俎板に乗りきらない、乗せたくない




※現代パロディ。
※ver6.0までのネタバレあり。
※レオアシュ。
※捏造祭り。













 一日の稽古を終えた後の稽古場には、充足感と高揚と気怠さが混じり合いながら漂っている。
 特に、ラッカランのコロシアムは、アクションの多い演目を扱う劇場である。少しでも気を緩めたり力加減を誤ったりすれば、怪我や事故を招いてしまう。だから、何事もなく稽古が終わった後の安堵や幸福、疲労の感覚は格別だった。
 役者達はまだ張り詰めた神経が解けきらず、周囲と談笑して興奮を和らがせようとしている者が多い。アシュレイもその輪に加わることが多いのだが、今日の彼はそこそこに会話を切り上げて帰ろうとしていた。
 時刻はもう大分遅い。それでも、今帰ればまだ弟が起きているはず。
 そう考えてのことだった。
「アシュレイ」
 荷物を持ち、裏口から帰途につこうとするアシュレイへ、声をかけた者が二人いた。今日ともに稽古をした、ウェディの若者たちである。
 吊り目に耽美な顔立ちの長髪がヒューザ。
 垂れ目に甘いマスクの短髪がエークス。
 二人は、友人であるらしかった。
「楽しかったぜ。明日もよろしくな」
「ありがとうございました。お疲れ様です」
 先にヒューザが片手を挙げ、後にエークスが頭を下げる。
 二人はコロシアム所属の役者ではなく、そもそも実は役者ですらない。本業は風来坊だそうで、役者は路銀を稼ぐための手段なのだと以前語っていた。どちらも我流ながら武術をやりこんでおり、同じく実戦で鍛えられたアシュレイにシンパシーを感じているらしく、たまに話しかけてくるのである。
「おう。こっちこそ、ありがとな」
 アシュレイは笑みを返した。
「二人も上がるのか」
「うん。焼肉食べに行くんだ」
 エークスの返事に、思わず時計を見る。
「今から?」
 もう、日付が変わろうかという時刻だった。
「まあ、裏通りの店なら開いてるか」
「腹減って眠れそうにねえからよ。せっかくラッカランまで来たから、たらふく食うかって話になってな」
 ヒューザが仏頂面で言う。
 その後を、エークスが笑顔で継ぐ。
「劇団の人に、美味しい店を教えてもらったんだ。焼肉の後は、締めのラーメンまで行っちゃうよ」
 二人とも、夕飯に弁当を食べていたはずだ。
 かなり動いていたから、消化されてしまったのだろうか。
「若ぇな」
「何言ってんだよ。あんたもオレ達と年変わらねぇだろ」
 ヒューザは口元のみに小さな笑みを浮かべた。
 アシュレイは肩をすくめる。
「俺も腹が減らないわけじゃねえけど、それより疲れちまってな。早く休みてぇの」
「じゃあ、はい」
 突然、エークスが両腕を広げてアシュレイに向き直った。
 アシュレイは戸惑う。
「え、何?」
「疲労解消を手伝おうかと思って」
「おい」
 ヒューザが友人を睨む。
「あんまり調子に乗るんじゃねえよ。馴れ馴れしいぜ」
「疲れた人を助けようとしてるだけだろ。まだ何もしてない」
 エークスは弁明のように言う。
 アシュレイは首を傾けた。
「あの、どういうこと?」
「人は人と触れ合うと幸福を感じる成分が脳から分泌されて、不安やストレスが和らぐ」
 エークスがすらすらと答える。
「ああ。聞いたことあるな」
「哺乳類のメカニズムに基づいてるんだよ。赤ん坊が抱っこをせがんだり、元気のない人が動物と触れ合って癒されたりするのは、この原理によるわけさ」
 そう言って、笑う。
「もっとも、世間ではハグやキスの愉しみを語る時にこの理屈を使われることが多くて、なんだかインチキ臭く思われてる節もあるみたいだけど」
 なるほど、そういうことか。
 アシュレイはやっと、自分が何を問われているのか理解した。
「で、ハグする?」
 エークスは腕を開いたまま、小首を傾げる。
 アシュレイは笑みを返した。
「いや、気持ちだけもらっとく。ありがとう」
「それが正解だぜ」
 ヒューザが真顔で友人をしゃくってみせる。
「こいつ、ブラックバスだからな」
「え? それは違うよ」
 エークスは腕を戻し、心外そうな顔でヒューザに抗議する。
「そこまでガツガツしてない」
「活動範囲と対象は同じだろうが」
「ヒューザには何もしてないじゃん。それに、毎回合意なんだけど?」
「知らねぇよ」
「違うんだよ」
 ここで何故か、アシュレイの方に向き直る。
「ゲームフィッシングじゃないかって言われたら否定できないけど、エゴありきだとしても僕なりのアガペーを伝えたくて。つまり、ブラックバスというよりウェナホンソメワケベラを目指してるんだ」
 話の展開についていけない。
 アシュレイは困ってしまう。
 何故急に、ハグから釣りの話になったのだろう。かつて海に住んでいたと言われるウェディ族からすると、魚釣りは兄弟とのハグに似た、癒しの感覚なのだろうか。
 迷いながらも、これまでに得た魚の知識を思い出して話をする。
「ブラックバスならレンダーシアのあちこちで釣ったことあるけど、ウェナホンソメワケベラは釣ったことねえな。あれ、釣れるのか?」
 すると、エークスはヒューザへ目を転じた。
 ヒューザもまた、エークスを見ていた。
 アシュレイには、二人が複数の感情の入り混じった顔で見つめ合っているのは分かったが、それがどういう種類のものなのかまでは分からなかった。
 ややあってヒューザがアシュレイに向き直り、かぶりを振った。
「悪ぃな、アシュレイ」
「本当ごめんね」
 エークスも詫びる。
「アシュレイさんは、魚釣りが好きだったよね。ウェナ諸島へ釣りに行く時は言って。オススメの釣り場を教えるから」
「おら、クソ魚。行くぞ」
「今回ばかりは否定できない」
 ヒューザは裏口の戸を押しながらアシュレイを振り返り、指鉄砲のような形にした片手を掲げた。
「あばよ。ちゃんと湯船に浸かってから休めよな」
「体を冷やさないように、肩まで湯に浸かってね」
 エークスも小さく手を振りながら続く。
 どちらの口調も、何だか労わるようだった。
 二人の姿が裏口へ消えた。後には閉まった名残で揺れる扉と、アシュレイだけが残される。
 アシュレイは顎に手を当てた。
「俺の釣りレベルが足りねえのかな」
 それから裏口を開け、グランゼドーラの我が家行きのルーラストーンを掲げた。








「ただいまー」
 帰ってみると、ダイニングテーブルの上がジオラマのようになっていた。
 図面やら計算式の書き連ねられた紙が何枚も敷かれ、さらには数冊の本とパソコンが積んである。
 その上へ突っ伏していたレオーネが、ダイニングへ入ってきたアシュレイに気付いておもむろに上体を起こした。
「おかえり」
 声が少しがさついている。
(これは、疲労レベル四だな)
 アシュレイは、弟の硬い表情筋を眺めてそう思った。
「大変そうだな」
「まあ、そうだな」
 レオーネは広げた図面に片手を乗せる。
「新しいレポートと試験と大学祭の準備が来る前に、自分のテーマの設計をきちんとしておこうと思って始めたんだ。でも、煮詰まってて」
「お前、本当にえらいな」
 期限の迫った課題というわけでもないのに、そこまで真剣に考えているのか。
 自然と口にのぼった賛辞に、レオーネは軽く肩をすくめる。
「やりたいことをしてるだけだよ」
 机に肘を突き、額を手の甲に乗せて息を吐く。
 吐かれた空気の重さが、これまでの長考を表していた。
「詰まってるなら、一度気分転換した方がいいんじゃないか? または、別の日にやってみるとか」
 アシュレイは提案する。
 だが、レオーネは頷かない。
「もう少し粘ったら、うまく収まるかもしれないんだ」
 そう言って積んである本の一冊を手に取り、開いて目を落とす。
 作業を再開したようだ。邪魔にならないよう、アシュレイは静かにダイニングを出た。
 自室へ行って荷物を置き、外着からスウェットに着替えて替えの下着を出す。風呂が沸いていることは確認済みだったので、そのまま風呂場へ行って洗濯をし、入浴を済ませる。
 髪を乾かして仕上がった洗濯物を干し、ダイニングへ飲み物を求めに戻ってきてもなお、レオーネは図面と睨み合っていた。厳しい顔をしている。キッチンでパックジュースを飲みつつ、弟の引き結んだ唇を眺めていると、不意にそこから溜め息が漏れた。
「ダメだ」
「じゃあ、気分転換しようぜ」
 アシュレイはからになったパックを潰して捨て、弟へと寄っていく。
「頑張るのも良いけどよ。たまには、自分を癒してのんびりするのも大事だって」
「ああ、そうだな。一度休憩するか」
 レオーネは目を瞑り、こめかみを揉む。
「疲れた。自分を癒すのも面倒臭い。手軽な癒しが欲しい」
「マジで疲れてんだな」
 弟がこんなことを言うなんて珍しい。
 たまには真面目に協力するか、とアシュレイは弟を助ける気になった。
 でも、普通に労わるのではつまらない。
 手段を考えようとした頭へ咄嗟に閃いたのは、帰り際のウェディ達とのやりとりだった。
 ──人は人と触れ合うと幸福を感じる成分が脳から分泌されて、不安やストレスが和らぐ。
 アシュレイはにやりとする。
「よし。それならこの俺が、特別に癒しになってやろうか」
 口の端を吊り上げて、弟の向かいで大きく両腕を広げてみせる。
 レオーネのことだから、顔を顰めて「いらない」と一蹴するに違いない。そうしたら拗ねたふりをしてひとくすぐりし、温かいココアでも作ってやれば、少しは気が紛れるのではないか。
(笑ってるレオを見られて、ちょっと遊べれば、俺も癒されるし)
 アシュレイ自身、仕事の疲れで休みたい欲求に弟と戯れたい気持ちが勝った。
 だから、嫌がられるのを承知でそう考えたのだが。
「ああ。頼んだ」
 レオーネはあっさりと提案を受け入れた。
 アシュレイは、虚をつかれて固まってしまう。
「どうした? 癒してくれるんだろ」
「おう。そりゃあもちろん、そうだけど」
 椅子に座ったまま見上げるレオーネを前に、アシュレイは口を噤む。
 この流れでくすぐれるか?
 いや、いつもならともかく今は難しい。
 レオーネは本当に疲れているようなのだから、ちゃんと癒してやりたい。
 アシュレイは気を取り直して咳払いをした。
「あったかいものでも飲んだらどうだ? ココアなら作れるぞ」
「良いな。助かる」
 レオーネは頷いた。
「でも、もう一声」
「もう一声ぇ?」
 おうむ返しするアシュレイに、レオーネは真面目な顔で言う。
「ココアだけだと、飲みながら課題のことを考え続けそうなんだよ。もっと別のことを考えられそうなヤツ、くれよ」
(謙虚なんだか欲張りなんだか、分からねえ奴だな)
 アシュレイは思った。
 レオーネは常に慎ましい。あまり物を欲しがることがなければ、他人への頼み事も滅多にしない。
 だがごく稀に、強い意志を持って容易には手に入らないものを求めることがある。
 昔から、この弟にはそういうところがあった。
「そうだなあ」
 真剣に考え込んでしまう。もう、弟に仕掛けようとしていた戯れのことは忘れていた。
「とりあえず、その難しそうなもんでいっぱいの机の前にいたら、気分転換できねえんじゃねえの? 場所変えようぜ」
 アシュレイはソファの後ろへまわり、その背もたれを軽く叩いた。
 レオーネは椅子から立ち上がり、兄の誘うままソファへ掛ける。
 アシュレイはその肩へ両手を添え、揉み始めた。
「お客さん、凝ってますねぇ」
「そうか?」
「いや、マジで硬ぇな。鎖帷子仕込んでんのかってくらい硬い」
 これでは、溜め息も重くなるはずだ。
 アシュレイは指先と掌全体に力を込め、ツボを押したり筋肉を叩いたりする。
「痛かったら言えよ」
「大丈夫。ちょうどいい」
 レオーネは目を瞑って答える。
 それなりに力を込めてやっているのにこれでちょうどいいなんて、やはり凝りすぎなのではないだろうか。
 なのに、肩が痛いとも怠いとも言わず、これまで平然と過ごしていた。
 アシュレイは俄かに弟が心配になる。
「レオは本当に真面目だよな」
「そうかな」
「お前のそういうところ、俺はすげぇと思うし好きだけどさ。でも、もう少し力抜いてもいいんじゃねえの」
 いくら好きなことをやっているとは言っても、作業がかさめば身体は意図に反して軋んでくる。
 メンテナンスは大事だ。
 多少やることの質が下がったり量が減ったりしても、体を大事にした方がいい。
 アシュレイがそう言うと、低い位置にあるレオーネの頭が上を向いた。
「兄貴だって、仕事をする時はとことんやり込んでるだろ」
「俺は、そうでもねえよ」
 首、肩、肩甲骨などのツボを満遍なく刺激する。
 最後に両手を組み合わせ、甲で弟の肩を勢い良く数回叩いた。
「ほらよ。大分ほぐれたんじゃねえの?」
「ああ。楽になった」
 レオーネは肩を回して頷き、
「他は?」
と言った。
「へ?」
「肩のマッサージだけ?」
「あー。お気に召した?」
「うん」
 なら、やるか。
 アシュレイはソファを指差す。
「うつ伏せになれ」
 その言葉通り、ソファに横たわったレオーネの上に跨って背中を押す。
 肩甲骨周り。背骨の左右。腰骨の上。
「お前、マッサージ上手いな」
「仕事柄、商売道具を大事にしないといけないんでね」
 アシュレイは覚えているツボを程よく刺激する。
 レオーネはクッションに顔を埋め、息を吐く。
「眠くなってくる」
「そのまま寝ちまえよ」
「やだよ」
 レオーネは拒否する。
「何で? もう、いい時間だぞ」
「作業が途中だろ」
「まーだ覚えてやがったのか」
 気分転換、できていないのだろうか。
 足裏のツボを揉みながら、アシュレイは嘆息する。
「仕方ねえなあ」
 どうしようもない風に言いながら、声はすでに笑い始めていた。
 アシュレイは手にしていた弟の足裏を、利き手の指の表皮だけでそっとくすぐった。
「うわっ」
 途端、レオーネは弾かれたように飛び起きる。
 驚きに開いた口を見て、アシュレイは思いきり笑った。
「お前。それは反則だろ!」
「はははっ! マッサージに反則なんて──わっ」
 レオーネがアシュレイの両手首を掴む。
 その勢いで、アシュレイは背中から後ろへ倒れ込んだ。
 幸い、ソファはよくくつろげるようにと、かなり大きいものを選んであった。
 だから、アシュレイはソファの柔らかい肘掛けへ仰向けに沈み込み、レオーネもその上にのしかかるだけで済んだ。
「レオ、危ねえって!」
 アシュレイはじゃれ合う楽しさで笑っていたのだが、レオーネは違った。
 重なってしまった上体を素早く持ち上げ、顔を覗き込んでくる。
「ごめん。どこか打った?」
 眉尻の下がるその表情が思いのほか真剣で、アシュレイの笑いが引っ込んだ。
「いや、大丈夫」
 そんなに危なそうに倒れただろうか。
 疑問に思う一方で、悪いことをしたかなという反省も湧いてきていた。
 くつろいでいたら突然くすぐられ、しかもそれを咎めたら予想以上に倒れられたのだ。相当驚かせただろう。
 アシュレイは素直に謝る。
「こっちこそごめんな。お前こそ、どこか痛めてないか?」
「平気」
 レオーネは微笑してから、口をへの字に結んだ。
「でも、かなり驚いたんだからな。何で急にくすぐったんだよ」
「それはだって、お前がまだ難しいこと考えてるみたいだったから」
「なるほどね」
 レオーネは溜め息を吐いた。
 弟の顔周りから落ちる髪が、スウェットに包まれていない首周りの肌に触れて、くすぐったい。
 アシュレイは弟の毛先から逃れようと身をさらに背後の生地へ沈めつつ、訊ねる。
「気分変わった?」
「ああ、かなり」
 レオーネは首肯した。
 つまり、目的を果たせたということか。
 アシュレイも弟と戯れることができて楽しかった。
(いい感じに寝られそう)
 そんな達成感は、次いで発せられた弟の台詞で吹き飛んだ。
「他は?」
 まさかの催促。
 つい、正直な気持ちが口をついて出る。
「まだやるのかよ」
「途中までは良かったけど、今ので違う疲れが出た。だから、別のやつ」
 そう言われたら断れない。
 これだけ強請ってくるなんて、案外楽しんでいるのだろうか。
 真意は分からないが、可愛い弟から求められて悪い気はしない。期待に応えたいところだった。
(でも、もうネタなんて)
 アシュレイはそう思いかけて、はたと気付いた。
 あるじゃないか。
 この流れで自然にできる、オチにうってつけのものが。
「そうだな」
 アシュレイは動こうとする。
 そこでやっと、まだ自分の手首がレオーネの手によってソファに縫い止められたままなのに気付いた。
「手、離してくれ。何もできねえ」
「もうくすぐるなよ?」
「分かってるよ」
 レオーネが手を離す。
 アシュレイはすぐさまその背中に両腕を回し、引き寄せた。
 抵抗される前にと、力一杯抱き締める。
「アシュレイ?」
 驚いたのか、いつもの兄貴呼びが崩れた。
 一度力を緩め、片割れがソファに片手をついて身を離そうとするのを許してやり、顔を窺う。
 レオーネは、僅かに瞠目して兄を見つめていた。
 アシュレイは笑いかける。
「どうだ?」
「な、何が」
「ハグすると、痛みとかストレスが軽くなるって言うだろ」
「…………」
 レオーネは、しばらく固まってしまったかのように動かなかった。
 嫌だったのだろうか。アシュレイが不安を覚えた時、レオーネは唐突に苦笑を漏らした。
「そういうことか。まったく、本当に兄貴は」
「何だよ」
 良かった。いつもの弟だ。
 アシュレイは安堵から、わざとらしく膨れてみせる。
「兄ちゃんからの愛情たっぷりのハグだぞ。もっと喜べよ」
 そして、今度は上体を起こして弟に抱きつこうとした。
 嫌がられるならいつものこと。受け入れられたらそれはそれで嬉しい。そう考えての行動だった。
 だがそれより早く、レオーネが身を倒してきた。
 自分と同じ規格の身体にのしかかられ、深くソファへ沈められる。
 アシュレイが伸ばした腕に重ならないよう、下から差し入れられたレオーネの腕は、ソファと体の間で唯一空いた隙間──アシュレイの腰の上へ回る。
 一瞬、呼吸を忘れた。自分がしたのより密着した状況に、ただ驚愕していた。
 レオーネから抱きつかれた。しかも先日のような寝ている弟ではない。意識がある状態の弟だ。
 いつも拒んでくるレオーネが、自らの意思で兄を抱き締めている。
 その事実を認識し、アシュレイは狼狽した。
「レオ?」
 ほぼ同じサイズにデザインの身体は、頭を互い違いにして抱き合えばぴたりと重なる。
 ややひっくり返った声の混乱も、やけに速い拍動も、簡単に伝わってしまいそうで、下手に動けなかった。
 レオーネが首を少し持ち上げ、アシュレイの方へゆるりと回す。
「で?」
 耳殻に触れるほどの距離で声を落とされて、身体が小さく跳ねる。
 抱き合って腹が圧迫されているせいか。
 または、俯いた姿勢で話しているからか。
 弟の声は、いつもと響きが違った。
 警戒して身構えた身体が、アシュレイの意思を無視して目を瞑らせてしまう。
 それがいけなかった。
「次は?」
 少し、ざらついた囁き。
 その甘い振動に全神経が集中してしまい、直接受け止めた鼓膜はおろか、全身がわななく。
 目を開くことができない。
(待てって。何でだよ)
 アシュレイは勝手に動く自分の身体──特に、ますます早鐘を打つ己が心臓にツッコミを入れる。
 何でどぎまぎするんだ。
 良い声だからか。
 実の兄までときめかせる弟の声質、恐るべし。
(これ、大抵の女の腰は砕けるな)
 弟も立派な大人の男になったものだ、と妙なところでしみじみする。
 いや、同い年の片割れにそう思うのもおかしいか。
 そんな呆けたことを考える自分に対して、そんなことをしている場合じゃないと叫び、思考を急かす別の自分がいる。
 何故急かすのだろう。浅くなった息のせいで、やや酸素の足りていないアシュレイの頭は、十分に回ってくれない。
「な、なに」
「何をして、癒してくれるの。兄貴」
 仄かに笑いを含んだ吐息が首筋をくすぐる。
 そうか。
 触れ合って癒そうとしていたんだった。
 逃避したい思考が、すぐに聞いた話を呼び起こす。
 人を癒す触れ合いとして挙げられていたのはハグと、あと。
(それはまずい。とにかく、まずい)
 どこかから警鐘が鳴る。
 第一、それで癒されるだろうか。嫌がられるに違いない。嫌がられるだけならいいが、本気で疎ましがられたらさすがに傷つく。
 どうしたものか。アシュレイが迷っていると、不意に身体にかかっていた重みが消えた。
 恐る恐る目を開けると、ソファにきちんと座り直したレオーネが、立てた膝に回した腕へ顔を埋めつつ、こちらを見下ろして笑っていた。
「お前」
 アシュレイはそれまでの迷いも緊張も忘れ、身体を起こした。
「さては、面白がってたな?」
「ああ」
「おい!」
 アシュレイは双子の肩をどついた。
「俺は一生懸命、何をしたらお前が喜ぶか考えてたってのに!」
「ごめんごめん」
 レオーネは涼しげな顔で笑う。
「あんまりにもお前が考えてくれるからさ。何をどのくらいしてくれるつもりなのか、知りたくなったんだよ」
「何だよぉ」
 アシュレイは頭を抱えた。
 妙に焦ったり必死になったりして、自分はかなり情けない姿を見せたのではなかろうか。顔面が火の玉になりそうだ。
「俺はお前が本当に、マジで疲れてるんだと思って」
「適当に流して良かったのに」
 レオーネは目を細める。
「たかが、課題に悩む大学生なんだから。お前は俺を真面目だって言うけど、お前だって大概真面目だよな」
「だって、レオが何か頼んでくるなんて滅多にないだろ」
 アシュレイは顔を上げる。
「力になりたくて、できることをしようとするのは当然だって」
「優しいな、兄貴は」
「まあ、お前が珍しく触ってもほどかねえし、怒りもしねえから、嬉しくて調子に乗ったっていうのもあるんだけどな」
 まさか揶揄われるとは思ってなくて、よ。
 そう言って睨めば、弟は眉尻を下げる。
「本当にごめん。反省してるよ」
「ふん。どうだかな」
 つんと顔を逸らし、立ち上がった。
 背後から弟の窺うような視線を感じる。それを一旦無視して、キッチンへと向かった。
 臍を曲げたようなことを言ったが、本心ではない。それどころか、やっと弟の重苦しい空気を取り除けた気がして、アシュレイは安心していた。
 予期せぬ驚きはあったが、レオーネとかなり遊ぶこともできた。相当に満足していた。
 冷蔵庫を開け、牛乳を取り出す。カップ二杯分程度を小鍋に入れ、火にかける。弱火で沸騰しないよう加熱したら、そこへココアパウダーと砂糖を入れて混ぜる。塩をひとつまみ入れたそれを匙で掬って小皿に取り、口に含んで甘さの加減を確かめる。
 問題なさそうだ。そう判断し、火を止めてマグ二つに注いだ。
 片方にラップをしてそのまま放置し、もう片方を手にしてキッチンを後にする。
 ダイニングでは、いつの間にか卓に戻ったレオーネが図面と向き合っていた。
 その前、紙に被らない位置にマグを置く。
「ほれ」
「本当に作ってくれたんだ」
 レオーネは顔を上げ、意外そうに言った。
 アシュレイは肩をそびやかす。
「当たり前だろ。いくら真面目な兄貴をからかう弟でも、大事な弟なのは変わりないからな」
 そう言うと、レオーネはまた何も言わずにアシュレイを見つめてくる。
 機嫌を窺っているのだろうか。
 アシュレイは早々につれないふりをやめ、笑顔で弟を見下ろした。
「冗談だよ。少しは気分がマシになったか?」
「ああ。助かった」
「そうか」
 そして、自分とよく似た髪質の頭を撫でる。いつもなら怒られるだろうが、今なら構わない気がした。
 読み通り、レオーネはされるがままになっていた。
「程々にしろよ」
 そう言って、キッチンに戻った。小鍋を洗って片付ける。
 これでやることは済んだ。アシュレイはダイニングを横切りながら、欠伸を噛み殺して弟に声をかける。
「流しの横にもう一杯あるから、気が向いたら飲めよ。もうよさそうなら、冷蔵庫に入れといてくれないか。後で俺が飲む」
「兄貴は今、飲まないのか」
「俺はいい。眠くなってきたから」
 自室へ向かうと、背後で椅子の軋む音がした。
「ありがとな、兄貴」
「ん」
 アシュレイはひらりと片手を振って応え、部屋へ入って扉を閉めた。
 仕事をしてきた後にひとしきりはしゃいだから、眠かった。電気さえ点けずにベッドへ横たわり、目覚まし時計をセットして布団を被る。途端に心地良い微睡みが訪れ、アシュレイは知らず微笑む。
 今日は楽しかった。弟と遊べて、しかも満足してもらえたようで良かった。きっといい夢が見られるだろう。
 目を瞑り、先程の戯れを反芻する。
(額にキスくらいなら、しても良かったのかな)
 どうして思いつかなかったのだろう。
 いやでも、それも嫌がられるか。
 そんな子供にするようなことを、と不機嫌になる弟の顔が目に浮かぶ。
 そういったとりとめのないことを考えるうちに、アシュレイは夢の世界へ旅立っていた。







+++



 やるべきことを成し終えた。
 レオーネは机の上のものをまとめ、時計を見上げていた。
 あと針が六周するまで寝られる。信じられない成果だった。
 なのに、レオーネの胸の内は晴れなかった。
 卓上にまとめられたものを見下ろす。
 要らない計算用紙がまとめてある。
 その一枚を手に取り、破く。繊維の弾ける微かな振動が手に伝わるだけで、紙は簡単に破ける。
 抵抗も何もない。
 何もない。
 何も。
 何もなかった。
 紙を一枚一枚細かに砕きながら、机の上に積もる白い欠片をじっと見つめる。
 こんなもの、何でもない。
 要らないものだ。捨ててしまおう。
 紙片はやがて小さな山となる。
 無くしてしまいたいのに、残るのだ。塵なら積もらずさっさと消えてくれればいいものを、どうして一度生じてしまったものは簡単に消えないのだろう。そんなことを考えた。
 望まず生まれたものは不幸だ、と出し抜けに思う。
 どんなに自分を砕こうとしても、消えさせてもらえない。
 生きようとすれば苦しい。
 一時は活発に血を巡らせるような喜びさえ、後になれば全身を苦しませる毒となる。
 後悔や、自己嫌悪という名の。
 レオーネは息を吐き、両手で頭を抱えた。
 何もないとレオーネ自身は思っているのだ。それなのに、どうして一度輪郭を得てしまった存在は消えてくれないのだろう。
 見たくなくて勉学に集中した。しかし、成し遂げてしまえば蘇ってくる。
 一度忘れたのだから消えてしまえばいいものを、首をもたげた欲求は自分の意思に反して存在を主張する。
 期待してしまった。
 欲しくなった。
 まだもっと、と望んでいる自分がいる。
 許されるのではないかと──許されている、と錯覚してしまいそうになる。
 吐き出した溜め息が熱を孕む。
 まだ少し、眠れそうになかった。