舞台後、深めて




※現代パロディ。
※ver6.0までのネタバレあり。
※レオアシュ。
※捏造祭り。
















 コロシアムはドーム状の屋根を持つ、巨大なすり鉢型の劇場である。
 鉢の放射状に広がる壁部分が観客席になっており、鉢底の舞台を見下ろして芝居を観賞する構造だった。
 舞台には、各種魔術の専門家達の叡智を掻き集めて磨き上げられた至玉と称される、特製の演出装置が備え付けてある。演出装置は、生物の呼気で噎せ返るような熱帯雨林から牧歌的な田舎の商店街まで、あらゆる景観を出現させることができた。さらに背景だけでなく、ド派手な爆発や銃弾の雨霰、小山のようなサメなどを投影することも可能だった。
 そこへ演者達が現れ、まるで初めからそこで暮らしていたかのようにいきいきと立ち回れば、たちまちすり鉢の底は生きた異界へと変貌する。そうして、瞬く間に観客達を濃密な物語の世界へと引きずり込んでしまうのだった。
 その日の観客席は、激しいチケット争奪戦を制した者達で満員となり、平時以上の熱気に包まれていた。近場の五大陸の種族だけでなく、遠方のナドラガンドや魔界から訪れたと思しき客の姿も見えた。
 館内には、この日の演目を告知するポスターが貼ってあり、八種族の男達の立ち姿と共に『アストルティアオールスターズ大参戦』という文句が謳われている。
 本日の公演は、アストルティア各界のスターが共演する一大ステージなのだった。
 やがて、舞台挨拶が始まる。初日を言祝ぎ感謝する言葉の後、開演のブザーと共に照明が落ちると、舞台上にはラッカランを模した欲望の街が立ち上った。
 各大陸のスター扮するプロの悪党十一人が、次第に舞台へ集まっていく。彼らは各々の持ち味を生かし、冷酷な野心家の営むカジノ破りをするのである。
 前代未聞の大作戦の顛末に、観客は呼吸を忘れて魅入った。この日、人生で初めて観劇をしたミナもそのうちの一人だった。
 物語が終わった後、ミナはしばらく喋れず、幻の歓楽街が立っていた辺りを見つめて放心していた。
「すごかったぁ」
「ね、楽しかったわね!」
 隣では、ミナをこの場へ誘った女子二人がきゃっきゃと笑い合っている。
 従姉のメレアーデと、その友人のアンルシアだ。
「初日とは思えなかったわ。リメイク前とはまた違った感じで、あらすじを知っててもすごく楽しめた」
「キャストもしっくり来てたわね。トーマさんの演技、新境地開拓してたんじゃない?」
「えへへ。メレアーデちゃんがそう言ってくれるなら、私の贔屓目じゃなさそうね」
 メレアーデの言葉に、アンルシアは照れたように笑み崩す。
「兄様が悪党役をするなんて想像できなかったんだけど、今の舞台を見たら考えが変わったわ」
 アンルシアは今日の舞台の主役を務めた十一人の一人、トーマの実妹だった。
 ミナより一つ年下の同級なのだが、家族の影響で幼い頃からコロシアムのファンだったらしく、まだ二十歳に届いていないのにダイヤモンドランクに到達しているという、生粋のファンクラブ会員だった。
 ミナ達の今いるボックス席も、彼女がダイヤモンド会員の権利で獲得した席である。彼女がいたから、ミナのようなぽっと出のコロシアム初心者でも、競争率の高い今日の劇を観戦できたのだ。
「ミナ。どうだった?」
 アンルシアが、ぼうっと舞台を見下ろしたままのミナに声をかけてきた。
 それに応えようとして、ミナは咳き込んだ。
「大丈夫?」
「ごめん。息吸うの忘れてた」
「ミナ」
 メレアーデがミナの足元の鞄と、コースターに収まったグラスを指差す。
 ミナは頷き、鞄から薬草と気つけ草を一枚ずつ取り出す。それを手元のグラスに満ちた透明な液の中へ落としてマドラーでかき混ぜ、一息に飲み干した。
 喉を駆け抜ける爽やかな甘みとアルコール。乾いた気道が潤う。
「あー、生き返った」
 ミナはグラスを置き、アンルシアに向き直った。
「で、何だっけ」
「初めての観劇、どうだった?」
「そう、それ!」
 アンルシアの白魚のような手を握る。愛らしいそれは、触ると意外にも硬い。
(剣ダコだ)
 ミナは、事前にメレアーデから与えられていたアンルシアの情報を思い出す。
 豊かな金の巻き髪、ぱっちりした二重の碧眼。
 白く華奢な身体に、天真爛漫ながら品位ある立ち振る舞い。
 誰もが口を揃えて可憐な美少女と呼ぶだろうアンルシアの正体は、グランゼドーラに古くから続く名家の娘でありながら、ラッカランスターへの憧れから剣術の腕を磨きすぎて、アストルティア全国武術大会剣術部門の絶対王者になってしまったという、筋金入りの武の道を行く女である。
 憧れへの強い思いを感じさせる掌を握りしめながら、ミナは格の違いを噛み締めた。
「あなたはあたしの勇者」
「え?」
 アンルシアは小首を傾げる。
 ミナは、さらに固く彼女の手を握った。
「アンルシアのお陰で、新しい人生が切り開かれた気がするんだ。だって、今日だけで推しが十人増えたんだもの」
「十人」
 アンルシアが反復するのに、ミナは頷いた。
「本当にありがとう。早く円盤が欲しい」
「ミナ、かっ飛ばしすぎよ」
 珍妙な会話に耐えかねたメレアーデが噴き出した。
「要は、今日のお芝居がすごく気に入ったってことね」
「もちろん! あたしったら、こんな楽しいのをどうして今まで見なかったんだろう」
 ミナは、メレアーデにも興奮で熱い顔を向ける。
「キャストの皆さんのあの、何て言ったらいいんだろう。イケメンじゃあシンプルすぎるし、でも何て言ったらいいのかな。イケオジ。あ、これも変わらないや」
「語彙力が消し飛んでるわね」
「うん。また飛んじゃった」
 ミナはしょげた。せっかくの感動を伝えられないのが悲しかった。
 メレアーデは自らの顎に手を添え、観たものを噛み締めるように目を瞑る。
「みんな、格好良かったわよね。ベテランの演者さん達のこれまでに積み上げてきた芸風と、物語の役が絶妙に噛み合っていて、その道のプロの悪党としての信憑性と迫力が素晴らしかったわ」
「そう、それ!」
 ミナが手を打つ。
 アンルシアも頷いた。
「ええ。俳優だけじゃない、様々な表現をする方が集まっている良さが表れた舞台だった」
「それに新進気鋭の俳優さん達の演技が加わって、勢いもあったわね」
 メレアーデが彼女を覗き込むと、桃色に染まった頬がこっくりと頷く。
「そうそう、最高だった!」
 ミナが飛び跳ねる。
「トーマさん、演技が上手だしアクションも凄い。お財布を抜き取るところなんて、前もって二人に教えてもらってなければ気づかなかったもん」
 デビューして最も日が浅いトーマは、悪党十一人の中でも新人の役回りだった。
 とんでもないミッションと曲者揃いの仲間達に揉まれながら成長する姿には、常に手に汗握らされた。
「あたし、賭博委員会のふりをするところが凄く好き」
「私も好きよ。初々しいのに、仕事はきっちりこなすところも格好良かったわ」
「ふふ。兄様を褒められると、自分のことみたいに嬉しくなっちゃう」
 アンルシアは目を細める。
「兄様は今日の舞台までに凄く頑張ってらしたから、聞いたらきっと喜ぶわ」
 もともと演技に長け、敏捷な身のこなしを得意とするトーマである。
 それでも驕らず努力を重ねたのには、舞台への並々ならぬ思い入れがあったからだとアンルシアは語る。
「周りが世界的に知られた名優揃いでしょう。自分も見劣りしない演技をしたいって言ってたの。それに、憧れの先輩と一緒の大抜擢だから絶対成功させるって意気込んでいたわ」
「憧れの先輩って?」
 ミナが訊ねると、メレアーデは笑みを浮かべた。
「あなたと同じよ」
「えっ。まさか、アシュレイさん?」
 ミナは声を上げた。
 アンルシアは首肯した。
「トーマ兄様は、アシュレイ様がコロシアムで本格的にお仕事をされる前、子役をされていた頃からのファンなのよ」
 実は私も同じで、と彼女は照れたように言う。
「アシュレイ様は子役の頃から、舞台の上に立つと誰よりも勇ましくて、オーラがある方だった。でも、年相応の無邪気さもあればたまにひどく老成した顔も見せる、そんな不思議な人だってお兄様は言ってたわ」
「なるほどなあ」
 ミナは感心する。
「すごく分かる。今日の舞台のアシュレイさんも、そういう感じだった」
 舞台上のアシュレイは、悪党グループの二番手役だった。
 アシュレイは今日の舞台に参加した演者の中で最年少なのだそうだが、青さは微塵も感じられなかった。人当たりが良く底の見えない、型破りでスマートな頭脳を持つ詐欺師の中に、先日テーマパークで見かけたやんちゃな青年は見受けられなかった。
「堂々としてて格好良かったわね」
 メレアーデが言うと、ミナは溜め息混じりに頷く。
「アシュレイさんに騙されるなら本望だわ」
「本人に伝えたら、きっと困った顔をするでしょうね」
 アンルシアが端末を見ながら言った言葉を、メレアーデが肯定する。
「そうね。アシュレイさんはすごくいい人だもの」
 ミナは首を傾げる。何故そこで、アシュレイの反応が出てくるのだろう。
 端末から顔を上げたアンルシアに、メレアーデが訊ねる。
「そろそろ?」
「うん。あのお店で待ってるって」
「そう。じゃあ行きましょ、ミナ」
「え、どこへ?」
 ミナが問うと、メレアーデは己の口に手を当てた。
「あ、ごめんなさい。言うの忘れてた」
 それから、こう言った。
「この後、トーマさんとアシュレイさんとお茶する約束なの。ミナも来るでしょ?」








+++



 鼻腔をくすぐるアールグレイの香りに一息吐いた時、トーマが言った。
「良いネクタイですね」
「ああ」
 アシュレイはカップを置き、首元を見下ろした。
 一見して漆黒だが、光を浴びるとやや崩した幾何学模様が浮き出るようになっている。遊び心のある意匠だ。
「だろ? 弟にもらったんだ」
 二人はトーマの妹とその友人に会うため、ラッカランの裏通りにある喫茶店に来ていた。
 コロシアムの関係者がよく利用する、一般には解放されていない店である。どこもかしこも磨かれた古い木目の艶やかな店内には、アシュレイとトーマの他に客がいなかった。店主に頼んで、貸し切りにしてもらったのである。
「よくお似合いです」
「ありがとな」
 今日は舞台の初日だったから、このネクタイを選んで付けてきた。自分専用のロッカーに鍵をかけて保管しておいても良かったのだが、大切な贈り物を置きっぱなしにしたくなかったので、ここまで身に着けて来ていた。
 二人は、いつもと逆転したような雰囲気の格好をしていた。カジュアルな装いを好むアシュレイがダークスーツの上下を纏い、クラシックな装いを好むトーマがシングルのライダースジャケットにパンツを合わせている。
 今後年始まで数週間続く公演で、役柄の理解を深めようとしているが故の行動だった。
「緊張した?」
「していた、かもしれません」
 トーマは珍しく、くたびれたような笑みを浮かべる。
「始まってみると、夢中でした。役そのものになりきっていて、私自身のことを考える余裕がありませんでした」
「それでいいんじゃねえの」
 アシュレイは言う。
「おっさん達も言ってたけど、上々の滑り出しだったと思う」
 各地を拠点とするメンバーが集まって稽古をするのには、それなりの苦労があった。だが今日は、その距離さえ上手く反映されていたと感じられるような、しっくりくる芝居ができた。
 絶妙な噛み合い具合で、逆に弛まないか心配なくらいだ。
 この調子でいこう。
 公演終了後、演者達は口を揃えてそう言い、今日は解散した。
 次の公演は一週間後だった。
「焦らず、楽しもうぜ。せっかくのでかい企画なんだからな」
「ええ。まだ夢みたいです」
 トーマは双眸を細める。
「まさか、あなたと共にコロシアムの代表として選んでもらえるなんて」
「俺も、トーマと一緒に演じられて嬉しいよ」
 アシュレイは微笑した。
「お互い頑張ろうな」
「はい」
「今日のお代は俺が持つよ」
「それとこれとは別です」
 トーマは首を横に振った。
「私のお願いで、ここへ来ていただいているのに」
「気にすんなよ。初日お疲れ様っていう、先輩からのちょっとしたお祝いさ。それに、お礼もしたいし」
「お礼?」
 きょとんとする後輩に、アシュレイは声を落として言う。
「前に、俺の個人的な相談に乗ってくれただろ」
 すぐに内容を思い出したトーマが、ああと声を上げた。
「弟様と、お話しなさったのですか」
「うん。あの後、話したんだ」
 アシュレイは先日の夜を思い返す。
 きっかけは、完全に事故だった。仕事の弊害で弟の人生を狂わせたらという仮定で『一生養う』と告げたところ、弟にこう言われたのだ。
 ──プロポーズみたいだ。
 揶揄うような笑みで指摘されて、大いに動揺した。
 自分の持て余している思いを、見透かされてしまったのではないかと錯覚した。
 慌てて弁明しようとしたが、アシュレイは嘘が付けない。
 過ぎた欲を抱く罪悪感と関係悪化への恐怖から、気付けば想定していたよりも多くのことを正直に喋ってしまった。
 ずっと共に暮らしたいこと。
 弟と一緒にいるのが楽しいこと。
 しかし、強制したくはないこと。
 それを聞いた弟は、しばらくの間黙り込んだ後、なんとこちらの思いを受け止めてくれたのだ。
「ずっと二人で暮らそうって、そういう話になったよ」
 弟は、男の二人暮らしは楽だからと合理的に提案を受け入れた。
 アシュレイは、トーマにそれだけ報告した。
 詳しく話すのは恥ずかしかったし、弟もきっと望まない気がした。
 誰もいない深夜の市街地で、ひっそりと紡がれた言葉は、自分の胸にだけあれば良い。
 ──誰よりも大事にするよ。約束する。
 そう言う双眸は、ひたと自分へ向いていた。
 嬉しかった。弟がはっきりと好意を口にするのは、相当に珍しいことだったからだ。あの時は、自分でも顔が火照ったのがはっきりと分かった。
(それこそ、プロポーズかと思った)
 何せ、あの時絡めた互いの薬指は、左手の方だった。
 弟も同じだけの気持ちでいるのではないかと思って、お前が一番大事だと答えてしまった。
 後から、その時自分達のいた場所がちょうど教会の前だったこと、それにかけて弟なりの言葉遊びをしたのだということに気付かされた時は、少し気まずかった。一人勘違いして照れてしまった自分が恥ずかしい。
 しかし、あの後帰途に着く弟は微笑んでいたし、以来特に変わった様子も見られない。そう悪い風には捉えられていないのだと思いたい。
「それは良かったです」
 トーマは破顔してくれた。
「うん。本当にありがとう」
「きっと大丈夫だろうと思ってました。弟様も、アシュレイ様のことをかなり好いていらっしゃるようでしたから」
 アシュレイは不思議に思った。
 会ってもいないのに、どうして確信できたのだろう。
 思いが顔に出ていたのか、トーマが言う。
「あなたの身に着けるものの多くは、弟様からのプレゼントでしょう?」
 常に身につけているネックレスは、四年前にもらった初めてのプレゼント。
 最近巻き始めたマフラーは、三年前にもらったもの。
 綻び一つない財布は、二年前にもらったもの。
 稀につけてくる腕時計は、去年もらったもの。
 そう完璧に並べ挙げた後輩に、アシュレイは感心する。
「よく覚えてるな」
「あなたの身の回りの品について訊ねると、全部弟様からの贈り物だと仰るものですから、印象深くて」
 トーマは微笑んだ。
「どれもとても良い品です。ネックレスとマフラーはお揃いなのでしょう?」
「ああ」
「プレゼントだけならともかく、自分にも揃いのものを買うなんて、よほど仲が良くないとしないように思います」
 それで、とても好かれていらっしゃるなと。
 言われて、アシュレイははにかむ。
「そうかな」
 その時、ドアベルが鳴った。
 軽やかな鐘の音と共に、ヒールが木目へ落ちるコツコツという響きが近づいて来る。
 現れたのは三人の女性だった。
 先頭を歩く美少女はよく知っている。トーマの妹、アンルシアである。
「お待たせしてごめんなさい」
 前髪を上げて露わになった細い眉をハの字にして、彼女は詫びる。
 アシュレイは片手を挙げた。
「気にするなよ。久しぶりだな」
「ご無沙汰しております、アシュレイ様」
 アンルシアは頭を下げる。
 その後、背後にいる友人達を示した。
「お言葉に甘えて、今日一緒に観劇した友人を連れて参りました。こちらはメレアーデ」
「初めまして」
 たっぷりしたポニーテールの美女が、スカートをつまんで膝を軽く曲げた。
「キィンベルのメレアーデです。どうぞ気楽に、メレアーデと呼んでね」
「よろしくな」
 アシュレイが応じ、トーマが会釈する。
 その後ろから、ロングヘアの女が出てきた。
 見覚えがあるな。アシュレイはそう思った。
「こんにちは。ミナといいます」
 女は緊張のせいか、硬い顔つきをしていた。
 そしてアシュレイを見据え、躊躇いがちにこう言った。
「その……レオーネさんの大学の後輩で、お二人のファンです」












 ここまで来るのにひどく葛藤した。
 ミナは、アンルシアのような古参でもなければ、メレアーデほど観劇に通ってもいない、ただの初心者ファンである。芝居のことを何も知らないに等しい自分のようなミーハーが、憧れのスターに会って良いのだろうか。
 加えて、なるべく遠目に見守りたいという、自分のファンの方針的にも、直接顔を合わせることには躊躇いがあった。
 しかし、だからと言ってここで避けるのも違う気がした。世話になっている先輩の家族なのだ。挨拶したい気持ちもある。
 ひとしきり迷った末に、メレアーデとアンルシアに大丈夫だからと背中を押され、約束の場所だという喫茶店へ足を踏み入れた。
 そこには、本当に先程まで舞台上にいた二人がいた。
 アシュレイとトーマ。ラッカラン名物コロシアム劇場の花形スターである。
 アシュレイは、目を惹き寄せられる男だった。舞台の外にいるのに、スポットライトを浴びているかのような錯覚を覚えさせられる。
 端正な容姿、引き締まった体躯、気さくな人柄、快活な言動。
 それらすべてが彼の華やかさの理由かと思われる一方で、それだけでないようにも感じる。
 何にせよ、彼には見る者の憂鬱を慰め、気分を華やがせる何かがあった。それがどこから来るのかまでは、ミナには分からなかった。
 トーマは正統派の貴公子だった。
 彼の今の服装は、舞台上で着ていたのに近いかなりラフなもので、窓辺に座ってジンジャーエールを飲む姿は、先程まで見ていた物語の登場人物そのままだった。
 しかし、こちらへと首を巡らせた瞬間から、全く別の人物の顔が現れた。
 王子のように品の良い温和な雰囲気を纏っているが、眼差しや佇まいに騎士の如き強固な芯がある。アンルシアが敬慕する兄だというのも納得の、優しいだけでない優男らしかった。
 ミナが自分を正直に告白した時、トーマは目を丸くし、アシュレイは大笑いした。
 予想していなかった反応に、彼女は戸惑った。笑わざるをえないほどの、失礼なことを言ってしまっただろうか。心配になったが、笑いが収まった頃にまあ座ったらと促すアシュレイの声は軽かった。ただツボにはまっただけらしかった。
「俺達兄弟のファンとは驚いたな」
 向かいの席に三人が座ると、アシュレイはにやにやしてミナに言った。
「すみません」
「何で謝るんだよ。弟にファンがいて、兄貴として嬉しくないわけないさ」
「弟さんがいるなんて知らなかったわ」
 メレアーデが言うと、アシュレイは軽く肩をすくめた。
「お互いのやりたいことの都合上、あまりおおっぴらにしないことにしててな。まさかここまで気付かれずに済んでるなんて、俺達も驚いてるよ」
 誰かが俺達を知ってるって言ってきたのは、今回が初めてだ。
 そう言うアシュレイの視線を受け、ミナは力を込めて頷く。
「誰にも言いません。お二人の邪魔になりたくないので」
「邪魔だとは思わないけど、そうしてもらえると助かる」
「私も秘密にします」
「私も」
 アンルシアが誓い、メレアーデも続く。
 彼女は次いでポシェットから小さなカードを取り出し、ウィンクと共に差し出した。
「人目を避けてのびのび過ごしたい時には、どうぞエテーネルグループをご贔屓に。弟共々、力になるわよ」
 他に使うことの許されない、一族の紋が入った名刺だ。
 そこには「エテーネルグループ代表補佐メレアーデ」と記されている。
 アシュレイは作法に従ってそれを受け取り、自分の名刺も差し出した。
「トーマから聞いてはいたけど、本当にエテーネルグループの経営者なんだな」
「中心は弟のクオードよ。私はお手伝い」
 メレアーデは、さりげなく自分の立ち位置を修正する。
 疑うのも無理はない。エテーネルグループと言えば、錬金術を中心とした技術開発から旅行会社エテーネルツアーズの経営まで幅広く手掛ける、誰しも一度は名を耳にしたことがある大財閥である。
 さらに、今の代表は一大リゾートをヒットさせた敏腕だ。その中心人物の一人が、こんなにも若く親しみやすい女だという情報は、なかなか飲み込みづらい現実だろう。
 ミナ自身、ある程度社会が分かるようになってきた頃に知ったエテーネルグループの評判と従姉弟の姿が噛み合わず、混乱したものだった。
「リゾートと旅行の手配ならエテーネルグループへどうぞ」
 メレアーデはにこやかに売り込む。
「今のオススメは魔界食べ歩きツアーね」
「その話、ぜひ聞きたかったんです」
 トーマが身を乗り出した。
「アストルティアの旅行会社で魔界旅行を企画するのは、エテーネルツアーズが初めてですよね。魔界への道のりは険しいし、アビスジュエルは高価だ。一般人の渡航は無理だろうと言われていたのに、いったいどうやって?」
「よくぞ聞いてくれました! それは、うちの従妹のおかげなのよ」
 メレアーデは隣に座るミナの肩を抱く。
「この子が高校生の時に魔界へ留学に行ってね。そこであっちの実業家と知り合いになったおかげで、アビスジュエルを使ったツアーを組むことができるようになったのよ」
「魔界に留学ぅ?」
 アシュレイが目を剥く。
 アンルシアも、信じられないという声を上げる。
「どうして魔界に? 大分平和になったというけれど、色々危ないでしょう?」
「まあその、色々やりたいことがあって」
 ミナは笑って濁した。その話は長くなる。
「過ごし方のコツを掴めば、楽しく暮らせるよ」
「まさか、数年前にナドラガンドに行けるようになったのも」
 トーマがミナを窺うので、首を横に振った。
「それは私じゃないんです。私の双子の兄が」
「あいつか!」
 アシュレイが膝を打った。ミナは驚く。
「兄を知ってるんですか?」
「そりゃあ、弟が親友だって言うからな。直接話したことはないけど、知ってるよ」
 レオーネが兄を、親友だと言ったのか。
 ミナは内心震えた。
 兄の名前が推しの会話に出た。
 その衝撃は大きかった。
「君のことも、友達だって言ってたけど?」
 激震である。
 ミナは竦み上がった。
「私が、友達!? そんな、レオーネさんは頼りになる先輩で、目の保養で──なんてこった」
 頭を抱えてしまう。余震でまだ脳みそがぐらついている気がする。
「今の言葉を学内の女子に聞かれたら、私の大学生活が激変する……」
「あいつ、そんなにモテてるのか」
 アシュレイの問いに対し、ミナは真剣に答える。
「ミーハーからガチ恋まで色々いますよ。去年の大学祭では六人当たって砕けたそうです」
「多いのか?」
「二日で六人ですよ。ガチ告白が四人、あわよくばが二人」
「あわよくば?」
 トーマが首を傾げる。
「あわよくば付き合いたいっていう人です。大学祭の時って、そういうの多いんです」
「詳しいのね」
「予防線を張るためよ」
 目をぱちくりさせるアンルシアに、かぶりを振ってみせる。
「だって、あたしはレオーネさんと噂になるわけにはいかないから」
「え、好きなんじゃないの?」
「好きっていうか、推し。先輩としては好きだよ。凄いなって思ってる」
 ミナは感嘆の溜め息を吐いた。
「先輩は学業、武芸、人格、何においても非の打ち所がない。それだけじゃなくて、ファッションにも詳しいの」
「ファッション?」
「入学したての頃、あたしの持ってたリリィアンヌのバッグをきっかけに話したことがあって」
 リリィアンヌは、近年一躍注目を浴びているブランドである。まちかど掲示板では、アストルティアの有名人らがその品を身に纏う姿が見受けられており、ファッションに関心のある人々の間でトレンドとなっている。
「レオーネさん、リリィアンヌのネクタイに興味があるって言ってたの。自分用じゃなくて、いつかプレゼントにしたいから勉強してるんだって言ってね。センスがいいわ。男性モノと言えばレテリオが定番だけど、最近はリリィアンヌもすごく評判がいいの。メンズファッション通のシガール町長は今、全身リリィアンヌで固めるのにハマっててね。シンプルだけどエレガンスで、すごく格好いいんだ」
「へえ、そうなんだ」
 アンルシアは頷いた。
 ミナは、視線を彼女の向かいに座るアシュレイへ──厳密には、その首に巻かれたネクタイへ移す。
「アシュレイさんのネクタイもリリィアンヌですよね?」
「へ?」
 アシュレイは目を丸くした。それから自分の首元を見下ろし、ネクタイを引っ張る。
「ああ、うん。そうだな」
「ここに来た時から気になってたんです。すごくお洒落でお似合いです! 兄弟そろって、ファッションに気を遣ってらっしゃるんですね」
「あ、ありがとう」
「オ待タセ致シマシタ」
 そこへ、機械的な声が割って入った。
 卓の横に、片手にシルバートレイを据え付けたキラーマシンがやって来ていた。
「ゴ注文ノ、キャラメルマキアート、ローズヒップティー、チャイ、デス」
 キラーマシンは機械仕掛けの腕を伸ばし、すいすいと飲み物を後から来た三人の前へ置く。
 そして、カシャカシャと音を立てながら店の奥へ引っ込んでいった。
 ミナは運ばれてきたチャイを片手に席を立つ。
「ちょっとトッピングしてきますね」
 この店には、無料でトッピングできるカウンターがある。そうメニュー表に書いてあったので、気になっていたのだ。
「あ、私も気になるから行くわ」
「私もミルクが欲しいかも」
 メレアーデが言い、アンルシアも立ち上がる。
 三人は揃って飲み物を片手に持ち、無人のバーカウンター近くにある目的地へ向かった。
 トッピングカウンターにはホイップクリームを絞り出す機械が一つ備え付けてあり、横にはキャラメルソースやスチームミルク、ザラメやカラースプレー、シナモンやココアなどの各種パウダーの他、飲み物に添えると良いものがこまごまと揃っていた。
 どれを選んだらいいだろう。
 三人はひとしきり悩んだ。








+++



 彼女らがトッピングに夢中になっている間。
 背後のテーブルでは、アシュレイが仄かに色づいた頬を隠すように顔を伏せていた。
「愛されてますね」
 囁く後輩に、勘弁してくれと返す。
 その声は、珍しく弱々しかった。