性愛という渇望




※現代パロディ。
※ver6.0までのネタバレあり。
※レオアシュ。
※捏造祭り。
















 照明を落とした自分の部屋で寝台に腰掛けていると、兄が隣に乗り上げてきた。
 兄の全身は夜陰に浸っていた。だが、廊下から微かに漏れる光を溜めた瞳が、緩やかに弧を描く様だけはよく見えた。
「なあ、レオ」
 やんちゃな笑みを浮かべ、身体を擦り寄せてくる。
 スウェット越しに伝わってくるのは、張り詰めた筋肉の感触。鍛えられた肉のみっしりついた、男の身体だった。
 美術館に展示される彫刻のように整った、しかしどの食べ頃の果実よりも魅惑的なそれを押し付けられる。さらにその手が自分の手を取り、纏うスウェットの中へ導くものだから、息が上がってしまう。
「いいだろ? 付き合ってるも同然なんだからさ」
 兄は重ねた弟の手を、自らの脇腹へ誘う。
 綺麗に割れた筋を、指先で辿る。初めてまともに触れるそこは、彫刻家が丹精込めて磨き上げた象牙に似た滑らかさだった。芯のある硬さと吸い付くような手触りが癖になって、兄の手に導かれずとも凹凸をなぞるのをやめられなくなる。
 思い描いてきた肌の感触を確かめるべく、掌全体を丹念に動かし続けていると、兄はくすくすと笑った。
「くすぐったいよ、レオ」
 暗にやめるよう促しているのかもしれない。それでも、撫でるのを止めたくなかった。
 兄は熱の籠った息を吐き、唐突にスウェットの上を脱ぎ捨てた。
 たちまち鍛え抜かれた上半身が露わになる。駿馬の如き健やかな肉叢は、陰影を帯びた途端匂い立つ艶姿となって、此方の情欲を唆ってくる。
「もう、こんなにして」
 兄の手がおもむろに伸び、自分の形をなぞる。
 しょうがないなと囁く声は、掠れていた。
「初めてなんだろ? 大丈夫だから、俺に任せて」
 兄は寄りかかるようにして、自分を押し倒してきた。似た形の身体が、あっという間に重なり合う。
 さすがに手慣れている。
 そう考えたら何だか腹が立ってきて、首筋に噛み付いた。
 兄が呻く。その声すら堪らない色気を帯びていて、煽られる。
「妬くなよ」
 兄は困ったような顔で宥める。
「今はお前だけなんだから」
 そう言って弟の頭を撫でる。
 その一方で、空いた方の手はあらぬ所をさすり上げてくる。
「ね、レオ」
 覆い被さる兄が耳殻へ唇を寄せ、誘う。
「一緒に気持ちいいこと、しよ?」
 甘やかな吐息を吹き込まれ、抗えるわけがなく──








 そこで目が覚めた。
 起きてすぐには現実を把握できなかった。
 レオーネは、灯りの消えた自室のベッドで、一人寝ていた。外は夜だった。一瞬、自分は兄と致して眠ってしまったのではないかと錯覚したが、それにしては腹の下でまだ熱が燻っている。夢だったのだと気付いた。
 家の中は真っ暗で、人の気配はない。兄は今頃仕事のはずだ。
 レオーネは微睡みの余韻を引きずりつつ、考える。
 一体いつ眠ってしまったのだろう。大学から帰ってきて、着替えた直後か。自分にしては珍しい。昼寝をするのは滅多にないことだった。
 時刻を確認しようと、端末を点けた。
 そして自分が仮眠を取った理由を思い出し、跳ね起きた。
「やばい」
 すぐに身支度を整え、家を飛び出す。
 今日は聖夜祭前日。
 兄と夜通し映画を観る約束で、映画館へ行くことになっていたのだった。












 きっかけは、一ヶ月半ほど前に交わした会話だった。
 深夜に夜食を買いに出た時、アシュレイが灯りの消えたグランゼドーラの街並みを見上げて、こう言い出したのだ。
「夜通し起きて、朝まで遊んでみたいな」
「まだやったことなかったのか」
 レオーネは驚いた。
「ラッカランは、夜なんてあってないような場所だろ」
 娯楽島は明るくない時がない。太陽や月の進行に関わらず、必ず誰かが起きて灯りを点けているという。
 気ままな兄のことだ。レオーネの知らないところで、時にさえ縛られぬ娯楽の地を満喫しているものと思い込んでいたのだが。
「それが、やったことねえんだよな。深夜まで遊んだことはあるけど、朝が来るまで遊んだことはない」
 駆け出しの役者は、何よりもまず仕事に慣れなくてはいけない。
 だから、その余裕はなかったのだ。
 アシュレイはそのようなことを語って、レオーネを窺った。
「なあ。お前さえよければ、今度劇場が終わった後にラッカランのどこかで遊ばないか?」
「俺でいいのか?」
 レオーネが訊ねると、アシュレイは頷いた。
「正直、朝まで寝ないでいられる自信がないんだよ。他人に寝顔を晒すのも気が引けるから、レオくらい気の置けない奴とじゃないとやろうと思えねえ」
「起きてられる自信がないのに、何でやろうとするんだよ」
 レオーネは首を傾げる。
「憧れってヤツだよ。若者らしい無茶、してみてぇの」
 アシュレイは破顔して、弟を窺う。
「なあ。ダメか?」
「内容によるな」
 レオーネは兄を見つめ返した。
「何して遊ぶつもり?」
「そうだな。遊べればなんだっていいんだけど」
 兄は天を仰ぎつつ、指を折る。
「たとえばカジノ。他に飯、酒、レース、映画、あと──」
「映画館ができたのか」
 レオーネは驚いた。
 映画館と劇場では客層が被りそうなものだが、やっていけるのだろうか。
 訊ねると、アシュレイは答えた。
「それが、うちと別の層をターゲットにしてるみたいで」
 その映画館には、大きなシアターがない。小部屋同然の小さなシアターを多数用意し、完全予約制でそれを貸し出すという商売をしているとのことだった。
 身内だけで好きな映画を見られるという点が売りであるため、生の演技や演出の迫力を楽しむコロシアムとは客層が被らないらしい。
 兄はそう語った。
「へえ」
 レオーネは興味をそそられた。
「防音性はどうなんだ。隣の映画の音が聞こえてきたら、客同士でトラブルになるよな」
「音漏れは気にならないってさ。実際に行ってみた劇場の仲間が言ってた」
「上映作品は?」
「サイトに一覧が載ってる」
 レオーネはすぐに端末を取り出し、その映画館のホームページにアクセスしてみた。
 豊富なタイトルが揃っており、経営者がかなりの映画好きであることが察せられた。
「設備も良さそうだな」
「興味ある?」
 アシュレイの問いに頷く。
「行ってみたい」
「よし。予約取ってくれ」
 レオーネは部屋の空き状況を確認しようとした。
 そうして、ふと予約リンクの上に提示された派手なバナーに目が留まった。
 金字で『先着順! 深夜十二時間格安キャンペーン』と記されている。
 気になってそれをタップし、概要を読む。無言になった弟を訝しんだ兄が、画面を覗き込んできた。
「星夜祭イブ、ナイトシアターフィーバー? なんだそりゃ」
 アシュレイは首を傾げた。
 レオーネは読んだ内容を説明する。
「要するに、早めに申し込んでおくとプレミアムプランの内容をレギュラーの価格で楽しめるらしい」
「プレミアムって?」
「夜十時から朝十時までシアターレンタル可能。上映作品借り放題。ドリンクバーとテイクアウトサービス付き」
「すげえな」
 アシュレイは目を丸くした。
「面白そうだな。それ取れるか?」
「取れるけど」
 レオーネは予約表を確認して言う。
「星夜祭前夜限定だよ。俺は空いてるけど、兄貴はいいの?」
「おう! その日もいつも通り、仕事だからな。夜はばっちり空いてる」
 こうして、星夜祭の日を兄と共に映画館で迎えることになったのだった。
 元々映画の好きなレオーネは、この日を楽しみにしていた。観る内容はレオーネが選んでいいと兄が言ったので、どの作品をどの順番で観るかまで既に決めてあった。あとは予約時刻二時間前に映画館へ行き、フィルムの在庫を確認するだけだった。
 なのに、あろうことか家を出る予定の時刻まで寝てしまったのだ。
 レオーネは焦っていた。バシルーラ屋でラッカランへ飛び、あらかじめ調べておいたシアターと思しき建物へ駆け込んだ。
 その建物は何の看板もない、一見して映画館と分からぬビルのような外観をしていた。扉を開けると、少々手狭だが小綺麗な大理石風のエントランスが現れた。受付には深紅の垂れ幕が下がっており、スタッフの手元だけがこちらから伺えるようになっていた。
(変な受付だな)
 レオーネは少し違和感を覚えたが、構わずフロントへ声を掛けた。
「すみません。メニュー表をください」
 受付の手が、すっとメニュー表を差し出してきた。
 そこには、ラブリーからムーディーまで様々な雰囲気を醸し出す部屋の写真が載っていた。
(こんな部屋だったか?)
 レオーネはまたしても首を傾げた。
 映画館のはずなのに、どの部屋の写真もベッドがでかでかと写る画角で撮られている。オプションとして仮眠用のベッドがついているという話は聞いていたが、ここまで立派なものが備わっているとは予想外だった。
(第一、予約済みなのに部屋を選ぶってどういうことなんだ? プランの枠を取っただけで、どの部屋を使うかは今から決めていいってことか)
 変わってるなと思いながら、レオーネは一番落ち着いた雰囲気だと感じた、黒が基調の一室を選んだ。
 受付から鍵を受け取り、部屋へ向かう。エレベーターを使い、ルームキーに記された番号の記された扉を押した。
 部屋へ入ると、レオーネの違和感は特大に膨れ上がった。
 その部屋には、モニターこそあるがスクリーンがなかった。漆黒のダマスク柄の壁紙はとても映像を映すには向いておらず、部屋の大半をキングサイズのベッドが占めている。
 さらにこの部屋には、ホームページの説明文には言及されていなかった、風呂とトイレが揃っていた。入ってすぐ左手にある戸を開けて、発見したのである。扉を開けた瞬間、レオーネは瞠目した。風呂とトイレは、透明なガラスによって仕切られていた。開放感はあるが、プライバシーという点では別室にした意味を失っているように思われた。
 もっとも映画館として理解に苦しんだのが、浴室だった。大きなジャグジー風の浴槽の上には、ミラーボールが燦然と輝いていたのだ。
 七色のネオンを投げかけてくるそれに呆気に取られていると、ポケットの中の端末が震えた。
 見れば、兄からメッセージが入っていた。
『今、映画館のフロント通って部屋着いた。どこにいる?』
 ここでやっと、自分がどこか間違った場所に来てしまったことを悟った。
 レオーネは返事を打つ。
『ごめん。違う建物に間違って入った』
 送信すると、即座に返事が届く。
『どこ?』
 現在地の情報を送る。
 途端、画面が変わった。
 兄からの着信だった。
「大丈夫か? 何があった」
 開口一番、兄は妙に切羽詰まった口調でそう言った。
 レオーネは眉根を寄せる。
「何があった、って。間違えて入っただけだよ。支払いもしちゃったけど、すぐ出て──」
「部屋番号は?」
 聞かれた内容を答えると、アシュレイは続けて訊ねる。
「他に誰かいるのか」
「俺一人だよ」
「危険な目には遭ってないんだな?」
「間違えただけだって。何で慌ててるんだよ」
「すぐ行くから待ってろ」
 動くなよと念を押した後、電話は切れた。
 レオーネはミラーボールを宿して虹色に輝く画面を見下ろし、首を傾げた。
 部屋の様子から考えるに、どうもここはホテルなのだろう。ホテルならさっさと払い戻して出てしまえばいいだけなのに、兄は何故あんなに焦って自分を止めたのだろうか。
 しばらく考えてみたが、答えなど出るはずがない。諦めて、座って兄を待つことにする。
 部屋にはまともな椅子がなかったため、仕方なく寝台に腰掛けた。ベッドはレオーネの体重を受け止めるだけでなく、柔軟にスプリングを軋ませて弾ませた。毛足の短い敷布は手触りが良く、毛布には黒曜石の乱反射するが如き模様が織り込まれている。総合して、普段使いには躊躇われるような高級品だと察せられた。
 顔を正面に向けたレオーネは、モニターの横にリモコンが置かれているのに気付いた。
 退屈凌ぎに、テレビでも見るか。そう考え、リモコンのボタンを押す。
 画面がぱっと明滅し、何かが映った。
 それは、ふわふわした毛玉だった。
 二つの毛玉が、ぽんぽんと軽やかに、弾けてはぶつかるのを繰り返している。これは何の映像なのだろう。じっと眺めていると、やがてカメラが引いた。毛玉はそれぞれ、さらに大きな毛玉についていた。大きな毛玉にフォーカスが合う。それでやっと、画面に映っていたのが二人のプクリポだったのだと知れた。プクリポ達が、尻を突き合わせるようにして尻尾を触れ合わせていたのだ。
「…………」
 その様を眺めていたレオーネの胸に、ある疑念が湧く。
 チャンネルを回してみる。今度は二人のドワーフが映った。二人とも、緑の肌の面積が広い。ドワーフはそもそも薄着の種族なので、一見すればただ戯れあっているだけのように見えないこともない。だがそれにしては、聞こえてくる音声がやけに婀娜っぽかった。
 さらにチャンネルを回していく。エルフ、ウェディ、オーガ、竜族、魔族。どれも肌面積の広い複数人が映っているか、妖しげな音声が載っているかという映像ばかりだった。
 そして最後に、二人の人間が映るチャンネルが出てきた。彼らは、人というより獣に近しい交わりを披露していた。
 レオーネはテレビを消した。
 溜め息を吐き、頭を抱える。
「ここ、ラブホテルだったのか」
 独りごちたその時、部屋の戸をノックする音が響いた。
 扉の向こうから、押し殺した声が聞こえてくる。
「おい。いるか?」
 それは紛れもなく、兄の声だった。








「うっわ。マジでミラーボールついてる! ちょっと待って。ひぃ。笑い止まんねえ」
 アシュレイは極彩色の光の雨粒が降りしきる浴室を覗き、笑い転げていた。
 生真面目な弟が、急に現在地としてラブホテルの住所を送ってきて仰天した。何らかの事件に巻き込まれたのではないかと心配になったから、状況を確認すべく駆けつけた。
 そう真剣に語っていたのは来て五分くらいのことで、レオーネが本当に勘違いでここへ入ったらしいことを確認すると、たちまち普段の調子を取り戻してこうなった。
 兄によると、ここは目的の映画館の一つ筋違いにある、そこそこ高級なラブホテルなのだそうだ。聖夜祭前夜に部屋が空いているのは珍しいとも語られた。
「映画館と同じ料金で入れたってことは、二時間休憩コースだろ。休憩だから取れたんだろうな。宿泊だったら絶対取れなかった」
 ここ、結構混むんだよな。
 そう言うアシュレイはにやにやしている。知った風な口ぶりなのが気にかかるが、今の自分には何も言えない。
「ごめん」
「だからいいって! シアターの利用開始は、あと一時間後だろ? フィルムは確保したし、部屋も押さえて鍵閉めてきた。管理人にはちょっと出てくるって話して了承もらってる。だから平気だよ。むしろ、一時間の暇が潰せてちょうどいいじゃねえか」
 そう言って、ガラス張りのトイレから出てきたアシュレイはにこやかにレオーネの肩を叩く。
「せっかくだから、風呂入ってから映画観に行こうぜ。ここ、虹色に光る薔薇の泡風呂が有名なんだ」
「普通のジャグジーじゃないか」
「浴槽の形じゃなくて、泡が薔薇なんだよ」
 言うなり、アシュレイは変装用の眼鏡を取る。
 コートをハンガーに掛け、ジャケットやズボンなど、身に纏うものを次々取り払っていく。
「俺、先に入っていいか? 汗かいちまったから、早く流したいんだ」
「ああ、どうぞ」
 レオーネは踵を返すふりをして、顔を逸らした。
 背後でクローゼットが、次いで風呂場の戸が閉まる音がする。ややあって、勢いよく迸る水の気配。すげぇという兄の歓声も聞こえた。
「レオ! これ見てみろって」
「後で自分が入る時に見る」
 アシュレイのはしゃいだ声に、レオーネは声を張って返した。分かったと無邪気に笑うのを最後に、呼びかけは止んだ。
 静かになった部屋で、またベッドに腰掛ける。
 膝に肘をついて両手を組み合わせ、その上に顎を乗せる。その姿勢で、思索に耽り始めた。
 疑問は消えた。己の勘違いは暇潰しに昇華された。兄は楽しそうだ。
 運がいいのだろう。喜んでいいはずだ。
 だが今の己には、この過ぎた幸運が毒だった。
(落ち着け。余計なことは考えるな)
 己にそう言い聞かせても、浴室から届く水飛沫と楽しげな鼻歌は消せない。否応なしに気分が高まってしまう。
 彼の胸中は今、ラブホテルですべきことに対して「致したい」と「致してはいけない」の狭間で揺れていた。
 正直に白状すれば、今すぐに風呂場に押し入って致したい。何せ、好いた相手と二人きりなのだ。それも、昨日今日好きになった相手ではない。生まれた時から一緒で、好いたきっかけを挙げていけばキリがなく、先程モニターで見たような交わりをしたいと気付いたのが精通の時という、そのくらいに思いを募らせた相手なのである。
 さらに、兄と思いが通じ合っていることを確認してから一週間、付き合っているも同然の関係になって一ヶ月が経過している。
 いい加減、それらしいことへの欲求が昂って仕方がない。今日の寝坊だって、起きるべきタイミングに兄の淫夢を見てしまい、寝過ごしたせいで起きたことだ。心の求めるままに昂りをぶつけたいという欲望は、生半可なものでなかった。
(でも、ここでしていいのか?)
 一方で、踏みとどまるよう強く訴える自分もいた。そっちの自分はやや理論的で、理由を挙げて本能を嗜めてくる。
 まず第一に、大事な人と繋がる時が今でいいのだろうか。このホテルだって、初めての場所として悪くはないのだろう。だが、きっかけが自分の勘違いである。今から事に及ぶのは、いかにも場所にあてられて流された感じがして矜持が許さない。
 第二に、今致してしまったら一時間で終わらない気がする。時間制限を気にしながら性急にするのも、映画館の予約時間に間に合わなくなってしまうのも嫌だった。
 第三に、致すか致さないか以前に、そもそも兄が本当に自分と恋人のような真似をできるのか知らなかった。兄への肉欲ばかりが前面に出てきがちになってしまうが、そもそもは彼を愛したいのだ。無理に事に及ぶのは気が引ける。
(兄貴って、男としたことあるのかな)
 兄は生き方の奔放さに反して、性的な趣味を全く語らなかった。それが何故なのかすら、レオーネは知らない。自分の方も、兄弟でいなければならないという枷を二十年間強いてきたため、そういうことを話す機会を作ろうともしなかったからだ。
(やっぱり、今するのは早い)
 レオーネはそう結論づけた。
 兄と初めて致す時は、双方納得づくで愛し合えるようにしたい。そのためにはまず、兄と意思を擦り合わせる必要がある。
 今は、来たるべき時に備えてイメージトレーニングだけしておこう。
 レオーネはそう決意して、手にしたリモコンでモニターをつけた。イメージビデオことAVを見るのである。
 この手の映像は、視聴者に刺激を与えることを重視しているため実際性に欠けると言う。だが、経験のない自分が見ないままでいるよりマシだろう。今頃溶室で一糸纏わぬ姿を晒している兄から気を逸らすのにも、ちょうど良かった。
 チャンネルを回すうち、人間の男同士が睦み合っている映像が現れた。体格のいい男二人が、上へ下へとくんずほぐれつしている。
(兄貴はどっちなんだろう)
 何度か考えてきた問いを、また思い浮かべる。
(できれば抱きたいな。でも、兄貴がしたいって言うなら逆でも仕方ないか)
 レオーネは、相手が兄ならばそれで良かった。あの笑顔で、あの良い声で囁かれたら、大抵のことは許せる気がする。
 ただ、それは推測に過ぎない。如何せん自分にはエビデンスとなるものが無いので、経験があるらしい兄に役割分担の意見を聞きたいところだった。
 そんなことを考えていると、再び思考が出掛ける前に見た夢へと立ち返ってしまう。
(あの夢の誘ってくる兄貴、良かったな)
 誘惑してくる兄は、幾度となくしてきた妄想だった。兄は普段からスキンシップが多く、言動が気ままである。何の意図もなくすることが、レオーネの劣情を煽ることも多い。
 だから、自分の知らないところで身に付けた手管を用いて色事の誘いを掛けてくる兄は想像しやすく、興の乗る空想だった。それをいずれは自分だけのものにして、心も身体も互い以外を望めないようにするまでを考えるのが、最近の夜のフルコースである。
 ついそちらに意識が向いてしまい、遅刻の焦燥で消えかけた欲がまた蘇ってくる。
 いけない、忘れていた。
 自覚したレオーネは、また見ているようで全く見られていない映像に集中しようとする。
 そんな彼の目に、ある事象が留まる。それは、クライマックスにして本懐とも呼べるある行為だった。
(これ、痛くないのか?)
 無意識に眉根を寄せてしまう。
(入ってはいるんだから、慣らせば大丈夫なんだよな? 拳が入るようになる奴もいるって言うし)
 同性との作法は調べてある。脳内でのシミュレーションもした。だが、実戦はしたことも見たこともない。
 好奇心から、画面をまじまじと観察してしまう。
 観察に努めすぎて、浴室の戸が開いたことにさえ気付けなかった。
「レオ」
 顔を横へ向ける。
 いつの間にか、浴室の戸の前にアシュレイが佇んでいた。
「お先にな」
「ああ」
 アシュレイはバスローブを身に纏っていた。ローブの裾からすらりと伸びる脛が目につき、レオーネは顔を逸らす。
「お前、服は?」
「暑いから着たくない。もう少しこの格好でいる」
「ふぅん」
 勘弁してくれ。
 レオーネは内心唸る。
 兄が熱いと言いながら襟のあたりをはためかせる度、緩いローブから揃いのネックレスやら首筋やら胸の線が溢れる。抑えた照明のもとでも煌めいて見える光景は、今の自分には刺激が強い。
 本人にその気はないのだ。頭では分かっている。だが、ここまで隙を見せられるほど気を許されているのだ。手を出してもいいのではという気になってしまう。
 理性と欲求の狭間で、レオーネの目は画面と兄とを行き来する。アシュレイは全く意に介する風もなく、ふらふらと歩み寄ってきた。
「あの風呂、面白かったぜ」
 そう言って、すとんとレオーネの隣に腰を下ろす。
「シャボン玉みたいなのがぷかぷかしてよぉ。マジで薔薇の花が」
 楽しげな語りが、そこで止まった。
 アシュレイは、意表を突かれたような顔でモニターを凝視していた。
 レオーネは正面へ顔を戻す。
 画面の中では、依然として男達がくんずほぐれつしている。
 しまった。
 兄から気を逸らすのに必死で、映像を消すのを忘れていた。
(引かれたか?)
 レオーネは隣を窺う。
 兄は、バツが悪そうに画面から目を逸らしていた。
「ご、ごめん」
 モニターを見ないようにしているのか。アシュレイのレオーネへ向ける顔は、やや俯いていた。
「気付かなかった。邪魔した……かな」
 眉を吊り下げている。幻滅したわけではなく、ただ困惑しているらしい。
 さすが兄貴。レオーネは胸中で呟く。
 予期せぬ場面を見せられたことより、弟のお愉しみを邪魔した可能性の方が気に掛かったようだ。
「いや。そんなことないよ」
 リモコンを操作して、チャンネルを変える。
 今度は人間の男女が絡み合っている場面が出てきた。
「俺、こういう所に来るのが初めてだからさ。珍しくて色々見てたんだ」
「そっか」
 アシュレイは映像を一瞥し、レオーネへ視線を戻した。
「風呂入ってきたら? 時間もあんまりないし」
「ああ。でも、俺が風呂に入るだけなら大分時間に余裕があるな」
 リモコンのボタンを押して、映像を消した。
 急に、辺りがしんと静まり返る。
 レオーネは兄と目を合わせた。
「兄貴は、ラブホに来たことあるんだよな」
「うん」
「当然経験もあると」
「まあ」
 アシュレイは躊躇いがちに頷いた。
 分かりきっていたことだったが、いざはっきり口にされると穏やかな気持ちでいるのは難しかった。
 ふつふつと込み上げてくるものが胸の内を焦がし、掻き消そうとしていた欲望を呼び覚ます。
「じゃあ、俺に教えてくれる?」
 表面だけは微笑んで提案する。
 兄は小首を傾げた。
「何を」
「何でもいいよ」
 布団についた兄の左手に、己の右手を重ねる。
 ──今するのは早い。
 先刻の自分が決めた内容を、都合よく少しだけ書き換える。
(そう。今、最後までするのは早い)
「触り方、触る場所、話す内容。何でもいい。兄貴が良いと思うことを教えて」
 これは、お互いのための擦り合わせだから。
 あれこれ言い合うより、やってみた方が早いから。
 そう欲望を正当化し、兄と手を絡ませる。
 指同士を擦り合わせながらじっと見つめていると、アシュレイは握られた手へ眼差しを落とした。
「いいのかよ。俺で」
「お前以外に聞く相手、いないよ」
 レオーネは握り込んだ手を持ち上げる。
 掌を上向けて、軽く口付けを落とした。
「もう、分かってるだろ」
 次いで、以前したように手首の内側へと唇を押し付ける。
「俺は兄貴と、そういうことがしたい」
 視線を上げると、今度こそ目が合った。
 表情の柔らかい目元は、含羞に染まっていた。
「教えるって言えるほど、詳しくねえよ」
「いいから」
 焦れて腰を浮かせ、距離を詰める。隙間が埋まり、身体が横向きにぴたりと添う。手を離して腰へ回すと、兄は僅かに身を強張らせた。
「嫌か?」
 訊ねると、アシュレイは首を横に振った。
 その顔を間近で見つめ、レオーネはつくづく自分と似ていないなと考えた。
 顔色の変わらない自分に対して、兄の顔は既に茹だっている。
 赤らむその顔を、素直に愛しいと思った。
「キスしたい」
 レオーネが囁くと、アシュレイは束の間瞼を伏せた。小さく頷き、やや首を傾けて顔を寄せる。
 まっすぐな眼差し。下向き気味の睫毛。薄く開いた口唇。
 近づく様を観察していると、兄は一度止まった。
「目、閉じろよ」
「やだね」
 レオーネは一蹴した。
「閉じたら見えないだろ」
 兄は溜め息を吐き、目を閉じた。
 そのまま、弟の唇へ自分のものををやんわりと重ねる。
 軽い、羽のようなキスだった。
「こう?」
 レオーネはすぐ、同じキスを兄へ返した。唇を離して視線を合わせると、アシュレイは頷く。
「そう」
 触れ合った部分が熱かった。兄の躰から立ち上る甘い石鹸の香りが、鼻腔を伝って脳を溶かす。
「もっと」
 乞えば、兄はまた口付けてきた。
 先程と異なる、啄むようなキスだった。唇で唇を摘まんで離す、やんわりとした感触。動作が緩慢な分、兄が自分を食むのがまざまざと伝わって、かっと頭が熱くなった。
 兄が離れるや否や、こちらからも口付けた。柔らかな唇を摘まんでは離し、角度を変えてまた摘まむ。兄の唇の形を奪うように、何度も食べるような口付けを繰り返した。
 アシュレイは何も言わない。目を瞑り、弟のされるがままになっている。
 兄に、許されている。その事実に気が昂り、次第に力が込もる。噛むようにしてやわな唇の輪郭を確かめるうち、うっかり歯を立ててしまった。
「痛っ」
 アシュレイが小さく声を上げた。
 我に返ったレオーネが唇を離す。
「ごめん」
 空いた手を頬に添え、顔を窺う。眉を顰める弟に、兄は微笑んで見せる。
「ん。大丈夫」
 弧を描く唇は、微かに赤く腫れていた。
 血は出ていないのを確かめ、ひとまず安堵したレオーネは、兄の顔をとくとくと見つめた。
 困り気味の眉には、まだ戸惑いが窺える。だがその下の眇めた双眸はとろけたように潤み、瞳孔の青が深みを増していた。
 ずっと朱に染めたままの頬を添えた指でさすると、軽く寄りかかるように頭を掌へ預けてくる。
 上気した兄の顔は、無体に息を上げつつあるかのようだった。そのくせ、それを承知で陶酔しているかの如き健気な色香も放っていた。
(思ってたのと、様子が違うな)
 夢とは異なる様子に、レオーネは静かに驚く。
 兄のことだから、閨でももっと奔放に振る舞うものかと思っていた。
 だが今の彼は、持て余す弟の欲望に文句も言わず歩調を合わせ、ひたむきに受け入れている。
 その様子に、漢気や貞淑さといった、一見相反する言葉で形容することもできる彼の性質を感じた。
(やっぱりこいつは、兄貴なんだ)
 当然の事実を今一度噛みしめる。
 強く、揺るがず、寛大な──己がずっと頼りにしてきた、唯一の肉親。
 その性質に、ずっと焦がれていた。
 自分の思い描いてきたのより遥かに兄らしい姿を噛み締めるうち、渇望に火がつく。
 腫れた唇をもう一度食み、舌で愛撫する。意表を突かれたらしい兄が、肩に手を添えた。
「ちょっと、レオ」
 嗜めようと開いた唇へ、舌を割り入れた。閉ざそうとする唇の制止を無視し、根本に近い所まで舌を押し込む。
 その勢いに兄の言葉が殺され、喉の奥から鼻へ声が抜ける。
 んん、という艶めいた響き。
 低い声帯の震えが、レオーネの性感を煽る。
 もっと聞くために、口腔の至る所をなぞっていく。
 上顎。歯列。下顎。
 夢中になって、貪るように口付ける。たまに漏れる色めいた吐息と、水音を奏でる粘膜の熱さが媚薬のようだった。
 途中から、兄が舌を絡めてきた。こちらも負けじと絡め返す。生き物のようにうねるそれをなぞり追うのは、予想していた以上に興奮を掻き立てられる行為だった。
 欲に任せて口腔を犯していると、不意に舌を甘く吸われた。思いがけない刺激に腰の辺りが痺れ、唇を離す。
「レオ」
 レオーネが荒く息を漏らした時、アシュレイもまた大きく息を吐いていた。
 いつの間にか、兄を寝台へ押し付けていた。眼下のアシュレイは柔和に笑い、荒い呼吸を繰り返す弟の髪を整える。
「苦しいって。加減してくれよ」
「お前が焦らすから」
「どこが」
「そういうところだよ」
 レオーネは再び、似た形の唇を塞いだ。
 呼吸を奪うような接吻を続けるうち、身体が無意識に先を求めてしまう。気付けば掌がバスローブをなぞり始めていて、レオーネはさり気なく唇を離すと共に、手を兄の身体から逸らした。
 余裕がないと思われたくない。内心焦るこちらを他所に、兄は首を横に振る。
「焦らしてるわけじゃない」
 先程の話の続きらしい。レオーネの手の動きには気付かなかったようだ。
 アシュレイは微笑み、恭しく頬へ触れてきた。
「お前相手なんだ。慎重にもなるさ」
 そう言って弟の頭を軽く抱き寄せ、額へ触れるだけのキスをする。
 くすぐったい親愛に、レオーネは胸がいっぱいになる。
 それと同時に、猛烈な飢餓感を覚えた。
「兄貴」
 レオーネははだけたローブへ手を差し込み、左右へ寛げた。
 現れた肌は、夢で見た光景以上に蠱惑的なものだった。
 控えめな照明の下、恵体は鈍い輝きを放っていた。磨き上げられて引き締まった筋のひとつひとつへ生じるさやかな影が、肉の厚みとひっかかりのない肌理の良さを強調する。背後に敷く黒曜の乱れ模様に負けずとも劣らぬ至宝の体躯を、レオーネはまず目で堪能した。
「レオ?」
 本人は、きょとんとしてレオーネを見つめ返している。無垢な表情は、自分がどんな目で見られているのか理解していないようだった。そのアンバランスさが堪らず、己の価値を手ずから教えてやりたくなる。
 レオーネは豊かな胸筋へ手を添え、輪郭をなぞった。さながら受肉した宝飾品の如き躰は、しっとりと艶やかで心地良い。
 手を細かな陰影の付いた腹へ下ろしつつ、あわせて唇も落としていく。
 鎖骨。胸。鳩尾。臍。下腹部。
 芳しい兄の香りを吸いながら、丸みを帯びた筋一つずつに接吻する。
 そんな弟の姿に驚いたのか、兄が上体を起こした。
「えっ。レオ、待って」
 頭上で慌てふためいた声がする。
「そんなところ、しなくても」
「したいんだよ」
 レオーネは言葉を遮った。
 兄の丸くなった目を見上げ、乞う。
「兄貴の全部が欲しい」
 指先で割れた腹筋の線から腰骨をなぞり、その下の厚みへ手を伸ばす。
「嫌ならいいんだ。でも、できれば……いや、俺は」
 ──ジリリリリリ。
 無機質な鐘の音が、場の空気を砕いた。
 その濁った音色は、ベッドボードから響いてきていた。
 退室時刻十分前を知らせるアラームだ。
 レオーネは身体を起こし、音を止めるためボードへ手を伸ばす。アラームを切り、背を向けたまま兄に言う。
「先、行っててくれる? 風呂入ったら行くから」
「分かった」
 アシュレイの返事と共に、スプリングが軋んだ。どうやら立ち上がり、着替え始めたらしかった。
 その気配を背中で感じながら、レオーネはベッドを整えるふりをして兄が去るのを待つ。今風呂へ向かえば、己の兆しを目撃されてしまう。まだそれは避けたかった。
「レオ」
 着替え終えたらしいアシュレイが声を掛けてきた。レオーネは振り向かずに答える。
「何?」
「準備しとく」
「悪いな。飲み物とかは自分で取るから」
「そうじゃなくて」
 声が、躊躇うように揺らいだ。
「その……レオがしたいことの話」
 レオーネは、シーツを伸ばそうとした手を止めた。
 アシュレイは訥々と語る。
「俺も、お前に求められて嬉しくないわけないし。でも、そっちはやったことなくて」
 だから、と兄の声が小さくなる。
「すぐにとは言えないけど、準備はしてみる」
 あんまり期待するなよ。
 そう早口に言って、アシュレイは扉を開けた。
 レオーネは振り返った。
 その時には、もう扉が閉まっていた。
「くそ」
 一人残されたレオーネは、ボードのデジタル時計を見て大きな溜め息を吐く。
 退室までの残り時間、あと八分。
 兄と映画館で過ごす残り時間、あと十二時間。
 気の遠くなるような時間を安らかに過ごすため、そして兄の厚意を無下にしないため。
 今すぐ、心身共に空にする必要があった。