翠露、散る




今日は私の記念すべき入学式!
学びの庭はじまって以来の大天才さんとルームメイトになっちゃいました!

せみしぐれの降りそそぐ、うだるような日。
イシガズム理論におけるヌラカワ対比について、天才さんが新しい解法を発見したんですって!

木々の葉が色づいて、おなかのすく季節。
天才さんの書いた世界樹とその共生圏論がカミハルムイの学会で話題になってるみたい!

王都の桜に淡雪積もる頃。
最近険しい表情で研究に没頭されています。
お身体を壊さないかと心配です……。

  ──『アカシの天才さん観察日記』(ツスクルの村寄宿舎C-3個人蔵)










+++



 ツスクルの村は、世界樹の森のそばに息づく学問の村である。
 この村には、中心となる建物が二つあった。
 一つは、世界樹の巫女ヒメアが住まう巫女の館。もう一つは、学者を志す若いエルフ達が集う、学びの庭である。
 この学びの庭に、学舎創設以来の天才と称されるエルフの青年がいた。
 名を、イムという。
 彼は幼くして親を亡くしていた。その後、奴隷として使い捨てられ、その末にこの村へやって来た。病を患い、村外れで死にかけていたのだが、そこを村人に拾われ、巫女の祈りによって奇跡的に一命を取り留めた。以来、ツスクルの村に住まうことになったのだった。
 イムは何事も素直に取り組み、よく吸収する、知性のある子供だった。十一になる年に学びの庭へ入学すると、瞬く間に頭角を現した。一度得た知識は二度と忘れない脅威の記憶力で、これまでの学者たちが示した世界の理を、水を飲み干すように我がものとした。加えて、元より備えていた知恵と思慮深さで、知識に振り回されず、学説を振り翳さず、程よい距離感と広い視野で学問に励み、あらゆる分野に通じていった。
 イムは、書を紐解き、師と語らうことを好んだ。だがそれと同じくらい、フィールドに出て研究に励むことも好んだ。全ての原理はよろずの自然の中にあり、そこから得たものが知の発展に繋がるというのが、彼の信条だったからである。
 ちなみに、学びの庭の生徒は村の外へ出ることを奨励されていない。魔物が出て危険だからである。特にここ十数年ほどは、魔物が緩やかに、しかし確実に活性化してきているため、不要の外出を避け、出掛ける時は教師に目的地を告げてから複数人で行くことが推奨されていた。
 そんな状況だったが、イムは気にしなかった。初心者用の武器を携え、いつも一人で出かけた。彼は戦闘技能にもソツがなかった。特に魔法の才に秀でており、職業に付かずとも強力な攻撃呪文を唱えることができるのだった。
 彼は大人の研究者も舌を巻くほどの行動力で、エルトナ大陸のほぼ全土に足を運んだ。呪われた大地だけはカミハルムイ兵に拒まれて許されなかったが、それ以外の土地で、彼は様々な自然に触れた。その研究の成果を生かし、傷病者を癒したり、新たな学説を見出したりした。
 彼は間違いなく天才だ。やがて、ツスクルの誰もがそう語るようになった。
 しかし彼は、これだけの才を持っていながら、極めて穏やかで親切な、人柄のいいエルフであり続けた。人が生きる中で抱くコンプレックスや負の情念など、全く見せなかった。学友とよく語らい笑う姿は、いたって年頃らしいエルフのもので、だからこそ学問を語る時の彼の神がかった才覚を目の当たりにする度、周囲の者は魔法にかかったような不思議な気持ちになった。
 お前は能力にしても人柄にしても、あまりに出来すぎている。
 実はエルフではなく、仙人か何かなのではないか。
 そう、冗談まじりに言った者がいた。
 するとイムは微笑み、案外そうかもしれないと返した。
「私は、ヒメア様の祈りで救われたあの日より前のことを、もうよく思い出せないのです。だから、ヒメア様にこの命をいただいたあの時に、人としての私は死に、別の何かに生まれ変わったのかもしれませんね」











 イムには願いがあった。
 それは、魔瘴によって滅びの危機に瀕しているエルトナ大陸を救いたいというものだった。その願いのために、様々な研究に取り組んでいると言っても過言ではなかった。
 イムは先行研究をあたった。
 自然界において、魔瘴と対極をなすのは世界樹の息吹である。しかしそれは、人の扱いきれない神霊の領域にあるものだ。だが種族神エルドナは世界へ干渉する力を失って久しく、土地に住まう精霊は規則性なく湧き出す魔瘴に対処することができない。神頼みは不可能だった。
 だから、人に代行することを許された神霊の御業──魔法の真言を用いて魔瘴を消す他ない。そう、エルフの学者達は考えた。
 彼らは、とある失われた古代呪文に目をつけた。いかなる強力な呪いをも砕く破邪の呪文、シャナクである。
 しかし、失われた呪文の復活は至難の業。先人達はあれこれと試しただが、なかなか実を結ぶことができていないようだった。 
 イムは、これまでの学者達のそうした取り組みの記録を参考に、試行錯誤を繰り返した。手間と時間を惜しまず、能力の限りを尽くした結果、学びの庭を卒業する六年目にしてやっと、失われた呪文の術式を再現する手掛かりを掴んだ。
(学びの庭を卒業したら)
 イムは考えた。
(卒業して一人前になったら、呪われた大地に行くことができるようになる。その時に、シャナクがあるに越したことはない。これが使えれば、魔瘴に触れてしまった者を救える。汚染された大地も浄化できるかもしれない)
 王都の学者達によれば、魔瘴の被害は既に呪われた大地に限らず、カミハルムイ領にまで及んでいるようだ。
 一刻の猶予もない。
 何としても、卒業試験である若葉の試みの前までに、シャナクを復活させなければならない。
 イムはそう決意した。











 学びの庭で過ごす、最後の冬。
 イムは、寝食を削って古代呪文の術式を練った。
 凍てつく冬将軍の吐息も、冷えきった文机にかじかむ手も、気にならなかった。同級生達が迫る卒業試験に怯えたような声を上げるのを聞きながら、イムは頭の片隅でいつも古代呪文のことを考えていた。彼は、古代呪文の復活を試みていることを、誰にも伝えていなかった。成し遂げられるか分からない、蜃気楼のような仕事の話をして、どうなるというのだろう。周りに伝えるのは、呪文が実際のものになってからでいいと考えてのことだった。
 やがて吹きつける風が弱くなり、遠のいていた太陽が、再び大地を柔らかく包み始める。
 寒さに身を硬くしていた木々が、陽光に誘われて枝先の新芽を綻ばせる。
 実りの季節がやってくる。それを察した木々が、身支度を整え始めたちょうどその頃、イムの研究もまた、実を結ぼうとしていた。
 シャナクの効果を再現する術式の特定に、成功したのだ。
 あとは、それを形として記すだけだった。
 復活決行の日を決めたイムは、まずかつて死にかけた自分を拾ってくれたノマに、古代呪文のことを話した。ノマは、巫女ヒメアの身の回りのことをする女官である。彼女に言えば、話がヒメアに伝わるはずだ。
 次いで、同室の後輩であるアカシに、その日は終日他の部屋で過ごしてくれるよう頼んだ。呪文を復活させる際、万が一のことが起きて彼女を巻き込んだら困るからだ。幸い、物分かりのいいアカシは、何も聞かず素直に従ってくれた。
 そしてイムはその日、自室に篭もり、学びの庭における最後の仕事を始めた。
 文机の上に、満月をたっぷり浴びた、特製の手漉きの和紙を置く。そこへ、世界樹の露で溶いた墨を用いて、術式を記していくのだ。
 魔術の儀式では、些細なミスが命取りになる。そう知っていたから、イムは外から聞こえる下級生の声を意識の外へ閉め出し、集中して術式の記述に取り組んだ。
 指先が震えそうになるのを、意志の力で抑える。
 緊張で手汗が滲むのを、手巾で拭く。
 ひと段落ついたところで顔を上げれば、知らず、眉間に皺が寄っていたのに気づく。
 ここまで緊張するのは初めてかもしれない。そんなことを考えた。
「あと少し」
 イムは眼下の紙を見下ろした。自分の顔より小さな和紙には、墨が黒々とした紋様を刻みつつある。
 この札が完成すれば、古代呪文の使用が可能になるはずだ。
 イムは作業を再開しようと、筆を持ち、顔を俯けた。
 季節は春。
 日に日に溜まる陽気は室温を上げ、懸命に仕事に取り組む青年の体温を上げていた。
 イムが顔を俯けたその時、米神から流れ落ちた汗が和紙の上に垂れた。
 汗が墨の上に落ち、滲む。
 途端、紙に落ち着いていた墨が舞い上がり、どろどろと妖しげな気を漂わせ始めた。
「しまった」
 イムは咄嗟に筆を放り、まじない無効の印を結ぶ。
 妖気が和紙より迸り、術者に襲いかかる。
 それは最後の印を結ぼうとした両手の間をすり抜け、青年の薄い胸を貫いた。
 イムは仰向けに倒れた。
 術の壊れた和紙が、青い炎をあげて消える。
 後には放り投げられた筆と、息の絶えたエルフの体が残る。





 こうして、ツスクルの村のイムは死んだ。
 草木の蕾が花をつけては落ち、新たな緑の芽が伸びる、若葉の季節のことだった。