の彫刻、燭台に施された文様。
 それらに、アオバ城砦都市の紋章がひっそりと刻んである。
「お前、あの都市の人間か」
 俄かに魔族たちが殺気立つ。
 マツカワは歯を見せた。
「荒っぽいのはやめて、穏便にいきましょうや。今ならまだ、ここから出れば無事におたくの旅団に帰れるかもしれない。俺も面倒なことをしなくて済む。お互いのためにいいでしょう」
「騙しておいて何を」
「俺は何もしちゃあいませんよ。ここが閉ざされていたのは本当だ。俺も、他の隊員も入れなかった。だから、アンタらが『歓迎』されているのは本当だと思いますよ」
 もっとも、アンタらの思う意図とは違う形だと思いますけれど。
 マツカワは背を向けてロビーを横切る。
 覚えている道順を辿って、地下への階段に至る。
「帰るなら今ですって」
 マツカワは背後を一瞥する。
 魔族たちは、己が鋭利な爪や牙を剥き出し、武器などを携えて彼の背中を狙っていた。
「他の連中はともかく、俺は僧職だ。無益な殺生はしたくない」
「お前が死ねば我々にとっては有意義だ」
 のっぺらぼうの顔面に、血管が浮き上がっている。
「ここまでコケにされて、黙って見過ごせるものか」
「そういうことは言ってませんよ。考えすぎです。おたくにとってここは地の利が悪いというだけで」
「我らに、他人を傷つける力すらない僧侶風情が一人で勝てると?」
「うーん。いろいろツッコみたいところがあるなあ」
 ぶつぶつと呟いているマツカワの後頭部へ、四歩腕がナイフを投げた。
 マツカワは首を傾けて躱し、駆けだした。
 階段を下りきって木製の扉をくぐり、鉄格子の扉も開け放つ。
 魔族たちがその後を追う。異形の獣二体が先にマツカワへと迫り、鋭い犬歯を突き立てようと飛びかかる。
 マツカワは振り返りざまに錫杖を振り、二体同時に打ちすえた。
 吹っ飛んだ犬たちは飼い主の足元に転がったものの、すぐさま態勢を立て直した。
 怪人たちはマツカワを嘲笑う。
「その棒きれで魔犬を倒せると思っているのか?」
「やっぱりダメですかね」
 マツカワは頭を掻いた。
 背後には漆黒の鉄扉が聳え立っている。
(まだ、ここから先にこいつらを入れるわけにはいかない)
 錫杖を握り直した。
「もしかしておたく、僧職の人間と戦うのは初めて?」
 マツカワの質問に、魔族たちはきょとんとした。
 顔を見合わせる彼らの様子から、マツカワは答えを察する。
「いや。アンタら、聖職者と僧職をごちゃまぜに捉えてるみたいだから、気になってな。魔界には、人間の僧侶や聖職者なんて滅多にいないか。初めてなら優しくしてあげなくちゃ、ねえ?」
 じゃあ、後学のために色々話そう。
 マツカワは体の前で錫杖を構えた。
 魔族たちは、急に戦う姿勢を明らかにしたマツカワに少々驚いたようだったが、すぐさま襲いかかってきた。
「まず聖職者っていうのは──」
 マツカワは話しながら、魔犬たちが上から下から襲いかかるのを防壁で弾く。
「俗に神に仕える者のことを指すわけだが、それにもいろんなヤツがいる」
 弾かれた犬たちは三つ目、のっぺらぼうの怪人たちにぶつかり、彼らを押し倒した。
 四本腕の怪人が筋肉の隆起した腕を唸らせてマツカワに肉薄する。
 かがんで拳を躱したマツカワは錫杖を手の内で素早く回転させ、石突で後頭部を刺突した。
 石突は頭と首の繋ぎ目を抉り、頭部を刺し貫いた。
「神々が多様に存在する分、仕え方も様々だからだ。分類の仕方も複数あるが、今は戦闘中だから、戦う時の行動パターンに従って二分で紹介しようか。ずばり、相手を攻撃できないものと、攻撃できるものだ」
 喋りながら、マツカワは四本腕の戦闘不能に怯んだらしき触手足へ錫杖を大きく振る。
 力を失った巨躯がぶん投げられ、触手足へとぶつかる。
「魔術職の代表例であり、一般に聖職者として思い浮かべられやすい白魔導士。ヤツらは白き神々への誓約により己の呪文、つまり信仰を誓う神の力で他人を傷つけることを禁じられている。料理以外で刃物を持つことは禁忌にあたるから、戦闘中は魔法による味方の回復や守護だけに専念する」
 のっぺらぼうが幻術の呪いを飛ばす。マツカワは守護結界により防ぐ。
 三つ目が投げた旋風の刃が結界を貫通し、首筋を掠めた。
 溢れた血の玉が落ちる感触。それでもマツカワは口を動かすのをやめない。
「聖騎士も、誓約が同じだから働きが似てるな。アイツらはとにかく、物理的に味方を守ることを重視する連中だ。自分が命を捧げていいと思った相手以外のために、力を使わない。たとえ自分が殺されそうな局面でも、敵に刃物を向ければ規範を破ったことになり、力を失って二度と聖騎士と名乗ることができなくなってしまう」
 再度魔犬たちが立ち向かってくる。
 マツカワは錫杖の先端、オールのように平たくなった金属部分に手をかけた。
「その二職に対して、僧侶はゆるい」
 金属の上を掌が滑る。
 手の動きに合わせて金属がスライドし、下から白刃が零れる。
 仕込み刃を覆っていた分厚い鞘で、ちょうど腕に噛みつこうとしていた魔犬の顔面を殴打した。
 鈍い感触と共に犬は地面に落ち、動かなくなる。
 後から迫って来た魔犬に、渾身の力を込めて鞘を放擲する。
 低く唸った鞘は犬の胸部に刺さり、身体ごと壁に縫い付けた。
「僧侶はどの色の神を信仰していようと、彷徨える者を導き、助けを求める者を癒すという役目を負う。その職務をまっとうするため、自害を禁じられている。だから、僧侶は白魔導士や聖騎士と違って、武器を持って敵を攻撃して問題ないんだ。回復魔法を使うだけでなく、物理攻撃もそこそこにこなせるヤツが多いのは、このせいだな」
 そして、とマツカワは残った魔族三人に目を向ける。
 ついに正体を現した剣呑な薙刀を凝視していた三人は、マツカワの眼差しに一瞬怯んだように見えた。
 その隙に、マツカワは一番近くに倒れる触手足に迫っていた。
「道師は、神羅万象を崇める」
 触手が抵抗しようと伸びる前に、首を一息で薙ぐ。
「森羅万象に自分を置き、無為自然の教えに従う」
 向かってきたのっぺらぼうの上半分を、返す刃で削ぐ。
「命は、続く時は続く。絶える時は絶える」
 これといった戒律は、ない。
 呟く声に、怪人が肉塊となってぼとぼとと落ちていく音が重なる。
「要するに、俺は道師だから何しても問題ないんだよね。聖職系統にこういうのがいるってこと、覚えておいた方が良いと思うよ」
 優しくしてあげられたかな。みんなすぐに逝けたみたいだし。
 独り言ちて、マツカワは残された魔族へと視線を向けた。
 三つ目の怪人は唖然としてあたりの景色を眺めていた。
「だから、帰れるうちに帰った方がいいって言ったのに」
「最初は進めと言っただろうが」
 同情するようなマツカワの言葉に、三つ目は返す。
 マツカワは肩を竦めた。
「それはそう。だって、どうしてアンタらにこの家の主が美味い飯をおごったのか、分かります?」
「だから、俺たちはこの家の主になんて会ってない」
「会ってなくても、十分に影響を受けてるよ。館に刻まれたアオバ城砦の印に気づかない。敵都市の偵察という仕事があるにも関わらず、ここでのんびりと飯を食って過ごした。この部屋の中身だって、見てないんだろう?」
 マツカワは親指で漆黒の大扉を指し示した。
 三つ目が頷く。せっかく目が三つあるのに、どれもぼんやりとしていて焦点を結べていない。
 マツカワは語る。
「アンタら、怪人であるからには中級魔族なんだろう。そのわりに、今までの行動が短絡的すぎたとは思わないか。アンタらの頭に何か手を加えられている可能性は? ここで初めて飯を食ってから──いや、きっとそのずっと前。この一帯の空気を吸った時から、『支配』は始まっていた。何せ、このくらましの館は、普通たどり着くことすらできねえ場所なんだ。アンタらはここの主に招かれたんだ」
「何のために」
 怪人は問う。
 マツカワは口を開いた。
「美味しく食べられるようにするため、かな」
 一息早く、別の声が答えた。
 最後の怪人が倒れた。マツカワは彼が微動だにしないのを確かめてから、念のため首筋にも手を当ててみる。仄かに温もりこそ残っていたが、脈はなかった。
 背後で蝶番の軋む音がした。
 マツカワは振り向かずに呼んだ。
「ハナマキか」
「やっぱりね。来るならマツカワだと思ってた」
 ハナマキの声だった。
 いつものフラットな調子で語る。
「まだ、何もしてねえよ。どうしてもお前と喋りたくて、待ってた」
 でも、あっちは結構我慢の限界みたいだ。
 マツカワはここで初めて振り向いた。
 カラスノで最後に見た時と同じ、盗賊風の出で立ちをしたハナマキが佇んでいる。
 その隣には、漆黒の棺がある。
 棺の上で、何やら暗い靄のようなものが漂っている。
「見たんだな」
 マツカワの眼差しは、棺へと注がれていた。
 低く問う声に、ハナマキは首肯する。
「いつ気づいた」
「オイカワ達に会うより前。詰所の俺の部屋を見た」
 分厚い遮光カーテンが引いてある部屋。
 仮面、マント、手袋がいっぱいに詰まった衣裳棚。
 決定打は、机の奥にしまい込まれていた衛兵部隊のアルバム。
「俺の写っている写真は、光を使わない、色と影を写し取る魔界産のカメラで撮ったものだった。それ以外のメンバーは、普通のカメラで撮った写真にも姿が映っていた。それで気づいたよ」
 記憶を失った自分に、写真を見せなかった理由。
「俺は、鏡や写真に姿を映せない体質だったんだな。光に弱くて、日光に当たるのも苦手だった。だから、カラスノの衛兵部隊も俺の姿を覚えていなかった。俺はいつも、肌のほとんどを仮面やマントで隠していたから」
 マツカワは部屋へと足を踏み入れる。
 地下の纏う深い闇が、ブーツの音を吸う。
 ハナマキの前に立ったマツカワは、棺の中を見下ろした。
 そこには、もう一人のハナマキがいた。
 棺の中のハナマキは、瞼を閉じて横たわっていた。身に纏うのは黒い天鵞絨のマント。詰襟のシャツ、洒脱なスーツに身を包み、滑らかな皮手袋や上質の編み上げブーツで首より上の肌を一切露出させていない。
「最後に一個だけ教えてほしいんだけど」
 ハナマキは、もう一人の自分が収まる棺のふちを指でなぞる。
「マツカワは、ここに俺の身体があることを知ってたの?」
「あるんじゃないかとは思ってた」
 マツカワは答える。
「でも、確かめられなかった。ここはアオバ城砦都市の隠し砦で、管理はお前に一任されていた。お前のもの同然だった。だから、お前が戻って来るならまずここなんじゃないかと思って、記憶を取り戻してすぐに様子を見に行った」
 しかし、マツカワの前に門扉は開かなかった。
 戦友は不在なのだと思っていた。
「仕方ねえよ」
 ハナマキは肩を竦める。
「俺、めっちゃへこんでたし。知ってるだろ? 俺、根暗だからさ。へこんだところを見せたくなかっただけで、マツカワのことが嫌いなわけじゃないよ」
「もう、何もかも知ってしまったんだな」
 マツカワは俯いた。
 ハナマキは目を伏せる。
「ああ。知ってるよ」
「お前の聡いところ、すげえ助かるし好きなんだけど。今、お前がもっと鈍かったら良かったのにって思ってる」
「ありがとな」
 ハナマキの手が友の肩に乗る。
「隠すの、辛かっただろ。俺には言ってくれても良かったのに」
「できねえよ」
 マツカワの口元が歪む。
「お前があの状態になってるのを見て、『もとに戻ってくれ』なんて、俺は言えない。言いたくなかった」
「そっか」
 ハナマキはかぶりを振る。
「俺さ。オイカワとイワイズミがこっちに来てから、何で俺は夢の世界に行かなかったのか、考えてたんだ」
 顔を上げたマツカワは、ハナマキがこちらを見つめていたことに気づいた。
「今の俺は、まだ昔の記憶が戻ってない。だから、これは推測。今の俺が昔の俺を想像して出した答えなんだけど」
 友は、穏やかに微笑んだ。
「俺はきっと、ここにいたかったんだと思う。辛くても、しんどくても──なりたい自分を見失っても。俺がいたい場所はここなんだ」
 ハナマキはマツカワの肩から腕を下ろした。
 その身体が傾いでいく。
 同じ輪郭を持つ二つの身体が、垂直に重なる。
 そう思われた刹那、俄かに密度を増した黒き濃霧が、二つの身体を包んだ。
 寸時、棺の周囲が夜のごとき漆黒に満ちる。
 マツカワは黙って待った。
 しばらくすると、闇が凝縮して視界が晴れた。
 人の形になった闇はマツカワの横を疾風のごとくすり抜け、背後へと飛び去った。
 扉が乱雑に閉まる音。その向こうから、何かを啜る気配が漏れてくる。
 食事が収まった頃を見計らって、マツカワは霊安室の戸を開けた。
 そこにあったはずの魔族たちの亡骸が、忽然と消えていた。代わりに、一人の男がしゃがみこんでいた。
 彼は、黒い天鵞絨のマントを翻した。
「ただいま、マツカワ」
 先ほど佇んでいたのと同じ表情をしている、棺の中で眠っていたのと同じ出で立ちをした男が、慣れ親しんだ笑みを浮かべた。
「何で記憶がない状態だったのかさっぱりわかんねーけど、おかげですっきり魂と肉体が合体できて、結果的によかったわ」
 でも、と彼は肩を回して溜息を吐く。
「一年も棺で寝っぱなしだったから、身体がガチガチ。魔族は栄養補給には最高だけど、味がどーしてもアレだな。時間かけて味を調整しても、魔界の味が濃すぎるわ。だから」
 手袋で覆われた長い指が、マツカワの首元をさし示す。
 そこには、先ほどの戦いでついた血が未だ流れていた。
「口直し、ちょっとくれねえ? 傷も塞いであげるからさ」
「最初に言うことがそれかよ」
 マツカワは笑い、自分の首を指で弾いた。
「ま、いいよ。どーぞ」
 近寄ってきたハナマキが、マツカワの首を舐めて牙を立てる。
 僅かな痛みはすぐ消え失せ、代わりに名湯に浸かった時のような多幸感が全身に満ちていく。
 マツカワは、やっと我が戦友──吸血鬼ハナマキタカヒロの帰還を実感した。









***



 紫紺に輝く鎧を纏う屈強な体躯。
 堂々たる佇まいに、純白のマントが映える。
「俺の要求は単純だ」
 王都シラトリザワの色を纏った男──勇者ウシジマワカトシは、座り込んだヤハバを見下ろして告げる。
「オイカワを出せ。奴と話をさせろ」
 ほとんど傷のない立ち姿に、ヤハバは毒づきたいのを堪えていた。
 周りには仲間たちが散り散りに倒れ伏している。
 たとえ先に武力行使に出たのがあちらだとしても、王都だけでなくミャギにおける絶対王者の信頼は揺るぎないものだ。今は刺激するような言動は避けた方がいい。
 ヤハバは横目で仲間たちを見た後、後ろ手に待機のハンドサインを出す。
 それから、ウシジマに答えた。
「いないって言ってるでしょう」
「どこに行った。何をしている」
「知りません」
「そんなはずはないだろう。ここにいた気配があるぞ」
「分かりません」
「いや、来たはずだ。一年間何の音沙汰もなかったのが、今ははっきりと気配を感じる」
 話すわけにはいかない。
 特に王都の人間であり、オイカワに固執しているこの男に教えるのは危険だった。
 何とかして話を逸らして、帰らせる必要がある。
「オイカワさんに何の用があるんですか」
 ヤハバが問うと、ウシジマは目を丸くした。
「聞いていないのか。シラトリザワの戦士になるよう、何度も言っているんだが」
「……は?」
 低い声が出た。
 だがウシジマは気に留めず語る。
「アイツには確かな眼がある。戦士の性質、戦闘の状況、そういったものを瞬時に見抜き、最大限の戦果を導き出せる力を持っている。戦士としてだけでなく、軍師としても優秀だ。そういった人間は、潜在的な能力の高い人間が多くいる場所にいるべきだ。才能豊かな人材を抱える王都に来れば、ヤツは今より輝ける」
 ミャギの国力増強にも繋がるだろう。
 誰にとってもいい提案のはずだ。
「そう、何度も言ってきた。衛兵部隊の上から勧誘をしたこともあるんだが、断られた。だが、今ならば奴も納得するはずだ。そう思って、会いに来た」
 ウシジマは、視線を上向ける。
 その先には戦士たちの背後に広がるアオバの森があった。
「疲弊した森だ。このような資源の限られた場所で頂点に立ったとして、その先どうする。消耗しきったところを他市に攻められて、守りきれるのか」
 もっとも、それはこの都市に限った話ではない。
 持たざる者が乏しい力を振り絞って頂点に立つ。
 すると今度は、舞い込んだ権利に従って、それまでに接したことのないスケールのものを捌くことになる。
 莫大な資金の運用のため、生活基盤を見直す。
 手をつけたくなるものはいくらでもある。
 安定した生活のための産業支援。食糧確保、インフラの整備、福利厚生。
 有能な人材の確保、よりよい生存のための軍事計画。
 そういったことを、これまでどうにかやりくりしてきたものが、うまく捌けるだろうか。
 さらなる国内の発展には、安定した土壌のある都市が広い視野で統轄を行うことが必要なのではないか。
 持たざる者がやるのは辛いだけだ。『持つ者』がやればいい。
「資源があり、能力のある者が集まってきた王都がすべてを管理して統治した方が、効率がいいと思わないか。周辺はその指示に従うだけで済む」
「なるほど」
 ヤハバは笑った。
「俺たちのことを気遣って言ってくれてるわけですか。ありがたい申し出なんでしょうけれど、なるほどな。その言い方じゃあ、オイカワさんは断るでしょうね」
「なぜ」
 ウシジマの簡潔な問いに答える。
「視点も、向かいたい先も違うから」
 王都はまさに、この男が背に負う白鷺のようだ。
 大空を舞い、どこにだって行ける力がある。
 好きなように獲物を狩り、好きな所で羽を休めることができる。
「空を飛べない俺たちとは、住んでいる世界が違います。アンタらみたいなのが羨ましい気持ちも、ないわけじゃない。でも、俺たちは俺たちのままでいい」
 ウシジマは首を傾ける。
 心底不思議そうな邪気のない様子に、純粋な人なのだろうとヤハバは考えた。
 ただ、王都の外を知らないだけなのだ。
「アンタらが狩る獲物や、羽を休める場所が、どうやって今の形になったのか。これからどうなるか。そういうのを考えるのが、俺たちアオバの民の生き方です」
 アオバ城砦都市の人間は森の民である。
 木の数や質を気にすることもあるが、それよりそこに在るものを育み、深めることを重んじる。
「今は戦乱のせいでこういう景色ですけれど、それも俺たちの生活を守るため。森はそう、一朝一夕には出来上がらない。木が苗木から立派な大人になりきるには、何十年って気の遠くなるような時間が必要になる」
 それが何十何百と集まるには、人間の一生ではとても足りないような膨大な時間が必要になる。
「植物にも色々いて、お互い助け合って生きられるものもあれば、枯らしてしまう関係性しか築けないものもある。でも、いろんなヤツが関わり合って試行錯誤を繰り返すことで、森は調和の取れた生態系を──安定した土壌を育むんです」
 土が豊かになる、生物が集まる、巣をつくる。
 そういった営みを、時間をかけて積み上げて、豊かさは出来上がっていく。
「俺たちの先祖はこの森に住みついて、森からたくさんの知恵をもらった。時間がかかっても少しずつ着実な行動を積み重ねていけば、果物の木に実がつくみたいに、いつか叶うことを知った。叶わなくても、枯れた木から新芽が生えるみたいに、同じ意思を持つ人が受け継いでくれることも教わった」
「それがなんだ」
 訝しげなウシジマに、ヤハバは微笑した。
「高い所からの統治は、確かにアンタらの方が向いてるかもですね。足場を忘れたら元も子もないですけれど」
「俺たちと手を組めば楽だろうに」
「『俺たちが全部やってやるから』って? アンタが言うそれは手を組むじゃなくて、隷属でしょう」
「確かな力を持つ強者に従うのは楽だろう」
「アンタみたいな人には分からないでしょうけど、この世界は不完全で不確かなんですよ。アンタらを含めてね」
「頼れない自分をあてにすることの方が不確かじゃないのか」
「俺一人なら、そうですね。でも仲間と、オイカワさんみたいな目標がいれば、辛くない」
 オイカワさんは、とヤハバは言う。
「天才ではないと自分のことを言っていました。俺は、あの人が天才か秀才かなんてどうでもよかった」
 努力を欠かさず、戦士たちをよく見てくれる。
 寄り添って、高めて、共に夢を見てくれる。
 鮮やかで克明な、美しい頂の景色の夢を。
「アンタらは、何故戦うんですか」
「決まっているだろう。勝って、強くあるためだ」
 ウシジマは断言する。
 ヤハバはかぶりを振る。
「そこが違うんです」
 オイカワとて勝利に固執していないわけではなかった。人一倍こだわっていたように思う。多様なメンバーを受け入れるのも強いチームを作るため。向上のため手段を選ばない側面もあった。
 しかし、オイカワには一筋の矜持があった。
「才能があれば強者でいられるでしょう。でもそれだけでは、戦いには勝てても生きてはいけない」
「まずは勝たなければ、その先はないぞ」
「アンタはオイカワさんの利用価値を分かってる。勝利を得る方法も分かっている。でも、あの人という存在や──生きることそのものを分かってない」
 ヤハバは立ち上がった。
 親しみを覚えやすい丸みを帯びた双眸は、どこか冷めた色をしている。泉のようなそこに映りこんだ勇者の姿が剣を抜き、切っ先を突きつける。
「もう一度だけ言うぞ。オイカワの居場所を教えろ」
「アンタがあの人が隣にいる景色を夢見続けるように──」
 顎の下に冷たい感触を覚えながら、ヤハバは言う。
「俺は、あの人の作るチームが大好きでした。今も好きです。正直、俺も周りも依存しすぎてたところがあったのかもって思います」
 彼の見た景色を共に見たかった。
 魔王によって世界が変わった今も、ヤハバと衛兵部隊の願いはずっと変わっていない。
「だからこそ、ここは引けないんです」
 ウシジマはわずかに瞠目した。
 青年の小手が、ウシジマの突きつけた抜身の切っ先を掴んでいた。
「お引き取りください。これ以上は平行線です。今のアンタにはきっと分からない」
 白金の装甲に覆われた指先から血が滴る。
 足元に血の玉がいくつ散っても、ヤハバの真摯な表情は変わらない。
「仮に居場所を知っていても、俺は言いません。この命が潰えてもあの人は渡さない。オイカワトオルは、骨の髄から血の一滴まで、アオバ城砦都市の誇る戦士なんです」
 倒れていたアオバ城砦の衛兵たちが、よろめきながらも立ち上がる。
 キョウタニが凶悪な形に変形した爪を剥き出し、ワタリがいつでも堅守の陣を築けるよう印を作っている。
 キンダイチが剣を中段に構え、クニミが杖に精霊文字を舞わせている。
 ウシジマは一瞥して、彼らに先刻つけた傷が癒えていることを察する。
 呪文を唱えられた気配はなかった。それぞれがヤハバとの会話の最中に、アイテムで治したということか。
 霧が立ち込めてきた。
 今、このタイミングで霧か。寄せたウシジマの眉が、ぴくりと跳ねる。
 目と鼻の先にいたヤハバの姿が掻き消えている。
 これはただの霧ではない。魔術で発生したものだ。
(幻術にかけられたか)
 ウシジマは己の失態を冷静に受け止める。
 いつも幻惑に高い耐性を持つサトリに対処を任せていたから、対策を練るのを失念していた。
 アオバ城砦都市に、そのような力を持つ者はいないはずだった。
 一年前、魔王の出現と同時期に現役を退いたと聞いている、旧三年の戦士を除いては。
 全身に、溶けきった金属を浴びせられたような重力がかかる。
 時空転移特有の、身体が歪む感覚が襲ってきた。ウシジマは全身に紫電を漲らせ、時空の歪みに抗い吼える。
「<雷>」
 雷電で視界が弾けた。
 まだ、ウシジマは霧の漂うアオバの森のはずれにいた。
 眼前にいたヤハバたち衛兵部隊下級生らが大きく後退し、その前に見覚えのある男が一人佇んでいる。
「ヤハバ、ここは任せて一度役所まで下がれ」
 マツカワが薙刀の鞘を払い、防壁を張りながら言う。
「でも」
「いいから。こんなの、現役の衛兵部隊が総出で向き合うような話じゃねえよ」
「引退した奴だけで充分だ」
 どこからか別の声がするが、その姿は窺えない。
 後輩たちの周辺を濃霧が覆う。
 ワタリの声が響く。
「分かりました。俺たちは戻ります。でも、ヤハバだけは置いて行ってください。コイツは、これまでのことを知る必要があります」
 霧がさあっと晴れる。
 五人いたメンバーが、ヤハバのみになっていた。
 マツカワが刺突の姿勢を取り、ヤハバが援護のための魔方陣を展開する。
 ウシジマも剣を構える。
 睨み合う両者。張り詰める沈黙。
 火花が散るかという刹那、先ほどの正体の見えない者が慌てた声を上げた。
「は? おい、何でここに──導線になるようなものねえだろうがっ……おい、待てって!」
 マツカワたちの後ろへ、炸裂音と共に閃光が落ちた。
 朦々と土煙が立ち込める中、咳き込むヤハバの手を誰かが取る。
「ひどい傷。すぐ治すよ」
 回復呪を呟き、剣を握りしめて負った掌や、その前の戦闘の生傷を癒す。
 前へ進み出た影を見て、今度こそウシジマは瞠目した。
「オイカワ」
「よぉ、ウシワカちゃん。相変わらず偉そうなツラしてるねえ」
 オイカワトオルは口の端を吊り上げ、挑発するように笑う。
「俺の後輩に手を出すなんて、どういう了見?」
 オイカワさん、とヤハバが呆然として呟いた。
 突如現れたオイカワとイワイズミが、それぞれ身に着けた得物の柄に手をかける。
 だが、ウシジマは何やら得心のいったような顔をして頷いていた。
「なるほど、そういうことか。どおりで気配を見つけづらかったわけだ」
「は?」
 予想外の反応に、オイカワは眉を寄せる。
「ちょっと。俺は今、何で後輩を傷つけたのか聞いてるんだけど」
「俺はこの一年、ひそかにお前の行方を追っていた。だが一向に見つからなかったのはこういうわけか」
 ウシジマは言う。
「魔族の気配を消していたから、見つからなかったんだな」
 お前は人間の姿で動くこともあったが、堂々と魔族の姿をさらしている時間の方が多かったから、その発想を思いつかなかった。
「てっきりお前が魔王だから雲隠れしているのかと思っていたのだが、まあ、無事であるならばどちらでも構わん。俺が欲しいのはその才能だ。お前の能力は、王都にこそふさわしい」
 勇者は体の前に剣をかざした。
「また会おう、オイカワ。俺はいつでもお前と共に戦える時を待っている」
 かざした剣を中心として光の柱が生じ、勇者は天へと上る閃光と共に消え失せた。
 転移呪文だ。帰っていったということだろう。
 オイカワは彼の言った言葉を反芻する。
「オイカワ、さん」
 震える声。
 振り返り見たヤハバの顔は蒼白だった。
 イワイズミは目を瞬かせており、霧から姿を現したハナマキとマツカワは額を押さえている。
 マツカワがオイカワについて話さなかったこと。
 自分がこの世界のアオバ城砦にいた証を見られていないこと。
 夢見の泉で、この世界の自分らしき人影が言った、「自分ならオイカワを勇者にしてあげられる」という言葉の意味。
 線と線が繋がっていく。
「ああ、ああ、ああ。そうか」
 オイカワは悟る。
「俺が魔王なのか」









***



 オイカワトオルは魔族である。
 彼にとって、人と魔族の垣根などどうでもいいことだった。
 幼い頃はそれで偏見を持たれ、命を狙われたこともある。
 だが彼は負けず嫌いだった。自分を助けてくれた勇士への憧れを胸に、幼馴染と切磋琢磨し、努力して強くなっていった。さらに、戦技の腕前だけでなく知恵も身につけ、時には魔族であることさえ逆手に取り、争わずとも味方を増やす手腕を覚えた。
 やがて、周囲の者は人魔問わず彼を認めた。
 だが、それでも抗えないものがある。



 前線への招集命令。
 自分が出なければ別の人間が集められる。
 どうせいつかは出るのだから早いうちにという都市の判断だった。
 衛兵部隊に入って、やがては頂点に立ち、諍いを収めるのを望んだのは自分だ。
 だから、前線に出た。
 繰り返し、繰り返し、寄せては引く大波のように攻めてくる魔界のものや、人間。
 絶え間なく波飛沫が散る。
 赤や黒の飛沫が。



 強くなりたかった。
 失敗を繰り返しても、努力を続けていけば、頂点に辿り着ける日が来る可能性が高まる。
 だが、それはいったいいつ?
 たどり着けたその時、頂の景色を見せたかった仲間たちは無事だろうか。



 これがもし命を賭さない遊戯の一種であったなら、オイカワの選択も違ったのかもしれない。心こそ傾けても程よい落とし所を見つけていけただろう。
 だが彼は戦士であり、身を置くのは正真正銘の戦場だった。さらにその肩にかかるのはアオバの民と仲間の命である。
 伸び代はやりよう次第で無限にある。
 しかし時間は有限だ。
 今のアオバ城砦衛兵部隊には、ミャギのトップに立てる力があると信じている。
 だがその栄光の先に、何があるのだろう。
 終わらない争いの日々を、いつ終わらせられるのだろう。



 何故争うのか。
 オイカワはしばしば考えた。
 大切なものがあるからだろうか。
 守りたい者の存在。信念や快楽。どちらも利己という点では同じだ。
 益を見出すから、多少の困難を超えてでも戦うことを選ぶのだ。
 ならば、すべてを満たしてやったらどうだろう。
 欲しいものを持っている、そのような世界を急に、一瞬で実現できたら。



 実験計画。
 悠久象牙のインク。
 協力者。
 鏡。
 雫。
 地下室。
 魔方陣。
 散らばった触媒。
 インクと混ざる己の血。
 銀の刃に映る、己が心臓。
 すべての色を吸い込んだ夢見る雫が、煌めく鏡に落ちていく。









***



 オイカワは覚醒した。
 彼は大樹の根元に腰かけていた。ウシジマとの邂逅の後、自分の記憶を確認しにこの樹のもとへ向かったのだった。
「うーん。なるほどなあ。なるほど」
 オイカワは顎に手を当てた。
 独り言ちる彼のところへ、庭園の外にいたらしい衛兵部隊の仲間たちが寄って来る。
「起きたか」
「うん」
「どうだった」
「俺、本当に魔王になったってことで間違いないみたい」
 イワイズミはそうかと言っただけだった。
 そこには驚きも嘆きも何も見当たらず、どうもオイカワの口から事実の確認をしたかっただけらしかった。
「夢の世界から直接あんなところに飛んでくる奴、いる? 俺、初めて見たんだけど」
 ハナマキは呆れている。
 無事拉致された先から帰って来られたらしい。しかも、夜をそのまま仕立てたようなスーツを纏う姿は、今オイカワがアオバの大樹の力を借りて見てきた過去のハナマキの姿と一致している。
「マッキー、もとに戻れたんだ。ヴァンパイアなんデショ? カッコよくていいね」
「だろ? ──ってそれどころじゃねーわ」
「一大事じゃん」
「お前の方がそうだろ。まったく、マツカワたちが苦労してオイカワの存在を守ろうとしていたのに、あの勇者何なんだよマジで。強すぎて鈍感なのか? 腹立つわあ」
 あまり感情を見せないハナマキが、珍しくやや苛立ったような溜め息を吐く。
 オイカワは、その隣にいたマツカワに向き合った。
 マツカワは真摯な顔つきで頭を下げた。
「隠していて悪かった」
「ううん。いっぱい気を遣ってくれてありがとう。そもそも、こうなっちゃったのは魔王になった俺のせいだし」
「そうだぞ!」
 ユダがオイカワに飛びつく。
「抱え込まないで言ってくれれば良かったのに! でもこうやって会えて俺は本当に、本当に嬉しい!」
「落ち着けって。上との緩衝材になってくれてた監督が殉職して、抱え込まないでいる方が難しいわ」
「あの戦況で追い詰められないでいるのは厳しいだろ」
 シドとサワウチがいつもの流れでユダを引きはがす。
 オイカワは、静かに控えていた後輩たち一人一人の顔を見る。
 クニミとキョウタニはいつもの仏頂面だ。
 キンダイチとワタリはどこか案じている風である。
 ヤハバはまだ顔色が白い。
「みんな、迷惑をかけて申し訳ない。魔王になった俺と会って、せめて世界だけでも戻せるようにするから、待っててほしい」
「オイカワさん」
 クニミが口を開く。
「俺は迷惑だなんて思ってないです。むしろ、戦争が一切なくなったことについては平和でありがたかったと感じてます」
「クニミ」
 キンダイチが窘めるように呼ぶ。
 クニミは肩を竦めた。
「俺は、戦争と病の苦しさに優劣をつける気はないです。眠り病に苦しんだ人たちがいることも分かっています。それを分かっていて、自分の安寧を重んじた自分の狡さと卑怯さも。せめて、彼らがこれから、以前より少しでも幸せに生きられる世の中になるように、衛兵部隊として努めていきたい。そう、思ってます」
 珍しいクニミの物言いに、オイカワは少し驚いた。
 後輩は涼しげな眉根を寄せる。
「でもそれがどんなに難しいことかも分かっています。人の数が多ければ多いほど社会は複雑になる」
「必ず、戻ってきてください」
 ヤハバが声を上げた。
「一人で背負い込まないでください。オイカワさんが魔王になったのは、あなただけの責任じゃない。眠り病に逃避したのは、もちろん夢の世界の力が強かったからということもありますが、眠り続けることを選択したのは人々の意思です。眠った世界に何もしなかった、俺たちの責任もあります。どうか、俺たちも共犯で──」
「それはダメだよ、ヤハバちゃん」
 オイカワはやんわりと言った。
「ウシワカちゃんに立ち向かった話、聞いたよ。ヤハバちゃんはもう、立派な衛兵部隊の主将になってる。みんなも、アオバ城砦に欠かせない衛兵部隊の主力だ。俺が勝手に魔王になったことに変わりはないんだから、余計な荷物は背負い込まない方がいい」
「そんな」
「それに俺、魔王の俺とケリをつけてきた後、服役する気はないよ」
 ヤハバはきょとんとした。
 オイカワは自らの手を胸に当てる。
「だって、俺が刑務所に入って何かが解決するの? むしろ、戦争に関与していた人たちを強制睡眠させられる方法を見つけて体得しちゃった俺って、やばくない? 極刑の極悪人扱いか救世主扱いかの二択しかないよね。なら俺は、十字架は背負いつつ救世主になりにいくよ。せっかく戦争の決定権を持ってる人たちとの繋がりができたんだもん。魔王の力を駆使して、連合国家を和平に繋げるようにするよ」
 皆、あっけらかんとした宣言に開いた口が塞がらなかった。
 唯一イワイズミだけが顰め面で腕を組む。
「だとしても、今後表立って衛兵部隊に会いに行くのはまずいだろうな」
「うん、そうだね。今のお偉いさんたちが高い椅子に座ってるうちはまずい。だから俺、当分日陰者になるけど、たまにこっそりお土産持って遊びに行くよ。お前らが前線に出なくて済むように頑張るけど、それと衛兵部隊としての腕前は別だから、訓練は頑張って」
 オイカワは後輩たちに手を振る。
「で、魔王に会いに行くのか」
「もちろん」
「怖がらないんだな」
「だって、現実の俺が魔王だっていうなら、俺と合体しちゃえば無敵じゃん」
 イワイズミの言葉に、オイカワは笑ってみせる。
「魔族の俺を倒しつつそれを乗っ取れれば、俺すごい力が手に入るでしょ? 今のプチ勇者な俺+魔王の俺=勇者で魔王な俺の誕生!」
 希望に繋げられるものは、何だって利用する。
 それがオイカワトオルのやり方だ。
「さあ、出発の準備しようか。マッキーとまっつんも来てくれるよね?」
「ああ」
 指名された二人は同時に頷いた。
「とりあえず鏡を取りに行ってから魔王城ね、イワちゃん」
「俺は強制なのか」
「だって、ずっとぶん殴るって言ってたじゃん」
「まあな」
 オイカワとイワイズミが、いつもの調子で喋りながら開け放たれた戸を出て行く。
 その後ろ姿を見送り、ハナマキはマツカワに語りかけた。
「オイカワの図太さ、拍車かかってねえ?」
「マジでやべーなアイツ」
「でもまあ」
 二人は顔を見合わせて、思わず噴き出した。
「あのくらいの方が、頼もしいか」
「だな」









***



 魔王の城は、古代のアオバ城砦都市盟主がかつて新しい拠点として築いて放置したという古城だった。
 魔王になった現実のオイカワは、衛兵部隊の使われていない倉庫を改造して夢の世界を構築する儀式を行った後、魔王の城への旅の扉を残して転移していったのだという。
「めちゃくちゃアクセスいいじゃん。こんな親切な魔王の城ある? 普通、すごく長い旅路を越えてたどり着くものだよね?」
「それは勇者サイドだからだな」
「俺ら魔王陣営なんで、そこんとこよろしく」
 オイカワの呑気な感想に、マツカワとハナマキがツッコミを入れる。
 旅の扉に最初に足を踏み入れたのはイワイズミだった。
 光の渦へ飛び込んだ先は、確かに史料で見たことのある大昔の古城だった。
 高い崖の上にある、黒い板目と漆喰の組み合わさった優美な造りの城で、緑青の稲光を孕んだ暗雲の立ち込める空の下に佇んでいる姿は、妖しげな雰囲気に満ちていた。
 今は昼間のはずなのに、太陽の気配を全く感じられない。
 十分に不気味な雰囲気だったが、四人はここを訪れるのが二度目である──オイカワはまだ完全に記憶が戻ったわけではないが──せいか、あまり緊迫感を覚えていなかった。
「去年イワイズミとマツカワと三人で挑んだ時には、旅の扉が使えなかったから、俺たちもこうやって来るのは初めてだ」
 魔王のいるという謁見の間への道のりをすっかり覚えているハナマキが案内しながら言う。
 オイカワは首を傾げた。
「じゃあ、どうやって来たの?」
「お前がこの世界に落ちて来た日に見た夢と同じだ」
 マツカワが言う。
「三人で国内にある候補地をいくつか巡って探した。完璧に姿をくらましてやがったせいで、苦労したぞ」
「ごめん」
「解析して旅の扉の行先が分かってるのに、魔王が遮断してるから使えないっていうのも腹が立ったな」
「すみませんでした」
 道中、彼らの邪魔をするようなものは何も現れなかった。
 どうやら、もう一人の自分は自分を歓迎しているらしい。
 オイカワは夢見の泉で出会った時のことを思いだす。勇者にさせてあげるという言葉は、まんざら嘘でもなかったようだ。
 もう一人の自分と言えば。
 オイカワは仏頂面の幼馴染を窺う。
「イワちゃん、ずっと魔王を倒すのに迷いがなかったけど、もしかして俺が魔王だって知ってた?」
「なんとなく」
 イワイズミのとんでもない発言に、三人は仰天する。
 オイカワが問いただす。
「いつから!?」
「夢見の泉に潜った時だな。もう一人の俺が出てきて全部喋った」
「マジかよ」
「さすがイワイズミだな」
 ハナマキとマツカワは感心している。
「なんで言わなかったの」
「あんまり早く言うとオイカワは面倒くさいことになるから、自分で気づくまで好きにさせとけって」
「ひどくない?」
「さすがイワイズミ」
「的確なアドバイス」
 誰もオイカワに同情する者がいない。
 まあ俺が悪いのは確かなんだけど、とオイカワが考えていると、イワイズミが前方を指さした。
「ほら、あれが俺の肉体」
 示す方向を見て、オイカワは絶句した。
 翡翠の灯火が左右に宿る、幽玄の回廊の向こう。
 緑青に塗られた観音開きの大扉の前に、背を向けて佇む石像がある。
 それが、イワイズミだった。今隣で喋っている彼とまったく同じ出で立ちをしているが、顔つきの険しさと扉へ片手を伸ばした姿は、彼が石化する直前の記憶を生々しく留めていた。
 イワイズミはつかつかと石像へ寄って行く。
 すると石像が翡翠色に揺らめき、輪郭がぼやけ始めた。
 そこへ歩くイワイズミが重なりに行く。
 輪郭は二重、三重、五重、二重とゆらぎながら、やがて一つに収束する。
 イワイズミハジメはもとの姿に戻ったのだ。
「最後にここでお前と戦った時、お前は本当にズタボロになってて」
 イワイズミは、後から追い付いてきたオイカワを振り返らずに語る。
「つっても、身体はめちゃくちゃ強くなってた。だが、心がズタボロだった。マツカワとハナマキがうまく陽動してくれて、俺がとどめを刺せるところまで追い込んだのに、俺はお前の心臓に剣を刺せなかった。それで全員、このざまだ」
 オイカワは目を瞠る。
 夢の世界を構築する儀式を行った後のことは、大樹は教えてくれていなかった。
「俺を殺そうとしてたの」
「ああ。そうだ」
「どうして」
「俺が、殺してって頼んだんだよ」
 自分とまったく同じ声が、大扉の向こうから聞こえた。
 扉がひとりでに開く。
 左右を清らかな水が伝い落ちる、暗黒の部屋の奥に、青い玉座があった。
 そこに、オイカワトオルがいた。
「まっつんが、君に初めて会った時に説明してくれただろ?」
 俺たち四人は、魔王を討とうとしたってね。
「儀式に失敗した後。あんな出来損ないの幻の世界を作っちゃって、とんでもない広範囲に影響を及ぼしてしまった。それで、さっさと終わりにしたかったんだよ。この、どうしようもない世界での人生をね」
 殺してほしいって言ったくせに、取り乱してて大人しくできなかったから、俺を落ち着かせるために三人には戦闘を頑張ってもらうことになっちゃったけど。
 玉座の自分は、紅の瞳孔を細めてうっすらと笑う。
 その頭には、長大な角があった。
 魔王オイカワトオル。
 彼は間違いなく自分であり、魔族だった。
「待ってたよ、勇者オイカワトオル御一行様」
 魔王オイカワは嘲笑う。
「君は、同じ俺とは思えないほど馬鹿正直だねえ。アオバ城砦での会話、聞いてたよ。十字架を背負いながら救世主を目指す、だって? ここで俺を倒して、魔王の正体をでっちあげて自分が倒したとだけ言ってしまえば、君は晴れて社会的にも勇者になれるのに」
 勇者に憧れてたんだろう?
 魔王は立ち上がった。
 漆黒のローブを靡かせ、こちらに向かって歩いてくる。
 オイカワもまた、彼に近づかなければならないという気になって、前進した。
 そうして、同じ顔を持つ黒白の二人は向かい合った。
「殺しなよ」
 魔王は両腕をかかげ、自分の胸をさらけ出した。
「俺の分身である君ならば、俺を弱らせずともここを一突きで成り代われる。最初は傷が痛いかもしれないけど、マッキーとまっつんが癒してくれるから大丈夫」
 オイカワの手が、知らず腰に帯びた剣を抜く。
 長剣の切っ先が、両腕を広げて磔のような形になった魔王の胸の中心を狙う。
「そう」
 魔王は囁き、目を閉じる。
「それでいいよ」
 オイカワの利き手に力が籠る。
 逆の手を柄に添え、勢いよく突き出した。
 硬質な反響音が、謁見の間に響く。
 魔王は目を見開いた。
 剣は、彼の中心に突き立てられていなかった。
 代わりに、白く輝く鎧姿の自分が、己を抱擁していた。
「お前はよくやった」
 戦士オイカワは言った。
「こんな結末だけど、自分を誇りなよ」
「なんで」
 魔王オイカワはもう一人の自分を突き飛ばそうとする。
「どうして剣を捨てた! なぜ殺さない」
「俺、大事なことを思いだしたんだ」
 戦士オイカワが言う。
「確かに、小さかった頃に勇者を見て、勇者になりたいと思ったんだ。今だって、悔しいけど憧れるよ。力を持てるものならば、いくらだって持ちたいから」
 でも、そもそもどうして勇者になりたいと思ったのだろう。
「俺は強くなりたかった。誰かを助けられるような人に──弱い自分を見ず、夢を抱けるような自分に」
 夢を見続けられる自分。
 それならば、その肩書が勇者でなくてもいいのではないか。
 魔王だろうと何だろうと、己がオイカワトオルであることに変わりはないのならば。
「俺がこの世界でどうやって生きてきたか、知ってるよ」
「…………」
「俺がチェンジリングだってことがバレて、人間の賞金稼ぎに家族を皆殺しにされたね」
「…………」
「イワちゃんの両親も。俺たちが、チェンジリングだから」
「…………」
「何もかも見失ってた時に、勇者に助けてもらったんだよね」
「…………」
「復讐して、気は晴れなかったね」
「…………」
「誰からも殺されないため、強くなるためにたくさん稽古をしたね」
「…………」
「養成学校に入れたのは、そのおかげだった」
「…………」
「どんなに活躍しても、逆に打ち据えられても、気が晴れない」
「…………」
「でも、大切なものは増えた。筋を持って戦うことの楽しさ。背中を預けてくれる仲間の愛おしさ」
「…………」
「才能に悩んだのは、自分に夢を見られなくなるから」
「…………」
「でも君は違う形の夢を見つけた。それでいいんだ」
「…………」
「ただ、人と人との繋がりは戦争で嫌な形に作用する」
「…………」
「戦場に出たばかりの頃、たくさん殺めた。それを君は今でも許せていない」
「…………」
「腕を磨いて、殺さずに済む手段を見つけてもなお。俺も分かるよ。君と同じで、どこまでも理想を追い求めていってしまうから」
「…………」
「だから、夢を現実化させようとしたんだろう。監督の死をきっかけに、夢の大地の存在を思い出して、それを利用しようとした」
「…………」
「君は隊長として、国や都市の闇に触れていた。周りを信じられなくて、自分の理想を単純に実在化させようとしてしまった」
「…………」
「こうなってしまったけど、発想は悪くなかったと思うんだ。違うやり方で、世界を変えようよ」
「ただの夢のお前に何が分かる」
 魔王オイカワがこぼす。
 戦士オイカワは笑う。
「その夢を生んだくせに、何言ってんの?」
 戦士オイカワは体を離し、道具袋から真実の鏡を取り出した。
 鏡を利き手で持ち、逆の手で魔王オイカワを引き寄せる。
「ほら、見てよ」
「やめろ」
 魔王オイカワは顔を逸らした。
「お前は映らないんだろ。お前には身体がないんだから」
「何言ってるのさ」
 戦士オイカワは魔王オイカワの顎を掴み、強制的に真実の鏡を見させた。
 紅の双眸が丸くなる。
 そこには、二人のオイカワトオルが映っていた。
「俺は確かにここにいるよ。夢見の雫に浸かりにいったからっていうこともあるけど、俺と君が、しっかり現実になりたいと願ってるからね」
「俺が?」
「そう。君が願ってなければ、俺はあっちで形を持つことすらできなかったはずだ」
 俺は、『君がなりたいと願った現実の君の姿』なんだ。
 戦士オイカワは魔王オイカワの肩を揺さぶる。
「目を覚ませよ。この世界で、お前はまだやりたいことがあるだろ」
 魔王オイカワはしばし考えた。考えて、結論が出た。
「そうだね。あった」
「ふーん。何をしたい?」
「この世界を壊したい」
 幼い頃から勇者になりたいと願い、修行した。
 イワイズミと遊び、競い、夢を語り合った。
 やがて多くの仲間と、好敵手と出会い、夢は更に膨らんだ。
 その夢を、暗い世界は砕こうとした。
「俺は、ただ技を磨くのが好きだったんだ。それを、利益のために利用せざるを得ない、そんな世界が憎かった」
「うん」
「俺たちの技を平和に楽しめる世界を作りたい。そのために、この世界の常識を壊したい」
「俺らしくていいね」
 戦士オイカワは破顔した。
「じゃあ、魔王オイカワトオル。俺たちの野望のために、力を貸してくれる?」
 魔王は同じ顔をした。
 二人が手を繋ぐ。
 二つの身体が若葉色に発光し、光は大きくなり、一つに重なっていく。









***



「休戦三か月目」
 朝刊から目を戻したハナマキが、隣でベーコンエッグを齧るマツカワに問う。
「何でみんな起きたのに、三か月も何も起きてないんだと思う?」
「何でだろうな」
 マツカワは考える。
 二人は都市と都市の間、広野にぽつんと佇む宿に泊まっていた。
 宿には二人のほかに客はおらず、女将が若い客は珍しいからと贔屓にしてくれるため、食卓には朝食とは思えない品数の料理が並んでいる。
「これは噂だけどな。各国のお偉いさんが起きたって話だが、ある国のお偉いさんの人格が寝る前と比べてえらく変わってしまったとか」
「マジ?」
「あと、起きてるはずなのにどうも脳みそが動いていなくて、何言ってもうんともすんとも言わないとか」
「それ、まだ夢でも見てるんじゃねえの?」
「案外そうかもな。みんな、あいつに巻き込まれて夢を見ちゃったからな。一度見た楽しい夢は忘れられねえもんだ。」
 マツカワはチーズの乗ったハンバーグに取りかかる。
 ハナマキはジュースを啜りながら天井を仰ぐ。
「オイカワとイワイズミ、今頃魔界の二丁目くらいまでは行けたかなあ」
「行けてるんじゃねえの。知り合いだって言う魔界都市の魔族が、多少ガイドしてくれるんだろ。なら、初めての魔界でも大丈夫じゃね?」
「イワイズミは初めてじゃないらしいけどな」
「アイツ、小さい頃はあっちで育ったんだっけ?」
「そりゃああんな風にもなるよなあ」
 で、とハナマキは身を乗り出した。
「防衛軍から脱退して、なんとなくのんびり旅してきたけど。マツカワはこれからどーするか決まった?」
「うーん。魔王様は本格的に魔界で大魔王になるつもりらしいが、俺はそういうのないからなあ」
「でも、召集かかったら行くデショ?」
「それはそう。魔界観光してえし」
「じゃ、それまで俺と一緒に見識を広めるとかどう? 俺、もっと華やかそうな街に行ってみたいんだよね」
「そうしますかね」
「後輩たちに土産買おうな」
「はいはい。あ、ポテト取りすぎだろ。それくらいくれよ」
「いいじゃん」
 二人は無邪気にフライドポテトを取り合っている。
 夢から醒めた世界の、明け方の完出来事である。





(完)