07 少年A




 レック達はサンマロウを散策している。
 サンマロウは、花の町の呼び名にふさわしい街だった。
 燦燦と降り注ぐ太陽。その光を存分に浴びてきらめく、蒼玉の海。
 アイボリーの家並みの随所に花壇があり、愛らしい花が潮風に揺れている。風は、薄桃の花びらの重なったような歩道を優しく撫で、郊外の広野へと吹き抜ける。豊かな草原に風が立てば、群生する野生の花と若草とが波打つ。その様は、紅水晶やら玻璃やら翡翠やらといった淡い鉱石が転がるよう。
 宝石箱のような街だ、とレックは思う。
 大きな家も小さな家も、どことなくまろい柔らかさを感じさせる造りをしている。
 高家の令嬢が宝石職人に造らせた、ままごとの町。
 そういう印象だ。
「可愛らしい町だね」
 傍らで歩くアベルが言う。
 ソロが顔を顰める。
「カジノはありそうにねえな」
「カジノがなくても、知らない世界っていうだけで楽しいだろ。せっかくセントシュタインの外を歩けてるんだから、楽しもうぜ!」
「別に楽しんでねーとは言ってないだろ」
 レックは鼻歌交じりのスキップで先へと跳ねていく。
 遠くなる彼の背中を眺め、アベルが笑みを漏らす。
「すごく嬉しそうだねえ」
 ソロは肩をすくめた。
「よくもまあ、ああやって考えなしに、俺達みてーな知らねえ奴と一緒に知らねえ場所を歩けるもんだ」
「素直に感謝したらどうだい?」
 端整な顔立ちを、不思議な瞳が覗きこむ。
「君の望んでいた一人旅ではないけれど、こうやって毎日この世界を巡ることができているのはレックのお陰だよ。彼はちょっと能天気かもしれないけど、考えなしじゃない。ソロだって、分かってるだろう?」
「分かってるよ」
 ここ数日、彼らはクエストなしに世界の街をめぐっていた。
 事の始まりは、レックにある。
 先日行われたソロの報酬をめぐる一連の出来事の最中、レックは初めてセントシュタイン領の外の大地に降り立った。無論、それ以前に大魔王の地図攻略の途でいくつかの街を通り過ぎたことはあったのだが、強敵との戦いが控えていることもあって、気にする暇がなかったのである。
 ともかく、ガナン帝国領を訪れ、レックは冒険心を刺激されたのらしい。
 帰って来た後、彼はナインに取引を持ちかけた。
 ナインの望みを、何か一つ叶える。
 世界に仇なすことがないよう、酒場に登録した状態でセントシュタインの外へ出る。
 行く場所は一日に一カ所だけ、ナインが指定した場所にする。
 出かける時はナインかノイン、もしくは二人が不在ならばリッカかルイーダに告げる。
 一人で旅をせず、大魔王討伐パーティーの誰かと共に行く。天使達と一緒でも構わないが、彼らが不在でも手を煩わせるようなことはしないと誓う。
 移動手段には天の箱舟を使う。一日経っても帰ってこないようならば、ルイーダの酒場を利用して呼び出してくれて構わない。
 以上の条件付きで、見事セントシュタインの外へ出る許可を得たのである。
「酒場の契約つきっていうのは大きいよ。光と闇が生じる世界のほぼすべてに展開してる《酒場》との契約は、ナインとの個人的な契約よりも強力だ。ソロは、ルイーダの酒場を使ったことがあるかい?」
「ない。俺の世界にはなかった」
「僕もないよ。でもレックの頃にはあったらしいから、僕らが知らないだけで、どこかに酒場があったのかもしれないね」
 ソロは柳眉をひそめる。
「僕ら? アンタ──」
「『ソロさーん! お呼びよー!』って一声だけで、酒場に登録した人をその場にすぐ連れてきちゃうんだって。すごいよねえ。僕の世界には、馬車で連れていけない仲間の魔物を預かってくれるモンスターじいさんって人がいたんだけど、それと似てるなあ。もしかしたらモンスターじいさんも、酒場の仲間なのかも」
 アベルは自分を見つめる訝しげな紫の瞳に構わず、話し続ける。
「ともかく、レックの提案はみんなに得だ。世界の安全が守られる可能性も高いし、僕らも自由に歩き回れる。僕も子供達へのお土産話ができて、万々歳だよ」
「アンタ、子供いるのか?」
「うん。二人いるよ」
 とっても可愛いんだ、とアベルは相好を崩した。
「聞く? 双子の男の子と女の子でね──」
「おーい! ソロ、アベル、早く来いよ」
 だいぶ先へ進んでいたために、姿の見えなかったレックが駆け戻ってきた。
「お前が先に行きすぎなんだよ」
「まあまあ。それより、もしかしたらカジノがあるかもしれねーぞ!」
「マジかよ!?」
 ソロの目の色が変わった。
 こっちこっち、というレックの弾んだ声と共に、二人は疾風のように駆けていく。
 小さくなって海へと溶け込んでいく二つの背中を、アベルは微笑んで眺め、
「生き延びてみると、何があるか分からないものだね」
 独り言ちてから、その後を追った。





 街のはずれ、砂浜の傍に小屋が一つ建っていた。
 他の洒脱な家々とは似つかない、石でできた箱のような小屋である。
 戸口に立つ老人が、中でニュービジネスをやっていると言う。
 入ってみると、薄暗い。地下へと続く階段が一つだけあって、その脇にはにこやかに誘うドレス姿の女性の姿がある。
「カジノって、暗くて地下にあることが多いだろ? だから、この階段を降りた先には新しいカジノがあるんじゃないかって」
 レックがそう語るので、三人は地下へ降りてみた。
 あったのは、行水場だった。
 地下水路にしか見えぬ暗がりに仄青い水が満ちていて、その中をたくさんの老爺が歩きまわっている。
「なんだこれ」
 レックは愕然としている。
 アベルが従業員に話を聞きに行った。何やら話をした後、戻ってきて地下水に漂う老人達を片手で示す。
「ここは『じじいの行水場』だそうだよ。あの水は若返りに効果があって、だからお年寄りが浸かりに来てるんだって」
「ニュービジネスって、そういうことか」
 レックは額を押さえた。
 ソロは腹を抱えて笑った。
「カジノとはだいぶ違ぇなあ! でも、おもしれーから入ってみようぜ」
「ひやかしみたいに思われないか?」
「ここまで入って来られたんだから、大丈夫だよ。ほら、若い人も入ってる」
 アベルの言う通り、行水場の中には若い男性の姿もある。
「なら、いいか」
「せっかくだから楽しもうぜ。お前もさっき、そう言ってただろ?」
 ソロは言うが早いか、若葉色の短衣を躊躇いなく脱衣籠へ脱ぎ捨てた。
 レックとアベルも服を脱ぎ、三人は水着一枚を身に着けて地下水へと足を伸ばす。
「うわっ!」
「冷たいねえ」
 レックが水面に足先をつけて身を縮める横で、アベルはあっという間に胸まで水に浸かった。
 同意するような言葉に反して、厚みのある胴体は大きな船のように易々と水を裂いていく。ソロがくつくつと笑いを漏らした。
「全然冷たそうじゃねえな」
「ひんやりしていい気持ちだよ」
 肩回りの髪を紐で一括りにまとめてから、ソロはアベルの後を追って水深のある所まで進む。
「本当だ。冷てぇけど、いいな」
 肩まで沈んだソロが振り返る。
 レックは恐る恐る腰まで浸かって、一息吐いたところだった。
「大丈夫か?」
「俺のことは気にしないで、浸かってくれ」
「冷たいの、苦手なんだね」
「旅の途中で水浴びしなかったのかよ」
「したけど、いつもこの瞬間だけは苦手だったんだよ。慣れれば平気なんだけど」
 ヘルハーブ温泉の方がまだハードルが低いなどとこぼしながら、レックはやっとソロ達の近くへ来て沈み込む。
 座り込むと、水が微かに動いていることに気づいた。どうも、街中から流れて込んでいるらしい。仄かに青く見えるのも、壁に灯された青い蝋燭のせいだけでなく、外から光が差し込んでいるためであるようだ。
「澄んでるね」
「水の流れから考えるに、ここが上流に近いからかもな」
 アベルの一言に応えたソロが、老人達のいる景色を見やる。
「この世界も、面白ぇわ。人が集まる場所なんて大方変わらねえんじゃねえかと思ってたけど、結構違って楽しめた」
「だろ?」
 レックは破顔する。
 彼らはこれまでの観光旅行を振り返る。
 条件こそあったが、それ以外には特に縛りのない緩い旅行だった。
 行き先は、この世界の住人であるナインとノインが作ってくれた手製のパンフレットの情報を参考に選んだ。旅行への参加は自由で、メンバーもバラバラならば、現地に着いてからの行動もバラバラだった。小さなグループに分かれて異邦の地を歩くこともあれば、全員が一つにかたまって動くこともあった。
「レックは毎回参加してるよね。どの土地が面白かった?」
 アベルがレックに訊ねてきた。
「もちろん、全部面白かったぜ!」
 カルバドの広漠とした草原には、胸がすくような思いがした。
 エラフィタの桜は美しく、その後に訪れたビタリ山の頂に彫られた石造りの街並みには驚かされた。
 ナザム村やツォの浜の素朴さに癒され、グビアナの華麗な宮殿に圧倒された。
「インパクトがあったのは、ドミールの火山かな。でけぇし、熱気が凄ぇのなんのって!」
「宴会も楽しかったよね」
「な! 酒も飯もうまくて、最高だった」
 ドミールの時には、全員が参加していたからか、ナインとノインの厚意で現地の宿に泊まることになったのだ。
 宿であてがわれた部屋にて宴会を開き、異邦の味に舌鼓を打ちながら談笑したのはいい思い出だ。
「ドミールの火酒で飲み比べ勝負、本当に楽しかったなあ!」
「一番最初に潰れてたのに、覚えてんのかよ」
「覚えてるって。俺、酒で記憶が飛んだことないんだ」
 ソロの茶化しに応えるべく、レックは記憶をさかのぼる。
「俺、ソロ、ソフィアの三人と、アレフ、アレン、ノインの三人でチーム組んで、どっちがたくさん酒を飲み干せるか競った。俺は最初に飛ばしすぎて起き上がれなくなっちまったけど、ちゃんとお前らのことは見てたぞ」
 自分の次にアレフが平静を失った。周囲の相手を捕まえ、しばらく見境なく呂律の回らないピオリムトークをかましていたが、途中で偶然合い向かいに座ったサンドラが相槌を打った途端、この上なく幸せそうに微笑んで寝た。
 ソフィアはやたら吼えていた記憶がある。一杯飲み干しては獣のような咆哮を上げ、飲まなくとも唐突に猿叫を上げる。宴会の最後までそんな調子だった。
 対照的なのはノインで、終始ニコニコとして静かに飲んでいたのだが、突如椅子を引き抜かれた人間のように仰向けに倒れた。気絶したのかと顔色を青くして駆け寄るエイトに、いち早く彼女のもとへ駆けつけていたナインが寝ているだけですと告げた。言葉通り、彼女は安らかな寝息を立てて眠っていた。アベルが敷き布団を用意し、ナインが寝かせた。
 皆がそれぞれの展開で勝負を忘れていく中、最後まで張り合っていたのがアレンとソロだった。ただ、一杯を飲み干す合間に長い舌戦を挟むので、勝負より先に宴会がお開きになってしまった。
「しっかり覚えてるんじゃねえか。起きて、ソフィアかアレフを止めてくれりゃあ良かったのに。サンドラとエイトが苦労してただろ」
「いやあ。楽しそうな雰囲気が夢みたいに心地よくて、起きる気にならなかったんだよな」
「二人とも、あの状態を分かってたのに止めなかったんだ」
 アベルが言うと、レックとソロは揃って彼の方を向いた。
「アベルだって、強くは止めなかっただろ」
「ソフィアの叫びにも、アレフの喋りにも、うんうん相槌打ってたじゃねえか」
「僕も酔ってたってことかな」
 怖いなあ、と目を糸のように細めて笑う。
「全員、成人とは思えない酒の飲み方だったね」
「ちょっと羽目外しすぎたとは思ってる」
 ソロが珍しく反省の弁を述べた。レックも頷く。
「俺らのために離れを貸し切ってくれたナインとノインに、大感謝だな」
「一般のお客さんの迷惑にはならなかったみたいで良かったよ」
「まあ、あの環境だったから安心してはしゃぎすぎたってのもあるけど」
「節度ある大人が環境を言い訳にするんじゃねえよ」
「お前もな」
 三人はぼんやりと中空を眺めた。話しているうちに、あの晩の酔いが戻ってくるような気がした。
(本当に、あれだけくつろいだのは久しぶりだった)
 レックは、ゆるゆるとこれまでを思い返す。
 レイドック城へ王子として戻ってから、宴席であのような振る舞いをしたことはない。無礼講は何度かあったが、やんやと騒ぎ、飲めや歌えやの盛り上がりを見せる臣下らを、レックは上席から微笑んで見つめるだけだった。
 夢の世界にいた自分ならば、あちら側にいるのが自然だったはずだったのだ。共に兵士となったハッサンと共に、きっと面白おかしく過ごしただろう。
 そのような夢を見たからこそ──レックは、「自分の上に皆が重ねて見る夢の自分」を無視することができなかった。
 王国の次期統治者。大魔王を倒した勇者。
 暁の王子。
 国民は彼をそう呼び、期待に満ちた瞳でレックを見る。
 期待という名の、各々の思惑を孕んだ夢が自分に投影されている。
 レックはそれを意識せずにはいられなかった。
(暁の王子なんて、俺には相応しくない)
 何度、胸の中でその台詞を繰り返しただろう。
(俺だって、夢を誰かに託してしまいたかった。俺よりずっと力のある誰かに任せて、気ままに暮らせていたら良かった)
 だが、彼らの前でありのままの己を差し出せるほど、レックは無謀ではない。
 いかに生きようと、孤独なのだ。
 仕方のないことだと理解している。
 こうなるのを承知で、大魔王を討ったのだ。
 そう、分かっている。
「アベルはどこが印象深かったんだ?」
 ソロの声で、レックは我に返った。
 紫水晶の双眸が、アベルへと向かっていた。
「僕はベクセリアの景色が好きだったよ」
 とても紅葉が綺麗だった、とアベルは目を眇める。
「ああ、良かったよな」
 レックはすぐに意識を現在の会話へと戻した。
「歴史の在りそうな石の街並みと、木々の色が合ってた。落ち着く街だったよ」
「気候も過ごしやすそうで、いいよね」
 レックとアベルは残る一人へ視線を転じた。
 ソロはすぐ意図に気づき、返事をする。
「俺は、カラコタ橋。変な野郎ばっかりで、適当な感じがよかった」
「分かる!」
 レックは繰り返し首を上下に振った。
「面白かったよなー。神父の権利を買った奴とか、変わった装備屋とか、見所ばっかりだった」
「あの店の女主人と天使達が仲良しだったのも驚いたよ」
 アベルが言う。
「店の品ぞろえの癖が強かったよね。凶悪そうな武器があったり、メイド服や水着があったり。ああいう店に二人が通うとはね」
「あれだろ。博愛主義ってやつ?」
 ソロがいい加減な調子で言う。
「ドマゾであろうと色狂いであろうと、全てのものには存在価値があるのデス……みてぇな」
「まあ、そうかもな」
 レックは笑いながら、首を横に振る。
「ナインとノインは、世界への好奇心が第一優先なんだよ。純粋なんだ」
「変な奴ら」
「君だって変わってるじゃないか」
 アベルが茶化す。
「天使相手に『異世界で一人旅をしたい』なんて無理を通そうとする人、滅多にいないよ」
「げ。その話、蒸し返すのかよ」
 ソロが顰め面をする。レックは笑いかけた。
「何で嫌がるんだよ。誰もあの戦いを不満には思ってないんだから、いいじゃねえか」
「そりゃあ、お前らはそうだろうよ。アベルの提案は全員が納得できるものだったし、天使連中の用意した報酬は十分だったからな」
 ソロの分析には、自虐も羞恥もない。冷静に、周囲の様子を把握している。
 しかし、それが分かっているならば、何故先日の一件を話題に出すのが嫌なのだろう。
 レックが首を傾げていると、ソロは苦々しい顔で言った。
「まったく。お前らが全員お人好しで、嫌になるぜ」
「なんで?」
「無茶を言った俺を、こんなにも受け入れる。普通は、多少責めるなり文句を言うなりするのが、自然だろうが」
 溜息を吐く彼に、レックは言う。
「文句ならアレンが言ってるじゃん」
「アイツのは文句って言うか、趣味だろ」
「ソロこそ、お人好しだよね」
 アベルが口を挟んだ。
「結局、まだこの大魔王の地図攻略クエストを受け続けているんだから」
「そういうのじゃねえよ」
 ソロは鼻を鳴らした。
「まだバカンスが足りねえの。それに、これだけ頭数がいるなら、もう俺の出番なんてなさそうだろ?」
「そうかい」
 アベルは、まっすぐな目で彼を見つめていた。
「君が言うなら、そうなんだろうけど。いかに利己的に語ろうと、君の抱いた魔王達への違和感が正しかったのは事実だ。僕は君を、信頼に足る戦士だと思っているよ」
「そうそう」
 レックは身を乗り出した。
「ノインから聞いたぞ。アイツが危機を察してメンバー召集をかけようとした時に、お前が宿へ戻ってきたって」
 先日のクエストで、予想外の大魔王達の襲撃を受けて壊滅の危機に瀕したレック達のパーティーを救ったのは、ノイン率いるパーティーだった。ノインがソロとアベルを急遽捜し出してやって来たという話だったが、後で聞いたところによると、ソロの方はノインが探しに行こうとした矢先に自らやって来たのらしかった。
「しかも、俺達の戦う洞窟の場所までノイン達を案内したのもソロだったんだよな?」
 レックはソロに笑いかけた。
「改めて、ありがとうな。助かったよ」
 ソロは何も言わず、ただ鼻を鳴らした。
「それで。どうして、旅行に行きたいなんて無茶を言ったんだい」
 アベルがなおも訊ねる。
 ソロはいよいよ訝しげな顔になった。
「何でそんなに気にするんだよ」
「君なら、他にやりようがあったんじゃないかと思ったのさ」
 問われるまま、アベルは語る。
「実際、君は一時的でもパーティーを離脱し、行方をくらませていたんだ。世界を回ることは、その時にやろうと思えばできた。そうだろう?」
 それを何故、わざわざパーティーに戻ってから天使達に要求したのか。世界を保持する彼らの立場を思えば、簡単に頷かれないのは分かっていたはずだ。
「手間がかかるばかりで要領の悪いことをしたのには、きっと他に理由があるはず。そう考えた方が自然だと思うけれど」
 アベルは話しながら、じっとソロを見つめる。不思議な虹彩は、ひたと端整な顔へ据えられたまま動かない。双眸や口元こそ笑みの形に弧を描いているが、妙な迫力があった。
「君の本当にやりたいことは、実は違ったんじゃないのかい」
 ソロが、じとりと彼を見つめ返した。
「それを聞いてどうする」
「別にどうもしないさ」
 アベルは答えた。
「裸の付き合いをするような関係になった今なら、教えてもらえるかなと思って」
「何だそりゃあ」
 ソロは呆れたように笑った。
「一個だけ訂正させてもらうが、俺は完全に行方をくらましていたわけじゃねえ」
 ノインは知っていたのだ。
 そう、彼は打ち明けた。
「エスタークを討った日の夜、俺がアイツに言ったんだ。俺一人で、エスタークの監視を続けたいってな」
「何で?」
 レックは訊ねた。
「ソフィアから、進化の秘法の話を聞いただろ」
「ああ」
「そもそも進化の秘法を生み出したのは、エスタークの方でな。それだけじゃねえ。本物のピサロは今でこそ秘法が解けているが、エスタークは違う。アイツはまだ進化し続けている、不死身の怪物なんだ」
 意識がある限り、周囲を破壊し続ける。
 外傷を与えることによって活動を止めることはできるが、あくまで止めるだけだ。眠りによって受けたダメージを回復すれば、また目覚めて破壊の限りを尽くす。
 そういう生き物だから、パーティーの離脱とエスタークの監視を願い出た。
「動き出したら、ノインに知らせるつもりだった。もっとも、俺が想定していたよりも復活が早かった上に、地中を移動しやがったもんだから、うまく止められなくてお前らに手間をかけさせちまったけど」
「それ、何でアレン達に言わなかったんだ?」
 言っていたら、少なくともアレンのソロへの評価は大分違っただろうに。
 レックが言うと、ソロは笑った。
「けど、エスタークが本物かどうかも分からねえんだぜ? いくら不死の怪物とは言っても、こっちは二度倒してる。パチモンならなおさら、アイツらと交代で見張りをするまでもねえ。まだ他に、戦ったことのねえ魔王がたくさんいるんだ。万が一魔王達が洞窟から出てきた時に備えて、そっちの対処法を掴むのを優先した方がいいだろ」
 それに、と心底おかしそうに続ける。
「アイツの俺への評価なんて、知らねーよ。俺の価値も行動も、俺が決める。アイツはちょっとした不信感で戦えなくなるほど、ひ弱な人間でもねえしな」
 レックは内心首を捻った。自分なら、パーティーメンバー全員に正直に事情を話していくところだが。
(要は、ソロなりの信頼だったってことか?)
 まだ何か話してないことがあるのかもしれない。
 そう思って黙っていると、ソロの顔から笑みが消えた。
「結果的に、そうして正解だったわ。一つ、確信が生まれた」
 ソロはこの世界に来てから、シドーとエスタークを二度討った。加えて、レック達たちの戦線に駆けつけたことにより、偽者ではあるがデスピサロとも戦った。
 その経験から、気付いたことがある。
「二度目に倒した奴の方が、一度目に戦った奴より強くなっている」
 行動の間合いが短くなった。
 使用する特技が増えていた。
 まるで、こちらとの戦闘により成長したかのようだった。
「エスタークだけじゃねえ。シドーもそうだ。それだけじゃねえ。他の奴らから聞いた話じゃあ、どいつもこいつも一度倒せば蘇る上に、元の世界にいたヤツより知性を感じないそうじゃねえか」
 レックは頷いた。ムドーも同じだった。まともな会話などせず、己の力を振るうこと、こちらの命を奪うことに固執していたように感じた。
「進化の秘法を施された魔族に、よく似てる」
 ソロは呟いた。
「まるで、俺達との戦闘で奴らを育てているみてぇだ。この世界に進化の秘法なんてもんはねえらしいが、それでもどうにも嫌な感じがする」
「それで、天使達を疑ったのかい」
 アベルが問う。
「彼ら天使や、もしくは彼らのさらに上にいる何かが、魔王達を育てさせているんじゃないかと」
「俺は、誰であろうと疑わずにはいられねえんだ」
 ソロは皮肉気な、左右非対称な笑みを浮かべた。
「俺は誰にも期待できない。神サマも魔王も人間も魔物も──勿論、テメェ自身もな」
 邪悪な者を育てて、世界の転覆をはかっている者がいるのではないか。
 だから、天使達を手がかりに確かめたくなった。
「結局、俺の気になることは掴めなかった。でも、アイツらが仕掛け人じゃねえことは分かった。変な奴らだが、世界ってものに対して全くと言っていいほど私欲がねえからよ」
「確かにそうだね」
 アベルが己の顎に手を添え、考え込むような仕草をする。
「この世界の魔王達は、どうも様子がおかしい。躾けられた犬が小屋から出ないように、棲み処で大人しくしているばかりで。野心があってやって来たようには見えないな」
「でも、この前は三体同時に襲い掛かってきた」
 レックが口を挟む。
「ナイン達の話じゃあ、同じ進化の秘法を用いた者同士が惹かれ合ったんじゃないかって話だった。でも、それなら何でエスタークとソロ達が戦った時は来なかったんだろうな」
「どうも釈然としねえ」
 ソロが冷水に浸った手で己の片頬を叩く。
「創造神のグランゼニスとかいう爺さんは、かなり昔に分裂しちまって、宝の地図に収まったり何だりしちまってるらしい。じゃあセレシアっつー神様が怪しいのかと思ったが、俺のカワイイいちゃもんくらいじゃあ出て来なかった」
 そもそも、グランゼニスに連なるだけの、創生の力を持たない神が、他の世界から魔王を連れて来られるのだろうか?
 また、天使達の話によれば、彼女は世界の在り方に対して保守的な神だという。父神により滅ぼされそうだった人間を身を挺して守ったり、その後も地上の生物の意思を信じて世界を見守ったりするような神だ。それが大魔王を連れて来る動機が分からない。
「じゃあ他に、いったい誰が大魔王の地図を作ってバラまいたんだ?」
「そうだなあ」
 アベルが天を仰ぐ。
「ナイン達の知らないような神が実はいた、とか」
「別の世界から隠れて侵略しようとしている何かがいる、なんて可能性もあるぞ」
 実際、レックの戦った大魔王デスタムーアはそういう敵だった。出身こそレックと同じ世界だったようだが、自ら創り出した狭間の世界に身を隠し、配下の魔族を使ってあの手この手で世界征服を企んでいた。
「だが、これだけ世界を回ってみたのに、それらしい場所を見つけられなかった」
 ソロは、お手上げと言いたげに両手を広げた。
「これからどうしたもんだろうな」
「まずは、君の疑問をみんなに共有したらどうかな」
 アベルが提案する。
「君の疑問はもっともだと思うよ。僕達の目的は、この世界と僕らの世界の危機を救うこと。魔王退治は言うまでもなく大事だけれど、魔王達の正体を突き止めて復活を阻止することも、いつかは求められるだろうから」
「俺が言ったところで、アイツら、信じるかなあ」
 ソロは疑わしげに言った。
「この前の旅行話の延長だと思われそうなもんだが」
「大丈夫だろ」
「そう言うのはお前だけだよ」
 レックの後押しをソロは一言で流し、そうだ、とアベルを見た。
「アベルが提案してくれよ。アンタなら、アイツらも信用してるだろ」
「僕は構わないけど。いいのかい?」
「ああ。アベルが言い出して、俺がそれに乗って話せば、趣旨は伝わるだろ」
 ソロとアベルは、何をどう話すかについて語り合い始めた。レックは二人の話に耳を傾けながら、ソロの怜悧な横顔を見つめる。
(やっぱり、根はちゃんと勇者なんだよなあ)
 ソロは、アレンやアレフと違った方向に自分を強く持っている戦士だ。己自身と己を取り巻くもの全てを慎重に検討し、思案し、世界の形を正確に見極めようとする。疑り深さと自己愛の低さは一般的には欠点かもしれないが、彼の場合は間違いのない仕事をするための美点となっていた。
 己の信条に従い自由に戦うのは、きっと苦しいだろう。自由とは、自分の行動に伴う全てを一身で背負うことだ。彼のような勇者は、孤独といつも肩を並べて歩まなければならない。
 しかしレックは、そんな彼を少し羨ましいと思った。
「どうした?」
 何も言わず、見つめていたからだろうか。二人が怪訝そうにこちらを窺ってきた。
 レックは笑顔を返す。
「いや、何も──」
≪ソロさん、アベルさん、レックさーん!≫
 その時、脳内に女の声が届いた。
 魔法により、木霊しながら遠方より辿り着いた声。ルイーダの酒場の呼び出しだ。
 三人は飛び上がった。
「やべえ!」
「よりによって今かよッ」
「服! 服!」
≪お呼びよ~!≫
 水場を飛び出して下着を穿くのが限界だった。
 レック達三人は、どうにか脱衣籠に入れてあった装備品を抱えた。その格好のまま、呼び出しの強制力に誘われ、行水場の出口目指して走り出した。






 ルイーダの酒場に呼ばれた者が開ける扉は、いかに遠方の扉であろうと全て酒場へと通じる。だからレック達が開け放った行水場の扉も、例外なくセントシュタインの酒場に繋がった。
 三人が飛び込むと、ロビーにいた人々が怪訝そうにこちらを見た。しかし、飛び込んできた面子が全員ずぶ濡れの下着一丁だと認識した途端、すぐに目を逸らした。彼らをまっすぐ見つめ続けたのは、ルイーダのカウンター前にいるサンドラとソフィアだけだった。
「うわ。あなた達、何してたの」
 サンドラは駆け寄ってきた三人を前に、顔を顰めた。
 レックは苦笑いで答える。
「サンマロウの行水場に行ってたんだよ」
 一方、同じように彼らを迎えたソフィアはにこにことしていた。
「さっすが歴戦の戦士。よっ、気前がいいね!」
「おうおう。ありがたく享受しとけ」
 ソロは鼻を鳴らした。
 レック達は持ってきたタオルで身体を拭き、服を纏う。下着の湿った状態で服を着るのは気が進まないが、仕方ない。このまま宿の利用客や従業員に、ちらちらと物珍しげな視線を浴びせられ続けるよりはマシだろう。
 真っ先に着衣を終えたのは、アベルだった。そうして改めてサンドラ達を見、首を傾げた。
「君達、二人だけ? ナインとノインが僕らを呼んだんじゃないのかい?」
 酒場の呼び出しは、クエストの契約者同士で行われるものである。レック達の契約者は天使の二人のはずだから、ここには彼らもいるのが自然なはずだった。
「私も、そのつもりだったんだけどね」
 何故か、サンドラの口ぶりは苦い。
 すると、カウンターの向こうからルイーダが話しかけてきた。
「酒場主人の権限で、特別に代替者の呼び出しに応じることにしたの。だって彼女達、アレが終わるのを一時間くらい待ってたから」
 美しいマニキュアの施された指が、酒場より右手の階段の方を示す。見れば、階段の上の中二階で、こちらに背を向けた天使達がはしゃいだ声を上げていた。
「強固なメタルの加護!」
「オーロラのような煌めき!」
「メタルを超えたプラチナのボディ!」
「背中にオーラが宿ってる!」
 レック達は顔を見合わせた。
「ボディビルでもやってるのか?」
「似たようなものかもしれないわ。観客が勝手に盛り上がっているだけなのだけれどね」
 サンドラは片腕を上げ、天使達を指し示した。
「ダメもとで、声を掛けてきてくれないかしら。唯一外出していたあなた達が帰って来たと気付けば、いい加減話を進めてくれるかもしれないから」
「分かった」
 レックは階段を上っていく。天使達はまだはしゃいでいるようだ。その背中が近づいてくるにつれ、彼らの向こうにいる者の姿も見えてきた。
 そこにいたのは、小柄な少年だった。白いシャツと新緑の外衣をだぶつかせる体躯は、どう見ても逞しさからは程遠い。さらに頭巾を被った顔は童顔で、途方に暮れた表情がなおさら彼を子供めいて見せていた。
 狼狽えている少年へ、天使達は興奮した様子で次々言葉を飛ばしている。
「これぞスタープラチナ!」
「天使を超えた輝き!」
「全てのモンスターの系統を超越した極致!」
「その輝きに痺れる、憧れる!」
 何を言っているのか、さっぱり分からない。
 レックは声を掛けた。
「ナイン、ノイン。ただいま」
 天使達は同時に振り返った。全く同じ角度で口角を上げ、声を揃えて言う。
「お帰りなさい。ちょうどいいところにいらっしゃいました」
 二人は小走りにレックのもとへ駆け寄った。それぞれ彼の左右の腕を取り、少年の前へと導く。
「レックさん。お分かりになりますか」
「何が?」
「彼はあなた同様、モンスター職を経験した人間なのです」
 レックは眼前の少年へ目をやった。すると少年もまた、レックへ眼差しを返してきた。その顔からは先程まで浮かべていた戸惑いの色が消えており、代わりに旺盛な好奇心が溢れていた。
「君も、ダーマ神殿で転職を?」
 そう言う声は予想していたよりも低く、大人びていた。そこで改めて彼を見つめたレックは、彼が少年というより青年に近い、十分に立派な骨格の男だということに気付いた。骨ばった喉や掌の大きさ、しっかりした肩の形は成人のものであり、背丈も己より低いことには変わりないが、子供と呼ぶには高すぎる。少年に見えたのは、纏うシャツがかなり大柄なものであるのと、シャツの裾から覗く黒いズボンの細さのせいだったようだ。
「ああ」
 レックが頷くと、青年は微笑んだ。口元に笑窪が浮かび、またあどけなさが増す。
「すごい。世界には、まだまだ僕の知らないことがたくさんあるんだな」
 青年はレックに手を差し出した。
「僕はアルス。Ⅶ番の世界から来ました」







▶︎



 新たに発見された地図に記された魔王の名は、オルゴ・デミーラといった。
 彼は万物の王たることを目指し、Ⅶ番の世界の各地へ己の息のかかった者を置き、闇の世界へと取り込んでいった。やがて、その企みに気付いた神と数百年にわたる戦いを繰り広げ、辛くもせり勝つと、圧倒的な力と謀略により、世界を己が闇の中へ収めきってしまった。
 その魔の手から逃れられたのは、小さな無人島一つのみ。
 人の心に付け入る悪魔に侵略されないその島を、乱世より生き延びた漂流民は楽園と呼んだ。その民の末裔の腹に生を受けたのが、アルスだった。
 アルスは仲間達と共に、島に遺された遺跡を介して過去へと旅立った。そして、魔王に封印される前の時代に何度も干渉し、世界をもとの光の中へ誘い出した。
「この世界に、オルゴ・デミーラの配下は生まれていないかな」
 アルスは、作戦会議のために集まったパーティーの面々の視線を一身に浴びて、緊張しているようだった。それでも己の知る魔王のことを簡潔に語った後、ナインとノインへそう問いかけた。
 天使達は顔を見合わせる。
「つい先日、ここにいる皆さんと世界を巡る旅行をしてきたところです」
「しかし、異常は特に見当たりませんでした」
「そう。そのまま何事もなければいいんだけど」
 アルスは目を伏せた。
「アイツの恐ろしいところは、ヒトの心を闇の形で露出させるのが得意なところだと、僕は思うんです。そして一度形になった闇は、解消できない。大きな争いに発展する前に異常を見つけられれば、被害を小さくできる」
 アルスは時折口ごもりながら、ゆっくりと話す。そうした姿は第一印象通り、内気な少年のようだった。
 彼は本当に、魔王を討ったパーティーの一員なのだろうか。
 最初、レックは疑問に思わずにいられなかった。しかし彼が話すことを聞くにつれ、魔王を討つ旅をしてきたのは事実だろうと考えるようになった。何故なら彼の語ることは、確かに魔王の創った闇を見てきた者のそれだったからだ。
「分かりました」
 ナインがメンバーを見渡して言った。
「今回は、二手に分かれて動いた方が良さそうです。いつものように魔王と戦う四人パーティーと、世界の異変を探りに行く人々。それから万が一に備えて、セントシュタインの宿屋で待機する人もいた方がいいでしょう」
「私とナインは、分かれた方が良いですね」
 ノインが片割れへ目をやった。
「世界と魔王と、両方を確認しておく必要がありますから」
「ええ」
 ナインは頷いた。
「では、まずはオルゴ・デミーラと戦う面々を決めましょう。アルスさん、オルゴ・デミーラの戦闘能力について話していただけますか」
 アルスは小さく頷いた。
「僕はオルゴ・デミーラと二回戦った」
 初回は過去の世界に大魔王として君臨する彼との、もう一回は現代に偽の神として蘇った彼との戦いだった。
 オルゴ・デミーラは細身の人間男性に似た形態と、巨大な蛇と蠍の合いの子のような竜の形態を持つ。さらに、ダメージの蓄積に従って形態が細かく変化し、戦法も変わってくる。
 そう語り、アルスはいくつか攻撃の例を挙げる。四大属性の強力な呪文や特技。鋭利な爪でこちらを鷲掴みにし、叩きつける攻撃。状態異常をもたらす技や、いてつく波動など。
「待ち時間に、貸してもらった記録を読んだよ。これまでに戦った魔王は偽者ばかりだったけれど、本物と似た技を使うそうだね」
 アルスは傍に積んであったモンスター図鑑を手にした。
「形態変化はしないとしても、どの技を使ってくるかは分からない。特に使われたくないのは、状態異常をもたらす技だ。オルゴ・デミーラは、催眠、錯乱、猛毒をかけることができる」
「ふむ」
 ナインが手を顎に当て、考え込むような仕草をする。
「毒ならばまだダメージが少ないからいいですが、眠らされたり混乱させられたりしたら手間です。パーティーメンバーには耐性装備を持って行ってもらいたいところですね」
「もしもの時は僕が回復できるから、可能な限りで十分だよ」
 アルスは言いながら、手元の冒険者名簿をめくる。
 アベルが声を上げた。
「ねえ。回復手段があるのはいいけど、君がいつも回復できるとは限らないんじゃないかな」
「そうね」
 サンドラも同意する。
「あなた自身が眠ってしまったり、混乱状態になってしまったりする可能性もある。過信は禁物よ」
「うん。そうですね」
 アルスは二人へ、控えめな笑みを浮かべた。
「でも、大丈夫。僕は、状態異常に完全耐性を持つ職に転職できるから」
「完全耐性だと? そんなことができるのか」
 眉を跳ね上げるアレフに、アルスは頷いた。
「僕の世界は、職業が独特らしくて。ちょっと待ってくださいね」
 アルスは言いながら、腰に下げた鞄の中から一冊の本を取り出した。背表紙を見るに、どうも彼の世界のモンスター図鑑らしい。
 分厚いそれをパラパラとめくり、アルスはある一ページを開いて彼らの方へ見せた。そこには、鋼の身体を持つスライムがいた。
「ナイン達から聞いたよ。メタルスライムは、どの世界にもいるらしいね。この魔物は、打撃以外の全てに耐性を持つ。属性攻撃は受け付けないし、状態異常にもならない。皆さんの所も、そうですか?」
 円になったメンバー全員が頷いた。アルスの瞳が、きらりと光った気がした。
「僕はこの、メタルスライム属の魔物の力を借りて戦うことができるんだ。僕達の世界では、こういう魔物の心得で戦う職業を、モンスター職って呼んでる」
 アルスはさらにページをめくり、現れた魔物を知っているかと周りに問いかけた。
 はぐれメタル。これは、アレフ以外知っていた。
 メタルキング。こちらも、ほとんどが知っていると答えた。見たことがないと言うのは、ロトの勇者達だけだった。
 そういう話を、アルスはにこにことして聞いた。嬉しげなその様子を見て、どうも彼は研究者タイプの戦士らしいとレックは察した。先程まで見えた内気さが、この話が始まってから少し引っ込んだ気がする。
「僕の世界には、メタルキングよりちょっと大きいプラチナキングっていうヤツがいる」
 アルスはまたページをめくった。そこには、白金の平たいパイ包みのような身体を持つ、メタルスライムの亜種の姿があった。
「僕は、このプラチナキング職を極めたんだ。だからこの職になって戦闘に行けば、状態異常の技を喰らっても大丈夫なんだよ」
「便利だな」
 アレンは食い入るようにプラチナキングを見ていた。その顔は、「一度なってみたい」と雄弁に語っていた。
 そんな彼を、ソロが茶化しにかかる。
「アレン殿下はもう身も心もブルーメタルマンなんだから、いらねーだろ」
「うるせえ。俺は本気だ」
「なんで」
「これになれたら、どんな状況でもお前をタコ殴りにできる」
「やべぇやべぇ。勇者サマ、コイツでーす」
 ソロはふざけてアレンから距離を取り、レックの背後に回る。レックの隣にいたエイトが笑う。
「君達、どっちも勇者だよね?」
 レックは一連のやりとりに応えるように微笑んだ後、片手を挙げた。こちらを向いたアルスを見据え、口を開く。
「完全耐性はいいけど、体力は保つのか? メタル職は強力だけど、体力がネックだ。それに火力も不安がある」
「問題ないよ。実際にこの職で、オルゴ・デミーラよりやばいのと戦ったことがあるから」
 アルスはそう言った後、笑みを深めた。
「それより、その話しぶり。やっぱり君も、メタル職についたことがあるんだね?」
「いや──」
 しまった。
 レックはどう返したものか迷う。しかし、すぐさまこちらを向いた天使達の顔を見て、抵抗を諦めた。追求心の化身の如き彼らから、逃げ切れるわけがない。
「ああ、そうだよ」
「何故教えてくださらなかったのです?」
 ナインの問いに、肩をすくめて答える。
「うまく使いこなせるか、自信がなかったからな」
 レックの世界に存在するメタル職──はぐれメタル職では、他職の追随を許さない素早さと守備力を得ることができる。覚える技も強力だ。ビックバンやジゴスパーク、マダンテなど、強力なものが揃っている。
 しかし、体力と火力には不安があった。レックはアタッカーとして戦闘に挑むことが多いため、そのどちらも重要である。だから極めこそしたものの、あまり実用はしていなかった。
 レックがそのように話すと、天使達は頷き合った。
「レックさんが行けるならば」
「決まりですね」
 天使達は揃って、メンバーのうちの一人に顔を向けた。
 顔を向けられた者は、全員の視線が集まる中心で顰め面をしていた。
「ソロさん」
 ノインは、満面の笑みで乞うた。
「今回は、私がアルスさん達と一緒に行きます。ついて来てください」
「俺かよ」
 ソロは秀でた美貌を露骨に歪める。
「ベホマズン持ちは、俺以外にもいるだろうが」
「ノインと組んで一番長いのは、あなたですから」
 ナインが頭を下げる。
「僕は行けません。ノインをお願いします」
 ソロは溜め息を吐き、しょうがねえなと頭を掻いた。
「ありがとう」
 アルスは礼を言い、それから全員を見回した。
「各地に異変を探しに行く人は、僕の冒険の書を読んでいってください。オルゴ・デミーラの手口を知る参考になると思うから」
「はいはーい」
 ソフィアが手を挙げた。
「ここで話すんじゃ駄目なの? あたし、本だと読み切れる自信がないな」
「なら、僕が話そうか? 時間がかかっちゃうけど、それでも良いならば」
 アルスが答えると、ソフィアは頷いた。
「大丈夫! だって、挑むのは明日でしょ? 時間には余裕あるじゃん」
「どうする?」
 アルスは天使達を見やった。
 まず、ノインが答える。
「では希望者のみ、この後アルスさんの話を聞くという形はどうでしょう?」
 次いで、ナインが答える。
「その前に、世界の巡回をするメンバーと宿屋で待機するメンバーを決めてしまいましょうか」
 天使達の提案に、全員が同意した。話し合いの結果、アレン、アベル、エイトの三人が宿に残り、それ以外の面子が世界の異常を探しに行くことになった。
 その後小休憩を挟み、アルスの旅路を聞く会が始まった。レックはオルゴ・デミーラ討伐パーティーに参加するのだから、アルスの話を聞く必要はない。だが、異なる世界を生きる者の話は本人の語りで聞いた方がいいに決まっていると考え、参加することにしたのだった。
 見れば、その場には宿の仕事を手伝いに行くという天使二人以外の全員が残っていた。細かい動機に個人差はあるだろうが、どうも、異界に興味を持つのは誰しも同じらしかった。
「じゃあ、かいつまんで話します」
 アルスは、自身の書の表紙をなぞりながら微笑んだ。
「先に言っておくけれど、嫌になったら途中で退席してくれて大丈夫だよ。とても長い話になるし、何より、その──わくわくする冒険ではないから」






 アルスの言う通り、彼の旅は二つの意味で長かった。
 彼は特定の条件下で時を遡ることのできる、タイムトラベラーだった。出身地にある遺跡を媒介として、遥か昔、魔王に封印される頃の異郷へ飛ぶことができるのだ。そうして各時代、各地で魔王の配下と戦い、世界を封印の歴史から解き放った。彼の旅は、壮大な時を駆ける路だった。
 その気が遠くなるほどの年月に起こった、魔王に脅かされる異郷の事件の数々は、これまた気が遠くなるほどに陰惨だった。アルスは最初に言った通り、魔王の企みに巻き込まれた各地のエピソードを要領よく語ってくれた。それでも、そのあらすじを聞くだけで重苦しい気分になった。
 魔王に兄を殺され、自身もその命を時代の封印を司る鍵と変えられた、元人間の魔物。
 呪いの雨で住人の全てが石化し、そのまま滅びた町。
 生まれた赤子が、全て魔物に変わってしまう国。
 話を聞き終えた頃、場の空気はすっかり沈んでいた。だが、このような事件を再び起こしてはならないと、世界巡回パーティーのメンバーは気持ちを奮い立たせて作戦会議をしに行った。
 レックは共にオルゴ・デミーラ討伐に向かうソロと共に、アルスを部屋へ案内することにした。あらかじめ天使達から彼の部屋の位置は教えられていたので、案内は容易かった。
「アルスは、遺跡から過去に飛ぶまで、魔物もいないような平和なところに暮らしてたんだろ?」
 エレベーターの中で、レックはアルスに話しかけた。
「なのに、よくあんな旅を続けられたな。すげえよ」
「ありがとう」
 アルスは控えめな笑みを浮かべた。
「でも、何も考えていなかっただけなんだ。だって僕は、本当に何も知らなかったから」
「あれだけ人間との愛憎といざこざにまみれた状況なら、何も考えねえ方が正解だろ」
 ソロが言うと、アルスは首を傾げた。
「そうかな」
「おう。考えすぎると毒だぜ」
 ソロは片手を軽く振った。
「何も考えないでいれば、本能の方が勝手に都合のいいものだけ受け取ってくれるからよ。考えねえくらいの方が、精神衛生上良いんだわ」
(自分はできないのに、よく言うよ)
 レックは胸中で呟いた。ここ数週間行動を共にして、彼を思考停止という言葉からは程遠い男だと感じていた。
「そうだね」
 アルスは同意した。
「ギリギリ生きてるっていう状態の人間は、概ねそうなる。でも僕は、極限状態にはついぞならなかったよ」
 レックとソロは、新入りを見下ろした。変わらぬ小さな笑みを浮かべている。
「僕は、あまり考えるのが得意じゃないんだ。そういうものかって、受け止める。できたのは、それだけだった」
 目にするものを受け入れ、耐えた。そのうち、どんなものに出会っても、思うことより先に対処法の検討を始めるようになった。
 アルスは訥々と、そのようなことを言った。
「大変だとか悲しいとか、そういうことも思うよ。でも、今これはどういう状態なのか、じゃあどうするか、みたいなことの方が、どうしても気にかかってしまって」
 お前はよく平気そうな顔をしていられるな。
 まったく、ぼんやりしてるんだから。
 旅の最初の頃は、一緒にパーティーを組んでいた感受性の豊かな友人達に、よくそう言われたものだった。
「僕はきっと、薄情なんだろう。世界を知りたくて、遺跡を見つけた。その延長で、旅をした。でも何も知らないから、現地の人達のことを完全に分かち合ってあげられなかった」
 エレベーターの鈴が鳴った。
 アルスは部屋に下りた。彼は充実した部屋に感嘆の声を上げ、案内した二人に礼を言った。
「明日、よろしくね」
 手を振るアルスの前で、エレベーターの扉が閉まる。
 魔法の箱は、再び上昇を始めた。
「考えてるし、十分優しいじゃねえか」
 レックは呟いた。ソロが頷く。
「ちぃとぼんやりしてる印象はあるが、精神的に安定していそうな奴だな」
「ああ」
「助かるぜ。明日の戦いは、一発でキメなきゃならねえからよ」
 初めての敵と戦うパーティーにおいて、安定感のある戦士は重宝する。それはどの世界でも変わらない。
 エレベーターが、ソロの部屋の階に着いた。
 レックは彼が降りるのを待つ。しかし、ソロはエレベーターの外へ踏み出さず、こちらへ顔を向けた。
「話しておきたいことがある。ちょっと、時間いいか」
「大丈夫だけど、何の話?」
「明日の戦闘のことだ」
 レックは了承し、共にエレベーターを降りた。
 ソロの後をついて、彼に割り当てられた客室へ入る。レックの寝泊まりする一室と全く同じ構造、全く同じ家具の配置。だが、ソロの私物らしきものが全く見当たらない。部屋は宿泊者がいるとは思えないまっさらな様相だった。
「荷物は?」
「置いてねえ。全部道具袋の中だ」
「服とか使わない装備品とか、置いていけばいいのに。かさばるだろ」
「いつどこに行くことになるか分からねえ。全部道具袋に収めておいた方が効率良くねえか」
 レックはふぅんと相槌を打つ。
「ソロって生きづらそうだよな」
「ほっとけ」
 二人はテーブルを挟んで対面に座る。
 話を始めたのは、言うまでもなくソロの方からだった。
「レック。お前はここに来てからほとんどの戦いに参加してるそうだな」
「おう」
「つまり、ほぼ全員と肩を並べたことがあるわけだ。でも、ノインと一緒に戦ったことはない。そうだな?」
「ああ」
 例のデスピサロ・エスターク・ミルドラース戦で少し一緒に戦ったくらいである。
 レックが答えると、ソロはそうだったなと応じる。
「お前とアルスの言うメタル職ってヤツは、堅さと素早さが取り柄で火力はそこそこなんだろ。そうなるとお前らの他にも──いや、お前らよりぶっとい一撃を喰らわせられるアタッカーが要る。俺とノインのどっちが火力を出せるかっつったら、普通に考えてノインだ。アイツは、ダーマ神とかいう神さんの恩恵のおかげで色々な技を使えるからよ」
 この世界へやって来て、ノインとよく行動を共にしていた彼が言うのだからきっとそうなのだろう。
 ソロは腕を組み、背中を椅子へ預ける。
「要点から言う。アイツと組んで戦う時は、何が起きてもアイツを止めるな」
 レックは首を傾げた。
「言われなくても邪魔なんてしねえよ。仲間なんだから」
「攻撃の邪魔をするなと言ってるわけじゃねえ。アイツがどういう戦い方をしても止めるな、ってことだ」
 言いながら、ソロは顔周りへ落ちる髪へ無造作に指を絡める。鋭い眼差しは珍しくレックより逸れ、迷いに似た色を浮かべている。
「アイツは変わった体質を持ってる。そのせいか、独特な戦い方が身に沁みついちまったらしい」
「どんな」
「俺もちゃんと把握できてるわけじゃねえんだが──」
 音痴なんだよ、と彼は言った。
「音感の話じゃねえぞ。感覚全般がバグってるらしくてよぉ、初めて俺の家に来た時はひどかったぜ」
 ソロはノインとの出会いを語った。
 ある日、ソロが外で畑を耕していた時のこと。昼の青空に珍しい流星が見えた。と思いきや、それがみるみるうちに大きくなり、彼の家の屋根を突き破って落ちた。
 農具を手にしたまま、見に行った。そして、天井に空いた大穴の下、床の上にピンクボブの少女の頭が転がっているのを見つけた。
「天空城で処刑された天空人の生首かと思ったわ。でもよく見たら、首がある。床の下に、肩みたいなものも見える。それで、ちゃんと全身がある人間だって分かった」
 少女はすみませんすみませんとしきりに謝りながら、自力で床下から這い出てきた。床と天井の穴を直し、もう一度丁重に詫びた後、やっと己の名と用件を言った。そこでソロは、初めてそのノインという名の少女が異界からの旅人だということを知った。
「俺の昔の仲間は、世界の境を跨いで旅をしている奴が多くてな。だから、アイツの持ってきたクエストの内容を理解するのは、そんなに難しいことじゃなかった。それより、アイツ自身の方が突拍子もなくて理解不能の連続だった」
 ところで、とソロはレックへ目線をやる。
「お前は、ナインと一緒に前線で戦ってきたんだよな?」
「ああ」
「アイツの身体能力に驚いたことはなかったか」
「おお。あったぜ」
 レックはこの世界で初めての戦闘について語って聞かせる。ムドーの紛い物とのやり合いの最中、ナインが幻術をかけられてしまったことがあった。まともに視覚の働かない状態で、彼は手にした弓を用いて魔王の身体に埋め込まれた宝玉を一撃で射抜いてみせた。
「後で聞いてみたら、ムドーの霊体の位置や音の反響、魔族の血の匂いから判断してあてたんだって。感覚が俺ら人間よりずっと優れてるみたいで、びっくりしたなあ」
「なるほど。だから前に勝負した時、視界が悪い中でも俺のギガソードを跳ね返せたってわけか」
 ソロは顎に手を当てた。
「ノインにも人間離れしたところがある。その正体が何なのか、ずっと俺には分からなかった」
 だが、今の話を聞いて少し理屈が分かったかもしれねえ。
 彼はそう独り言ちてから、言った。
「アイツは多分、感覚が鈍い。だから痛みを感じねえんだ」
「痛みを感じない? そんなことがあるのか」
「アイツが不意に物を壊しちまったり、ありえねえ勢いで身体をどこかにぶつけたりするのを見たことはないか」
 問われて気付いた。言われてみれば、初めてノインと出会った時がまさにそうだった。彼女は宿の最上階から地上へ飛び降り、足先を石畳へめり込ませていた。
 ソロが頷く。
「そうだ。たとえば俺達なら、そういうことをする時は魔力を使うなり何なりして摩擦や抵抗を緩和する。そうしないと、身体が損壊して動けなくなるからな。だがアイツは違う。アイツはある程度までなら身体が損壊しても動けるから、痛みに気を遣う必要がないんだろう」
「どういうことだ」
「そのままの意味だ。説明した所で分かりづれえから、今は覚悟だけしておいてくれ」
 ソロは席を立つ。なおも訝しげなレックの眼差しに気付き、かぶりを振る。
「ノインと戦い続けてきた面子の中で俺にお呼びがかかった理由は、俺が回復手段を持っているからというだけじゃねえんだろう。痛みを知覚できねえ奴に痛みを教えるのは、不可能に近い。余計な心配はしねえことだ」







▶︎▶▶



 レックを含めた対オルゴ・デミーラ攻略パーティーの四人は、結成翌日の早朝に宿を発った。箱舟を利用し、西ナザム地方内陸の孤島へと降り立つ。景色は総じて黄ばんでおり、吹きさらしの平地に丈のない草がひょろひょろと伸びている。洗いざらした麻袋に似た景色は、増水した川に飲まれるのを繰り返す河中の土地特有の様相だった。
 島を囲む川の向こうへ目をやれば、青々とした平野や山脈が窺える。確か、ここから南東の方へ向かえば小さな村があったはずだ。レックが通行人の存在を探る間に、先頭のノインが隠された洞窟への道を見つけ出す。オルゴ・デミーラの地図に記された、かの魔王の潜む場所へ通じる入り口だった。
「皆さん、準備はよろしいですか」
 ノインが一同に問う。
「装備は万全ですか? 忘れ物は? ソロさん、スーパーリングとリッカのバンダナは身に付けましたか?」
「ほらよ」
 ソロが軽く右手を掲げる。中指に嵌った、複数の円環のクロスした指輪が鈍く光る。
「俺は『いのちだいじに』、だろ? いい加減慣れたけど油断できるほどじゃねえから心配すんな」
 いつものように、おおまかな戦闘の方針は決まっていた。オルゴ・デミーラはこれまでに戦ってきた大魔王達の例に漏れず火力が高く、さらに状態異常まで付与してくる。そのため、メタル職についたレックとアルスが壁役をしながら攻撃。ノインは後方で安定して呪文攻撃に専念。同じくソロも、後方から回復に専念することになっていた。
「ソロの使える蘇生呪文はザオラルだけなんだよな?」
 レックが改めて訊ねると、ソロはおうと頷いた。
「ザオラルとベホマズンだけで、俺らと合流するまでパーティーの回復役こなしてたんだろ? すげえな」
「俺は凄かねーよ。同じパーティーの奴らが死にづれえバケモン揃いだったからいけたんだ」
「おいおい。目の前にそのパーティーの一員がいるんだから、言葉選べって」
「吟味済みだ。ほら」
 レックはソロに示された方を窺う。パーティーの一員こと当のノインは、にこにこと嬉しそうな顔をしていた。
「ありがとうございます! 耐久力には自信があります」
「な?」
「あー、うん」
 まあ、本人がいいならいいのか。レックはつられて笑みを浮かべる。
(俺、ノインのこと全然分かってないんだな)
 まじまじと彼女を見る。肩で切り揃えた桃色の髪。線が細く、風が吹かれて心許なく舞う様は生糸のよう。大ぶりな碧眼、花の蕾に似た唇、レックの上腕ほどあるかないかという薄い肩──やはり、総じて人形の如き美少女だ。細い眉のきりりとした形や面差しには、ナイン同様理知的な趣がある。両手杖を持つ今日は、よりその雰囲気が際立って感ぜられた。
 ソロとも話した通り、レックは彼女とまともに組んだことがない。分かっているのは冒険者の名簿に載っていた情報、共に組んで戦ってきたナインと似た言動や物の考え方をすること、彼よりもなお素直で、やや抜けているらしいところがあること。その程度だ。唯一肩を並べたことのあるエスタークらとの戦闘時は、自分自身が魔王三体を引きつけて動く役回りで忙しく、ノインが補助に関わっていたことしか思い出せない。
(こればっかりは、実際にやってみないと分からないから)
 戦場というものは天気や生き物に似ている。敵の情報や事前に立てた計画、教本的な戦術の理解が物を言うこともなくはないが、戦の状況は様々な要因──敵味方の内実や環境の変化、その戦いに到るまでの経緯とその後の展望、他諸々──が関わってくるために刻々と変化する。味方のことも含め、未知は当然あるものと覚悟し、最低限の方針だけを胸に適宜判断して動いた方がいい。
 レックは愛剣の柄に手を添え、洞窟の入口へ踏み入る。その後にアルス、ノイン、ソロが続く。下りの洞窟は長くなく、視界はさほど時間の経たぬ間にひらけた。
 もう見慣れてきたドーム型の空洞に、また奇怪な異形がいた。棘だらけの緑の肌。剥き出しの脳味噌。人間の男に似た上体に竜の羽根を生やし、下半身では蠍の尾がとぐろを巻いている。禁忌によって自然に逆らった生物の成れの果て。魔王オルゴ・デミーラの複雑怪奇な容姿は、一言で表すならそのようなものだった。
「我は魔族の王にして絶対無比の存在なりき」
 笑み崩した口より紫の舌を覗かせ、怪物は言った。
「万物の長たるは我以外にはなし。我を崇める他そなたらに生きる道はないのだ。さあ来るがよい。そなたらの骸に、我が名を永遠に刻み込んでやろう」
「レック、行くよ」
 アルスが呟く。彼の左手には、いつ抜かれたのか細身の剣が握られていた。
 二人は前へ出、魔王の放つ吹雪を受けた。咄嗟にノインが炎のフォースを張ってくれたため、予想していたほどの痛みはない。
「朝露を掬え、日を仰げ」
 後方より届くソロの詠唱。氷に蝕まれた皮膚へ漲る熱い血潮。レックは吹雪の礫より速く疾駆し、魔王に迫る。
 剣を突き込む。案の定片手が迎え撃ちに来る。己の上体ほどの掌が届く前に指先を斬りつけ、爪へ引っ掛けた剣先を軸として宙へ舞い上がる。五月雨よろしく斬撃を放てば、大きな掌がレック本体を狙おうとしきりに宙を掻く。これでひとまず標的を引き付けることができた。
 己の後を的確に捉える手、抜け目ない目。両方から逃れるようあちらこちらへ飛んだり跳ねたりしつつ、その速さを測る。
(まあまあだな。俺達全員の一回の行動につき二回攻撃ってところか)
 不意に、甲高い残響が長く鳴った。振り向くと、オルゴ・デミーラの巨大な蠍の尾がアルスの剣によって弾き飛ばされたところだった。先端の針は明後日の方へ飛んでいるのを確認したレックは、尾の付け根の描く曲線上に自分がいることに気付く。
(もしかして、あの尻尾で俺を背後から刺そうとした?)
 ぞっとする。だとしたら予想していたより速い。メタル職は即死耐性を持たないから、まともに喰らえば危うかった可能性がある。
「後ろは任せて」
 アルスが尾の動きを警戒したまま声を飛ばす。レックは目玉だけ素早く動かし、ノインを窺う。まだ山彦の悟りを発動したところだ。魔力覚醒の儀を終えるまで時間を稼ぐ必要がある。
 詠唱し、天雷の力を放つ。オルゴ・デミーラが忌々しそうに仰け反る。五月雨斬りよりは効いているが、期待したほどではない。先程のファイアフォースを宿らせた斬撃の方が良い手応えだった。
 棘だらけの体が膨れ上がる。ぱかりと開いた口から、奈落の亡者らがむせび泣くのに似た叫喚が発された。不快な音波を浴びた皮膚が、薄い刃物に触れるが如く幾筋か裂ける。おぞましい叫びを迸らせるのに集中する胴体を、アルスが一太刀抉り取る。地へ落ちた肉塊を一瞥し、彼は言い放った。
「呪文攻撃有効、雷耐性は並み、炎属性が弱点。分断した肉が無反応なのを見るに、多分偽物」
 前日の控えめな様子とさして変わらないトーン。しかし淡々と、全員に聞こえる声で断言する。
「単体攻撃でいいよ。ノイン、いける?」
「行けます」
 ノインが両手杖を掲げた。先端に嵌まる黄金の宝玉の中で火花が散る。小さな閃光はみるみる赤い渦を巻き、宝玉を満たす。
「浄燈、祝福せよ」
 少女が高らかに詠い、杖を振り下ろす。
 オルゴ・デミーラの頭上に、ぽっと小さな火が灯る。それが杖の動きと共に落ち、太い火柱を巻き上げた。劫火が魔王の全身を包む、それが消えるのを待たずして次々火球が投げ込まれる。辺りに肉と魔瘴の焦げる独特の匂いが満ち、猛る火勢が天井まで舐める。味方として焼き討ち対象に含まれないはずのレックさえ、額に汗が滲むのを感じていた。まさに、とんでもない火力だった。
「さすが。世界の境界を超えるなんていう理の超越を許されてるだけあるね」
 レックがノインとオルゴ・デミーラの延長上に移動すると、同じように考えたのだろうアルスが寄ってきて言った。
「あれ、僕達なら簡単に超えることを許されない呪文の干渉制限ダメージキャップをとっくに超えてるよ」
「だな」
 魔法は神秘に包まれており、実情分かっていると断言できることは少ない。しかしレック達のような冒険者は呪文を介してその末端に触れることができる。
 呪文とは、神霊より与えられし誓約の真言だ。その威力は神霊の恩恵に依存するところが大きく、故に生態の均衡維持のため厳密な干渉制限が設けられていると聞く。
 眼前の光景は、呪文使用への制限を必要とすることへの証左に思われた。召喚した炎はさながら巨人族の篝火だった。本来なら薪の弾ける音のするところに、魔王の不気味な喚声があてがわれている。呪文の熟達者でないとここまで辿り着けないとはいえ、誰もがこの可能性に手を伸ばせる世界が実現したら、と想像して複雑な心境になる。
 レックは炎を眺め──実際には火中より現れるだろう魔王を警戒していた──眉根を寄せる。轟々と昇る紅蓮が、一瞬妙なちらつき方をしたように見えたのだ。
「今、変な感じしなかったか」
「うん」
 見れば、アルスも神妙な顔をしていた。
 二人が得物を握り直した時、炎が割れた。二つに割れた赤い海より、魔王が姿を現す。翠の甲殻が溶け、炭化した箇所から黒い体液が零れ落ちては蒸発していく。
 未だ形を残していた両翼が数度、力強く羽ばたく。飛翔した巨躯は炎を遠ざけ、こちらへ突進してきた。咆哮を上げる。灼熱の大気が震え、分解され、たちまち温度をなくす。レックは己にかかっていた加護の呪がことごとく消え去ったのを実感する。いてつく波動だ。
 凶悪な鉤爪の手が伸び、レックを掴もうとする。寸でのところで避けたが、すかさず繰り出された輝く息をもろに浴びてしまった。吹き飛ばされ、後方へ転がされる。
(まずい!)
 アルスを一人にしてしまった。後方へ侵攻を許せば、体力の少ない魔法使いのノインはあっという間にやられ、戦線を立て直すのに時間がかかってしまう。
 レックは内心歯噛みし、すぐさま体勢を立て直して戦況を窺う。そうして目にしたのは、思いもよらない光景だった。
 オルゴ・デミーラは、レックが飛ばされる前の位置から前進できていなかった。寧ろ羽ばたくのをやめ、若干後退している。進もうとしきりに繰り出す猛攻を防いでいるのは、アルス一人だった。
 牙のびっしりと並ぶ口腔より放たれる猛毒の霧、神経を脅かす熱毒の息、聞く者の心神を喪失させる大絶叫。それらを、少年は右の掌中より捻り出した渾身の真空を喉奥へ押し込んで殺した。それだけでは終わせぬと、更に魔王は肉弾で突破しようとする。殴りかかる右腕。抉り込む左の爪。尾による不意打ち。下より打つ掌底。そうした五秒にも満たぬ連撃の全てに、またもアルスは応えてみせる。右拳は剣の腹で受け流し、地へ落とす。左爪は逆に飛び込んで躱し、肩へ斬り込む。尾の一撃は斬り払い、掌底は打ち返す。巨体より放たれる技に次々応える少年の剣は、粗削りながらも舞っているように見えた。
(民踊みたいだ)
 脳裏に懐かしい光景がよぎる。思い出すのは夢の故郷、ライフコッドの光景。あの村では、芽吹きの季節を迎える頃、野良作業の合間、収穫の後と、村人が何かにつけてよく踊っていた。現実のライフコッドではそこまで踊る様を見なかったにも関わらず、あれだけ人々が踊っていたのは何故か。当時は何とも思わなかった光景だが、あの暮らしから遠ざかった今だからこそ、心にすとんと落ちるものがあった。
 ──あれは土に根付いて生きる喜びと不安、祈りの表出だったんじゃないか。
 人々が生活する中で生じる情動が形になったもの。生きる意思の顕在化。それが、舞という形を取っていたのかもしれない。
 そんなことを考えるレックの目に、少年の所作は特別に映った。無論、舞としてはかなりぎこちない。王城の舞踏会で見かける洗練された優雅さもない。しかし、武骨で力強い動作の中に、彼の旅路の不器用さと険しさ、そして誇りがありありと現れている気がした。
 胸に熱いものを覚え、高揚と共にレックは駆ける。その間にソロは回復呪を口にし、ノインは打ち消された呪力強化を再び掛け終える。アルスとオルゴ・デミーラが切り結ぶ、そこへ拳を握り締めて乱入する。
「おらあッ!」
 力強く跳躍し、空いた頬へ拳を突き込む。魔王の上体が大きく傾ぐ、その間にレックとアルスは視線を合わせて頷く。
 二人は互いの立ち回りを窺いながら、魔王をその場から大きく動かさぬよう、一進一退の攻防を織りなし始めた。これまでの行動パターンから、状態異常をもたらす魔王の息が最も厄介であるのは明らかだ。息攻撃は、敵本体より遠ざかってしまえば回避できる。よって、後衛達に回避させやすくするために、属性や状態異常に耐性を持つ前衛の二人のみで封じ込めてしまうことにしたのだった。
 レックもアルスも、共に戦うのは今日が初めてである。それでも同じダーマ神による職業を経験した者同士、また様々な特技を持つ者らと組んで戦ってきたという戦歴から、あっという間に互いの勝手を掴んでいった。
 アルスの剣の連撃がオルゴ・デミーラの注意を引き過ぎれば、レックが火吹き芸で関心を戻す。爆裂拳、身躱し脚、ビックバンと華やかに立ち回る彼にオルゴ・デミーラがいてつく波動を放つと、アルスが戦いの唄を歌い能力を底上げする。
 魔王の侵攻は烈しく守りも硬く、容易に一撃を加えることを許さない。しかし隙のなさで言えば、彼ら前衛二人も同じだった。気心知れた芸人一座の作り出す舞台よろしく、多種多様な特技で苛烈な攻撃を完封してみせた。そこへ、避けようのない後方からの呪文攻撃、安定した治癒の魔法が加わるのである。いかに万魔王と言えど、陥落するのは時間の問題のように思われた。
 しかしレックの予想に反し、魔王はそう簡単には潰えなかった。
 せめぎ合い切り結ぶ回数が嵩む中、オルゴ・デミーラが煉獄の火球を繰り出す。それをいつもの如く練り上げた冷気で花火に変えたレックは、違和感に眉根を寄せる。まただ。また、火焔の放たれる瞬間に奇妙な色が見えた。
(こいつの使う炎、皮膚と同じで青っぽいのか?)
 怪物の手より投げられる、熟れた炎の林檎。その輪郭が妙に青く見えるのだ。青と言っても、高温の炎のような純粋のそれではない。未明の頃、訪れるはずの新しい朝を求めて山間を見る、その時に幻視する幽かな緑を帯びた空気に似ている。洞窟の暗がりで僅かな光を蓄えるコケか、うらなりの果実か。暗い緑を連想させる蒼の蜃気楼は、正体を捕らえようと凝視すればするほど変に目につく。瞼の裏を焦がされるような錯覚を覚え、レックは瞬きして悪寒を散らす。
 アルスが魔王の腹に剣の一撃を見舞う。異形の絶叫が轟く。直後、背後で声が上がった。
「ソロさん!」
 ノインの声だ。レックは反射的に振り向いた。
 そこには、やや離れた所で崩れ落ちるソロの姿があった。普段きつい眼光を宿すことの多い瞳は意思を失い、俯き放心している。遠目にも、すぐ動けるような状態ではないと察せられた。
「今の叫びが急所に入っちまったのか」
「おかしいな」
 オルゴ・デミーラを一時うち退けたアルスが、怪訝な顔をする。
「ソロはバンダナとか装備品を工夫して、僕らの次に気絶耐性をつけてたはずだよね。運が悪かったってこと?」
 ノインがソロへ駆け寄り、しゃがみ込んで瞳孔の動きや脈拍を確認する。その間もオルゴ・デミーラが攻め入ろうとするから、前衛達は対応に追われる。
 互いに打ち合った末に放たれた、レックの力を込めた正拳突きが、オルゴ・デミーラを大きく突き飛ばす。やっとできた空白に、ふわりと少女が降り立った。
「早急にケリを付けましょう」
 ノインの身体は、魔力の燐光を帯びていた。その手に先程まで持っていた両手杖はなく、代わりに黄金の鳥を鍔に冠した剣を握っている。
「私が出ます。アルスさん、私と立ち位置を交替してください」
「いいけど」
 アルスは少女の顔と剣とを見比べる。レックには彼の胸中がありありと分かった。
(魔法使いが剣を使って、今以上の火力を出せるのか?)
 魔法使いは、今回のように敵を足止めする壁役によって安定して呪文発動に集中できる環境があるなら、瞬間的にも継続的にも最強の火力を叩き出せる、神霊界に愛された職業だ。その分肉体への加護が薄く、物理干渉は全職の中でもぶっちぎりで不得手。どんなに呪の織り込まれたローブを身につけて対策していても、強烈な一撃を喰らえば呆気なく精霊の膝元へ召される。
 そんな魔法使いの職についておきながら、前へ立つノインの顔には不安の影が微塵もない。何か秘策があるのだろうか。
「く、そ……」
 後方で砂利を踏みしめる気配がして、悪態が聞こえた。ソロが我に返ったのだ。
 アルスが後衛に回り、彼のもとへ寄っていく。レックは隣のノインに訊ねる。
「どうする?」
「幸い、生命力は半分以上削れています。レックさんと私で一気に攻めてしまいましょう」
 ノインは、遥か向こうからこちらを注視するオルゴ・デミーラへ目を据えたまま、提案する。
「オルゴ・デミーラの体勢を、できるだけ大きく崩してくださいませんか。その後、私がこの剣を四度振る間に仕留めてみせます」
「マジで?」
 レックは聞き返した。これまでの攻防を鑑みても、魔法使いとして呪文攻撃をしたとて削り切れるか微妙なラインなのに。
 ノインは頷く。
「計算上、レックさんが体勢を崩させるだけの攻撃を先にしてくださっていれば可能です。よろしくお願いします」
「……分かった。無理するなよ」
 オルゴ・デミーラの身体が僅かに沈み込む。ノインが囁く。
「来ます」
 緑の巨躯が刹那隆起し、大跳躍を見せる。直線状にこちらへ飛来する肉弾を、レックは真っ向から迎え撃つ。
 オルゴ・デミーラが手を伸ばす。普段なら十分に速く感じるだろうその動きも、魔物界で上位に食い込む俊足の力を借りたレックには脅威ではない。
 レックは電光石火の突進で拳の下へ潜り込み、腕を取る。硬い筋肉と殻の綯い交ぜになったような皮膚を掌に感じながら、掴んだ腕ごと巨体を振り回し、元の方向へ背負い投げた。岩壁へ叩きつけたところに、身を起こす隙を許さず神速の体当たりを見舞う。レックの気迫と破魔の力の籠もった一撃は、魔王をして白目を剥かせた。
「後は私が!」
 少女の声が矢の如く飛ぶ。
 レックはバックステップで退く。空いた空間を、薄赤い閃光が貫いた。究極火球呪文ではない。ノイン本人だった。アルスによってもたらされた疾風と守護の祈り、ソロによってもたらされた火力の加護。三種の魔法だけとは思えぬ眩いばかりの光を纏い、抜身の剣を引っ提げて魔王の眼前へ躍り出る。
 一太刀目、逆袈裟に斬る。岩壁に埋もれた魔王の胴と尾に、深い渓谷を刻む。
 二太刀目、袈裟斬り。左肩から腰へ刃先が滑り込み、薄皮一枚残して切り開く。
(マジかよ)
 レックは身を乗り出した。
 ノインは剣を左へ引き、構える。オルゴ・デミーラは深紅の三ツ眼をかっ開き、声を張り上げた。暗い口腔の深奥より、この世のものと思えぬ叫びが迸る。音のかまいたちが少女の皮膚を裂き、血が噴き出す。それでもノインの構えは解けない。
 三太刀目、横一文字に振りぬく。いかつい黒の棘が夜空の砕けるように散り、首と胴を分かつ。
 魔王の肉体より、力が抜けた。持ち上がりかけていた長い尾が緩み、地に落ちる。持ち上がろうとした両腕は、できなかった。三太刀目の勢いに押され、そのまま投げ出される。そこへ、パラパラと岩窟の石が降りそそぐ。
 ──仕留めたか?
 ざっくり右半身と左半身に分けられた体の上を、完全に切り離された頭が点々と跳ね落ちる。澱んだ体液をまき散らす、脳の剥き出しになった生首。それを見つめていたレックは、緩んだように見えた口元がにやりとするのを見つけて息を呑む。
「まだだッ」
 剣を握り締め飛び出そうとして──やめた。それはちょうど己が出るより早く魔王が討伐されたからだったのだが、同時に、自分が出ようとする一瞬の間に多くのことが起こり、把握に手間取ったからでもあった。
 最初に耳にしたのは、レックとほぼ同時に魔王が生きていることを察したソロが、ノインの体力を万全にしようと始めた回復呪の詠唱だった。しかし詠唱を始めた途端、魔王の右手が目にも止まらぬ素早さで動く。アルスが天を仰ぎ印を切る。魔王の爪が少女の額を貫く。
 剣を振りかざしたまま、小さな体が停止した。纏う燐光が強風に煽られるが如く揺らぎ、消えかかる。わずかな沈黙。そこへ清き青の光の粒子が舞い降り、少女の身体を包む。石のように硬直していた手に力が戻り、纏う魔力の光が──命の輝きが勢いを取り戻す。
 ちょうどその時、ソロが回復呪の詠唱を終える。治癒の祈りを受け、少女の全身は更に光を放つ。その手に握り締めた剣が、真向へ振り下ろされた。
 目を開けていられぬほど眩い光彩が、魔王を灼いた。輝きが失せる頃、レックは魔王の姿を探す。いない。岩壁には、蠍型をした微かな染みが残っている。
「討伐完了しました」
 ノインが告げる。振り向いた額から、さらさらと黒い煤が零れ落ちていった。位置を見るに、魔王の爪痕だと察せられた。
 誰からともなく、安堵の息が漏れた。レックは剣を鞘へ収め、アルスはしゃがんでいたその場へ足を伸ばして座る。ソロはゆったりとした気怠げな足取りでノインの元へ赴き、まろい額へ残された円形の煤跡を払ってやる。
「今回のMVPはアルスだな」
 そう言ったソロが、くつろいで座る少年を見下ろして続ける。
「お前が咄嗟に蘇生呪文を唱えたから、無駄打ちになるはずだった俺の回復呪文が生かされた。助かったぜ」
「ちょうど呪文の射程圏内にいたからね。間に合うか五分五分だったけど、上手くいった」
 アルスのへにゃりと笑う顔を眺め、レックは内心で呟く。
(だが、とんでもねえ判断と詠唱の速さだった)
 オルゴ・デミーラが腕を動かす時には、アルスは印のみでの詠唱を始めていた。そしてほぼ同じタイミングで回復呪の詠唱を始めていたソロより早く、蘇生の奇跡を代行してみせた。
 あれは、刹那的に運良く齎された奇跡ではない。彼の踏んできた場数の導いた、必然の結果だ。きっと彼は、これまでに何度も似たような状況に置かれてきたのだろう。その中で敵の行動パターンを読み、同時に味方の動きも見て、死線の極限を見極めてきたのだ。そうでなければあの蘇生は成し得ない。
「アルス、お前凄いよ」
 レックが言うと、アルスは照れ笑いをする。
「へへ。ありがとう」
「何だあ? 珍しく大人しいじゃねーか」
 ソロがからかう。
「戦ってる時は随分テンション上がってたくせに」
「そりゃあ楽しかったよ。けど、最後のアレで呆気に取られちまってさ」
 最終局面の切迫した一幕を見届けた後、レックは何とも不思議な気持ちになっていた。高揚しているような、妙に落ち着いているような、形容しがたい気分でふわふわしている。
 ソロはレックとアルスとを交互に見やる。
「しっかし、おめーらの転職ってヤツは便利だな。技が色々使えて、呪文唱えるのまで速くなるんだろ?」
「特技はそうだけど、呪文詠唱速度は別。僕が僧侶としてパーティーの回復役をやり込んだせいだと思う」
「やっぱり職が関係してるんじゃねえか。かーっ! 俺も勇者辞めて他の職やってみてえよ」
「そうそう。ソロの言う勇者の話、ちょっと聞いてみたかったんだ」
 アルス達は会話を続けている。レックはそこへ加わらず、にこにこと彼らの様子を眺めているノインに声をかける。
「あのさ」
「はい?」
「トドメ刺す時、助けてやれなくてごめんな」
 やはり、どうしても言わなければ気が済まなかった。
 彼女に言われたことを守り、勝った。とは言え、衝撃的な死に方をさせてしまったのだ。レックはそれを阻止できなかったことを悔やまずにはいられなかった。
 ノインは目を丸くする。思いがけないことを言われたという顔だった。
「まさか。レックさんは、オルゴ・デミーラの隙をああも理想的かつ完璧に作ってくださったのです。感謝こそすれ、責めるわけがありません」
「けど、痛かっただろ?」
 ノインは首を横に振る。
「ご心配をおかけして申し訳ありません。でも私、痛くないんです」
 ああ、そうだった。レックはようやく、前日にソロの言っていたことを思い出す。
「痛覚がないんだっけ?」
「ええ」
 ノインは屈託なく笑う。
「便利ですよ。天使としての責務を果たすため、立ち止まらずにいられますから」
「そっか。ノインは勇敢だな」
「ありがとうございます」
 四人は程なくして洞窟を出た。宿へ戻って留守番の三人に討伐の成功を告げると、皆無事帰を喜んでくれた。それから見回りに行っていた者達も帰ってきて、世界各地に異変の見られなかったことを報告した。
 全員総出での任務であったこともあり、その日の夜はちょっとした宴が開かれた。天使達の厚意で、人のほとんど出入りしない宿三階の特別なテラス席を借り、皆で集う。いつもより少し豪勢な食卓を囲み、一際楽しく飲み食い語らう。そうしながらもレックはどこか、飲み込んだパンの居所を見つけられないような、判然としない気持ちを拭えずにいた。






 各々疲れも溜まっているだろうからと、小さな宴は宵の深まる前にお開きになった。ロトの勇者達は早々に個人の部屋へ切り上げ──彼らはそこそこの協調性を備えているが、それはそれとして個人主義の気が強い──ソロ、ソフィア、アベルも己の都合の良いタイミングで退出した。エイトは提供された料理のレシピについて厨房へ訊ねに行き、ノインはその伴としてついていった。
 残ったのは、残せば廃棄されかねないボトル達を開け切ってしまおうと思い立ったレックとアルス、ナインの三人である。並んで共に杯を手にしてみて知ったが、アルスは飲める。本人曰く、四人の両親全員が強いからそういう体質に生まれる他なかったのだろうとのことで、レックは感心して頷いた。四人の両親って何だ。疑問に思ったが、複雑な事情が絡んでいそうなので会ったばかりの今日は訊かないでおこうと考えた。
 ナインは酒があまり飲めないらしい。しかし、酔ったレックが多少とぼけたことを言っても楽しそうに会話してくれる。ナインが殊更熱心に聞きたがったのは、二人の世界の職業事情についてだった。
「お二人の世界は、職業の種類と技が豊富で羨ましいです」
 ひとしきり一つ一つの職について話を聞き終えた後、ナインは感嘆の息を吐いた。
「僕もそちらの世界で職業訓練を積めたらいいのに」
「この世界だって十分あるだろ。俺のところとほぼ変わらねえじゃん」
 レックが返すと、彼は首を横に振る。
「いいえ。レックさんの世界の職業は十八種、僕の世界は十二種。しかも、僕らのダーマ神殿には魔物職がないんです。これは大きな違いですよ」
「いっぱいあればいいとも思わないけどなあ」
 言って、アルスはグラスをあおる。彼のグラスに満ちているのは白ワインのはずなのだが、滞りない飲みっぷりと童顔のせいか、ワイングラスで水を飲んでいるように見える。
「違う職業でも習得できる特技がかぶってたり、転職のための条件が厳しくて実質存在しないも同然だったりすることもあるから、面倒臭いって言う冒険者もいたよ。僕は魔物職を極めていろんな魔物になれるのが楽しかったから好きだけどね」
「それが羨ましいんです!」
 ナインが天を仰ぎ、額を押さえる。
「この世の万物たる大いなる父よ……僕は彼の創生の御業、彼の創り給いし世界に生まれたことを心から感謝しています。しかし、何故僕らに魔物になる機会を与えてくださらなかったのでしょう」
「天使としてだいぶやべーこと言ってないか?」
「まあまあ。こうも正直だと好感が持てるよ」
 レックは心配になるが、アルスはおおらかに笑っている。
「世界を滅ぼしたいみたいな願望があるの?」
「それはないです」
 ナインはきっぱりと答える。
「天使、人間と体験したならやはり魔物にもなっておきたいな、と」
「ほら」
「そういうもんか」
 正直、レックにはよく分からない。しかしアルコールの回った頭であれこれ考えるのが億劫なので、納得することにした。
 アルスは眼前に整列したボトルを眺める。逡巡の後選び取ったのは特に色の濃い、いかり肩のものだった。栓を開け、引き寄せたグラスへと傾ける。
「職業は確かに僕らの血肉になる。でも核にはならない」
 細い硝子の口から迸る紅がグラスを満たす。注がれている時はしっかりと赤に見えるのに、こうして体積を増すと濃い黒に近くなるのだから不思議だ。
 レックは少年の傾けるグラスを眺め、目を凝らす。向こう側を透かし見ることすら難しい。
「ゴッドハンドになっても魔物になっても、そうなりたい気持ちの根っこには何者でもない僕がいる。だから案外、どんな外見になろうと変わらないと思うけどな」
「そうでしょうか。プラチナキングの自滅耐久実験は、自分の体でもないと倫理的にできないように思うのですが」
「あ、そっち? うん、それは僕の世界じゃないとできない──いや、まず僕の世界でも止められると思うよ? 君の好奇心凄いな」
 アルスは一息にグラスを半分まで空ける。その口で、そうだ、と漏らす。
「この世界の職業だって、僕らの世界にはない仕組みがあるだろ。転生だっけ?」
「はい、あります」
「いいよね。覚えられる特技が増えたり、極めた数の累計でステータスを底上げできるアイテムをもらえたり。それこそ僕もやってみたい。今日ノインの戦いを見て、改めて思ったよ」
 ナインの顔が曇る。その様を目にしたレックは、あの顔を見るのは今日で二度目だと思い出す。一度目は、帰ってきた天使達が冒険の同期をした時だった。常に泰然としている彼にしては珍しい様子だったのに対し、ノインの方は何ともない風だったから気になっていた。
 ナインは問う。
「ノインのどのあたりが特別に見えましたか」
「呪文の火力。攻撃魔力を攻撃力に置き換えられるところ。バイキルトやアイテム無しで自己強化ができることころ。死んでもバフを維持して蘇生できるところ」
 アルスはすらすらと答える。
「呪文の火力以外は、オルゴ・デミーラとの戦いの終盤で一回だけ見られた。そうだよね?」
「ああ」
 同意を求められ、レックは首肯する。
 そうだ。あの戦いの最後の一幕で見たのは、レックの常識では測れない現象達だった。魔法使いであるにも関わらず剣を操ることができ、前衛顔負けの威力を叩き出す。その火力は強化呪文を掛けられただけでは到底出し得ないほどのもので、しかも最後の一撃を出す直前には額を貫かれて絶命していたのだ。普通なら、一度落命すればそれ以前に掛けられていた加護の全てが消える。なのに最後の一撃の威力は、それまでに放たれた三度の斬撃のどれよりも強力だった。
 戦いを終えた後もたらされた正体不明の心の正体は、まさしくこれだ。レックは気付く。戦闘に勝ち、ノインが無事蘇生されたという安堵感。最終局面で目にした不可解な現象の数々に対する腑に落ちなさ。その二つの間で、自分は落ち着かずにいたのだ。
「あれには本当びっくりしたな。バイキルト無しで火力を上げるのは、気合い溜めみたいな技を使えばできる。でも気合い溜めは一回攻撃しちまえば持続しないのが普通だ。けどノインはその威力のまま、いや、一撃ごとに威力を増しながら四回も連撃を放った──蘇った後も含めて」
 レックは口を動かしつつ、ナインを見つめる。少年天使は真顔だった。いつもなら、嬉々として己の世界の職業のことやレック達の世界と比較しての持論を語り出すところだろうに。
(もしかして)
 ある可能性が閃く。それを慎重に口に出す。
「なあ。ノインのあれって……もしかして、職業の熟練度と関係ない、ノインだけの特別なものなのか」
 大した根拠のない思い付きだった。あれだけの火力を出せるなら、もっと前の攻略から使用していたはずだ。ナインがあのような技を見せたことがなく、またノインも多用しなかった。何か曰くがあるに違いない。
 たったそれだけのことと眼前のナインの様子から導いた、妄想に近い推察だった。しかし、彼は首を縦に振った。
「はい。恐らくは、レックさんの仰る通りです」
「へえ、凄いね」
 アルスが呑気に言う。
「生まれ持つ固有の特技?」
「いいえ」
 ナインは、食卓の上で組んだ己の手を見る。思案するような面持ちだった。
 黙り込む彼の様子に、感じ取るものがあったのだろう。アルスが笑みを引っ込め、居住まいを正す。その頃になって、ようやくナインは語り出した。
「……ええ。僕らはかつて、生まれながらにして天使と名乗るに相応しい能力を持っていました。呪文なしに外見を自由に操れることができた。天空にいながら、己の担当する地上の領域で困っている人々の声を聞くことができた。肉体を持たぬ霊魂を視、触り、意思の疎通をすることができた。しかしそういった能力は、堕天した大師匠エルギオスと対面するまでの旅路でほとんど失われました。取り戻したのは、二度目に果実を口にした後です」
 ナインは静かに、ぽつぽつと話す。立板に水を掛けたように喋る彼らしくない口ぶりだった。
「僕らは人間の体を持ちながらにして、再び天使の霊性を取り戻しました。そして、父なるグランゼニス神の慰めと、いつ来るともしれない安寧を脅かす存在と対峙する事態に備えるため、人間の仲間達と共に修行を続けました」
 ナインの重ねた両手に力が籠る。
「全ての職業で転生しきった後のことです。僕とノインの身にだけ、他の者には見られない変化が起こりました。僕は肉体を通じての霊性の働きが格段に良くなり、人は勿論、かつての天使達よりも知覚や動作の精度が高くなりました。一方ノインは不快に紐づけられる全ての感覚が失せ、代わりに霊性が肉界へ強く干渉するようになりました」
「つまり?」
「具体的に言いましょう。僕の場合、常日頃から自分のいるフィールド上の生体と霊体をほぼ感知できます。状態異常のまま会心必中を出せるのもその一環です。ノインの場合は、彼女の命が危うい状況ほど、困難をものともせずに彼女の力が増していきます」
 ナインの言う彼自身の特殊性は軽く説明されたこともあり、レックも知っていた。天使特有のものなのだと思っていたが違ったらしい。
「なら、俺達が今日見たノインのあれは」
 レックが言うと、ナインは頷いた。
「そうです。修行していくうちに目覚めたノインの特殊な能力──と言ってしまえば聞こえはいいですね」
「実際、強力だったよね」
 アルスが首を傾ける。
「でも君は、何か問題があるって考えてるわけだ」
「はい」
 ナインは認めた。
「ところで、理力の杖という武器を知っていますか」
 聞いたことがない。アルスを窺ってみたが、彼も首を横に振っていた。ナインが説明する。
「主にⅢ番、Ⅳ番、Ⅴ番の世界に流通している魔法職用の両手杖です。使用者の魔力を武器に流し込み、使用者本来の攻撃力以上の物理ダメージを与えることができます」
「魔法を使えない時に便利そうだね」
「特にⅢ番の世界ではかなり強力な武器として知られているようです。Ⅳ番とⅤ番では使い手が限られているせいか、または他に競合する武器があるせいか、評判はさほどのようですが。とにかくこの武器は全世界間で見ても珍しい、魔力を呪文という誓約の形以外で物理干渉に反映させることのできる武器なのです」
「ふうん」
「ノインの自己強化の原理はこれに近い。己の持つ魔力を、攻撃力攻撃魔力の増幅、テンションのブースト、敵の攻撃を透過しての強制コンボ置換などといった自己強化のために注ぎ込みます」
「待って。透過って何? 強制コンボって?」
「敵の攻撃に伴い干渉してくる霊子れいし──肉界における神霊界の名残りにして神霊の加護たる不可視の未確認物質です、魔力や命の素でもあります──を魔力の流れを利用して己の霊子で取り囲み切除、これにより敵の攻撃による損壊を『起こっていない』ものとして解釈し、処理します。これが霊子の透過運動です。相殺作用と呼ばれることもありますね。また、この透過運動を起こすことで己の攻撃に伴う霊子移動のみを認識、身体を組成する霊子の増幅連鎖を誘発し、己及び周囲の霊子の活動を盛んにします。これが強制コンボです」
「お、おう」
「肝心なのは、己の霊子──まあ雑駁に魔力とほぼイコールと捉えていただいても結構なので、以降は魔力と呼びましょうか──を切除するという働きです」
 目を白黒させるレック達を見て、正確と丁寧を両立した説明は効果的でないと察したのだろう。ナインは核心に触れる。
「要するに、魔力を消費して敵への干渉ダメージを嵩増しするという行為は、ノインの生命と存在を削っているのに等しいのです。分かりやすく命名するならば、異次元メガンテ殺法といったところでしょうか」
「めっちゃダメなやつじゃねえか」
 レックは目を見開いた。アルスも繰り返し頷く。
「うん。多用はできない、背水の陣で使う必殺技。仲間としても使わせたくない特技ってことか」
「その通りです」
 それならバイキルトや気合い溜めのあるなしに関わらず、格段にダメージが入るわけだ。
 ナインは顎に片手を添える。
「今日の戦闘でノインがあれを使った原因は、オルゴ・デミーラの放った妖しい光でしょう」
 そんなものを見ただろうか。レックが訝しんでいることを察したナインが言う。
「分からなくて当然です。オルゴ・デミーラは他の技の発動に合わせて巧妙に使っていましたから」
「あっ!」
 レックは指を鳴らした。
「もしかしてあれか? 火炎系の技がたまに緑っぽく見えたヤツ!」
「そうです。あれは妖しい光と言って、相手の状態異常耐性を下げる技です」
 その対象には、耐性装備を身に付けた者も含まれる。
 ナインがそう言うのを聞いて、アルスがぽんと手を打つ。
「なるほど。それでメタル職だった僕達が何ともなかったのに、ソロに雄叫びが効いちゃったんだ」
「ええ、恐らく」
「ノインはそれに気付いたから、早く戦闘を終わらせたがったのか」
 レックは両手を上げた。その勢いで背凭れに上体を預け、頭の後ろで腕を組む。
「俺達を急かしてくれてもよかったのにな。気を遣わせちまったかあ」
「悪いことさせちゃったね」
 アルスが眉を下げる。
 ナインはかぶりを振った。
「お二人が気に病むことはないです。ノインも全く気を遣わなかったわけではないでしょうが、それが一番の原因ではないはずですから」
「なら、何が原因だったんだ?」
 レックは首を傾げる。少年は束の間目を伏せた。
「ノインの──僕達の心的外傷のせいかと」
 ナインは語った。
 旅の途で凶刃に襲われ、師匠に庇われて生き延びたこと。身代わりになった師は命を落としたこと。
 血縁のない天使にとって、己を一人前の守護天使として育ててくれる師は、人間で言うところの親兄弟、親友、恋人を包括した大切な者の総合体の如き存在なのだという。そんな者を己へ向けられた刃の犠牲にしてしまったことは、彼らに大きな影を落とした。
「僕は当然自分を責めましたが、一方で遅かれ早かれ誰しもが辿る道だと己を納得させもしました。グランゼニス神が僕らをお造りになった理由からして、僕ら天使は奉仕の生物なのです。他人のために生き、他人のために死ぬのが道理。後に知った忌まわしい真相を引き合いに出して、あれを清廉潔白な師匠の目に触れさせずに済んで良かったじゃないかと考えることさえできました」
 僕は、物事を合理的に見るのが得意ですから。
 ナインは小さな蝋燭を吹き消すように、微かな笑みを零す。
「けれど、ノインはできなかった。僕と彼女が似ていると皆さんはよく仰いますが、実際のところ僕らは真逆なのです。天使としての根本の信条から違う。僕が創生の御業を敬愛しているのに対して、ノインは創生の御心に感銘を受けている。同じ星の下に生まれて同じ景色を見、互いの考えていることを感覚的に察することができても、僕らの思考は重ならない」
 悪しき者には己が手で裁きを。彷徨う弱者を庇う者には、忠実な随身を。善か悪か分からぬ者には、善へと誘う導き手を。
 グランゼニスは生命の円環を、清く正しく慎ましき者を助くべくして創られた。ノインはその心に同調し、世に散らばる正しき思いに応えるべく世界を愛した。
「その心からして、彼女は愛情深く優しい天使なのです。己の罪と師匠の喪失という大きすぎる不条理を前に、成す術なく倒れ伏したとしても仕方のないことでしょう。彼女がエルギオスという師匠の師と戦ってまで世界を守ろうとするには、それこそ理力の杖のような、強力な信仰の杖が必要だった」
 少年天使は目を瞑る。
「ノインは師匠の死に──守るべき者のために命を賭けて献身する姿に、教えを見出しました。師匠が死に際に見せたあれこそが、グランゼニス神に通ずる天使の在るべき姿と看做したのです」
 レックはノインの勇姿を思い起こす。剣を握り締め疾駆する背中は、鋭利な爪に貫かれても揺るがなかった。オルゴ・デミーラを討った後振り返った白皙は、笑っていた。
「僕達が死にかける姿を見たくなかったわけだ」
 アルスが言うと、ナインは恐らくそうですと返して続ける。
「痛覚を失ったのは、彼女の霊性が神霊界へ向いているから。師匠の死と、僕らの修練によってもたらされた変化は、きっと関係しているのでしょう。あまりにも似ている。そう思いませんか」
 彼は掌を己の胸に当てる。
「僕らに表れたこの不可解な超越現象を、僕は仮に調和暴走と名付けました」
「調和暴走」
 レックは噛み締めながら復唱する。
「平和なのか物騒なのか、分かりづらい名前だな」
「ええ。まさにレックさんの仰られたような状態のものなのです。調和暴走は、大きな喪失によって崩れた調和を取り戻すべく身心のバランスを保とうとする中で培われる、本来の種を超越した現象、能力を示します。意識的になされることもありますし、無意識下で起こることもあります。このような心理作用は人間や天使のような文明を内包する生物の多くが持っていますが、それが現象として具現化された場合のみ、調和暴走と呼ぶことにしています」
 ナインは隣に並んで座るこちらへ視線を転じた。大きな瞳が柔らかに狭まり、笑みを形取る。
「皆さんのお力添えには、本当に感謝しています。ひょっとすると、この世界で一番救われているのは僕かもしれません」
「え?」
「調和を保とうとするのは僕らだけではないと知ることができる。それがどれほど力となることか」
 ナインの言葉は独り言に近い。相槌を求めているわけでもないらしいと察し、レックは黙って耳を傾ける。
「痛みを度外視し、世界のために身を削って戦い続ける。素晴らしいことです。しかし……本当にそれで、世界はより良く守られるのでしょうか。守るべきはずのものまで削っていないと言えるでしょうか」
 人気のない城下町の夜に、呟きがほつほつと落ちる。声は静謐で、そのせいかさして響くことなく中空に消える。それはまるで、人知れぬ森の深奥に湧く泉へ落ちる雫のようだった。
「分かっている。本当のところを僕らはきっと分かっている。僕は彼女の杖を奪えない。代替物が見つからないから。彼女が選んだことだから」
 ──俺に何が言えるだろう。
 レックは考える。きっとアルスも同じことを考えているのだろう。赤ワインをグラスの中でくゆらせつつ、視線は少年の横顔へ向いている。
 黒のアンダーシャツに覆われた腕が卓上へ乗る。普段独特の上衣で隠された腕を初めてまともに見ると気付く。露わになった輪郭は、服越しでも分かるほどに細い。卓上で組み合わせた両手の甲に海松茶の髪を垂れ、瞼を下ろす。
「それでも僕は、諦めることができない」
 独り言ちる。その苦悩の姿は祈りの形をしていた。