愛情という罪悪




※現代パロディ。
※ver6.3までのネタバレあり。
※レオアシュ。
※捏造祭り。
















 その日、アシュレイはオフだった。
 トレーニングも兼ねて外を気ままに走ったり、リビングのソファに寝転がってゲームをしたりと、日中を一人で自由に過ごした。
 やがて、外から差し込む日射しが赤みがかってくる。
 カーテンを透かして届く橙のライトを身に浴びながら、もう少ししたら夕飯の支度を始めようかとアシュレイは考えた。今日は、彼が夕飯の支度をする当番だった。
 そんな頃に、玄関の扉が開いた。
 次いで声がする。
「ただいま」
 弟のレオーネが帰ってきたのだ。
 アシュレイはソファから上体を起こした。
「おかえり」
 リビングへ入ってきた弟に声を掛けると、自分とそっくりな顔がこちらを向いて頷いた。
 今日のレオーネは、黒のタートルネックのセーターとズボン、ダークグレーのチェスターコートを纏っていた。落ち着いた佇まいの彼が一段と大人びて見える、シックな装いである。
 アシュレイは話しかけた。
「今日は早いな」
「大学祭の片づけが、もう完全に終わったからね」
「そうか。お疲れ様」
 労うと、弟は微笑んだ。
 レオーネはアシュレイのいるソファの前へ歩み寄り、カーペットへ座り込む。
 脱いだコートの手入れを始めた弟を、アシュレイは何となく眺めていた。
 そうして、彼のブラシを握る右手に、見慣れないものがついているのに気付いた。
「レオ」
 弟が顔を上げる。
 アシュレイは、その手を指さした。
「珍しいものつけてるな」
 右手の薬指に、銀の指輪が光っている。
 ああ、とレオーネは胸の前へ手を掲げた。
「外すの忘れてた」
 そして、掲げた右手の甲を向けるようにして、アシュレイに指輪を嵌めた指を見せる。
「これ、何だと思う?」
「え。指輪じゃねえの?」
 レオーネは真顔で言った。
「これね、カプセルトイマシンで当てた三十ゴールドの指輪」
 アシュレイは噴き出した。
「お、お前。それ、玩具の指輪かよ!」
「ただの玩具じゃないよ」
 よく見て。
 そう言われて、アシュレイはソファから降り、膝歩きで片割れへ寄る。
 レオーネが右手を回転させ、掌をアシュレイへ向ける。
 隠れていた指輪の裏半分が露わになる。どうも、指輪を反対向きにつけていたらしい。
 そこに付いた装飾を見て、アシュレイは思わずレオーネの右手に飛びついた。
「これ、俺が回そうと思ってた魔法の迷宮コインシリーズのヤツじゃねえか!」
 指輪の隠された半面に付いていたのは、銀のモンスターコインだった。
 アシュレイには、遊び心のあるカプセルトイを面白がって見る癖があった。モンスターコイン指輪が出てくるカプセルトイは、そのうちの一つだった。
 いかついモンスターが描かれたコインの指輪にどんな需要があるのかさっぱり分からないが、そういうところが良かった。
 アシュレイはレオーネの指輪のコインをまじまじと観察する。
 そこには、ローブ姿の怪人が描かれていた。
「エビルプリーストじゃん。すげえな」
「兄貴の分も回しといた」
 レオーネは自分の右手を掴んでいた兄の手を取った。
 その薬指に、ポケットから取り出した別の指輪を嵌める。
 自分の指に収まったコインの柄を見たアシュレイは、膝を叩いて笑った。
「アンドレアルかよ! 一体何回まわしたんだ?」
 レオーネはにやりと笑い、指を二本立てた。
 アシュレイは眉を跳ね上げる。
「すげえな。神引きだろ」
「俺も驚いた。こんなことも起こるんだな」
 レオーネは兄の右手の横に、自分の右手を差し出す。
 そっくりな右手が二つ。揃って、モンスターを宿している。
 それが妙に面白くて、アシュレイは声を上げて笑った。
 ひとしきり笑ってから、そういえばと弟を見る。
「レオがガチャ回すなんて、珍しいな。いつもは俺が回してるのを見てるだけなのに」
「ああ」
 レオーネは左手で、自分の指に嵌まった指輪をさする。
「ちょっと、すぐに指輪をする必要があったから。せっかくなら、兄貴が気にしてたヤツを回してみようかと思ったんだ」
「ふーん?」
 今度はアシュレイがにやりとした。
「さては、告白避けだな?」
 レオーネは肩を竦める。
 何も語ろうとしない弟に、アシュレイはさらに言う。
「お前の友達に聞いたぞ。お前、去年の大学祭でかなり告白されたんだって?」
「え」
 レオーネは瞠目した。
「どうして」
「この前、劇場にお前の親友の妹が来てたんだよ。偶然出会して、ちょっと話した」
 弟が何か言う前に、アシュレイは補足する。
「ああ、安心しろよ。俺達のことは大学で言わないって言ってた」
「そこは心配してない。彼女のことは信頼してるから」
 そう言って、レオーネは苦笑した。
「せっかくラッカランにいるのに、何で俺の話をするんだよ。もっと他に話すことがあるだろうに」
「いや、この状況なら普通レオの話するだろ」
 アシュレイは大きく笑み崩した。
「やっぱり、レオは大学でもモテてるんだな。そうだろうと思ってたよ」
「何で?」
 レオーネは怪訝な顔をする。
「よく言うわ。思い出してみろって」
 アシュレイは双子の弟の肩を叩いた。
「中学一年の時、三年の先輩に迫られたことがあっただろ」
「それは覚えてる」
 レオーネは顰め面になった。
「誰も来ない校舎の空き教室に呼び出されて、鍵を掛けられた。あの時は焦ったな。お前が助けに来てくれて助かった」
「あれ、お前があの人のことを優れてるとか何だとか褒めたのを、自分に惚れてるもんだと思い込んだっていう話だったよな」
「事実を言ってるだけのつもりだったんだよ。好意も褒める気持ちも全然なかったし、あんなに思い込みの激しい人だと知ってたら絶対言わなかった」
 それから、とアシュレイは指を三本立てる。
「二年のホワイトデーの日、後輩女子三人に連続で告白された」
「ああ。そんなこともあったな」
 レオーネは顎に手を当てて、首を捻る。
「あれも勘違いだった」
「それはそうだけどよ」
 アシュレイは笑う。
「箸が転がっただけで恋に落ちるような年頃の女子に『なんだ、俺の片思いか』って言ったら、恋しちまうものなんじゃねえの?」
「そうとは限らないだろ。あの時は、そういう文脈じゃなかった」
 レオーネは心外そうに眉根を寄せる。
「三人とも、文化祭実行委員会の拠点の前に来てこっちをじっと見てたから、委員会に入りたいのかと思ったんだ。俺も委員だったし、人手不足だから参加してくれたら嬉しいと思って、入りたいのか聞いた。そうしたら違うって言われたから、俺が一人で勝手に期待しただけだったのかと思って」
「だからって、『片思いか』って言葉を選ぶのは強すぎる」
 世の人間は、お前ほど冷静じゃねえよ。
 アシュレイは憮然とした面持ちの弟の顔を覗き込み、微笑んだ。
「レオの言葉の使い方、格好良くて俺は好きだよ。でもちょっと大胆だから、相手はドキッとしちまうんだよな」
 さらに、レオーネは他人に優しく尽くすのが上手い。
 だから、昔からよく惚れられやすかった。
「俺はその相手だから優しくしてたんじゃなくて、俺が人としてやるべきだと思うことをしただけだ」
 レオーネは釈然としないようだった。
「なのにみんな恋、恋って。人間は、恋愛感情がないと優しくできない生き物なのか」
「恋愛っていうより、人間ってのは若いうちほど夢を見やすいんじゃないかな」
 アシュレイは微笑む。
「良いように捉えたくなっちまうものなんじゃねえの?」
「だからって、俺に夢を見るのは間違ってる」
「レオに夢を見たくなっちゃうのは分かるよ。お前は良い男だからさ」
 笑みを保ったまま、アシュレイは俯く。
「でも、それはそれとして人は間違っちまう生き物なんだよ」
 兄の言葉に、レオーネは溜め息を吐いた。
「傷つけたいわけじゃないのに、知らないうちに傷のもとが生まれる」
 そう零す声は、沈んでいた。
「恋は苦手だ」
「レオは悪くねえよ」
 アシュレイは弟を慰める。
「恋は罪悪、って言うだろ? そういう性質のものなんじゃねえの」
「さすが兄貴だな」
 レオーネは口の端を吊り上げて、片割れを窺う。
「華々しい世界を生きてるだけあって、詳しそうだ」
「違ぇよ」
 アシュレイは片手をひらひらと振った。
「普通の俳優ならともかく、俺はアクション専門なんだ。そういうヤツはほとんどやらない」
 アシュレイは恋愛を演じられなかった。形をなぞるくらいはできるが、それを主題に据える作品を演じきれるほどの技量はない。
 だから、アクション俳優を志したのは自分にとって正解だったと思っている。アクションをメインにした芝居なら、恋愛要素はあまりないからだ。あったとしてもおまけ程度なので、観客もあまり期待していない。
「そうじゃなくて」
 レオーネは問い直す。
「人目を浴びる仕事だから、いろんな人間に接するだろ。兄貴自身、経験豊富なんじゃないのか?」
「そりゃあ、多少は経験あるよ」
 アシュレイは答えながら、さりげなく目を逸らす。
「でも、よく分からない」
 自分の仕事の幅を広げるため、また個人的な悩みもあって、次々彼女を作った時期があった。また、世間で評判の恋愛を主題にした劇を観たり、小説を読んだりもした。
 だが、いまいちしっくり来なかった。
 恋する人は他人を自分の一部のように慕い、執着する。愛し合う二人は自然と心と体を繋げたいと願い、やがて結婚を夢見る。
 他人を魅力的に思ったり、言動を気にかけたりする意識の働きは、アシュレイにもある。だがそれは、人として生きる中で誰に対しても沸き起こる、他者への尊重と同じものだと思う。
 性的な欲求は生存本能だ。次の世代を生み出す行為と考えれば神聖視するのも分からなくないが、欲求そのものはせいぜい娯楽に昇華できればいい方である。
 結婚は、物語では展開を面白くするためのギミックとして用いられ、現実では安定を得るための手段として選ばれる。家や社会を盤石にできるが、当事者二人の間は窮屈になりがちで、共生には努力が必要である。よほど気に入った相手がいたり、より確かな経済や精神の安定を求めたりするのなら欠かせないことだとは思うが、安定を束縛と捉えるようなタイプには苦労の方が大きそうだ。
 アシュレイは恋愛について、ある程度の理解はできているのだろうと思っている。だが、どうにも自分には落とし込めない。
 好きな武術を活かして働き、弟と過ごす今の日常が満ち足りていて、焦がれる気持ちが起きないのだ。
 その思いを悟られたくなくて、アシュレイは話題を逸らす。
「俺は恋人避けの指輪をしようって発想になるほど人に好かれたことはねぇよ。レオはすげえな」
 そう言うと、レオーネはまた顰め面になる。
 そんなに嫌そうな顔をしなくてもいいのに。
 アシュレイはそう思いながら、胸の奥底に安堵する自分がいるのに気付いた。
(バカだな)
 内心で辟易する。
 弟は誰にでも優しいのだ。縛ってはいけない。
「俺に遠慮しなくてもいいからな」
 アシュレイが言うと、レオーネは不思議そうに首を傾げた。
「何の話?」
「だから。その」
 顔を合わせると言いづらくて、アシュレイは視線を落とす。
 右手に嵌る指輪が目に止まった。
 それをなぞりながら、何気ない風を繕って言った。
「俺と暮らす話。誰か気になる人ができたら、言ってくれよ。レオが好きになった相手なら、俺も応援するからさ」
 玩具の指輪は、少しキツい。
 拳を握ると食い込んで痛いが、今は不思議と不快ではなかった。
(今のは、なかなか自然に言えたんじゃないか)
 さすが俳優。やればできるじゃん。
 アシュレイは自分を褒め讃える。
 実のところ、本当に応援できる自信はない。
 だが、弟のためなら我慢しなければならない。
 弟が大学でも慕われている話を聞いてから、アシュレイはそう考えていたのだった。
 さて、弟は何と返してくるだろう。
 指輪をいじりながら返事を待つ。
 やがて、レオーネが口を開いた。
「ふぅん」
 発された声には、温度がなかった。
「お前は、俺が他の奴と一緒になってもいいんだ」
 アシュレイは顔を上げる。
 こちらを見る弟の目は、冷ややかだった。
 顔には皮肉な笑みが浮かんでいる。
(まずい)
 他人が見れば普段とさして変わりない表情だと思うだろう。
 だが、生まれてからずっと一緒のアシュレイには分かった。
 これは、怒っている。
「いや、だって」
 口の中が渇いている。尻込みしそうになりながらも、アシュレイは自分を奮い立たせた。
「レオには、好きなように生きてほしいし」
「それ、本気で言ってるの?」
 レオーネは低く言う。
「俺との約束、もう嫌になったのかよ。俺のこと、一番大事だとか言ってたくせに。お前の言葉って、随分軽いんだな?」
「違う!」
 耐えきれず、アシュレイは兄弟の手を掴んだ。
 両手を両手で包み、必死に言い募る。
「俺は本当にレオが大事だから、それで」
「なら、何でそんなこと言うんだよ」
 怒気と呆れを孕んだ声に、身が竦む。
 弟に嫌われる。
 それが耐えようのないほどに怖かった。
 しかし、アシュレイには正直な気持ち以外に話せる言葉がない。
 冷たい炎の宿る双眸を直視できず、握った手を見つめる。
 そして、やっとのことで言葉を振り絞った。
「だって、俺でいいのかよ」
 一度形にしてしまえば、心に押し留めていたわだかまりは独りでに口から溢れ出る。
「レオは、気楽だし安く済むから俺と同居するんだろ。俺じゃなくたって、安く同居はできる」
 アシュレイが一緒に暮らしたいと言い出したから、合わせたのではないか。
 そう思い始めると、気がかりで仕方なくなった。
 アシュレイは、幸せそうなレオーネを見ると深い充足感を覚える質である。
 これは、物心ついた頃には既に擦り込まれていた情動だった。
 レオーネが何かに夢中になったり、笑ったり、楽しそうにしているのを見ると心が満たされる。
 両親が亡くなった時でさえ、そうだった。
 頼るべき大人を失ったのに、それよりも哀しげなレオーネを見ている方が辛かった。
「俺のことなんていい。俺は、レオが幸せならそれでいいんだ」
 アシュレイは顔を上げた。
 夕陽に照らされた部屋を背景に、こちらをじっと見つめる弟の姿。
 消える間際に燃え上がる赤光が、彼の困惑した顔をくっきりと浮き上がらせている。
(昔も、こんなことがあったな)
 自然と、幼い頃の一場面が脳裏へ蘇る。
 あれは、師匠が自分達兄弟を家に引き取ってくれた、最初の日だった。
 夕飯を待ちながら、慣れない家の小さな一室に二人きりで座っていた。
 窓から斜陽が差し込み、うらぶれた太陽の光とともに、物悲しい空気が部屋へ満ちていた。
 アシュレイがぼんやりと夕陽を眺めていると、弟がすり寄ってきた。
 こちらの体の側面に側面をぴたりとくっつけ、上目がちにアシュレイを窺う。
 そして、ひっそりと呟いた。
 ──いなくならないよね。
 不安そうに揺れる表情を、見ていられなかった。
 アシュレイは力いっぱい弟を抱きしめた。
 ──大丈夫。俺は、レオと一緒だよ。
 そう言うと、弟はしがみついてきた。
 全く同じ形をした身体を隙間なく合わせ、互いの温もりを分かち合う。
 しばらくそうしていると、レオーネがもぞもぞと身じろぎした。
 ──アシュレイはあったかいな。
 少し身体を離して、弟を窺った。
 レオーネは微笑んでいた。
 その顔を見た瞬間、家を失った悲しみと心許なさは消えた。
 代わりに、それまでに感じたことのない大きな安らぎに満たされた。
(あの時)
 アシュレイは漠然と考えた。
(俺は、レオがいれば生きていけると思ったんだ)
 自分は、レオーネの安らぎを見守るために生まれてきたのではないか。
 そう思えるほどに、アシュレイはレオーネを愛していた。
 彼が成長し、一人で歩んでいけるだろう力を身に付けても、まだ傍にいたいと思ってしまうほどに。
「俺じゃあ、お前に何もしてあげられない。結婚も、血を遺すことも」
 そう吐き出して、アシュレイは笑った。
 綯い交ぜになった愛情と執着が胸を締め付けて、苦しい。
 それでも、笑うしかなかった。
「レオにはレオのことを思ってくれる人がたくさんいる。俺となんかじゃなくて、お前のことを一番思ってくれる人と──」
「おい」
 レオーネが声を荒げた。
 眉を吊り上げ、アシュレイを睨む。
「勝手に決めるな。俺のことは俺が決める」
 口を真横に引き結んだ表情は不機嫌そうに歪んでいた。
 アシュレイは顔を俯ける。
「わ、悪い」
 弟の言う通りだ。アシュレイの意見を強要するのは違う。
 反省していると、頭の上から大きく息を吐き出すのが聞こえた。
 次いで、すまなそうな声が言う。
「いや、こっちこそごめん。強く言いすぎた」
 アシュレイは顔を上げる。
 こちらを見つめていたレオーネと目が合った。
 もう怒ってはいないようで、表情から張り詰めた気配が消えていた。
「兄貴。今から一緒に出掛ける気ある?」
「え?」
 アシュレイは戸惑った。
 突然、何を言い出すのだろう。
 躊躇いがちに頷く。
「いいけど。夕飯は?」
「帰り道にテイクアウトすればいいだろ」
 レオーネは答えた。
「着替えてきてくれないか。できればちょっと綺麗めの服がいい」
 そうして一人立ち上がり、ドアへ向かって歩き始めた。
 アシュレイはその背中に問う。
「なあ。どこに行くんだよ」
 レオーネは振り向かず、足だけ止めた。
 そして、ぼそりと呟いた。
「アクセサリー屋」







 玩具のモンスターコイン指輪をきっかけにペアリングを買うことになるなんて、誰が予想できただろう。
 グランゼドーラ市街のアクセサリー屋からマンションへ帰ってきたアシュレイは、上昇するエレベーターの中で、三時間前にリビングで笑っていた自分達を思い返す。未だに信じられなかった。
 アクセサリー屋でレオーネが望んだのは、玩具ではない本当のペアリングだった。
 お前に安い指輪をさせるわけにはいかない。
 そう言って、レオーネはガラスケースに並んだ中から数点候補を示してきた。
 弟がペアリングを買うことを思いついたのは、ついさっきのことではなかったらしい。
 淀みなく候補の指輪について話すのを聞きながら、アシュレイはそう悟った。
「こういう時に双子って便利だな」
 エレベーターが二人の住む階へ辿り着く。
 扉から出ながら、レオーネが言った。
「サイズが同じだから、片方が試着すれば済む」
 肌や髪の色から身体のサイズまでほぼ同じだから、片方に似合うデザインはもう片方にも似合うのである。
 揃いの服を買うことが多いのは、その影響だった。
「俺が買いたかったんだから、俺が全額出すので良かったのに」
 そう言うレオーネの片手には、しっかりした作りの小さな手提げ袋がある。
 夕飯のハンバーガーやらピザやらが入った大袋は、アシュレイが持っていた。
「いや、それはダメだろ」
 廊下を歩きながら、アシュレイは答える。
「俺が買ったモノをつけてもらわないと、レオは俺のってことをちゃんと示せない」
「その理屈だと、お前も俺のってことになるけど」
「うん。そうな」
 部屋の前へ着いた。
 手の空いているレオーネが、鍵を開けてドアノブを捻る。
 アシュレイは先に玄関へ入り、荷物を置くために設置した小さなテーブルの上に、夕飯の袋を置く。
 振り向けば、ドアを閉めて施錠するチェスターコートの背中がある。
 かちゃり。錠の音が落ちる。
 それと共に、そっとその背へ抱きついた。
 腕を弟の胴へ回す。錠へ添えた手が止まる。
「どうした」
 レオーネが静かに問う。
 何を考えているのか読めない、揺らぎのない声。それでも、自分の様子を窺っているのは分かった。
 真正面を向けば、同じ高さにある顔が見えてしまう。
 だからアシュレイは、コートを纏う肩に額をつけた。
「レオ」
 好きだ。
 そう、告げた。
 完全なる静寂の帳が落ちる。
 回した腕と額から、弟の呼吸が伝わってくる。
 いつもと変わらない、落ち着いたリズムを保っている。
 いや、でも。
 ほんの少しだけ、出入りする呼気が多いような。
(俺の願望かな)
 アシュレイは目を閉じる。
 肩口につけた額から、抑えた弟の声の振動が伝わる。
「兄貴が、俺を弟として大事にしてくれてるのは知ってるよ」
「そうじゃない」
 言ってから、アシュレイは首を横に振る。
「いや、やっぱりそうなのかも。俺には分からない」
 自分なりに考えてはみたのだ。
 しかし、答えは出なかった。
「弟としてなのか、人としてなのか。分からないけど、とにかく大事なんだ」
 どちらにしても差異はない。
 アシュレイが愛せたのは、今腕の中にいるただ一人だけだった。
「お前の代わりになる奴なんて、世界のどこにもいない。好きなんだよ、レオ」
 回した腕に力を込める。
「ごめん。伝えない方がいいって思ってたんだけど、もう無理だ。お前と生きたい」
 鼻先を肩へ埋める。
 弟の温もりを感じながら、何か言われるのを待つ。
 返事は、なかなか来なかった。
 困っているのだろうか。
 アシュレイが意を決して、顔を上げようとした時だった。
「アシュレイ」
 押し殺した吐息で、レオーネが呼んだ。
 彼はおもむろに、己が胴へ回わされた、揃いのライトグレーのコートを纏う右腕を持ち上げた。
 革手袋と袖の隙間から、手首が覗く。
 血管の透けるやわなそこへ、レオーネは口唇を寄せて噛み付いた。
「え? な、なにっ?」
 驚いたアシュレイの顔が跳ねる。
 兄の丸くなった目と、弟の流し目が合う。
 レオーネが歯を立てた痕へ唇を這わせる。
 驚きで過敏になった肌を、柔らかく湿った皮膚が労わるようになぞる。
 くすぐったいような、もどかしいような。
 形容しがたい感覚に、知らずアシュレイの息が浅くなる。
 身動きを忘れた兄の目の前で、弟はその手首の内側へ口付けたまま喋る。
「分かる?」
「な、何が」
「だよな」
 レオーネは睫毛を伏せ、自嘲気味に笑う。
 何だか、いつもと雰囲気が違う。
 アシュレイは唾を呑んだ。
「兄貴」
 弟の顔がこちらへ向く。アシュレイは身構える。
「おう」
「夕飯食べよう」
「えっ」
 レオーネはさっさとアシュレイの腕を解き、靴を脱ぎ始めた。
 ぽかんとする兄を放置して、夕飯の入った袋を手にリビングへ向かってしまう。
「……え?」
 取り残されたアシュレイは、立ち尽くした。
 何が起きたのか、理解できなかった。
 自分はどうも、弟の意図を把握できなかったらしい。
 分かるのはそれだけだ。
(あいつ、何を言いたかったんだ?)
 このままここにいても仕方ないので、アシュレイは靴を脱ぎながらここまでの話の流れを思い返す。
 ペアリングを買った。
 レオーネに好きだと伝えた。
 手首を噛まれて、口付けられた。
「待てよ」
 そこまで考えたアシュレイは、気付いた。
 告白の返事をもらっていない。
「レオ!」
 アシュレイはリビングに飛び込んだ。
 弟はキッチンでハンバーガーを加熱していた。
 つかつかと歩み寄る兄を振り返り、不思議そうな顔をする。
「何だよ」
「返事は?」
「何の」
「俺、レオに好きって言っただろ」
「言われたな」
 レオーネはあっけらかんと認める。
 だが、それだけだった。
 弟は速やかに夕飯の準備を整えていく。
 フライドポテトやサラダ、コーンスープをダイニングテーブルへ並べ、ピザをオーブンへ入れて再加熱する。
 アシュレイは流れるように動く弟の後ろをついて回り、問いただす。
「言われたな、じゃねえよ。返事は?」
「返事?」
 レオーネはやっと振り返った。
 胡乱な目を向けられる。
「何をどう返事すればいいんだよ」
「へ?」
「これ以上、俺に何を言えと?」
 アシュレイはぽかんと口を開けた。
 これは、自分の認識が間違っていたのだろうか?
 好きだから共に生きたいと言われたら、いいとかダメとかはっきり言葉を返すものなのではないだろうか。
(いや。でもまあ、飯食おうとしてるし、多分いいってことなんだろ)
 弟のことだ。ダメならばさっさとダメだと言っているはずである。
 それが何も言わないということは、恐らく「いい」という返事なのだ。
 そう考えていいはずだ。
 先程の手首を噛む行為が何故「いい」という返事になるのかは、さっぱり分からないが。
「まあ、うん。無理強いはしねえけど」
 アシュレイは独りごちる。
 電子レンジが、加熱終了のメロディを高らかに奏でた。レオーネとアシュレイはレンジのもとへ行き、それぞれ自分のバーガーが乗った皿を手にダイニングへ戻る。
 弟は平然としている。その横顔を眺めていると、やはりふつふつと込み上げてくるものがある。
「無理強いはしたくねえけど、やっぱり聞きたい」
 アシュレイは卓上に自分の皿を置く。
 それから、対面のレオーネを見つめた。
「レオは、俺のこと好きなのか? 勘違いしたくねえんだよ。悪いけど、ちゃんと形にしてくれないか」
「はあ」
 レオーネの返事は気怠げだった。
 何だか、駄々を捏ねて弟を困らせているような気分になってきた。
 申し訳ないような気持ちが湧いてくるが、すぐに思い直す。
(でも、好きかどうかははっきりさせといた方がいいだろ)
 言われずとも、レオーネが自分を好いてくれているらしいことは察してはいる。
 弟は昔から、「嫌」は言うが「好き」は言わないという癖があった。特に兄の自分に対してはその気が強く、揶揄い交じりに褒めることはあっても、好きだと言われたことは全くない。先日銭湯で言われた「格好良い」が、過去最高の表現である。
 そういう性格の弟なのだから、先程の手首への接吻が精一杯だったのだろう。
 これからもそのままで構わない。
 だが、今だけははっきり言ってほしい。
 ここで気持ちをすれ違わせたら、今後に響く。
「レオ」
「はいはい」
 アシュレイが話しかけるも、レオーネはあしらうように返事をしてまた歩き出す。
 キッチンへ行くのだろうか。
 引き止めるため、彼の進む先へ立ち塞がろうとした。
「なあ。レオって、ばっ?」
 行く手へ差し掛かろうとした時、急にレオーネが向きを変えた。
 キッチンではなく、アシュレイの方へ足を伸ばしたのだ。
 衝突しする。
 そう思ったアシュレイは、慌てて踏みとどまった。
 だが、レオーネは止まらない。
 それどころかアシュレイの頬へ手を伸ばし、そのまま顔を寄せてくる。
 近づいてくるそっくりな顔を前に、アシュレイは立ち尽くすことしかできなかった。
 軽く鼻先が触れ合い、唇に吐息が触れる。
 その近さに緊張する間も与えられず、気付けば互いの唇が重なっていた。
「……何、その反応」
 顔を離して、いつもの距離に戻ったレオーネが可笑しそうに言う。
 アシュレイは、ただただ口を開け閉めさせていた。
 声が何も出てこない。
 衝撃で、言葉を失っていた。
「え?」
 レオーネがオーブンからピザを取り出し、皿に乗せて運んでくる。
 その頃になって、アシュレイはやっと我を取り戻した。
「今……」
「何か、不満でも?」
 そう問われ、アシュレイはふるふると首を横に振った。
 レオーネはくつくつと笑う。
「どうしたんだよ、兄貴。初めてでもあるまいし」
「いや、あの。え?」
「ほら。冷めるから食べるよ」
 レオーネに促され、アシュレイは食卓についた。
 二人で食事前の祈りを捧げ、食べ始める。
 アシュレイは、作業的に物を口に詰め込むよう努めた。
 口唇に何かが触れる度、先程の感触を思い出してしまうからだ。
 どうしても意識が、食事と先程の出来事とを反復横跳びする。
(レオに、キスされた)
 アシュレイは混乱する頭で事実を確認する。
 自分の唇に、レオーネの唇が重なった。
 それは確かだった。
 何故。
 どうして。
 何のために。
 どうして、自分に。
 アシュレイの頭を、似たような疑問の言葉がぐるぐると巡る。
 思考が全く深まっていかない。
(いやいや。大丈夫だから一度落ち着け)
 アシュレイはポテトを齧りながら己に言い聞かせる。
 ちなみに対面の弟は、煩悶する兄を面白そうに眺めている。
 食べ始めた時からずっとそうだったのだが、アシュレイは全く気付いてない。
 目の前の光景を認識できていないのだ。まだ落ち着けるだけの余裕など戻ってくるはずがない。
 しかし彼は、それすら気付けぬほどに混乱していた。
(だって兄弟だろ。口に挨拶のキスくらいするって)
 愛情表現の大きいウェディあたりなら、親愛のキスを口にすることくらいあるんじゃないだろうか。
 アシュレイはされたことなどないし、身の周りにそういう挨拶をするウェディもいないが。
(じゃあしねーじゃん。何言ってんだよ俺)
 そもそも自分達は人間である。
 アシュレイは錯乱している己を叱咤し、一度静かに深呼吸をする。
 そして、弟が自分の告白への返事として起こした行動の意味を考える。
(キスしたってことは、レオは俺のことを好きなんだよな)
 そこは、そろそろ認めても良いのだろう。
 素直に喜んでいい。
 まさか、行動で示されるとは思わなかったが。
 アシュレイはハンバーガーを齧る。
 パテの表面はこんがりとしている。少し硬いくらいの方が、歯触りがちょうど良い。
(レオは柔らかかったな)
 ふとそんなことを考えてしまって、アシュレイの顔に朱が差した。
 現実の刺激を認識した心臓が、今頃になって早鐘を打ち始める。
 やめろ。余計赤くなるだろうが。
 己を罵ったところで、一度速まった鼓動は簡単に収まってくれない。
(キスくらいで、何をそんな)
 弟のからかいを思い出して、自分を戒める。
(何回もしただろ)
 歴代の彼女達と──そう考えて、気付いた。
 恋人同士がするようなことを、同じ血を分かち合う弟としてしまった。
 なのに自分は、彼からの好意を確かめて嬉しがっているだけで、何の葛藤も違和感も抱いていない。
(マジかよ)
 アシュレイは愕然とした。
 つまり、自分は。
「兄貴」
 レオーネが声を掛けてきた。
 アシュレイは跳ね上がる。
「な、んだ」
「手が止まってるけど。考えごと?」
 そう言って、レオーネはアシュレイの手もとを指差した。
 そこには、一口齧ったまま減っていないハンバーガーがある。
 食べるのを忘れていた。
 だがそれにしても、よくもまあそんなことを聞けたものだ。
「あのなぁ」
 アシュレイは弟をねめつける。
「急にその……されて、驚かねえわけないだろ。普通に、好きだって言えば良かったんじゃねえの?」
「いいだろ、別に」
 レオーネはうっすらと笑みを浮かべたまま、言う。
「ずっとしたかったんだから」
 アシュレイは今度こそ、ハンバーガーどころじゃなくなった。
 はっきり、全身が発火するのを自覚した。
 何か言わなくては。
 そう思うのだが、衝撃で飛んでいった言葉はまだまだ帰って来そうにない。
 口を薄く開いたまま閉じるのを忘れてしまったアシュレイに、レオーネは言う。
「お望みならば、もっとするけど?」
「え。う、あ」
 アシュレイは空いた手で顔を押さえた。
 茹だりきった情けない顔を、弟に見られたくない。
 僅かに残った矜持の欠片がそう願ったのだった。
「あー。えーと」
 アシュレイは顔を手に埋めた。
「心の、準備をさせてくれ……」
 分かったよ、とレオーネは笑う。
 目を細めた顔が、心底嬉しそうだった。
 兄の情けない様を目の当たりにしたくせに、何を喜んでいるのだろう。
 そう思いながらも、弟の喜びにつられて嬉しくなってしまっている自分がいる。
 それを認めて、アシュレイは苦笑交じりの溜息を吐いた。
(とにかく今は食べ終えて)
 彼は考えた。
(買った指輪をネックレスにしよう。その方が、確実に失くさないだろうし)
 アシュレイは食事を再開する。
 食べながらどうしても気になって、たまに弟の様子を窺ってしまう。
 すると、しばしば目が合う。
 視線を逸らすと、弟の笑う気配がする。
 妙に照れ臭い。
 こんな気持ちは初めてだった。
(本当に、好きなんだ)
 気恥ずかしさはあるが、胸が暖かい。
 アシュレイは、その温もりをこっそりと噛み締めた。