鋭い棘には華がある
※大包平×鶯丸
※世界観捏造多数
その本丸の近侍部屋は、十畳ほどの板間である。二二〇五年産の事務机、サーバー、霊磁結界制御盤、不浄計測器及び全自動霊場浄化装置、クソデカモニター──現代の各種機器備品がこれでもかと詰め込まれた景色は、和の装いが基調であることの多い刀剣の城において、かなり珍しいものだ。
この近代のオフィスじみた異色の一室を設計したのは、当本丸最初の一振こと陸奥守吉行である。本丸の機能中枢と重要機密の全てがここへ詰まっているため、業務中に発生したトラブルは大体この一室に問い合わせることで解決に到る。とても便利だ。難点は情趣が死んでいることと、万が一災禍に見舞われた際にこの部屋が落とされたら本丸が終わることだが、情趣は窓を開ければ外の景趣が見えるので多少マシになるし、部屋の守りは防衛システムを管理する努力さえ忘れなければおよそ問題ない。皆、この部屋に満足している。
そんな近侍部屋で今、窓の外で瑞々しく咲き誇る垣根の朝顔には目もくれず、二振の男士が必死に作業をしていた。背中合わせに設置された三つの事務机のうち、西側の隣り合う二席に腰掛けて業務に勤しんでいるのは、巴形薙刀と八丁念仏である。彼らの机上の片隅には、近侍補佐と記された席札が置いてあった。
一方、残る東側の一席──肝心の近侍の席札が置かれたそこには、誰もいない。卓上の機器がスリープ状態にあることから、席の主人が離れてそこそこ時間が経っているのは明白である。けれど、巴形も八丁も、全く気にする素振りがない。無心に仕事をしている。
部屋の戸が開く。入って来たのは鶯丸だった。手にはいつもの茶器を乗せた盆を持っている。
「そろそろ茶を飲まないか」
二振に声を掛ける。返事はない。巴形はタブレットと分厚い帳簿の比較を続け、八丁は空中に次々展開される半透明のホログラムスクリーンを食い入るように見つめながら、暗号じみた文字列を打ち続けている。
鶯丸は、気持ち声を張り上げた。
「なあ。俺を放っておいて何をしているんだ」
「何って、近侍であるお前に任された仕事をしているんだが?」
やっと巴形がこちらを向いた。お手本のような顰め面をしている。
「古参であり由緒ある名刀とは言え、今お前をもてなしている余裕などない」
「俺は仕事の全てをお前達に任せた覚えはないぞ。少しくらい茶を飲んだところで、これ以上悪いことは起きないだろう」
「その僅かな時間さえ惜しいのだ」
儚い色の髪が、左右に触れる頭に合わせて力なく揺れる。
「昨日、お前が近侍の片手間で計測システムに重大なバグを見つけた。それは良い。しかし、何故見つけた直後に、勘定番かシステムの係の者に声をかけなかったのだ。一週間後は監査だぞ」
「一週間もあれば十分だろう。今日だって問題ない」
「まだ問題ないとは言い切れない。ギリギリだ。何せ、主が戻られるまでに原因を突き止められるか、現段階で見通しがついていないのだから」
明日は貴重な、審神者の帰城する日だ。この本丸の審神者はとにかく多忙で、滅多に帰ってこない。審神者が本丸にいる明日一日のうちに、必ずバグの解析結果を伝え、監査される内容を確認してもらい、改訂資料に印をもらわないと、監査が延びて出陣できなくなる。
「戻ってくるのは雇い主だけじゃない。博多番長も、来る」
八丁が、審神者の護衛兼ビジネスパートナーとして、長らく現代遠征に出ている経理部長の名を挙げる。
「番長が帰ってくる前に解析くらい済ませておかないと、ガチのやばたにえん。二十四時間の確認点検作業に解析とミーティングが加わって、俺達システム係も『七十二時間戦えます』になっちゃう、かも」
「博多の資本主義アタックは凄いな」
「本丸の経済をほぼ博多が担っている以上、俺達は皆博多の手足であり資本という物語に組み込まれずにはいられないのだから、仕方ない」
巴形の眼差しがどこか遠くへ旅立っている。きっと、審神者が焼き芋のレシートを出すのを忘れていたために起きた「消えた百八円捜索事件」のことを思い出しているのだろう。あの時は、巴形を含む勘定番のメンバー全員が、消えた百八円のために歴史修正を犯しに行くのではないかと心配されていた。あの後審神者がポケットマネーで詫びの和牛焼き放題を企画したから事なきを得たものの、以来領収書の添付忘れは避けるべきという考えが皆に染み渡った。
「また勘定とシステムの刀が壊れるのか」
「少しでも被害を減らすために、今頑張っているのだ」
「それでも、明日をも知れぬのが俺達だからな。茶を飲め」
鶯丸は有無を言わさず、彼らの机の上へ湯呑を置く。巴形は渋々それを手に取る。
「既に、とてもまずい明日の景色が見えているように思うが……まあ、せっかくだ。いただこう」
「すいません。いただきまーす」
八丁が湯呑を傾ける。一息で半分ほど干して、利き手でキーボードを叩く。
「けどこれ、何か変ですよ」
「どういうことだ」
「計測システムだけのバグじゃないっぽい」
八丁がショートカットキーを数パターン押す。眼前に、五枚のスクリーンが現れる。
「これ、見えます?」
指さす箇所を、鶯丸と巴形が見る。とりどりの色で並ぶ数字、アルファベット、漢字。その中に、歪に文字列を変えながら明滅する部分がいくつかある。
「何て言ったらいいのかな。さっきからこの、傷んでるかもってところを処置したり切り落としてすげ替えてみたりしてるんだけど、うまくいかない。何度お試しでやってみても、計算してないところから別の式が流れ込んでくる。どこかに、邪魔な動きをする余計なモノがある、みたいな。そんな気がする」
「システムのもっと根幹にあたる術式の解析が必要だということか」
巴形が言うと、八丁は首を捻った。
「うーん。どうだろ。本丸は普通に動いてるっぽいから、そうとも言い切れないんだけど。白山吉光か、代理の日光一文字あたりを呼んで相談したいところ」
「分かった。日光は演練で不在だが、白山はいるはずだ。俺が呼んでくる」
「助かるぅ」
「待て」
部屋を出て行こうとする巴形を、鶯丸が呼び止めた。
「何だ」
「陸奥守だ。陸奥守も呼べ」
「どうして」
巴形の問いに応えず、鶯丸は八丁を見下ろした。
「基幹システムは、まだ弄っていないんだな」
「え? はい」
八丁はきょとんとした顔で、首を縦に振る。
「なら、今はこのまま茶でも飲んで待とう。話は陸奥守と白山が来てから」
──ルルルルル。
鶯丸の台詞を遮るように、近侍卓の隣に据えてある固定電話が鳴った。着信音のパターンが、外からの通信であることを告げている。
一同は電話機を確認する。小さな液晶画面に、防衛省時空庁に連なる団体に割り当てられる局番が表示されていた。
鶯丸が受話器を取る。
「はい」
『こんにちは。本丸いやさか工務支援センターです』
電話越しの男の声は、受話器を持たない自分達にも届くほど大きかった。しかも、時折ぷちぷちというノイズが走るのまで聞こえる。巴形が煩わしそうに眉根を寄せる。
「恐れ入ります。もう一度お名前を頂戴できますか」
鶯丸が席に掛け、電話記録用の手帖を開いて着信の記録を取り始める。流れるような草書を眺めていた八丁は、つと目を丸くする。
日付と番号と名乗られた名が記された後に「不審」の文字が並んだ。
「あの」
八丁が唇だけで巴形に呼びかけ、メモを指さす。それを確認した巴形は頷き、戸口へと歩み寄る。
鶯丸の手にした受話器から、ざらざらとした音声が漏れる。
『最近、本丸の電気系統でお困りではありませんか。ちょっとしたショートが積み重なっていませんか』
「いえ」
『設立時から蓄積されてきた転送負荷の影響で、ある時突然回線がぷつんと逝ってしまうお宅が多いんです。復旧には時間が大層、大層かかります。手間もかかります。大切な刀剣の皆様が出陣先に取り残されてしまったら。とんでもないことでございます。恐ろしい限りでございますね。考えたくもない』
いまいち要領を得ない内容。息継ぎをしない語り口。どちらも押し売りのそれだ。
さっさと切ってしまえばいいのに。八丁はそう考えつつも、黙って兄貴分の様子を窺う。鶯丸は無表情に耳を傾けている。いつになく真剣な顔だ。
かと思うと、音を立てずに立ち上がって棚から鳩を取り出した。審神者の不在に際して託された、遠征部隊を呼び戻すための呪具だ。一方的に告げられる話にろくな相槌も打たず、鳩の腹に内蔵されたケーブルを電話と繋ぐ。
『そんな事故を無くすために、当センターでは情報の共有を積極的に行っています。他の本丸様でお伺いした不具合をお伝えしますから、どうぞお話をしながら、メモのご準備なり該当機器の確認なりを──』
「それでは対価が足りない」
鶯丸が言う。
声の調子は、依然として柔らかい。だがその中に、聞く者の魂を底から冷えさせるような、静かな圧があった。
「俺から何かを得ようと思うなら、お前達も同じだけのものを差し出すのが道理だろう。それを破るからには、覚悟はできているのだろうな」
相手は沈黙した。
その間も、例の雑音は聞こえ続けている。ぶち、ぷち、と。踏み潰された小さな実が弾けるのに似た音がする。
──本当にそうか?
八丁は耳を澄ます。男が黙ったことで、初めて明確に聞こえた音があった。
それは、例の弾けるような音の底にずっと流れていた、微かな気配だった。あちらの空気が受話器に触れる音かと思っていたのだけれど、どうも違う。平たく単調な、指先で紙を撫でるのにも似た微音の中に、僅かながら抑揚がある。
数秒耳を傾けた八丁は、その正体に気付いた。頭を振り、鼓膜と意識から音の名残りを振り落とす。
その音は、呪言だった。複数の何者かが、地を這うような声で呪いを紡いでいるのだ。
「先に礼を失したのはお前だ。ゆめゆめ忘れるな」
鶯丸がそう告げた直後、通信は切れた。
電話機に繋いだ鳩が、卓上でバタバタと羽ばたきを始める。円らな瞳が、めまぐるしい七色に明滅していた。こんな輝き方をする呼び戻し鳩は、見たことがない。
「おい。あれを」
巴形が指さす先を見て、八丁は息を飲んだ。
白い直方体の箱──不浄計測器に反応があった。複数ある観測地点のうち、異常が現れているのは近侍部屋のみ。微量だが波形が乱れ、要対処のランプが点滅している。
受話器を掲げたままの鶯丸の首が、かくりと折れた。額を手で支え、重苦しい息を吐く。戦で負傷した時でもまず見かけない兄貴分の様子に、八丁は狼狽する。
「兄さん?」
「待て。触るな」
様子を窺おうと近寄る八丁を、鶯丸が制した。
「俺は大丈夫だ。それより、基幹システムへのアクセス権限を持つお前に移ったらまずい」
「それって」
胸中を漂っていたいくつもの疑問点が、光の速さで繋がっていく。
何度直しても正常に戻らず、様々な色に明滅し続ける本丸システムの術式。
不具合処理の途中でかかってきた外線通信。
何故か電話を切らない鶯丸。
電話口から漏れてきた呪言。
全てが一つに繋がる。
──俺が直そうとしてたのは、やっぱりバグじゃなかったんだ。
不具合の正体は、外部から送り込まれた呪詛だ。仕込んだのは恐らく、先程の電話の主。不具合に気付いた刀剣がシステムに干渉するよう誘導し、隙を突いて攻め落とそうとしていたのだろう。
だが、鶯丸が気付いて阻止した。仕掛けられた呪詛は本丸の基幹に届かず、あの音を近くで聞き続けた鶯丸だけに残る。
「巴形薙刀っ」
八丁は駆け足で戸口へ向かう。近侍部屋に障りが起こっているかもしれない今、放送で他の刀を呼び出すわけにはいかない。
「陸奥守吉行と霊刀を──」
「分かっている。お前は鶯丸についていろ」
「いや、俺が」
「大丈夫だ。この手の呪詛は、触れさえしなければ移らない」
言うや否や、巴形は駆け足で出て行った。誰か、と大声で助けを呼ばうのが聞こえる。
八丁は逸る気持ちを抑え、鶯丸のもとへ戻る。柳の色をした頭は怠そうに伏せられている。何とかしてやりたいが、本丸の防衛を思うとできることが限られる。
意識だけは繋ぎ止めないといけない。八丁は声を掛ける。
「兄さん、しっかり!」
「ああ、そうだな。起きていないといけない」
鶯丸は頭を巡らせ、覗き込む八丁を見上げた。うっすらと汗の滲む顔で、いつもの笑みを浮かべる。
「なぁに。呪詛自体は大したことない。それより、そいつがなかなかに大変でな」
鶯丸は遠征呼び戻し鳩を指さした。灰色の鳩は、未だ七色の眼光を迸らせながら羽ばたきを続けている。
「それ、通信中に弄ってたよね。何で電話機に繋いだの?」
「鳩の探知と呼び戻しの力を利用して、あの何とかセンターと名乗っていた奴を、逆探知してやっている」
八丁は驚いた。遠征部隊を探し出して呼び戻すだけの鳩に、そのような芸当ができるとは思っていなかった。
鶯丸は弟分の驚愕する顔を見て、愉しげに目を細める。
「審神者なら限られたやり方でないと使えないだろうが、俺達付喪神は違う。ましてや、電話口のあいつは俺に呪詛を仕掛けてきた。人を呪わば穴二つ、だ。まじないが強固であるほど、跳ね返して利用できる力も強くなる」
言いながら、端麗な目元が歪んだ。舌打ちでもしそうな顔で、鶯丸は時空を探す鳩を睨む。
「しかし、あいつは一体どこから通信してきていたんだ。随分霊力を使わされる。案外、同じ時空にいないのかもしれないな」
「それ、兄さんにかかる負荷がやばすぎない?」
「ああ、やばい。慣れないことはするものじゃないな。しかし、泥を塗ろうとした落とし前はつけさせる。こればかりは譲れないね」
鶯丸はうっすらと笑みを浮かべる。疲弊しつつも、不穏な輝きを宿した双眸で鳩の向こうにいる敵へ思いを馳せる顔は美しく、同時に恐ろしい。
やはり古備前の兄貴分二振のうち、機嫌を損ねるとまずい方はこちらだな。八丁は考察を深める。鶯丸は一見する限り穏やかそうな刀だが、心の底に秘めるものは大包平と同様に烈しい。さらに、この兄の方が真意を読みづらいから、下手を打った時に失敗を巻き返せるかどうか分からない。
「八丁。デポビタンRをくれ」
「それで霊力回復になるんですか」
「多少はなる。案外こういうのは気の持ちようなんだ」
言われた通り、据え付けのミニ冷蔵庫に常備してある栄養ドリンクを一本取って差し出す。鶯丸は茶色い小瓶を一気に呷り、また机に突っ伏した。
「ありがとう。こいつは相変わらず疲労に効くな。あと二十本くらい飲みたい」
「駄目です。死んじゃいますって」
「おお、これはこれは。若冲の象じゃないか?」
「え?」
鶯丸が、急に突拍子もないことを言い出した。どうも、鳩を見ながら喋っているようだ。
「まさかあの象が実在する世界線があるとは知らなかった」
八丁は困惑する。窓のブラインドを傾けて外も見てみたが、象などどこにもいない。
──逆探知がうまくいっているのか。または、霊力の急な大量消費の影響で、ありもしない幻を見ているのか。
元々よく分からないことを喋りがちな兄貴分だから、判断がつかない。
「鶯の兄さん、気を強く持ってっ」
一応、最悪の事態を想定して呼びかけてみる。鶯丸は変わらず鳩を眺めたまま、にこにこしている。
「平気だ。意識は保っている。しかし、若冲の想像力は世界線を超えていたか。俺はあの象の不敵な口元が好きなんだ。あの口は遡行軍すら飲み干せる。そう思わないか?」
「わあ。ホントにどっちなんだろっ」
八丁は頭を抱えた。鶯丸の喋りは、いつもなら楽しいものだ。けれど、今ばかりは心底困る。
「霊力供給、速やかにしたいけどっ……デポRはもう飲んじゃったし」
「もう二十本くれ」
「駄目、です!」
他の霊力供給方法と言えば、身体接触がある。手くらいは握ってやりたいが、鶯丸が呪詛の主と遠征呼び戻し鳩で繋がっている今、本丸防衛システムの基幹にアクセスする権限を持つ自分が接触するのはまずい。けれど、苦しむ兄貴分は見たくない。
──巴形薙刀、まだかな。
困り果てた八丁がうろうろしていると、この部屋へ向かって近づいてくる忙しない足音が聞こえてきた。
「鶯丸!」
よく通る声と共に扉を開け放ったのは、自分達と揃いの衣装を纏う美丈夫だった。その姿を認め、八丁はほっとする。
「包平の兄さんっ」
「巴形に、鶯丸が大変だとだけ聞いて来た。こいつは今どうなっているんだ」
「急な霊力大量消費で消耗中っぽい。一振で鳩使って、術者の追跡してる」
「まったく。いつも命を大事にしろと言うのはどの口だ」
大包平は鶯丸のもとへ座り込むと、ぐったりとした身体を背面から抱えて己に寄りかからせた。松葉の瞳が、鳩から大包平へと焦点を結び直す。
「大包平。どうした」
「何だ。思っていたより余裕がありそうだな」
「当たり前だ。呪詛をかけられているとは言え、この俺が呪具一つの操作くらいでくたばるものか」
鶯丸は笑いながら話す。だが、力の抜けた身体はすっかり大包平へ任せられている。消耗しているのは変わりないのだろう。大包平もそれを察しているからか、さっさと退くことはせず、その身体に手を回して支えてやっている。
──わーお。仲良しぃ。
八丁は内心で口笛を吹く。見ていて気恥ずかしくないわけではない。自分がここにいていいのだろうかという気持ちも、あることはある。
だが、古備前の中核を成す名物一対は、こうあるのが自然なのだ。恋仲だとか伴侶だとか、そういう関係性が発生する以前より、二振は共に並び立つのが当然という節があった。だから八丁は、どこか神前に詣でる参拝客のような心持で、一対の刀を眺めていた。
鳩が羽ばたきをやめた。鶯丸が手を伸ばし、大人しくなった灰色の塊を掴む。腹に埋め込まれたボタンをいくつか押すと、目が白く発光する。輝く液晶眼球を覗き込んだ鶯丸が、口の端を持ち上げた。
「奴の行き先が分かったぞ」
「本当に後を追えたのか」
大包平が鳩を覗き込もうとすると、鳩の両眼からぱっと光が放たれた。
八丁達の前に、目玉と同じ円型をした、半透明のスクリーンが現れる。
映っているのは、紫の空が広がる異郷。
「異去だ。異去に、奴らは隠れている」
◆
政府へ事のあらましを報告したところ、監査の予定は二ヶ月先へふっ飛んだ。代わりに、三日間政府の者が調査のため入れ代わり立ち代わり訪れ、その対応に追われる羽目になった。
派遣されてきた専門家の見立てによると、計測システムに見られたバグはやはり呪詛だった。例の呪いの電話を仕掛けてきた連中が時空の狭間へ無差別に流したもので、それが偶然漂着して起きたのだという。電話番号もジャックされたもので、実際の持ち主は全く別の名前の団体だった。
「これで基幹システムを弄っとったら、本丸の座標やら防衛関連の暗号やらを奪われて、遡行軍の宴会場にされちょったかもしれんちゅう話じゃ」
本丸全体で会合を開く前。調査を終えて清められた近侍部屋にて、陸奥守は調査機関から聞いた説明を事件の当事者達──当日対処にあたった鶯丸、巴形薙刀、八丁念仏──に話した。その後、初期刀は八丁へ向けて笑いかけた。
「おんし、ええ勘持っとるぜよ。おかげで命拾いした」
「へへ。よく分かんないけど、ツイてたっぽいな」
八丁は照れつつも白い歯を見せる。
次いで陸奥守は、隣へ座る薙刀に目を移す。
「巴形も、よう適切に助けを呼んでくれたのお。迅速で正確な判断じゃったと、主が言うとった」
「補佐の役割を果たしたまでだ」
しゃんと背筋を伸ばす横顔には、笑みの欠片もない。が、どことなく顔色が明るい気がする。
そして陸奥守は、近侍の席へ着く鶯丸へも目をやった。
「お手柄と言えばおんしもじゃが。ちっくと無茶をしよったな?」
日焼けした指で己の腕を軽く叩きながら、穏やかに言う。
「通話記録に残っとった呪言を解析した結果、あれは聞いた者の行動を制限する、呪縛の文言ちゅう話じゃった。あと十秒聞いていたら、完全に縛られとったかもしれん、とも言われた」
「そうか」
鶯丸は頷く。
「受話器を取った途端、男の声の向こうから陀羅尼が聞こえてきたのでな。あの手のものは、冒頭で術者の願いに関連する神々の名前を列挙するものと決まっているだろう? 陀羅尼は最後まで口にしなければ、効力を完全には発揮できない。だから途中まで聞いて、本丸の護りを崩す目的で俺に言うことを聞かせようとしているのだろうとあたりをつけたんだが」
「その通りじゃ。分かっちょったのに、何で電話を切らんかったかのう」
「何でって。任された仕事くらいはやろうかという気になったから、かな」
鶯丸は悪びれた風もなく答える。
「あの日、俺は近侍だった。本丸の運営を、主に代わってつつがなく行う役目がある。あれを放っておいたら、奴らはまた別の手で他の刀を引っ掛けようとする可能性がある。その前に、釘を刺そうと考えた。そんなところだ」
「ははあ。なるほどにゃあ」
陸奥守はがしがしと頭を掻く。
「腹をくくって挑んだその度胸は大したもんじゃ。おまさんにしかできん最善の対処やった。けど、他の刀にはやらせられん。それは覚えとうせ」
「ああ。心労を増やしてすまなかった」
鶯丸がそう言うと、陸奥守は眉の力を和らげ、謝ることはないとかぶりを振った。
「政府の連中は、おまさんがとっさに仕込んだ遠征呼び戻し鳩の成果に大歓喜じゃった。と言うのも、連中、初犯やのうて指名手配されちょったらしい」
陸奥守は詳しく語る。
何でも、鶯丸の追跡した者達──本丸いやさか工務支援センターと名乗った集団は、時の戦争に関わる要塞へ無分別に呪詛を送りつけて機密情報を抜き取り、遡行軍に売りつけるという所業を繰り返してきた要注意団体だったという。政府の方でも何度かその一味の者を捕らえてきたのだが、下請けばかりでろくな情報を持っていなかったため、本陣の情報を掴めずにいた。
しかし、呪詛を引き受けつつ放った鶯丸の逆探知が強力だったために、事態は好転した。鳩が真言の主を追い、奴らの本陣が異去にあることを突き止めた。おかげで、政府の方でも奴らの行動を見張れるようになったのだ。
「後は時間の問題ぜよ。専用の部隊を組んで討ち入りする言うとったわ」
「ふむ。そこまで我々に話すからには、この件はまだこれで終わりではないのだな」
巴形薙刀が言うと、陸奥守は相好を崩した。
「話が早いのぉ。そうじゃ。政府からわしらに打診があった」
「内容は」
「首魁一味六人を捕縛する作戦に協力する気はないか、と」
「ほーお?」
八丁が身を乗り出す。
「恐らく、あっちも本陣が割れたことは分かったんじゃろ。拠点を早々に捨てて、次の根城が定まるまでの間、あちこちを転々としとるらしい」
それを政府の方で追跡してみたところ、奴らが定期的に訪れる場所が一つあった。
ここで陸奥守は、手にしていた資料をこちらへ見せる。それは、見たことのない地図だった。
「異去二二〇五年と思われる異空間──わしらのいるのと似た時代やから、異去ちゅうのもおかしな話じゃが──そこにある、吉原の料亭じゃ」
「何故二二〇五年に吉原があるんだ」
巴形が不思議そうに訊ねる。
陸奥守はかぶりを振った。
「詳しくは知らん。あっちはわしらの世界とよう似ちゅうが、どうも微妙に違うらしい。吉原は公の花街やのうて任侠の仕切る賭博の街やし、東京の半分は海に沈んどる」
「面白そうだな。観光してみたいものだ」
鶯丸が言う。
「で、奴らがその料亭にやって来たところを捕まえろ、ということか」
「ほうじゃ」
陸奥守は顎をさすり、視線をやや俯ける。
「政府自体に奴らの目が張りついちょる可能性があるから、一度呪いを弾き返したわしらが実動部隊として協力してくれれば助かる、ちゅう話じゃ。主はこの件に乗り気半分、躊躇い半分での。と言うのも──」
審神者は政府の提案に対して考える時間をくれと返答した後、陸奥守にこう言った。
攻めたい気持ちは確かにある。奴らに時空防衛戦線の情報をどれだけ抜き取られているか知りたいから、捕縛に関われるならば関わって確かめたい。
けれど、捕縛は一筋縄でいかないだろう。刀剣達に無理強いをしたくないから、軽い気持ちで受けることはできない。
「無理強いって?」
八丁が問うと、陸奥守は指を三本立てた。
「政府に提示された捕縛する時の条件が、三つある」
一つ、必ず生け捕りにすること。吐かせたいことが多くあるため、一人たりとも殺してはならず、自害を許してもいけない。
二つ、奴らを料亭の一室の中で、秘密裏に捕らえること。歴史改変を防ぐためにも、騒ぎを外へ出すのは極力避けてほしい。
三つ、芸者に化けて潜り込むこと。過去に、討ち入りした刀剣男士の姿を見て自決した幹部がいた。真っ向から迫れば、同じ轍を踏むことになるかもしれない。件の料亭で客室に留まることを許されるのは、芸者だけだ。芸者として接近し、油断させたところを捕らえて欲しい。
「それは」
巴形は腕を組んで黙り込んだ。ややあって、陸奥守に訊ねる。
「芸者に化けるのに、幻術は使えるのか」
「いかん。ただの料亭やのうて、あっちの妖のお偉方行きつけの料亭じゃから、敷地に入った途端に術は解ける」
「なら、不可能じゃないか」
巴形はばっさりと言った。
「主の願いは叶えたい。しかし、難が多すぎる。俺達の中に、自然な芸者になりきれる奴がどれほどいる?」
「ほうじゃ。一番の難点はそこなんじゃ」
陸奥守は困り切った顔になっていた。
「わしらは美男子揃いじゃろ。けんど、芸者に化けるにはちっくと逞しすぎたり、勇しすぎたり、個性が強すぎたり……のう?」
「芸者のふりを進んでする者と、適性のある者も別だ。一部隊組める気がしない」
「いや。芸者役は一部隊もいなくて構わん。政府の方で毒を用意するそうじゃから、芸者のふりをしてそれを飲ませる奴が、最低一振おればええ」
「なるほど。ならば案外、どうにかなるか?」
「どうにかなるのか?」
八丁が首を傾げる。
「この話、後で本丸全体会合で話すんだろ? ならその前に、どういう刀を芸者役に求めてるかっていう方針くらい決めておかないと、やばいっぽくない?」
「何故だ」
「うーん。多分、皆やりたがる、ような」
「ほうやにゃあ。その通りじゃ」
陸奥守が首を大きく縦に振る。
「わしかて、統括役を任されとらんかったら立候補しちょった。他にもやりたがる刀はいっぱいおるはず」
「正気か?」
巴形が信じられないものを見る目を陸奥守へ向ける。陸奥守は唇を尖らせた。
「何じゃあ。ええじゃろ。訛りに味があって、おぼこげな感じがええと言われるかもしれん」
「何でそんなに自信満々なんだ」
巴形は呆れている。
「せめてまずは、主のためだからと言ってくれ。初期刀だろう」
「なら、巴形がやるがか?」
「俺とて、主の力になれるならやってやりたかった。だが俺に限らず、薙刀は体格が良すぎる。まずバレる」
「そうやにゃあ。体格の制限は要るぜよ」
言うなり、陸奥守は手帳にメモを取り始める。芸者役の条件と書かれた帳面を、巴形と八丁も覗き込んで意見を出す。
「短刀や脇差だと幼すぎる。薙刀、槍、大太刀は体格が向かない。打刀、太刀あたりが妥当か」
「剣は?」
「体格はともかく、霊格が芸者から離れすぎちょる。除外じゃ」
「筋肉のつき具合を指定した方がいいのではないか」
「いや、着物である程度は誤魔化せるじゃろ。それより話術と声が肝心やき」
「音域指定する? 身長制限はどのくらい?」
「声の高さは、自然にさえ聞こえれば多少低うてもええ。身長は、和装じゃから姿勢である程度誤魔化せる。が、一八〇あるとさすがにバレる気がするのう」
「何だ。じゃあ大包平は駄目か」
久しぶりに鶯丸が口を挟んだ。彼は三振の話すのを聞きながら、少し離れた近侍席で一振、その辺に転がっていたペンを弄んでいたのだった。
三振はマイペースな刀に苦笑する。
「兄さん……」
「それは、おんしが着せたいだけじゃろう」
「あの太刀はどんなに女らしい柄を着たとしても、男物にしてしまうように思うが」
「そこがいいんだ。大体、昔は男の芸妓の方が多かったんだぞ」
「いつの話をしちゅうんじゃ」
鶯丸は残念そうにも面白がっていそうにも聞こえる、例の飄々とした調子で話す。
「絶対面白いと思うんだが。考えてもみろ。大包平がこう、扇子を持ってだな」
鶯丸は柔く首を傾け、こちらへ流し目をくれた。
ほっそりとした面差しに、たっぷりと笑みを湛える艶美な眦。扇子に見立てたペンを寄せた形の良い唇が綻び、秘めやかに言葉を紡ぐ。
「お待ちしておりんした、ってな」
柔らかな声の翳り。しっとりとした吐息の余韻。
伏せる長い睫毛が堪えるかの如く、微かに震えて──次の瞬間、弾かれたように笑い始めた。
「ああ、駄目だ。想像するだけで笑える。これが任務でなくて、女装大会なら推薦するのに。本当に残念だ」
呆気に取られている三振を放っておいて、鶯丸は笑いの発作と格闘する。何とか収めることに成功した彼は、ところでと陸奥守に訊ねた。
「あちらの芸者の言葉はどうなっているんだ? 俺は今適当に廓詞を使ってしまったが、違うなら厄介だ。よく確認していった方がいい」
その内容を、三振はきちんとは聞いていなかった。彼らの脳裏に等しく浮かんでいたのは、今見た鶯丸の仕草と、時折纏う軽装の佇まいだった。
三振は顔を見合わせる。互いの眼差しに同じ考えを見て取り、頷き合う。
「のう、鶯丸」
陸奥守が口を開く。
「何だ」
「実はここに、主から今回の作戦の検討にと預かった打掛があるんじゃけど。おまさん、ちっくと羽織ってみる気はないかの」
「ほう?」
松葉の双眸が瞬いたのは束の間だった。すぐ、にやりと笑みを浮かべる。
「まあ、やれんこともないだろう。貸してみろ」
電話呪詛事件の四日後に、本丸全体会合が行われた。そこで陸奥守より、事件の詳細な情報、問題の団体を捕らえる任務を請け負うこと、そして作戦内容と参戦希望者を募る旨が伝達された。
作戦は芸者に化けた者を中心に据えての生け捕り、部隊員は芸者役二名と補佐役四名──予想した通り、芸者に化けての戦闘だと分かった途端、刀剣達は俄然盛り上がった。連日連夜似たような戦ばかりを続けているため、いつもと異なる戦場に飢えているのである。
我も我もと志願する刀達を、陸奥守は即日芸者武者大会を開いて審査することによって捌いた。厳正なる審査の結果、潜入先が高級感のあるもてなしを求められる料亭であること、先に芸者役を務めると決まっていたのが太刀の鶯丸であること、現在の練度の三点を考慮し、宗三左文字に決まった。他の候補者と野次馬の激励の拍手に包まれる中、傾国の打刀はしれっとした澄まし顔で佇んでいた。芸者とかけ離れた無愛想さだったが、それでも小夜左文字に手を振られて微笑む顔は、催しの優勝者として相応しいものだった。
なお、補佐役の枠は皆が芸者武者大会に熱狂している傍でひっそりと埋まった。面子は陸奥守吉行、薬研藤四郎、篭手切江、大包平。挙手制で集まった者達だったが、芸者役の支援、屋内外での戦闘、政府との連絡と、どれもうまくこなせそうな組み合わせである。
役者が決まるなり、篭手切が鶯丸と宗三のもとへ駆け寄っていく。その腕には陸奥守より渡された、政府支給の備品パンフレットがある。
「よろしくお願い致します。めいく、衣装選び、着付けのお手伝いはお任せください。お二振のご要望を窺いつつ、腕を振るわせていただきます!」
そこへ陸奥守も合流し、作戦の詳細を詰めるため、別室へと移動していった。
芸者武者大会の余韻で賑やかしい刀剣達の中、大包平は去り行く四振の姿を凝視していた。
背中を、誰かに叩かれる。視線を巡らすと、白衣姿の短刀が手を差し出していた。
「よお旦那。同じ部隊だな。よろしく頼むぜ」
「ああ。こちらこそよろしく頼む」
大包平は薬研と握手を交わす。紫の双眸が細まる。
「陸奥守の話だと、俺達は不測の事態に備えて待機し、失神した犯人を拘束して連行する運び屋になるそうだ」
「不測の事態というのは、部屋から奴らが逃走しようとした場合に制圧する、といったところか」
「そういうこった」
「できることなら、ただの運び屋でありたいものだな」
「全くだ。大人しく荷物を運んでちょっくら観光して、のんびり帰って来たいもんだぜ」
相変わらずの短刀らしからぬ渋い言動に、大包平は笑みを零す。
「お前は本当に面倒見がいい」
「ん?」
「違うのか。古馴染みの宗三左文字が選ばれることを見越して、隊員に名乗りを上げたものと思ったのだが」
「ああ。そりゃあ逆だ」
薬研はあっけらかんと言う。
「俺っちが芸妓に名乗り出ようとしたから、宗三が立候補したんだ」
大包平は耳を疑った。
薬研は自らの身体を指し示す。
「俺ら短刀だって、禿ならイケるだろう。潜入先の料亭は妖御用達だ。なら、子供姿の付喪神が酒を注いだっていいと思わねえか」
「それはそうだが。件の料亭で働く芸者は大人びた姿の者だけだと、陸奥守が言っていただろう」
「気にする事ァねえよ。目覚めさせてやりゃあいい」
──目標を警戒させるなという話だったはずだが。
生捕りにしなくてはならないという注意事項を覚えている上で言っているのだろうか。だとしたら豪胆すぎる。
大包平がどう返答したものかと迷っていると、先に薬研が口を開いた。
「──って言ってたら、宗三が手を挙げちまったのよ。貴方が参加して大惨事を起こす前に僕が行きます、って」
「良い友を持ったな」
薬研藤四郎には謎の説得力がある。たとえ粗のある理論でも、彼が口にした途端、何故か実現可能のような気がしてしまうのだ。
もしも薬研が立候補していたら、各方面に波乱を巻き起こしていたのは間違いない。もしかしたら、薬研が芸妓に立候補云々は、適性の高い宗三左文字を参加させるための詭弁だったという可能性もあるが、屈託なく笑う少年の顔からはそこまで読み取れなかった。今確かに言えることは、宗三左文字が賢明な判断をする刀だということくらいか。
「本当に面倒見がいいのは、あんたの方だろ」
急に、薬研がこちらへ水を向けてきた。
「鶯丸の旦那が作戦の中心にいるから、隊員として参加したんじゃないのか」
他刃の口からそう言われると、何だか落ち着かない。私情が強すぎる気がして、自分のことながら苦笑が漏れる。
だが、鶯丸が参加しなければ名乗りを上げなかったのは確かだ。そこは、正直に認めることにする。
「そんなところだ」
「仲がいいねえ。いや、いい仲と言った方が正しいか」
短刀は、らしい鷹揚さで突っ込んだことを言う。だが、不思議と不快には感じない。
大包平は鼻で笑う。
「俺達はそんな、惚れた腫れたですったもんだする間柄ではない」
「そうなのか」
薬研は大きな目をつと見開く。
「でも、まぐわってるだろ」
とんでもない直球が来た。
大包平は溜め息を吐く。
「それを聞いてどうする」
「別に。同じ戦に参加する隊員として、事実の確認をしてるだけだ。ああ。上下までは言わなくていいぜ?」
「誰が言うか」
「宗三だって婀娜っぽいが、鶯丸も相当艶っぽいからな。戦術とは言え、それがめかしこんで他の男の傍に侍るとなったら、穏やかでいられねえんじゃないかい」
戯れる紫電の如き瞳に、探るような意図を感じる。
大包平は真っ向からその瞳を見つめ返す。
「あいつの身体や精神を害されることがあれば、当然いい気はしない。だが、俺はあいつの仕事を信じている。俺は俺の務めを果たすまでだ」
「ふうん」
薬研は大包平の眼差しを受け止め、微笑んだ。
「冷静なんだな」
「まあまあ、といったところだろう」
「いや。そう返せるなら冷静だ。安心したよ。測るようなことを言って悪かった」
潔い詫びの言葉に、大包平は首を横に振る。
「気にするな。俺がお前の立場でもそうしたかもしれん」
「痴情に限らず、戦場に拗れる情を持ち込むと泥沼になるからなあ。俺は、皆が生きて帰れる戦をしたい」
夢物語だと言われても、それが俺の戦なんだ。
薬研が言って顔を伏せる。そうしていると、外見相応に儚く見える。
安心させようと、大包平は笑みを浮かべた。
「分かっている。万が一俺の頭に血が上ることがあったら、お前が瀉血してくれていい」
「瀉血で済むかね。柄までぶっすりキメちまうかもしれねえぞ」
「たとえそうなっても俺は死なん。何と言っても、刀剣の横綱だからな」
「理屈はさっぱり分からねえが、旦那の漢気は伝わったぜ」
大包平は短刀の頭を撫でてやる。少年はきょとんとした後、くすぐったげに笑った。
その顔を眺めつつ、呟く。
「やりすぎるとしたら、あいつの方かもしれないが」
「鶯丸が、か?」
紫の瞳が意外そうに瞬く。
大包平は頷いた。
「あれは元々、役目に対して真面目な奴だからな」
◆◆◆
たまに来る嫌な客が、ついに任侠連中から見放されたらしい。奴らのいつもの酒宴に、芸者を装った官憲のようなものが入ると聞いた。
それを聞いた吉原の料亭「玉手」の抱える妖芸者の一人──源氏名をお細という、簪の化生である──は、ざまあみろと思った。あいつらときたら、大して高い酒を入れないくせにやたらと要求が多く、絡みも鬱陶しいからうんざりしていたのだ。特に、立場の弱い新人を好んでいびるから気に食わない。妹達が困らされるのを、何度庇おうとしてきただろう。妹達とは仕事の都合で売上を競うこともなくはないが、共に客をもてなし宴を盛り立てる大切な仲間である。粗末に扱われて良い気分になるわけがない。
料亭の主人は、彼らを釣る日は五階最西の一室へ近付くなと言った。戦闘になる可能性が高いからというのがその主な理由だったが、後日、控室でお細と二人きりになった時に別の理由も口にした。
「お前さんをうちで一番勤めの長い化生と見込んで、頼みがある。例の客を捕縛する奴らとうちの子達が鉢合わせしないよう、手伝ってくれないか」
「構わないけど、ちゃんと説明してくれないと嫌だよ。あと、お手当も頂戴ね」
お細は抜け目なく言う。
「妾の命がかかるかもしれないんだから。そのくらいは当然、約束してくれるだろう?」
主人は了承した。周りに耳がないことを念入りに確認した後、声を殺して言う。
「あの客を捕まえにやって来る連中は、ちょっと変わった付喪神なんだ」
その官憲のようなものは、人に似た実体を持つ刀の神であるという。容姿に優れており、種や齢、雌雄を問わず、見る者の心を捕らえて離さない性質を持つ。
「うちの子達は、美しい物に敏感だからな。うっかり鉢合わせて、腑抜けになっちまったら困る。あちらさんも極秘任務だから姿を見せないように気をつけてくれるらしいけれど、万が一もあり得る。だから当日、俺が他の子達をよく見ておくから、お前さんが例のお客のいる部屋へ官憲の刀を案内してくれないか」
「うっかり行き先を間違えて、顔を合わせることがないようにってことだね。いいよ」
彼女には、刀の付喪神に取り込まれない自信があった。何故なら、己もまた多少なりとも鋼を組み込む付喪であり、美しさに誇りを持っているからである。加えて、男を好む趣味がないのも彼女の自信を確かにしていた。
しかし、強い霊性を持つ付喪神は厄介である。そのことは妖芸者としての半生でよく学んでいたため、当日彼らを迎えに行く時は、持っている面布の中でも最も上質なものを身に付けていった。
はたして、培ってきた勘は当たった。いざ来訪者の詰めている控室へ向かい、現れた者らを見て、二重の意味でぞっとした。
まず襖を開けて顔を見せたのは、着流し姿の男だった。大きく開いた袷より健康的な肉体を惜しみなく晒す様といい、腕白に跳ねる癖毛といい、少し無頼な印象を受ける。しかしその顔は何とも愛嬌のある男前で、特にこちらの姿を認めてにこりと笑うと、まるで十年来の友を前にしたような気持ちにさせられた。
「お世話になります。出番ですか?」
「はい。よろしくお願い申し上げます」
「おーい。お呼びだぜ」
いつの間にか男の傍らにいた少年が、控室の奥へ声を掛ける。薄汚れたフード付きパーカーを被り、ここらをうろつく鼻紙配りの少年に似た風体を装っているが、雪を欺く肌や黒目がちの大きな瞳より成る貌の耽美さは隠せていない。その儚げな美少年ぶりと、仲間をぞんざいに呼ばう艶やかな低音が一致せず、お細は混乱した。
それから、美少年に呼ばれてやってきたダークスーツ姿の二人もまた美形だった。
一人は、眼鏡の似合う凛々しげな好青年である。提げた刀を見るに、支援上手の脇差か。妖芸者の姐さん達や、辻向かいの妓楼の女が見たらさぞ傍に置きたがるだろうと思われた。芯の通っていそうなだけでなく、溌溂とした純真さも兼ね備えたああいう付き人に、姉御達は滅法弱い。
もう一人は、一際輝くような美男だった。その容姿は、国宝級の彫像と世界的トップモデルを足して二で割ったよう。または、全ての者が夢見る高貴な英雄が肉体を伴って具現化したよう。または──様々な表現が浮かんだが、お細が何より強く思ったのは、妹達がこの男を目にせず済んで良かったということだった。何せ、女であることに誇りを持つ自分ですら、この男にどうこうされたいとこそ思わないまでも、これになって女を抱けたらと思わされるのだから。
──これは、何もせずとも他人の情念を糧にできる付喪神か。
お細は彼らの性質を、そう推察する。眼前の付喪神達は、その美しさと生まれ持つ物語で、見る者の心を奪って己の一部とすることができるのだろう。弱い物の怪なら、すぐに自我を失ってただの物に戻る。刀を生み出した人間とて例外ではない。接し方を間違えれば、あっという間に養分にされるはずだ。
なるべく目を伏せて、面布越しでも顔を合わせないようにする。その間に、刀達は会話をする。
「お前のビジネス言語は、いつ聞いても凄いな」
「主の代わりに長年渉外をこなしていると、こうなります」
「れっすんの成果ということですね」
「こういう時の旦那は敬語しか話さなくなって、ちょっと怖いんだよな。俺っち頑張るから、早く元に戻ってくれ」
最初の台詞が美男。次が若武者。その次が青年で、最後に少年。
それから、若武者がお細に言う。
「では、私達は配置につきます。お手数をお掛け致しますが、私達の仲間を目標の部屋まで連れて行っていただけますか」
「畏まりました」
彼の言葉を待っていたのか。奥の衝立の影より、しずしずと現れる姿が二つあった。どちらも、自分達と同じように髪を島田髷に結い、顔を薄い面布で覆う芸者の格好をしている。お細は直視しないよう目を伏せつつも、その様子を窺う。
片方は、物憂げな雰囲気の刀である。澄んだ水を吸い上げたが如き薄青の髪に、淡い水色を帯びた白の絽と金刺繍の帯がよく似合っている。上衣より透けて見える襦袢へ、さり気なく藤袴が施してある様が、涼しげな晩夏を思わせて良い。背は高いが、不思議と男と分からないのは何故だろう。線が細く、気怠げな所作をするせいだろうか。風に吹かれてよよと崩れそうななよやかさと艶めかしさが、そう思わせるのかもしれない。総じて、位も齢も上の、翳りの美味を知る男が傍へ侍らせたい薄幸の美女といった印象だ。
もう片方は、朗らかな佇まいの刀だった。深い緋色の纏め髪に黒の絽を羽織り、銀糸の帯を締めた下に赤や青の薊の咲く襦袢を透かす姿は、夏祭りの夜の京楽を思わせる。しゃんと伸びた背筋や行き届いた手足の運びからは育ちの良さが窺え、粗雑に扱ってはならないという気にさせられる。こちらもやはり背があるが限りなく女性に見えるのは、そういった品格より来る印象のせいだろう。顔こそはっきりとは見えないが、傍で微笑みかけられたら心の華やぐような、麗しい美女にしか思えない。
──守り刀か宝刀か。どちらにしても、祀られてきた神かな。
信仰を寄せられ、寵愛を受けて長く生きた神は、その全能を象徴するかのような中性の性質を帯びることがある。男しかいない刀の付喪神とて、それは例外ではないようだ。先に出てきた四振の刀も作り物のように綺麗な造形をしていたが、芸者役の二振はその中でも両性の気が強い。宝として扱われてきた歴史のある刀と見て確実だろう。
「ご案内致します」
低頭し、先に廊下を歩み始める。
刀達が何やら囁きを交わす気配がする。その後、複数の足音があちこちへ散った。後には己と同じ方向へ進む、二人分の足音だけが残る。
いくら客を部屋に待たせていようと、足早に駆けていくわけにもいかないのが自分達の仕事だ。だから、長い板敷の回廊を、なるべく音を立てずにゆっくりと歩いていく。
「いい料亭じゃないか」
お細の背後で、刀の片方が声を落として言う。方向から察するに、薊の着物の方だろう。低すぎず高すぎず、耳に優しい柔らかな美声である。これなら、少し声色と言葉遣いに気を付けさえすれば、女と偽ってもばれないはずだ。
「恐れ入ります」
神の言祝ぎは、謹んで受けておくに限る。
お細が畏まって一礼すると、薊は言う。
「仕事場を騒がせることになって、悪いな」
「いいえ。とんでもございません」
そういえば、この刀達はどこへ武器を隠し持っているのだろう。
お細は今更の疑問を抱いた。二人ともこの料亭の芸者らしく、乾杯のための酒と盃を携えているが、刀も含めて武器らしきものを持つ様子がない。よほど素手での戦闘に自信があるのだろうか。
ここでは、武器を振るうことが禁じられている。だから、今座敷で待つ連中も丸腰に近い状態のはずだ。
とは言え、客は六人。二対六で、どうやって捕縛するつもりなのだろう。
──妾なら毒を使うけど。
酒に混ぜたとて、完全な無味無臭の毒薬でなければ、味や匂いで気付く者もいる。その備えは、されているのか。お細は手引きする者の立場上、仕留め損ねた場合のことを考えずにはいられなかった。
「ねえ貴方。少しはそれらしく話したらどうですか」
藤袴の着物の刀が仲間に言う。声は女として考えると低いが、なかなかどうして、囁くような話し方に色気がある。
薊は笑った。
「おや。気になるか」
「万が一、目当ての客に聞かれたらどうするのです」
「それは悪かった。かえって気の抜けた芸者らしくていいかと思ったんだが」
言うことは分からなくもない。お細とて客の前でこそ慇懃な喋りを心掛けているが、素は江戸訛りだ。客の好みも様々で、最近の流行りに合わせて今様の喋りをするのもいいが京言葉を使ってくれという者もいれば、もっと力の抜けた口調で喋って欲しいという者もいる。この西暦二二〇五年の吉原では、もてなし方も多様化していた。
薊は笑みを含んだ声で言う。
「どうかお許しくださいませ、姐様?」
「……どう考えても、姐様は貴方でしょう。こんな時に耄碌はやめてください」
藤袴が溜め息を吐く。
揶揄う者と、毒を差し込む者。
なるほど。搦め手の作戦には適任の組み合わせだ。官憲でなくとも、座敷仕事でも重宝する。
四階の上り階段までやってきた。ここを上がってすぐ手前の部屋が、目指す客のいる座敷である。
背後の足音が止んだ。
「ここまででいい」
そう言ったのは、薊の方だった。
「客には顔を見せずに戻るといい。後はこちらで片をつけるから」
お細は二人の方へ向き直り、頭を深く下げて廊下の端へと後ずさった。
刀の神々は、空いた道の中央をまっすぐに歩いていく。
通り過ぎる時、薊が言った。
「いい仕事ぶりだった。あいつらと違って、お前はきっと大成する」
お細は二人が階段を上り、座敷の襖が二度滑る音を聞き届けてから来た道を引き返した。その途で、考える。
──あいつら、あの刀の人らに無礼を働いたのか。
ケチ臭いだけでなく、愚かな客でもあったようだ。あのような相手にあこぎな商売をするなんて、命知らずにもほどがある。
この地で扱いに気をつけるべき客は様々にいるが、任侠連中の指示のもと、等しく入店制限を設けて応対する客が一種いる。それが、霊格の高く、神や宝のように崇拝された経歴を持つ者達である。
彼らは、寄せられた心を背負って生きざるを得ない業を持つ。己の趣味で好かれることを歓迎する者、望む望まずに限らず執心を得てしまう者。内実は様々らしいが、集まる生命や情念の力も神の正体の一側面であるから、彼らの思いを背負うのを生業とすることも多い。
そのような者達は、己へ働かれた無礼を決して許さない。何故なら、彼らへの無礼は彼らを愛する者への侮辱に繋がるからである。こういった神々が吉原へやって来る時、相応の格式高い店でもてなすのを決まりにしているのは、彼らの逆鱗に触れて災いがもたらされるのを防ぐためだった。
久しぶりに宝刀をもてなすという大きな仕事を終わらせ、控室へと向かうお細の足取りは軽い。この仕事を受けたことで、太客複数人分に匹敵する大きなボーナスが出たのだ。それを使って何をするか──考えるだけで心が弾んで仕方なかった。
◆
その客が座敷で待っていると、見たことのない芸者がやって来た。黒白の絽の、夏らしい装いに身を包んだ二人組である。
「お初にお目にかかります」
二人はそれぞれ名乗った。知らぬ源氏名だったが、まあいいかと思う。とにかく雰囲気のある芸者達で、三つ指をついて挨拶する姿を前にした途端、目が離せなくなっていた。並んだ仲間達も同じように感じたようで、しんと静まり返って彼女らを見つめている。おかげで、直前まで話し込んでいた話題も、思い出せないほどどうでも良くなってしまった。
二人は自分達の輪に加わり、粛々と乾杯の支度を始める。どちらも自分から離れたところへ座ったので、少々がっかりする。それでも、彼女らが座った辺りから着物へ焚きしめたらしい香の甘さが漂ってきて、夢見心地になった。
着物の裾や徳利、盃と戯れる指は、まさしく白魚のよう。面布をしているから細部までは窺えないものの、どちらもこの上なく美しい容姿をしているらしいのは明らかである。しかし、どこかで見かけたことのあるような。首を捻ったものの、美人は似通うことも多いからと、すぐに考えるのをやめてしまった。
「別嬪だなあ」
仲間の一人が上ずった声で言う。
「本当にここの子?」
「ええ。入って来たばかりなんです」
白い着物の女が答える。
「姐様方に劣らぬよう精一杯務めますから、どうか今後ともご贔屓になさってくださいな」
「同伴できるかな」
そう訊ねたのは、首魁だ。彼は女好きである。特に、色事に慣れていない女にちょっかいをかけるのが好きらしく、何度すげなくされてもやめられない。他の連中も、好みが多少違えど似たような者ばかりだから、ここへ通うのを楽しみにしていた。
白い女が、鼻の下を伸ばしている首魁の方へ流し目をくれて笑う。
「がっつく人は嫌い」
吐息を含む笑みでそう言われると、実際は構わないと言われているような気がするものだ。頬を紅潮させる者が、首魁の他にも二、三見られた。
そうこうする間に、白い着物の女が盃を全員へ配り終える。次いで黒い着物の女が、一人一人のもとへ酌をして回る。黒い女は酒を注ぐ前、各々の目を見て問う。
「貴方様。お名前は」
角がなく聞き取りやすい、しっとりとした声である。
誘われて、皆無駄口を叩かず名乗る。自分の時もそうすると、女が微笑んだ。その顔が何だか嬉しそうに見えた気がして、まじまじと見つめる。
近くで見ると、意外と背が高い。面布越しでも窺える顔は十二分に美しく、目を離すのが惜しいようだった。丁寧な彫りの眦が、笑みに合わせて緩やかに垂れる。長い睫毛の下よりこちらを窺う瞳は、真珠のよう。すっと通った鼻梁は高さも幅もほどよく、控えめに紅をのせた唇の形も申し分ない。派手すぎず地味でもない、均整の取れた上品な美貌だった。
己がなおも見つめ続けていると、その顔が笑みを深くした。瞳が悪戯に煌めき、思わせぶりな上目遣いでこちらを射抜く。蠱惑的な眼差しに絡めとられ、女が隣の仲間のもとへ酌をしにいくのを見届けても、己の心臓は早鐘を打つのをやめられなかった。
黒い着物の女は、やはり他の仲間にも名を訊ねて微笑みかける。けれどその笑みは、己に向けたものと微妙に異なるように見える。
自分に気があるのだろうか。
ふと考えつく。当然、悪い気はしない。品のある顔をした女だが、その本性は身に纏う花火の舞う夜の着物に似て、案外烈しいのかもしれない。品行方正な女の別の顔を妄想すると、熱いものが込み上げてくる。
「では、盃を」
女の声を聞いていたのに反応が遅れたのは、先程の笑みによってもたらされた夢から抜け出せなかったからだ。決して、いつもより上質な酒を注がれていることに気付いたからでも、一息で干した隣の仲間二人が呻いたからでもなかった。
突然、右隣の二人が、喉や口を押さえながらどうと倒れる。それに驚いた端の一人が、盃を取り落として叫ぶ。
「毒だッ」
立ち上がろうとするのを、黒い着物の女が腕を掴んで引き戻す。鋭い掌底が顎を撃ち、仲間は壁へ叩きつけられて崩れ落ちた。
左から呻く声がする。振り向けば、仲間の一人が掌を押さえて呻いていた。手の甲に簪が刺さっている。
いつの間にか迫った白い着物の女が、そいつを地面へ転がす。女はそこへ圧し掛かり、何やら札のようなものを額へ貼り付ける。貼り付けられた奴は、ぴくりとも動かなくなった。
──首魁は。
探し見れば、白い女の片手で両手首を一絡げに捕らわれていた。首魁は着物が脱げそうになるほど暴れ、強すぎる片手の拘束から逃れる。そして、懐に潜ませた自決用の毒を用いるでもなく、座敷の入り口に向けて一目散に逃げ出した。
その後頭部を、凄まじい勢いで飛来した赤い生首が捕らえた。首魁は頭から畳へ突っ込み、痙攣したまま起き上がらなくなる。その傍へ、赤い生首──否、赤い島田髷の鬘が転がった。よく見ると、内側に札が張り付いている。どうも、拘束の術式が記されているようだった。
独り残された彼は、唖然とする。
あっという間に世界が一変してしまった。何が起きたのだろう。現実がいまいち頭に入らない。
「俺を覚えているか」
声を掛けられて我に返った時には、首を絞められていた。
背中が床へ叩きつけられる。衝撃で呼吸が破綻する。
視界の中心へ、首を絞める手の主が現れる。はっと意識が覚醒した。
己に乗り上げているのは、鬘を取り去った黒い着物の芸者。もとい、刀剣男士鶯丸だった。鬘を取ったせいか、深紅だった髪や眉の色がもとの翠に戻っている。
鶯丸は、空気を求めて喘ぐこちらを見て笑っている。先程蠱惑的だと感じたのと同じ笑みで、言う。
「俺の本丸に電話を掛けてきたのは、お前だろう」
目を見開かずにはいられなかった。
──もしかして、あの時電話に出たのと同じ個体なのか。
数日前。新たな売れる情報を求めてばら撒いた呪詛の一つを辿り、とある本丸にコンタクトを取った。その時、電話口に出たのが鶯丸だった。奴は、こちらが電話を通じて掛けようとしていた別の呪詛に気付いたらしい。あれ以来、政府に自分達のことが知れてしまったらしく、追手がかかって逃亡生活を送る羽目になったのだった。
──わざわざ俺達の居場所を突き止めて、追ってきたのか。
彼は驚く。鶯丸という刀に直接会ったのはこれが初めてだが、どんな刀かという情報は知っていた。大まかな性格で、細かいことは気にするなと口癖のように言うと聞く。だから彼が電話口に出た時には簡単に騙せるだろうと思ったし、ゆめゆめ忘れるなと言われたのも脅しだと思っていた。
それがまさか、自分達の居場所を突き止めてくるなんて。起こり得るはずのないことだった。
──何故、芸者じゃないと気付けなかった。
彼は愕然として、馬乗りになる者を見上げる。どう見ても男だ。手はしなやかだが、女にしては筋が目立つ。背が高く、喉仏が出ている。面差しは女のようと言えなくもないが、この鋭い眼差しはどうだ。虫の一匹すら殺しそうにない麗しげな顔は、苦しみ足掻く己を押さえつけながら、確かに笑っている。
恐らく、巧みな女装のせいだけではない。人の情念すら組み込まれているという特別な付喪神の性が、自分達の情念をくすぐり、心を攫ったのだ。蠱惑の妖術に掛けられていたに等しい。
「声で分かった。機械越しに聞いた声だったから間違うかもしれないと思っていたんだが、案外変わらなかったな」
鶯丸はぎりぎりとこちらの気道を締め付けつつ、茶飲み話でもするかのように話す。
何故意識を失えないのだろう。彼は足をばたつかせながら疑問を抱く。刀剣男士の力なら、自分のようなさして強くもない妖の意識を落とすことくらい容易かろう。
鶯丸が身を屈める。顔が近付き、酸素不足で足掻く己の心臓が一段と跳ね狂う。
ふわりと、甘い香りが鼻腔をくすぐる。上品な美貌が、嗜虐的な愉悦の色をありありと浮かべて見下す。
「何だ。もう俺を忘れてしまったのか」
つれないな。
そう嘯く声が、睦言を紡ぐよう。
忘れているわけがない、反応できないのは苦しいからだ。
そう返す余裕もなく、自分に突如訪れた胸の高鳴りに混乱する。この刀に、己を口説く意図がないことは分かりきっている。これから時の政府の手に落ちる己を、嗤っているのだ。
分かっているはずなのに、つれないなという一言に甘美な高揚を覚える。苦痛と高揚で、頭が沸騰しそうだ。
──馬鹿な。こいつは男だぞ。
本来、己は女が趣味だ。そして今自分に圧し掛かるのは、いくら綺麗な容姿をしていても、男に違いないはずなのだ。しかも今は、命の危機に晒されている状況。浪漫に浸っている場合ではない。
それでも酒を注がれて微笑まれて生まれた夢想が、目の裏にちらつく。
あの美しい手が今、己に組み付き、喉をきつく締め上げている。見下ろす端麗な顔の、蔑んだ笑み。己が身を苛む恐れ、痛み、苦しみ、喜び──そういった感覚が肉体の中で渦巻き、未知の昂揚を呼び覚ます。
「この先会うこともないだろう。達者でな」
朗らかな皮肉を聞きながら、彼は意識を飛ばした。気道を完全に締められる瞬間、彼が感じていたのは美しい神に虐げられる恐怖と興奮だった。
以降、この感覚は彼の根底に深々と刻み込まれた。時の政府の牢獄で生涯を終えるまで、彼は美しい神に殺される幻から抜け出すことができなかったという。
◆◆◆
座敷の屋根裏より篭手切江の撮っていた一部始終は、料亭の外で待機する大包平の持つ携帯型端末でも見ることができた。目標の最後の一人が意識を失うのを確認するなり、大包平は屋内へと戻り大股で五階へと上がっていく。座敷へ着くと、潜んでいた屋根裏より出てきた薬研藤四郎と篭手切江が、意識のない容疑者一味を縛り終えたところだった。
「俺が運ぼう」
「助かるぜ」
大包平が四人、薬研と篭手切が一人ずつ抱えて控室へと戻る。そこには陸奥守と、一味を連行するため政府よりやって来た警吏部隊の姿があった。
警吏部隊が一味を連れて先に去る。その後、陸奥守が料亭の主人に挨拶を終えるのを待ち、部隊は本丸へ帰還した。
審神者に任務達成を告げ、本格的な報告をする前に全員着替えることにする。大包平はさっさと自分の支度を終え、隣の鶯丸の部屋を訪ねた。入室の許可を得て足を踏み入れた時、ちょうど鶯丸は帯を解き、肩から絽と襦袢を落とそうとしているところだった。
「何だ。着物を畳むのを手伝いに来たのか? 気が利くじゃないか」
鶯丸は腕に着物を引っ掛けたまま、こちらへ首を回して笑いかける。篭手切の施した現代の化粧や染料の細工は落とした後で、髪と目、唇の色、どれもすっかりいつもの鶯丸のものになっていた。
着物を中途に脱ぐ身体を、背後から抱きすくめた。首筋に顔を埋めると、梅花と鶯丸自身の香りの混ざった匂いがした。
「おい。早く手伝え」
「今日の着物と化粧は、お前が選んだのか」
「さて。どうやって決めたんだったかな」
鶯丸は答える。言葉こそ曖昧だったが、口ぶりはいつもの闊達なものだった。
「この着物は、政府に返すのか」
「二日後に返すと聞いた」
「そうか」
大包平は男の身体へと回した腕をずらす。そうして、まだ黒い絽と薊の襦袢を纏う腹の辺りを撫でると、ぴしゃりと手を叩かれた。
「こら。報告が先だ」
「抱かれる気はある、と捉えていいのか」
言葉尻を捕らえて確認する。鶯丸は照れるでもなく、後ろ手に大包平の頭を軽く叩いて言う。
「我ながら見事な女ぶりだったからな。お前が欲情しても仕方ない、と思っていた」
「確かにお前の変装は見事だったが、俺がお前を抱きたいと思ったきっかけはそこじゃない」
鶯丸は眉を持ち上げた。
大包平はその顔を覗き込んで言う。
「持てる全てを使って務めを果たすお前は、勇ましかった」
仇を成した敵を決して逃すまいと、華やかな刺客となり敵を欺く姿を、端末から見ていた。淑やかな衣装に似合わぬ破天荒な暴れぶりは見ていて清々しく、この男の刃としての性を思い出させられて、気が昂った。
「だから、抱きたくなった」
大包平がそう告白すると、金色がかった翠眼が僅かに大きくなる。だがそれも束の間で、すぐ揶揄うような笑みを浮かべた。
「なかなか楽しい大立ち回りだったぞ。お前も今度女装して、鬘を投石代わりにしてみないか」
「やらん。あれは任務でなければ許されない使い方だろう」
「こっちも使ってみたかったんだけどなあ」
鶯丸は言いながら、襦袢をはだけて脚を露わにする。その腿にはベルトが巻いてあり、拘束の呪符つきの苦無が括りつけてあった。
大包平は絽と襦袢を脱がしながら言う。
「大して乱闘にならず、怪我がなかった。店も傷つけずに済んだ。それでいいだろう」
「それはそうだが。これを使って的当て遊びでもしてやろうかと思っていたのに、残念だ」
「された狼藉の分きちんと甚振ったんだから、満足しろ」
お前が最後に締め上げた男、あれはきっと嗜好が歪んだぞ。
そう言いかけて、やめた。わざわざ自分にとって面白くないことを言うまでもないと思ったのだ。
しかし鶯丸は、ああそう言えばと声を上げる。
「俺に電話を掛けてきた男。あれは変な奴だったな。首を絞めたら勃たせていた」
「……お前。それは、分かっていて言っているのか」
「ん? 緊張から来た不随意運動だということだろう」
大包平が脱がせた絽をひとまず衣紋掛けに託す横で、鶯丸はすっとぼけたことを言っている。冗談なのか本気なのか、いまいち分からない。
「あれは恐らく、お前に責められる錯覚を覚えていたんだろう」
「ふうん。そんなこともあるのか」
鶯丸の反応は薄い。どうでもよさそうだ。
脱いだ襦袢を畳んで、いつもの詰襟に着替える。そうしながら大包平に、冗談めかして笑いかける。
「お前は? たまには俺にもっとされたいとは思わないのか」
「たまにはも何も、いつもお前は勝手に仕掛けてくるだろう」
「勝手にとは何だ。もうしてやらないぞ」
「それは困る」
鶯丸は苦無を括り付けたベルトを束ねる作業をしている。その肩を後ろから捕らえ、耳へ囁く。
「最初は奔放なお前が、最後には大人しくなって、好きにして欲しいと身を委ねてくるのが堪らないんだ。だから続けてくれ」
すぐには返事が来なかった。無言でベルトへ視線を落とす横顔は真剣で、傍目には話を聞いていなかったかのように見える。
しかし、やや間を置いてから唇が開いた。
「今日、ずっと何もせずにいてやろうか」
素直でない返事は、この刀の場合照れ隠しの睦言に近い。
大包平は喉を鳴らすように笑う。
「それはそれで可愛らしくて良さそうだ。やってみろ」
「冗談を間に受けるな。そう大人しく抱かれてやると思うなよ」
鶯丸は鼻を鳴らし、束ねたベルトを握り締める。
「無駄口を叩き過ぎた。さっさと行くぞ」
「ああ」
先立って鶯丸が部屋を出る。大包平はその後に続く。
部屋にはいつもの静寂と、纏う者を待つ着物達が残される。その出番が再びやって来るのは、刀の仕事が完全に終わる、夜更けを過ぎてからのことになる。
20240717