痴話XXX




※現代パロディ。
※ver6.3までのネタバレあり。
※レオアシュ。
※捏造祭り。
















 弟が自分を避けている気がする。
 そう気付いたのは、関係が変わってから初めて迎えた初春の頃だった。
 最初は気のせいかと思った。だが一ヶ月二ヶ月と経過するうちに、気のせいではないと確信した。家で弟の姿を見ない時間が長くなった。一緒にゲームをしたり、顔を合わせて話をしたりすることが減った。弟は自分の部屋に籠ることが多くなり、アシュレイの遊びの誘いも断って一人で外へ出掛けるようになっていた。
 何か嫌われることをしただろうか。
 アシュレイはまずそれを疑った。思いあたるのは、仕事の都合で連続一ヶ月以上家を空けたため、その間家事を弟に任せきりにしてしまったことくらいだった。
 だが、仕事で帰れないのはいつものことだ。自分がいる時より、いない時の方が家事の負担も少ないはずである。生活資金は口座に入っているので問題ないはずだ。
 以前と関係性が変化したからだろうか。
 アシュレイは弟と思いを確かめ合ってから、仕事にもより一層励みやすくなっていた。世の伴侶達のように届を出したり式を上げたりするわけではないし、むしろそういうことのできない関係である。だが、片手で数えることのできる回数だけでも、彼がはっきりと思いを口に出してくれたことは、二人の関係に対するアシュレイの安心を強めてくれた。
 弟も自分との関係がはっきりしたから、こまめにコミュニケーションを取る必要性を感じなくなったのかもしれない。
 もしくは単に、顔を合わせれば何かと弟を構いたがってしまう自分の癖を鬱陶しく思っているか。
 または、大学三年生になったから、いよいよ進路決断の時が近づいてきてそれどころではないか。
(それじゃないか?)
 アシュレイは三つ目の考えが近いのではないかと推測した。
 弟の将来について、アシュレイが口を出すべきことは何もない。弟はしっかりしていて優秀だから、好きな道を選んで生きていくはずだ。そう考え、そこからさらに二ヶ月程度、なるべく弟の気に障らないよう気をつけながら距離を置いて過ごした。
 そうしていても、弟の様子は変わらない。それどころか、むっつりとした顔で考え込む様子を見かけることが多くなっていた。
 何か、悩みがあるのだろうか。
 アシュレイは大学三年生の弟が悩みそうなことを想像した。だがすぐに限界を感じたので、端末で大学生の悩みについて調べてみた。確信の持てる答えは得られなかった。
 共通の友人に聞いてみたものの、大学関連で特に思い悩んでいる様子はないという。意欲ある優等生のレオーネは、卒業に必要な単位が足りそうになくて冷や汗をかくことも、この先の身の置き所に迷うこともなさそうだとのことだった。なお、人間関係も支障なく良好であるらしい。
 そうして色々と調べてみた中で、敢えて弟の悩みとして挙げることができそうなものは、一つしかなかった。
 それは行く先に悩む者達が皆共通して持つ悩み──先立つものが足りるか否かということだった。
 アシュレイは、大学のこともレオーネの専門のことも分からない。だが、資金だけは力になれるのではないかと考えた。彼には金の要る趣味がなく、そもそも多忙でその暇がない。弟に投資する余裕は十分にあるのだ。
 だからその日の夕食の席にて、彼はそれを弟へ伝えた。
 何か悩んでいるのかとは聞かなかったし、自分があれこれ調べたとも言わなかった。口にしたのは、これから選択したい道に金が必要ならば言って欲しいという言葉だけだった。
「いや、いいよ」
 だがレオーネは、その申し出をすげなく断った。
「助けないとまずいなって思うほど、俺が頼りなく見える?」
「そういうわけじゃねえよ」
 妙に刺々しいな。
 気に掛かったが、まずアシュレイは弟の問いを否定する方を優先した。
「俺はそういうのをよく知らないから、伝えるだけ伝えておこうと思って」
「兄貴は人が良いな」
 レオーネは薄笑いを浮かべて席を立った。
 食べ終えた食器を重ね、流しへと運んでいく。食卓とシステムキッチンとは対面式なので、弟が食器を運んで洗い始めてもそのまま会話を続けられる。
「そうか?」
「簡単に騙せそうだ」
「レオはそんなことしないだろ」
 首を傾げると、彼は鼻を鳴らした。
「とにかく。これ以上、兄貴に借りは作らないつもりだよ」
 アシュレイは眉をひそめた。
「兄弟なんだから、貸し借りなんてないって」
「お前のそういう考え方が、俺にとっては負債みたいなものなんだよ」
 締め上げられた蛇口が、短く悲鳴を上げる。
 自分の物言いが気に食わなかったらしい。
 そう察したアシュレイは、シンクへ目線を落したままの弟を見据えながら、柔らかな声音を心がけて話す。
「俺は、お前に何か返して欲しいなんて考えてないよ」
「そうだろうな。自立していない弟の援助なんて、とっくに一人前の兄貴にとっては取るに足りないことなんだろう?」
 レオーネは顔を上げた。左右非対称な笑みを浮かべる唇が吐き出す言葉は、褒める体で詰っていた。
「対等じゃないんだよ。一方的に優位な立場から気に掛けられて、自分が背負うべきだったものを肩代わりされる──与える側は、良いだろうね。けれど、与えられた側はそうとも限らない。自分の劣等を確認させられて、かえって重みが増したような気さえする」
 もっとも、兄貴はそういう立場に立ったこともなければ、気にもしないんだろうけれどな。
 丁寧に無知を咎められて、アシュレイは後悔した。無駄な気を回して、余計なことを言うんじゃなかった。己の大味な善意は、鋭い弟からすると許容しがたいものに感じられたのらしかった。
(馬鹿にされてると思ってるのか?)
 アシュレイは考える。
(そんなわけないのに。レオの方が、俺よりずっと色々できるんだから)
 客観的に見て、自分よりレオーネの方が何事も優秀なのは明らかだ。
 レオーネには完璧主義の気があった。己に求められることには全て応えようとし、応えられなかったら己に価値などないと見做す癖がついていた。アシュレイはそんな弟を心配していたが、同時に尊敬してもいた。その己が身を削るほどの完璧主義によって、彼が何事にも優秀になっているのも確かだったからだ。
 大体、兄が狭い了見で自分に重荷を負わせ、貶めてくると感じるならば、その浅慮に付け込んでやり込めてしまった方が、よほど意趣返しになるはずだ。
 そうせずに不満を述べるだけなのは、共に暮らす人間として、また血を分けた兄弟の在り様として不愉快だから、言動の癖を見直せということなのだろうか。
「悪かったよ。もう、そういうことは言わないようにする」
 アシュレイは素直に詫びる。
 だが、レオーネは満足しなかった。
「兄貴はいつもそうだ」
 洗い物はとっくに終わっているはずなのに、弟はシンクの前から動く気配がない。話すことに専念している。
 彼の抑えた声の調子に、アシュレイはふつふつと煮えたぎる噴火口を連想した。
「相手が自分を当たり前に受け入れると思ってる。自分が優位なのが当然で、下に立たされた側の気持ちなんて考えもしない」
「俺は、自分が上だなんて」
「思ってないって言うんだろ?」
 レオーネはぴしゃりと言う。
「その、意識すらしないところがそうだって言ってるんだよ」
 アシュレイは困ってしまった。
 自分の言動と、それをもたらす価値観が気に食わないということは分かる。
 しかし、謝ってもなお自分を詰る動機と、そもそも自分が弟に要らぬ気遣いをするきっかけになった、彼のここ最近の塞ぎ込みの理由が分からない。
(俺、他に何かしたか?)
 思い起こしたが、最近は顔を合わせる時間すらほぼなかったので心当たりがない。
 それでも誠意を伝えようと、口を開いた。
「ごめん、レオ。すぐにうまくはできないかもしれないけど、直すから」
「直す? 分かってないくせに」
 看破されていた。
 アシュレイが次の句を探している間に、レオーネは一人嘆息する。
「昔からそうだ。俺ばっかりお前のことを考えて、お前は俺のことなんて全然考えない」
「おい。それは決めつけすぎだろ」
 後半の言葉が耳に刺さり、思わず反論してしまった。
「どこが?」
 弟は眉を吊り上げる。
「考えてないのは事実だろ」
「確かに、俺はレオほど色んなことに気づけねえし、考えるのも苦手だよ。それは自分でも分かってる。できるもんならどうにかしたいさ。でも、俺なりにレオのことを考えてはいるんだよ」
「でも、俺ほどではないよな」
「だから、俺なりに考えてるって言ってるだろ」
「それを考えてないって言うんだよ」
「お前と同じ思考をしろってことか? なら教えてくれよ」
 繊細な弟を傷つけたくない。
 その思いで抑えていた舌が、勢いを増していく。
「お前は、俺について何を考えてるんだ? 俺のどこが不満で、何が嫌で、どういう風になるといいって考えてるんだよ」
「さっき言っだだろ」
「恩着せがましくするのをやめろって? それならさっき、言わないようにするし考え方も直すって言ったよな。それ以上に何を考えろって言うんだ」
「俺にばっかり言わせるなよ。不公平だろ」
「これは公平とかそうじゃないとか、そういうのとは別じゃないのか?」
 気付けばアシュレイは立ち上がり、両腕を広げて身振りまで交えながら熱弁を振るっていた。
「レオはレオで、俺は俺だ。俺達は別の人間で、考えも行動の癖も別になっちまうのは仕方ないだろ。それを寄り添えるようにするために、お互いを確認する必要があるんだ」
「なら尚更、お前がどう考えたのか教えてくれないと」
「俺は、レオが好きなように楽しく生きてくれればいいと思ってるよ」
 アシュレイはまずそう打ち明けた。
「ずっとそう考えてる。だから、お前のために何かしたい」
 最近元気がなさそうだったから、何か悩んでるのかと気にしていた。
 自分を避けている気がして、踏み込まないようにしていた。
 アシュレイがそのように告白すると、レオーネは笑った。
「ほら。分かってない」
 苦しそうな顔だった。かぶりを振れば、長い髪が肩を叩く。
「兄貴は何も分かってないよ」
「なら、教えてくれよ」
「教えたら意味がないだろ」
 レオーネがキッチンを出た。そのまま食卓の横を通り、リビングを出て行ってしまう。
 アシュレイは逡巡の後、彼を追った。自室から出てきた弟は、外行きの服に着替えてリュックを背負っていた。
「どこ行くんだよ」
「友達の家。しばらく戻らない」
「え?」
 アシュレイは目を瞠った。急な宣言に頭がついていけなかった。
「どういう」
「お前がいない間、結構泊めてもらってた。だからこのまま行っても十分生活できる」
 明日から夏休みだから、服の替えも荷物も最低限あれば問題なく暮らせる。
 レオーネは言いながら、玄関で靴を履いている。
 そして立ち尽くすだけのアシュレイを振り返り、苦笑した。
「ほら、知らなかっただろ。本当のところ、お前は俺のことなんて考えなくても生きられるんだよ」
 アシュレイは何も言えなかった。吐き出されたレオーネの言葉が頭にわんわんと反響して、自分の言葉が浮かばなかった。
 レオーネは顔を逸らした。
「なのにお前は、俺を好きだって言う。お前のそういうところ、本当に嫌いだよ」
 ドアが開き、レオーネの背中を吸い込んで閉まった。
 アシュレイはしばらく、その場から動けなかった。








+++



 先輩が日がな一日、自分の家の窓辺で暮らしている。
 エクスは未だ信じられないリビングの光景を前に、途方に暮れていた。
 先輩のレオーネを初めて家に泊めたのは、今から四か月前のことだった。電話が掛かってきて、近くに来たからついでに家へ寄ってもいいかと訊ねられた。エクスは妹のミナと二人暮らしだったが、妹はちょうどその夜友達の家へ泊りに行っていたので、軽い気持ちで頷いた。
 少し待つと、レオーネがやって来た。春の嵐の訪れる夜、玄関で強風に髪を嬲られる顔は暗く物思いに沈んでいた。
 何かあったのだろうか。エクスは彼を家へ入れた。リビングへ落ち着いたレオーネはしばらく当たり障りのない話をしていたが、やがて会話に挟まる沈黙が長くなっていった。
 しばらくして、彼はやっとその顔を澱ませるものをぽつぽつと吐き始めた。
「俺にはあいつだけなのに、あいつは違うんだ」
 あいつとは、レオーネの兄のことだった。
 兄は売れっ子の俳優で、活躍の幅はますます広がっているところだった。舞台、広報、トークショー。さらには映画のオファーまで来たということで、仕事で家へ帰れないことが増えていた。
 どのような予定で動くか、次いつ帰るかは教えてくれるが、連絡を寄越さない日も多い。
 それで、不安になったということらしかった。
「お兄さんに、もう少し連絡してって言った?」
「言ってない」
「伝えた方がいいんじゃねえの?」
「言いたくない」
 何度か提案したが、レオーネは頑として頷かなかった。
「あいつの邪魔になりたくない。あいつは俺のことなんて大して気にならないんだから、このままでいい」
 本当にそれでいいならば、自分へ愚痴を吐きには来ないだろう。
 兄に自分のことを気にして欲しいのだ。エクスはそう捉えた。
「俺はお兄さんのことを直接的には知らないから、何とも言えないなあ」
「あいつは強い」
 レオーネは言い切った。
「俺とは違う。だから俺みたいに、会いたいとも話したいとも思わないんだよ」
「そうなのかなあ」
 エクスは首を捻った。
 弟を信じる気持ちが強いから。仕事が本当に忙しいから。
 何にしても、レオーネとは気性が違うというそれだけの話ではないだろうか。
 先輩は口元に自虐的な笑みを浮かべていた。
「あいつのことを考えると、俺は自分が余計惨めに感じられて嫌になる」
「惨めだとは思わないけど」
「惨めさ」
 会えない時間に兄は耐えられるのに、自分は耐えられない。
 兄は、自分を信じているから連絡をしないのだ。そう思いたいが、寂しさと不安で信じきれない。他の者に心を移していたら、自分のことなど考えてもいなかったらと考えると、孤独が増してどうしようもなくなる。
 レオーネはそう己の心情を吐露した。
 彼の真面目さと繊細さが、精神を良くない方へ転がしていた。いつもの自責の癖が出ていた。強まった自己不信が、自分と分かちがたく存在する兄へと投影されている。それが彼自身の孤独を深め、首を絞めているように思われた。
「レオさんが自分を責めることはないよ」
 エクスは慰めた。
「どんなに仲のいい兄弟でも、年を重ねていけば考え方や好みや人との付き合い方はそれぞれ変わってしまうものなんだから」
 血の繋がりに関係なく、ヒト同士の共生には互いの意見と価値観の確認と、それを通じて程よい距離感を察することが不可欠だ。
「今は、その確認の時が来たってことじゃないかな。レオさんの在り方を責める必要はないよ」
 エクスの話を、レオーネは黙って聞いていた。
 聞き終えてから、ぽつりと呟いた。
「兄貴は、俺が望めば絶対に応えようとする」
 それから耐え切れなかったように、苦笑を漏らした。
「そんな風に言い切れるなんて、惚気だと思うかもしれない。実際、幸せなことだよ。でも、それは恐ろしいことでもあるんだ。何故か分かるかい?」
「どうして?」
「俺が望んだ途端、あいつは躊躇いなく自分の思いを無かったことにするんだ」
 レオーネは笑みを消した。
「あいつは他人の望みを自分の望みとして信じて、叶えようとする」
 自己犠牲ではない。無私なのだ。
 兄は兄自身に淡白だった。その潔さ故に他人を受け入れ、染まることのできる人なのだ。他人の願いを叶えることを優先するあまり、自分のことなど何も考えてないのではないかと思うことさえある。
 彼はそう語り、目を眇めた。
「俺が望めば、あいつは応える。俺の言う通りにして、俺が望む以上に忠実に応えてくれるだろう」
 細まった双眸に、歪んだ口元。
 その表情は、笑っているようにも苦しんでいるようにも見えた。
「俺は、無理させてまであいつに一緒にいてもらいたいわけじゃないんだ。あいつを苦しめたくない。苦しいのが俺だけならば、それでいいんじゃないかとも思う」
 嘘じゃない。本当にそう思うんだ。
 そう言いながら、レオーネは手で顔を覆う。
「でも、あいつが無理してでも応えてくれると──嬉しく、なってしまう。我慢し続けるのは、辛いから」
 俺は、どうしたらいいんだ。
 泣きそうになっている先輩を一人にできず、結局その夜は家に泊めた。
 それから度々、レオーネは泊まりに来るようになった。彼の兄はほとんど帰ってこないらしかった。ここまで帰ってこないことはこれまでになかった。彼はそう話した。
「まあ、あいつだからな。人気が出て忙しくなるのは当然だし、脇目もふらずに頑張ってるんだろ」
 理解しているようなことを言っていたが、一向に薄れない沈み込んだ雰囲気は、納得できていないことを物語っていた。道理は分かっているが、気持ちのやり場がないようにも窺えた。
 それでもこれまでは、妹のいない日に一泊するだけだったのだ。
 回想から戻って来たエクスは、手元の端末の画面を見た。連絡なしにやって来た彼を泊め始めてから、今日で二週間が経っていた。
 妹は事情を飲み込み、親戚のところへ泊まりに行っている。いくら信頼している仲の良い相手でも、同じ屋根の下に二人を置くのは気が進まなかったので、彼女の物分かりの良さには救われていた。
(我ながら、何でここまでしてるんだろうな)
 窓辺に座る髪の長い横顔を見つめながら、考える。
 彼の兄に対する告白を聞いた時から、何故か放っておけなくなっていた。彼の生真面目さと決断力が、何か取り返しのつかないことを引き起こしてしまうのではないかという懸念が拭えないのだ。
 レオーネはここで、パソコンを使って研究を進めたり本を読んだりしていることが多かった。たまにエクスが誘えば外へ出たが、どこか物憂げな空気は変わらない。
 近頃は気もそぞろに、窓からココラタの浜辺の方を眺めてぼんやりしている様子をよく見かける。今もそうやって青い水平線を眺めていた。
 外はカンカン照りだが、室内は空調が効いてひんやりとしている。窓の向こうの眩さとは対照的に、彼らのいる部屋は浅い海の底のように薄暗かった。
「レオさん。何か飲む?」
 酒以外なら何でもある。
 そう声を掛けると、レオーネは首を横に振った。
「悪いな」
 飲み物について言っているのかと思ったが、違うらしかった。レオーネは少しこちらを見つめて、目を伏せた。
「君に、迷惑をかけて」
「俺のことはいいよ。どうせ、夏休みには何の予定もなかったし」
 故郷のエテーネ島へ帰省することにはなっているが、それはまだ先の話だ。
 彼にもそれは伝えてあった。そう長くは世話にならないつもりだと言っていたが、まだここを出ようとはしなかった。
「今」
 レオーネが何か言いかけた。
 エクスが軽く首を傾けて続きを促すと、また口を開く。
「どこか、借りられる部屋を探していて」
「家に戻らないの?」
「戻っても辛いだろうから」
 凛々しい顔立ちに、陰のある笑みが浮かぶ。
 この人、案外考えてることが率直に出るよな。エクスはそんなことを考えた。
 大きく顔の筋肉を動かさないため、これまで分かりづらく思っていたが、連日一緒にいると見慣れてきて、自分の認識が違っていたことに気付かされた。表現される内容こそ少々複雑であるものの、彼の思考や感情は、乏しいながらもストレートに表へ出ていた。
「あいつには、寂しいって発想すらなかった」
 レオーネはここへ来てから繰り返していることを、また言った。
「俺は寂しかったのに。またあれが繰り返されるのは、ちょっと」
「お兄さんにちゃんと寂しいって言った?」
 訊ねるも、返事はない。
 無言は否定を意味していた。
「もっと言ったら?」
「嫌だ」
 レオーネは眉間に皺を寄せた。
「俺ばっかりそういうことを言う羽目になる。対等じゃない」
「対等って」
 エクスは首を捻った。
「お兄さんに、自分と同じことを言って欲しいってこと?」
「あいつに合わせて欲しいんじゃない。俺があいつに憧れていて、でも、あいつといると俺達の違うところばかり目について嫌になるんだ」
 それなのに、兄は気にしてくれない。
 自分を柔軟に受け止める兄の愛情は、浅いようにも無辺にも思えた。
 その無邪気に慕うような言動に惑わされるのは楽しいが、胸が締め付けられて苦しくもあった。
 もはや、愛しさ余って憎くさえある。
「もう、どうしようもないんだ。この勢いで何も言わずに離れた方が、お互いのためにもなるんじゃないかと思う」
 レオーネはそう言って、またパソコンへ目を落とした。
 その時、チャイムが鳴った。エクスは調べ物を再開した先輩を背に、リビングのドアを閉めて廊下から玄関へ到る。
 扉を開けた向こうには、真夏の晴天を背負った妹がいた。自分と同じ茶髪を背後へ流し、丈の長いランプブラックのワンピースを纏っている。
「お前。何か物を取りに来たのか」
「違う」
 ミナは兄の、Tシャツに短パンという簡素な格好へ検分するような視線を送った後、背後のリビングを窺ってから囁いた。
「ちょっとだけ、出られる?」
 エクスは頷き、ドアの外へ自分の身体を出して後ろ手に閉めた。
 たちまち、太陽の熱に炙られた風が身体を包んだ。汗が滲むのを感じながら、声を落として妹へ問う。
「で、どうしたんだ?」
「兄さん。今日で二週間よ」
 先輩のことで来たのだ。そう察したエクスは状況を説明する。
「そういうわけで、まだもう少しかかると思うから」
「あたし、レオーネさんを追い出したくて来たわけじゃないの」
 妹は首を横に振り、声を押し殺した。
「兄さんのことだから、友達を見守ってるだけっていうのは分かってる。でも、他人の恋路に介入しすぎると、余計拗れるよ。今、アシュレイさんの側から見たら自分が浮気相手の一歩手前みたいな立場になってるの、分かってる?」
 浮気の一歩手前。
 薄々思ってはいた。だが改めて言葉にされると、その生々しさに顔を顰めずにはいられなかった。
 レオーネは大切な友人で、それ以外のものにはなりえない。そう自分は思っているが、周りも同じように思ってくれるとは限らない。
 毎日連絡が来るの、とミナは眉をひそめた。
「アシュレイさんからよ。レオーネさんが家を飛び出したその日に、お姉ちゃんづてで連絡が来た。それで連絡先を交換してから、ずっとやりとりしてる」
 弟はどうしているか。
 いつもの明るい調子で何でもない話も交えながら、必ずそれを聞かれるのだった。
「喧嘩したから気になるんだ、迷惑をかけて申し訳ないって。そう言うけれど、レオーネさんのことが気になって心配してるんだわ」
「そうは言っても」
 エクスは閉めた扉を見やった。
「レオさん、離れた方がいいんじゃないかって」
「本当に離れたかったらさっさと次の家に住んでるわよ」
 ココラタあたりならば、学生のバイト代だけで暮らせる家がいっぱいあるんだから。
 そう言って、ミナは扉を指さした。
「直接、レオーネさんと話をさせてほしいの」
「お前が話すのか?」
 エクスは信じられなくて目を見開いた。
「アシュレイさんじゃなくて?」
「あたしだって、本当は遠慮したいよ。ファンとしての在り方的にレギュレーション違反だし──そもそも今はファンだなんて言ってる場合じゃないけど──あたしが出張るのは綺麗じゃないわ」
 あたしは綺麗な花の間に挟まるのはまっぴらなんだから、とミナは盛大に顔を顰めた。
「本当はアシュレイさんを連れてこようとしたんだけど、頷いてくれなくて。多分、そろそろ限界なんだと思う」
「何で分かるんだよ」
「友達のお兄さんがアシュレイさんの同僚なの」
「いつの間にそんな人脈持ってたんだ?」
「それは今はいいでしょ」
 マンションの廊下を素早く窺い、ミナは息だけで囁く。
「兄さんも、何となく思ってるよね? レオーネさん、この流れで一人にしたら何をしでかすか分からないわよ」
 最悪、死ぬかも。
 そう真顔で言われて、背筋がひやりとする。
 自分ほどの付き合いのない妹までそう言うのが、何かの予兆のようで恐ろしかった。
「まさか」
「あり得るよ」
 レオーネさんは思いつめやすいから、と淡々と言う。
「アシュレイさんは、レオーネさんが自分で家を出るって言ったら反対はしないだろうね。誰かを責めることもしないと思う。あの人も自分を責めやすい人だから」
 ミナは少し高い位置にある兄の顔を見上げた。
「でも、兄さんは後悔するかも。このままレオーネさんとアシュレイさんが別々に生きることになったら、レオーネさんを友達として受け入れていた兄さんは、その立会人として一生何かにつけて今のことを思い出すんだから。それでもいいの?」
 エクスは黙り込んだ。
 あたしに話をさせて、とミナは乞うた。
「二人のことは二人で決めた方がいいわ。もう一度、本人達に話をしてもらった方がいいと思う。そう、レオーネさんに伝えてみるから」
 躊躇ったが、追い返す口実も思いつかなかった。
 無茶するなよと念押しして、家のドアを開けた。妹は二週間ぶりの我が家に足を踏み入れ、迷わずリビングへと直行した。
 レオーネは、依然として窓辺の椅子に腰かけていた。戸を開けたミナと目が合うと、パソコンを脇へ押しやって立ち上がった。
「やあ。ずっと邪魔していて申し訳ない」
「いえ。こちらこそ、作業中の所をお邪魔しちゃったみたいで」
 二人は微笑み合った。互いに用心深く様子を窺っているのがありありと伝わってきて、少し離れて見守るエクスは緊張した。
 ミナはこちらを向いていたモニターを一瞥した。
「おうち、探してるんですか?」
「うん。一人で暮らそうかと思ってね」
「アシュレイさんから毎日、連絡が来るんです。レオーネさんがどうしてるかって、気にしてます」
 ミナは直入に切り出した。
「一回、住所を教えるから会いに行ったらどうかって伝えたんです」
「へえ」
 レオーネの表情は変わらなかった。
「でも、『レオは俺に会いたくないだろうから、やめとく』って」
「あいつらしいな」
 レオーネは苦笑した。ミナは首を傾けた。
「お話、されないんですか」
「話したところで、俺達は変わらない」
 かぶりを振り、肩を竦める。
「合わせる努力をしても合わないんだから」
「そうですか」
 ミナは頷いた。
「アシュレイさんに、ちゃんと合わせてほしい内容を伝えました?」
 レオーネは目を細くした。口元は弧を描いたままだったが、眼差しは笑っていなかった。
「今日は、随分踏み込んでくるね」
「二週間の家賃と、あなたへのお兄さんの着信をあたしが受けた代わりだと思ってください」
「君は、もう少し淑やかな子かと思ってたんだけどな」
「あなたがあたしにさして興味がなくて、誤解してただけですよ」
 ミナは己の胸へ手を当てる。
「こんな真似は滅多にしません。でも、放っておけなかったから」
「立派なことだね。兄貴と俺のファン、だっけ?」
 レオーネは嗤う。
「前に兄貴から聞いたよ。おかしなことを言う。俺達みたいな外見がお気に召したのかい? そのくせ、こういう状況になったら途端に兄貴の味方をするんだから、結局のところ俺のことはどうでもいいんだろう」
「いいえ。正直なことを言うとあたし、二人とも同じくらいの二の次なんです」
 ミナは言った。
「二人を眺めている自分の時間が楽しかった。ファンはどんなに献身的な顔をしていても、突き詰めてみれば他人をネタに自分の満足を追いかけているもの。身勝手な存在なんですよ」
 だから、あなた達に近づきたくなかった。
 ミナはそう告白して、レオーネを見つめ返した。
「ファンだのなんだのはいいんです。それはそれとして、すれ違う人達は見過ごせなくて」
「何だって?」
「言わないと伝わらない。抱え込んできてどうしようもなくなってしまった以上、あなたはどちらにしたって傷つく道を選ぶことしかできない」
 抱え込んで傷つくか、打ち明けて傷つくか。
 ミナは呟いた。
「生きることは傷つき、傷つけること。どうしたって痛いから、それを自覚する前に、幼いうちから永遠に効く麻酔を仕込むんです」
 それは時として道理や倫理と呼ばれる。
 彼女がそう言うと、レオーネは短く笑い声を漏らした。
「面白い言い回しだな。でも、随分効きの悪い麻酔だと思うけど」
「覚めると、痛みがガツンと来るでしょう?」
 ミナは答える。
「同じ麻酔を打たれた人との関わりで薬を足して夢を維持しないと、痛むんです」
「それなら、生きることそのものに救いはないんだね」
「そう。でも、辛い分夢が生きる希望を与えてくれることもあるでしょう?」
「束の間の幻だ。確かじゃない」
 レオーネは吐き捨てる。
「確かなのは痛みだけだ」
「だからあなたは、痛むところを見つめないと生きた気がしないのですか?」
 ミナは冷静に問う。
「苦しみも不安も幻です。あなたの夢に付随する影」
「夢が鮮やかな分、影も濃くなる」
「同じように鮮やかなら、夢の方を確かだと思ったっていいのに」
「失った時が辛い」
 レオーネは呟いた。
「怖いんだ。嫌われるのも、離れていくのも、無くしてしまうのも、全部嫌だ」
「だから何も持ちたくないのですか」
 ミナが訊ねると、レオーネは頷いた。
「いっそ、そう感じてしまう全てを変えられたならいいのに」
 何が起きてるんだろう。
 淡々と交わされる言葉を聞きながら、エクスはそう考えた。最初こそあわや舌戦になるかとハラハラしたが、いつの間にか会話は沈着な問答に変わっていた。
「全てを変えるって?」
 ミナが訊ねると、レオーネは平生の調子で答える。
「そもそもの人間の仕組みに問題がある。意識が独立して存在してるから、その差異から軋轢が生まれるんだ。それを調和するように、全ての意識を繋げてしまえたらいい」
「繋げてしまうって?」
「差異を無くすんじゃなくて、全ての意識を一つの共同体の一部に組み込むんだ」
「それは、人体と細胞みたいなものってことでしょうか? 共同体が人体で、個々の意識が細胞」
「そう」
「あなたの望む調和なら、それでいいでしょうけど。共同体だとしても、調和のためにはルールが必要です。ルールにあなたの失いたくないものが触れてしまったら、存在を変えられてしまう。失われたも同然になるんじゃないでしょうか?」
「生き続けるなら問題ないさ」
「あなたの好むところが生き続けるなら、でしょう?」
 ミナの言葉に、レオーネは肩を竦めた。
「そうだな」
「ならあなたが失いたくないのは自分の心の安寧であって、あなたの執着するヒト本人ではないということでしょうか」
「分かったよ、そうだ」
 先輩はくすりと笑みを零し、両手を挙げた。
「なるほどね。つまるところ、君は俺がアシュレイに不満を持ってるんじゃなくて、俺自身に不満を持っていると言いたいんだな?」
 ミナは目を丸くした。エクスは、自分も今同じような顔をしているだろうと思った。
 これまで、この先輩が傷つくのを恐れてエクスが言うに言えなかったことを、レオーネは自分で悟ったのだ。
「あたしは」
 ミナは先程までの澱みない語りから一転して、おずおずと言う。
「レオーネさんもアシュレイさんも、悪くないって言いたかったんです。人間の仕組みがよくないんだって」
「人間の知覚は、その個体の枠組みから出られないからな」
 レオーネは笑っていた。これまでの沈痛な面持ちが和らぎ、どこか柔らかな雰囲気を纏っている。
「何も知らない空虚な自我に囚われる限り、俺達は心の安寧をもたらしそうな理想の主人を求め続ける自主的な奴隷になるわけだ。満足いかなかったら主人をすげかえて、また隷属ごっこをする。自分が確かだと思えない以上、他人に導いてもらう方が楽だ──そうだな。確かに、そう思っていた節があるかもしれない」
 レオーネは独りごちて自分で納得した。
「兄貴は確かに俺の理想だけど、代わりはいないし代えようとも思わないから、そういう対象とは違うな。兄貴に安心させてもらおうと思ってたこと自体が間違いだったってことか」
「間違いとは思わないですけど」
 ミナは人差し指を顎に当てて、考え込む仕草をしながら言う。
「他人に寄りかかりすぎると危ういかな、とは思います。それはそれとして、好きな人に会えないって普通につまらなくないですか?」
「君にもそんな感情があるのか」
「他人様の事情に踏み入って余計なお節介してるのは自覚してるんで何も言い返せませんけど、急に辛辣じゃないですか。今までの優しいレオーネさんは?」
「さっきの弁舌家っぷりを見せられたら、印象が大分変わるよ。今、君のことが男友達に見えてる」
「どういうことですか」
 レオーネの言葉に、彼女は目を剥いた。
「あたし生意気だったかも、とは思ってます。でも、何で性別の印象が変わるんですか?」
「即興であれだけ論理練れたらそうなるだろ」
 エクスは片手を振る。
「大審門チャレンジ大魔王タイトル保持者の貫禄が滲み出てたぞ」
「え? 君、大魔王なのか」
 レオーネが眉を持ち上げた。
「それなら弁舌も強いわけだ。世界は広いな。今度から大魔王サマって呼んでいいかな?」
「レオーネさんと話すだけでも大学で目立っちゃうのに、そう呼ばれたら余計面倒臭いことになるから嫌です」
 ミナは眉根を寄せた。
「とにかく、二人は付き合いたてですよね? それで何ヶ月も好きな人と会えなくて連絡も取れない状態が続くのは、レオーネさんじゃなくてもつまらないと感じると思いますよ。今後のためにも、具体的にどういうお付き合いをしたいか、話し合った方がいいと思います」
「ああ。そうするよ」
 レオーネはすんなり了承した。
 脇へ退けていたパソコンの電源を落とし、身の回りの品を全てリュックへ収める。
 元々持ってきたものが少なかったため、レオーネの身支度はあっという間に整った。
「二人とも、長い間すまなかった。帰ってあいつと話し合ってみる」
「本当に大丈夫?」
 リュックを背負う先輩に、エクスは訊ねた。急に方針を変えて動き出したので、心配になったのだ。
 だがレオーネは、いつもの笑顔で頷いた。
「俺は大丈夫。落ち着いたらまた連絡するよ」
 そう言って、躊躇いなく外へ出て行った。
 兄妹は、玄関口でドアが閉まるのを見届けた。遠ざかる足音が聞こえなくなった頃、妹が兄を見上げた。
「兄さん、尾けてくれる?」
「え。俺?」
 己を指さすエクスに、ミナは首肯した。
「大丈夫だとは思うけど、万が一もありえるから。そういう時、兄さんの方が適任でしょ」
「分かったよ」
 エクスは鞄を取ってくる。玄関で靴を履くその背中へ、ミナが声を掛ける。
「家にちゃんと入るところまででいいから」
「おう」
 兄は出かけて行った。
 一人になったミナはドアを施錠する。そうしてふと、我に返ったように呟いた。
「何で他人の痴話喧嘩に、ここまでしてるんだろう」
 兄と全く同じようなことを口にしているとはつゆ知らず、かぶりを振って久しぶりの自室へと戻っていった。








+++



 兄は幼い頃から、レオーネが胸の内にひっそりしまったことを言い当てて代弁してくれるところがあった。
 欲しいけれど我慢しようと思っていた玩具を、自分の代わりに両親へせがんだ。
 苦手な人間に絡まれた時、手を引いて逃げさせてくれた。
 告白を断る勇気が出なかった時、励まして背中を押してくれた。
 そういうことが多かったから、逆に気持ちを察してくれない時に不満を募らせてしまった。期待に応えられるのを、当たり前に思っていたのかもしれない。
(入りづらいな)
 レオーネは、自宅の前で佇んでいた。
 しばらくぶりの我が家である。兄がいないならばすぐ入れたのだが、今日はオフの日だったはずだ。兄がどんな顔で自分を迎えるかを考えると、なかなかドアを開ける勇気が出なかった。
 自分が何を辛く感じていたのか、恐らく分かってくれたと思う。
 分かってくれなかったとしても伝える、そういう決心もついている。
 一番怖いのは、兄に拒絶されることだった。そうされたら、今度こそ戻って来られないかもしれない。
(やっぱり、俺は兄貴のところに帰りたいんだ)
 レオーネは自分の気持ちを確認し、自嘲の笑みを漏らした。
 兄が絡むと、彼は驚くほど自分に素直になれた。喜びも悲しみも怒りも、他人の前ではその場の空気を優先して押し殺すのに、兄の前では違った。多少見栄を張ることはあっても、概ねそのまま表現できていた。
 兄ならば自分を受け入れてくれる。ずっと一緒にいてくれる。
 そう、無条件に信じているのだ。
 だから思いを通わせた途端、兄が帰って来なくなったのが辛かった。会えない間、自分は散々物思いに沈んでいたのに、兄は何ともなさそうなのにも傷ついた。帰ってきて平然と機嫌よく過ごしている様子には、腹が立った。
 裏切られた気がした。
 自分と同じ苦しみを分かち合って欲しい。自分はこんなにも想っているのに応えてくれない。
 そんな憎しみが抑えられず、嫌いだと告げた。
 だから去り際に、自分の言葉で笑顔を無くした兄を見て満足した。
(冷静になって思い返すと、色々おかしかったのでは?)
 レオーネは内心頭を抱えた。
 兄と喧嘩した時の自分の精神状態、兄への態度、言葉。どれも今考えると恥ずかしい。
 大体、兄を傷つけたくて放った言葉がどうして「嫌い」だったのか。嫌いな人間に嫌いだと言われてもさして響かないわけで、つまり相手が自分のことを好きだと信じているからこそ「嫌い」という言葉を選んだのである。
(一端の理屈を突きつけたつもりでも、前提が兄貴に甘えてるんじゃあ格好がつかない)
 兄もそれに気づいているかもしれない。
 そう考えると、余計どんな顔をして会ったらいいか分からなくなる。
 平日の昼。廊下を誰も通らないのを良いことに、レオーネは長くそこへ立ち尽くしていた。
 そのうちに、金属の噛み合う音がしてドアが開いた。
 隙間から、アシュレイが顔を覗かせた。
「おかえり」
「……ああ」
 兄は、最後に見た時とほぼ変わらなかった。唯一違うのは、いつもなら満面に浮かべているはずの笑みが欠片ほどもないことだった。
「入ったら?」
 扉を開け放ち、兄は手で室内を示す。
 懐かしい家の匂いがした。レオーネは言われるままに彼らの部屋へ入った。
 家は、以前とほぼ変わらなかった。食卓に普段見かけないスナック菓子の袋が一つ、開いたまま置いてあることだけが変更点だった。職業柄己に厳しい身体管理を課している兄は、こういった類の菓子をあまり食べなかった。
「お前が出て行ってからさ」
 身の置き場に困り、リビングで佇んだままのレオーネへ、戸を閉めたアシュレイが話しかける。その声は仄暗く、静謐ですらあった。
「待つ寂しさっていうものを初めて知ったよ。俺、今まで一人で暮らす経験が全くなかったから、どういうものか想像がつかなかった」
 アシュレイは乾いた笑いを零した。
「結構堪えるな、これ」
 二人は正面から向き合った。
「ごめん」
 兄が頭を下げた。
「俺はいつもやかましくしてお前に鬱陶しがられるから、あんまり連絡したりマメに帰ったりしない方がいいかと思ってたんだ。だからレオは俺がいなくても大丈夫だと……きっと何とも思ってないと、思い込んでた」
 お前に好きだって言ってもらえた。仕事も調子が良かったし、慢心してたんだ。
 そう語り、アシュレイはこちらを見つめる。
「お前がまだチャンスをくれるなら、これからはもっとちゃんとお前と向き合いたい。ダメかな」
 青い瞳の切なさに、レオーネの息が詰まる。
 兄が自分に鬱陶しがられていると捉えていたというのは、初耳だった。たまに自分が気安さや照れくささから邪険にしてしまうのを、気にしていたのだろうか。
 常に自信に満ち溢れているように見えるアシュレイにも、案外自分を低めて見ているところがあったのだ。レオーネは初めてそれに気付いた。
 だから努めて明るく振る舞い、いい方向へ捉えるよう努力していたのかもしれない。
「チャンスも何も」
 レオーネは咳払いした。
「俺も悪かったよ」
 己の痛みに囚われ、これ以上傷つきたくなくて兄を傷つけた。
 兄のことを分かりきったような言葉を並べて責め立てて、怯える自尊心を守ろうとした。
 今も、自分のやわいところを曝け出すのは怖い。それでも、まっすぐこちらを見つめる兄に向き合いたかった。
「お前にとって俺は、どうでも良いものなんだろうと思ってた。どうとでもなる奴だと思われてるんだと思い込んで、嫌になってたんだ」
 まだ、言わないといけないことがある。
 レオーネは勇気を振り絞る。
「あと、嫌いだって言ったけど……ずっと、お前のことは大事に思ってるから」
 今も好きだよ、と。
 何とか言葉を絞り出した。
 途端、アシュレイが飛びついてきた。正面から力強く抱きすくめられて、肺が潰れるのではないかと錯覚する。
「俺も好き」
 アシュレイはなお力を込めてくる。
「ちゃんと、レオが大好きだから」
「分かった。分かったから、ちょっと緩めろよ」
 苦しいと訴えるが、兄は首を横に振って聞いてくれない。
 そんなに寂しかったのだろうか。その苦しさを嬉しく思い始めている自分に気づき、レオーネは呆れて笑った。
 背中をさすってやりながら、兄に言い聞かせる。
「忙しいのはしょうがないけど、もうちょっと帰ってきてくれた方がいいな」
「うん」
「メッセージの返事も寝る前に欲しい。眠くてやりとりが厳しそうなら、眠いって言ってくれ」
「うん」
「それと、夏休みだからそろそろ旅行に行きたい」
「うん、行こう!」
 アシュレイはやっとこちらの肩から顔を上げ、笑った。
 その明るい顔を見て、レオーネは安堵した。
「これからも、俺にしてほしいことはちゃんと言ってくれよな」
 なるべく気付きたいけど、俺はそんなに察しが良くないから。
 アシュレイはそう念を押す。
(俺については、十分気付いてくれてるんだけどな)
 レオーネは内心で呟いた。
 こちらの心情こそ分かっていなかったが、レオーネの様子がおかしいことには気付いていたのだ。自由に見えて、弟には気を遣う兄なのである。
「これまで何となく過ごしてたけど、どういう風に生活したいか具体的に話しておこうよ」
 そう提案すると、兄は頷いた。
 なのに何も言おうとしないので、レオーネは目を合わせて首を傾ける。
「お前も、言いたいことあったら言えよ」
 遠慮しなくていいから。
 そう促すと、アシュレイは赤面した。
「あー、そうな。お前の気が向いたらでいいんだけど」
「うん」
 兄は低く呟いた。
「今日は、一緒に寝て欲しい」
 柔らかな光を湛える双眸に、水の膜が張っている。
 そう見えてしまったレオーネは、抱き締めるふりをして顔を隠した。
 まさか、こう来るとは思わなかった。
「抱いてもいいなら」
 アシュレイの返事はなかった。ただ黙って身を寄せ、レオーネの背中へ回した手で服を握りしめてくる。
 まずいな、とレオーネは感じた。
 今後二人で生活するにあたっての約束を、話し合わないといけない。
 そう思うのだが、この気が昂りつつある状態で冷静に話し合える自信がなかった。
(兄貴が誘ってくるのって、レアじゃないか?)
 加えて、全身を包み込むように添う片割れの体温。
 気分の沈み込みに合わせて眠っていた欲が、蓄えていた熱の分、急速に目を覚まそうとしている。
「兄貴」
 レオーネは強いて平時の声を作る。
「座って話さないか。このままだと話しづらい」
「うん。でも」
 アシュレイの息が耳へ吹きかかる。
「もっと、こうしていたい」
 試されているのだろうか。
 レオーネは深呼吸する。
「俺達は、話し合っておいた方が」
「そうだけど、後でもいいだろ」
 お前の夏休みに合わせてまとまった休みを取った。
 そう、兄は語った。
「実はだいぶ前からスケジュール組んで、調整してたんだよ。まさかこんなことになるとは思わなかったから、お前が出て行った後は大分へこんだ」
 どうしてもお前のことを考えちまって、余計寂しかった。
 そう囁きながら背中に回された手が、背筋を辿って腰へと回る。肢線を確かめるような手つきに、兄の意図を確信する。
「レオ」
 アシュレイは顔を上げない弟の耳を食む。気を引こうとするかのようないじらしい仕草に、レオーネは目を瞑って耐えようとする。
「まだ昼だよ、兄貴」
「分かってる」
 言葉とは裏腹に、滑らかな頬はこちらの首筋へ擦り寄ってくる。
「ごめんな。お前を確かめないと、落ち着いて話せそうになくて」
 首元へ吐き出される息は多く、長く震えるような余韻を引いていた。
 熱の籠った息が触れるうち、レオーネの息遣いも抑えが効かなくなってくる。
「そんなこと言ってると、その気になるぞ」
 荒い息を堪えて唸るように告げると、アシュレイは囁いた。
「なってくれよ」
 夜まで待てない。
 そう強請られたら、レオーネに本心を白状しない選択肢はなかった。








 友人への報告は、深夜に「兄と仲直りした」という簡単な一文を送ることしかできなかった。感謝の言葉を伝えたのは、翌日の昼に話し合った後になった。
 家へ帰ってすぐ、兄とどんな仲直りをしたか。
 それは今後一生、口が裂けても言えそうになかった。