異界渡り

※大包平×鶯丸





「三日だ。三日だけ時間をくれ」







◆◇序幕



 澄み渡る快晴の下、若草色の毛氈を敷いたような丘陵がどこまでも広がっている。清々しい陽光が大地を隅々まで照らし、柔らかな風が野草を撫でる。健やかな緑の他、動くものは何もない。
 丘陵の一つの頂に、男が立っていた。上背のある勇壮な美丈夫である。短髪が風に煽られ、燃え盛る篝火のように踊っている。猛々しくも美しい顔立ちの中、鋼色の眼は丘陵の最果てを見つめていた。ひどく穏やかな光を湛えたそこには、蒼穹と緑の曖昧に混ざり合う地平線が宿っている。
 佇む背中に、声がかかる。
「大包平。こんなところまで来ていたのか」
 振り返った頬を、拳が襲う。内角へ抉り込むストレート。疾風の如きそれは、男を見事に吹き飛ばした。
 どうと地へ倒れる。しかしすぐさま上体を起こし、歩み寄る男を睨みつけた。
「何をする!」
「ああ、少しはすっきりした」
 男は笑う。柔らかな柳葉に似た非対称の髪が靡き、その下より覗いた目が弧を描く。一対のくすんだ金は、放たれた拳の勢いにそぐわぬ親しみを持って語りかけた。
「薄情な奴だな。俺を置いて悠々自適の一人旅とは」
「はあ?」
 大包平は眉根を寄せた。
「お前が行くとは聞いていないが」
「確かにそう言った記憶はない。だが、行きたくないと言った覚えもない」
「鶯丸──」
「旅そのものは嫌いじゃないんだ。ただ、如何せん手間だからな。迷っていた」
 胡散臭げな顔をする大包平に、鶯丸は手を差し伸べる。
「ほら、行くぞ」
 差し出された指先を前に、大包平は逡巡する。やや彷徨った末、眼差しは自らの上へ落ちた。
「しかし、この有り様ではどこへも行けん」
 戦装束のあちこちに泥や草が付着していた。下手な受け身を取ったわけではない。そのはずなのに、派手に転んだかのような様相だった。
「なら、お前の満足する格好に着替えればいい」
 鶯丸が言う。凛々しい眉の間に皺が寄った。
「そうは言っても、他に替えなど──」
「よく見ろ。そこに呉服屋がある」
 明後日の方向を指さすのを追い、目をやった。そこには彼の言う通り、建物が一軒あった。銅板や煉瓦といった建材をモザイクのように組み合わせて外壁とする、年季の入った風合いの店舗である。間口に嵌め込まれた硝子のショーウィンドウは綺麗に磨き上げられ、外観に見合わぬ仕立ての良い衣類ばかりを並べていた。
 大包平は立ち上がり、店へ向かって歩き出した。
「そうだ。好きなものを選ぶといい」
 ふらふらと寄っていく背中に、鶯丸は呟く。
「お前ならきっと、どれもうまく着こなすだろうさ。多少前後不覚になったり色々飛んだりするかもしれないが……まあ、今ならば気にしないに違いない」
 ごく微かな呟きは、店先へ辿り着いた男には届かない。鋼の双眸が、ショーウィンドウに飾られた装束の一つへと吸い寄せられる。
 それは、夜を織り成したように艶やかな羽織袴だった。







◆第一幕 羽織袴



 遠い遠い昔、遥か彼方。万物に神々が息づき、神秘と恐怖に満ちた原始の大地を、旅人達が思い思いの得物を携えて彷徨う異郷にて。
 瘦せた樹木の乱立する枯野で、異形と男が対峙していた。異形は小山ほどの体躯の、闘牛に似た半身を持つ大蛇である。瘤のような筋肉を蓄えた身体がしきりに隆起しては収斂し、血の如き汗をだらだらと垂らす。鬼灯の両眼を爛々とさせ、蹄で何度も地を掻く様は、殺気立っているのが明らかだった。
 一方の男は、腰に帯びた刃を抜く素振りさえ見せず佇んでいる。異形の巨躯を前にするとどうしても小さいように見えてしまうが、実のところ彼もまた恵まれた体格の持ち主だった。羽織越しにも分かる肉体の厚みは戦いに慣れた者のそれで、右脚を半足引いてやや腰を落とす姿勢は次の動き出しに備えてのものだろう。整った横顔に表情はなく、刃に似た瞳に似つかわしい鋭さを宿していた。
 牛大蛇が頭を下げ突進する。火砕流の如く襲い来る肉弾を、男はただ凝視する。
 異形が衝突する──その直前、彼は腕を伸ばした。指で捉えるのは、牛頭に聳え立つ角の一つ。掴んだそれを頼みに倒立の要領で己が身体を持ち上げ、太い首の後ろへ降り立つ。そして異形が頭から地面へ突っ込んだのを確かめるなり、抜刀した。
 閃く白刃。ごろりと転がる首。崩れ落ちる巨体。足に敷いた肉体が弛緩しきるのを見届けた後、男は大地へ下りた。
 刀を一振りし、血糊を払う。異形より溢れた黒い血を完全に落とした後、得物を鞘へ収めて呟く。
「こいつも報告にあった変異体で間違いない。天変地異が妖どもに異様な変貌をもたらしているという噂は本当だったのか」
 問いかけるように言葉を切る。
 不自然な沈黙が訪れた。男は訝しげに辺りを窺うと、背後に佇む枯れた大木へ歩み寄る。軽く屈み込み、その中央に空いた洞を覗く。
「おい。何でこんな所にいるんだ、鶯丸」
「それはお前の幻だ。ここにはお前しかいない」
「馬鹿なことを言っていないで出て来い」
 男は洞へ腕を伸ばし、中で座り込んでいた者を引きずり出した。こちらも似た年頃の男である。詰襟シャツの上に長着を纏う書生風の身なりは、如何にも文人らしく優美な印象だった。しかしその体つきをよく観察すれば、羽織袴の男の前に立っても見劣りしない厚みが備わっていると気付く。総じて、どこか掴み所の無さを感じさせる男だった。
 鶯丸と呼ばれた男は、己より高い位置にある顔をしげしげと見つめる。
「大包平、お前は本当に信じられない奴だな。まさか俺の姿が見えるとは思ってもみなかった」
「当たり前のことを奇跡のように言うな。お前とは長い付き合いなんだ。俺に見つけられないわけがないだろう」
 大包平は腕を組む。
「お前がどれほど妖術に通じていようと関係ない。それはそうと──」
「そうか。見つかってしまったなら仕方ないな」
 鶯丸はその場に座り込み、指を鳴らした。すると彼の前へ枯れ枝がぱらぱらと落ち、火が点く。更にそこへ鉄瓶が降ってきて、焚火の上へ浮遊する形で収まる。
 突如湯を沸かし始めた。大包平の顔に怪訝な色が浮かぶ。
「何をしているんだ」
「見て分かるだろう。茶だ」
「何故急に茶を飲む」
「適度な休息も必要だぞ。いいから黙って座れ」
「それにしても唐突だな」
 言いながらも、大包平は向かいに腰を下ろす。
 鶯丸は腰に提げていた印籠より小さな包みを数点取り出し、広げる。粉末の茶葉、果実の皮、その他乾燥した草木の破片諸々。それらをどこからともなく取り出した竹筒二本に入れて湯を注ぎ、できあがった片方を大包平の前へ差し出した。
 飲めと促す。受け取ってすぐ、大包平は一口嚥下する。その後、鶯丸が問う。
「時に大包平。俺達は何者で、どういう次第でここにいるんだったか」
「お前、大丈夫か」
 大包平は眉根を寄せる。
「俺達は旅人で、戦うためにここへ来た。この地方の領主から、各地を襲う天変地異の元凶を討てという依頼を受けた。そのために、涯てにある劫毒の海を目指している。お前だって茶の素材が死滅させられたら困るからと、珍しく乗り気だったではないか」
「そうだったか」
 柔らかな髪が縦に振られる。
「なあ、帰らないか」
「今日は何時にも増して妙なことばかり言うな。何故だ」
「たった二人で取り組むには事が大きすぎる。それに、こんな軽装で大丈夫か」
「問題ない。皇国で最も優れた剣士である俺とお前なら、勝機は十分にある。それに、海周りの生態を見てみたいのだろう?」
「誰が」
「お前が言ったことだ。皆まで言わすな」
 大包平は茶を一息に飲み干すと立ち上がった。
「後は歩きながら飲め。もう行くぞ。長居すると、異変を察知した妖どもが更に寄ってくる」
 先程倒した骸の向こうより、こちらを窺う赤い目が無数に蠢いている。
 鶯丸が訊ねる。
「このまま旅を続けるつもりか」
「ああ」
「分かった」
 大包平が火を消そうと俯いた。その隙に鶯丸は背後へ回り込み、首筋へ手刀を落とした。







◇幕間



 茫洋としていた鋼の瞳が俄かに精彩を取り戻す。初めにくっきりと映したのは、ショーウィンドウを背にした鶯丸の戦装束姿だった。
「お。戻ってきたか」
「俺はいったい」
 大包平は辺りを見回す。青々とした草原の中、古風な呉服屋の前に佇んでいる。先程までいた枯野の暗い気配など微塵も感じられぬ、明るい景色である。
「説明しろ。これはどういうことだ」
「そんな曖昧に聞かれてもなあ。何について聞きたいか、きちんと言われないことには答えようがない」
 鶯丸は緩く笑みを浮かべて言う。大包平はショーウィンドウの羽織袴を指差した。
「俺はこれを眺めていたと思ったら、異郷の武人になりきっていた。どういう仕組みなんだ。お前はこの店の何を知っている」
「大したことじゃないさ」
 鶯丸はかぶりを振る。
「お前とその装束の波長が重なった。その影響でちょっとした旅行を体験した。それだけのことだ」
「旅行? 今のが?」
「ああ」
 鶯丸はショーウィンドウに並ぶ衣類達へ流し目をくれる。
「このショーウィンドウは──そうだな、お前の深層を借りて作られた、無作為にして変幻自在の筋書きのようなもの。そう言えば分かるか」
 筋書き、台本、シナリオ。そういうものだ。
 彼は似たような言葉を口の中で転がし、続ける。
「そしてこの服は、筋書きにおける窓であり役柄でもある。お前はこの服を通じてこの世界より離れ、ある別の世界の役柄になることができる。俺達のような生物だからこそ可能な旅行だ。悪くないだろう?」
 ふむ、と大包平は唸る。
「なるほど。そんな旅行の方法があるとは」
「何も珍しくはない。お前だって、前に体験したことがあるじゃないか」
「前?」
 くっきりとした眉頭に力が籠る。
「そんなことがあったか」
「しかし、お前はつくづく予想を裏切る奴だ」
 鶯丸は投げかけられた疑問には答えず、含み笑いを漏らした。
「一人旅をする気満々の口ぶりだったくせに、俺の存在に気付くのが随分早かった。それだけでなく、俺をお前の筋書きに組み込んでくるとはな」
「おかしいのか」
「おかしいと言うか、何と言うか。このショーケースにある服は、お前の体格に合うようなものばかりだろう」
 そこで大包平は、初めて硝子ケースの全体を見る。様々な服を纏う人型模型の群れは、どれも大包平に似た背格好をしていた。
「つまりあれはお前のための世界で、俺が人の形を持って共にいるはずではなかったんだ」
 端麗な顔がにやにや笑いを浮かべる。
「なのにお前ときたら、自分が何者であるかも忘れて世界に没入しているくせに、いざあの世界へ潜ってみれば、俺が共にいるのを前提として振る舞った。そのせいで、俺まであちらに出張ることになった。俺のことを置いて旅に出たくせになあ。それがもう、可笑しくて」
 鶯丸は声を上げて笑う。大包平は苦々しい表情になる。
「先程共に行くと言ったのは、他ならぬお前だろう。それを何だ。俺が無意識にその約束を覚えていたことを、まるで異常か何かのように」
「いーや、異常じゃない。貶しているわけでもない。面白かったよ」
「その面白かったと言うのが──」
 大包平は言葉の続きをぐっと飲み込む。そうして、代わりと言わんばかりに大きな息を吐いた。
「分かった分かった。精々面白がっておけ」
「そうか? じゃあ遠慮なく」
「おい」
 鶯丸は大包平の隣へ並ぶ。そしてその手で広い背中を叩き、翠眼を狭めた。
「その、なんだ。面白いというのは、そうだな……予想を裏切られて悪い気はしない、ということだ。まあ、あまり意味はないから気にするな」
「何?」
「さて、次はどこへ行く」
 しれっと受け流し、鶯丸は大包平をショーウィンドウの方へ押しやる。
「どこか行きたい所はないのか。お前の希望に添う場所へ行こう」
「ああ、そうだな。まずこれは俺の始めた旅なのだから──」
 言葉が急に途切れた。唇を引き結んだ端正な顔立ちが、みるみる曇っていく。
「どうした」
「いや。変な話だが、俺はどこを目指していたのだったか、と」
 思い出せない。そう、どこか愕然とした風に零すのを、鶯丸は宥める。
「そういうこともあるさ」
「あるものか」
「ある。旅というのは、行き先やそこで何をしたかということが全てじゃない。その行程や過程こそ旅の本懐という見方もある。だから、さてどこへ行ったものかと考える旅だって悪くはない」
「だが──」
「本当に行く必要があればそのうち思い出すさ。ここで行く先を見失ってただ立ち尽くしているより、店を利用してあちこちへ出向いてみた方が糸口を見つけられるかもしれない。まだ服の汚れも落ちないことだし、どうだ」
 多少納得したのか、もしくは今後の具体的な計画を得て安堵したのか。大包平の表情がやや和らいだ。
「それもそうだな。お前の言う通りにしてみよう」
「難しいことなど考えなくていい。直感で惹きつけられるものを選んでみろ」
 大包平は首肯し、硝子の世界に向き直る。ケースにはかなりの奥行きがあり、展示される衣類は全てを目視しきれないほどに膨大である。大包平は目を凝らし、衣の群れに集中する。
 やがて彼は一つの衣服に目を止める。それは、ジャージだった。濃い赤と黒の二色で仕立てられた、色鮮やかな一品である。
「何故だろう。ひどく懐かしい」
 低い呟きを漏らす横顔を、鶯丸は凝視する。







◆第二幕 特徴的なジャージ



 とある大海に、小さな無人島が浮かんでいた。島には十戸ほどの世帯と僅かな商業施設からなる社会があるが、無人島であることに変わりはない。何故なら、住民の中に人間が一人もいないからだ。ここにいる者は皆、異類異形の類なのである。
 その中で、好んで人間の容姿を倣う者がいた。大包平と鶯丸である。彼らの本性である付喪神は、道具としての性質と生活の都合上、人型で生活する習性を持つ。そのため島民の中で最も人間の形態を取ることに慣れており、またそうすることに何の苦も感じていなかった。
 二振は、島の北東にある高台の屋敷で共に暮らしている。島は自然豊かで平地も多く、それぞれ別に居を構えても問題ないだけのゆとりがあるのだが、二振はそうしなかった。何故なら人型で暮らすのが合理的なのと同様に、二振で暮らした方が快適だからである。
 島の経済は貨幣と自然物が半々で回している。加えて外部からの安定した食料の供給がないため、狩猟採集農耕といった労働が欠かせない。二振で協力した方が暮らしやすいのだ。
「皆さぁん、おはようございます!」
 島の中央にある集会所、その建物に埋め込まれたスピーカーより明るい声が迸る。設置されてこの方吹き曝しのせいだろうか。毛羽立った高音が耳に刺さって仕方ない。
「ただいまのホーライ島の時刻は──年──月──日──曜日の午前──時──分です。そして今日は、住民のストクさんの命日でもあります。輪廻解脱、おめでとうございまぁす! ……それでは、本日も安らかな一日になりますように」
 明るい声は一息に空を駆ける。そのため、放送は島の外れで海と向き合う鶯丸にもよく聞こえた。
 鶯丸は、桟橋にて釣り糸を垂れているところだった。明けの海は静かで波がない。そもそも島の近海は一年を通して非常に穏やかなのだが、この日はそれに輪をかけて平和だった。
 鶯丸は淡々と魚を獲り続ける。海の穏やかさのせいか、この辺りの魚は妙に素直で大人しい。鼻先にルアーを落としてやるだけで呆気なく食らいつき、さしたる抵抗もなく釣られるのを許す。まるで畑で抜かれるのを待っている大根のようである。
 鶯丸が再び浮きを投げたちょうどその時、やや離れた海面がざばりと波打った。現れたのは一振の男。大包平である。腕だけを赤く染め抜いた黒のマリンスーツを身につけ、手には貝やら蟹やらの詰まった網を下げていた。
「首尾はどうだ」
「上々だ。一度採れたものを売ってくる」
 そう言って、大包平はさして離れていない商店へ向かった。ほどなく戻ってきた姿を見れば、マリンスーツではなく鶯丸と揃いの赤と黒のジャージを纏っている。もう上がるつもりなのだろう。
 大包平は桟橋へ歩み寄り、訊ねる。
「釣れるか」
「見ての通りだ」
 桟橋から浜辺の先まで、大小様々な桶が並んでいる。その中で泳ぐ様々な姿を確かめて、大包平が言う。
「ざっと四〇〇朱か。悪くはないが、素潜りなら同じ時間であと二〇〇朱稼げる。お前もどうだ」
「嫌だね」
 鶯丸は一蹴した。
「労働に報酬が釣り合わない」
「やることは大して変わらんぞ。釣り餌作りのために浜を歩き回る手間もない」
「島周辺の海域をぐるぐる回り続けることのどこが手間でないと言うんだ。それに、海の幸を見て甲州金を勘定する癖をつける気もない」
「仕方ないだろう。俺達が今どんな状況にあると──」
 突如大包平が口を噤み、振り返った。鶯丸もまたそちらを窺う。
 商店より現れたムジナがこちらへ歩いてくる。あれこそは始めに島の暮らしを手配し、現在島のインフラから経済まで全てを牛耳っている妖──貉之介ばくのすけである。
「おはようございます」
 ムジナは愛想よく挨拶する。
「今日もいい天気だもな」
「ああ、そうだな」
 鶯丸が返事をする。
「釣れるだもな?」
「そこそこだ」
「いい天気だからだもね」
 貉之介が頷くのに合わせ、ふくよかな腹が揺れた。丸い顔が大包平へと向けられる。
「大包平さん。今日もたくさんの仕入れ、ありがとうございますだもな」
「ああ」
「住宅ローンもコツコツ返済してくださって、助かるだもな。でも、そもそも無人島移住サービスは、島の暮らしをのんびり楽しむためのもの。それを忘れないで欲しいだもな」
 うちのローンは無利子だから、安心して欲しいだもな。
 貉之介はへらりと笑い、踵を返す。丸みを帯びた背中が町役場の方へ消えるのを見届けた後、大包平が鼻を鳴らした。
「一〇〇〇〇〇〇〇〇朱も請求しておいて、よく言うものだ」
「ははは」
「笑っている場合ではないぞ、鶯丸。このままではここに永住する羽目になりかねない」
 鶯丸は、細めた目を相方へと注ぐ。
「何か不都合でも?」
「ああ。ここも決して悪い場所ではない。だが俺には、他に行かねばならぬ場所があるのだ。ここにずっといるわけにはいかない」
「行かねばならぬ場所とはどこだ」
「分からない。しかし──」
 大包平は腕を上げ、指を差す。骨太の手指が示す先には、大海原が広がっている。遠洋ほど青が濃く、吸い込まれそうな色合いをしていた。
「あの向こうであるのは確かだ。だから俺は、島の周囲に張り巡らされた網の向こうへ泳いでみたいと思う」
「正気か?」
「ああ」
「あの網の向こうには、脱走者の頭を貝のようにかち割るのを得意とする番人がいるぞ」
「素潜りで奴の好物を蓄えておけばいい。泳ぎながらそれを投げつけてやるさ」
 大包平は桟橋の上、同居刃の隣へ座り込む。胡座を掻き、鶯丸の垂らしている餌も針も付けていない釣り糸を見下ろして呟く。
「何かがおかしい。俺が対価も払わずに無人島の別荘へ来るわけがないし、外で作った己の口座に接続できないのも妙だ」
「はあ」
「何故ローンの返済方法がこの島での経済活動に限定されている。第一次産業に執着する必要性がどこにある?」
「一体どうしたんだ、大包平」
 鶯丸の細い眉が寄る。
「昨日までずっと、俺と一つの床でどろどろに溶け合い続ける生活を送っていたのに」
「誰がいつそんな生活をした。昨日はひたすら農園で収穫と調理をしていただろう。その前の日は化石掘りだった」
「今日の大包平は様子がおかしいな。茶でも飲んだらどうだ」
「いや、おかしいのはお前で……あー、戴くか」
 大包平が頭を掻く横で、鶯丸は持参した水筒を開けてカップに茶を注ぐ。俯いていた若草色の睫毛が持ち上がり、カップを受け取ろうとした大包平と視線がかち合う。翠を帯びた虹彩は、朝陽を受けて燃え上がるような黄金に輝いていた。
「お前は何を焦っているんだ。ここでのんびり過ごせばいいじゃないか。それともまさか、俺との生活に不満があると?」
 見る者の心をざわつかせるような眼や台詞に反して、口ぶりは落ち着いている。大包平は受け取ったカップもそのままに、咳払いをする。
「そういうわけではない。しかし、行かねばならないんだ」
「何故」
「行くのが自然だという気がする。たとえ、お前を置いてでもな」
「そうか」
 大包平がカップを唇へ当て、啜る。
 直後、目を見開いた。
「っ、ぐ」
 痙攣する喉。強張る手。気道を押さえる指先から零れ落ちたカップを、傍より伸びた白く長い指が受け止める。鶯丸は手ずから注いでやったそれを己の口へ流し込むと、苦悶に身を折る深紅の髪を掴んで上向かせ、唇へ喰らいついた。
 二振はしばし、無言で取っ組み合った。互いの身体へ両腕をかけ、引き剥がそう引き剥がされまいと格闘する。その姿はまるで、熱い抱擁を交わしているかのようだった。
 やがて大包平の喉仏が動き、液体を嚥下する。逞しい身体から力が抜け、崩れ落ちる。その間、双眸はずっと鶯丸を写していた。白熱の眼差しに宿るのは驚愕か混乱か、はたまた憤怒か──確かめることの叶わぬまま、男の眼は輝きを失った。
 美しい一対の白銀が次第に温度を無くし、鉛と化していく様を、鶯丸は観察していた。表情はなかった。見事な肉体が完全な彫像となったことを確かめた後、傍らへ跪く。手を差し伸べて触れた頬は滑らかで、石膏のようだった。
「お前は」
 発せられた声は眼前の死体と同じか、それ以上に力がない。
「もう、危なっかしくて歯がゆい刀ではない。立てるべき主でもない。だから──」







◇第三幕 仮面と二重廻し



 一定の間隔で短い地響きが鳴っている。震源は現在足をつけている床よりずっと下、地下二階にあるホールだろう。そこでは日夜問わず、設置された馬鹿でかい音響に見合った音量の電子音楽が流れている。
 二振の向き合う部屋は、そのホールの天井付近へ申し訳程度に据え付けてあるギャラリーの延長にあった。煤と配管と無骨な機械だらけの、狭小な一室である。壁床は共に打ちっぱなし、照明は煤けた蛍光灯一本のみ。地下であるから、当然これだけでは世界の彩りを発現するには至らない。空間にあるものはなべて色褪せ、憂鬱なモノトーンのベールを被っている。
 部屋の中央に、銃の乗った回転盤やレールを組み込んだ機械仕掛けの円卓があった。鶯丸と大包平は、それを挟んで座っている。彼らの掛ける椅子は風変わりな形をしており、座った者の脚を一体化させる岩盤じみた機械によってできていた。
「ここに一丁の散弾銃がある」
 鶯丸が言う。漆黒の外套を羽織り、顔を不気味な鳥の仮面で覆っている。陰鬱な装いだが、声は変わらず涼やかである。
「今から俺とお前でこいつを回し打ちする。互いの魂魄は四つ。相手を撃ち、先に魂魄を削りきった方が勝ちだ」
 更に続けて決まりを語る。
 装填するのは弾丸の入った実包と弾丸の無い空包の二種。それらを機械で変則的に詰める。
 詰める薬莢の内容は、装填前に提示される。しかし、参加者は弾を詰めるところを見てはならない。
 先攻後攻は賽で決めるものとし、引き金を引いたら交代する。ただし、己へ銃口を向けて空包を放ち、見事無傷だった場合のみ、続けて次の弾を放つ権利を得る。
 参加者は、随時一回使い切りの道具を入手できる。道具は弾の装填順を推理するために使う。決まりから外れる使い方は許されない。
 銃に装填した薬莢がなくなり次第、また新しい薬莢を装填すると共に参加者へ道具を配り、遊戯を続行するものとする。この遊びは、どちらかの残魂数が零になるまで続く。
「要するに、露国式ルーレットに似た賭け事だ。最初に見た弾薬の情報をもとに、配られた道具を使って戦略を立て、互いの命を削り合う。そういう遊びらしい」
「報酬は」
 大包平が問う。彼もまた、影の如き外套と仮面の装いに身を包んでいる。面の意匠は鶯丸のものとは異なり、歯を剥き出して笑う髑髏の形をしていた。
 鶯丸は肩をすくめる。
「金だったかな」
「くだらんな。だが、うってつけか」
 卓の横に据え付けてあるモニターにて、蛍光緑に瞬く電子文字が踊る。
 ──第縺輔s回戦。
 卓上のレールが滑り、横並びに整列した弾薬が現れる。
 実包二発。空包一発。
 薬莢の中身を確かめるなり、乗った物ごと円盤がひっくり返った。足下より、かしゃかしゃと機械の動く音がする。薬莢を薬室へ詰めているのだろう。
 その間に二振は、眼前にある行李より小道具を取り出す。この道具は、と鶯丸が言う。
「自分の番の時のみ好きに使える。必ず、撃つ前に使えよ。引き金を引いたら問答無用で交代だからな。待ったは無しだ」
「分かっている」
 鶯丸に配られたのは使い捨て携帯電話と期限切れの薬。大包平は缶ビールと手錠だった。
 道具をそれぞれの卓へ並べ終える。空の行李の乗った台がひっくり返り、入れ替わりで円卓中央へ散弾銃が戻ってきた。
 賽を振る。先攻になった鶯丸が銃を持つ。
「まずは三分の二の確率に賭けてみるか」
 大包平へ銃口を向け、発砲する。弾が脳天を貫くと共に、分厚い身体が椅子ごと卓の向こうへ消えた。間近、しかも正面から散弾銃を喰らったのだ。当然だろう。
 卓横のモニターが、大包平の魂魄の数を一つ減らす。それからさして間を置かず、倒れていた椅子が刀ごと起き上がる。怪我や流血は見当たらない。代わりに、仮面の額へ銃痕が一つ刻まれていた。
 大包平はくつくつと肩を揺らす。
「なかなかの衝力だ。これを戦で使えないのが惜しいな」
「全くだ」
 鶯丸は同意し、卓上へ銃を戻す。回転盤が働き、銃の持ち手が大包平の方へ来る。
 大包平は手元のビールを一息に煽ると、持ち手をスライドさせ薬莢を一つ排出した。出てきたのは空包。つまり、残る一つは弾丸入りだ。
 砲身を鶯丸へ向けて放つ。銃声、的中。倒れれば、モニターに表示されている彼の残魂数が一つ減った。
 鶯丸が上体を起こす。大包平同様、仮面の眉間辺りに穴が空いている。
「案外思い切りがいいじゃないか」
 機嫌良く言う。
「この遊びは初めてだろう」
「ああ。だが、不思議と決まりや仕様が分かる。気味が悪い」
「俺達にうってつけの遊びだからな」
 散弾銃が空になった。卓のレールを伝って、新たに詰められる薬莢が顔を見せる。実包空包共に四発ずつ。すぐに机の下へ消える。
 装填の間に新たな行李を開け、配られた道具を取り出す。鶯丸は、ナイフ、ビール缶、弾薬変換器、霊体活性剤入りの注射器を。大包平は、ナイフ二本、煙草、虫眼鏡をデッキへ並べる。
 各々物の整理を済ませた頃、卓上へ銃が戻る。遊びを再開する前に、大包平が口を開いた。
「鶯丸。俺達は今、どうなっているんだ」
「何が言いたい」
「とぼけるな。何だこの旅は。行く先々で別世界の気分こそ味わえているが、ろくに生活しないうちに意識を失っている。しかも、意識喪失の原因はいつもお前だ。先程は毒まで盛られた。どういうわけだ」
「ふぅん。今回は随分記憶があるんだな」
 声は、まだ笑みの気配を湛えている。
 大包平は問い掛けた。
「やはり、お前はこの状況を理解しているのだな」
「いや。そうでもない」
 装填の済んだ散弾銃が鶯丸へ回される。
 鶯丸はデッキへ手を伸ばし、行李より得た注射器を己の腕に刺した。たちまち座面が融解し、束の間脚が自由になる。立ち上がり、大包平の手持ちより煙草を奪うと、また椅子へ腰を下ろした。
「なあ、大包平」
 奪ったばかりの品にライターで火をつけ、微笑む。形の良い唇が烟草を食み、雲に似た煙を吐き出す。場が独特の匂いで白く烟るも、男の天性の美貌のせいか、一室には薫物を焚きしめる貴人の寝所の如き趣が醸し出されていた。
「お前はこいつに何が入っていると思う?」
「葉煙草や香料ではないのか」
「ココアパウダーや茶でもいいと思わないか。俺達にとってはどれも線香の仲間だ」
「茶はともかく、お前の魂魄はココアでも回復できるのか」
 モニターに映る鶯丸の残魂数が一つ回復していた。香りを糧とする幽玄な魂の特性である。
「煙草は煙草のままにしておくべきなのかもしれない。だが俺は可能性を試してみたいんだ」
「何の話をしているんだ」
「ああ、そうだった」
 鶯丸は片方の掌を上げ、制止の身振りをしてみせる。
「ちょっと静かにしていろ。忘れないうちに、この先の弾の具合についてこいつのお告げを聞いておく必要がある」
「お前から話を振ったくせに」
 ぼやきを受け流し、鶯丸は二つ折りの電話を耳へ押し当てた。電話は短いコール音の後、所有者だけに聞こえる声で囁いた。
 ──五発目、空包。
 それだけ告げて、電話は繋ぎ目からばきりと折れた。鶯丸は残った部品を放り、肩をすくめる。
「先の話すぎて参考にならんかった。大人しく二分の一の確率に賭けるか」
 銃を大包平へ向け、引き金を引く。放たれたのは、カチリという微かな音のみ。つまり、空包である。
「二分の一の確率を信じて己へ撃てば、もう一発機会を得られたのに」
 大包平が茶化せば、鶯丸は笑った。
「一丁前に心理戦か? 命は大事にするものだ。お前が何と言おうと、俺は俺の納得のいく使い方をする」
 散弾銃が大包平へ渡る。刀は砲身を持ち、虫眼鏡を用いて次に出てくる薬莢を見る。なるほどなと独り言ち、円卓の角でレンズを叩き割る。そして掌中で砲身を器用に回すと、銃口を己の顎へ当ててトリガーを引いた。
 何も起こらない。空包だ。
「これで残り実包四発、空包二発」
 鋼の双眸を愉しげに眇める。
「次も俺の番。それでいいな」
「ああ」
 鶯丸が頷くと、大包平は手錠を放ってよこした。片手で掴み取り、錆びついた鉄の輪っかをしげしげと眺める。
「拘束される者自身に手錠をさせるとは。大包平は悪趣味だな」
「そういう決まりだ」
「どうだか。まあ、仕方ないから二発くらいは付き合ってやるか」
「それも決まりだな」
 鶯丸は己の両手首へ錠を掛けた。手錠を渡された者は、相手が二度発砲するまで身動きを禁じられる。そういう決まりの遊びなのである。
 大包平は銃を卓へ置きナイフを手にすると、砲身へ突き立てた。鋸の如き凶悪な刃渡りを持つそれが、砲身を分断する。威力を倍にすべく魔改造されていく散弾銃を観察し、鶯丸が口を開く。
「お前の考えていることを当ててやる。その改造銃を二度ぶっ放して、俺の魂魄を削りきるつもりだろう」
 男は何も言わない。しかし、その口元に浮かぶ笑みが深まっていた。
「大包平。お前、これまでの旅の中で今が一番活き活きしていないか」
「そうかもしれない」
「命を賭けているんだぞ。少しは恐れろ」
「空想の旅だろう? 何を恐れることがある」
 大包平は詰まった砲身を撫でつつ、断言する。
「それに、死は刃生を一際輝かせるもの。重んじこそすれ、恐れるところなどない」
「相変わらずだな」
 鶯丸は苦笑する。
「この方面に関するお前の感性の乾きぶりには、毎度感心させられるよ」
「戯言を」
 大包平は顔を上げて鶯色を映し、口角を吊り上げた。
「お前だって似たようなものではないか」
「俺にはお前のようなこだわりなどない」
「死を恐れていないだろう」
「そっちか。それは思わぬ長生きのおかげだ。俺は俺のこれまでに満足している。お前の強欲とは違う」
「俺とて満足している。その上で野望を抱くことの何が悪い」
「何も悪くないさ。欲そのものは、罪でも何でもない」
「そうだろう」
 大包平は鶯丸へ銃口を突き付ける。
「武刃の生き様は散り様にこそ現れる。俺は美しい刃生を目指しているだけだ」
 砲身が火を吹き、肢体が椅子ごと投げ出された。メーターの魂魄が一気に二つ減る。残り、あと二つ。
 大包平は再び刃物を用いて砲身を短くし、発砲した。しかし、微音と硝煙しか出ない。つまらなげな顔で銃を回転盤へ戻す男に、鶯丸は笑みを零した。
「三分の一を引き当てたか。大したものだな」
「お前の番だぞ」
 銃が回ってくる。鶯丸は手錠を大包平に渡し、変換器を起動する。大包平は己に錠を掛けてから問う。
「それは空包を実包に、実包を空包に置き変える機械だろう。残りは実弾の方が多いのに何故それを使う」
「先程受けたお告げによるとな」
 鶯丸は片手に銃を持ちながら、もう一方の手でデッキより持ち出したナイフを指揮棒のように振る。
「五発目は空包だそうだ。更に俺はこいつを持っている」
「なるほどな」
 変換器を用いたことにより、残る弾丸は実包四発になった。加えて、大包平は掛けられた手錠のために動けない。
 大包平は上体を椅子の背もたれへ預けた。己のこの先を分かってもなお平然とくつろぐ刀を前に、鶯丸は改造銃を手にして言う。
「ツイているな、大包平」
「それはお前の方だろう」
 翠眼より笑みが消えた。
 大包平は瞬きをする。再び瞼を上げた時には、いつもの読めぬ笑みがそこにあった。
「ああ、そうか。そうだな」
 銃声が二度轟き、止んだ。







◆第四幕 タキシード



 黒い天鵞絨の如き海からほつれ出た潮風に、仄かな硝煙が混ざっていた。嗅ぎ慣れない煙草にキツい香水。そういった匂いは、人の温もりがあってこそ立ちのぼる。もっとも、嗅覚に頼らずとも神眼を使えば息を殺す人間の位置などすぐ分かるのだが、そこまでする必要のある戦ではない。仮初の肉体に備わる五感で十分である。太刀は夜目が利かないとよく言われるものの、それは小柄な刀種と比較しての話で、対人戦なら苦もなく制圧できるだけの性能があった。
 コンテナのずらりと並ぶ埠頭。岩壁よろしく聳え立つ貨物らの狭間を、ガラの悪い黒スーツ達が忍び足で進む。夜に溶け込んでこちらを討つ気なのだろう。その健気な努力と情熱に応えてやるとしよう。大包平はそう考えた。
 足場とする錆びたコンテナの上に立ち、纏う濃灰のタキシードの上衣中衣を脱ぎ捨てる。スラックスに薔薇色のシャツ、深みのある光沢を放つ同系色のネクタイというラフな姿になった彼は、数歩の助走の後、路地の上空へ飛び出した。着地するのは、スーツの群れの中央。降り立つなり、近場にいた一人を殴り倒す。他の者達が異常に気付き銃口を向ける。撃たれるより早く、殴り倒した者の両足首を掴んでぶん回す。人間の身体を武器として人間を薙ぎ倒し、終いにまだ立っている者らへ向けて投げつけた。第一陣が片付いた。
 続いて第二陣が押し寄せる。先頭の数人の放つ銃弾が、刀のいた後を虚しく通過していく。目にも止まらぬ俊敏さで接近した大包平は、いる人間を手当たり次第に殴りつける。どの相手であろうと何の得物を携えていようと、真っ向から真っ直ぐに拳を叩き込む。捻りも何もない攻めの手である。しかしその一撃でコンクリートの大地に沈んだ者は、誰一人として起き上がってこなかった。
 わんさかと湧いて出る人間を次々のしていく。間断ない人の増加は、灰色の地面が肌色とスーツの黒で埋まる頃になってやっと収まった。
 大包平は己の生み出した人間の海を見渡す。そこに波一つないことを確かめると、傍にあるコンテナに据え付けられた梯子を登る。辿り着いた先には、男がいた。黒のフォーマルに白のスタンドカラー、手結びのタイを締める姿は清潔かつ高貴。まるで年季の入ったコンテナの上に似つかわしくない風貌である。しかしそれが余裕のある笑みで死屍累々の海を見下ろすと、彼の奇妙なアンバランスさが馴染む気がするのだから不思議である。
「遅いぞ鶯丸。結局俺一振で済ませてしまった」
「何だ、偉そうだな」
 鶯丸は鼻先で笑う。
「何故今あいつらの味方が来ないと思う? この埠頭付近で目撃された歴防連合の元構成員が、何故かこことは正反対の山中へ逃れようとしているらしいという一報が、奴ら時遡会本部に入ったせいだ。おかしな話だよなあ。いくらその元構成員の頭が真っ赤で目立つとしても、こんな深夜に山をうろつく奴がいるものかな。一体密告チンコロした奴は何者なんだろうな?」
「分かった分かった。お前のおかげで助かった。礼を言う」
 大包平が言うと、人々を見下ろしていた白皙が彼の方を向く。闇に身を置いているためか、翠を帯びた金の瞳孔が重々しい老竹色に染まっている。それでも月光を豊かに湛える双眸は瑞々しく、軽やかな喜悦を宿していた。
「本体を使わずともここまでやれるとは。銃でも何でも使ってしまえば良かったろうに」
「この程度なら必要ない。それに、俺は人間相手に誓って殺しはしない」
「死んでいそうな体勢で伸びているが」
 鶯丸の言う通り、人間達は手足を投げ出して動かない。まるで廃棄されたマネキンである。
 大包平は平然と答える。
「まだ死んではいない。処置が遅れれば絶命するかもしれないが、まあ、戦というのはそういうものだろう」
「それもそうだな」
 鶯丸は大したことのなさそうな口ぶりで首肯する。ところで、と大包平は新たな話題を切り出した。
「これはまた『旅先』なのだな」
「お。覚えていたか」
「何だこの状況は。たかが旅行にしては敵の量が多すぎだ。しかも皆骨がない」
「いいじゃないか。賑やかしくて爽快感があって、眺めている俺は楽しかったぞ。宴もたけなわという感じだった」
「これのどこが宴だ」
 相変わらずこの刀の言うことは適当だ。大包平は己のシャツを引っ張る。
「大体、俺達のこの衣装で行くなら舞踏会だろう」
「合ってるだろ。れっきとした武闘会だ」
「お前の価値観に合うおおらかな世界観のようだな。一応聞いておくが、この世界はどんな成り立ちをしているんだ」
「この世界線の審神者達は第一次時空大侵攻で時の政府と対立して以来、俺達で言うところの遡行軍や検非違使と似たような勢力と見做されている。しかし当然そいつらと仲間であるわけもなく、常に他の勢力と睨み合い戦い続けねばならないという、ちょっとした火種が大火に繋がりかねんオセアニアの大気並みの乾いた現実を生きていてな。今は、たった一坪の土地をめぐって血で血を洗う抗争をしているところだ」
「聞き覚えのある話だ」
「世間は審神者にサの付く職業というあだ名をつけて親しんでいる」
「無頼の輩ではないか。本来の俺達とは真逆だな」
「ついでに言うと、お前はカタギ殺しの冤罪をかけられて組に追われている身だ。俺はもともとお前と同じ組で盃を交わした兄弟分だが、故あって組を抜け、今は不動産会社を経営している」
「それは分かる。何故か俺の頭に入っている」
 大包平は己の米神を指差した。
「この世界観を共有しているのは俺達だけか」
「ああ。これはお前と俺だけの世界だ」
「ならば、俺はこれからどうやって死ぬ?」
「まだ死ぬとは限らないだろう」
「そうか。お前にはそういう選択肢もあるのだな」
 潮風が吹き付ける。凝視する視線に誘われ、鶯丸は身体の向きを変えて兄弟分と対峙する。
 荘厳な顔立ちが、真摯に問う。
「何故毎度俺を殺す。俺の死がこの旅の鍵なのか?」
「大した自信だな」
 妖艶な顔容が、挑発めいた笑みを浮かべる。
「俺がお前を害そうとしているだけという可能性もあろうに」
「鶯丸という刀が役目以外で他刃を害するとは考えにくい。俺相手なら私情で利のない行動をすることも考えられなくないはないが、だとしてもこのような愉快な世界を持ってくる理由がない」
「そうか。これは愉快か」
 鶯丸はおかしそうに相好を崩す。やはり敵意は感じられない。大包平はそう見当をつける。
「何故だ、鶯丸」
「何の話だ」
「ここは異界じゃない。お前の作った神域だろう」
「どうしてそう思う?」
「歴史防衛などという繊細な題目で戦う兵を、上がそう簡単に他所の世界へ触れさせるものか。それに、初めの旅で俺がお前を見つけた時、お前はこう言った」
 ──それはお前の幻だ。ここにはお前しかいない。
「加えて、こうも言っていたな。信じられない、まさか俺の姿が見えるとは思ってもみなかった、と。あれはいつものお前の適当な発言ではなく、驚きのあまり漏れてしまった本音だったんじゃないか。お前は世界を構築する一部として溶け込んでいるつもりだったから、俺に認識されるはずがないと考えていた。違うか」
「案外俺の言ったことを覚えているんだな」
 鶯丸は感心したように言う。答えになっていないが、大包平は続ける。
「この装束と呉服屋を作り出したのは、お前だな」
「…………」
「まだよく思い出せていないのだが、次第に分かってきたことがある。恐らく俺は今、戦か何かを原因として魂魄が切れ切れの状態になってしまっているのではないか。それをお前は、お前自身の神威を糊や糸のように使って縫合し、再構築を試みている。そのような真似は、俺の霊域──魂の領域にお前の神域を繋いでいないとできない。あの呉服屋は俺の霊域にお前の簡易神域を展開するための特異点、時空転移装置の働きをするものだ。俺とお前は作風が似ている。だから、普通なら外に触れれば崩壊しかねない消耗状態の魂でも状態を維持でき、その強度を補うようなことができて、今の己を分析できるまでになった俺がいるのだろう。いちいち妙な世界観を共有しているのは、そのおまけだ」
「妙とは失礼な。面白いだろう?」
「俺にあれこれと説明をしないのは、俺の魂魄が俺自身の力で回復し、現世に戻っても元の状態を維持できるようにするため、といったところか」
 鶯丸は表情を動かさない。一瞥する限りは優しげな、それでいて見れば見るほど底の知れない微笑みを浮かべたまま、大包平を見据えている。
「合っているか」
「どうだろうなあ。俺は、お前の作り出した夢幻かもしれないぞ」
「嘘だな」
「何故そう言い切れる?」
「そのややこしくて読解に手間のかかる語りの内容は、鶯丸本刃でないと生み出せない」
 鶯丸は瞠目した後、声を上げて笑った。万年澄まし顔の宝刀には珍しい大笑ぶりである。身を折ってひいひいと喘ぐ眦には、うっすらと涙さえ浮かんでいた。
「お前は本当に……本ッ当に、無礼な奴だな! 俺相手にそこまで言う奴はそうそう居ないぞ」
「俺とお前の間に無礼もへったくれもあったものか。それに、知っているか? これまでの互いへの無礼の統計を取ったなら、勝つのは確実にお前だ」
「そうか。そいつは悪いことをした」
 鶯丸は目尻を拭い、笑いに身を震わせながら言う。
「俺には好きな子ほど虐めてしまう癖があるんだ。許せ」
「薄々察してはいたが、いい歳して若人のような言い訳をするな」
 大包平は呆れたように言う。
「しかし、お前にとっては残念な事実かもしれないが、実のところ俺はお前に虐められたと感じたことがない」
「ほう。なら喜んでいたのか? 被虐性癖か」
「喜んでいたという解釈なら、ある意味合っているかもしれない。中身が何であれ、お前ほど俺のことを見つめ、語り、考え続ける奴などこの世のどこにもいないだろう?」
「そうだろうな」
「そんな奴が俺を馬鹿だの何だのと言っても、小鳥が愛の歌を囀っているようにしか聞こえなかった。ここまで惚れ込まれているなら責任を取ってやらねば、と思っていたくらいだ」
「あっははは! お前は凄いな。何処に出しても満場一致の恥ずかしい奴だ。ははは」
 鶯丸の笑いが大きくなる。その拍子に息を吸いかね、咳き込んだ。俯いた口元を手が覆う瞬間、大包平の顔色が変わる。
 薄い唇の端より、赤い筋が零れている。
「鶯丸?」
「ああ面白い。本、当にお前は、っ」
「喋るな馬鹿者」
 続けざまに咳をする男に身を寄せて支え、そっとしゃがませる。間近に見る刀は、確かに血を吐いていた。口を覆った掌に、新たに咳き込んだ唇の端に、粘度のある赤が滲んでいる。
「怪我をしているのか」
 外傷は見当たらない。ならば内側かと思い至り、白いタイを外してシャツの前へ手を掛けてはだけさせる。にやにやとした鶯丸が、大包平は助平だとかケダモノだとか揶揄いかけてくるが、返事をする余裕などなかった。
 現れた白い肌をくまなく検分する。胸や腹を見、一応背も確認するが、不審な内部出血は見当たらない。任侠者であるという世界観に合わせてか、両腕の肩から肘にかけて梅に鶯の彫り物がされているのを見つけたが、それが腫れたり膿んだりする様子もない。咳をする男の細やかな絹の肌にて、吉兆の鳥達は鮮やかに息付き羽ばたいていた。
「鶯丸」
「心配するな。これはあれだ、汁粉を食いすぎた……いや、俺が鯛焼きになろうとしているとかそういう理由の方がいいか? 狸ロボットから好物の鯛焼きを奪い取ってしまって、呪いを掛けられたんだ」
「ふざけるな」
 咳混じりにたわけたことを言う男に、声を荒げる。険しい顔をしているのだろう、大包平の顔へ伸びてきた鶯丸の指が眉間を揉みほぐす。佳顔は、苦しげに眉を顰めてもなお笑っていた。
「鶯丸」
「大包平」
 更に詰めようとする大包平を遮るように、鶯丸が呼ばう。これまでのどこか浮ついた調子のない、ひたりと切先を喉元へ突きつけるのに似た声だった。思わず、先を促す。
「何だ」
「楽しかった」
 大包平の息が詰まる。
 凛とした刀の気配が和らぎ、唇が描く弧の角度を深める。力の抜けかけた低い声のまま、鶯丸は緩やかに話す。
「本丸の外にいるお前の、様々な可能性を見ることができた。悪くない気分だ」
「何を──」
「お前の推測はほとんど当たっていた。ただ、一つだけ外していたことがある。ここは神域ではない。俺の霊域だ」
 どこか甘やかささえ見出せそうな、秘めやかな囁き。しかし、それを聞いた大包平の表情は途端に険しくなる。
「馬鹿な。霊域が──魂が内側まで重なり、混ざり合うはずがない」
「俺達は作風が近い。だから混ざり合うことこそなくとも、それに近いところまで持っていける。無理矢理混ぜてもらったんだ。長年の奉公への報いを持ち出して、な」
 大包平は黙り込んだ。やや間を置いてから、苦しげに吐き出す。
「……霊力を消費し続ければ霊域を維持できず、魂が瓦解する。その先にあるのは、死だ。お前ともあろう者が、そんなことも知らなかったのか」
「馬鹿だな」
 鶯丸は晴れやかに笑った。
「知っていたさ。だがお前も知っての通り、怖くなかった。そういうことだ」
 白い指先が精悍な目元をなぞり、頬へ辿り着く。親指が、頬骨から耳の付け根までをやんわりとなぞる。それを繰り返しながらも、眇めた双眸は己の手を握る大包平を映し続ける。
「死地にいるお前は美しいな、兄弟」
 馬鹿な奴だと揶揄うのと同じ調子で、溢す。
「俺は、物語りするのがあまり得意でない。それを引け目に感じたこともあったが、今は良かったように思う」
「鶯丸」
「自我は標であると同時に牢獄だ。さしてそれらしい評価がなかったからこそ、俺は今世で自由に力を振るえたところがあったのかもしれない。物語りが苦手でも構わない──逸話がなくとも十二分に美しいお前を見続けて、やっとそう思えるようになった」
「殊勝になるのはよせ」
 お前は俺を煽っているくらいがちょうど良い。
 そう語る大包平に、鶯丸は笑みの形をした吐息を漏らす。
「お前はどこにいても美しかった。近い時代に生まれたのがお前で……お前が兄弟分で良かった」
 松葉の瞳孔がぼやけ、白い瞼に隠れる。かくりと折れた頚は、気を失ってしまったようだった。まだ浅く息をする胸を見下ろし、大包平は歯を食い縛る。
「馬鹿者が。このまま死ねると思うなよ」
 地鳴りと共に足場が揺らぐ。コンテナ達が二重に分裂しては重なり、倒れた人の山がコンクリートの海に飲まれていく。
 鶯丸の耗弱のために、霊域が崩れ始めようとしている。そう察した大包平は顔を上げ、抱えた身体を強く抱き寄せる。鋼の目で揺らぐ境を見据えるうち、それまでになかった光が映り込む。それは地より湧いて天へ向かう、花吹雪の形をしていた。







◇開幕前



 戦場より重傷を負い帰還した大包平が、手入れ部屋へ行ってくると言って休息に入ったきり、目を覚まさなくなった。その時出陣した戦場はこれといって特異な時代や場所でなく、また大包平個刃としても初めての出陣ではなかった。重傷の原因は、軽傷寄りの中傷状態で行軍する中での細かな負傷の蓄積であり、重傷と言っても中傷と紙一重の内容だった。同部隊の隊員達やモニタリングしていた審神者、管狐などは、本刃敵どちらにも異常など見られなかった、寧ろ調子が良かったくらいだと証言した。
 報告を受けた政府機関は、関連する戦場や機構を調査。本丸にも監査を入れた。しかし手がかりは得られず、刀は昏睡したままだった。
 しばらくして、大包平に異常が発生した。観測される霊力が徐々に減り始めたのである。それだけでなく、刀剣本体が人体並みの熱を放ち、仮想人体が急速に冷えていくという、刀身乖離の兆候が現れた。またこの頃、このような症状に陥っている刀剣男士が、他の本丸でもごく僅かながら現れていることも知らされた。
 時の政府はこれを融刀回帰症候群と命名。対策本部を立ち上げ、治療法を確立すべく取組みを始めた。
 しかし、その間にも大包平の症状は進んでいく。刀身の温度は五百度を超え、ヒトの器は独りでにコールドスリープ状態を選んだ。審神者の霊力を落とし込むための処置すら受け付けなくなり、このまま本当の彫像になるのではないかという予感が本丸にさやかな影を落とした。
 それでも、時は平等に全ての事象を平らかにする。本丸は大包平の眠り続ける日常に慣れていった。鶯丸も同様に、新たな日常を受け入れた。命じられるまま出陣や内番などをこなし、他の刀剣と適宜交流する。そういった生活は、大包平が来る前の懐かしい時間を思い起こさせた。これが当たり前なのだと、鶯丸は己に言い聞かせた。願い出れば、私室で独り眠る大包平の彫像を見ることができるというおまけが付いただけ。あれと戦場を駆けたことも、特筆することのない会話をしたこともあった気がするが、今となっては幻のようなものだ。
(案外、あいつは彫像として転生したいと思っていたんじゃないか)
 鶯丸は何度かそのような妄想をした。何せ、顕現するなり己を美の結晶などと名乗ってみせる現実離れしたところのある奴である。あり得なくもない。
 大包平は、時折芝居がかった言動をしてみせる刀だった。手紙に高笑いの声が文字として記してあるのを見た時は、崩れ落ち畳を叩いて笑ったものだ。帰還した奴に、何だあれはと揶揄いかければ、そういうものだろうと真顔で返されたからもっと笑った。笑いすぎて己の叩いた壁に大穴が空き、ちょうどその穴から歌仙兼定の鬼の形相が現れたのを覚えている。崩した廊下の壁に面する一室は、よりによって近侍部屋だった。
 ──お前は芝居がかった奴だな。
 罰を言い渡された後。大包平にそう言うと、お前が言うかと呆れたような顔を向けられた。何でも奴曰く、己は年中余所行きの声を出しているという。そういうものだろうと返してしまってから、この刀と全く同じ応えをしたことに気付いて顔を逸らした。
 奴のいない時間は、それなりに長かったはずだった。なのに、どうしても生活から据わりの悪さを拭えない。喩えるならまるで、画角のずれた活動写真の鑑賞を強制されているかのようだった。けれど、役目を重んじる鶯丸は強いて違和感を殺した。眠ることしかできない同胞の分まで務めを果たすべく、あの刀が現れる前の日々に立ち返ろうとした。
 その努力も虚しく、鶯丸の日常が崩れる瞬間は唐突に訪れた。
 庭を眺めながら三日月宗近に茶を振る舞った。一口啜った彼はとんでもなく苦いと顔を顰めた。もう駄目だと思い至り、その足で審神者と政府に繋がる管狐のもとへ出向いた。
「刀剣強化装置を使って、俺を大包平に習合してくれ」
 刀剣強化装置は、審神者の力を動力に働く練結と習合のための機械である。刀と人体とを培養槽へ入れて霊電子分解したのち融合、再構築するための装置だ。
「俺達は違う個体だ。分解されても完全には混ざり合わない。しかし造りが似ているから、再構築の働きを利用して霊域くらいは重ねられるはずだ。その間に奴に干渉して、昏睡の原因と解決方法を探す」
「なりません」
 管狐はかぶりを振った。つぶらな瞳へ鶯丸の顔を収め、説得を試みる。
「本来起こり得ない習合を試みれば、どちらも再構築できないまま崩壊する可能性があります。大包平様だけでなく、鶯丸様の御身も損なわれます。刀剣男士の第一の使命は歴史を守ること。どうかお考え直しください」
「俺は構わない。主も政府も突っぱねはしないはずさ。この本丸は十分に戦力が育ちきっている。俺達二振に万が一のことがあっても、戦線崩壊はしない。これは俺にしかできない戦だ」
「ですが鶯丸様」
「時の戦争は、刀を振るうという行為のみで成り立つものではないだろう。そうでないと、審神者の中に就任してから大して出陣しないことを許されている者がいる理由が分からない。今後、大包平と同じような経緯で昏睡する刀剣が出ないとも限らないんだ。それがごく少数ならばきっと不治の病として放置されるのだろうが、仮にこれが時空防衛軍全体に現れたらどうする。戦線を保てなくなる事態も起こり得るぞ」
 管狐は黙った。推し量ろうとするかのような眼差しに、笑ってみせる。
「なに、破滅願望から提案しているわけじゃない。この鶯丸、任された役割を決して忘れはしない。きっと大包平を現世に引き戻してみせる。うまくいかなかった時は、まあ、望みを叶えてもらえただけ俺達は幸せだったと思って欲しい。あっちでも楽しくやるから、気に病むことなく新しい俺達を育ててくれ、という話だ」
「しかし、鶯丸様には何の異常もないのですから──」
「異常なら俺にも出ている」
 鶯丸は苦笑した。
「茶の味が分からないんだ。務めの合間の生き甲斐だったのに……このままでは支障が出てしまう。本当に困ったものだ」
 なおも逡巡する管狐に言い募る。
「資源や手間を浪費させる気はない。だから、俺の試みに制限時間を設ける。それを過ぎたら、中断させるなり刀壊するなり好きにしていい」
「時間は如何程でしょう」
「三日だ。三日だけ時間をくれ」







◆◇終幕



 どうしても海の向こうへ──彼岸へ向かおうとする男を止めるには、殺すしかなかった。意識を落として認識をリセットし、もう一度新たな環境に設定した鶯丸の霊域へ招き入れ、再構築を試みるのである。
 毒が回り再び息を失った刀を見下ろし、酷い奴だと思う。病のせいとは言え一振で死に向かおうとしたくせに、鶯丸が接触すれば必ず見つけ出して共にいようとする。それでいて彼方までは連れていこうとしないのだ。鶯丸とて多少毒を煽ったのだから、死ねるはずだった。なのに、こうして意識を保っている。習合の基盤であるこの刀が鶯丸の死を望まないせいだ。背後からの奇襲による死も毒茶による死も、散り様の美学を持つ刀にとっては満足のいかないものだろうに、大人しく受け入れるものだからまるで納得がいかない。もっと抵抗して欲しかった。いっそ己を殺してくれれば良いと思っていた。
(本当にこの試みは合っているのか?)
 朦朧として己の状況を把握できていない状態とは言え、やっと意思疎通の叶った刀を殺すのは拷問に近かった。その苦しみに耐えて大包平を生かそうとしているのに、本刃が思い直してくれない。元々刀としての美学を掲げて生き、その信念を貫いて死ぬことに抵抗のない刀だった。心がないのではないかと疑うほどの潔さが、病によって己の状況を見失ったことで、悪癖として作用していた。
 霊域の改造も大包平を迎え入れるのも、かなり消耗させられる作業だ。二度も行って成果が出ないとなると、己の行いが疑わしくなってくる。
(それでも俺は、お前に生きて欲しい)
 傲慢だと思う。大包平は鶯丸ではない。修行の旅で己と向き合い、かの刀への過剰な自己投影に気付いた時から、強いて己の語りから彼を切り離すようにした。己に気を遣わず自由にやって欲しいと願ったためである。大包平は大包平の好きなように生きて欲しかった。
 だが、投影以前より他己を見失うほど彼に魅せられていたのは事実だ。病に侵されじわじわと死に向かおうとする様を、黙って見過ごすことはできない。
 鶯丸は倒れる刀を見下ろした。死んでいてもなお、勇ましく美しい──そう感じてしまい、舌打ちする。命ある者をなべて尊く思う鶯丸にとって、死にゆく者に美しさを見出すのは本来の趣味でないはずだった。
「お前は」
 動かない男を見下ろし、鶯丸は語りかける。
「もう、危なっかしくて歯がゆい刀ではない。立てるべき主でもない。だから──もう少し、俺の我儘をぶつけたって、いいだろう? まだ、冥途を辿ってくれるなよ……」





 目を開けて、己が培養液の中にいないことに気付き、困惑する。鶯丸は布団の上にいた。しかも、仰ぎ見る天井は己の部屋のものではない。
 起き上がろうとして全身が激しく軋み、呻く。それを聞きつけたようで、文机に向かって何やら書き物をしていた男が立ち上がり、大股に歩み寄ってきた。
「俺が分かるか」
「……どうして俺はお前の部屋で寝ているんだ」
「これ以上培養液に浸けておかない方がいいだろうという話になって、俺の判断で連れてきた。目を覚ました時にすぐ気付けた方がいいと考えてな」
「そうか。まあ、手入れ部屋を使うわけにもいかないしなあ」
 鶯丸はのんびりと笑おうとして、咳き込んだ。すかさず大包平が肩に腕を回してくる。不要だと払いのければ、傷ついたような顔をする。鶯丸は嘆息した。
「……まあ、そうだな。寝たままでは話がしづらいから、お前が座椅子代わりになれ」
「分かった」
 大包平はどこか安堵したような面持ちになると、鶯丸の背と腰を抱えて胡坐を掻いた膝へ抱き上げた。そこまでしろとは言っていない。しかし降りるのも怠いので、仕方なく上体を預けてやることにする。
 ややあって、大包平が呟いた。
「すまなかった」
「何がだ」
「迷惑を掛けた」
 鶯丸は重く感じられる腕を持ち上げ、男の額を小突く。
「なに、気紛れだ。小旅行気分を味わえて良かったぞ」
「そんなわけがあるか」
「お前が一向に死に抗おうとしないから、最後の方は心中の覚悟を固めていたが……あれでよく戻って来られたな」
 首を逸らし頭上にある顔を見ると、大包平はばつの悪そうな顔になった。
「情けない話だが、お前が死にそうになってやっと己のこれまでを思い出した。それですぐさま意識を取り戻し、霊力不足で溶けかけていたお前に俺の霊力を与えて元に戻した」
「ふぅん」
「お前を道連れに死ぬなどという美しくない形で逝けるわけがないだろう」
「それはそれは。何度もお前を殺した甲斐があったな」
 元気な刀との打ち合いならまだしも、生死の瀬戸際にいる男の息の根を止めるのは心臓に悪い。
 鶯丸が言うと、大包平は再びすまんと謝った。
「とにかく、このような無様は二度と晒さない。だから、もう俺の道連れに死のうとなどするな。死んでも死にきれん」
「そうか? 俺は気にしないぞ」
「おい」
 鶯丸が揶揄いかけると、鋼の双眸が睨みつけてくる。しかし、鶯丸がその激しい瞳をうっそりと見つめていることに気付くと、困惑の色を浮かべ始めた。
 本心を言えば、目を覚まさない大包平など二度と見たくない。だが。
「俺は昔から、お前の卓袱台返しが嫌いじゃないんだ」
「はあ?」
 大包平は首を捻る。心底分からないと言いたげな様を笑い、己に回された腕を軽く叩く。
「この件の片付けはどうなってる」
「すでに俺の方で報告書を提出した。後はお前の目覚めを知らせるだけだ」
「大包平が書類を出したのか? 目覚めたばかりなのに?」
「お前が俺に習合されようとしてから既に六日、俺が意識を取り戻して三日が経っている。そのくらいの仕事ならできる」
「そうだったか」
 鶯丸は頷いた。さっぱり時の経過を飲み込めなかった。
 障子の外は明るく、和紙を透かして柔らかな光が射し込んでいる。大包平の腕は、いつの間にか己の腕に重なっていた。穏やかに撫でる指先が心地よく、鶯丸は目を瞑る。
「なあ、大包平」
「うん?」
「一仕事終えたから茶でも飲みたいところなんだが、身体が痛くて敵わん」
「茶なら俺が淹れてやる。お前はそれを飲んで、俺がお前の目覚めを報告してくるまで安静にしていろ」
「ああ。だが、リハビリも兼ねて茶を淹れたいんだ。身体の軋みが酷くて動きづらいから、後でさすってくれ」
「……痛み止めをもらってくる」
「それもいいが、お前の手がいい。やれ」
 大包平はこれまでで一番の大きな溜め息を吐いた。旋毛へ触れる息のくすぐったさに、鶯丸は転がるような笑い声を上げた。








20241129