ブルーブラックの滲む頃
※風真玲太×主人公(小波美奈子)
※風真逆転告白他台詞他ネタバレ多々有
きらきらと透きとおって輝くもの。
息上がり、胸の弾むようなときめき。
わたしの高校時代はそういうもので満ちていた。色とりどりのフルーツを浮かべたサイダーの中を泳ぐように、ぱちぱちと笑顔の弾けるカラフルな日常。
誰といても心地よく過ごしていたい。みんなと楽しいを共有したい。
その気持ちは昔からずっと、今だって変わらないのに。
──あの煌めきが消え去ったのは、いつだったのだろう。
社会人三年目ともなれば大学のモラトリアムの残り香はとうに失せて、仕事に秩序立てられた生活にも慣れてくる──少なくとも、わたしの場合はそう。同期の子や先輩達は繰り返しあの頃に戻りたいと言うから、口にしたことはないけれど。そもそもわたしは外に出かけたり人と話したり、予定が詰まっている生活が苦でないのだ。でもみんなは自分をしっかり持っているから、日常に仕事の占める割合が多いとつらいらしい。大変だ。
わたしは飲みの席で零れるみんなの嘆きを、笑顔と首肯とを小刻みに織り混ぜながら、薄いカクテルと共に喉へ流し込む。あの頃は、こうだったら、と彼らが口にする度、その目に僅かな輝きのようなものを見る。けれど、どんなに見逃さぬようじっと目を凝らしても、それはきらりとする前に失せてしまう。
「小波さんは凄いね」
「え?」
急に話を振られて、素っ頓狂な声が出た。
声を掛けてきたのは、一回りほど上の先輩。所属するチームが同じになったこともなければ担当しているジャンルも違うからあまり関わったことがないけれど、こういう慰労の場を取り持つことの多い中心人物だからよく知っている。
「どんなに忙しそうなときでもニコニコしてるでしょ。やんわりしてるけどさすが一流大学卒、っていつも思ってるんだ」
どう返そう。
咄嗟に、頭の中へ三つの文が浮かぶ。
『ありがとうございます、今後ともご贔屓に!』
……素直な気持ちだけど、職場でのわたしのキャラじゃないかも。
『皆さんのおかげで、楽しく仕事ができてます。』
……うーん、媚びてるって嫌がられないかな。
『実は必死でぼんやりしてて……』
──これかな。みんなと同じ気持ちっぽいし、わたしの実情に近いところもある。
「いえ、仕事に必死で、ぼーっとしてるだけですよ。本当はあっぷあっぷです」
わたしが言うと、先輩の笑みが顔中に広がった。
「分かるわ。必死だと、心のいろんなところが麻痺していく感覚あるよね」
そこから話題は、最近どうにか形になったばかりの大きな案件に戻っていった。そもそも、今日の飲み会はその功を労って催されたものだった。
やったね、バッチリ好印象。
喜びながらも、頭の別のところで考える。わたしがニコニコして余裕があるように見える原因があるとすれば、それはこういう仕事が苦でないからなんだけどな。この会社に就職を決めた一番の理由は、昔やって楽しかった地元情報誌のアルバイトと似てたから。新しいものとの出会いを探してあちこちを歩き回ったり、読者に私の見聞きしたことを伝えるため構成を練ったり。あの経験がなければ、わたしは今ここにいなかったかもしれない。実際就職試験で出会った面接官は、わたしが大学で学んだことより、はばたきウォッチャーの内容に興味津々だった。
ひとしきり談笑して食べ物がなくなった頃、飲み会はお開きになった。わたしはにこやかにお辞儀をしつつ二次会へ行くらしい人々とさりげなく距離を取り、同じタイミングで帰ろうとするメンバーと共に最寄り駅へ向かった。特に引き留められることもなく、また道中別の人に他の会へ誘われることもなく。無事帰宅に成功した。
独り暮らしをするマンションの一室へ辿り着く。時計を見上げれば、時刻は二十二時より少し前。飲み会帰宅タイムアタックとしては新記録だ。
飲み屋の熱気を未だ漂わせる服達をぽんぽんと洗濯機へ放り入れ、ボタンを押す。勢いで風呂にも入ってしまう。湯舟を張って入浴剤を放り沈み込めば、自然と溜め息が漏れる。
「楽しかった……けど」
仕事もコミュニケーションも好きだ。けれど、好きなものと接していてもストレスは感じるものなんだよ、というのが高校から大学までの七年間を同期として過ごした友人の言。
──そもそもストレスっていうのはね、脳が外部からの刺激を受け取った時に生まれる身体の緊張のことなんだ。感覚器官が刺激を受け取ると、脳が神経に命令を出して情報に対処しようとする。そこへ生じる命令の圧力こと緊張がストレスの正体であって、本当は身体を害する絶対悪ってわけじゃないんだ。身体のメカニズムの副産物って言ったらいいのかな。
最近はストレスって言葉を使う状況がほとんど医学的な観点から体の不調に言及する時に限られてるでしょ、そのせいで悪者って思われがちだけどちゃんといいところもあるんだよ、適度なストレスはオレ達にいいパフォーマンスを発揮させてくれるんだたとえば──滔々と流れる彼の説明を思い出すと、合間に交わされていた二つの低い声まで蘇るから不思議だ。本多はネットに解説系の動画を上げれば案外食っていけるんじゃないかとか、剥き身のダーホンは眩しすぎるからあそこの住人の目が潰れる、ヒットするにはサングラス役の相方が必須、だとか。
ふふっ、と息が零れる。吐息が浴室に反響して、消える。消えると、静寂が際立つ。浮かびかけた気持ちが急に沈むのを感じて、わざと浴槽の湯を大きく掻き混ぜた。上がった湯気から香りが立つ。ローズマリー。
しばらくみんなに会えてないなあ。
芳香に綻んだ気持ちから、寂しさがまろび出る。
わたしの友達。学生時代、よくつるんでいた四人組。高校三年生の頃一緒に遊びに行ったのが始まりで、卒業してからも定期的に顔を合わせていた。大学生の時は二三ヶ月に一回だった集まりも──わたしが大学卒業と共にはばたき市を出たこともあって──社会人になってからは一年に一度の頻度に減った。
(みんな、忙しいから)
他に友達がいないわけじゃない。女の子の友達だっている。それにみんなでなくとも、わたしと誰か、という最小数ならもっとこまめに会えるだろう。
でも、誰かと一対一で会おうという気には、どうにもなれなかった。
(不思議だな。昔はあんなにいろんな人と二人で遊びに行ったのに)
伸びをして、緩やかに傾斜するバスタブに寄りかかる。首を巡らせて仰ぎ見る、浴室の全貌。純白と灰の入り混じったフェイクマーブルな天井。乳白色の影を投げかける間接照明。ボトルを並べるためのシンプルな棚。空いた時間を利用して定期的に磨いているから、どこを見ても曇りやカビなど一つもない。以前この部屋へ立ち寄った友人達は、すごいと褒めてくれたっけ。マリィってば独り暮らしちゃんとしててエライ、素敵なレディだって。
──けど、薔薇の花の似合うレディには、もう二度となれないのかな。
伸ばしていた脚を縮め、抱える。指で辿る爪先は、入浴剤入りの湯に浸かってもどこかひんやりとしていた。時節柄いや増す寒気と、長時間のデスクワークのせいだろうか。しばらく暖かな脚に触れていない気がする。
わたしは長い間、自分の脚をさすっていた。手を動かす度に水面が揺れ、白い輪郭がゆらゆらとぼやける。
まるで幽霊みたい。冷たくて朧げで、放っておいたらいつか、足先から消えてしまうんじゃないだろうか。煌めきひとつ残さず、すうっと溶けていくように。
膝上から踵へ大きく腕を伸ばす。ざぶりと湯が波打ち、照明を反射する。その光が足先へかかり、はっと息を呑んだ。
不意に、目の前の景色へ鮮やかな光景が重なる。
舞台照明。
差し出す素足。
その先の、透明な靴。
特別な色や装飾があるわけでもないけれど、当時のわたしはそれを、なんて綺麗な靴だろうと思っていた。幾度となく眺め、テレビや雑誌でしか見たことのないダイヤモンドに通じる輝きを見出した。けれどいざ最終局面──本番の舞台で差し出されたそれは、わたしを大いに戸惑わせた。何故ならそれは、わたしが履く予定だった足と違う形をしていたから。
今になって思うのは、わたしの方で予め差し出される靴を見て、それに合う足を出せばよかったということ。いくら練習で使っていたのと逆の靴を出されたのだとしても、劇中に何度も観客の前で掲げられたそれを見ていれば予期できたことのはずだった。緊張していたとはいえ、自分の参加する劇をきちんと見ていなかったわたしにも落ち度はあったと思う。
なのに彼は、舞台上でもその後の会話でも、一度もわたしを責めなかった。戸惑いから中途半端に靴へ差し込んだわたしの爪足を、大きな手でそっと包み込んだ。無理に靴の中へ押し込むようなことは、決してしなかった。
不器用に、けれど、紳士的に添おうとした硝子の靴。そこには、晩秋の冷えた無機物らしからぬ仄かな温もりがあった。
覆う掌は熱かった。それこそ、今浸かってるお湯なんて冷たく思えるほどに。
「あー、もう」
わたしは独りごちて、嗤う。
最悪だ。あの硝子の靴がわたしの前へ差し出されることは、もうないのに。
あれを蹴ったのは他ならぬわたし自身なのに──足先が冷えて冷えて、どうしようもなかった。
♥
前日の飲み会終了時刻二十一時三十分。本日の出勤時刻八時。およそ半日ぶりの職場の皆さんとの再会は、昨日はお世話になりました、のコールから始まる。慰労会を労うって面白いなと思う。
それがひとしきり済むと、午後の会議までの間に資料を確認したり、メールや制作物の状況を確かめたり、抱えている記事を推敲したりする。いつものルーティンだ。
わたしは黙々と作業をし、会議に臨んだ。今日の会議の主な議題は、わたしたちのチームが担当する、とある雑誌の春号へ載せる企画の内容。とは言っても、骨組みは決まっている。全国津々浦々、地域の生活に根差した個人店特集。あとはそこにどの具体物を詰めるか、具体物を担当するのは誰かを決めるだけ。
みんなでたくさんの取材先の案を持ち寄って、これがいいあれがいいと話し合う。地域色がより強いといいね、とか、業種も色々がいいね、とか。わたしも旅行先で出会った店や下調べした店を提示して話に加わる。程よく、適度に、いい感じに。
事前に資料が共有されていたから、会議はトントン拍子に進んでいった。これならそれぞれの取材担当もすぐ決まるか──そう思われた時、ある先輩がそろっと手を挙げた。
「すんません、一個候補を追加していいですか。資料の提出期限後に知った店なんでここに載せられなかったんですけど、是非皆さんに見てもらいたいのがあって」
彼はチームのエースだった。そんな先輩の提案なら是非聞いてみたい、とみんなが返す。
今資料を共有します、の言葉の後、すぐに社内共有データベースへ上がったものを確認する。リンクを開いたわたしは、ピシリ、と自分の頬が固まったのを自覚した。
「俺のイチオシです。今回のコンセプトに合ってるのはもちろん、他にない店だと思います」
「へえ。骨董店かあ」
読みながら上司が声を上げる。
「今のところ、他の取材候補にはないな。地元郷土史家の営む──いや、元を辿れば士族の家なのか。こりゃあ、普通の骨董店とは違うな」
「はい。代々、地元文化財の保管や修復にも関わっているとか」
先輩は、この店と出会った時のことを語る。遠出して城を見に行った帰り道、何となく惹かれた骨董店。懐かしい和風の店構え。しかしどことなく新しさも覚える、不思議で洒脱な佇まい。置かれている品物は幅広く、しかし無駄な品は一つもない。オーナーの洗練されたセンスが見て取れた。
「店主に聞いてみたら、アンティークビジネスについて本場イギリスで学んだことがあるって。知識豊富で郷土愛のある、変に浮ついたところのない、今時なかなかいない若者で感心しちゃいましたよ」
「この写真の店先にいる人はアルバイト?」
「いや。これが店主」
「嘘でしょ、男前じゃない。うちの旦那の若い時に迫るものがあるわ」
「それは盛りすぎだろ」
みんなが笑う。わたしも笑う。ちゃんと笑えてるといいんだけど。
「いい記事になりそうだな。トップにおけば読者を惹きつけられるかも」
キャップが身を乗り出す。
「で、取材には応じてくれそう?」
「五分ですかね。名刺を渡して、さり気なく取材のこと聞いてみたんですが、どっちとも言えない感じでした。はばたき市のことは知って欲しいけど、店にあんまり客が来ると……みたいな」
「おいおい」
「俺としては是非紹介したいんですって。地元住人にも好評で、ちょくちょくお客が来る。そういう、雑誌のコンセプトにぴったりっていうのもありますけど、マジでいい店なんです」
──何で、取材を受けるって即決しないんだろう。
わたしは内心首を捻った。確かに、彼の根っこはあまり社交的でないのだろうと思うことはあった。でも、彼のはばたき市への愛情は並外れて強い。イギリスで父親のビジネスを継がず、単身こちらへ残ったくらいなのに。うちの雑誌は全国へ渡るものだから、はばたき市や彼の仕事をアピールする良い機会になりそうだと思うのに。
何故だろう。疑問が膨れ上がって頭が支配される。
気付いた時には、手を挙げていた。
「あの、わたしが聞いてみましょうか?」
みんながきょとんとした顔でこちらを見る。
「え、なに。小波ちゃん、知り合い?」
「お……っと、同級生です」
幼馴染と口から出そうになったのを、寸でのところで引っ込めた。
「そっか! そう言えば小波ちゃん、はばたき市出身だっけ?」
「知り合いなら心強いね」
「小波さんもいれば、余計取材がしやすそうだな」
「へ?」
今、思わぬ方向に話が進んだ気がする。
目を剥くわたしをよそに、上司が手を打ち鳴らす。
「よし小波ちゃん、この後すぐあちらさんへ電話しよう。そうしよう」
「え」
「いやー助かるよ。俺も歴史好きだけどさ、はばたき市のことはニワカだから。地元民が助けてくれると心強いわ」
「あ、待っ」
「大丈夫大丈夫、タスクは平等にするから! じゃあ担当決めて、この後アポ取るぞ」
上司とエース両方に畳みかけられてしまっては、抗う術なんてない。
(とんでもない選択をしてしまったのかも)
呆然とするわたしを置いて、後のことがぽんぽんと決まっていく。その様子を、わたしはどこか遠い世界の出来事のように眺めるしかできなかった。
『で、正式にアポを取るために二人きりで会うことになっちゃった、と』
「うん」
『多少は成長したかと思ってたんだけど、あんた本当に変わらないな』
電話越しの声は、呆れているのを全然隠そうとしない。無理もないと思う。
「好奇心が抑えられなくて……」
『あんたがそういう性格なのは知ってるよ。でもその前後のことをシミュレーションしろって、いつも俺ら言ってきたじゃん。それこそ、カザマが口を酸っぱくして言ってただろ』
「はい……」
わたしは卓上でスピーカーホンにしたスマホを前に、正座していた。ホンモノの相手がいるわけでもないのにおかしな行動だとは思う。けど、そうしないと落ち着かない気分だったのだ。
「七ツ森くん。忙しいのにごめんね」
『それはいいよ。俺もいい加減作業続きでうんざりしてたところだし』
電話向こうの彼──七ツ森くんは高校の同級生で友人で、クリエイター仲間だ。高校卒業後に映像制作を学べる専門学校へ進んだ彼は今、制作プロダクションに勤めている。実写やらCGや手法を選ばず幅広い映像作品を手掛ける会社のようで、本人曰く「充実した社畜生活を満喫している」とか。
知り合ったきっかけは事故。好きなジャンルも微妙に違う。そんなわたし達だけれど、流行やデザインの話題に食いつきがちなところは似ていた。だからお互い何やかんや刺激を受けるところがあって、月日を重ねた今では、消費者文化を前に徒党を組むクリエイター系戦友的関係性に至っている。
「どうしよう。七ツ森くんも本多くんもいないのに、玲太くんと二人きりで会うなんて無理だよ」
『自業自得』
「氷室くんみたいな正論言わないで」
『カザマのことが気になるのは事実なんだろ? なら、もうそろそろサシで話してきたら?』
「そう……なのかな。けど、気まずくて」
『振ったのはあんただろ』
その通り。
高校卒業の日、私は彼に──風真玲太くんの告白に、ごめんなさいと返した。
あの日のことは、七年経つ今でも昨日のことのように脳裏へ思い描ける。帰り道、教会の鐘の音を追おうとするわたしを引き留めた彼の、乱れた息遣い。連れて行かれた坂道から見下ろす、はばたき市の全景。おまえが俺の全部ですと告げる、まっすぐな眼差し。
彼はあまりにも真剣だった。けれど、わたしは戸惑ってばかりだった。
だって、わたしにとって玲太くんは大きすぎた。
──おまえが俺の全部でした。ありがとう……俺、卒業するな。
冗談めかしたようでしきれない、僅かに震えた声を聞いて、全身を鈍器で殴られたような衝撃が襲った。
あの時のわたしが、どれだけのことを言ってしまったのか。玲太くんの告白が、どれだけの努力と覚悟をもって発せられたものなのか。この時のわたしには分かっていなかった。今だってきちんと理解できている自信はない。変わらぬ平和な故郷で安穏と暮らしてきた女の子と、海の外であらゆる価値観に揉まれ続けた男の子。二人の過ごした九年の隔たりを埋めるのに、三年という月日は短すぎた。
それでも、断った時の彼の表情と声色を前にして世界がぐらついた。その後の記憶はない。
「だからこそ気まずいんだよ」
『ダーホン先生の弁論、再放送する?』
「結構です……」
高校最後の一年、よく一緒に遊びに行っていた四人組──わたし、玲太くん、七ツ森くん、本多くん。わたしと玲太くん、本多くんの三人は同じ大学に進学していた。友達になったみんなが口を揃えて言う「何でもオモテに出る」わたしが、彼との間にあったことを隠せるわけがなく。わたしが玲太くんの告白を断ったことは、すぐ本多くんに知られた。
本多くんの第一声は、「何で?」だった。
──小波ちゃん、リョウくんのこと好きだったよね? 小波ちゃんとリョウくんだけの、合理性で説明できない気持ち、持ってたよね。
驚くでも詰るでもなく、真顔で淡々と疑問を口にする。そんな本多くんを、初めて怖いと思った。
もっとも、本当に本多くん自身を怖がっていたわけじゃない。わたしが一番恐れていたのは、彼の科学的手法で自分の心を証明されること。そしてその心が明らかになったところで、伝えるべき機会と相手をとっくに失ってしまったんだという現実を受け止めなくてはならないことの方だった。
自分の現状を改めて認識したわたしは、今更狼狽えて泣き出した。そんなわたしを前に、ごめんそんなつもりじゃあと慌てた本多くんが七ツ森くんを呼び出し、流れでわたしの反省会が始まった。まさか大学生になって初めての高校の友達との再会が、自分のやらかしを振り返る会になるなんて思わなかった。
「だって、本当はわたしのことを諦めるためにきたとか、お父さんの仕事を継ぐ約束だったとか……そんなこと言われたら、わたしの方が邪魔なんじゃないかって」
『それについては俺も、分からなくもないよ』
そう言ってくれるのは七ツ森くんだけだ。本多くんは、オレならリョウくん自身が考えて日本に残るって決めたなら尊重して受け止めるって言った。女子会で打ち明けた二人──みちるはマリィ胸張ってって励まして、ひかるはえ〜何で断っちゃったかなあ〜って驚いていた。
『カザマは重い。蝶よ花よのお気楽女子高生に人生のリアルを真っ向から突きつけたら、後退りされて当然。もっと世間受けしそうな言葉を選んで言えばコロッと付き合えただろうに』
「七ツ森くん……わたしにも玲太くんにも、大分ひどいこと言ってない? わたしについてはその通りだけど」
『でも、あいつはそうしなかった。自分の背負ってるものと理想と、あんたへの思いやりと。そういういろんなものとの間で葛藤して、でも結局弱いところは見せずに、誠実にあんたと向き合うことを選んだ。あいつはいい男だよ。強がりまで含めて、な』
強がりまで含めて、か。
わたしは考える。高校生の頃のわたしは、彼に強がっている部分があるなんて考えもしなかった。多少、何かあるのかなと考えたことはあったけど、玲太くんのことだからしっかりした考えがあるんだろうと思って、踏み込まなかった。
「玲太くん、何でわたしの取材を受けてくれることにしたんだろう」
呟くと、あんたが望んだことじゃないのと返ってきた。うん、そうなんだけど。
「職場ではわたしが聞いてみましょうか、なんて勢いで言っちゃったけど……後々よく考えたら、わたしの頼みなんてもう受けてくれないのが普通なんじゃないかって思えてきちゃって」
『あー、うん。俺なら断』
あっさりと言われてしまうと、ですよねえと返す他ない。けれどその後、七ツ森くんは続けた。
『でもカザマは断んないよ』
「何で」
『若様だから』
「どういうこと?」
『……いや。あんただから断らない、っていうこともあったりして』
七ツ森くんは曖昧な言い方ばかりする。
どう聞き返したものかと考えているうちに、ところで、と別の質問を切り出された。
『あんたは何でカザマの店を雑誌で紹介したいの』
「え? 素敵だからだよ。みんなに知ってほしい」
玲太くんの地元愛と仕事への真摯さはよく知っているつもりだ。雑貨屋シモンでの彼の評判や実際にプレゼントされたもののセンスの良さは、大人になった今も──大人になった今だからこそ、印象に強く残っている。彼と特に親しく過ごした高校時代からもう八年経っているし、実際に彼が経営する店を見たのは今日の写真が初めてだけれど、先輩の撮った店の写真を数枚見ただけで、きっと彼は今もいい仕事をしているに違いないという確信を持った。わたしだって、伊達に今の仕事で見聞を積んでいないのだ。
それに、いつか自分の店を持ちたいと言っていた彼の助けになれたら、という下心もある。厚かましすぎて、本人には絶対言えないけれど。
わたしがそんなようなことを言うと、七ツ森くんは笑みを含んだ声で言う。
『ふーん。じゃあ、カザマにそう言ってやんな』
「素敵なお店だねって?」
『うん、まあ。そんなところ』
わたしは頷いた。
「七ツ森くん、いつもありがとう」
『え、急に何』
「わたしと玲太くん、両方の味方でいてくれるから。今度スイーツ奢るね」
『ならアルカードな。季節の新作、クリスマス商戦が始まる前に。絶対』
「うん、任せて!」
『あと、感謝するならダーホンにも。あいつがよく声を掛けるから、俺ら四人が高校卒業してからもずっとつるめてるんだから』
「本当にそうだね」
いい友達に恵まれた。助けられてばかりだ。
しみじみと噛み締める。
『ていうかこの話、俺に相談するんで良かったん? ツインズの方が向いてたんじゃね?』
「みちるは今イタリアだし、ひかるはなかなか繋がらないんだよ。それに、二人ともわたしの玲太くんへの気持ちを恋愛感情確定で話すんだもん」
『恋愛感情でなくて、他に何だと?』
「うーん……分かんない」
それが分かっていたら──または分かっていなくてもいいやと思えたら、今わたしはこうしていなかったのだろう。教会の鐘の音に背を向けて、わたしを坂道へと連れ出したあの熱い掌に触れることを、今でも許されていたに違いない。溜め息が漏れる。
「わたしって、本当にバカだなあ」
『一流大生の自称バカは煽ってるようにしか聞こえないけど、あんたが言う場合は別だわ』
「七ツ森くん……」
『ダーホンは恋愛劣等生だけど、あんたは恋愛問題児』
「七ツ森くん?」
『ま、せいぜい良心の呵責に苦しめられながらオシゴト頑張れよ』
「何だろう。玲太くん関連のわたしに対する七ツ森くんの、年々進化する毒舌に救われてるわたし、いるかもしれない」
『ウケる』
そうは言うけれど、七ツ森くんは笑い転げたりしない。少しだけ笑った気配はあったけど、いつもの落ち着いた感じのままだ。
『ま、冗談は置いといて。あんたを救えるのはあんただけなんだから、いいチャンスだと思って行ってきな。あんたとカザマがどうなろうと、俺とダーホンはいつも通りだからさ』
「ありがとう」
わたしは素直に感謝する。
「……七ツ森くん、変わったね」
『そう?』
「なんていうか、大人っぽくなった?」
『とっくに成人なんだが?』
「あっ」
電話向こうの声は、また微かに笑った。
『うん、時間が解決することもある。あんたの問題も、それで少しは解決しやすくなってるといいな』
♥
高校生の頃、わたしは友達みんなに誕生日プレゼントを贈っていた。人数がまあまあいたから、注ぎ込んだバイト代は相応だったけれど、それを後悔したことは現在に至るまで一度もない。
贈り物をする対象にはもちろん、玲太くんも含まれていた。
高校で迎えた初めての秋。彼の誕生日に初めて贈ったのは、くすんだ風合いの木材を組み合わせたフォトフレーム。思い出を大切にする人だからと選んだそれを、やっぱり玲太くんは喜んでくれた。
次の秋はハンカチをあげた。普段使いしても長く使えそうな、ちょっと質のいいやつ。彼の名前を刺繍して贈る判断をできたのは、事前に下調べをしておいたおかげ。ハンカチの贈り物は、涙や縁が切れることを連想させるからそのまま贈ると良くない、名前を入れるといいんだ、って。何で名前を入れるといいのかまでは知らない。けど、「ちゃんとあなたの名前を刺繍できましたよ、忘れませんよ」って理由だとしたら、わたしにちょうどいい。
高校最後の秋、万年筆を贈った。万年筆は使い込めば使い込むほど書き手の癖が馴染み、書きやすくなるという。それを知った時、玲太くんにぴったりだと思った。受け継がれてきた歴史や伝統、生命を紡ごうとするホタルの煌めき、波にさらわれてもそこにある砂浜の足跡──玲太くんの好きなもの。万年筆もその仲間だという気がした。
ついでに、インクも少しだけ付けてもらった。色は、人気のブルーブラック。ブルーブラックのインクは、色褪せたり水で流れ落ちたりしづらいのだとか。そんなに高価なものは買えなかったから果たしてどこまで保つものか疑問だけど、少なくともボールペンよりは保ってくれるはず。そう期待していた。
大人になってから、時折あの万年筆のことを思い出す。
──玲太くん、使ってくれたのかな。
付属の小さなインク瓶は開けられたのだろうか。玲太くんは物を大切にする人だ。きっと、使われないまま固まっていくインクを放ってはおけないだろう。
だとしたら、とっくに瓶はカラになったに違いない。どんな文字を書いたのだろう。年賀状で見た流麗な筆記体か、または几帳面な日本語か。玲太くんは一人で文章を書く時、日本語と英語のどっちで書くのかな。わたしはそんなことも知らない。
わたしは思い浮かべてみる。大きくて少し節ばった、けれど荒れたところのない滑らかな手が万年筆を握り、ペン先をインク壺に浸す。充分に吸い上げて馴染ませ、紙面へ走らせる。白紙の上を踊る、鮮やかで深い青。あのインクの青は、目にするだけで安堵するような心華やぐような、不思議な色をしていた。まるで、かつての彼のように。
わたしは目を瞑る。瞼の裏へ広がるブルーブラック。月日を経て様々な空気に触れ続けただろうあの青は、今どうなっただろう。
はばたき市に戻るのはお盆の帰省以来、四ヶ月ぶりだった。就職してから、地元へ帰るのは一年に二、三回くらいの頻度を維持している。高校時代の友達に会うのも大抵その頃。ほとんどの友達がはばたき市に住み続けているので、いつもわたしの帰省に合わせてもらっている形になっている。ちょっと申し訳ない。
玲太くんのお店は、森林公園エリアと臨海地区の中間くらいの場所にある。立地は知ってたけど、実際に行ってみるのは初めてだ。ちょっとだけ……いや、かなり緊張する。
はばたき駅から公園方面へ向かって歩く。身につけてきたコートやスカートが目に入る度、汚れや埃が付いていないことを確認して自分を勇気づける。駅の電光掲示板によると現在の気温は十二度。天気は薄曇り。今朝見たはばたき市の天気予報と一緒だから、温度管理は大丈夫。秋冬用のちょっといいコートに、きちんとしてる可愛いセットアップを着てきた。お化粧も平気なはず。朝マンションを出る時はもちろん、はばたき駅へ着いてからもパウダールームで確認してきたから。
──わたし、変じゃない?
鎧代わりのおしゃれの隙間を潜り抜けて、へにょっとした自分が顔を出す。
──一度玲太くんの好意を無下にしたくせに、玲太くんの好みに合いそうな服装して。気持ち悪くない?
それはそう。
気持ちが沈みかける。けれど、手にしたビジネスバッグの重みを思い出して、何とか自分を奮い立たせる。
今更弱気になってどうするの。今日は仕事で来てるんだから、先方に好印象を抱かれそうな服装をすることくらい当然でしょ。それに、玲太くんのお店が客観的に見て素敵なお店なのは本当。せっかく玲太くんに時間を取ってもらって、記事を書くチャンスまでもらえるかもしれないんだから、弱腰にならないの!
わたしはできる、わたしならできる。言い聞かせて歩く。そうしながら人の暮らしと緑のバランスが丁度いい景色を眺めるうち、仕事のスイッチが入って紙面の構成を考え始める。
──はばたき市全体の雰囲気の分かる写真が一枚欲しいな。店の外観と内装と、あとお店の具体的なイメージの伝わりやすいディスプレイも。可能なら寄りで撮って……。
あれこれ考えていたら、緊張から良い感じに距離を置けるようになってきた。そして、目的地に着いた。
玲太くんのお店は、小ぶりながら立派な一軒家だった。年季の入った木材と清潔なサイディングが組み合わさっていて、古き良き日本家屋と西洋モダンとが無理なく同居している。入り口は鼈甲の色をした格子戸。隙間のガラスから、何となく中の様子が透けて見える。玲太くんがいるかどうかまでは分からないけど、玄関の照明が点いているのは見える。
いる。きっと。
そう考えた途端、距離を置いていたはずの緊張が大接近してきた。
(待って)
(いや行こうよ)
(躊躇わずに行くぞ)
(ううん、ちょっとムリ)
(やめるの?)
(いやいや、やめません!)
玄関マットの三歩前で逡巡する。就職して三年。それなりにクライアントと接してきて、そろそろ慣れたと思っていた。そこにこの緊張感。過去最大級だ。
──どうにか止めなくちゃ。
俯き、深呼吸して気を落ち着けようとする。
息を吸う。からりと軽快な音がした。
「こんにちは」
「はいッ!」
柔らかい声を掛けられ、全力で返事をしてしまった。反射で顔を上げる。見知った顔と目が合う。
(前髪の長さ、あんまり変わってない)
良かった。
(でも前髪、ちょっとだけ横に流してある。目が合いやすくなった。似合う)
けど、今のわたしには良くない。
(服が良い。いや、スタイルも良い)
背広の中にベストを着ている。こういうのがシックに決まる男の人を、久しぶりに見た。
(綺麗な笑顔)
にこやかな顔。これは──雑貨屋でお客さんに向けていたのと、一緒。
「お待ちしておりました、小波さん」
──ズキン、と。
胸の内で血が噴き出すのを感じた。七年前に負った時、処置しなかった傷。それがばっと開き、血飛沫と共に思い出を迸らせる。
(四人で会う時は、そんな余所行きの顔しなかったのに)
やっぱり二人きりだとそうなんだ。世界がぐらつく。
「あ……お世話、になっております……」
それでも染みついた社会人の習性で、決まり文句を絞り出す。すると整った笑顔が消え、噴き出し笑いに変わった。
「何だよその顔」
「え。何かついて、ます?」
「ついてねえよ」
やれやれって感じで首を振る。
笑い交じりの、ぞんざいに打ち解けた口調。いつもの玲太くんだ。
「慣れない呼び方されたって顔、やめろよな。もしまた取材に来ることになったら、その時は一人じゃないんだろ? お前がそんな感じだと、俺まで仕事モードが解ける」
「ごめんなさい」
「いいよ。いつも通りのお前で、安心した」
玲太くんは屈託なく笑う。
「電話口じゃあ妙な感じだったからさ。硬さといつもの感じがごちゃ混ぜで、何かあったのかって心配したよ」
「だって、職場の人が会話を聞いてたから」
「いつも通りでいいだろ。友達同士がビジネスっぽく話してる方が不自然だ」
友達だとは思ってくれてるんだ。
嬉しさと寂しさが込み上げる。告白を断っておいておかしいけれど、玲太くんに親しくしてもらえないのは嫌だった。
(わたし、もうめちゃくちゃだ)
心の中が乱れに乱れていて、恥ずかしい。そんな心模様すら顔に出てるかもしれないと思うと、逃げ出したくなる。こんなことなら、お面でもつけておけば良かった。
「では、中へどうぞ」
「お邪魔します」
玲太くんが店の中を案内してくれる。黒々として艶のある板張りの、落ち着いた空間だ。全体的に和風っぽい建物だけど、窓やインテリアといった部分に洋のデザインが取り入れられていて、それが良いアクセントになっている。なんて言ったら分かりやすいのかな。大正ロマン風? 玲太くんの雰囲気にすごく合っている。
「一階は主に日本のもの、二階は西洋で統一してる。おじいちゃんや父さんから紹介された品もあるけど、だいたいは俺が見つけてきた。どれも、俺自身が納得して選んだ品ばかりだよ」
「素敵なお店」
するりと心からの言葉が漏れた。江戸時代のお皿や大陸から来た香炉、木製の置き時計や華奢な文机。どれも、くつろいで見える。自分の居場所だって思っていそうなくらい。
「うん。ありがとう」
玲太くんは目を細めた。嬉しそうな、感慨深そうな顔。わたしは彼を見上げて言った。
「おめでとう。玲太くんの夢が叶って、わたしも嬉しい」
自分の目で見て納得したものだけを置く店を出したい──学生の頃から口にしていた、玲太くんの夢。これが今年の春に実現していたことは知っていた。去年の段階で玲太くん自身が口にしていたし、今年のお盆にみんなで集まった時、本多くんがオープンしたばかりの店に行ってきたって話をしていたから。
本当は、わたしももっと早く来てお祝いしたかった。けれどそうできなかったのは、わたしの中にいろんな気持ちが渦巻いてたせい。そしてその気持ちを、他の人の前で出したくなかったせい。
「お前が俺の夢を覚えてるとは思わなかったな」
玲太くんは片眉を持ち上げて、茶化すように言う。そうしてこっちの顔を覗き込む。この仕草、学生の頃と同じだ。
わたしは膨れるふりをして、顔を逸らした。
「もう。覚えてます」
忘れられるものなら忘れさせてほしかった。
デート帰りによく散歩した海辺。
将来のことを語る彼のひたむきな眼差し。
好みの異性について聞いた時の、どこか悲しげな笑顔。
そして──
(あ、まずい)
溢れる思い出を強制的に断ち切った。頭を切り替えよう。今のことを考えないと。
「ずっと気になってたんだよ。だから今日来れてよかった」
「まさかお前、そのためだけに取材を申し込んできたんじゃないだろうな?」
疑わしげな口ぶりで問われ、わたしは首を横に振った。
「違うよ! そもそも、玲太くんのお店を取材したいって言い出したのは先輩だから」
「そうなのか」
声のトーンが、少し下がった気がした。
振り返る。高い位置にある顔が、いつの間にか笑みを消していた。すらりとして美しい、程よい大きさをした二重の目が、真剣にわたしを見つめている。
何を考えてるんだろう。わたしの言葉を待っているようにも、何か話したい言葉があるようにも見える。
彼の目を見つめ返す。昔はこうすると、訝しがられるか笑われるかしたものだった。けれど、今の玲太くんはまっすぐ見つめたまま。寧ろわたしの方が落ち着かなくなってくる。
こっちから逸らそうか。迷い始めた頃に、彼が口を開いた。
「おまえは、どうしてここに来たんだ」
「うーん」
ライターとしては、玲太くんのお店の魅力を広めたいと答えるのが取材動機として正解なのだろう。それはそうなんだけど、玲太くんにそういう希望がない場合、無理を強いるつもりはなかった。
わたしは、ここへ来るまでに考えたことを思い返す。
「わたしも玲太くんのお店のことを知りたかったからかな」
写真を見ただけで、絶対いいお店だと直感で分かった。なのに取材に乗り気じゃないと聞いて、気になった。
今の彼の考えていることを知りたい。これがきっと、素直なわたしの気持ちなのだろう。
「取材したいって言い出したのは、確かに先輩。けど、わたしも玲太くんに話を聞いてみたかったからここに来たの。お店の写真を見てすごく惹かれて、行ってみたくなった。実際に来てみて、やっぱり良いなって思ったよ」
床板に溜まる陽だまりを見つめながら話す。型硝子の窓から注ぐ日は柔らかく、赤みを帯びた濃茶の木目に潤んだような光を落としている。
(綺麗だな)
不思議な感覚だった。ここで感受するすべてが、心の深いところへ響く。そのせいなのか、普段は多少の吟味をもって発されるはずの、胸の底で身を潜めている言葉がするすると出ていく、それすら心地よい。
「昔、言ったよね。玲太くんの将来の夢のためにわたしのできることがあるなら何でもするって。今もそうだよ。もしも玲太くんが望んでくれるなら、わたしも自分の仕事で協力したい」
玲太くんは真剣な顔を崩さない。唇をまっすぐに引き結んだまま、わたしのことを見つめている。
(もしかして、厚かましかったかな)
こっちのことを喋りすぎたかも。焦って言葉を足そうとした時、引き結ばれていた口元が綻んだ。
「おまえは変わらないな」
「え?」
「お茶淹れてくる。ちょっとそこのテーブルで待ってろ」
玲太くんはカウンターへ向かう。わたしは慌てた。望んで引き受けた仕事なのだから、そこまでしてもらうのは悪い。
「でも、お客さんが来たら──」
「今日の午後は臨時休業にしてる。言ってなかったか」
「え、そうなの?」
わたしが目をぱちくりさせる間に、玲太くんは戻ってきてテーブルの横に立つ。目でこちらへ何か訴えかけてくる、それに応えようとその傍へ歩み寄った。長い腕が椅子を引く、その様を眺めていたと思ったらあれよあれよと椅子へ座らされていた。
仰ぎ見る。背面へ佇む彼の、細まった目と視線がかち合う。
「そういうわけだからゆっくりお話しできますよ、ベテラン記者さん?」
「まだ三年だよ」
「バカ。分かってるよ」
笑み交じりの声。あたたかな響きがじんわりと胸に染みていく、その感覚に呆然としている間に、玲太くんはカウンターの奥へ消えていた。
どこか遠い所から、陶器の微かに触れ合う音がする。その音を聞くともなしに聞きながら、わたしはただ一人、熱を上げて早鐘を打つ心臓を抑えようとする。
♥
幼少期を振り返ってぼんやりと思い出せるのは、一緒にいると元気になれた男の子のこと。わたしが「りょうたくん」と呼んでいた彼は、いつからそこにいたのか分からないくらいごく自然にわたしの世界へ馴染んでいた。明るくて物知りで、わたしの手を引いてよくいろんな場所へ連れ出した。いろんな場所と言っても、ひどく怖い思いをしたり泣いたりした覚えはない。だから、子供の行くことが許される範囲くらいだったんだろう。彼と共に行く場所は、いつも未知のわくわくを伴って、鮮烈に輝いて見えたものだった。
そんな彼はある日、急にいなくなってしまった。学校の先生と母は、りょうたくんは家族と一緒にイギリスへ移住したのだと言った。
移住。辞書を使ったり家族に聞いたりして、その意味を知った。遠い場所へ移り住んで、そこでずっと暮らし続けること。ただの引っ越しよりずっと強い、日本に戻らないという未来を含む言葉なのだと理解した。
そっか。りょうたくん、もういないんだ。
わたしは受け入れた。受け入れる以外の選択肢があっただろうか。りょうたくんはしっかりしているから、わたしがいなくても元気でやっていくはず。わたしは寂しいけれど、りょうたくんが楽しいならいい。
わたしはりょうたくんとの世界を胸の中へ仕舞い込んだ。幼い頃から素直だと言われていたわたしの内側には大きな空洞があって──子供なら誰しも持つ空洞なのだろうけれど、わたしのものはとても大きくて深かった──仕舞い込まれた世界は胸の奥、わたし自身の手すら届かない深いところへと沈んでいった。そしていつの間にか、わたしのあずかり知らぬうちに息を引き取ったらしい。ふと思い出して覗き込んだ時には輪郭が溶け、暗がりと見分けがつかなくなっていた。
けれど代わりに、暗がりの底でキラキラとしたものが瞬くようになった。それはまるで、行き場を失くしたマグマが長い時間をかけて変化した宝石に似て、複雑な乱反射をもってわたしの世界に彩りを与えた。他人と交流する楽しさ。知らないことを知る喜び。誰かと一緒にいる安心感。
そういう彩りを追いかけているうちに、小中学校時代は終わっていた。何か掴めたものがあったのか、そもそも何を掴もうとしたのか、あまり思い出せない。その間にだって楽しいこと、苦労したことはそれなりにあったのだと思う。けれど、高校生活の鮮やかさを目の当たりにした途端、全て霞んでしまった。
はばたき学園は素敵な場所だった。誰もが何かに一生懸命。勉強、運動、芸術、流行。そういうものに一直線にのめり込んでもいいし、人との繋がりを意識して気配りを磨く人もいれば、おしゃれを追求する人もいる。
この頃のわたしは、とにかくいろんな人と遊んだ。週末のほとんどを人と会って過ごし、空いた時間はその時気になったものを気ままに追いかけた。新しいものに触れる度、新しいことができるようになる度、心躍った。たとえるなら、ふわふわしていた自分の輪郭が力強くはっきりとしていくような感覚。豊かな特色を持つ人達との交流は、わたしの世界を一気に濃く密度のあるものにした。
その生活の傍には、いつだって玲太くんがいた。そう。あの、幼い頃遠くに行ってしまった「りょうたくん」が帰ってきてくれたのだ。
玲太くんは、昔よりずっと大きくなっていた。玲太くん自身には「背が高くなった」みたいなことしか言えなかったけど、本当はもっと、感じ取っているものがあった。
わたしの幼少期を素敵な思い出にしてくれた男の子は、わたしだけでなく大勢に注目されるほどの大きな存在感の持ち主だった。学校やシモンでは女の子達の黄色い声を絶えず浴び、同世代の男の子達にも親しまれる。年配の方々からはデキた若者として好印象を持たれていて、小さな子供にも優しいお兄ちゃんと慕われていた。
手の届くすぐ近くへ帰ってきた幼馴染。でも彼は、離れていた九年の間に磨きをかけて、見上げないと視線の届かないほどの高くて眩い存在になっていた。日々をぼんやりと過ごしていた私とは大違いだった。
それでも玲太くんは、わたしにはもう思い出せない昔を大事にして、わたしを特別な人として扱ってくれる。
期待に応えたい、みたいなそういう決意をした記憶はない。でも、彼がわたしを特別だと言ってくれるなら、その言葉の通り特別な何かになれる気がした。
学校生活、登下校、休日のお出かけ。ちょっとした会話を交わすだけでも楽しくて、本当に夢みたいだった。先を行く彼みたいになりたい、一緒に楽しく過ごしたい。その一心で、矢のように過ぎ去っていく日々を夢中で過ごした。
だから、恋愛について聞いたのもその延長だったのだ。玲太くんはどんな答えを返してくれるだろうかという好奇心。そんなごく大味な質問が、まさか自分に関わる具体的な話に発展するなんて、予想だにしていなかった。
「俺は自分の都合だけで色々と決めるとこあるから、おまえへ思いを伝える時、場所、全部決まってる」
あの会話をしたのは海岸だった。
仰天するわたしへ、何気なく海を眺めていた玲太くんは目を戻した。
「でも、おまえにもタイミングがあって、それが今なら──」
どうなんだ、と静かに問う。冗談の雰囲気は欠片もなかった。
──どう返したら良かったんだろう。
大人になった今でも分からない。
どうとでも好きにして、なんて言えば彼は呆れて怒っただろう。彼自身も言う通り、玲太くんは強固な意志の持ち主だ。そのせいか、わたしの意思をわたし以上に尊重するところがあった。初めて彼と買い物に行った時、これお前にピッタリじゃんという冗談を素直に受け止めて財布に手を伸ばしたところ、真面目に諭されたのは記憶に新しい。
(決まった服のこだわりなんてないのにな)
実際、わたしに好む服のジャンルはない。もちろんおしゃれは好きで、流行り物をチェックするのも楽しい。いろんな服を着ていろんな自分になる感覚が好き。そうやって着たものを周りの誰かが喜んでくれると、もっと嬉しい。似合ってる似合ってないは二の次。印象さえ悪くしていなければ、相手が笑ってくれているならそれでいいんじゃないかとも思う。
わたしには自分なんてない。そんなわたしが、明確な自分を持つ玲太くんを、どうやったら幸せにできるのだろう。
恋愛に関する彼の考えを聞いたのは高校三年の冬。ちょうどクリスマスが来る前、今頃の季節だった。わたしは思い悩み、しばらく彼と距離を置いた。それでも玲太くんは自分の進むべき道を見定め、卒業の日になってもまだ彷徨うわたしを捕まえ、わたしを彼のすべてだと言ってくれた。
わたしはこんなにもあやふやなのに。玲太くんの言う、彼のすべてだという「わたし」は──果たして、実在するのだろうか。
その躊躇いが、彼の告白に応えることを許さなかった。あの時わたしが玲太くんの手を取ることを選べなかった本当の原因は、彼への思いやりなんていう崇高なもののためじゃない。わたしの頭を支配していたのは、いつか空っぽなわたしに失望した彼に手を離されることへの恐怖。自分は彼に全力で愛されるにふさわしくないという、わたし自身への猜疑心だった。
あれから七年の時が経つ。今でも時折思い出す、オレンジ色のかざぐるま。吹いた時に感じた甘酸っぱい気持ち。一緒にかざぐるまを吹いた口から発せられた、別れの言葉。
いつもの坂に立って痛みを堪えるように笑う顔を見た時、わたしはやっと、目の前にいる人が同じ長さの時を生きる少年なのだと実感した。その笑顔に、徒競走に負けて泣きそうになる幼い子どもの顔が重なった。
(そうだった)
遠い日にしまいこんだ思いが、まざまざと蘇る。
わたしはいつも、あの子のひたむきな姿を追いかけていた。あの子が笑えばわたしも嬉しくて笑って、あの子が楽しんでいる時はわたしも楽しくて仕方なかった。泣きそうな顔を見た時は、無性に悲しくなって勝手に涙が零れた。
今と昔が繋がった。けれど、もう遅い。すっかり丸みの失せて引き締まった顔が微笑んで背を向ける、春の陽光が一筋頬を滑り落ちるように見えた刹那は瞬く間に過去の幻影になる。伸ばす指は虚しく宙を掻くばかり。
──嫌だ。
──ごめんなさい。
──置いて行かないで。
そのどれも、わたしは言う権利を手放してしまった。立ち尽くし、過去と決別した青年を見送ることしかできない。
続く