二人三脚六道輪廻一緒芥




 豊かな自然に恵まれたエルトナ大陸の東端には、久遠に生命を紡ぐ深遠なる森が広がっている。
 その森の奥、せり上がった丘の上に、天高く聳え立つ大樹があった。
 空に棲まう者に確かな足場を、地に棲まう者に大きな木陰を与えるその樹は、アストルティア創世の一柱、知恵と風の神エルドナの創りたまいし世界樹だった。
 その雄大な立ち姿に惹かれてやって来る者は数知れない。しかしそのほとんどは、世界樹の守り人の一族が住まう、近隣のツスクルの村からその姿を拝むだけで帰っていく。世界樹の丘まで足を向ける旅人はいない。何故ならば、丘へ至る道が無いに等しいからである。
 久遠の森の入り口付近から丘までを最短ルートで結ぶ旅の扉は、ツスクルの一族によって管理されている。丘へ足を運ぶ資格のない者は、ゲートを利用することすら適わない。
 時間をかけて海や村から丘まで歩くのも、不可能だった。まるで天に呼ばれたように大陸全体の隆起したエルトナ大陸は、海に触れる大地全てが急峻に切り立った崖になっているのだ。船をつけるのはもちろん、海風に削られた崖を登るのも至難の業である。
 また、久遠の森は人の手の入らない原生樹の大海原である。激しき起伏だけでなく、草木も生い茂る道なき道を、三日三晩は超えて攻略する覚悟で臨まねばならない。
 だから、ただの人が世界樹の丘へ行き着くことは、限りなく不可能なのだ。
 そういった事情のすべてが、久遠の森を楽しみにきたネサルには有り難かった。
 ネサルは風来の死霊遣い──デスマスターである。
 デスマスターといえば、成仏できない死者の未練を解消したり、戦士の亡霊と契約して戦ったりと、交霊術を駆使して生きる者が多いのだが、彼は違った。彼は死霊の観察を愛していた。特に、生きることから解放され、何もせず、何も望まぬ死者の傍にいることを好んだ。そのため、布オバケの風体を装い、各地を放浪しては、死霊を観察するだけのその日暮らしをしていた。
 ネサルはわくわくしていた。
 久遠の森には、きっとたくさんの死霊がいるだろう。生者の寄り付かない厳しい環境は、死霊観察にもってこいだ。彼の愛する沈黙と混沌をたっぷりと蓄えているに違いない。
 そう期待して、彼はエルトナ大陸へ足を向けた。








+++



 大陸鉄道にうんざりしながら、ネサルは風の町アズランを目指した。
 人混みが苦手なのだ。レールを辿り、自力で大陸を渡る手もあったのだが、鉄道警備隊に目をつけられれば余計な労力を使うことになるからやめた。
 アズラン駅で下車し、キリカ草原を横断して、ツスクル平野の北東、久遠の森へ辿り着く。
 久遠の森は、期待通りの深い森だった。他大陸の森林と比べて高い標高にあるこの森だが、世界樹の加護のおかげなのか、木々はよく背筋を伸ばして凛とした佇まいをしていた。
 快晴の昼でも、空気がひんやりとしていて心地よい。朝や夕に靄が立ち込めれば、幽玄の趣が増す。夜が深くなれば、かつてこの地を生きたのだろう者たちが地中より色濃く立ち上がり、何をするでもなく月を眺めたり、座り込んだりする。
 ネサルはこの森が気に入った。森には獣に混じって姿なき者が集まるものなのだが、この場所は格別だった。
(世界樹の森だからっていうのもあるんだろうが、エルフって種族の特徴もあるのかもな)
 ネサルは座り込んで彼らを眺めながら考えた。
 故郷のドワチャッカ大陸には、森林らしい森林がない。欲望の限りを尽くした開発により、失われたと聞いている。
 ただし、霊は多い。ネサルが視た限りでは、およそ三〇〇〇年前──ガテリア皇国、ウルベア帝国、ドルワーム王国の三国時代の霊が半数以上を占める。ボロヌス溶岩流など酷いもので、戦士の怨霊ばかりである。
 ドワーフは欲望の種族だ。その強い願望により他種族には見られない文明的発展を遂げたわけだが、同時にどの種族より大規模な、自らの種族を滅ぼしかねないほどの内輪揉めもしたという。
 そのような種なので、死後も残る強い情念は大抵怨霊になる。デスマスターとして駆け出しの頃、何度ドワーフの怨霊に殺されただろう。自分のドワーフ嫌いは、半分ほどあの経験により培われたと言ってもいい。
 次に激しいのは、オーガの亡霊だ。奴らは出会った者に手応えを感じると、腕試しに襲いかかってくる。ただ、オーガは正義のもとに成り立つ強さを好むため、ドワーフの亡霊のようななりふり構わない挙動はしない。よって、一戦交えれば満足して静かになる。ヤツらのさばけた気性は好ましいが、それはそれとして叩き上げ精神の強い熱血の怨霊は面倒だ。一戦交えた後、「若い奴はなっとらん」と説教してきたオルセコの指南役だったらしき鬱陶しいオーガのことは、今でも忘れられない。
 前二者と違った方向に厄介なのは、プクリポの亡霊である。プクリポは笑いという快を重視する。だから逆に笑えぬ不快な状況を、何が何でも打ち砕こうとする苛烈さがある。また、憂さ晴らしに旅人で笑いを取ろうと、霊体ならではのトリッキーな悪戯を仕掛けてくる者もいる。おまけにヤツらは、黙っていられない。亡霊というものは寂しいのか、自分を認識してくれる者がいるとみれば積極的にアプローチを仕掛けてくる者が多いわけだが、プクリポの亡霊は平均の三倍くらい働きかけてくる。以前チョッピ平野にて、エンカウントするなり濃厚なベロチューをしようとしてきたヤツに出くわしたことがあって、その時は口にキリカ修道会御用達の香木を差し込んでやった。
 ウェディの亡霊はムラが激しい。ただ波打ち際に横たわりたいがために地縛霊になったヤツなどは、良い方だ。怠惰極まりないが、情念が己一人に完結するのものだと割り切っている点は、自己管理上手として褒められる。対して、絶対関わりたくないのが、一度自分を視てくれる者に気付いたらどこまでも憑いてくる、粘着質なヤツだ。愛の種族と言えど、全員が全員己の心情をコントロールできるわけではないらしい。持て余しているヤツは、どの種族の寂しん坊なメンヘラも裸足で逃げ出す、重苦しい特級呪物になる。ヤツらに呪われたら、散財覚悟できちんとしたお祓いを受けた方がいい。それで救われるかどうかは、術者の腕次第だが。
 人間の亡霊はペラペラしている。ヤツらは成仏の条件に骨がない。もっと他の種族を見習ってもらいたい。
 ネサルが断然気に入っているのは、エルフの亡霊である。まず、ヤツらは話が通じる。知の種族の矜持がそうさせるのだろうか。オーガの亡霊戦士のように言葉より先に殴りかかってくることがないし、錯乱した亡霊ウェディのように自分にしか分からない文脈で話すこともない。エルフは理性的だ。中には理論家の常であるロマンティストに拍車がかかって泣き続けるような輩もいるが、ネサルから見れば慎ましいものだと思う。
 また、自然を愛するところも、幽霊との相性が良い。自然を尊ぶエルフの亡霊たちは、己が風物の一部となっていることに気付いても逆らおうとしない。生前に未練を示すことはあっても、自然の一つとなることは構わないのだ。個性の強くない儚げな見目の良さも、自然の景観に溶け込んでいて良い。
 ネサルは久遠の森に身を置き、来る日も来る日もエルフの亡霊を眺めて暮らした。時と自然の運行と共にぼんやりと暮らす彼らは、理想的な隣人だった。
 しばらく過ごすうち、ネサルはもっと亡霊に会いたくなった。
 生命の循環を思わせる世界樹の足元には、集まる者も多かろう。
 思いついたが吉日で、ネサルは荷物をまとめると、久遠の森の天井にして最奥──世界樹の丘を目指すことにした。












 久遠の森は世界樹の魔力に包まれて、常に命の輝きに満ちている。その分、植生が複雑であり、加えて傾斜が激しく崖も多いので、森の中を行くのは旅人として褒められた行動ではない。
 しかし、デスマスターは人里離れた荒々しい環境に身を置くのが常だ。だから、険しい森を一人行くことに躊躇いはなかった。
 茂みを掻きわけ、断崖を登り。蒼く霞んでいた世界樹の天蓋がはっきりしてくると、形無き者の気配が満ちてくるのを感じた。一般人ならゾッとするような気配だったが、ネサルには何ともない。生物の暑苦しさの方が苦手だった。
 二日歩いた夕方。そろそろ野営しようかと思っていたところへ、額にぽつりと落ちるものがあった。雨だ。本降りになる前に野営地を探したい。そう思ってすぐ、猛烈な雨が降りつけてきた。
 たちまち碧空は雲に締め出され、世界は黒に塗り潰された。滝のように落ちる雨粒に、久遠の木々の呼気が青く反射する。さやけき青が黒い木々をうっすらと照らし、これまでとはまた違った幻想的な情景を醸し出す。
 まるで、幽鬼の王国のようだ。
 ネサルは見惚れた。この森に入ってから、雨が降る様は幾度か見てきたが、ここまで昏く美しい景色は見たことがなかった。
 周囲を見回していると、木々の隙間にぼんやりと浮き上がる亡霊の影が見えた。いつにも増して青白く、かそけく、魅力的だった。
 ネサルは野営のことも忘れ、茂みを掻き分けて寄っていった。亡霊はそこまで遠くにいないものと思われた。
 雨に濡れても構わない。その隣へ行ってみたかった。
「待って!」
 突如、何かに腕を掴まれた。
 足場が消えたのは、その時だった。
 ネサルは落下した。だが片方の腕を掴まれていたために、宙吊りになった身体が岩壁にぶつかるくらいで済んだ。
 衝撃をいなした後、ネサルは眼下を窺った。遥か下方に、林が見える。その中の一本の樹上に、先程まで追っていた「何か」がいた。黒い靄に似たそれは、恨めしげにこちらをねめつけている。
 腕を掴んだ手が、勢いよくネサルを引き上げた。
「間にあって良かった」
 手の持ち主は、エルフの青年だった。卵型の白皙へ細い絵筆で描かれたような双眸から、月に似た瞳孔が覗いて笑う。緩く波打つ首元までの髪は雨に濡れ、森の呼気を映し込み、アメジストの如く輝いていた。
 身につけているのは、質素なエルフの平服だ。袖や裾から覗く手脚は華奢で、女と見紛う線の細さである。けれど、依然としてネサルを掴む腕は力強く、彼は間違いなく男なのだと思い知らされた。
「一直線に崖に向かっていくから、驚きました。雨夜の森は気をつけて。どこからともなく、良くないものが流れ込んでくることがありますから」
「わ、悪い」
 ネサルがどうにか言葉を絞り出すと、青年は唇の両端を持ち上げた。
 エルフは、ドワーフを引き起こして歩き始めた。死にかけた余韻で茫洋としていたネサルは、手を引かれるまま共に歩き出し、はたと我に返った。
「待て。どこに行くんだ」
「雨宿りです。こんな暗くて足場の悪い中を進んだら、今度こそお陀仏ですよ」
「何でオレも連れていこうとする?」
 何か、このエルフは企んでいるのかもしれない。命の危機から脱したドワーフの心に、警戒と不信が戻ってきた。
 だが振り返ったエルフは、心底不思議そうな顔で首を傾げた。
「何でって。雨を避けないと、寒いでしょう? この辺りは標高もありますから、低体温症になるかもしれませんよ」
「ほっとけ! オレは一人でどうにかできる」
 ネサルが足を踏ん張ると、青年はさらに強く腕を引いた。
「まあまあ。ほら、そこにちょうどいい洞があります。お邪魔しましょう」
 確かに青年の言う通り、そそり立つ岩壁の、大きな茂みの影に、洞があった。ネサルの警戒したような企みが潜んでいるようには見えない、何の変哲もない岩窟だった。
 一緒に行こうとなおもしつこく言うので、仕方なく青年と共に岩窟で野営の支度を始めた。本当は別の洞がないか探したかったのだが、近場にはここの他に身を置ける場所はない、この天候で外を歩くのはドワーフの嗅覚だと厳しいだろうと正論を言われてやめた。それにこのエルフには、意地を張って外へ行こうとすれば後をついてきそうな意思の強さを感じた。押し問答になる方が億劫だった。
 エルフは、野営に慣れているようだった。ネサルに口を挟ませないテキパキとした手さばきで、洞の入り口に魔物除けの聖水を撒き、火を起こした。指先で薪に触れるだけで火が生じたのを見るに、それなりの魔法の使い手であることも察せられた。そもそも、この森に一人で入っている時点で、腕に覚えがあるのだろう。
「アンタ、誰」
 ふてくされたネサルの口ぶりもお構いなしで、焚火の向かいに座った青年は微笑んだ。
「私はイム。ツスクルの村で学生をしています」
 言いながら、焚火の上へ調理台を据える。さらに小さな鍋へ出してきて、そこへ何やら色のついた汁を注ぎ始めた。
「汁物を作ります。エルトナの山菜汁は嫌いですか?」
 そう言って、道具袋から綺麗な油紙の包みをいくつか取り出し、入っていた山菜の説明をする。どれも、ネサルも口にしたことがあるものだった。
 嫌いではないと答えると、イムは包みを解き、明らかに一人で食べきれない量の山菜を鷲掴んでぐつぐつと沸き立った鍋へ入れた。こちらは食べるとも食べないとも言っていないのに、マイペースなヤツである。
 ネサルは胡坐をかき、どうしたものかと考える。生者と話すのは久しぶりで、勝手が掴めない。そもそも、会話そのものが苦手だった。
(何で、オレを助けたんだ)
 ネサルの胸中に疑念が浮かぶ。
(コイツ、ツスクルの村から来たって言ったな。もしかして、勝手に森の奥へ行こうとしていたオレを村へ連行して、ふんじばるつもりか?)
 ネサルは一人前の証を持っている。それでも、丘へ直通している旅の扉を使わず、森をうろついているのだ。怪しく思われてもおかしくない。
 捕まるのはごめんだ。ネサルはさりげなく、探りを入れることにする。
「学生が、こんな所で何してるんだ」
「調査です」
 イムは鍋をかき混ぜながら答えた。
「世界樹の森に生きる者達を調べて、エルトナ大陸を蝕む魔瘴を浄化する方法を求めています」
「魔瘴の浄化ぁ?」
 予想しなかった返答に、ネサルは素っ頓狂な声を上げた。
「できるのかよ」
「やるんです。癒しと育みの風を育むエルトナが滅びれば、アストルティアもいずれは終わります」
 イムは鍋へと伏せていた目を上げた。
 涼やかな銀の双眸も、梅の花に似て仄かに色づく口元も、笑みを浮かべている。
 それでも、彼が冗談でなく本気で言っているのが伝わってきた。
「世界樹は、魔法理論体系の重要な核の一つです。その在り様を学べば、手がかりを掴めるはず」
 そう言って、また目を鍋へ落とした。
(随分、真面目な学生だな。オレの学生の時とは大違いだ)
 本人の性格によるものなのか。それとも一学生が本気で憂うほど、エルトナ大陸の状況が悪化しているのか。
 魔瘴活性化の話は、どこの大陸を歩いていても耳にするが──噂をとりとめなく思い返しながら、ネサルは顎に手をやった。
 そうして、驚きのあまり跳ね上がった。
「マスクがねえ!」
 いつも被っている、布オバケの被り物が無くなっている。
 身体に纏う白い布はいつも通りだったので、気付かなかったのだ。
「ああ。崖の下に落ちていった布のことですか?」
 あたふたと荷物をひっくり返しているドワーフの背中へ、イムが申し訳なさそうに声をかけてきた。
「すみません。あなたを引っ張り上げるのに精一杯で、マスクの回収はできませんでした。明日、明るくなったら探すのを手伝います」
「いや、いい。替えがある」
 ネサルの旅の鞄の中にある装束は、布オバケのマスクとローブだけである。その中の一枚を取り出して被る。やっとひと心地ついたネサルは、元の場所へ座り込んだ。大きな息を吐いた彼へ、イムが微笑みかける。
「いい被り物ですね。愛嬌があって、親しみやすくて」
「あ、ああ。そう」
 ネサルは反応に困った。
 これまでにも、このように言われたことは何度かあった。しかしその度に、変わり者に対する処世の気配が感じていた。
 それでも。
「素顔よりはマシだろ」
 ネサルは自虐心に耐え切れず、呟いた。
 幼い頃から、自分の外見がどうしようもなく嫌いだった。かっと見開いたような吊り上がった目。ぺしゃんこの鼻。不機嫌でなくとも食いしばっているような口元。ドワーフ特有の下膨れの顔やら、やたらと大きな耳、モダンな服も不細工に見せるずんぐりした体躯も嫌だった。
 しかし、この外見を捨てることはできない。それで、唯一悪くないと思えた、絵本に出てくるようなオバケのローブを着るようになった。
「悪かったな」
 ネサルがぼそりと詫びると、イムは首を傾げた。
「何が?」
「助けてくれたのに、オレみたいな顔を目に入れさせちまって」
「うーん」
 イムは困ったように微笑んだ。
 やはり、本当は自分の顔を見るのが嫌だったのだろう。ネサルが沈み込んでいると、彼は言った。
「私は、あなたの顔が好きですけど。あなたは自分の顔が嫌いなんですか?」
「はあ?」
 ネサルは再度、眼前の青年を見た。
 困り顔でもつくづく癖のない、上品な美貌である。
「嫌味か?」
「あなたには、私が見境なく他人をつつく者のように見えますか」
 そう返されると、見えないとしか答えられない。こんな雨の中で、己がずぶ濡れになるのも顧みず、魔物に魅せられて崖から落ちそうになるマヌケなドワーフを救ったようなヤツなのだ。おまけに、山菜汁まで振る舞おうとしている。
「人が良すぎて、逆に不安になる」
 何か思惑があるのではないかと疑いたくなるくらい、良心的で模範的な言動をするから。
 そう言うと、イムは笑った。
「正直ですね」
「何でオレを助けた」
 つい、気になっていたことが口から出た。
「こんな森の奥で、崖に向かって突っ走ってる変な格好した奴なんて、関わったら厄介そうだろ」
「死にそうだったら助けるのは当然です」
 イムは迷いなく答えた。
「風体は関係ない。私はあなたに生きていてほしかった。それではいけませんか」
 彼は傍らに積んであった椀を取り、鍋の中身を盛ると、こちらへ差し出してきた。いつの間にか山菜は柔らかくなり、出汁の香ばしい香りが漂っていた。
「できましたよ。あなたさえ良ければ、マスクを取って話しながら食べませんか」
 イムはにこりと微笑む。
 ネサルは椀を受け取り、かぶったばかりのマスクを外した。不思議と、素顔を晒す恐怖は感じなかった。
 二人は、食事に手を合わせてから食べ始めた。汁は、雨に冷えた身体に優しい素朴な味をしていた。山菜も癖がなく、食べやすかった。
「苦くないな」
「灰汁抜きをしてありますから」
 イムは口の中にあったものを嚥下してから答えた。
「そのまま焼いて食べられるものもありますが、灰汁抜きをしないと中毒になる種類の山菜もあるんです」
 私はいつも、山菜を取ったらすぐに持ち帰って灰汁を抜き、干したものを携帯するようにしてます。
 そう言うので、ネサルは感心した。
「マジか。そのまま食ってた」
「本当に? 胃が強いんですね」
 二人は向き合って、しばらく黙々と山菜汁を食べた。
 洞の外からは、雨のさあさあ言う音が聞こえる。外はすっかり闇に浸り、このまま朝を待つことになるのは明らかだった。
 見ず知らずの他人と夜を越す。いつものネサルならば、何としてもこういう状況は避けるところだ。
 しかし、今日は既にそういう気分が失せていた。もちろん、まだこのエルフに対する得体の知れなさは感じている。それでも心の底に、彼に気を許しつつある自分がいるのを、ネサルは自覚していた。
(何か、調子狂うな)
 椀をあおりながら、正面に座る元凶をさりげなく見やる。
 彼は、鍋から新しく汁を盛ろうとしていた。
「これは、あまり外では話してほしくないことなのですが」
 箸を持ち直しながら、語る。
「久遠の森に入り浸っていると、稀に、ここへ死にに来る人を見るんです。世界樹の包容力に惹かれるのでしょうね」
 そういう人を見つけた時も、私は声を掛けてしまう。
 イムはそう、静かに独白した。
「彼らにはそうせずにはいられない事情がある。その苦しみは、私からは計り知れない。余計なお世話だ。そう知っていても、止めずにいられない。生きていれば案外いいこともあると、私自身が過去に思わされたせいでしょうか」
 今何か、途轍もなく重そうなものを吐き出さなかったか。
 気になる。しかし、どう切り出していいか分からない。
「お前……」
「ああ、すみません」
 ネサルの逡巡をどう見たのか。イムは慌てて言葉を補った。
「私の場合は少し違っていて。その、病気で死にかけたんです」
 そして、照れくさそうに笑った。
「ごめんなさい。私の話をしすぎました。あなたは──」
「オレはネサル」
 イムはきょとんとした。
 ネサルは頭を掻いた。
「まだ、名乗ってなかったって気付いてな。それで、あー……お前さえ気にしないなら、お前の話を聞かせてくれよ」
「……分かりました」
 イムは微笑んだ。
 彼は、手短に事情を話した。重い病に侵されていたこと。死にかけた彼を、ツスクルの村人が助けてくれたこと。世界樹の巫女が彼の命を風と世界樹に願ってくれ、回復したこと。
「ツスクルに来る前は、どうして生きてるんだろうって思うこともあったんです。でも今は、いつか来るその時まで、生きていたいと思えるようになりました」
 そう言う銀の瞳は、澄みきっていた。
「ネサルさんは──」
「ネサルで良いよ」
「はい。ネサルは、どうしてここへ」
「まあ、その、なんだ」
 デスマスターは、霊界との接触を望む者以外には存在を隠すのが常である。
 だから彼は、決まり文句を返した。
「オレも、自然観察ってとこ」
 我ながら怪しい口実だと思ったが、イムは素直に受け止めた。
「そうですか。あまり森の深くに行くと危ないですから、気をつけてくださいね」
「ああ」
「世界樹の丘には精霊様や、学びの庭の教師もいますから」
「そうか。知らなかった」
 良い情報をもらった。何も知らずに向かっていたら、交戦することになっていたかもしれない。
 それからイムとしばらく話した。話せば話すほど、彼の聡明さと素直さに毒気を抜かれる気がした。
 彼は、本気でネサルのことを悪くは思っていないようだった。彼は外見だけでなく、心も清らかであった。彼と会話をしていると、コンプレックスから来る偏見にこだわっているのは自分の方だと気付かされた。
 きっと己と違って、周りの者に慕われているのだろう。それでも話していて苦しくならないのは、恐らく彼が先ほど話した以上の苦しみを抱えてきたからか。
 ネサルはそう察しをつけた。イムの語った過去は、一部だけのように思われた。恵まれた環境に生まれ、愛されるだけの人間が、どうして死ぬまでは生きていようという言葉を口にするだろうか。
 夜が更けてきて、それぞれ己の寝袋に寝ることになった。イムの立てる安らかな寝息を聞きながら、ネサルは彼の口にした魔瘴の浄化という目的を思い出した。
 最初聞いた時は夢物語だと思ったが、今は、彼ならば成し遂げられるに違いないという気がしていた。
(いい人生を送るんだろうな)
 そんなことを考えながら、ネサルは眠りについた。





 イムとは翌朝に別れた。
 別の地点に調査をしに行くとのことで、別れ際に連絡先を交換した。
「まだ久遠の森にいるようでしたら、そのうち一緒に野営してください」
 久遠の森まで来てくれる友人はいないので。
 イムはそう言って、笑った。








+++



 ネサルは、しばらく久遠の森に滞在した。
 結局、世界樹の丘を目指すのはやめた。今周りにいる死霊を眺めているだけでも十分だと思い直したのだ。それに、丘にいるという精霊や教師──己を助けたあのエルフの知り合いに要らぬ苦労をかけるのも気が引けた。
 生者の人生に興味を持ち、幸せを願う。人生で初めてのことだった。
 ネサルは変わらず、死霊を眺め、森から食物をもらい、気ままな生活を続けた。そして、イムに呼ばれれば共に野営をしに行った。
 いつまで経っても、ツスクルの民が彼をとっちめに来ることも、文句を言いに来ることもなかった。やはり、イムは裏切らない人なのらしい。彼はそう判断した。
 やがてネサルは、死霊を眺めながら、ふと、気のいい友人のことを思い出すようになった。彼は何をしているだろう。どのような調査をしているのか。どうやって暮らしているのだろうか。
 一度気になると、ずっとそのことを考えてしまうのが彼の性分である。
 ある時、彼は森を出た。その足で、ツスクルの村へ向かった。イムに会って、少し会話でもできればと思っていた。
 村へ入る前に、ネサルは樹へ登って様子を観察した。初めて訪れたツスクルは、木々に囲まれた穏やかな村だった。学びの庭は、村の中心にある六角形の木の家を連ねた建物群だった。
 どう声をかけたものだろう。ネサルは迷った。
 友人なのだから、普通に彼に声を掛けて世間話でもすればいい。そう思うが、話すべき話題が見つからない。ここでネサルはやっと、自分は彼に何かを話したいわけではないのだと気付いた。いつものように彼が話しかけ、笑いかけてくれるのを望んでいるだけなのだ。
 まごついているうちに、授業の時間になった。生徒達が中庭の木漏れ日の下へ置かれた黒板の前へ集まり、椅子に並んで講師や仲間達と語らい始めた。
 その中に、イムもいた。彼はすすんで何かを話すわけではなく、ただ周りの声に耳を傾けていた。
 それを見て、ネサルは少し意外に思った。久遠の森で会う彼は、とてもお喋りだったからだ。ネサルが自分から話さないということを加味しても、彼は口を開くことに躊躇いのない方に見えた。鳥の声が綺麗だとか、初春の木は抹茶モンブランに見えるだとか、そういう他愛のないことを、いつまでもゆるゆると話す景色を見慣れていた。
 疑問に思いながら観察していると、しばらくしてイムがやっと口を開いた。その様子を見て、ネサルは彼の寡黙さの理由を察した。
 彼が一度口を開くと、周囲の者達は皆喋るのをやめて彼を見た。それは決して嫌な沈黙ではなかった。むしろ期待や敬意、知的好奇心に満ちた好意的なもので、彼が話し終えた後は、語らいがより白熱した。頷く者、賛同や疑問を述べる者。皆が彼を積極的に受け入れていた。
 彼の一声は、泉に投げ込まれる石のようだった。それによって大きく広がりがちな波紋を、彼は慎重に見つめているように見えた。
(つくづく、優しい奴だな)
 次に森で会った時も、遠慮なく話をさせてやろう。ネサルはそう考えた。
 それからネサルは、定期的にイムの様子を見に行くようになった。小さな村だから、学びの庭を観察するのは容易かった。ネサルは村の北側に聳える木々に身を隠し、学舎を眺めた。学び舎にいるイムは、いつも静かだった。それでも溢れんばかりの才気は漏れ出るもので、誰からも注目されていた。観察を始めて間もなく、ネサルは彼が天才と称されていることを知った。彼がいつも一人で旅人に会いに来る理由が分かった気がした。
 ネサルは連日、イムばかりを見続けた。夜に幽霊を眺め、陽が昇るとツスクルの村へ向かって彼を見つめる。自室で論文を書いている様子。小さな少女に勉強を教えている様子。優秀そうな眼鏡と語らっている様子。同窓をカモにしようとする胡散臭いおっさんを窘めている様子。
 イムはよく慕われていた。以前ネサルを助けたように、能力を誰かのために惜しまず活かす人柄が、そうさせるのだろう。嫉妬は湧かなかった。彼は慕われて然るべき人なのだから、当然だ。不信から転じた憧憬は、コンプレックスに押し上げられ、ネサルの中で崇拝に近い感情へと変わっていた。
 知らず、ネサルは彼の人生を追うのに熱中していった。木々に紛れてエルフの郷を観察する時間が、どんどん長くなっていった。樹上に身をひそめながらの観察も、全く苦に感じなかった。彼を眺めている間は、身体の痛みよりなお酷い染みついた厭世観や、自己にまつわる嫌悪を、全て忘れていられた。
 しかしある日、ツスクルの樹上に留まったまま日の出を二回拝んでしまった時。床に収まる彼の寝顔に日が差し込む様を眺めていた彼は、ふと我に返った。
 何故自分は、話しかけもせずに遠くから彼の寝顔を眺めているのだろう。あんな無防備な様子を、本人の了承なしに眺めていていいものなのだろうか。
(もしかして、オレはまずいことしたんじゃないか)
 頭を抱えた。
 このような行動をしていては、彼の近くにいられない。
 ネサルは自分を戒め、ツスクルの村に行くのをやめた。久遠の森で死霊を眺め、イムに呼ばれた時だけ答える生活に戻った。
 けれど、常ならば新たな死霊を求めて次の土地へ移る時期になっても、ネサルは他の地に行くことができなかった。久遠の森に座り込み、茫洋と死霊を眺めながら、学問の村に住む輝かしい青年のことを考えていた。










 ネサルの久遠の森滞在歴が、一年と少し超えた頃。
 イムからの連絡が、ぱったり来なくなった。それまでは多くて週に二度、少なくても三週間に一度はあったはずなのに、三ヶ月経っても何の音沙汰もない。あれから生活を盗み見しに行ってはいないし、喧嘩した覚えもない。
 ネサルは心配になった。最後に会った時、イムには何やら意識がどこか別の場所へ向かっているような印象があった。
 何かあったのではないか。
 ネサルの胸中のざわめきは、大きくなるばかりだった。不安を煽ってくるのは、彼への憧れではない。幼少期より芽生え、霊界に触れる職として養ってきた、第六感の方だった。これが訴えてくる嫌な予感は、昔からよく当たるのである。
 ネサルは、長らく自ら歩むことを禁じていたツスクルの村への道のりを辿った。冬が去ったツスクル平野は柔らかく、しばらく聞かなかった鳥達の愉快な囀りが耳をくすぐった。心の和む時節だったが、今のネサルの気持ちは全く緩まなかった。
 ツスクルの村の玄関口から入っていけば、村人に警戒される。ネサルはかつて常駐していた村北部の樹木に登って、友の様子を窺うことにした。
 懐かしい定位置に付き、ドワーフ特製の望遠ゴーグルで目を凝らす。学生寄宿舎の西から二番目。窓の向こうに、しばらく見ていなかった友人の姿が見えた。
 まずネサルが思ったのは、どこか差し迫った様相をしているということだった。イムは、常に余裕のありそうな姿勢を崩さない男だった。だが、今見える彼はどうだろう。文机を前に、眼差しを剃刀のように鋭くしている。あのような様子は、これまでに見たことがなかった。
 何をしているのだろう。ネサルはイムの机を覗き込んだ。
 小さな紙に、墨で何かを書いているようだ。それは、呪符のように見えた。しかし、あのような術式は見たことがない。
(まさかとは思うけど、呪文を作ってるんじゃないだろうな?)
 ネサルは以前、イムと野営をした時に、彼が古代呪文のことを話していたのを思い出した。
 エルフ族の手元には、失われた古代呪文の記録がいくつか残っている。ドルワームの王立研究院にもそういった記録はないだろうか。
 そんなようなことを聞かれた。
 知らないと答えると、やや落胆していたようだった。
(ただの世間話だと思ってたんだが。もしかしてあれって、アイツが取り組んでた研究の話だったのか)
 だとしたら、彼が今しているのは古代呪文の復活だ。
 ネサルが改めて、彼の手元を注視した時だった。
 部屋に、異変が起こった。
 呪符から黒い妖気が湧いた。イムが今までにない俊敏な動きで立ち上がり、次々印を切る。
 妖気が迸り、彼の胸を貫いた。
 エルフの身体が倒れるのを視認するや否や、ネサルは木より飛び降りた。つむじ風のように地を駆け、窓の桟へ片手をかけて一息に部屋へ飛び込む。
 その寄宿舎の一室には、イム以外に誰もいなかった。机の上に置かれた呪符が炎を上げて消えるのを視界の片隅に捉えながら、倒れた友人の首へ手をやった。
 脈がない。
「イム、イム!」
 一縷の望みをかけて呼びかけたが、返事がない。
 蒼白な顔を軽く叩いても、反動で揺れるだけでぴくりともしない。
(そんなはずはない)
 信じたくなかった。
 死因は魔術儀式の失敗。しかも対象は、絶えて久しい古代呪文だ。蘇生はまず叶わない。世界の摂理により、生命を奪われたも当然なのだから。
(こんなことが、コイツの人生に起きるはずがない)
 底の見えぬ、黒く冷たい絶望の海に突き落とされた気分だった。
(コイツには未来があるんだ。オレなんかよりずっと、輝かしい未来が。コイツの働きが、たくさんの人を救っていくはずなんだ)
 彼がどこまでも進んでいくのを、見ていたかった。
 なのに、彼は死んだ。
 たった今、彼の時は永遠に止まってしまった。
「ワギよ。エルドナよ。ルティアナよ」
 震える唇で呟く。
「幾千幾万といるアストルティアの民の中で、どうしてコイツが今、死ななくちゃならなかった?」
 絶望から間もなくして湧いてきたのは、怒りだった。
 世界には、もっと図々しい連中が生き延びている。怨霊すら、ふてぶてしく成仏しないでいるのに。
 何故、この世で最も清廉な志を持っていたであろう、未来ある若者が死ななくてはならないのだ。
(そんなことが許される世界であってたまるか)
 デスマスターである彼の目には、薄れようとするエルフの魂がまだ視えた。
 儀式の対価として奪われたのは、生命力だけ。魂は自由なはずだ。
 今なら間に合う。
 不条理への憤怒が身を焦がし、理性的な欲望が思考を研ぎ澄ます。
 ネサルは、デスマスターに伝わる死霊契約の儀式の記憶を呼び起こした。口外を禁じられた真言を唱えながら、己の内側へ──魂と精神の紡ぐ世界へと、意識を集中させる。
 そこには、黄金の果実が一つ収納されていた。黄昏の園でこの身に収めた、ヨモの実だ。
 両手でその実を掬い、仰向けに倒れたイムの上へ翳す。
「≪我がもとに、死返まかるかえれ≫」
 最後の呪言を口にし、果実を落とす。
 黄泉の果実はイムの胴へ落ち、溶け込んだ。
 召喚と蘇生。二つの符号の入り混じった円陣が、青白い光を発して展開する。
 ネサルはじっと待った。イムの肉体の上にブレて重なっていた霊魂が、肉体の中へ収まっていく。
(成功、した)
 詰めていた息を吐こうとした。
 突如下から伸びてきた手が、彼のマスクを奪い取った。
 ネサルは驚いて見下ろす。イムが、目を開けていた。
「いけない」
 狭めた白銀の双眸は、泣きそうに見えた。
「摂理に反すれば、あなたにまで災いが」
 ネサルは失笑した。
 何を言うかと思えば。
「こんな時まで、他人のことかよ」
 イムの瞼に手を翳した。蘇ったばかりの死霊は、再び目を瞑った。眠りの世界へと落ちていったのだ。
 ネサルはまだ己の袖を掴んだままの手を取った。エルフの白い手は、無意識に彼の手を握り返した。
 生きている。
 彼が、まだここにいる。
 ネサルは込み上げる笑いを、どうにか噛み殺そうとした。
(やった……やってやった!)
 死神の手から、彼を奪い返したのだ。
 摂理の違反が何だろう。何が禁忌だ。この青年を死なせる世界の方がどうかしているのだ。
 仮に世界の方が正常で、自分が異常だとしても、構わない。それで彼が生きるならば、自分は何だって背負ってやる。
 ネサルは彼の手を体の横へ戻し、寝姿を整える。
 そうして、彼の首元に何やら黒い帯のようなものが浮き上がっているのを見つけた。
「これ、は」
 ネサルは言葉を失った。
 横たわったイムの身体に、次々と黒い文様が浮き上がってきた。首。髪。両腕。胴。両足。文様は広がり、消えることなく留まる。
 たちまちイムの全身は、刺青を施されたように変わってしまった。
 その紋様は、先程彼の記していた術式に似ていた。
「イムさまぁ」
 その時、扉の向こうから声がした。
 イムの友人だ。
(まずい)
 異変の起きた部分を見られれば、イムの死んだことが明らかになってしまう。
 ネサルは咄嗟に扉を施錠した。そして、彼の箪笥にしまってあった帽子と丈の長い外衣を取り出し、手早く着せた。
 作業を終えたネサルは、急いで部屋の鍵を開けて窓から逃げ出した。遥か後方より、女児の高い悲鳴が聞こえたが、様子を見に帰ることはできなかった。
 呪印が、黒蛇の巻き付くように、エルフの肌を浸蝕していく光景が、脳裏から離れなかった。
(アイツを生かしたかっただけなんだ。アイツは、もっと生きるべきだから)
 生きるべきだと、己が思ったから。
 ネサルは寄宿舎から離れた茂みへ飛び込むと、その場に這い蹲って震えた。
(オレの勝手で、アイツを汚した)
 自責と後悔が胸を締め付ける。
 それでも、彼が死ぬのは堪えられない。
 生きてほしい。
 喜びと悲しみ。安堵と後悔。
 相反する思いに揺さぶられ、ネサルはしばらく身動きが取れなかった。








+++



 頭の中で、筆で描いた線ののたくるような、グニョグニョとしたものが渦巻いている。
 イムはぐわんぐわんと揺れる頭で指を動かそうとした。だが、すでに動かなかった。彼は己の魂が身体から離れたこと、己が死んだことを悟った。
 すると、オバケが部屋に入ってきた。
 突如寄宿舎の窓から現れたそのオバケは、頭から足元まで隠れるほどの真っ白な出で立ちをしていた。
 なんて典型的な布オバケなんだろう。
 イムはぼやけた思考でそんな感想を抱いた。
 ドワーフの友人が着ていたオバケの服にそっくりだ。オバケは、本当に皆ああいう姿をしているのだろうか。または、新入りの死者である自分に分かりやすいような恰好で来てくれているのか。何にせよ、気心の知れた友人に似たオバケに連れていかれるならば、悪くない人生の終わりかもしれない。
 イムがぼんやりと眺めていると、オバケが寄ってきて何やら言い始めた。黒々とした楕円の目で自分を見据え、何やら必死に三日月の口を動かしている。
 まだ頭で、グニョグニョがのたうっている。だがイムは、どうにか彼の口にする言葉を聞き取り、意図を図ろうとした。
 アストルティアの言葉ではない。精霊言語に近しいものらしい。だが、イムの知らない語が混ざっていた。
『──の秘めたる術にて』
『反魂と──』
『──の園より預かりし我が果実を──』
 秘匿された魔術。
 反魂。
 イムの知らない分野。
 デスマスターの死霊術かな。
 イムは、世界の陰に潜んで明るみに出て来ない職業の存在を思い出す。
 あの職には反魂の秘術という、死者にまで影響を与える蘇生術があったはず。このオバケは、それを使っているのかもしれない。
 しかし、イムは自分の術を暴走させて死んだのだ。魔術の理によって生命力を失った己に、この術は適用できないはず。だいたい、何故オバケが死者を蘇らせるような真似をするのだ。
 イムの見つめる先で、オバケが自らの胸に当てていた両掌を重ね合わせた。
 白い袖から現れた手を認めた途端、夢を漂っていた意識が刹那現実に引き戻された。
 イムはその手を知っていた。緑色のふくよかなそれは、長らく会っていなかった、久遠の森の友のものだった。
(どうしてネサルがここに)
 ネサルがおもむろに手を開くと、そこに丸い青焔が浮いた。青焔はちろちろと閃き、黄金の果実に姿を変えた。
 イムはその果実を知っていた。だから果実を認識した瞬間、この状況の全てを正しく悟った。
 友は、ただの自然愛好家ではなく、デスマスターだったこと。
 彼が自分を、死霊契約の手段でこの世に繋ぎ止めようとしていること。
 それが、イムを彼の一部にするに等しい──死の穢れを彼に纏わせる行為だということ。
 やめさせようと手を伸ばした。伸ばした指が、視界の中心にあった布のマスクを掴んだ。
 白い布が落ちていく。露わになったドワーフの顔は、確かにイムの知る顔だった。綺麗に丸い頭の形。頭頂部にそば立つ、白馬のたてがみに似た銀髪。少し厳つい目元。すっきりとした凛々しい顔立ち。
 目が合った。そうしてイムは、いつも不機嫌そうに引き結ばれていた友の口元が、初めて綻ぶのを見た。
「いけない」
 声が出た。
 遅かった。死霊として蘇ってしまったのだ。そう気付かされても、言わずにはいられなかった。
「摂理に反すれば、あなたにまで災いが」
「こんな時まで、他人のことかよ」
 ネサルは震える声で笑って、イムの瞼に手を翳した。
 視界が回り、闇が訪れた。














 その後しばらくは、夢うつつの狭間を彷徨っていた。





 フウラとアサナギが自分の部屋にいる。
 何やら会話していたようだったが、すぐ外へ行ってしまう。
 鏡で自分を見ると、顔が真っ白になっている。いつの間にか烏帽子をかぶり、長袖の礼服を着ている。衣服の下を覗いてみると、髪の一部が黒ずみ、身体中には黒い刻印が刻まれていた。
 外へ出て太陽を見上げ、意識が遠のきそうになった。
 木々の輪郭はふわふわとして、緑の綿菓子のようだ。
 寄宿舎の濡れ縁は、風の道のような、心許ない心地がした。
 それでも、学びの庭のエルフ達はいつも通りらしかった。
 モズに記憶薬という名の醤油を売りつけようとするキュウスケは、自分を見て、すたこらと逃げた。
 シシノタは醤油を飲んで驚き叫び、コノタは呆れている。
 ハツベとオバチュンの学食需要供給合戦は、まだまだ終わりそうにない。
 随分、現実に忠実な夢だ。イムの中の呑気な部分がそんなことを言う。
 一方で、別の部分は言う。
 死霊になった副作用が出ている。降霊術には詳しくないが、精霊召喚の依代や憑き物のことは知っている。それらと原理は近しいから、似たような状態になっているのかもしれない、とあたりを付ける。身体の変化は、冥界の霊力に伴うもの。肉体も魂も、その霊力にまだ馴染まない。だから、五感と認識の勝手が狂っているのだ。
 学舎の先輩達に声を掛けてみた。研究助手のジアンだけでなく、師ロクショウも師イズヤノイも、自分に違和感を覚えていないらしい。ネサルは腕のいいデスマスターのようだ。死霊になったのに、エルフとしての姿はほぼそのまま。呪印と一部の肉体の変化だけで済んだとは、驚きだった。教師達に気付かれないのだから、他の人間にもまず死霊だと気付かれることはないだろう。
 イムの死に気づくことなく、世界は進む。
 学び舎の中庭に、最上級生達が集まってくる。
 若葉の試みが始まった。





 知の試練を担当するのは、知恵の社の師トヨホロ。
 見慣れた青紫の髭の下で、口角がにこやかに頬肉を押し上げる。
 イムよ。お前さんとは、幾晩もここで語り明かしたのう。師はそのようなことを言った。
 そうだったなとイムは思い返す。自分が外出を許されていたのは、師トヨホロとの語らいのお陰もあったように思う。
 思い返していると、何やら問いが頭に流れ込んでくる。
 我らエルフは世界樹とともに生き、ともに滅びる運命だという。これは真実であろうか?
 遠い昔……空には二つの太陽が昇っていたという。これは真実であろうか?
 この知恵の社から見える、光の河……聖なるものとも悪しきものとも言われておる。……は、聖なるものと思うかの?
 そう言えば、師トヨホロはこの命題を気にしていたか。イムは問いに答えようとしたが、できなかった。口に丈夫な枝が詰め込まれていて、喋れなかったのだ。
 すると、目の前にナスビナーラが落ちてきた。ナスビナーラは、口に詰まった枝を取って旅人バザーに売っておいてあげるから、自分に師トヨホロの主張を教えてほしいとせがむ。答えてやると、ナスビナーラは飛び上がって喜ぶ。いつの間にかその隣に師トヨホロが現れ、同じように喜んでいる。
 喜ぶ彼らに試練の終了を告げられ、イムは社を出た。
 途中、アサナギが試練で手を抜くなと憤慨して突っかかってきた。だが、何も言えなかった。口を開けば、自分の唇の上で昼寝をしているスライムが落ちそうで心配だったからだ。
 アサナギは訝しげな顔をして、村へ戻っていく。イムもまた、夢とうつつの間を彷徨いながら、村を目指して歩く。





 イムは知の試練に合格した。アサナギとキュウスケも受かっていた。
 フウラは、肩を落として部屋へ戻っていった。アサナギが気遣わしげに彼女の背中を目で追っている。
 多くの学生は、若葉の試みに落ちた後も留年し、また力をつけて来年の試みに賭ける道を選ぶ。しかしフウラは、家の事情で今年の一回しか受けられないのではなかったか。
 依然として頭はおおきづちの痛恨の一撃を喰らったようだったが、フウラが気掛かりで、部屋まで様子を見に行った。
 フウラは、ケーキ神人形を抱き締めて泣いていた。それでもイムの顔を見ると涙を拭き、自分は大丈夫だからこれを次の試練で活かして欲しいと薬草を十束も渡してくれた。
「さあ、行って。力の試練、頑張ってね」
 不思議と、彼女の声ははっきりと頭に届いた。笑顔もブレることなく、よく見えた。
 その足で巫女の館へ向かった。ヒメアに仕える女官達に、禊の場へ案内されながら、イムはフウラのことを思う。
 笑顔で送り出してくれた。
 肩が、小さく震えていた。
 彼女は今頃、望みの絶えた暗闇の只中にいるのだろう。死んで人生の終わってしまった今の自分には、その心が痛いほど分かる。
 しかし今の自分に、何が出来るだろう。ただ友人としてそこにいるだけ。何も力になってやれない。
 俯いたイムの頭に、禊の女官の振りかける世界樹の朝露が落ちる。
 冷たい飛沫に、一瞬夢心地が遠ざかった気がした。








+++



 死霊は、体と魂が切り離されてから長い方が、霊体として安定しやすい。何故ならば、死後時間の経った霊にはまず肉体がないからだ。魂だけの方が、死霊状態への適応は早い。
 だから、肉体を備えて死霊となったイムは、活動の安定に時間がかかる。死んだばかりの身体は、なかなか霊界優位の状態になってくれないのだ。
 しばらく安静にしていてほしい。頃合いを見計らって、そう言いに行くつもりだったのに。
 ネサルは、ハラハラしながらツスクル平野に留まっていた。
 イムが死霊化してすぐ、学びの庭の卒業試験──若葉の試みが始まってしまったのだ。試験官が学生達に言うことを盗み聞きしてみると、まずは知恵を問う試験を受けるらしかった。
 そのくらいならば、大丈夫だろう。しかし念のため、ネサルは知恵の社へ向かうイムの後を尾けた。案の定、彼はかなり弱っていた。おおきづちの攻撃を喰らってふらつき、ナスビナーラさえ一撃で倒せない。いつもの彼ならば、どちらも呪文一つで散らせるはずだった。
 それでも彼は自力で知恵の社へ辿り着き、知の試練をクリアして村へ戻った。すると試験官は、次の試練を告げた。なんと、世界樹へ赴き、力を示すために戦わなければならないらしかった。
(こりゃあ、キツいんじゃねえのか)
 今の状態で戦うのは相当つらいはずだ。自分が陰から助けるしかない。ネサルは腹を括った。
 世界樹へ向かうため、久遠の森の入り口へやって来たイムに話しかけた。
 状態によっては、最悪話しかけたこちらの声さえ聞こえない可能性がある。そう覚悟していたが、イムはきちんとこちらへ顔を向けた。
 一見した限りは、これまでと変わらないように思えた。だが、いつもならば微笑みかけてくる顔に、何の心の動きも乗っていない。視線も、ネサルを通り越した虚空へ据えられている。
 死霊化の影響が出ている。相当朦朧としているようだ。
「キツいだろ。力の試練ってやつを受けるなら、オレが陰から助けてやるよ」
「ネサル」
「お前の身振りに合わせて呪文を使うくらいならできるぜ」
 イムは、かぶりを振った。
「ありがとう。でも、これは私の試練だから」
 答えるなり、ふらふらとした足で先を急ごうとする。
 ネサルは彼の腕を掴んだ。
「待て。下手するとまた──」
 言いかけて、言い淀む。
 ネサルが躊躇う間に、イムが口を開いた。
「私は、今年卒業する」
 朦朧としたエルフは、ネサルの手を解かないまま一歩前へ出た。
「そしてカミハルムイへ行って、魔瘴を……」
 いや。
 イムは俯いた。
「私は死んだ……死んでしまった……呪文契約の条件から外れたから、呪文を使えない……」
 呟く声の輪郭が、溶けるようにあやふやになっていく。
 限界か。ネサルが抱えて連れ戻そうかと考えた時、イムは顔を上げた。
「それでも」
 先程とは違う、はっきりした声だった。
「天の恵みや呪文のチカラがなくとも、世界の調和を守ってみせる」
 イムは歩き始めた。
 ネサルの掌から、礼服の袖が抜けていった。








+++



 まだ、夢うつつ。





 力の試練を担当するのは、師コウ。短い桜の顎髭を蓄えた凛々しい顔は、久遠の森へ調査に来た時、何度か見かけたことがあった。
 世界樹の聳え立つ丘にて、世界樹に宿る若葉の精霊と戦って勝つというのが、試練の内容。
 精霊は、世界樹の葉を衣服に仕立てた大男だ。世界樹の枝なのだろう巨大な棍棒を携えている。





 ここに辿り着く前から、己の異変に気付いていた。
 これまで愛用してきた両手杖が、持てないのだ。握ることはできても、振るうことさえできずに落としてしまう。短剣でさえ、束を持った途端に取り落とす始末だった。
 そして何より衝撃だったのは、呪文を使えなくなっていたこと。メラすら発動しなかった時は、力が抜けて座り込んでしまった。
 それでも、今更諦めるわけにはいかない。
 唯一振るえた武器は、小枝のようなスティックのみ。それで精霊を叩き続けた。
 精霊が棍棒を振り下ろすタイミングを見極めて躱し、体勢を立て直そうとする隙に接近して殴打する。精霊が大きな体を揺らして起こした葉擦れが、真空の魔法を呼び起こすのだけは避けられなかったが、それ以外はフウラからもらった薬草を使って凌いだ。
 これまでにないほど苦戦した。それでも、時間をかけてどうにか勝つことができた。
「お前、よくがんばった! なかなかいいダワ!」
 精霊はそう言ってニカっと笑った。
 師コウも大きく頷いた。
 確かに、今自分ができることをやり尽くしたという実感はある。だからこそイムは、己がそう評価されて良いものだろうかという疑問を抱いた。
 こんな己が、学びの庭の卒業生を名乗っていいのだろうか。





 いつの間にか、おかっぱ髪の生真面目そうなエルフと、オールバックの恰幅のいいエルフがこちらを窺っていた。アサナギとキュウスケだ。
 アサナギからでいいでーす! オレは、適当にやるんで。
 お前は、本当にそれでいいのか? そろそろ力をつけないと、守りたい女性も守れぬぞ。
 師コウの窘める声。詰まったキュウスケの言葉。
 ボクはもっと華麗に勝ってみせる。
 すれ違いざまに、アサナギがイムを睨む。
 彼ならできるだろう。
 イムはぼんやりと考える。
 その時だった。






 轟音と共に、世界樹に巨大なヒビが入った。
 振り向いた師コウを、どす黒い紫の噴煙が飲み込んだ。
 絶叫。
「先生ッ」
 駆け寄ろうとした三人の足を止めたのは、若葉の精霊の警告だった。
「逃げるんダワ! 飲み込まれたらひとたまりもない」
 悔しそうに顔を歪めたアサナギが。眉を吊り下げたキュウスケが。旅の扉目掛けて走り出した。
 イムも、おぼつかない足を懸命に動かして続く。しかし、紫の霧が視界の端にちらつく。
 毒霧の魔の手は急速に迫ってくる。彼らの背は、間もなく捕らえられようとしていた。








+++



 大量に噴き出した魔瘴に、死を覚悟した時。
 空を美しい光が走り抜けていった。その煌めきは空だけでなく、世界樹の魔瘴も洗い流した。
 イムは呆気に取られた。このような現象は、今までに見たことがなかった。
「何だったんだ」
 アサナギも呆けたように空を仰いでいた。彼の方を向いたイムは、自分の挙動にはっとした。
 あやふやだった感覚が、元に戻っている。両手を握っては開き、身体の違和感が無くなっていること、思考能力が回復していることを実感する。
 あの光のお陰だろうか。原因を考えようとしかけたイムは、視界に映ったものに目を瞠った。
(それどころじゃない)
 イムは世界樹に駆け寄った。
 幹から湧いていた膨大な魔瘴は、消えている。しかし、縦に入った巨大な亀裂はそのままだった。
 イムは裂け目に耳を当てる。エルフの聴覚で、樹の鼓動が微弱になっているのを感じた。
「世界樹が死んでしまう」
「ええっ」
 キュウスケが悲鳴を上げた。
「何とかならねえんですかい」
「厳しいです」
 イムは固く目を瞑った。
「これほどの傷を癒すには、外部から膨大な魔力を注ぎ込んで補う他ありません。しかし、この近くにはそれほどの魔法の品はありません。我々が用意している間にきっと、世界樹の命は」
 残された時間は短い。
 イムは頭を巡らせた。膨大な魔力を持つ何かが、エルトナ大陸にないか。しかし、命の源たる世界樹を癒せるほどのものは、思い浮かばなかった。
 のしのしと、重い足音が近づいてきた。振り向くと、背後に若葉の精霊が立っていた。二つに裂けた世界樹を見上げている。
「世界樹よ、生きろ」
 精霊は、両手を翳した。
「お前から五百年もらい続けた力──オリの命を、全部やるダワ」
 イムは息を呑んだ。
 世界樹の裂け目から、黄金に輝く新たな繊維が盛り上がり、みるみるうちに裂け目を修復していく。同時に、精霊の輪郭がどんどん薄れていった。
「若葉の精霊……」
 アサナギが俯く。精霊は彼を振り返り、大きな口で笑う。
「大丈夫。世界樹がある限り、精霊は何度でも蘇るダワ」
 新たな樹肌は、瞬く間に世界樹の亀裂を埋めていく。次第に、輝きを失っていた枝葉に瑞々しい煌めきが戻ってきた。
 イム達は、若葉の精霊が消えていくのを見守る他なかった。彼の輪郭が完全に失せると、その重みでしなっていた足下の草が頭を持ち上げた。
 三人は彼のいた場所を見つめ、世界樹を仰いだ。巨樹は何事もなかったかのようにそこへ佇んでいた。だが、そのふもとに先程までいたはずの師と精霊の姿は、戻って来そうになかった。
(もう少し、気を配っていれば)
 イムは思う。
 己が、シャナクの呪符を完成させていたならば。
 魔瘴に襲われた師コウをみすみす死なせることはなく、若葉の精霊が傷ついた世界樹を癒すために犠牲になることもなかった。
「学びの庭へ戻ろう。イズヤノイ先生にこのことを報告するんだ」
「ええ」
 アサナギがこちらを一瞥した。
 彼は、イムの違和感に気づいているようだった。
 だが、己に言える言葉は何もない。古代呪文の復活に失敗した今、いかなる告白も過去の幻影である。未来を生きる者を、こちらへ引きずり込みたくはない。
 イムは己の胸に手を当てた。ぬくいそこに命脈はなく、魔力の流れる拍動があるだけだった。








+++



 師イズヤノイに事の次第を報告した後、イム達三人は巫女の館へ赴いた。
 世界樹の巫女ヒメアは、風を通じて事の次第を聞いていたらしかった。力の試練の前に拝謁した時は下がっていた御簾が上がっており、彼女の知的な眼差しが彼らを出迎えた。
「師コウと若葉の精霊のことは、残念でした。私も風達のざわめきから話を聞き、備えてはいたのですが」
 ヒメアがかぶりを振ると、天の川に似た銀の髪がそよ風のような音を立てた。
 彼女は、魔瘴を洗い流した光が勇者覚醒の印であること、勇者の覚醒は大いなる闇の出現を意味していることを語った。
 そして、正座する三人へ順に目をやった。
「アサナギ、キュウスケ、イム。お前たちは、あの魔瘴を前にしても恐れずに立ち向かいましたね。何ものをも恐れぬ勇気は、これからの時代に必要とされることでしょう」
 ヒメアは言う。
「三人全員の力の試練合格。そして、学びの庭からの卒業と旅立ちを認めます」
「えええええっ」
 仰天するキュウスケに、ヒメアは微笑みかけた。
「何を驚いているのです。そなたにも十分にその力はあります。それにそなた自身、師コウの言葉から覚悟を決めたのでしょう?」
 彼女の言葉を聞いたキュウスケは、目を丸くした。しかしすぐ居住まいを正すと、眉根を引き締めて力強く頷いた。
 一方アサナギは、深く俯いていた。
「勇者の覚醒に、大いなる闇。世界に何かが起こっているなら、学びの庭での小さな勝負に執着している場合じゃないな」
「アサナギ」
 ヒメアが呼ぶと、彼は顔を上げた。
「そなたには優れた英知がある。旅をして、その力を養いなさい。そしていつか、イムの遺志を継ぐのです」
「イムの?」
 アサナギは怪訝な顔でこちらを見た。イムは黙って微笑み、頷いた。
 ヒメアが片手を差し伸べる。
「それでは、巣立ちの儀を始めましょう。冒険の書を、前に」
 三人は道具袋から書を取り出して並べ、頭を垂れた。
「大いなる風の神よ。そして世界樹よ」
 ヒメアが祈りを捧げる。
「一人前の力を持てしこの者たちに、その印を与えたまえ」
 三冊の冒険の書の表紙が翡翠に瞬いた。光が失せると、そこには世界樹の紋が印されていた。
 一人前の証である。
「さあ。行きなさい。この学問の村が誇る、若葉たちよ」
 ヒメアは、しっかりと三人のエルフの顔を見据えて告げた。
「そなたらの未来に、世界樹と風の守りがあらんことを」












 最初にキュウスケが、勢いよく立ち上がった。
「オレは、ユーチャーリンにふさわしい男になってみせるぜ」
 そう宣言すると、いつもの陽気さでアディオスと手を振り、颯爽と去っていった。
 次にアサナギが腰を上げた。イムを見下ろし、まだ何か聞きたそうな顔を一瞬したものの、すぐにかぶりを振った。
「ボクも行くよ。この世界に何が起きているのかも、ヒメア様の言葉の真意も、いつか自分で解き明かしてみせる」
 イムは頷いた。
「アサナギ。身体に気をつけて」
「キミも元気で」
 気難しげな顔が、笑みと共に頷き返す。
「またいつか、会おう」
 アサナギは、確固たる足どりで踵を返した。
 巫女の間の扉が閉まる。同窓の足音が遠ざかって行くのを聞き遂げたイムは、巫女に向き直った。ヒメアもまた、彼を見据えていた。
「ようやく分かりましたよ。古代呪文の復活に失敗し、死んだはずのそなたが、何故こうして生きているのか」
 白くほっそりとした指が、傍らに伏せてあった真円の何かを持ち上げ、こちらへ向ける。
 それは、鏡だった。緑の台座の中央に、澄んだ鏡面がある。
 イムは鏡を覗き込んだ。
 そこには、二つの人影が重なって映っていた。一つはイム自身。もう一つは、ネサルだった。
「ラーの鏡。映した者の真の姿を見せるという」
 イムが言うと、ヒメアは肯定した。
「そなたは、死にながらにして生きながらえた。死霊として、この男と契約を結んだのですね」
「はい」
 イムは頷いた。
「死んだ私を、彼が引き留めてくれました」
「本当に良かった」
 後ろに控えていたノマが、イムのもとへ寄ってきた。彼女の丸い目には、うっすらと涙が溜まっていた。
「親切な人がいてくれて良かった。本当に、心配したんですよ」
「しかし、自然に背いてしまいました」
 イムは自らの手を開き、見下ろした。
「報いを受けました。私は、もう呪文を使えないのです」
 朦朧としていた心身は、世界樹の丘での出来事の後、死ぬ前の状態に限りなく近い調子に戻った。まだ体力が戻りきっていない感覚はあるが、少しずつ鍛え直せばどうにかなるだろう。
 しかしイムは、自分の中にかつてあった魔術の閃きが、決定的に失せているのを感じていた。そしてそれが、永劫戻ってこないだろうことも察していた。
 戦えないのでは、ヒメアや世界樹を守ることも、エルトナ大陸のために働くこともままならない。
「ヒメア様」
 イムは畳に両手をつき、額づいた。
「申し訳ありません。命を救っていただいたご恩を、私は返せません」
 ネサルは悪くない。死霊契約は、呪文の契約によって命を奪われた者の蘇生方法として、最善にして唯一だったと思う。
 ひとえに、自分が悪いのだ。自分の都合で呪文復活を急いた、不注意。そのせいで、これまでに蓄えてきた魔術の心得を失ってしまった。これでは、期待されていた役割を果たせない。
「戦えずして、どうして世界の危機に立ち向かえましょう。魂がここに留まっていても、私はもう抜け殻。死んだのです」
 自分の現状を言葉にするごとに、虚しさが募っていった。胸に空いた巨大な穴を、乾いた絶望の風が吹き抜けていく。涙すら出てこなかった。
「良くしていただいたのにも関わらず、何も成し遂げられず。それどころか、自然の摂理に反しました。私は、ツスクルの村の一員にふさわしくありません」
 イムは一度傍へ引き寄せていた冒険の書を手に取った。そして、ヒメアの方へ差し出した。
「一人前の証を、お返しさせてください。私はこの村を出ます。そして、二度とは帰りません」
「イム」
 ノマが驚きの声を上げた。
「何を言うんです」
「世界樹の村に、私のような生命の理に反する死人が籍を置いていては、何が起こるか分かりません」
 イムは顔を上げた。世界樹の守り人を真っ向から見据え、再度頼み込む。
「どうか、お願いします」
 ヒメアの透き通るような白皙が、しばらく見定めるようにこちらへ据えられた。
 その後。ふ、と艶やかな唇が綻んだ。
「いいえ。その願いは聞けません。だって、そなたは現にこうして生きているのですから」
 イムは、思わぬ返しに戸惑った。
「しかし」
「そなたが古代呪文を復活させようとしていた頃」
 ヒメアが言葉をかぶせた。
「私はこっそり、そなたの運命を風に訊ねました。返ってきた答えは、そなたの命がまもなく失われるというものでした。そして、そなたはその通りに亡くなった。しかし、死ぬという運命に従いながらも、生きながらえたのです。何も摂理に逆らってはいません。かつてのそなたという存在は、確かに死んだのですから」
 呪文を使えないというのは、そういうこと。あくまでそなたの存在の変化であって、そなたが摂理に反した罰を与えられているわけではない。
 ヒメアは優しく、イムを諭す。
「それよりそなたは、新しいさだめの力が働いているのを、認めた方がいいでしょう」
「新しいさだめ」
 復唱するイムに、双眸を眇める。
「時にイム。そなたが力の試練に望むにあたって持っていった薬草は、いくつありましたか?」
「十五です」
「うち十はフウラにもらったもの。そうですね?」
 イムが肯定すると、ヒメアは話を続ける。
「若葉の精霊と戦った時、そなたはスティックで殴打する以外の攻撃の選択肢がありませんでした。そのために長期戦になり、自分の攻撃の回数と同じかそれ以上に、何度も打撃を受けました。そしてそなたは己を癒すため、薬草十五個を使いきって、勝利した」
 イムは、瞠目した。
「計算が合わない」
「そう。それでもそなたは、若葉の精霊の攻撃に耐え抜いた。薬草の他に、回復手段を使った覚えはありますか?」
「いいえ」
 彼の答えを聞くと、ヒメアは懐から短刀を取り出した。
 おもむろに、自らの人差し指の先に刃を軽く当てる。ふつりと血の玉が浮かんだ。
「ヒメア様、何を」
 動揺するノマを制し、ヒメアは傷ついた指先を青年の前へ差し出した。
 イムは恐る恐る、彼女の指に両手を翳す。
「ホイミ」
 両手から若葉の輝きが沸き起こり、白い指先を包む。
 光が失せると、そこには流血の痕があるだけで、傷口は綺麗に消えていた。
「どうして」
 イムは呆気に取られてしまった。ノマもまたつぶらな目を見開き、主人を見やった。
「ヒメア様。これは一体」
「世界樹の加護です」
 ヒメアは着物の袖を整え、膝の上へ戻した。
「若葉の精霊が──世界樹が、そなたを認めたのでしょう。そなたは世界樹の類稀なる癒しの魔力を手に入れた。これは、そなたが自力で掴み取った新たな役目です」
 それだけではない、と続ける。
「あの風来のデスマスターとは、知り合いなのですね」
「はい。久遠の森で会いました」
 崖から落ちそうになっているのを助けた。
 そう答えると、ノマが目を剥いた。
「イム。あなたはまた、知らないうちにそんな無茶を」
「良いではありませんか、ノマ」
 ヒメアは柔らかく笑む。
「イムよ。そなた自身の行いが、そなたの命をこの世に留めたのです。生きながらえたのも、癒しの力を手に入れたのも、そなたの優しい心と確かな行いによるもの。神霊の恵みを、そなたは日頃の行いで引き寄せた。古き運命を受け止めながら、自らの力で新たなさだめを切り拓いたのです」
 世界樹の巫女は、掌を軽く回した。イムの冒険の書が宙へ浮き、回転して彼の方へ向き直る。
「そなたには、まだ果たすべき役割がある。ここを出て、それを探しなさい」
 イムは、しげしげと己の冒険の書を見下ろした。一度無くすことを決意した世界樹の紋が、深みのある艶を放っている。
 まだ、ツスクルの村のイムとして生きていていい。
 世界の謎を追究することも許される。
 自分に、できることがあるかもしれない。
 先程まで暗く空虚であった己の行く先に、一筋の光明が見えた。
「ご厚情、心より感謝致します」
 イムは深々と頭を下げた。そんな彼を、ヒメアは慈しむような眼差しで見つめた。
「イム。そなたの最大の長所は、頭脳より、魔術の才より、その心の在り様。それを忘れないでください」
 その心構えを忘れなければ、これから先、たとえ天に見放されたように思えたことがあったとしても、きっと大丈夫。
 そう言って、ヒメアは目を瞑った。
「そなたは今も昔も、ツスクルの……エルフの宝。そして他の若葉達も、また」
 そのまま微動だにしない美しい顔を、イムはじっと見つめた。
 まるで、この場には見えない何か──自分たちには聴き取れない風の囁き、風たちが運んできた草木の葉擦れ、鳥の囀り、学び舎の声など──に意識を集中させている。そんな印象を抱いた。 
「お行きなさい、イム」
 切れ長の双眸が開く。
「世界を巡るのです。そなたが此度経験したような未知が、まだ数多あるはず」
 イムは、今度こそ立ち上がった。








+++



 その日、ツスクルの平野はよく晴れていた。
 日射しのもと蒼く煌めく草原の上を、書生姿のエルフが歩いてくる。桜花紋のケープと提灯袴は髪と同じ菖蒲の色で、彼の沈着な雰囲気によく合っていた。
 キリカ草原へと通じる橋の手前。光の川の傍へ佇むネサルに気付くと、彼は微笑んで歩み寄ってきた。
「お待たせしました」
 いつもと同じ笑み。死霊化した時に朦朧としていた意識は、試練終了後、元通りになったらしかった。
「イム。もういいのか」
「はい」
 イムは頷いた。
「もともと、持ち物があまりなかったので。それより、ここからアズランまでの道のり、よろしくお願いします」
「おう」
 ネサルは腕を組む。
「いいか。ここからアズランまでは、オレが戦う。だからお前は、魔物が出てきても絶対前に出るなよ」
「回復くらいはします」
「いい。力の試練はうまくこなしたみたいだが、お前の存在はまだ不完全だ。そんな奴に頼るまでもねえ。オレは一人でどうにかできる」
 そう言って、人差し指をイムに突きつけた。
「念のため、もう一度言っておくけどな。絶対に、無茶はするなよ」
 デスマスターに死はない。デスマスターと契約した死霊もそうだ。だが、万能ではないのだ。
「生きていた頃と同じように、死にそうな危険は避けろ。分かったな?」
「はい」
 イムはにこにこしている。
 何をそんなに、機嫌良さそうにしているのだろう。
 ネサルが訝しく思っていると、イムが口を開いた。
「ありがとうございます」
「何が」
「蘇らせてくれたこと。おかげで、私はまだこの生命を役立てることができます」
「馬鹿野郎」
 ネサルはエルフの脇をどついた。
「テメェの命をアイテムみたいに言うんじゃねえ。大事にしろ」
「もちろん」
 イムは目を細めた。
「あなたがくれた命ですから、大切にします。私は運が良かった。私が死んですぐにあなたが駆けつけてくれたから、こうしていられる」
 ところで、と彼は首を傾けた。
「どうしてあの時、私の部屋へ駆けつけることができたんですか?」
「ああ」
 ネサルは少々口籠った。
「しばらく連絡がないから、嫌な予感がしてよ」
 事実である。ただ、何故宿舎近くの木に潜むことになったかは、なるべく言いたくなかった。
「私を心配して、様子を見に来てくれたんですね」
 良い友に恵まれて、私は幸せです。
 イムが屈託なく言うのを聞いて、ネサルは少し胸が痛んだ。
「ネサルには、本当に感謝してるんですよ。肉体を備えた死霊という珍しいものになれたおかげで、何の術を使わずとも、霊界を覗けるようになりました。他にも、知りたいことが山ほどできた。ぼんやり死んでいる暇はありませんね」
「そうかよ」
(コイツ、定期的に連絡を取って様子を見にいかないと、まずそうだな)
 ネサルは内心嘆息した。
 初めて出会ってから、一年近く経つ。付き合いが長くなり、何となく抱いていた疑念が、今回の件で確信に変わった。イムは有り余る才能のせいか、本人の善良さのせいか、危険な目に遭いやすいらしい。思い起こせば自分と出会った時だって、一歩間違えれば二人とも崖から落ちていたかもしれない状況だった。今後も似たようなことを繰り返す可能性は、大いにある。
(しっかりした奴なのに、何でこんな妙に危なっかしいんだ?)
 ぼやきは、胸中だけに留めておいて。
 ネサルは橋の向こうを指差してみせた。
「そろそろ行くか」
「はい」
 イムは頷いた。
 二人は吊り橋を渡る。横に並んで歩きながら、ところで、とネサルは切り出した。
「お前、何で今更敬語なんだ?」
「え?」
 イムは目をやや開いて、ネサルを見下ろした。
「敬語じゃなかったこと、ありました?」
「一昨日。力の試練に行く前、声かけた時に」
 こちらは、やっと畏まらなくなったかと思ったのだが。
 そう言うと、イムは自らの口を押さえた。
「すみません。あれ、夢じゃなかったんですか」
「気にすんなよ。元々オレは、畏まって話されるのが苦手だからな」
 ネサルは正面へ目を向けたまま、何気なさを装って言う。
「せっかくだから、そのままやめちまえよ」
「死霊がマスターに、タメで話してもいいんですか?」
「いい。て言うか、オレらの職はそういう意味の『マスター』じゃねえから」
 ネサルは上下関係が苦手だ。それに、世界で唯一憧れる相手に「マスター」的な扱いを受けるのは、物凄く嫌だった。
「オレが蘇生させたから、今後も定期的にお前の霊力チェックをする必要はあるけど。そういうのは、お前がオレの死霊だからするんじゃない」
 ネサルは大きく息を吸い、吐く。
 正面へ視線を戻す。光の川を渡り終えるところだった。
「オレらって、さ」
 なけなしの勇気を振り絞り、言った。
「友達だろ」
 隣へ顔を戻すことができなかった。
 だが、視界の端にあるイムの口元が、弧を描くのが見えた。
「うん」
 菖蒲色の髪が縦に揺れた。
「分かったよ。改めてよろしくね、ネサル」
「おう」
 二人はそうして、アズランまで並んで歩いた。








 ネサルはこの後、デスマスターとしての仕事が入り、アズランへイムを残したままオーグリード大陸へ渡る。
 そして、再び友からの連絡が来なくなったことに気を揉み、彼の気配を漂わせた旅人達に声をかけることになるのは、この出来事からしばらく先の話である。










(了)