弟に会えなくて眠れない




※現代パロディ。
※ver6.0までのネタバレあり。
※レオアシュ。
※捏造祭り。













 娯楽島ラッカランは、眠らぬ歓楽の島である。
 豪奢な建物とそれを飾る煌びやかなネオン、めかしこんだ人々で、今日も街はどこもかしこも輝いていた。
 そんなラッカランの中で、一際人の集う建物の一つに、コロシアムがある。アクション要素の多い芝居をメインとして上演するその施設の、客が出入りしない舞台裏。数多ある楽屋の中のとある一室に、今二人の青年がいた。
 一人は肩まで伸ばした茶髪の明朗そうな青年。
 もう一人は、亜麻色の髪を後ろで束ねる温和そうな青年である。
「あーあ」
 茶髪の方こと、アクション俳優アシュレイは呟く。
 十代で子役としてデビューし、与えられた役を忠実に演じ続け、十七歳にして古典演武劇「ゼドラ」で勇者役を演じきった彼は、『ゼドラの勇者』として名を上げつつある注目の花形スターだった。
 舞台上ではキレのある殺陣、迫真の演技で観る者を物語の世界へ引き込み、舞台を降りれば屈託のないキャラクターで老若男女問わず人を魅了する。自分の背景をほぼ語らず、ただただ物語を演じることにストイックなこの若者は、アクション界の外からも注目されるほどに優秀な俳優だった。
  だが、舞台上にてころころと様子を変えて観客を魅せるはずの顔には、現在、何の感情の動きも見られない。床でぐったりと寝そべり、仰向けに伸びながら、茫洋とした目へ天井を映している。
「弟に会いたい」
 ぼそりと呟く。
 すると、行儀良く椅子にかけたもう一人の青年が相槌を打った。
「分かりますよ。私も今、無性に妹に会いたいです」
「さっすがトーマ。分かってんなあ」
 アシュレイは青年へと目をやった。
 トーマは半年前に入ってきたばかりの新人俳優である。殺陣の才と卓越した演技力を買われ、将来を有望視されていた。
 言葉遣いや食事の仕方、たまに電話で家人と会話する様子などから察するに、どうも良家の子息であるらしい。何故舞台の道を志したのかは、本人が語らないので知らなかった。
「私も、アシュレイ様に分かっていただけて嬉しいです」
 トーマは年下のアシュレイを「アシュレイ様」と呼び、頑なに敬語を崩そうとしない。彼はアシュレイの子役時代からのファンなのだ。
 アシュレイが何度呼び捨ててほしいと言っても、自分の方が俳優として後輩なのだから敬わせてほしいと言い張って譲らない。それで、最終的にはアシュレイの方が折れたのだった。
 礼儀正しく品行方正なトーマと、自由奔放でやんちゃなアシュレイ。
 そんな正反対とも言える二人が打ち解けた友人関係を築いている様に、コロシアムの演者仲間たちはそろって首を傾げた。
 何故、あの二人が?
 どうして気が合うのだろう。
 彼らの憶測は、今も様々に飛び交っている。
 だがその中で一つだけ、誰もが口を揃えて挙げる仲良しの根拠があった。
 それは、どちらも弟妹を溺愛しているということであった。アシュレイには双子の弟が、トーマには歳の離れた妹がいるのである。
「あと一時間半で閉館か。トーマ、帰る支度は大丈夫か?」
「ええ。上着も鞄も、先ほど持ってきました」
 壁際に外套と鞄が置いてある。
 アシュレイは頭だけ起こしてそれを確認すると、大きく伸びをした。
「なら、もう少し話してられるか」
「はい。お話ししましょう」
「どうせまだ緊張が解けなくて、寝られねえしな」
「疲れているはずなのに、難儀ですよね」
 トーマはにこりとした。
 アシュレイは頭の後ろで指を組む。
「疲れてる時には、無性に会いたくなるだろ」
「そうですね。癒されますから」
「無意識のうちに、つい『あいつに会いたいな』って言っちまうの。でもそう口にしちまうと、みんなブラコンだって言うんだよな」
 前に一度どころでなく五度そう言ってしまった時は、周りに大丈夫かという目で見られた。
 そんな先輩の告白に、トーマは真剣な顔で頷く。
「私も、端末で妹の昔の写真を眺めていたら三十分経っていたことがあります」
「それならまだバレねえからいいじゃん」
「それが、バレまして」
「マジかよ」
「私が微動だにしないのを訝しんだ同期に画面を覗き込まれて、バレました。妹の写真を見ていただけだと言ったら、白い目で見られましたよ」
「仕方ねえよな。俺らにとってはファイト一発みたいなもんなんだから」
「そうなんですけど、一般的ではないらしいんですよねえ」
 二人は互いの苦悩を思い、慰め合った。
「下の兄弟って可愛いよな」
「はい。本当に可愛いです」
 アシュレイがしみじみと言い、トーマは深く首肯する。
「アンルシアちゃんは素直だから、余計可愛いだろ」
「反抗期が来るのが怖いです」
  アシュレイも以前、この年上の後輩の妹に会ったことがあった。休日に兄の出る公演を見に来て、終了後に控え室へ遊びに来たのである。
 アンルシアは金髪碧眼の可憐な美少女だった。アシュレイのことをアシュレイ様と呼ぶ育ちの良さに、兄と同じ血を感じて笑ってしまった。
 アーモンド型の瞳を細め、白桃の頬を薄紅に染めて舞台終わりの兄に演技の感想を言う顔を見ていると、これが妹にいたら気苦労が耐えないだろうなと思わされたものだった。
「いつかはと覚悟しているのですが、大学生になった今もまだ来る様子がなくて」
 妹の健全な成長を思うと、複雑な心境です。
 そう零すトーマの顔はどこまでも真面目だった。
 アシュレイは上体を起こし、うーんと唸る。
「兄ちゃんは反抗期の対象外なんじゃねえの?」
「そう、でしょうか」
「多分。俺は同い年の弟しかいないし、あいつも素直なんだかそうじゃないんだか分かんねえ奴だから参考にならねえけど。普通、反抗期って親が対象なんじゃねえの?」
「アシュレイ様の弟様は、アシュレイ様を嫌がるようなことを仰るのですか」
「弟、さま」
 アシュレイは噴き出してしまった。
 笑い続ける先輩を不思議そうに見つめるトーマへ、笑いの合間に悪いと詫びる。
「いや、それこそあいつが嫌がりそうだと思ってな。あいつ、自分にそっくりな双子がいることすら大学で隠してるから」
「そうでしたか。すみません」
「いいって、いいって。もし会うことがあったらそう呼んでやってくれよ。呼ばれたあいつがどんな反応するのか、見てみたいから」
 ひとしきり腹を抱え、やっと笑いの発作を収める。
 さて、もとの話題は何だったか。
 弟が俺を嫌がるようなことを言ったかどうか、だったか。
 アシュレイは過去を振り返る。
「そうなあ。そもそも俺とあいつ、似てるところもあるけど基本的に性格は結構違うんだよ。俺はこの通り、明るさだけが取り柄のちゃらんぽらんだろ? レオは冷静でしっかりしてるから、俺とあいつでボケとツッコミみたいになってることが多いんだ。だから、ツッコミなのか嫌がってるのか分からねえ時があるな」
「アシュレイ様」
 トーマはふと笑みを消した。
「あなたは素敵な方です。だから、そんなにご自分を卑下なさらないでください」
「ありがとう。お前は真面目だな」
 アシュレイは笑って眼差しを横へ流した。
「でも俺、お前が思ってるほど出来た人間じゃねえよ。舞台の上で英雄を演じてきただけで、実際は──」
「いえ、これだけは譲れません」
 トーマは立ち上がると、床に座り込んだアシュレイの前へ片膝をつき、目線を合わせた。
「私は最初こそ、客席からあなたを見ていただけのファンでした。今は、全てではないけれど、あなたの舞台裏も知っている」
 トーマは己の胸に手を当てる。
「あなたはあなた自身が思うより、強くて優しくて真面目な、すごい人です」
 アシュレイを追ってきたトーマは、この半年間で彼をさらによく観察してきた。
 休憩時や稽古の合間、こまめに挙動を確認する姿に、演技を追求する己への厳しさを見た。
 仲間達に程よく声を掛け、張り詰めた舞台を和ませる姿に、優しさと協調の姿勢を見た。
 仕上がった芝居には、彼の磨いてきたセンスを見た。
 彼は、自分で卑下するような明るいだけの人間でない。それは、ずっと彼を見つめていれば分かることだった。
「同じ俳優の道を志す者として、人として、あなたを尊敬しています。どうかご自身を大切になさってください」
「あ……」
 思わぬ熱弁を振るわれ、アシュレイはどうしたらいいのか分からなくなる。このような扱いは慣れていない。
 戸惑った挙句、口元を押さえながらもごもごと呟いた。
「ありがとう、ございます?」
「どういたしまして?」
 トーマは小首を傾げて微笑む。
 何だか照れ臭くて、アシュレイは速やかに話題をもとに戻した。
「トーマとアンルシアちゃんは、素直な良い兄妹関係だと思うぜ。だから何も心配することはないと思う」
「そうでしょうか」
 トーマははにかんだ。
「ああ。まったく、羨ましいくらいの兄妹仲だよ」
「アシュレイ様とレオーネ様も、仲がよろしいように聞こえますが」
 再び、自分達のことに水を向けられた。
 アシュレイは自分達を振り返る。
「仲は多分、いいんだろうな」
「多分、なのですか」
 頬杖を突き、アシュレイは語る。
「レオは、はっきり自分の気持ちを言う方じゃないんだ。思うところがあっても、忖度して自分の気持ちをしまい込んじまう。そういうところが、俺は昔から心配でよ」
 幼い頃から、弟は人一倍優しかった。
 だから、文句を言ってくるくらいの方が、兄としては嬉しい。
「せめて俺には正直なところをぶつけてほしいと思ってるんだけど……何を考えてるかは、本人にしか分からねえからさ」
 そこまで語って、アシュレイは話を聞くトーマが眉を下げているのに気付いた。
 しまった。思いがけずしんみりした調子になってしまった。
 自分を戒め、表情を明るくする。
「おっと、悪ぃな。でも、俺は仲良いと思ってるんだ! 今度の金曜日、クランクアップしたら二人で飯食う約束してるし」
「食事ですか。もしかして、誕生日だからでは?」
「よく知ってるな。そうだよ、誕生日パーティー」
「なるほど」
 トーマは床に座り込み、微笑んだ。
「このところ色々な方にオススメのお酒を聞いてまわっていたのは、そのためだったのですね」
「何で知ってるんだよ」
「皆さん、噂してましたから。そろそろ二十歳の誕生日だから、最初に飲む酒を何にしようか考えてるに違いないって」
「いやー、バレてんのか。照れるな」
 アシュレイは頭を掻く。
 トーマは思う。
(むしろ、何でバレてないと思ってたんだろう)
 このよく働く若手が、毎年ある一日だけは必ず休むという話は、劇団内でもよく知られるエピソードだった。
 その日と、公表しているプロフィールを照らし合わせれば、何のためなのかはすぐ分かってしまう。
「とは言っても、飲むのは俺と弟の二人だけだけどな」
「せっかくの二十歳を迎える日なのですから、美味しいものをたくさん飲んで食べてくださいね」
「へへ。もちろん」
 アシュレイは無邪気に笑う。
「今のうちだからな。いつかあいつに嫁さんができたら、二人で好き放題飯を食うなんてできなくなっちまうし」
 もう、色々予約してあるんだ。
 あとは金曜日の朝に家へ帰り、予約したものを方々へ受け取りに行くだけ。
「楽しみだなあ。あいつに内緒にしてるものもあるんだ。驚いてくれるかな」
 そう嬉々として語る先輩の幸せそうな顔に、トーマは微笑ましい気持ちになる。
「アシュレイ様は、弟様のことが本当に大好きなのですね」
 言われたアシュレイは、きょとんとした。
 それから短く笑い声を漏らした。
「そうだな。うん。好きだよ、本当に」
 噛み締めるような言い方は、どこか苦い。
 訝しげな後輩を、アシュレイは見つめ返した。
 自分より年上の、人柄が良くて口の堅そうな後輩。
 楽屋裏にはもう自分達しかいない。
 誰にも聞かれない。
 状況に誘われ、先程胸の奥にしまい込んだものが首をもたげる。
「トーマ。ちょっと、誕生日祝いにかこつけて──祝いを自分でせびるのも変な話だが──頼みがあるんだけど、聞いてくれないか」
「はい。私でよろしければ、何なりと」
 トーマは誠実に応じる。
 アシュレイは双眸を歪めた。
「悪ぃな」
 それから少し、沈黙のとばりが落ちた。アシュレイの人差し指が、落ち着かなそうに膝を叩く。トーマは根気強く待つ。
 やがて彼は意を決し、後輩をひたと見据えた。
「頼みっていうのは、今からする話を聞いて率直な意見を教えて欲しいってことなんだ。もし俺の話が嫌だったら、途中で切ってくれ。いくら頼んで聞いてもらうのでも、無理やり聞かせたくはないからな」
「分かりました」
 トーマは真摯に頷く。
 アシュレイは唇を湿らせ、あのさと硬い声で切り出した。
「血の繋がった弟と一生同じ家で暮らしたいって、おかしいかな」
 トーマは目を瞠った。
 いや待ってくれ、とアシュレイは慌てたように片手をあげる。
「ごめん。自分でもおかしいんじゃないかって思ってんだ。弟が小さいなら分かる。でもあいつは俺と同い年で、俺よりしっかりした奴なんだ。しかも男。守らなくちゃならねえような奴じゃない」
 弟は、間違いなくこれから一人で歩いていけるだろう男だ。
 自分で稼げるようになり、今の家を出て別の環境を生活圏として生きていく。
 やがて伴侶を得、子供ができ、家族を連れて遊びに来る。
 そうやって、一番の家族ではないが他人ではない距離で、緩やかな交流を続けていく。
 『普通』はそうなるものだろう。
「あいつが望むならそれでいい。そう思ってる。とんでもねえこと言っといて嘘だって思うかもしれねえけど、その気持ちは本当なんだ」
「アシュレイ様。落ち着いてください」
 トーマは年下の先輩へ、ゆったりと話しかけた。
「少し驚きましたが、私は変だとは思いませんよ」
「けど」
「確かに世間の思い描く『普通』の人生とは違うかもしれません。しかし、そもそも人間の生き方に決まった形はないと私は思います」
 幸せに生きたい。
 そう思った時、ヒトは他の、問題なく生活を営んでいるように見える人間の人生を参考にする。
 その際に見えるのが『普通の人生』という、周りを取り巻く大勢の人間に共通しているように見える概念だ。
 それに囚われて本来を見失い、苦しむ人は多い。
「生きとし生ける者には自由意志があります。大切なのは、あなたが何を望んでいるかです。実在しない幸福のカタチに囚われれば、あなたも、あなたの周りの人も後悔することになるかもしれません」
「そう、かな」
 後輩の深い声色に、アシュレイは落ち着きを取り戻していく。
 トーマは頷いた。
「ええ。たくさんの人間がいる中で、あなただけが周りの人間達の価値観に生き方を強いられるのは、大昔ならまだしも、この現代ではおかしな話です」
「そうか」
「あなたの願いが大勢の命を損なうようなものであるならば話は別ですが、そうではないでしょう?」
 アシュレイはゆるゆると息を吐いた。
 腹の底から吐き出されたと思しき長い溜め息に、トーマは友人の悩みが相当な期間胸に巣食っているものであることを察した。
「アシュレイ様は、どうされたいのです?」
「傍にいたい。それだけだ」
 アシュレイはもう狼狽えていなかった。
 曇りのない空色の瞳からは、腹を明かす覚悟が窺えた。
「おかえりとただいまを言えて、一緒に飯食ってたまに遊んで、同じ屋根の下で寝る──それだけでいいんだ。それ以上は望まない。今は、想像できない」
「そう思うようになったのは、いつから」
「ここで修行を始めた頃。五年前くらいだな」
 アシュレイは手に顔を埋めた。
「ここで修行するために、当時住んでた家を出た日がきっかけだった」
 これは今でも変わらない癖だが、戯れに片割れへくっつきに行くのは昔からアシュレイの方だった。レオーネは、それを鬱陶しげに払うのが常である。
 それが、あの旅立ちの朝は違った。
 レオーネは自分からアシュレイを固く抱き締め、こう言ったのだ。
「お前ならできるよ。キツくなったら、帰って来い」
 そして平然とした顔で送り出すものだから、弟の成長を噛み締めて頼もしく思うと共に、しばらく会えないことを寂しく思った。
 それから住み込みで下働きをしながら稽古に励んで、一年。
 やっと三日だけ休みを取ってレオーネのもとへ帰った時、今度は揃いのネックレスを渡された。
「離れてても応援してるから」
 相変わらず涼しげな顔でさらりと言う。
 それなのに、渡してきたものは当時の生活から考えると相当やりくりしないと用意できないはずのものだった。
 言い表せない思いが込み上げてきて、気付けばアシュレイは泣いていた。
 あの時ばかりは、さすがの弟も動揺したらしかった。泣くなよと言いながら、ハンカチで兄の目元を拭うという普段ならやりそうもないことをやってしまい、後からそれに気付いてハンカチをこちらの掌に押し付けてきたのは可愛かった。
 そのくせ、アシュレイが泣いている間は決して傍を離れず、じっと様子を窺っていたのだった。
「次の年も俺が誕生日に帰ったらプレゼントをくれて、応援してくれて。その時には、プレゼントよりあいつのところに帰るのが楽しみでしょうがなくなってたんだ」
 弟の傍はどこよりも心が動かされ、落ち着く場所だった。
 もっと弟の傍にいたい。
 その『もっと』は、やがて『ずっと』に変化してしまった。
 そう自覚した時には、すでにグランぜドーラのマンションを借りて二人で暮らす手筈を整えていた。
「そのようなことが」
 トーマは顎に手を当てる。
「随分男前な弟様ですね」
「だろ? なのに、まだ彼女がいないみたいで」
 弟とて多感な年頃のはずだ。
 なのにその気がまったくないのはどういうことなのだろう。
「もし、俺のせいだったらどうしよう」
 このところ、そんな不安と葛藤がちらついている。
「ただでさえも、顔が少し知られてる俺がいるせいで、あいつが過ごしづらい思いをしてるかもしれないのに。あいつの人生を俺のよく分からねえ願望で縛ったら可哀想だ」
「それは、あなたのせいではないのでは」
「いや、今はそうじゃなかったとしても、そのうち俺のせいになるかもしれねえんだよ」
 アシュレイは自嘲気味な笑みを浮かべた。
「今の俺は、このまま誰もあいつに寄り付かなければって思っちまうことがあるんだから」
 嘆息し、頭を抱える。
「分かんねえんだ。自分がゲイなんじゃねえかと思ったこともある。でも、弟以外の男を好きになれなかった」
 男のファンから告白されたことがある。
 同業の男から遊ばないかと誘われ、支援者の一人に騙されて閨まで連れ込まれたこともある。
「でも、どうも気が進まなくてな。全部断っちまった」
「ち、ちょっと待ってください」
 トーマは思わず制止した。
「うちの支援者にそんな人が?」
「おお。もう二、三年前の話だな」
 アシュレイはこともなげに言い、笑顔で利き手の親指を立てた。
「心配すんな。もうブラックリストに入ってるからよ!」
「それはありがたいですが。その、アシュレイ様は」
 言い淀む後輩の気遣いを察し、アシュレイはさらに破顔した。
「何ともねえよ。あらくれを何人雇われようと、何か盛られようと、俺に手出しして勝てる奴はまずいねえ」
 知ってるだろ。俺の殺陣と喧嘩の腕前は実戦仕込みだからな。
 そう言う顔はいつものやんちゃな先輩のもので、トーマはほっとした。
「詳しい話、聞く? 護身の参考にもなると思うぜ」
「今は遠慮しておきます。真剣な相談の最中、でしょう?」
 ちゃらけた風に訊ねる先輩に、トーマは微笑んで先を促す。
 優しく嗜められ、アシュレイは虚をつかれたようだった。
「お前、変わった奴だな」
 肩をすくめて言う。
「お前、変わった奴だな。こんな相談、さっさと流しちまった方がいいだろうに」
「大事な方の悩みを聞き流したら、きっと後悔するでしょうから」
 そういえば、とトーマは軌道修正する。
「アシュレイ様は、恋人がいたこともありましたよね」
「ああ、あったな」
 アシュレイは伸ばしていた脚を組んで胡座をかく。
「よく知ってるな」
「劇場の方に聞きました」
「みんな口軽いなー。まあいいけどさ」
 大したことのなさそうな口振りで、アシュレイは語る。
「誰とも長続きしなかった。この仕事、休みが不規則だろ?」
「ええ」
「その貴重な休みに、レオとの遊びの約束を優先して入れて、彼女と遠くに出掛ける時間を作んねえもんだから、何度も振られた」
「一番長く続いて、どのくらいだったのですか」
「半年かな。でも、俺の誕生日をどうしても一緒に過ごしたいって言われて振っちまった」
 その日は弟との二人だけの日である。彼女を立ち入らせる気になれなかった。
 何故なのかと訊ねる彼女に、「一緒に過ごせない」だけ返し続けた。弟に迷惑を掛けたくなかったからだ。
 それで、別れることになった。
「みんな、レオを優先させてくれねえ。だから、芝居も忙しいし、ガールフレンドを作るのもやめちまった」
 アシュレイは大仰な溜め息を吐く。それから、後輩へにやりと笑いかけた。
「な? とんでもねえだろ。俺は本当にひどい人間なんだよ」
「ひどいとは思いませんが」
 トーマはかぶりを振る。
「レオーネ様が本当にお好きなのだなとは思います」
「ああ。そうだな」
 アシュレイは力無く微笑む。
「俺はこれから先の人生で、きっと弟より大事な人間はできないと思う」
 諦めと苦悩が滲む、ひっそりとした調子でそう零した。
「弟以外に大事な奴ができないか、色々試した。でも駄目だった。俺の人を見る目がないだけとか、本当に好きな人に会ったことがないとか、実際はそれだけの話なのかもしれねえ。仮にそうだとしても、誰と過ごしてもレオと過ごしてる時ほど満たされねえっていうのは、今のところ変わりそうのない現実なんだ」
 いろんな人間との縁に恵まれるようになった。
 高価なプレゼントをもらえることも増えた。
 グランゼドーラにいた頃には知らなかった、刺激的な体験をすることもできる。
 それでも心は、双子の弟を求めてやまない。
「こんな俺は、あいつから離れた方がいいんだろうか」
 アシュレイは問う。懊悩の滲み出る口振りだった。
 トーマは訊ねる。
「離れられるのですか」
「あたぼーよ。俺は俳優だぞ?」
 アシュレイは一転して溌剌とした笑みを顔に乗せた。
「うまいこと言って、俺があの家を出るかあいつが出やすいようにするか、どっちかにはできるだろうな!」
「それはできるでしょうが、心は弟様から離れられますか」
 そう問われると、笑みが消えた。
「できなくても、離すんだよ。あいつのためなんだから、それくらい我慢する」
「弟様がそれを望まないとしても?」
「そんなことがありえるか?」
「実際に見定めてみないと分かりません」
 トーマは語る。
「先程アシュレイ様も仰っていましたが、人の心は話してもらわないと分かりませんし、口にしたそれが本心であるかどうかは、本人でないと分からないものです。いや、本人も見誤ってることさえ、あるかもしれませんね」
 心と言葉を素直に結びつけるのは、難しいことだ。
「いずれにせよ、話そうと話すまいと、人のためであろうと自分のためであろうと、選択した時点で本人の意思が反映されたということ──つまり、最終決断は自分なのだと、そう思います」
 最終責任は自分にある。たとえ周りに強いられたのだとしても、その選択肢を飲むことを選んだのは、自分の意思なのだ。
「離れるか離れないかは、レオーネ様の意思も確認して、お二人で決めるべきかと」
「俺がこんなでもか」
 アシュレイは自嘲する。
 トーマはいたわりをこめて言う。
「全てを正直に話すべき、とは申せません。しかし、そのように貶しめられるべき思いとも私には思えません」
 誰かを思う気持ちに貴賎はない。
 トーマはそう信じている。
「弟様がよろしいならそのまま住めばいい。そうでないなら、どちらかが折れる。それだけの問題なのではないのでしょうか」
「いいのかな」
 アシュレイは躊躇う。
「俺がレオを縛ってることにならないか」
「そうだとしても、レオーネ様が受け入れている限りは同意ということでいいのでは?」
 トーマは腕を組む。
「普段のお話を聞く限り、レオーネ様は冷静で聡明な方のようです。よほどのことがなければ、他人に強いられるばかりと恨むお人でもないように思います」
「そうかなあ。鬱憤溜めそう」
 悩むアシュレイの肩を、トーマは軽く叩いた。
「たまには兄弟喧嘩をする必要も、あるかもしれませんよ?」
「まあ、その覚悟も必要だよな。最悪、絶交も視野に入れて」
 アシュレイは大きく息を吐いた。
「その時はトーマ、慰めてくれるか」
「ええ。妹の慰めには慣れてますから、いくらでもお付き合いします」
「頼もしいわ」
 アシュレイは立ち上がる。
 いつの間にか自分と同じように床へ座り込んで話していた友を、片手で引き起こした。
「ありがとう、助かった」
「お力になれましたか」
「お前じゃなかったら、こんな話はできなかった。俺、相談できる相手があんまりいねえから」
「私でよければ、またいつでも」
 二人は外套と鞄を手に楽屋を出る。
 廊下の照明が落ちつつある。そろそろ、守衛が廻る時間だった。
「お礼は肉でいい?」
「誕生日祝い、でしょう? お気遣い不要です」
 トーマは片目を瞑る。
「どうしても気になるなら、また弟様との話を聞かせてください」
「お前、本当に物好きな奴だな」
「男の兄弟に憧れがあるんですよ」
 二人は並んで歩く。
「公演終了まで、あと二日か。それまで、あの狭苦しい下宿で頑張ろうな」
「はい」
「……やっぱり会いてえな」
「……本当に」
 コロシアムの裏口を出た二人は、そのまま観光地区と厚い壁で隔てられた向こうへ歩いていく。
 娯楽島は二人の青年の苦悩などつゆ知らず、夜陰を弾き飛ばすように輝き続けるのだった。