決壊




※現代パロディ。
※ver6.2までのネタバレあり。
※レオアシュ。
※捏造祭り。
















 ある夜のことだった。
「先に風呂もらっていい?」
「どうぞ」
 アシュレイは風呂場へ向かい、レオーネはソファでゲームをしていた。
 浴室の戸が閉まる音がした。それからさして間の空かないうちに、兄の叫び声がした。
 何かに驚いたようだ。レオーネは、街に住まう悪魔の虫のことを思い出した。
 ついにアレが出たのだろうか。このマンションに出たことはないと聞いているし、水回りの手入れやゴミの始末も欠かしていない。なのに、奴は現れるのか。
 やるしかない。レオーネがゲームをしながら静かに討伐の覚悟を固めていると、風呂場の扉が開く音がした。
 兄がダイニングへ戻ってきたようだ。ひたひたと裸足の音が近づいてきた。
「レオ」
「どうした?」
「風呂が壊れた」
 レオーネは顔を上げた。
 アシュレイは水の滴る髪をタオルで拭いながら、困りきった顔をしていた。








 どこの蛇口を捻ってみても湯が出てこない。給湯器が故障したらしい。
 管理元へ問い合わせると、明日の朝修理してくれるという。一晩待つ必要がありそうだった。
 水は出るのから、大した問題ではない。だが、風呂はまだである。アシュレイは水を被っただけであり、レオーネも暖かい湯に浸かりたかった。
 それで、近場の銭湯へ行くことにした。
 遅い時間であるせいか、空いていた。脱衣所の籠は、レオーネ達の他に一つしか使われていない。
 服を脱いで大浴場へ入る。もうもうと湯気の立ち込める向こう、広い湯船には中年の男が一人いて、レオーネ達を見て目を細めた。
「兄ちゃん、分身が上手いなあ。そっくりなの四人も作って」
「おっさん。酔ってるなら早く上がれよ」
 アシュレイがそう言うと、おおそうかと中年は豪快に笑って湯船を立った。見事な赤ら顔に倒れないか心配になったが、思いの外しっかりした足取り立ち上がり、かけ湯までして去っていった。あの様子ならば大丈夫だろう。
 レオーネは髪と身体を洗って、濡れた髪を一つに括る。それから、湯船へ足を踏み入れた。
 薄い緑の湯をかき分け、浴槽の壁際へ腰掛ける。肩まで湯に浸かれば、程よい暖かさに神経がほぐれるのを感じる。
 すると、離れたところで先に浸かっていたアシュレイが立ち上がり、そばへ寄ってきた。足が湯を分けるごとに、小さな波が肌の表面をくすぐる。兄は自分の隣へ沈み込むと、大きく息を吐いた。
「貸し切りみたいになったな」
「はしゃぐなよ」
「俺のこと、子供か何かだと思ってんの?」
「少し」
「おい」
 アシュレイは笑う。足を伸ばして、ゆらめかせている。
 一緒に風呂に入るのは、いつぶりだろう。
 レオーネは兄を横目で眺めた。
 髪を自分と同じように後頭部で団子状にまとめ、首筋を晒している。まとわりつく湿り気が気になったのか、軽く首を振って頭を掲げた。
 アシュレイが目を閉じて息を吐くと、浮き出た喉仏を一筋の汗が伝う。色づいた頬から流れ落ちてきたようだった。
「はあ。熱いけど気分いいな」
 そのまま、うっそりと天を仰いでいる。
 目を閉じているのをいいことに、横顔を凝視する。
 汗の滲む様子が、こまやかな光を纏うようだと思ってしまう。男の汗なのだから多少獣のような異臭を感じていいはずなのだが、兄に限っては全く気にならない。仕事柄汗をかき慣れていて、また身体を清潔に保っているからだろうか。さらりとして不快にならない兄の汗は、一部の動物性香水に似ている。
 生物の臭みを一切取り除いて清らかに昇華し、その中から一筋の、官能を燻らせる部分だけを抽出したような──
(待て)
 レオーネは兄の香りを無意識に堪能している自分に気付いて思考を止めた。
 普段意識の外へ締め出しているものが、戻ってこようとしている。そう自覚して、目を逸らした。
 ちょうどその時、アシュレイが目を開け、うっすらと笑みを浮かべてレオーネを見た。
「のびのびできていいな」
 そう言う顔は、愉しそうだった。
 気のムラがなく、いつも機嫌がそこそこ良さそうに見えるのは、兄の長所の一つである。
「温泉に行きたくなってくる」
「そのうち、モンセロ温泉郷にでも行くか」
「行く!」
 何気なく提案すると、アシュレイは目を輝かせた。
「なあ。俺全額持つから、部屋に露天風呂ついてるところに泊まりたい」
「ああ、あそこな」
 以前あの辺りへ行った時に、落ち着いた雰囲気が良さそうだと二人で眺めた宿だ。部屋に露天風呂があることは、後日宿のホームページを見つけて知った。
 老舗だからそこそこ値が張ったように思うが、レオーネもあの宿には興味がある。
 だから、すぐに頷いた。
「いいよ。でも、自分の泊まる金くらい自分で出すよ」
 アルバイトの稼ぎがまだ残ってるから。
 そう言うと、アシュレイは眉尻を下げた。
「ええ。レオは風呂にこだわりないだろ。俺のわがままなんだから、俺が出す」
「いや。俺も人が少ない方がいいから」
「気ィ遣うなよな」
「兄貴こそ」
 遠慮し合っていても仕方ない。さっさと計画を立ててしまった方がいい。
 そう考えて、レオーネは以前ホームページで見た宿の情報を思い返し、話題を転じる。
「予約、早めに取らないとすぐ埋まるよな。いつにする?」
「大晦日」
「大丈夫なのか」
 ラッカランの年末年始は掻き入れ時のはずだ。
 訊ねると、アシュレイは手を広げた。
「VIPから、毎年混みすぎて身動きが取れないって意見が来たんだ。だから、今年はキャストのシフトの組み方を変えて調整するんだと。俺は年始担当だから、年末はまとめて休みを取って出てくるなって言われた」
「そうなのか」
「だから、行こうぜ。風呂出たら、さっそく予約取るか」
 アシュレイは、湯船の中で足を三角に抱える。
「楽しみだな。あの辺りは星空が綺麗だから、風呂入りながらのんびり見たいんだ。最高だろうな」
「うん。そうだね」
 同意すると、兄はへにゃりと笑った。その顔につられ、つい微笑んでしまう。
 アシュレイの表情の柔らかさは良いものだと思う。
 眺めていると、その顔の変化を楽しみたくなってくる。
「兄貴が風呂で寝たら、そのままにしておくよ」
「そこは起こしてくれよ。溺れるかもしれないだろ」
 眉根を寄せるアシュレイに、レオーネは肩を竦めてみせた。
「兄貴なら、溺れかけたら起きるだろ」
「いや、分かんねえって」
「じゃあ、溺れそうになるまで見守っておいてやるよ」
「頑なに起こそうとしねえな! 何でだよ」
「温泉で寝てる兄貴を撮って、兄貴の板のアカウントに思わせぶりオフショットを載せたいから」
「げ。ガチのやべえヤツやめろ」
 兄は目を大きく開いた後、顰め面になる。
 レオーネはあえて反応せず、天井を仰いだ。
「兄貴のファンの反応、面白いだろうな」
「面白くねえよ」
「阿鼻叫喚と絶賛の二分化されそう」
 アシュレイはきょとんとした。
「絶賛? アンチが喜ぶのか」
「俺は兄貴のアンチなんて見たことないけど」
 これは本当である。
 舞台をメインに活動するアクション俳優という、まだ大衆には知られきっていない立場のためか。はたまたその仕事ぶりが好評であるためか。
 ネット上を巡回していて、アシュレイの過激なアンチを見かけたことはない。ごく稀に、根拠の乏しい僻みに近い声を載せている者も見かけるが、そういう者は皆無視している。ただし、違反となる行為をしているのを発見し次第、通報は欠かさない。
 戸惑う兄の顔を覗き込み、レオーネは笑みを浮かべた。
「好きな俳優の、無防備に寝てる姿。ファンからすれば垂涎の的だろ?」
「お前。たまに、うちのPR担当みたいなこと言うよな」
 アシュレイは苦笑いした。
「寝てる顔は出したくないの?」
「うーん。俺はまだ駆け出しだから、そういう隙のあるところはまだ見せたくないな」
 後ろに手をついて足を再び伸ばした兄の横顔は、少し曇っている。
「それに俺、舐められやすいみたいだし」
「ああ。確かに」
「すんなり納得するな」
 頷く弟をアシュレイはいつものように小突く。
 拳の勢いが、やや弱い。何か思うところがあるのだろうか。
 レオーネが黙って見つめると、兄は躊躇いつつも話し始めた。
「ファンと握手する時間、あるだろ」
「ああ」
「その時に、若い女の子達が可愛い可愛いって言うんだよ。まあ、親しんでもらえてるならいいかって、あまり考えないことにしてるんだけどさ。ちょっと、俳優としては複雑でよ」
 アシュレイは俯き加減に笑う。
「女の子だけじゃなくて……おねーさん達とか、おっさんとかにも最初から距離詰めて友達みたいに接されることが多くて。打ち解けてもらえて、ありがたいよ。でも、俺の仕事がどこか甘くてそうなってるんだとしたら、直さないとなって思うんだ」
 根のストイックな兄らしい悩みだ。
 レオーネは、彼の仕事ぶりを思い出す。
「確かに、兄貴は舞台上と普段のギャップが激しいから。舞台の外で会えた時、素の親しみやすさに引っ張られて、打ち解けて接してくるファンが多くなるのかもな」
 加えて、兄が一躍注目されるようになった『ゼドラ』の若い勇者役にも一因があると思う。
 彼は、誰にでも優しい人のいい男だった。
 人間が個人の意思を持たず、神託を信じて生きる神代において、その勇者は神の導きと人間の善良性を信じきっていた。
 欲のない若き勇者は、人の善良性が欲望を掻き立て争いを呼ぶということに気づけず、やがて戦乱が起きて多くの命を失ってから、人間と己の罪深さを知る。
 あの救いようのない古代の悲劇は、男らしい一途さを持つ明朗な兄が勇者を演じたから映えた。それで再評価されて、話題になったのだ。
 そのくらいのハマり役なのだから、観客が気さくな兄を『ゼドラ』の悲劇の勇者とほぼ同一視して、己の片割れのように話しかけてくるのも分からなくはない。
「お前の演技が良かったからそうなったんであって、仕事が甘いってことはないんじゃないか」
「そうかな」
「これから色々演じれば、またイメージも変わってくるかもしれない。それに、年配の人が印象のいい若者を自分の孫のように思って接してくるのは、よくあることだよ」
「あー。なるほど」
「あと、若い女の子の『可愛い』は、感情が高ぶった時に発する意味を失った鳴き声みたいなものだから、気にしなくていいと思う」
「お前、たまにとんでもないこと言うよな」
 アシュレイは頬を掻き、控えめに笑う。
「今の、他所では言わない方がいいよ」
「言わないよ」
 自分を悩ませるものさえそうやって思いやるのだから、この兄は本当に仕方ない。
 どこまでも妥協できるのは美点だが、弱点でもある。兄のそういうところを見る度、大丈夫なのだろうかと心配になるが、それさえも自分の慕う彼らしさなのだから、多少ならフォローしようとも思わされてしまうのだった。
「でも、真面目に励ましてくれてありがとな」
 嬉しいよ、と兄は双眸を眇める。
 励ましているというより、事実を述べているつもりだったのだが。レオーネはそう思うも、何も言わない。あまり誉めるようなことを言いすぎるのも、言葉を叩き売るようで安っぽくなるからだ。
 だが、これだけは言っておこう。
「俺は、格好いいと思ってるよ」
 俳優としてだけではない。兄として、人としてもそう思う。
 ただ、面と向かってそう口にするのは面映く、目を合わせないようにしながらぼそりと呟いた。
 聞き取られなくてもいい。半ばそう思いながら言ったのに、兄の耳は出来が良かった。
「レオ。もう一回言って」
 視界の端に、アシュレイの首がこちらへ向けて回ったのが映った。
「やだ」
「照れんなって」
「二度と言わない」
「そこまで言わなくていいだろ」
 レオーネの顔を無理矢理覗き込んでくる。その表情は、嬉しそうに緩みきっていた。
 離れようとするも、アシュレイはしつこくまとわりついて覗き込もうとする。
 距離を取る弟、詰める兄。
 二人の周りで、大きく水面が躍る。
「寄るな、見るな」
「あんまり公共の場ではしゃぐなよ」
 アシュレイは、悪ガキめいた笑みを浮かべていけしゃあしゃあと言う。
 だからこちらも、呆れたように言い返した。
「お前な。弟如きに褒められて、そんなに喜ぶ兄貴がどこにいるんだ」
「ここにいるんだよ。へへ。レオに格好いいって言われた」
 悪ガキぶっていたかと思えば、急に心の底からの純真な照れ笑いを浮かべるのだから、たまったものではない。
 そんなだから可愛いって言われるんだよ。
 言ってやろうかと思ったが、やめた。遠回しに、兄を可愛いと思っていることを告白するようなものだと気付いたからである。ファンの女ならともかく、自分の発する「可愛い」はとんでもなく重い。
「レオがそう言ってくれるなら、もう少しこのままやってみようかな」
 弟の葛藤には気付かず、アシュレイはまた隣へ座り込んだ。
 頬をレオーネの肩に乗せ、濁った声を上げる。
「あー、あっちぃ。茹ってきた」
「無駄にはしゃぐからそうなるんだ」
 今度は、レオーネが兄の顔を覗き込む番だった。
 随分発色がいい。頬が林檎のようで、目には水の膜が張っている。
「のぼせてないか?」
「ふらついてないし、気持ち悪くもない。まだ大丈夫」
 アシュレイはそう言って、頬をレオーネの肩にぐにぐにと押し付けた。
「お前、良い身体してんなあ」
「セクハラ」
「振り幅がでけえよ。さっきまでの優しいレオはどこ行ったんだよ」
 アシュレイの頬が肩から離れた。
 かと思いきや、今度は手で腕を掴んできた。上腕を揉み、レオーネの肩まわりを確かめるようにさする。
「レオって、運動部じゃないのに俺と筋肉量変わらないよな。何で?」
「そんなことないだろ」
「いや、変わらねえよ。ほら、触ってみろって」
 アシュレイはレオーネの手を掴み、互いの腕を交互に触らせる。
「変わんねえだろ。な?」
「そうかな」
 手触りと状況を認識したくなくて、適当に相槌を打つ。
 正直分からない。否、正確には分かろうとしないように努めていた。
 一方アシュレイは、レオーネの手を自分の上腕に置いたまま何やら考え込んでいる。
「筋トレしてるからか? いや、それにしたって全身引き締まってるよな」
 言いながら脇腹に触れ、贅肉がないと唸る。
 触るなと言った方がいいのだろうか。レオーネは迷ったが、言えなかった。
 あまり拒絶すると変に思われるかもしれない。それに、憎からず思う相手に身体を誉めつつ触られて、悪い気がしないのも大きかった。
 あまり色事に関心がないくせに、こういう時は男なのか。
 そう、レオーネの中の冷静な部分が嘆息している。
「全身運動もやってるのか」
「自治会で大体の競技はやらされるから」
 彼は隣へ目をやらず、兄の声に答えることだけに集中することにした。
 触れた腕にこよなく近い、筋肉の流線が見事な脇を撫で上げたら、どんな反応をするだろう。
 そんなことを考えている自分に気付いたからだ。実行したところで、兄はきっと嫌がりも拒みもしないだろう。だが、それはそれで問題だった。
「へえ。じゃあ、結構動いてるんだな」
「俺達は筋肉がつきやすい体質だろ。それもあるんじゃないかな」
「ああ、確かに」
 アシュレイは納得したらしかった。
 その手が離れたので、レオーネは速やかに自分の手を戻す。
「俺の方が動き回ってると思ってたんだけど、レオも運動してるんだな。そっか。運動部じゃなくても、運動しないとは限らないもんな」
 安堵したのも束の間で、今度は両手でレオーネの背中や腕、胸を触り始めた。
「いい筋肉してるなー」
 まだ続くのか。
 レオーネは、内心頭を抱えたくなった。
 アシュレイは、幼い頃からスキンシップが好きだった。出会い頭に肩を組んできたり、嬉しいことがあったら飛びついてきたりと、息をするようによく触れてくるのである。
「それ、ほぼ自分に言ってるのと同じだよな。恥ずかしくないのか」
「レオはレオだろ。いくら似てても、俺じゃない」
「兄貴」  レオーネは意識して、少しだけ不機嫌な調子の声を出す。
 これ以上何も纏っていない状態で触られるのは、まずい気がした。
「誰にでもこうやって、ベタベタ触ってるのか?」
「いや、レオにだけ」
 その返事と共に手が離れる。
 レオーネはほっとした。
 知らず大きな息を吐く弟の顔を、兄が覗き込んでくる。
「レオ。そろそろのぼせるんじゃないか? 顔がかなり赤いぞ」
 まったく、人の気も知らないで。眩暈に似たものを覚え、目を瞑る。
「兄貴こそ、もう上がった方がいいだろ」
「じゃあ出るか」
 アシュレイは、手で自分をあおぎながら立ち上がった。隠しもしないその裸体から目を逸らしつつ、レオーネも後に続いた。








 酔っ払った中年は、無事に帰ることができたらしかった。
 誰もいない脱衣所で身体を拭って髪を乾かし、着替えて外へ出れば、行きには寒かったはずの風を丁度良く感じた。
「コーヒー牛乳飲みたい」
「眠れなくなるぞ」
「平気だよ。俺、カフェイン効かねえし」
 アシュレイは、自動販売機でコーヒー牛乳を買った。レオーネはフルーツ牛乳にした。
 パックから牛乳を啜りながら、帰途に着く。グランゼドーラの夜道にはほとんど人がおらず、美しい煉瓦の模様がよく見えた。
 途中、国立劇場の前にだけ人影が群れていた。二人は人の群れを訝しく眺めた。
「今日、何かあるのか」
「バンドのライブみたいだ」
 掲示してあるポスターと奇抜な格好をした人々を眺めて、そう判断する。
「こんな深夜にやるってことは、魔族か?」
「かもな。そういえば、すげえ人気のバンドが来るって、どこかで聞いたかも」
 グランゼドーラの劇場は、芝居、演芸、音楽といった芸術全般の、今をときめく者だけが使うことを許される、表現者達の憧れの地だった。
「お前もいつか、ここに来ることになるのかな」
 そう言うと、アシュレイは建物を見上げた。
「今のところその予定はないけど。もしかしたら、あるかもな」
 兄の眼差しは、遠い劇場の灯りを映してぼんやりと煌めいていた。 
「でも、ここでやると生活に支障が出そうだ。俺はラッカランで芝居できれば満足だから──」
「気にするなよ」
 レオーネは途中で遮った。
「俺は大丈夫だから」
「いや、でも」
「本当に。兄貴には、自由に楽しくやって欲しい」
 本心だった。
 本人にはっきりと伝えたことこそないが、レオーネも舞台上の兄を見るのが好きだった。だから、自分のために我慢して欲しくなかった。
 アシュレイは目を丸くした。しばらく真面目な表情の弟を見つめ、それから、柔らかく微笑む。
「ありがとうな。でも、もしそういう機会が来ても、よく考えてからにするよ。芝居はもちろん楽しいし、上手くなりたいけど──それと同じかそれ以上に、レオのことが大事だから」
 自分とよく似た双眸には、虚勢も諦念もなかった。ただ、穏やかな慈しみだけがある。
 レオーネは顔を逸らした。
「お前のせいで生活が大変になるなんて、思わないけどな」
「いーや。芸能関係やってると、家族にも色々起こることがあるらしいぞ」
 アシュレイが真面目に言うので、レオーネは詳しく訊ねてみることにした。
「たとえば?」
「過激なファンがつきまとって、仕事ができなくなったり」
「うん」
「食べ物に何か仕込まれたり、生活を盗聴されたり」
「盗聴器くらいなら、始末できるけど」
「いや、そんな簡単には」
 兄が言いかけるのを、レオーネは首を振って遮った。
「俺の専門は建築だよ。物質の構造と理論は勿論、魔法科学も学んでる」
 根拠のない反論ではない。実は、アシュレイが芝居で評判になってからというもの、レオーネは兄と自分の身に起こりうる危険について検討し、対策を考えていたのだ。
 盗聴器は、一年生の時に研究テーマとして選んだことがある。
 多様なルートから複数の現物を仕入れ、学部棟で研究に励んだ。
 形状、素材、システム。
 設置できる場所、実際に使用された例。
 その使用法を検討し、他学科の友人も巻き込んで、様々な見地から出される意見を聞きながら、今後の発展や対策を予想するなど、思う存分検証した。
 仕上がった成果物を教授に見せた時には、「きな臭いところからヘッドハントされてもおかしくないくらい完成度が高い」と言われた。
「だから兄貴。プレゼントを持ち帰ってきたら、必ず俺に見せろよ。大学に持っていけば、食べ物の毒物検査もできるから」
「お、おう」
 弟のこれまでの努力を聞いたアシュレイは、気圧されたように頷いた。
「うちの劇団、劇場に飾れる指定の花束以外、プレゼント禁止なんだけど。まあ、もしもの時は頼むわ」
「ああ。遠慮するなよ」
 レオーネは念を押した。
 アシュレイは飲み干した牛乳パックを潰しながら、何か考え込むような面持ちをしていたが、やがて躊躇いがちに呟いた。
「大学って、そんなこともやってるのか。俺はてっきり、もっと堅い場所かと」
「教授の持論を引用させてもらうなら、『研究者は大学にいなかったら犯罪者』だよ」
「すごいこと言うんだな」
 複雑そうな兄に、レオーネは微笑んでみせる。。
「大丈夫。兄貴に何か仕掛けたりはしないさ」
「バカ。それは疑ってねえ!」
 アシュレイは焦って弁明する。
「ちょっと、お前が危ない目に合ってないか心配になっただけで」
「そっか」
 レオーネはくすくすと笑みを漏らす。
 アシュレイは咳払いをすした。
「とにかく、仕事のやり方には気をつけてるつもりだ。でも、万が一がないとは言えない」
 アシュレイはふと笑みを消し、真摯な表情でこちらを見つめてきた。
 レオーネはその顔を、正面からじっと見つめ返した。
 こういう顔は本当に自分によく似ていて──揶揄い抜きで、己より勇ましいのではないかとまで思う。
「だから、俺は一生お前を養う覚悟でいるよ。それは、覚えておいてくれ」
 告げる声は低く、覚悟が滲み出ていた。
 本気なのだ。
 レオーネは口の端を吊り上げた。
「へえ。兄貴も随分、言うようになったな」
「あのな。俺は真剣なんだぞ、レオ」
 アシュレイが嗜めてくるが、レオーネは口角が上がるのを抑えられなかった。
「一生養う、ね」
 堪えきれず、笑みを噛み含めながら呟いた。
「プロポーズみたいだ」
 アシュレイは目を見開いた。
 言葉にならぬ声を漏らしながら、口を開け閉めしている。
 動揺が丸分かりだった。
(気付いていなかったのか)
 素でこれか。
 何の意図もなく、演技でもなく、本当に真剣に言っていたのか。
「何、狼狽えてるんだよ」
 良い言葉をもらえたレオーネは、愉快な気分で兄の肩を叩く。
「大丈夫だよ。お前の人生初めてのプロポーズは、俺の胸の内にだけ留めておくから」
「いや。その。あのな」
 アシュレイは、先程までの凛々しさはどこへやらであたふたしている。
「プロポーズみたいな、そういう重いもののつもりはなくて」
「うん」
 重いもののつもりはない。
 そう言われると、分かってはいても少し胸が痛んだ。
 だがおくびにも出さず、兄の言葉の続きを待つ。
「その、お前の人生を縛るつもりはないんだ。お前には好きに生きていってほしい。そう思ってる」
「うん」
「俺がお前と一緒にいると迷惑なら、離れるし」
「ははっ」
 自嘲気味に笑い、レオーネは口を挟む。
「そう感じてるのは、むしろ兄貴の方じゃないのか?」
「え、俺?」
 アシュレイは、豆鉄砲を喰らった鳩のような顔をした。
「何で? 俺はレオとずっと一緒がいいよ」
 そうじゃなきゃ、養うなんて言わない。
 兄は、そう言った。
 放った鉄砲玉が、思わぬ形で跳ね返ってきた。
 レオーネは、自分の顔の固まったのが分かった。
 それをどう受け取ったのか。アシュレイは息を呑んで眉を下げ、早口で捲し立てる。
「あ、いやごめん! あのな、えーと、ほら。お前は大事な弟で、お前といると楽しいし、色々生活もしやすいし? その、なんだ。一緒に暮らしてて、苦じゃないっていうか、めっちゃ楽しいというか、気が休まるというか。だから万が一のことがなくても、普通に一生今みたいに二人で暮らせたら俺は嬉しいよ。けど、お前にそれを強制したいわけじゃなくて」
「兄貴。ちょっと静かにしてくれ」
「あ、はい」
 レオーネの足は、いつの間にか止まっていた。
 アシュレイも立ち止まり、黙ってこちらを窺っている。
 だが、自分にそれを慮ってやる余裕はなかった。
(こいつ、なんてことを)
 顔を伏せ、米神を揉む。
 もう、意識外に追いやっていても仕方がない。レオーネは、見ないようにしていたものを頭へ戻す。
 認めたくないが、自分は兄が好きだ。
 兄を好きになったと言うより、好きになった人間が偶然兄だったと言った方が正確だろう。
 いつからなのか、何故こうなったのかも分からない。気付いた時にはどうしようもなく好きになっていた。
 何なら肉欲さえ抱いている。厳密には、そっちの自覚の方が先だったのだが、それは今は置いておく。
 ついそういう目で見そうになってしまうから、普段はなるべくその思いを意識の外へ追いやり、ただの兄弟として違和感のなさそうな思考をするようにしていた。
 幸いレオーネは押し殺すのが得意で、忍耐力にも優れていた。そのお陰で、今日まで平和な兄弟関係を築けたのだと思っている。
 それなのに、当の兄が急にプロポーズまがいの宣言をして、「ずっと一緒がいい」と言ってきたのだ。
 兄のために作り上げた防壁を、兄自らが爆破したようなものだ。これが落ち着いていられるだろうか。
(なんか色々言ってたけど、要は一緒にいると気が楽だってことだよな)
 厄介なのは、兄の思いがどうも自分と同質ではなさそうなことだった。
 自分の気持ちの方が圧倒的に重い。そもそも、兄弟に恋慕すること自体おかしいのだ。
 レオーネ自身、何度も自分にそう言い聞かせた。この気持ちが別の何かである可能性を検討し、思いを無くす方法も探した。人と出会い、書物を求め、この禁忌の思いから逃れる道を模索した。
 しかし、無駄だった。
 近親相姦が禁じられるのは、社会の崩壊と子孫の遺伝の偏りを防ぐため。
 人の死亡率が高く、出生した子が育つか確かでない昔は、とにかく社会を回すため、確実に次の世代を残せる結婚と出産が奨励された。
 だが、現代は人の生き死にが落ち着き、人口の問題もない。それより人生の幸福が説かれ、多様な生き方に寛容になっている。
 さらに、近親婚で問題として取り上げられる血の偏りは、子供の生まれない同性の兄弟には関係ない。
 だから自分達の間に、倫理以外の問題はないのではないかと考えてしまった。
 世の中に、倫理の問題を全く抱えない恋がどれだけあるだろう。
 傷つく者のいない愛が、存在するのだろうか。
 神の愛は弱者を救うこともあるが、時として劣等感を煽る。
 そもそも生きること自体が、傷を作ることに等しいからだ。
 密かに慕う一人だけを大切にしたい。
 その気持ちが向かう相手が、偶然兄だった。
 それだけで罪になるのか。
 血統の継承が生物の果たすべき努めなのだから、罪なのだろう。
 何度も、自分は罪人になりたいのかと自問した。
 その末に、なりたいとは思わないが、血を遺した方が罪ではないかという答えに至った。
 さして愛着のない者を愛せるほど、自分は器用ではない。
 一度生じてしまったのだから、潔白にはなれない。
 潔白は立派だろうが、人間の在り方から遠い、地に足つかない蜃気楼のようなものの気がした。
 レオーネにとって、全ての人に寄り添う兄こそが人間のイデアだった。その兄と共に生きることが喜びだった。
 思いを否定するために手を尽くせば尽くすほど、兄を愛しているのだという思いが深まった。
 そう簡単に消えない思いであることにも、気付かされた。
 拒絶したところで、生じたものは失せない。
 だから、拒絶するのを諦めた。
 唯一の肉親として大切にすることを意識し、兄の望む人生に支障がないよう、折り合いをつけることを決めたのだ。
(ずっと一緒に暮らしたいなんて言うけど、どうせいつか、他に大事な人ができるんじゃないか)
 兄が、自分以外の誰かと共に人生を歩もうとするとして。
 その時、ずっと一緒に暮らせるものと思い込んでしまった自分は、笑って祝福してやれるだろうか。
 無理だろう。互いのためにも、ここでただの兄弟としてけじめをつけておいた方がいい。
(何て言おうか)
 レオーネは思考を巡らせる。冗談めかして誤魔化すか。真面目に諭すか。
 その思考を、声が破った。
「レオ。レオーネ」
 はっとして顔を上げた。
 アシュレイが、不安げな眼差しをしていた。肩を揺さぶる手と、珍しく呼ばれた名前から、繰り返し話しかけられていたのだと気付いた。
「ああ、ごめん。考え事してて気づかなかった。何?」
「あのさ」
 眉の下がったままのアシュレイが、俯き気味にこちらを見上げてくる。これは、悪いことをしたと思って委縮している時の兄の癖だ。
「変なこと言って、ごめんな」
「え?」
「いい年した大人が、ずっと一緒にいたいなんて言って。こんなの、気持ち悪いよな」
 気のせいだろうか。
 兄の双眸が潤んでいる気がする。
 伏せがちの睫毛が震えて、たまにレオーネとまっすぐ目が合うとまた伏せる。
 いつも吊り上がっている眉は、平行線を描いて戻らない。口元には、消え入りそうな控えめな笑み。両手は、所在なさげに自分の服を掴んでは離すのを繰り返している。
「俺は、その……お前と暮らすのが、楽しくて。色々苦労もしたけど、成人して、やっと自分達の好きに生きられるようになって、嬉しくてさ」
 アシュレイは顔を上げた。
 真っ向からレオーネを見据え、しおらしい笑みを浮かべる。
「変なこと言って、本当にごめんな。忘れてくれ」
 レオーネは呆然とした。
 兄は、どうしてしまったのだろう。
 自分の「一緒にいると気が楽だから同居したい」という発言が弟に受け入れられないくらいのことで、何故こんな悲しげな顔をするのだろうか。
(まさか)
 レオーネの心臓が大きく脈打つ。
 いや、そんな都合のいいことがあるか? 己が良いように捉えているだけではないのか。
 しかし、ただの同居の提案にしては、兄の表情が重い。声も沈んでいる。
 自覚していないだけで、もしかしたら。
(こいつを引きずり込んじゃいけない)
 いつだって明るい兄だから、そう思っていた。
 だが、今のこの顔を見ていると揺らいでくる。
 こんな兄は初めて見た。
「兄貴」
 レオーネが呼ぶと、アシュレイはたじろいだ。
「何だよ」
「企画をやらされてるなら、もっと早く言えよな」
「違ぇわ! どこにこんな、とんでもなく長い深夜ドッキリをやる劇団がいるんだよっ」
 眉を吊り上げて、やっといつものように言い返してきた。
 念のため疑ってみたが、やはり本当に、全て兄の発想で出てきた言葉らしかった。
(こいつ自身が、望むなら)
 長い間、努力して絶ってきた望み。
 その前に落とされた一筋の希望に、抗えるわけがなかった。
「いいよ」
「え? な、何が」
「さっきのプロポーズ。受けるよ」
「だからプロポーズじゃないし、忘れろって」
「ずっと一緒に暮らすんだろ? プロポーズじゃん」
 わざと大袈裟な表現を強調して使ってみる。
 すると、アシュレイは頬を上気させて困ったような顔をする。
 嫌そうではない。これは本当に、脈があるかもしれない。
 下がる兄の口角とは対照的に、レオーネの口元は緩やかに弧を描いていた。
 好いた相手に好かれているかもしれないと分かって、調子づいている。そう自己分析しながらも、妙に冷静さを保った頭は一方でこう考える。
 なら、理詰めで外堀を埋めてしまった方がいい。自由人のようで常識的なアシュレイは、急に恋慕を打ち明けたら、混乱してしばらく悩むだろう。
 まずは付き合っているも同然の関係にしてしまおう。思いを確かめるのは、それからだ。
「ずっと一緒に暮らすって、俺と兄貴の二人きりで暮らすっていう、そういうことだよな」
 まずは、認識の擦り合わせから始める。
 訊ねると、アシュレイは気まずげに俯いた。
「ああ。でも本当にそんな、強制したいわけじゃなくて」
「俺がそうしたいって言っても?」
 レオーネがそう言うと、アシュレイは瞠目した。
 ぽかんと開いた口から、間の抜けた声が溢れる。
「へ?」
「いいだろ、男の二人暮らし。気楽だし、安上がりだ。勿論、兄貴に養われっぱなしになるつもりはない。万が一の覚悟はありがたいけど、俺も働きたいから」
 利点を挙げて合理的に同居を望んでしまえば、断らないはずだ。
 レオーネの考え通り、兄はおもむろに頷いた。
「うん。レオが良いなら、俺も良い」
「ただし、条件がある」
 ここで大事な点を詰めておく。
「ずっと一緒に二人で暮らすんだから、他に同居する人間を作らないこと」
 アシュレイは瞬きした。
「それって」
「恋人を作らない。他の人間とシェアハウスするなんて、俺は嫌だからな」
「ああ。俺は、恋人がいなくても良いけど」
 アシュレイはあっさりと了承した。
 いいのかよと訊ね返す前に、先に問われた。
「レオはいいのか? 彼女とか」
「必要ない」
 間髪入れずに答えると、アシュレイは目を丸くした。
「マジで?」
「お前と二人で暮らした方が、ずっといい」
 そう言えば、アシュレイは目を泳がせた。
 思いの外、兄は押しに弱いらしい。普段の関係が逆転しているようで面白くなり、レオーネはさらに畳み掛ける。
「兄貴。今、付き合ってる人は?」
「いねえよ」
 アシュレイはぼそぼそと答えた。
「しばらくいない」
「じゃあ、いいよな」
 レオーネは兄の手を取った。
 アシュレイが、驚いた様子で肩を跳ねさせた。
 それに構わず、取った手の小指と自らの小指を絡める。
「誰よりも大事にするよ。約束する」
 目を見つめながらそう囁き、薬指の根本に同じ指を巻き付ける。
 アシュレイは、明らかに赤面した。
「そんな。ダメだよ、レオ」
「何で」
「俺なんかより、自分を大事にしろよ」
「そこかよ」
 レオーネは小さく噴き出した。
「分かった分かった。お前は?」
「え。うーんと」
 アシュレイはおずおずと、握られた小指と薬指を曲げて握り返した。
「俺も、レオが一番大事」
 辿々しい指に反して声は予想より低く、芯を持っていた。
「本当に、いいのか」
 アシュレイが念を押す。
 レオーネは頷いた。
「いいに決まってる。お前こそ、後悔するんじゃないか?」
「しないよ。レオより大事な人はできないと思ってたから」
 予想より熱烈な言葉が来た。
 兄もこれまでに何かあったのかもしれない。後で詳細を確かめよう。
 そう考えつつ、首を傾ける。
「じゃあ、誓いの口づけでもしとく?」
「え」
「ちょうど教会の前だからさ」
 アシュレイは、弾かれたようにそばの建物を仰いだ。
 そこには、高く聳え立つ教会の尖塔があった。
「あー。神様も寝てるんじゃないかな」
 アシュレイはバツが悪そうに、教会へ背を向けた。
「外だし、良くないと思う」
「なら、帰るか」
 レオーネが言うと、アシュレイは首を縦に振った。
 止まっていた足をやっと動かす。すでに湯の温もりは去っていたが、寒さは感じなかった。気分の高揚が、いつもの寒がりを吹き飛ばしてしまったかのようだった。
(キスそのものは、拒否しないんだ)
 そんなのできるかと、否定されるのを想定していたのに。
 レオーネは、ついにやけてしまう。
「あ。宿の予約、取らねえと」
 アシュレイは視線を逃すように、端末を取り出す。
 いつもならば歩きながら画面を見るなというところだが、今は人気も少なく、周りを窺える自分もついているので、多目に見ることにした。
 それに、いつもさくさくと画面を操作する兄の指がやけに遅いのだ。見逃してやった方がいいだろう。
 レオーネは辺りを見回す。グランゼドーラは車の走行が原則禁止されている。注意すべきは歩行者と自転車だが、この夜更けにはどちらもいない。
 振り返ると、教会のガーゴイルが黙って彼らを見下ろしていた。
 神の家の目と鼻の先で、実の兄に添い遂げることを誓う。
 ひょっとしたら、とんでもない不敬を犯したのかもしれない。
 ふとそう考えた。
 不敬だと糾弾されても構わない。自分の定めたルールから外れた者を愛さない神より、慈悲深い兄を信じていた。
「大晦日、ちょうど一個空いてる」
 画面を見つめたアシュレイが言う。
 作業に集中しながらも、さりげなく足元に障害物がないか、周りにぶつかる相手がいないかをちらちらと窺っているのだから、器用である。
 レオーネは訊ねた。
「ご飯ついてる?」
「朝夕あり」
「いいね」
 楽しみだな。
 そう言うと、アシュレイは破顔した。
 望まれて生きるのも悪くないかもしれない。
 レオーネはそう思った。