コノミチワガタビ




※ver6.5までのネタバレ有。
※'24拾遺譚のネタ有。




























 天星郷で歩き回っていた、ある日のことだった。
 エクスが回生堂へ立ち寄ると、英雄達が揃って茶会をしているところに出会した。扉を開けるなり注がれた八対の目に、エクスは一瞬怯む。だがすぐに笑みを浮かべ、話しかけた。
「びっくりした。まさか皆揃ってると思わなかったよ」
「すまないな」
 ラダ・ガートが微笑する。
「お前が忙しくしているのに、呑気にしていて」
「いや。そんなの、全然いいって」
「お前も一杯どうだ?」
 そう言ったのは、カブだった。
 エクスは首を傾げる。
「いいの?」
「たりめーよ」
 ドワーフは屈託なく、己のカップを差し出した。
「ほらよ! これ、使ってくれていいぜ」
「兄者。無精しないで、新しいカップくらい取りに行ったらどうだい」
 ナンナが顔を顰めた。
 妹分の生真面目な言葉に、カブは唇を尖らせる。
「別にいいじゃねえか。オレらの仲なんだからよ」
「兄者が良くてもエクスがいいとは限らないだろ」
 義兄妹がいつもの応酬を始める。その間に、カウンターに佇む天使のもとへ行っていた末の弟ドルタムが、カップを片手に戻ってきた。
「はい、エクスさん」
「ありがとう」
 別に、気を遣わずとも良かったのに。
 エクスは少し恐縮して受け取る。
 すかさず、リナーシェがポットを携えて歩み寄ってきた。
「はい。どうぞ」
「あ。すいません」
 リナーシェがカップへポットを傾ける。みるみるうちに、漆黒の液体が満ちる。エクスは、注がれたものをまじまじと見下ろした。
(茶じゃなかった)
 そう言えば、何を飲んでいるのか知らなかった。
「安心してくれていいよ。ただのコーヒーさ」
 こちらの心情を察したのか、フォステイルが優雅にカップを掲げて言った。
「私がこっそり持ち込んだんだ。天星郷には嗜好品がほとんど存在しないと、天使長から聞いていたからね」
「初めて飲みましたけれど、美味しかったですよ。ちょうど飲み頃ですから、冷めないうちにどうぞ」
 ハクオウが促すのに応え、エクスは勢いよくカップを傾けた。
 唇に付けた陶器から、高温の奔流が流れ込んできた。
「お、おい。大丈夫か?」
 前へ大きく傾いた背中を、アシュレイが慌ててさする。どうにか飲み込んだ後、エクスはたまらず声を上げた。
「あッッッちぃ!」
 熱いだけではない。味も濃かった。強烈な渋みが舌を刺し、もはや味というより衝撃という方がふさわしい。
「す、すみません。私が軽率に勧めたばかりに」
 ハクオウが狼狽えている。自責に歪む白皙を前に、エクスは考えなしに声を上げたことを後悔した。
「いや、謝ることないって。ちょっと驚いただけなんだ。こっちこそ、驚かせてごめんな」
「うーん」
 頭を下げ合うエクスとハクオウを横目に、ポットから新たに注いだコーヒーを口にしたドルタムが、小首を傾げる。
「ボクも、ちょうど良い加減だと思うけど」
 見れば、他の英雄達も何食わぬ顔でコーヒーを嗜んでいる。カップを傾けて離す様子は、ごくいつも通り。虚勢は見られない。
 そんな馬鹿な。エクスはもう一度カップを口に付け、顔を顰めた。やはり熱く、苦い。
「何だ? お前、そんなに猫舌だったのか」
「へえ。可愛いトコがあるじゃないか」
 カブとナンナが茶化す。エクスは首を横に振った。
「いや。そんなことはなかったはずだけど」
「お前は若いからな」
 アシュレイが、大袈裟に肩をすくめるような仕草をする。
「年を取ると、こう、何というか。色々沁みるもんでな。熱いヤツなら、大体美味く感じるんだよ」
「オレだって、苦いのも熱いのもイケるはずなんだけど」
「なに。大したことじゃない」
 ラダ・ガートがゆったりとした口ぶりで言う。
「ゆっくり、お前のペースで飲め。それでいいだろう」
「うん」
 カップに唇をつけ、慎重に傾ける。これなら問題なさそうだった。
 エクスはちびちびとコーヒーを啜る。
 黒い水面を睨み、しばらく温度と戦うことに集中していたが、ふと、やけに場が静かなことに気付いた。
 目を上げる。
 八つの眼差しが、再びこちらへ向かっていた。
「え、何? もしかしてオレ、何か変なことしてる?」
「いえ。そういうわけではありません」
 ハクオウが唇で弧を描き、かぶりを振った。
「何故でしょうね。ぼうっと見てしまっていました」
「一生懸命飲んでいるからつい、ね」
 涼やかな双眸を細め、フォステイルが言う。
「ご無理をなさってませんか?」
 リナーシェは、案じるような面持ちだった。
「ごめんなさい。注ぐ前に、コーヒーがお好きかお伺いすればよかったですね」
「大丈夫だよ。飲み物の好き嫌いはないから」
 エクスが答えると、ドルタムが言う。
「無理しないでね。残してもいいんだよ?」
「大丈夫だって」
「お前も、案外頑固だよなあ」
 アシュレイは、面白がるような笑みを浮かべている。エクスは反論した。
「意地を張ってるわけじゃないよ」
「そうか、そうか」
 エクスはゆっくりとコーヒーを飲んだ。その間に八人は、近くにいる者同士で語らいながら、大きなポットをやすやすと空にした。
「ごちそうさま」
 やっと飲みきったエクスが席を立つと、ラダ・ガートが声を掛けた。
「もう行くのか。付き合わせてしまって悪かったな」
「いや。オレの方が、邪魔しちゃったんじゃないかな」
「そんなわけないさ」
 ナンナがニカッと笑って手を振る。
「アタシ達はいつでも大歓迎だよ」
「頑張れよ、兄弟!」
 カブも破顔し、大きく手を振った。
「あんまり無茶すんなよ!」
「ありがとう」
 エクスは空になったカップを受付係へ渡し、戸口へ向かう。そろそろ、次の用件を済ませないといけない。
 出て行く途中、何となく、出口付近の壁に寄りかかるアシュレイに目が向いた。彼もまた、未だ湯気を上げるコーヒーを平然と飲んでいた。
 視線に気付いた彼が、顔をこちらに向ける。エクスは言った。
「やっぱりそれ、熱すぎないか?」
「それがちょうどいいんだよ」
 アシュレイは、微笑とも苦笑ともつかない笑みを浮かべた。
「俺達には、これがいい塩梅なのさ」







+++



 天星郷での全ての用件を済ませ、エクスは回生堂へ向かった。カウンターには、大柄な女天使が変わらず佇んでいて、彼を見ると声を掛けてきた。
「休んでいくかい」
「ああ」
 移動するのが億劫で、エクスはすぐ近くの壁に寄りかかった。長時間の飛行で体が冷え、頭がぼやけている。己の立つ位置を見下ろして、そういえばここによくラダ・ガートが立っていたな、などと考えた。
 長い間、その場でぼんやりと過ごした。回生堂は静かだった。ここで働く天使達は、何も喋らない。その沈黙が、今のエクスにはちょうどよかった。
「あのぅ」
 エクスはいつの間にか俯いていた顔を上げた。世話係の小柄な天使が、恐る恐るといった風にこちらを窺っていた。
「これ、要りませんか?」
「え?」
 エクスは瞬きをした。彼女の手の中に、小さな紙袋があった。
「二階の部屋を整理していたら、これが出てきて。地上のものですよね?」
「貸してくれ」
 紙袋を受け取り、開ける。途端、香ばしい香りが立ち上ってきた。
(コーヒー豆だ。しかも、挽いてある)
 まず、フォステイルのものと見て間違いないだろう。エクスの脳裏に、以前英雄達とコーヒーを嗜んだ時のことが蘇った。
「これ、オレがもらってもいいかな」
「もちろん!」
 少女型の天使は大きく頷いた。
「ちょっと待っててください。まだ、忘れ物があるんです」
 彼女はカウンター裏へと駆けていき、すぐ戻ってきた。その手にあるものを見て、エクスは笑ってしまった。
 持って来られたのは、ペーパーフィルターとドリッパー、コーヒーサーバーだった。
(意図的に置いていったな)
 これを使って一服するといい、と言う、涼やかなプクリポの顔が目に浮かぶ。袋から漂う豆の香りは、挽いてからさして時間が経っていないことを物語っている。知らぬ間に一人発った彼の、挨拶代わりの餞別だと思っていいだろう。
「飲み物を作りたいから、火を使ってもいいかな」
 エクスは、カウンターにいる天使に声を掛けた。この宿は他の建物と違い、人間が過ごすのに必要な最低限の設備が整っているのだ。
「好きにしてくれていいよ」
 エクスは、カウンターの裏の小さな調理場へ入った。湯を沸かしてみると、あっという間に大きな泡が溢れた。天星郷は高度があるせいか、沸騰が早い。この地に来て初めて野営をした時は、驚いたものだった。
 コーヒーを淹れ、その場で飲む。予想していたより、かなり熱かった。あの日に彼らが飲んでいたコーヒーが熱すぎた原因に、やっと思い至った。
「でも」
 エクスは独り言ちる。
「確かに、ちょうどいいな」
 冷えきった身体に、熱すぎるコーヒーが心地良い。以前は耐え難かった苦みも、何ということはなかった。よく感覚を研ぎ澄ませば、強い苦みの中に、育った土の豊かさを感じられる気さえする。
 あの日の彼らは、これを分かち合っていたのだろうか。
(今更、遅いんだよ)
 エクスは一人、項垂れた。







 天星郷へ招かれる前までの人生で、英雄になりたいという願望を持ったことがなかったと言ったら、嘘になる。誰しも、自分の仕事を褒められるのは嬉しいだろう。力を認められれば、もっと、と欲が出る。エクスの場合、英雄というものは、その延長にちらつく夢のようなものだった。
 この向上心と承認欲求は、滅びゆく故郷へ伸ばした己が手の小ささを思い知った時に、誰かの命を守れる者になりたいという望みへと変質した。
 しかし、レンダーシア、ナドラガンド、と手を伸ばし続けるうち、その心は襲い来る危険と自責の中で息絶えた。
 残ったのは、手を伸ばす習慣だけ。目的も理念もなく、ただ己の眼前で絶える命を見たくないという拒絶反応が、エクスを動かすようになっていた。
 だが、知恵も経験もない、良心の拒絶だけで動く男が、全ての人を救えるわけがない。せめて一種の楽観的な合理性があれば、犠牲の多い旅でも歩みやすかったのかもしれないが、生憎持ち合わせていなかった。
 誰かが死ぬ度、エクスは何度も己の行動を悔いた。そして、自分の目指すべき背中があってくれたら、と願った。自分の歩む道への疑問や悔恨を解消するために、頼れる大きな存在が欲しかった。
 だから、現代へ大きな影響を及ぼした各種族の英雄達に会えた時は、本当に嬉しかったのだ。彼らには、自分の人生の灯火となる存在に違いない、と直感的に思わされる何かがあった。
 そのせいだろうか。天使達に自分がどう見られているかなど、一切気にならなかった。彼らは生物として根幹から違う異界人だ。互いに理解し合えないのは当然である。それに、アストルティアの未来のために肝心なのは、己への評価より、自らの種族の由来を忘れた天使達より、世界の柱となるにふさわしい英雄達の方だろう。
 エクスは、現代に蘇った彼らの思考や振る舞いを、よく眺めた。そうして、彼らが紛うことなき実力を備えていることを確かめ、敬慕した。





 彼らと肩を並べて戦いながら、本当はきちんと肩を並べられているわけではないと気付いていた。彼らは一度生を終えた英雄の持つ圧倒的な器で、世界より生じた絶大な力を受け止め、使いこなしていた。エクスはその庇護を受けることができるから、神ならざる身でも彼らの隣に並べたのだった。
 彼らの隣に、胸を張って並びたかった。
 少しでも多く、彼らを支えられるだけの働きをしたかった。
 だが自分は結局、遥か昔に生を終えた彼らを現在のアストルティアに結びつけるための、かすがいにしかなれなかった。ユーライザの──あるいは無意識下で働いていたかもしれないレクタリスの──無茶な推薦は、結果的に世界を守る上で正しかったのだろう。悪神となった彼らの多くを元に戻したのは、エクスを足掛かりとしてやって来た、現代を生きる彼らの種族の者達だったのだから。
 そして、古代より神霊がそうしてきたように、新たに生まれた種族神達は、過去に散った者とこれからを生きる者のために己の命を惜しみなく捧げ、あっという間に二度目の生を終えた。





 努めて救いを見出せるとしたら、逝った者達が満ち足りた顔をしていたことくらいか。
 レオーネは正気に戻った後、兄を己に託し、世界を守るという仕事をきっちりこなしてから逝った。
 アシュレイは弟への罪悪感を胸に、現代の勇者と盟友を守りきって逝った。
 ハクオウは、魔眼の月突入作戦の最終局面で、ジア・レド・ゲノスを追おうとするエクスに、己の力を託して逝った。ずっと己一人で抱え込むのをやめられなかったと言う孤高の剣士は、誰かと背負った重みを分け合う心強さを知ったと、笑顔で語っていた。
 三闘士は、創生巨神戦での消耗により残り少なくなっていたらしい命を、侵略者を退けるという仕事に惜しみなく費やした。だが、互いがいなくなることに、全員が耐えられなかったのだろう。まず妹弟を庇ってカブが散った。次に、弟を庇いつつ兄を一人にすまいとするかのように、ナンナが散った。二人に仕事を託されたドルタムも、ジア・クト撃破の顛末を見届けた後、兄と姉の後を追うように命を燃やし尽くしてしまった。エクスには、三人の絆が彼らの力を強くし、同時に生命として脆くしたように思えた。
 リナーシェは魔眼の月から生還したものの、やはり地上戦からの連戦で消耗しきってしまっていたようで、これからを生きる者達へ祝福の歌を贈った後に逝った。彼女の精巧な鎧の如き笑顔は、最期まで周囲に真意を測らせなかった。しかし、手紙に書いてあったことが本当ならばいいと思う。
 ラダ・ガートは、エクスと共に変異したジア・ルーベを抑え込んだ後に逝った。彼も、生前にはいなかった同じ境遇の仲間を得た満足を、噛み締めていたようだった。





 英雄達が去った後、ユーライザの協力で星となった彼らと少し言葉を交わすことができた。彼らは揃って、エクスへの祝福と変わらぬ友情を口にした。
 それでもエクスは──彼らを、心からの笑顔で送り出してやれない。未だに別れを惜しんでいる。同じように世界の犠牲になったレクタリスにはそうできたのに、何故なのだろう。





 ラダ・ガートは、去り際に言った。
「英雄の孤独は、同じ立場の者にしか分からない」
 エクスは天星郷へやって来てから、彼らのような英雄になりたいと努力した。彼らと共に過ごすうちに、その人となりを敬うようになった。
 彼らに並びたくて──できることならば、彼らも守れるようになりたかった。
 共に、生きたかった。
 その努力が却って彼らの信頼を得、心置きなく旅立たせてしまうことになるなんて、誰が思っただろう。
 何という、皮肉なのだろう。
 彼らの「幸せに生き続けてほしい」という祝福は、エクスに呪いに等しい強制力を感じさせた。
 もしかしたら彼らもまた、誰かから託されたこの強すぎる思いを、背負いかねているところがあったのだろうか。
 エクスが彼らと生きる未来を望んでいた隣で、その肩の荷を下ろす場面を、思い描いたことがあったのだろうか。
 最期まで怨念など口にせず、遺される者への祝福だけを口にした彼らの生き様を、心の底から尊いと思う。
 一方で、アストルティアの明日を担わされた同じヒトとして、ほんの少しだけ、恨めしくも感じる。
 そう言いたくとも、英雄達はもういない。







(英雄)
 無人の厨房にいてもなお、彼を英雄と呼んだ天使達の声が蘇ってくる。
 エクスは呟いた。
「オレは英雄なんかじゃない」
 大した声量を出していないはずだったが、やけに響いた。
「オレはただの生き残りだ。生まれてこの方、ずっと」
 レクタリスとしての自我を失ったユーライザはまだしも、天使長は似た経験をしているはずだ。お前のような者が英雄なのだろうと言われた時は、とんだ冗談を言うなと思い、笑ってしまった。
 確かにエクスとて、アストルティアを守るべく働いた。だが結局のところ、自分が魔眼の月から生還し、英雄として認められたのは、「ラッキーボーイ」だったからに他ならない。どういうわけか穢された神化の光炉の難を逃れ、どういうわけか英雄達と心域で通じ合い、どういうわけか神話時代の天使と縁を持ち、どういうわけかジア・クトの首領がゆりかごの祖先を滅ぼした時より弱体化していた。その結果だ。
(でも、天使達と噛み合わないのは、まあ、いつものことだからなあ)
 どんなに地上人的に理解できそうな純粋さと善性を兼ね備えていそうに見える者でも、生態や精神の成り立ちが大きく異なるのだから、仕方ない。魔界の住人と同じで、分かり合える存在ではないのだ。
 理解されずとも、自分の前に立ちはだからなければそれでいい。
(オレだって、そう褒められたもんじゃねえし)
 天使達が新生神をみすみす死なせてしまったのを悔やむのと同じように、エクスにもできなかったことへの後悔がある。
 たとえば、最後まで英雄達に自分の来歴を語れなかったこと。
 たとえば、自らも神となる決心をできなかったこと。
 たとえば、彼らを頼りすぎてしまっていたこと。
(神剣を振るうことが何だ。創生巨神の依り代になったことが何だ)
 他の英雄達が文字通り命懸けで尽力したのに、エクスはのうのうと生きている。
 もっとも、地上には遺していけない人々──勇者姫はもちろん、まだ自主救済の道のりの長い竜族や、自分と同じように生き残ってしまった従姉をはじめとするエテーネの人々、課題の多い魔界の住人達など── がいるから、死ぬわけにはいかない。
 だが、そういった事情を抜きにして、今のエクスの心情を正直に言うならば。
「優しさだか何だか知らないけどさ」
 失笑する。
「ずるいよなあ」
 その声は宿舎の壁にさえ受け止められず、空に消えた。





20240223 孤の途、我が旅











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